あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

僕の世代の最良の精神たち

id:debedebeの死 - ゆうれいパジャマ
にて、id:debedebeさんが亡くなったことを知る。

debedebeさんとは、7、8年ぐらい前*1に、「ゆとり世代部」という、同年代のはてな界隈の人でつるむ、よく分からない集まりのオフ会で、何度か会ったことがあり、そこで結構お話とかしたことがある。

その当時の印象としては、「こんな面白い変な人がいるんだ」というもので、まだ地方の大学で、平凡な狭い世界しか知らない僕は、結構衝撃を受けたりした。

当時のはてな界隈は、debedebeさんに限らず、とにかく変な、社会からちょっと……いや、大分ズレた人々の集まりだった*2。そんな中でもdebedebeさんは、一番最初の記事で紹介されている「あたし状態遷移図」にしてもだけれど、自分からアピールをしなくても、その異才にみんなが勝手に注目していくというような人だった。

そんな存在がなくなることにより、世界はまた1つ色をなくし、つまらなくなってしまったのかなと、思う。


ちょうど最近読んだ本の中で、今の気持ちと共鳴するような詩を見つけたので、一部引用しつつ、故人に捧げる。
ギンズバーグ詩集

吠える


僕は見た 狂気によって破壊された僕の世代の最良の精神たちを 飢え 苛ら立ち 裸で 夜明けの黒人街を腹立たしい一服の薬を求めて のろのろと歩いてゆくのを
夜の機械の 星々のダイナモとの 古代からの神聖な関係を憧れてしきりに求めている天使の顔をしたヒップスターたち
ある者らは 金もなく ぼろぼろのシャツを着て うつろな眼でタバコをふかし 寝もせずに 湯も出ないアパートの超自然的な暗闇で 都市の上を漂いジャズを瞑想していた


〜〜


いま気違いは浮浪し 天使は羽ばたいている まだ記されていない未知よ 死の後に来る時の中にいうべきことを書きしるす
バラがバンドの金色の影の中で幽霊のようなジャズの衣装をまとって復活する エリ・エリ・ラマ・ラマ・サバクタニ 愛に飢え渇いたアメリカの精神の苦痛を訴えるサキソフォンの悲鳴がラジオから流れて都市を震え上がらせた
多くの年月かかって食いものにされてきた彼らの肉体からえぐり取った人生の詩の 絶対的な心臓と共に

*1:僕がまだ「RIR6」とか「sjs7」とかいうハンドルネームで活動していたころ

*2:ゆとり世代部もその1つだったし、ファック文芸部、モヒカン族など、とにかく変なものが寄せ集められていた。そして、その妖しくも魅力的なブロゴスフィアに憧れて、僕もはてなダイアリーでブログを書いていた。

炎上のコモディティ化――はてな村反省会2015に参加して

はてな村反省会という、はてなでブログとかダイアリーとかブクマとかをしている人達のオフ会に参加してきました。
全体的にどんな話がされたかは下記のオフレポ等を読んでみてくださいな。

で、オフ会で話を聞いている最中に僕が思ったのは、「今のインターネットって、もう何の話題なら炎上するか、初心者にはわからない世界になっているのではないか」ということでした。

「こういうことに言及すれば炎上する」の「こういうこと」が多すぎる

もともと、「飲み会で政治と宗教と野球の話はするな」という言葉があるぐらい、その話題に触れるときは、ある程度理論武装をしておかなきゃいけないというのは、ネット上にかぎらずリアルでもあったわけで、たとえば歴史認識のはなしをするなら、ある程度炎上は覚悟しなきゃならないぐらいの心構えがあったと思うんですよ。
ところが最近は、その「触れるのに覚悟が必要な話題」というのが、一体どこにあるかわからなくなっている。ネットの大勢からすれば問題なくても、ある一部のコミュニティの逆鱗に触れれば、あっという間に盛り上がり、リアルまで影響をおよぼす炎上につながるわけです。
もちろんじゃあ今までの様に少数派コミュニティが黙らされている状況が良かったかといえば、そうでもなく、むしろそれによって今までは異議申し立てすらされてこなかった話題が異議申し立てされるという点で、僕もむしろそういう異議申し立てとしての炎上は、率先して油を足してきた人間だったわけです。
ただそんな身からしても、今のこの「地雷がどこに埋まってるか分からない状況」というのは、ネットで発言する場合に、あまりに大きい参入障壁になっているのではないかと、そんなことを考えたりするのです。
じゃあどうすればいいかというと、正直「不用意な発言で燃えそうと感じたら、早めに謝罪なりで沈下しておく」というぐらいしか思い浮かばないのですが。

その他思ったことの断片

  • 非モテ論から恋愛工学へ」というのは、なんかセカイ系からサバイブ系へという文化潮流が遅れて波及してきたような感じがしたり。
  • 「個人が書いたもの」から、「そのものを書いた個人」へと、注目が移り変わっているというのは、Youtuberや生主等の台頭を見てもそう感じたり。ただ僕はどっちかというとそれに危うさを感じたりも。描くものが先鋭化していっても、それを俯瞰して分析できる個人が居ればある程度の歯止めは聞くけど、個人そのものが先鋭化していった時、それを律することが出来るものは何かあるのかなぁ?と

