あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「反省したいじめ加害者のことを『許さない!』と、いじめ被害者が主張するのは、危ない思想(by山本弘)」なのか

先日、こういうtwitterまとめをtogetterで作成しました。
togetter.com
上記のまとめには賛否両論様々な意見が寄せられていて、そのどれも真剣に考えなきゃいけないなと思ってるところです。
ただ、その一方で、小説家の山本弘氏がした発言が、僕にはどうしても納得行かないものでした。
その内容はこちらです。
山本弘 on Twitter: "あのさあ、いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと、加害者側から被害者側に転落し、自分のやったことを悔いている主人公を「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、..「『聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノなのか」 https://t.co/NPrOtylQoJ"

あのさあ、いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと、加害者側から被害者側に転落し、自分のやったことを悔いている主人公を「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、すごく危ない思想だと思うぞ。

『聲の形』という物語が実際にそういう物語構造なのかは、まとめを読めば分かる通り諸説あることなのでとりあえずおいておきます。
この発言に対する僕の疑問はこうです。
いじめ被害者が、例え更生し、十分に反省したとはいえ、いじめ加害者のことを「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、「危ない思想」として否定されなきゃならないことなんだろうか?

山本弘氏は、自らの発言の最初で「いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと」と言っています。これはつまり、自分は、十分更生したなら、たとえ自分をいじめたいじめ加害者でも許すということでしょう。もちろん、山本弘氏が自分自身の意志でそういう選択をすることは否定しません。
僕が「おかしいんじゃないか」と思うのは、そうでない考え、つまり「自分はいじめ加害者が例え更生したとしても、その人のことを許しはしない」という、自分の考えと異なる考えを、「危ない思想」として否定することです。
当たり前のことですが、一口に「いじめ」と言っても、その内容はそれぞれのいじめによって大きく異なり、そしてそれによって被害者が受けた苦痛も、大きく異なっています。
そんな中で、自分がいじめ加害者を許せるからって、他のいじめ被害者にも、「俺のように、きちんと反省して更生したいじめ加害者は許してやりなさい」と、許しを強要することは、すごく暴力的なことではないでしょうか。
むしろ僕はこう考えます。「いじめ加害者を許すか許さないか、それを決められるのは、そのいじめを受けた被害者本人であり、加害者や第三者はあくまでその意思を尊重すべきではないか」と。
こう考える理由は2つあります。
一つは、まず何より、いじめにおいて悪いのは加害者であり、それによって尊厳を傷つけられたのは被害者なのだから、被害者の意思こそが優先されるべきではないかという理由。
そして二つ目に、いじめという暴力は、まず何より被害者から、自分の状況に対するコントロール権限を奪うものであり、そのような状態を回復するには、「許しを与える」という行為に対するコントロール権限が被害者のものであるということを、大前提として確認しなければならないのではないか、という理由です。
それに対して「いじめ加害者への許しを強要する」ということは、まず第一に、被害者にも譲歩すべき点があるというメッセージにより、加害者が悪いという大前提を崩しますし、第二に、結局誰かを許す/許さないという自己決定すら、その状況に委ねるという点で、被害者から自己決定権を奪った、いじめという状況の再生産に他ならないんじゃないかと、僕は考えるのです。

ここで少し自分の話をしましょう。
自分もまた、かつていじめ被害者でした。ただ、そのいじめがどんなものであったかは断片的にしか覚えていません。それはおそらく、僕が「許し」でも「憎み続ける」でもなく、「忘却」を選択したからでしょう。いじめのトラウマをいつまでも抱いて、それに囚われるよりは、忘れてしまっていたほうが、何よりも楽ですから。
しかしこれは、いじめ加害者を「許す」ということとは大きく異なります。もしいじめ加害者が、忘れている今頃やってきて、「昔のことだし俺も反省してるから許してくれや」とか言われても、何言ってやがるとしか思わないです
ただ、だからといっていじめ加害者自身に復讐しようとは思いません。それよりも、いじめという状況を生み出す現在の教育、特に学級制度(クラス制度)を憎みます。いじめが起きたら、速やかに加害者を「犯罪者」として処罰すること。また、いじめを生み出す温床となる、同質的コミュニケーションを強要する、現行の学級制度(クラス制度)を解体し、現在の学級が、授業の時にだけ集まって、それ以外の生活面に侵食してこないような制度に改革するということ。この二点こそが重要だと考えるのです。
なお、学級制度の解体についてより詳しく知りたい人は、下記リンク等を是非参照してください。
学校からクラスを撤廃せよ
matome.naver.jp
togetter.com
ただ、ここは重要なので何度も繰り返しますが、僕がいじめという経験を経て、教育制度の改革という方向を指向しているからといって、全てのいじめ被害者に、いじめ加害者を憎むのではなく、その背後のシステムこそを憎めとは、決して強制したくないのです。システムなんかどうでもいい。俺はいじめ加害者が憎いんだという、そういう声も含めて、全てのいじめ被害者の声がきちんと受け止められる、それこそが、いじめにNOと言う社会の大前提となると考えるのです。