まとめ

色々インターネットに関して否定的なことを書いたけど、やっぱりなんだかんだ言って「これまで声を挙げられなかった人々が声を挙げられるようになった」という風に、ネットが無かった昔と比べれば、社会的には進歩しているんですよね。
ただ、ではどこでどういった立ち振舞をして発言すればいいかというハビトゥス(振る舞いについての文化的作法)は、まだなかなか確立されてないわけで、今思えば、モヒカン族とかいうのも、そのハビトゥスを確立しようとして、失敗したプロジェクトだったのかなーと、思ったり。

アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』に見る、新しい「仲間」のかたち

いやあ、『アイドルマスターシンデレラガールズ』のアニメ、ほんっとーに、良かったですね。
で、最終話を見終わってから、僕なりに、アイドルマスターシンデレラガールズのアニメが良かった点を色々考えていたんですよ。
で、作画といった点はより詳しいマニアの人に任せるとして、僕がお話全体を振り返ってみて、良かったなぁと思うのが。やっぱり「CINDERELLA PROJECT」の14人の、「仲間」のあり方が、とても心地よかったという点なんです。
それは、言うなれば、学校とか仕事とかでの同級生・同僚と違い、地元での関係とも違う、「第4の空間」*1において、お互いの違いを認めながら、それでもそれぞれの心のなかに共通の理想を持つ、そんなあり様の仲間だったのでは、ないでしょうか、

第一クールのアニメは「仲間になる」物語だった

シンデレラガールズのアニメでは、以前のアイマスのアニメ化とは違い、14人が集まるところからスタートします。全く違う個性を持ち、とにかくデビューを熱心に望む子もいれば、ロックなアイドルを目指したり、中には印税だけが目当ての子も居たりする。そんなバラバラの女の子たちが、しかし互いにコミュニケーションを取っていく中で、それぞれの違いを認識しながらリスペクトしあうようになり、最後はみんなで力をあわせ、1つの大きなイベントを乗り越える。前半のストーリーはそんな、「仲間になる」ストーリーだったといえるでしょう。

第2クールの「仲間から、その外へ活躍を広げていく」物語だった

そして、そのような第一クールで出来たCINDERELLA PROJECTの「仲間」から、その「仲間」を胸に、より広いステージへ出ていくのが、第2クールの物語だったわけです。
そのステージへの飛び出し方は人それぞれです。が、そのいずれにしても、今までと違ったり、やったことのないことを挑戦し、「仲間」の外へ飛び出していくというものでした。
ここで重要なのが、それらの活動がうまくいったのは、きちんと第一クールで「仲間」が形作られて、そこが土台となっているから、という点です。全くなにもない、あるいはそう思い込んだままで、いきなり外へ飛び出そうとすれば、それこそ終盤の島村さんみたいに壊れてしまいます。だからきちんと、今までの自分の軌跡、そしてそこで得た「仲間との思い出」があることを、思い出す必要が、あの時の島村さんにはあったし、みんなそれがあったからこそ、より広いステージへ飛び出して行けているわけです。
そしてラスト、あの、文字通り「なんでもあり」のアイドルフェス、でも、あそこまでなんでもありでありながら、そこにいる誰もが笑顔のなれる、そんなアイドルフェス。これができたのも、アイドルたちがそれぞれ、より広いステージに飛び出していき、そこで新たな、自分とは全く違う「仲間」を見つけてきたからだったのです。

新しい「仲間」のかたち

仲間だもんげ!」という言葉に代表されるように、「仲間」という言葉は、アイマスにおいてとても重要視されています。
ですが、ではその「仲間」とは、一体何なのでしょうか?
今年でアイマスは10周年になるそうです。10年間、アイマスはよくも悪くも様々な経験を積み、そしてそのファンも、様々な異なった思いをアイマスに持っています。
アーケード版原理主義ゼノグラシア容認派・否定派、961プロジェクト肯定派否定派、DS派、そして9・18事件……デレマス自体、「ソシャゲーなんて」という点で否定するファンは多かったですし、今も一定数いるでしょう。
ここまで目標や思いが多種多様な集団が、はたして「仲間」としてひとくくりにできるのか?
そんな疑問に対し、「いいや出来るんだ、例え見ている方向や思いが全く異なっていたとしても、それぞれの違いを認め合い、楽しむことさえできていれば、『仲間』なんだ」と、仲間という言葉を再定義したのが、実は今回のデレマスアニメだったのではないかと、そう思えてならないのです。
そしてきっと、こういう形で「仲間=コミュニティ」というものを広く再定義していくことは、アイマスにかぎらず、これから先の日本全体において、重要になってくるのでは、ないでしょうか。
なんだか最後は話が大きくなってしまいましたが、とにかく、『アイドルマスターシンデレラガールズ』、本当に良いアニメだったと、僕は心から思います。

「俺TUEEE」が若者たちに嫌われる理由

id:lastline氏のこんな論考が、はてなで話題になっています。
「俺TUEEE」の発生と変遷過程 - 最終防衛ライン3
内容を要約すると

  • 「俺TUEEE」はもともと、ネットゲームにおいて、課金等をして強くなり、その強さを見せびらかすようなユーザーを揶揄したものだった
  • だがやがて、その言葉がWeb小説やライトノベルに対して使われるようになり、その過程で「俺」が何を示すかは曖昧になっていった

という分析を、一次資料から行ったものです。
この分析自体は僕も納得いくものなんですけど、一方でそれを踏まえてのこの主張には、納得がいかなかったりします。

「俺TUEEE」における意味の変遷は、「俺」の意味するところがはっきりしないためだろう。「俺」の視点が定まらないため、広まる過程で意味が曖昧になっていったと考えられる。
言葉のイメージが曖昧であるため、拡散される過程で意味がきちんと伝わらないのは「俺TUEEE」に限らずよくあることだ。
(略)
「俺TUEEE」の変遷を追ってきたが、広まる過程で意味が変化している。特に「俺」の指すところが変わっており、本来はプレイヤーであったのが、読者や作者、そして物語の主人公をも意味するようになっている。
意味が非常に曖昧な言葉で、使用者自身も定義をはっきりさせずに感覚で使っていることがしばし見られる。批評などで使うべきではないだろう。

というのも、「むしろそういう、曖昧な使い勝手の悪い言葉にもかかわらず、人々の間で広く使われるというところに、この概念の面白みはあるんじゃないか」と、僕は考えるからです。

「TUEEE=強さ」だって曖昧だ

さらに言っちゃえば、id:lastline氏は「俺」という言葉の意味の曖昧さのみを問題にしているけど、「TUEEE」の部分、「強さ」だって、曖昧なものなわけじゃないですか。
id:lastline氏の論考においては、「俺TUEEE」という言葉は「他者の反応」が必要不可欠であると述べ、そのような点から「俺TUEEE」と揶揄される作品の具体例として、『魔法科高校の劣等生』を挙げています。

魔法科高校の劣等生〈1〉入学編(上) (電撃文庫)

魔法科高校の劣等生〈1〉入学編(上) (電撃文庫)

オンラインゲームにおける「俺TUEEE」の用法では「他者の反応」が不可欠である。 「俺TUEEE」とされる物語において、主人公は自己顕示欲のために「俺TUEEE」しているわけではない。物語において主人公の強さを表すには、主人公以外のキャラクターによる「他者の反応」が不可欠だ。「俺TUEEE」な物語では、主人公に対する他者の評価が過剰となりがちで、一方的な展開になることがしばしある。本来は「主人公TUEEE」であるが、物語において一人称の「俺」は主人公を意味し、「主人公TUEEE」な作品は、主人公が「俺TUEEE」をしているかのように見えてしまう。
2014年にアニメ化された魔法科高校の劣等生は、過剰なまでに主人公を持ち上げた「俺TUEEE」作品と認識される傾向にある。劣等生と冠されているものの、主人公には万能感がつきまとう。アニメにおいては主人公にまつわる説明や描写が不足しているため、自己顕示欲がないはずの感情の無い主人公が「俺TUEEE」しているかのように見えがちである。正確には「流石お兄様」に代表されるように「お兄様TUEEE」作品なのだろうが。また、あまりにも一方的過ぎる展開は、不快感を伴うこともある。

上記の様に、「物語において主人公の強さを表すには、主人公以外のキャラクターによる「他者の反応」が不可欠」とid:lastline氏は述べるけど、物語において強さを表す手法はそれだけじゃないわけですよ。
例えば、よくバトル漫画などでは、強さを数値化したものが用いられます。有名なのは『ドラゴンボール』の戦闘力や、ワンピースの懸賞金でしょう。
f:id:amamako:20151018042330p:plain
これらの数値は、確かに(上記の画像)のように、「他者の反応」として示されることもあるのでしょうが、それ自体は他者の反応ではなく、元からある「その世界での客観的な強さ」です。ですから、例えばいかにも弱っちいキャラクターが出てきて、物語に登場するキャラクターみんな弱いと思っていたら、実はとんでもない戦闘力や高額懸賞金のキャラクターで驚く、みたいな展開もあるわけです。
また、「(物語の中では語られないけど)設定として強い」というケースもあります。例えば『機動戦士ガンダム』においては、ザクは、それまでの戦車といった兵器よりは強く、ガンダムよりは弱いわけですが、これはもう、他者の反応も何も、そういう設定があるから、「強い」わけです。
更には、物語の都合上の強さというものも存在します。『機動戦士ガンダム00』という作品において、パトリック・コーラサワーというキャラクターがいます。
f:id:amamako:20151018044034j:plain
このキャラクターは、何回も死ぬような目にあっても生き残ることから、「不死身のコーラサワー」と呼ばれたりするわけですが、ではなんでそんなに生き残るかといえば、これはもう(理屈をつけようと思えばつけられますが、ぶっちゃけると)「作品の都合」としか言いようが無いわけです。また同じように、ギャグ漫画ではいくら死ぬような目にあっても次の瞬間にはケロッとしているようなキャラクターがよくいます(『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両津勘吉とか)が、これも「作品の都合」としか言いようがないでしょう。
このように、