戦後責任論 (講談社学術文庫)

戦後責任論 (講談社学術文庫)

「『許し』を与えるかどうかは、あくまで被害者が決めることで、加害者が許しを強要するようなことがあってはならない」というのは、戦争責任論、特に日本の戦争における加害責任においても、重要な考え方だと思っています。

お手頃に承認欲求が満たされる時代

かつて、「承認欲求をいかに満たすか」みたいなことが、ブロゴスフィアで盛んに議論されていた時代があったわけだけれど、
昨今はむしろ「勝手に満たされてしまう承認欲求にいかに甘えないようにするか」が、問題なんではないだろうかとか、思ったり。
例えば、twitterやらfacebookとかで何か、世の中では賛否両論あるようなことをつぶやいたとする。
で、ある程度のフォロワー数がいれば、その中にはいつもふぁぼなりRTなりいいねなりをしてくれるありがたい人っていうのがいるわけで、でまあそういう時、だいたいそういう人はふぁぼとかしてくれるわけだ。
で、そのふぁぼとかを見て、人は―というか自分の場合は―まあ気分よくなって、「ああやっぱ自分の意見に賛同してくれる人っているんだな」と、承認欲求を満たされるわけだ。
ほんと、お手頃に承認欲求が満たされる時代になったよなぁと思うわけですよ。
いやもちろん、検索して探そうと思えば、そのようなポジティブな反応ではないネガティブな反応っていうのも見つかります。でも、まーある程度ネットで発言するのになれちゃった人って、そういうネガティブな反応は受け流して、ポジティブな反応により多く反応するような心的機制が身についちゃってるもんでしょう。もちろん倫理的にはネガティブな意見こそ真剣に拝聴すべきものなんだけど、でもそんなこといちいちやってたら早々心が折れちゃうわけで、良くも悪くもそういう心的機制は、たとえ倫理に反しても、身についちゃうものなんじゃないかなぁ。
というか、個人の視点に立てば、そういう自分のメンタルを防御する試みってのは、そんなに悪いものではないと思うのよ。ネット上での発言を生業にしたりする特殊な人なら違うかもしれないけど、多くの個人は別にネットにそこまで人生かけてないわけで、余暇としてやる分には、そりゃあメンタルにいいやり方でネットライフを楽しんだ方がいいに決まってる。
で、さらに言えば、そうやって似たような意見を持つもの同士が寄り集まって相互承認するようにすれば、マイノリティな意見を持つ人たちでも安定的に意見を発することができて、結果としてインターネット全体に流通する意見が多様化するわけで、実は大局的に見ても、こういうお手軽に承認欲求が満たされてしまうシステムは、そんなに悪くはないとも思うわけですよ。
でも、やっぱりなんかこう、「それで本当にいいのか」とも思うわけで。
僕の持つ意見、それに対して違う意見を持つ人がいる。だったら、いったいどっちの意見が正しいのか、本気で、言葉を拳にして、殴り合わなきゃいけないんじゃないか。そしていったいどっちが正しいのか、きっちりと決着をつけないといけないんじゃないかと、思うわけです。そしてそのためには、ポジティブな反応なんかより、むしろネガティブな反応にこそしっかり向き合い、それと対決しなきゃならないんではないかと。
でも、そう思いつつも、やっぱりお手軽に承認欲求が満たされる、SNSでのポジティブな反応集めから逃れられない自分がいて。
「そんなんじゃだめだ、もっと生きるか死ぬかの戦場で戦わなきゃ」と思う自分と、「もうそんなのいいじゃん、ぬるく生きようよ」と思ってしまう自分。二つの自分の間で葛藤に悩む、そんな今日この頃なんです。

シン・ゴジラという「癒やし」の物語

今週のお題「映画の夏」
というわけで、どうやら最近はてな界隈ではシン・ゴジラの記事を書くとアクセスが集められるそうなので、アクセス数に囚われたものとしては是非記事を書かねばなーと思い、映画を見てきた。
最初に言っておくと、僕はこの映画、あんまり面白いと感じなかった人間である。まあ理由は単純に、官僚組織とか建造物・重機とか特撮とかといった、この映画が用意した萌えポイントが、ことごとく僕にはヒットしなかったということである。逆に言えば、こういったものが萌えポイントの人は、見に行って存分に萌えればよろしい。以上。エチケットペーパー敷き終了。
だが一方で、そういう個々の萌えポイントとは別に、物語構造として、そーいうのが今の日本人は好みなんですねーと思う点があった。それは、
「組織への信仰」
である。

ゴジラ」v.s.「官僚機構」?