  1. 作品内のキャラクターの反応
  2. 作品内での客観的数値
  3. 作品設定での強さ設定
  4. 作品外での作者による介入

と、単純にキャラクターの強さを表す要素と言っても、多種多様な要素があるわけです。
逆に言うと、ある作品について、「これって『俺TUEEE』じゃん」と批判されるのは、このように様々な「強さ」のレイヤーがあるのに、そのどれもが不自然に「主人公が一番」であると統一されちゃってる点じゃないかと思うわけです。

キャラクタースリーブコレクション 逆境無頼カイジ 「限定ジャンケン:パー」

キャラクタースリーブコレクション 逆境無頼カイジ 「限定ジャンケン:パー」

「じゃんけん」を例に出して考えてみましょう。「グー」「チョキ」「パー」はそれぞれ勝てる相手と負ける相手が異なる≒強さの基準が1つではなく、複数の基準があるから、一応ゲームとして面白さがあるわけですが、ここに「グー」「チョキ」「パー」全てに対して勝てる第四の手が登場したら、当然みんなそれを使いますから、遊んでいる人も見ている人も面白く無いですよね。それと同じようなことが、「俺TUEEE」作品に対しては言えると思うんです。

能力主義」の登場が、「俺TUEEE」批判をより激しくしているのでは

そして更に言うなら、そのような「強さのレイヤーが一定である」というのは、若年層をとりまく社会のモデルからもかけ離れていってるというのも、「俺TUEEE」作品が、特に現代において好まれなくなるようになった要因ではないかと思うわけです。
今までの社会においては、年功序列・学歴主義というのが、大きな柱にありました。つまり「学歴が高く、年齢が上であるほど偉い」というのが、社会の大前提にあったわけです。
ところがバブル崩壊以降、「能力主義」「業績主義」といったものがより重要視されるようになり、「仕事を達成する専門的能力」とか「あるコミュニティでやっていけるコミュニケーション能力」とかといったものが、より、重要視されるようになってきたわけです。
そして、後者の方の「専門性」「コミュニケーション能力」というのは、極めて多用な種類があるわけです。専門性は、もちろん多種多様な専門分野がありますし、コミュニケーション能力にしても、「中小企業の工場でのコミュニケーション能力」と「国際的大企業のオフィスでのコミュニケーション能力」では、求められるコミュニケーション能力がだいぶ異なってくるわけです*1
このように、状況・場所によって日々異なる「強さ」がある社会を生き抜いている若年層にとっては、たった1つの「強さ」さえ身についていればずっと安泰である風に見える、「俺TUEEE」作品の主人公は、それこそゲームで例えるなら「イージーモードでいきがってる小僧」にしか見えないわけで、嘲笑の的になっても仕方がないと、なるわけなのです。
逆に言うと、「強さ」を規定するレイヤーが複数あり、あるレイヤーでは絶対強者でも、別のレイヤーでは弱者でしかない、という構造の作品は、いくら主人公が、あるレイヤーで強くても、「俺TUEEE」とは呼ばれないんじゃないかと、思ったりします*2

*1:そこのところを分かってない人が「コミュニケーション能力を伸ばせ!コミュニケーション能力はどんな職場でも役立つ技能だ!」とか言っちゃうんだよなぁ……

*2:自分の好きな作品も、そんな作品が多い気がします

「怒り」という力が失われた時

ものすごい久しぶりに書くブログ記事な気がします。皆さんお元気でしょうか。僕は色々あって元気じゃないです(てへ)。
今日の記事は完璧に自分の内面だけを吐露するような記事なんで、なにか有益な情報とか、また誰かを批判するのかとか、そういうのを期待している人は読まなくてもいいです。

「怒り」がなくなって、何のために生きればいいか分からなくなる

で、早速本題なんですが、最近の自分は、どーも「怒り」が足りないのではないかと、そう思えてならないのです。
これ、まあ普通の人にとってはいいことなんでしょうが、僕みたいに「怒る」ことが、ブログを含めた全生活を、なんとか支えていたものだったわけで、これが足りなくなると、すごい困るんです。
色々試してみました。なんとか他の、喜びみたいな感情を動機に生活できないかとか……でも、喜びって結局刹那的で、かつ孤独なものじゃないですか。何か食べて美味しかったー、アニメやゲームが面白かったーなどのように、その一時に対しては、喜びが行動の原動力になるわけですが、じゃあその為に自分の生活をきちんとしようとは思えないというか……「今が楽しければそれでいい」でズブズブと堕ちていってしまう。
怒りは違うんですよ、怒りっていうのは、尾を引くものであり、何か対象を持つものなわけで、怒りの対象をなんとか貶めてやろうという計画を練り、その為に日々の日常生活を送ろうとする。少なくとも以前の僕にとっては、そーいう怒りの感情が、ブログ執筆も含めた、日々の生活を支える原動力だったわけです。
そしてその原動力がなくなった今の僕は……結構生きること自体がきつくなっちゃうわけです。

怒らなくなったのか、怒りを表現できなくなったのか

ただ、瞬間瞬間で頭にくることは、自分だって結構あるわけです。今の日本の政治なんて頭にくることばかりだし、サブカルチャーにおいても、教養もない、うちわネタでただ楽しんで、その表現の意味を考えることすらしないような作品を見れば、頭に血が昇りますし、それに対する不満をtwitterにぶつけたりするわけです。
でもじゃあ、それが、かつての自分を支えていた「怒り」と同じものなのかを考えてみると、どーも違うような気がするんです。例えるなら、昔の怒りは、それが届いていたかどうかは疑問ですが、とにかく怒りの「対象」に向かって、拡声器で怒りの声を上げるような、そんなものだったのに対して、今のこの刹那的な感情の吹き上がりは、本当にただ刹那的に吹き上がって、壁ドンとかはするけど、すぐ収まってしまい、自分の中で解決してしまう、そんなものなのです。
だから、もしかしたら後者の刹那的な感情の吹き上がりは、前者の感情の成れの果てなのかもしれない。いずれにせよ、もはやそれらの感情の吹き上がりもまた、先ほど上げた喜びと同じように、自分の人生の目的となるようなものではなくなってしまっている。

これからどうやって生きていくか

これからどうやって生きていけばいいんだろう、そんなことをふと考えます。怒りを取り戻すべきなのか、怒りなんかに囚われないで、自分の生きる目的を探すべきなのか。
ただひとつ言えることは、今の自分は、昔の自分がまさしく嫌悪していたような、そんな人間になってしまったんだなと、いうことです。

「終わり」の時代のアイドル

https://instagram.com/p/0pj_QosWfj/
今日はこんな映画を見にきたり
というわけで、世界の終わりのいずこねこという映画を見に行ってきました。西島大介先生のマンガが結構好きだったりするので。
なんかこう、まさしく「僕たちの生きるこの世界」って感じの、そんな映画でした。

夢も希望もなくなった時代で

最近僕が聞いている曲って、アイドル曲ばっかりなんですよね。まあ、3次元のアイドルにはそんなに詳しくないので、「アイドルマスターシンデレラガールズ」の曲とか、声優アイドルの曲とか、そういうのですが。
昔は、もっとロックとかも聞いていたんですよ。頭脳警察とかブルーハーツとか。あるいはミスチルとかBUMPとかの曲とか*1。でももう最近は、なんかそういう曲が受け付けなくなって、アイドルっぽい曲しか聞けないんです。
なぜか、まあ端的に言えば「何か真剣に考えるのが辛くなって、とにかく気持ちよくなりたい」からです。アイドルの歌詞には、メッセージ性なんてあってないようなもんだし、それも当人たちは分かってる。アイドルの曲の目的って言うのは、結局「可愛い女の子を頑張ってるふうに見せる」ことと、「コールレスポンスとかで一体感を生む」、その二点だけです。
一時の高揚感があればそれでよくて、後になにか考えさせられるメッセージなんていらない、だって、どうせ何か考えたって、何かその後の人生が変わるわけでもなく、今までの人生の延長が続き、そして、終わる、ただそれだけなんですから。

絶望の中でアイドルは輝く

ただ、多くのアイドル映画はそういうアイドル曲の延長線上で、アイドルの頑張る姿とかを見せるわけですが、この映画は、むしろそういう「アイドル」を取り巻く構造を、俯瞰してくるわけです。
華やかなアイドルソングが流れ、思わず映画館でコールアンドレスポンスしたくなる映像と、ほとんどノイズ・ミュージックなBGMが流れる、学校や廃墟での映像、この両極端な2つの空間が、しかしあくまで地続きに描かれるわけです。
でもそれこそが、まさしく僕らの日常なんじゃないかなと、ふと思うのです。
日曜日はライブ会場に行ってサイリウムを振り回し、「この世界は天国だ!」なんて気分になりながら、その翌日には布団から起き上がるのすら憂鬱になり、満員電車を待つホームで、線路に飛び降りたくなる様な絶望を必死で抑えこむ、そんな毎日を送る日々。
「頑張ればいつかは報われる」「この世界は明日にはきっともっと良くなる」、そんな夢や希望なんてどこにもない現代。
そんな世界でも、というか、そんな世界「だからこそ」、アイドルは輝きを放っているのかなと、ふとそんなことを考えたりするのです。

そして「終わり」に向けて

しかし、そんな「アイドル」も、永遠のものではなく、いつかは終わりが来る。
というかこの映画自体、いずこねこというアイドルの活動が終了する最後に作られた映画だそうで、まさしくタイトル通り、この映画は「終わり」にまつわる映画なのです。
一応作品の中では「高次元の存在になる」とかいう、どっかの神様になっちゃった魔法少女みたいな説明がされますが*2、そのどっかの概念さんと違って、この作品では、主人公自体が、そんなのはインキュベータ……じゃなかったブリーダーである宇宙人のおためごかしに過ぎないとわかっています。
この作品は、「終わり」を決して美化しません。それは、映画のラストのあの「コメント」を見ればわかるでしょう。所詮人間なんてそんなものです。「終わり」が来ることは、結局「終わり」でしかなくて、そこから何かが変わったり、始まったりするわけではない。この世界が津波で流されたって、その荒野に、80年代のマンガやアニメのような「新たな希望」が生まれたりはしないわけです。
だから、僕らはこう言うしかないのです。