この映画、登場人物は一応色々いるのだが、そのどれもが類型的な範疇をでることがない。政治家・官僚は出世欲は持つけど真面目、科学者はコミュニケーション能力に難のある天才、外人(あえて「外国人」ではなく)は高飛車。誰もが登場した時点で予想される型どおりの行動をする、
まー、もともとこの映画の総監督庵野秀明は人間が描けないことで有名なので、個性的で予想を裏切るようなキャラクター造形など期待もしていなかったので、それはそれでいい。
問題は、キャラクターが類型的な行動をしない以上、一体何が物語を動かす役を務めるかという点だ。
もちろんその一つは「ゴジラ」である。だが、ゴジラがただ暴れるだけの映画では、せいぜい短編作品にしかなりえない。ゴジラに対抗する役、この作品でそれは政府、それも「官僚機構」ということになる。つまりこの作品の主役とは、「ゴジラ」と「官僚機構」なのだ(ここまでは、映画を見た人なら誰しもが同意してくれるだろう)。
もちろん、実際怪獣が現れたら、政府という「官僚機構」が相手になるのがリアリティある表現だろうから、それ自体は何の問題もない。問題なのは、そこで「官僚機構」があくまでも正しい行動を取ろうとする存在であるということだ。
もちろん劇中でも官僚機構が間違える場面はある。だが、その間違いはあくまで官僚機構の力不足によるものであるとされ、官僚機構自体の善性は決して疑われない。ゴジラ」は人々を襲う悪い怪獣、「官僚機構」は人々を守る良い怪獣というわけだ。
これはあまりにナイーブすぎる考えではないだろうか?様々な清濁を飲み込んだ上、それでも逡巡の先で、「官僚機構」の善性を信じるというのなら、(僕の思想とは異なるが)まだ納得できる。例えば、よくこの映画と似ていると評される*1踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』という作品では、そのあたりの逡巡が作品のメインテーマとして描かれていて、僕は結構好きな作品だ。

だが、『シン・ゴジラ』という作品においてはそのような逡巡は全く見られず、一貫して「官僚機構」は善良で、疑われることのない絶対不可侵な存在として扱われる。これは一体なぜか?「作品のメインテーマではないから」というのも答えの一つだろう。では、仮にそうだとして、ではなぜ多くの『シン・ゴジラ』を絶賛する観客は、この点に違和感を感じないのか。
それは、多くの人が、この映画を3.11以降の「癒やし」の物語として、受容したからではないだろうかと、僕は考える。

「学園エヴァ」としての「シン・ゴジラ

「癒やし」とは、一見すると怪獣映画とは最も程遠いキーワードに見える。だが、それを言うならこの映画を絶賛する人々の口上こそ、「元気をもらった」、「前向きな気持になった」というような、怪獣映画を見た人々の感想とは思えないものばかりだ。
なぜ人々は『シン・ゴジラ』を見てそのような感想を抱くのか。それは、3.11以降、人々が不安に思う現実それぞれに対し、そのような不安が存在しない、「こうありたかった3.11以降の日本」を幻視させるからなのだ。
官僚機構はあくまで優秀で、その中にいる個々人は公益のためにしっかり働いて、決して悪いことを考えない。放射線は短期間で消えてしまう。いざとなったら国民は(一部のデモやっているような非国民を除いて)一致団結する……そういった、多くの国民が「こうありたかった」と願うような、3.11以降の日本を幻視させて「癒やし」を与える、そのためには官僚機構ははなから善性のものでなくてはならなかったのである。
いうなればこの映画は、庵野秀明フィルモグラフィーでいう「学園エヴァ」のようなものなのだ。「こうなってほしかったエヴァ」を充足するものとして「学園エヴァ」が提示されたように、「こうなってほしかった3.11」として、『シン・ゴジラ』が存在する。ただ、「学園エヴァ」においてはあった、そのような「癒やし」を求める主体の欲望に対する批評的目線は、今回の作品においてはもはや存在しない。

「癒やし」ではなく、現実と立ち向かったアメリカ

このようのことを書くと決まってこういう反論が来る。「映画なんて所詮エンターテイメントなんだから、楽しいことだけ描いて何が悪いのさ」と。
もちろんエンターテイメント作品なんだから、楽しくなければそもそも見てもらえない。だが、楽しさの中にだって、「癒やし」とは全く違う「楽しさ」だってあるんじゃないだろうかと、ぼくは思うのだ。
そのいい例が、映画『キャプテン・アメリカ』、それも特に2作目『ウィンター・ソルジャー』と