「さようなら」と。

*1:自分で書いていて思うが、ホントニワカだなぁ

*2:元ネタはむしろ2001年宇宙の旅とかなんでしょうが、僕はゆとりオタなのでそんな高尚なSF作品は分かりませーん

鎮守府で会った艦娘だろ

鎮守府で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
鎮守府で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
着任した時の自己紹介で
「よろしくお願いいたします」と言ってただろ
鎮守府で会った人だろ
そうさあんたまちがいないさ

なのにどうしてゲームで会うと
いつも知らんぷり
あんたと仲良くしたいから
アニメ版で
アニメ版で
アニメ版で

主役にするよ

夢の世界で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
夢の世界で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
ケッコン(仮)指輪を差し出した僕の手を見て
「I LOVE YOU」(私司令官のこと、だいす…)と言ってただろ
夢の世界で会った人だろ
そうさあんたまちがいないさ

いつの間にかひとり遊び
1-1でレベル上げ
あんたといいことしたいから

アップデートで
アップデートで
アップデートで

貝にしてやる

鎮守府で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
鎮守府で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ
貝にしたあと鎮守府
「いつもお疲れさまです司令官! あの・・・これ・・・吹雪が作りました! 
 もしよかったら・・・召し上がってください・・・ど、どうぞ!」
鎮守府で会った艦娘だろ
そうさあんたまちがいないさ

なのにどうしてゲームで会うと
いつも知らんぷり
あんたと仲良くしたいから
鎮守府
鎮守府
鎮守府

直接爆撃させるよ

        • -

艦これ感想をネットで見ていて、「夢の世界で会った」から思いついた。こういうのは実際に見ている人が作ったほうが面白そうなのけれど、テレビ最終回放映直後のエヴァオタ並に艦これ好きが恐慌に陥っていてそれどころではないみたいなので。
参照:
http://blog.livedoor.jp/g_ogasawara/archives/8092537.html

P-MODEL 平沢進 - YouTube

IN A MODEL ROOM (紙ジャケット仕様)

IN A MODEL ROOM (紙ジャケット仕様)

「宿命」のレールを乗り継いでいく、「何者にもなれない」自分

熊代亨(id:p_shirokuma)氏が、ブログで「週刊金曜日」に、サブカルチャー作品における「努力の位相の変化」について寄稿したという記事を見ました。

『週刊金曜日』の特集「若者に広がる“新しい宿命観”」に参加しました - シロクマの屑籠
それで、今回特集のタイトルが、「若者に広がる“新しい宿命観”」という面白そうなテーマで、しかも斎藤環氏や内藤朝雄氏に土井隆義氏といった、自分が大好きな方々が寄稿しているということで、さっそく買って読んでみました。

週刊 金曜日 2015年 1/16号 [雑誌]

週刊 金曜日 2015年 1/16号 [雑誌]

まあ四人とも、普段著書や講演・ブログ等で書かれていることとそんなに外れたことは書いてない感じなのですが、ただこうして「努力」「宿命観」というキーワードでまとめられると、また新たな視点が広がる感じがして、面白かったです。
というわけで、特集を読んだ感想を書いていきます。

「努力によって自由な選択ができる個人」v.s.「努力できるかどうかも宿命によって左右される個人」

今回の特集は、斎藤環氏が30代の友人から「努力は才能のうちです」という言葉を聞いて、驚いたことがきっかけで組まれた特集だそうです。で、内容の構成としては

  1. 斎藤環氏による大学生へのグループインタビュー
  2. 熊代亨氏による、近年のマンガやゲームといったサブカルチャー領域における「努力」の描かれ方の分析
  3. 内藤朝雄氏による、「スクールカースト」的な空気に支配され、前近代化していく日本の人格形成についての考察
  4. 土井隆義氏による、「努力したって報われない」けど「幸せ」という、現代の若者たちに刷り込まれつつある、「新たな宿命観」という概念の提示
  5. 斎藤環氏による「一部の特権階級にのみ努力することが認められなくなっていっているのではないか」という、これまでの記事のまとめと、それを修正するために、「努力」を認めるコミュニケーションをしようという提言

という風に、5つの記事から、若者の「努力」についての考え方と、その背後にある「新たな宿命観」という人生観を見ていく、という特集でした。
そして、どうやらいずれの記事においても、それぞれ微妙なずれはありながらも