と、3作目「シビル・ウォー」だ。
キャプテン・アメリカ」は、それこそ日本のゴジラに匹敵するような、アメリカのサブカルチャーの原初にあるキャラクターだ。当然、それを現代において再始動させるなら、9.11以降の混迷するアメリカにおいて、悪を討ち善を助け、人々に「こうでありたかったアメリカ」を見せる、単純明快な勧善懲悪ヒーローにもできただろう。なにしろ国名を名前に持つヒーローなのだから。
だが、映画『キャプテン・アメリカ』の、特に現代を舞台にした2作目と3作目は、単純な勧善懲悪物語とは全く異なる、むしろ現代のアメリカが抱える問題と正面から向き合う、そんな作品だ。一応敵キャラは登場するのだが、むしろそれよりも、自分たちが属する組織の闇との対決を迫られる、キャプテン・アメリカはそんななかで、「組織に属する中で正義は一体どうすれば成し遂げられるか」といった問いを、エンターテイメントの中で、視聴者に突きつけてくる。
もしかしたそこにはアメリカと日本の国民性の違いもあるのかもしれない。まず最初に自立した個人が存在し、その個人が集まってある目的のために組織を結成するアメリカと、最初に組織ありき、むしろ組織を作ること自体が目的化する日本。
だが、例えいま日本がそうであったとしても、変わることは可能だろう。というか、たとえそれがどんなに「癒やし」とは程遠くても、変わることが、3.11以降の日本においては、絶対必要なのではないか。それこそが、真の意味で、「日本に勇気を与える」ことではないのか。
というわけで、この映画の夏、あままこのブログでは、『キャプテン・アメリカ』を見ることを、是非、おすすめします!(アレ?)

*1:僕からするとぜんぜん違うのだけれど

問題は、いかに「政治性」にポピュラー音楽が向き合っていくか

フジロックの1ステージに運動家が登壇するとかでなんかネット全体がかしましいですね。
まーまず最初に素朴な感想として、そもそもフジロックは元からそういうものを内包したイベントだし、政治性が脱色されたイベントに行きたければそれこそサマソニとか色々他にも選択肢はあるわけで、わざわざフジロックに行きながらそういうことを言うっていうのは、なんかこってりラーメンが売りの店に行って「このラーメン油多いよー」と言っているような、そんな間抜けな印象しか受けないわけですが。
ただ、一方で、いくらこってりラーメンだからって、油をただ入れれば美味しいこってりになるわけじゃない*1わけで、ただ自分と異なるイデオロギーの人が居るから文句を言っている人はさておき、フジロックでそうやっておためごかしに「環境保護」「平和」みたいなものが大上段に掲げられると、辟易してしまう、その辟易の結果として、稚拙な言い方だとは思いますが、「音楽に政治性を持ち込むな」みたいなことを言っちゃう人も一定数居るんじゃないかと、思うわけです。
で、そういう形の辟易なら、僕も、共感する部分がないわけでもないのです。
ただ、それを「音楽に政治性を持ち込むな」みたいなスローガンにしちゃうのは、やっぱりおかしいわけです。問題とされるべきは、音楽に政治性を持ち込むことそれ自体の是非ではなく、音楽に否応なしに付随してくる政治性を、いかに表現するか、表現方法、つまり言葉の問題なのではないでしょうか。

*

よく日本のポピュラー音楽についてこういうことを言う人がいます。「日本には諸外国と違って明確な階級意識みたいなものがなかった。従って日本のポピュラー音楽に政治的な主義主張はない」みたいなことを。例えばこんな記事。
ロックと政治と飯 - あざなえるなわのごとし
ですが、階級とかメッセージ性とか、そういうものを全面に出すことだけが、「政治的」なのでしょうか。僕はそうじゃないと思うんですね。
例えば上記の記事では「個人主義的な愛や恋」が、政治性というものと対比されているわけですが、しかしロマンチック・ラブ・イデオロギーや、LGBTの問題等でも分かる通り、どんな人を、どんなやり方で愛すかみたいなことほど、「政治」に満ちあふれていることはないわけですよ。それこそ、上記の記事で孫引きされている「噂だけの世紀末」

MESS/AGE

MESS/AGE

の紹介元の「ニッポン戦後サブカルチャー史」で紹介されていた、ダムタイプの「S/N」、

dumb type S/N 1/2
という作品、これなんかまさに「愛や恋」の問題を取り上げている作品なわけですが、これが政治的でないとなぜ言えるのか。
さらに言えば、愛や恋といった問題にかかわらず、これから自分は一体何を目指して生きていけばいいんだろうという自意識の問題や、明日学校や会社で顔を合わせるクラスメートや同僚と、どう付き合えばいいんだろうという問題だって、その元を考えていけば、決して個人の内面だけの問題ではなく、社会がどのようにそのような自意識やコミュニケーション形式のロールモデルを形作っているかという点で持って、社会的・政治的な問題なのです。
だから、日本のポピュラー音楽が、政治性を持ち得なかったなんて言えなかったとは、決して僕は思わないんですね。というかそもそも、政治性のない音楽なんてものは存在しない。問題は、そこで政治性が“いかに”表現されるかという点なのだと、僕は考えるのです。

*

ただ一方で、このような政治性が存在することへの「気づき」は、それこそ上記の記事を例に出すまでもなく、日本のポピュラー音楽においては、作り手・受け手ともに、ほとんどなかったというのも、日本のポピュラー音楽の実情ではあるわけです。
もちろん例外はあります。それこそ日本のヒップホップなんかでは、よくも悪くも自分の現在の状況を意識的に社会性に引きつけて歌うような曲が多くあります。それは時には「ナショナリズム」みたいな形をとることもあったにせよ*2、とにかく自分の個人的内省のなかに、社会性・政治性への萌芽を見出してきたわけです。
ところがポピュラー音楽の多く、特にロックやポップスという分野では、依然として「個人的な問題/政治的な問題」みたいな、カビが生えたオールドリベラルチックな二分法でもって物事が理解されてしまっている。そんな二分法に囚われたまま、いきなり政治的な音楽を紡ごうとしたって、そりゃあ個人の肌感覚から遊離したものになってしまうわけです。
いや、別に良いんですよ。いきなり憲法9条を朗読したり、原発反対とか叫んだって。それが自分の語る言葉として語られるなら。でも、そうじゃなく、借り物の言葉を振りかざして、それに曲を合わせてるだけにしか見えないケースも多々あるわけです。本当にその言葉が、そのアーティストの内面から語られた言葉なのか、それに気づかないほど受け手は鈍感ではないわけです。
平和の問題にしろ環境の問題にしろ、重要なのはそれを「我がことの問題」として、自分の言葉で語られているか。例えば平和の問題なら、ただ平和大事と言うだけでなく、例えば日常生活で会う、自分が絶対許せないようなひと・ことを見ながら、それを権力や暴力で解決せずに、いかに共生していくか、そういった事柄から語っていったり、環境の問題なら、自分が普段どのようにテクノロジーというものと向き合っているか考えていったり、そういう等身大の問題から語られるべきではないか。
さらに言えば、平和や環境といった問題だけが「政治」ではありません。先程も言ったように、自分がどのような存在であるか自己認識する自意識の問題や、コミュニケーションの問題だって立派に、「政治的」なことのはずなのです。そして、多くの人はむしろそういった問題に日々悩んでいるわけです。だとしたら、そういった事柄について、政治性・社会性、いかにそこに社会的な規範というものが存在するか、または存在しないか、そしてそのような社会が、ある意味では導き、ある意味では押し付けてくるような規範に、どのように向き合うか、そういったことこそ、現代日本のポピュラー音楽で言葉が紡がれるべき、「政治」の問題ではないか。
フジロックというイベントが、「政治性」というものに自覚的であるならば、平和とか環境とかを語るのも結構ですが、こういう問題だって、語られるべきなんじゃないか。むしろこういう問題こそが、言っちゃあ悪いですが、自意識をこじらせたような人が大勢集まるフジロックに重要な、「政治的問題」なんじゃないかなぁと、僕は思ったりします。

*1:いや、こってりラーメンはある意味油の多さだけで美味しさが決まっちゃうかもしれないけど

*2:日本語ラップとナショナリズム “不良映画”から読み解く思想の変化とは?|Real Sound|リアルサウンド等参照

さよならサブカルチャー

仕事を退職して暇なので、甘いあまいサブカル自意識地獄 ハセガワケイスケ『いのち短しサブカれ乙女。』 - 小説☆ワンダーランドで紹介されていた『いのち短しサブカれ乙女。』なる小説

を読んでいました。
いやー、ノアちゃん(この小説に登場しているサブカル女子*1)の言葉の一言一句が、いかにもサブカル女子らしいパワーフレーズばっかりで、こういう痛い女の子が大好きな僕としては、ゲラゲラ笑いながらいちいちセリフに傍線を読んで一気読みしてしまいました。傍線引きながら小説読むとかはじめての経験ですよ……
具体的にどんなパワーフレーズがあるかといえば、例えば、いつも被っているベレー帽について聞かれた時に

「なんちゃってオシャレアイテムで流行に乗って何の魂もなくベレー帽を頭にのせてたやつらはみんないなくなった。そして真に魂の権化のごときベレー帽をかぶった、いやベレー帽に選ばれし者だけが残った……――それがつまり、サブカルよ」

と、そこまで聞かれてもいないのに長々と演説したり、ノアちゃんの友人である主人公「わたし」がふと浅野いにお作品を手に取ると、いきなり

浅野いにお先品はね、サブカル好きの登竜門でもあるの」
「そうなんだ」
「数々のすばらしいサブカル好きの先人たちを生み出したそうまさにサブカルバイブル。しかし――」
ノアちゃんは苦々しく唇を噛みしめる。
「と同時に! サブカル糞野郎へのとっかかりでもあるんだよ!」
えっ!
「残念ながら勘違いしたファッションサブカルどもがハイエナのごとくいにお臭をかぎつけ我も我もと群がってきやがったんだもの!」