  • 近代的な「努力によって自由な選択ができる個人」
  • 現代的な「努力できるかどうかも宿命によって左右される個人」

という二項対立が想定され、そしてその内前者のような近代的自己は衰退し、後者の現代的自己が台頭しつつあるのではないか、そんな認識が、根底にはあると、僕は読解しました。
その認識自体は、僕も同意できます。自分が普段付き合う人たちの人生観や、あるいはサブカルチャーに描かれる世界観においても、「何が何でも自分がなりたい自分になれて、そしてみんながそういうなりたい自分になれる社会」という理想や思いはほとんど語られたり描かれたりすことはなくて、「みんな周りの状況を見ながら、求められるよううまく適応し、そしてその決められた立ち位置で社会を支えていく」、ということが、自分のライフスタイルや、社会全体の幸せな形であると、そんな風に語られたり描かれたりすることが多いと、感じるんですね。
前者のような自由な社会は、でも自由であるがゆえに、自分で決めて、責任も取らなきゃいけないという点でしんどいし、もしそれで失敗したら何も救ってくれない。それに対して、後者のような生き方とそれに基づく社会は、周囲にある程度適応さえすれば安定も保証されるし、失敗する可能性も少ない*1のだから、多少我慢してでも、後者のような生き方・社会を目指すべきだ、そんな価値観が、現代の日本には、広がっている気がするのです。

「周囲に合わせて生きていくしかない」という宿命感は、もはや受け入れたほうが幸せになれるのでは

そして僕も、前者のような「近代的自己と社会」と後者のような「現代的自己と社会」のどちらがいいかと言えば―意外に思われるかもしれませんが―後者のほうが好きなのです。そもそも「なりたい自分」と言うけれど、なりたい自分なんてものを首尾一貫して持つってしんどすぎるし、ましてやそのために苦しい「努力」なんかするのは大嫌いですから。周りに流されてれば努力しなくても楽に生きられる方が、断然幸せじゃないかと、思うわけです。
その点は、後者の「宿命観に縛られる若者」を憂慮する、論説を寄稿した四者とは大きく意見が違うところかもしれません。でも、熊代氏も自戒していることですが、「宿命に縛られず努力しよう!」なんて考えは、結局その努力が報われるだろうというのがリアリティある現実だった、前期近代、日本でいう高度経済成長期だからこそ通用した考えじゃないかと思うんですね。今は、ある一方向に努力して技術を習得したり、資本を備蓄しても、その技術や資本がすぐ無意味になってしまうかもしれないくらい、進歩の方向が不透明で、流動化している時代なわけです。
例えば先日、イギリスの大学の研究で、現在の職業の半分が、ロボットや人工知能に取って代わられるかもしれないという報告が、注目を集めました。

ロボットは人から仕事を惜しみなく奪い、20年後にこの職業はなくなる
この予測がどれだけ当たるかわかりません。ですが、仮にこの予測が仮に当たって、しかもその職業が、「自分がなりたいと思って必死で努力してきた職業」だったら、もう悲惨極まりないですし、その後の人生一体どうするのさ、ということにもなるわけです。
(実は、こういうことは、それこそ既に「石炭から石油へのエネルギー転換」という形で、日本を含めた先進国で起きてきたことなんですね。それによって生じた炭鉱労働者の悲哀なんかは、それこそ普段の「週刊金曜日」読んでればいっぱい出てくるわけで……)
だとしたら、そういう社会の状況に合わせ、「『なりたい自分』なんていう、曖昧で根拠の無いものに固執するのではなく、周囲の状況・空気を読みながら、それに適応していく」という生存戦略を採用するというのは、極めて理にかなった効率的なやり方であり、人がより幸せになれる生き方なんじゃないかと、そう思うわけです。
例えそれが「宿命論」と呼ばれるものであっても。

ただ出来れば、「宿命の乗り換え」が出来るようにはなりたいよね

ただ、じゃあ完全に「宿命論」を受け入れれば、人と社会は幸福になるのかというと、そうも思えないというのも、また事実なわけです。
例えば、ワタミすき家などに代表される長時間労働や、それによる過労死過労自殺。あるいはそれこそ内藤朝雄氏の専門である「いじめ」の問題など、これらはまさに「そこにいることが自分の『宿命』なんだから、そこから逃げ出すことはできない」と、個人が思ってしまうことによって生じうる、「宿命論」の負の側面であるといえるでしょう。
また、そこまで悲惨でなくても、人は今いる場所から抜け出したくなることがどうしたって生じてしまう生き物なのです。この様に。
「生きることは変わることだ 王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう 腐海も共に生きるだろう」

「あの幼稚園に入って楽しく暮らせってのかよぉ! 毎日、薬を貰ってあのガキどもみてぇに干からびてけってのかよぉ!!」
AKIRA 〈Blu-ray〉

AKIRA 〈Blu-ray〉

「あなたは、この居心地のいい柩の中で、いつまでも王子様ごっこしていて下さい。でも、私は行かなきゃ」「無理に踏ん張って疲れるのは嫌」だけれど、「でも新しい世界も見てみたい」、このアンビバレンツさを、どちらも犠牲にすることなく、達成することはできないのでしょうか。
僕は、「宿命の乗り換え」という選択肢が示されることが、このアンビバレンツを解消する、重要な方策ではないのかと考えるのです。
つまりこういうことです。人には確かに「宿命」が存在する。だけれど、その「宿命」はたった一つだけあるのではなく、いくつも並行して存在しているのかもしれないのです。「地元で小中高ずっと同級生だった仲間と過ごす」という宿命もあれば、「大学デビューで東京に行って、毎日クラブ通いする」という宿命もあるかもしれないし、「引きこもってサイバースペースの神になる」という宿命もあるかもしれない。そして、それらの宿命の間の垣根は、そんなに高いものではなく、ふとした時に偶発的に飛び越えてしまうかもしれない、そんな、「柔らかい宿命論」なら、前述したような「狭い世界から抜け出せない」という問題もなく、かつ、「『なりたい自分』になろうと日々努力する〈強い自己〉」でなくても大丈夫になるのではないかと、そんなことを考えるのです。

サブカルチャーから見る、二つの「ル―プについての想像力」

例えば、ぼくはいわゆる「サザエさん時空」な作品が大好きなんです(ただ、「サザエさん」自体は余り好きではない)。うる星やつらドラえもんクレヨンしんちゃんケロロ軍曹銀魂……なぜこれらの作品が好きなのかといえば、それは「ループしているからこそ、その一回一回の中でハチャメチャに面白いことが起きて、世界の豊かさを垣間見ることが出来る」からです。
一方、近年ギャルゲーとかノベルゲーム、ライトノベル原作作品によくある「ループを繰り返すことによって何かを達成する知識や経験値を得ていく」というループものは、あまり好きではないんです。だってそこでは、「ループ」というものが、その上位の目的のためにクリアされる、道具的存在になってる気がするのです。それこそ「作業」のようにループを淡々とこなして公開CGを埋めていって、で最後にこの世の真実に到達出来ましためでたしめでたしって……一体何が面白いと言うのか!?世界の真実とかそんなことどーでもいいでしょうが!あなたがその何百回、何千回と繰り返したループは、全てそんな、くーーーーーーーーーだらない目的のためになされたのですか!それなら、きちんと友だちと遊んだりしたほうがよっぽど大事だよ!と、こう叫びたくなるのです。
多分、同じループを前提としたゲームでも、そのループ周回ごとにきちんと別の楽しさがあるなら、楽しめると思うんですよ。例えば僕は、「Fallout 3」というゲームが大好きで、ほんと今でも、一旦プレイし始めると朝までかならずプレイして徹夜になってしまうのですが

このゲームは、ただメインシナリオをクリアするだけならそんなに時間はかからないんです。でも、サブの要素が本当に盛りだくさんあって、そしてそのサブの要素を組み合わせると、全くの極悪人から、正義のヒーロー、金にがめつい商売人、ハードボイルドな男まで、幾百通りのロールプレイが楽しめる、そんなゲームなのです。だから、一旦メインシナリオをクリアしても、今度は別のロールプレイで遊びたくなる。
このように、「ループもの」と言われる様な作品も、「ループ自体に楽しみがある」か「ループを繰り返すという手段によって、最終目的が達成される」という二つの類型があるのではないかと、僕は考えるわけです。なぜかゼロ年代には両者一緒に「ループもの」と同一視されてきたわけですが、しかし「ループを手段とするか目的とするか」で、「ループもの」は全く二つに分かれるのです。
そして僕は、「ループ自体を目的とする作品」に、「乗り換え可能な『柔らかい宿命観』」を持つための、重要なヒントがあるのではないかと、そう考えるのです。

「きっと何者にもなれない」でいいじゃんと言える、自分になりたいし、社会でありたい

僕の提示するこの「乗り換え可能な『柔らかい宿命観』」は、人によってはほんと甘っちょろい考え方に映るのでしょう。どんな職業(=Beruf(宿命))も、一生かけて苦労してやっと一人前になれるようなものであって、そんなにほいほい乗り換えるような奴は、きっと「何者にもなれない」まま一生を終えてしまうだろうと。そうなれば他者からの承認も得られず、貧しい一生を送ることになるだろうと。
ですが、「何者にもなれない」でいることってそんなに悪いことなのか?むしろ、「何者」かにならあければ、基本的な承認からも疎外されてしまう社会のほうがおかしいのではないんでしょうか。
そして更に言うなら、実は社会ってもっと優しくて、「何者にもなれない」ままでも、肩肘張らずに周囲に流されてゆるく生きてれば、結構承認もしてくれるんじゃないかなと、そうも思うのです。
これは、僕が、両親共に健在であり、貧困にも喘いでおらず、学歴もそこそこあるという、何重にも恵まれたセーフティネットがあるから、そう楽観的になれるだけなのかもしれません。
でも、だとしたら、そういうセーフティネットが万人にあって、そしてその結果、がむしゃらに頑張りたい人はがむしゃらに頑張ればいいけど、そうでない人は「乗り換え可能な『柔らかい宿命観』」の元で、「何者にもなれない」自分を謳歌できる、そんな社会を目指すべきいじゃないかなーと、僕は思うのです。

*1:かどうかは、実は怪しかったりするのだけれど