と、ファッションサブカルへの憎悪を爆発させたりする。かと思えば見ているゲーム実況動画のゲーム*2のヒロインが死んだ時には

iPhoneを手からこぼすように床に置いて、ノアちゃんは大きなため息をついた。
「……逝ってしまわれた。」

なんてあざとい可愛らしい様子を見せる。こんな痛い女の子、もう萌えるしかないでしょ!分かるでしょ!?あ、分かりませんか、そうですか……
とにかく、僕は小説読んでる間ノアちゃんに萌えっぱなしだったわけですが、一方で読んでる内に、こんな思いもしてくるわけです。
「こういう女の子が、特に現実を見せつけられもせず、優しい世界で『日常系』できる、今って―良くも悪くも―そんな時代なんだよなぁ」と。

「厳しい世界」から「優しいセカイ」へ

だって、こういうサブカル系の痛い女の子が登場する作品では、ほとんどの場合、それこそ『ヤサシイワタシ』

やら、『ヨイコノミライ』やらのように、ひどい仕打ちを受けるような作品ばっかなんですもの。正直小説を読んでてラストに至るまではずっと、ノアちゃんもこういう作品みたいに手痛いしっぺ返しを受けるんじゃないかとハラハラしちゃうわけです。
しかしそうはならないわけです。むしろ、ノアちゃんの回りにいるのは、ノアちゃんを素直に尊敬していて、"サブカルではまったくないんだが、しかし自分のサブカル趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らないサブカルの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる"ような"都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女"である、主人公の「わたし」ちゃんを筆頭に、理解ある人たちばっかりで、水を差してくるような敵キャラは全くいないわけです。そういう点では、それこそ『中二病でも恋がしたい!とか、あるいは『げんしけんとかの作品における「中二病」・「オタク」というのがそのまま、「サブカル」に置換された作品であると言えるかもしれません。

現代のサブカルは「キャラとしてのサブカル」である

さて、多くの場合、前者のような「痛さに厳しい世界」を描く作品のほうが、後者のような、「痛さに優しいセカイ」の作品よりリアルであるとされて、後者のような作品は、物語の中の都合の良い世界とされてしまうわけですが、でも僕は、むしろ現代においては後者のような作品のほうがリアルであると、そう思えてならないのです。
どういうことか。つまり現代のコミュニケーション状況とは、どんなに痛いキャラクターであっても、その「痛いキャラクター」から逸脱せず、また他者のキャラクターを否定しない限りは、その「痛さ」でさえ許されて、ひとつの個性として認められてしまう、そんな「優しいセカイ」なのではないかということです。
それは、良い面もあれば、悪い面もあるでしょう。良い面としては、それこそ手ひどい目に合わずに誰もが、そこそこ優しい世界で、自分のキャラに沿って自分の趣味に没頭することが出来るという点がそうです。しかしそれは逆に、それぞれのキャラが固定化され、そのキャラから逸脱する可能性が、最初から排除され、成長、または変容のチャンスが失われてしまうということです。それは「サブカル」という文化そのものにも言えることで、「キャラとしてのサブカル」が認められる、しかしその時点で、そのキャラから逸脱して、他の文化クラスタ―それこそv.s.オタクというような―にけんかを売って、打ちのめしたり打ちのめされたりして、その中で文化自体が成熟・変容していくチャンスが奪われていくということでもあります。
このような「キャラとしてのサブカル」についてどのような評価を下すかは人それぞれでしょう。僕個人としては、そこに一抹の寂しさを感じざるをえないところもあります。ただ、よくも悪くも、現代の「サブカル」とはこういうものであるということを、『いのち短しサブカれ乙女。』という小説は象徴しているのでは、ないでしょうか。

アーバンギャルド - さよならサブカルチャー

*1:というラベリングを当のキャラクターは嫌がっているわけだけど、でもサブカル好きな女子なんだからサブカル女子じゃん

*2:ゲームを実際にやっているんではなく、ゲーム実況動画を見てるというのが、実に今のサブカルっぽい浅さでいいよね……

僕の世代の最良の精神たち

id:debedebeの死 - ゆうれいパジャマ
にて、id:debedebeさんが亡くなったことを知る。

debedebeさんとは、7、8年ぐらい前*1に、「ゆとり世代部」という、同年代のはてな界隈の人でつるむ、よく分からない集まりのオフ会で、何度か会ったことがあり、そこで結構お話とかしたことがある。

その当時の印象としては、「こんな面白い変な人がいるんだ」というもので、まだ地方の大学で、平凡な狭い世界しか知らない僕は、結構衝撃を受けたりした。

当時のはてな界隈は、debedebeさんに限らず、とにかく変な、社会からちょっと……いや、大分ズレた人々の集まりだった*2。そんな中でもdebedebeさんは、一番最初の記事で紹介されている「あたし状態遷移図」にしてもだけれど、自分からアピールをしなくても、その異才にみんなが勝手に注目していくというような人だった。

そんな存在がなくなることにより、世界はまた1つ色をなくし、つまらなくなってしまったのかなと、思う。


ちょうど最近読んだ本の中で、今の気持ちと共鳴するような詩を見つけたので、一部引用しつつ、故人に捧げる。
ギンズバーグ詩集

吠える


僕は見た 狂気によって破壊された僕の世代の最良の精神たちを 飢え 苛ら立ち 裸で 夜明けの黒人街を腹立たしい一服の薬を求めて のろのろと歩いてゆくのを
夜の機械の 星々のダイナモとの 古代からの神聖な関係を憧れてしきりに求めている天使の顔をしたヒップスターたち
ある者らは 金もなく ぼろぼろのシャツを着て うつろな眼でタバコをふかし 寝もせずに 湯も出ないアパートの超自然的な暗闇で 都市の上を漂いジャズを瞑想していた


〜〜


いま気違いは浮浪し 天使は羽ばたいている まだ記されていない未知よ 死の後に来る時の中にいうべきことを書きしるす
バラがバンドの金色の影の中で幽霊のようなジャズの衣装をまとって復活する エリ・エリ・ラマ・ラマ・サバクタニ 愛に飢え渇いたアメリカの精神の苦痛を訴えるサキソフォンの悲鳴がラジオから流れて都市を震え上がらせた
多くの年月かかって食いものにされてきた彼らの肉体からえぐり取った人生の詩の 絶対的な心臓と共に

*1:僕がまだ「RIR6」とか「sjs7」とかいうハンドルネームで活動していたころ

*2:ゆとり世代部もその1つだったし、ファック文芸部、モヒカン族など、とにかく変なものが寄せ集められていた。そして、その妖しくも魅力的なブロゴスフィアに憧れて、僕もはてなダイアリーでブログを書いていた。

炎上のコモディティ化――はてな村反省会2015に参加して

はてな村反省会という、はてなでブログとかダイアリーとかブクマとかをしている人達のオフ会に参加してきました。
全体的にどんな話がされたかは下記のオフレポ等を読んでみてくださいな。

で、オフ会で話を聞いている最中に僕が思ったのは、「今のインターネットって、もう何の話題なら炎上するか、初心者にはわからない世界になっているのではないか」ということでした。

「こういうことに言及すれば炎上する」の「こういうこと」が多すぎる

もともと、「飲み会で政治と宗教と野球の話はするな」という言葉があるぐらい、その話題に触れるときは、ある程度理論武装をしておかなきゃいけないというのは、ネット上にかぎらずリアルでもあったわけで、たとえば歴史認識のはなしをするなら、ある程度炎上は覚悟しなきゃならないぐらいの心構えがあったと思うんですよ。
ところが最近は、その「触れるのに覚悟が必要な話題」というのが、一体どこにあるかわからなくなっている。ネットの大勢からすれば問題なくても、ある一部のコミュニティの逆鱗に触れれば、あっという間に盛り上がり、リアルまで影響をおよぼす炎上につながるわけです。
もちろんじゃあ今までの様に少数派コミュニティが黙らされている状況が良かったかといえば、そうでもなく、むしろそれによって今までは異議申し立てすらされてこなかった話題が異議申し立てされるという点で、僕もむしろそういう異議申し立てとしての炎上は、率先して油を足してきた人間だったわけです。
ただそんな身からしても、今のこの「地雷がどこに埋まってるか分からない状況」というのは、ネットで発言する場合に、あまりに大きい参入障壁になっているのではないかと、そんなことを考えたりするのです。
じゃあどうすればいいかというと、正直「不用意な発言で燃えそうと感じたら、早めに謝罪なりで沈下しておく」というぐらいしか思い浮かばないのですが。

その他思ったことの断片

  • 非モテ論から恋愛工学へ」というのは、なんかセカイ系からサバイブ系へという文化潮流が遅れて波及してきたような感じがしたり。
  • 「個人が書いたもの」から、「そのものを書いた個人」へと、注目が移り変わっているというのは、Youtuberや生主等の台頭を見てもそう感じたり。ただ僕はどっちかというとそれに危うさを感じたりも。描くものが先鋭化していっても、それを俯瞰して分析できる個人が居ればある程度の歯止めは聞くけど、個人そのものが先鋭化していった時、それを律することが出来るものは何かあるのかなぁ?と

まとめ

色々インターネットに関して否定的なことを書いたけど、やっぱりなんだかんだ言って「これまで声を挙げられなかった人々が声を挙げられるようになった」という風に、ネットが無かった昔と比べれば、社会的には進歩しているんですよね。
ただ、ではどこでどういった立ち振舞をして発言すればいいかというハビトゥス(振る舞いについての文化的作法)は、まだなかなか確立されてないわけで、今思えば、モヒカン族とかいうのも、そのハビトゥスを確立しようとして、失敗したプロジェクトだったのかなーと、思ったり。

アニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』に見る、新しい「仲間」のかたち

いやあ、『アイドルマスターシンデレラガールズ』のアニメ、ほんっとーに、良かったですね。
で、最終話を見終わってから、僕なりに、アイドルマスターシンデレラガールズのアニメが良かった点を色々考えていたんですよ。
で、作画といった点はより詳しいマニアの人に任せるとして、僕がお話全体を振り返ってみて、良かったなぁと思うのが。やっぱり「CINDERELLA PROJECT」の14人の、「仲間」のあり方が、とても心地よかったという点なんです。
それは、言うなれば、学校とか仕事とかでの同級生・同僚と違い、地元での関係とも違う、「第4の空間」*1において、お互いの違いを認めながら、それでもそれぞれの心のなかに共通の理想を持つ、そんなあり様の仲間だったのでは、ないでしょうか、

第一クールのアニメは「仲間になる」物語だった

シンデレラガールズのアニメでは、以前のアイマスのアニメ化とは違い、14人が集まるところからスタートします。全く違う個性を持ち、とにかくデビューを熱心に望む子もいれば、ロックなアイドルを目指したり、中には印税だけが目当ての子も居たりする。そんなバラバラの女の子たちが、しかし互いにコミュニケーションを取っていく中で、それぞれの違いを認識しながらリスペクトしあうようになり、最後はみんなで力をあわせ、1つの大きなイベントを乗り越える。前半のストーリーはそんな、「仲間になる」ストーリーだったといえるでしょう。

第2クールの「仲間から、その外へ活躍を広げていく」物語だった

そして、そのような第一クールで出来たCINDERELLA PROJECTの「仲間」から、その「仲間」を胸に、より広いステージへ出ていくのが、第2クールの物語だったわけです。
そのステージへの飛び出し方は人それぞれです。が、そのいずれにしても、今までと違ったり、やったことのないことを挑戦し、「仲間」の外へ飛び出していくというものでした。
ここで重要なのが、それらの活動がうまくいったのは、きちんと第一クールで「仲間」が形作られて、そこが土台となっているから、という点です。全くなにもない、あるいはそう思い込んだままで、いきなり外へ飛び出そうとすれば、それこそ終盤の島村さんみたいに壊れてしまいます。だからきちんと、今までの自分の軌跡、そしてそこで得た「仲間との思い出」があることを、思い出す必要が、あの時の島村さんにはあったし、みんなそれがあったからこそ、より広いステージへ飛び出して行けているわけです。
そしてラスト、あの、文字通り「なんでもあり」のアイドルフェス、でも、あそこまでなんでもありでありながら、そこにいる誰もが笑顔のなれる、そんなアイドルフェス。これができたのも、アイドルたちがそれぞれ、より広いステージに飛び出していき、そこで新たな、自分とは全く違う「仲間」を見つけてきたからだったのです。

新しい「仲間」のかたち

仲間だもんげ!」という言葉に代表されるように、「仲間」という言葉は、アイマスにおいてとても重要視されています。
ですが、ではその「仲間」とは、一体何なのでしょうか?
今年でアイマスは10周年になるそうです。10年間、アイマスはよくも悪くも様々な経験を積み、そしてそのファンも、様々な異なった思いをアイマスに持っています。
アーケード版原理主義ゼノグラシア容認派・否定派、961プロジェクト肯定派否定派、DS派、そして9・18事件……デレマス自体、「ソシャゲーなんて」という点で否定するファンは多かったですし、今も一定数いるでしょう。
ここまで目標や思いが多種多様な集団が、はたして「仲間」としてひとくくりにできるのか?
そんな疑問に対し、「いいや出来るんだ、例え見ている方向や思いが全く異なっていたとしても、それぞれの違いを認め合い、楽しむことさえできていれば、『仲間』なんだ」と、仲間という言葉を再定義したのが、実は今回のデレマスアニメだったのではないかと、そう思えてならないのです。
そしてきっと、こういう形で「仲間=コミュニティ」というものを広く再定義していくことは、アイマスにかぎらず、これから先の日本全体において、重要になってくるのでは、ないでしょうか。
なんだか最後は話が大きくなってしまいましたが、とにかく、『アイドルマスターシンデレラガールズ』、本当に良いアニメだったと、僕は心から思います。