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炎上する精神―ウェブ炎上とメンタルヘルスについての一考察

withnews.jp
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はてブではえらく評判が悪くてプチ炎上状態ですが、僕自身はこの2つの記事、結構興味深く読みました。
というのも、結構こういう、ウェブ上でブログを書いて炎上することをきっかけに、心を病む人というのが結構身の回りに多いからです。具体的に名前を出すとあれなんで出せませんが、有名・無名問わず、ブログやtwitter上でのコミュニケーションが元で病的に落ち込み、心療内科とかに通うようになった人って結構多いんですよ。
さらに言えば僕自身、今はそんなに無茶はしなくなりましたが、昔は結構境界線ギリギリのところで色々やってきたわけでして……
しかしそこで僕は思うわけです。
一体何でウェブ上で炎上することって、そんなに炎上した当人にとってショックなんでしょう?
だって、普通に考えれば、ウェブ上でちょっと炎上したからって、自分の目の前にその炎上させている相手が現れるわけでもないわけで、リアルで会った相手に叱責されたり罵倒されたりするのに比べたら、精神的負荷ってずっと小さい風に思えるわけじゃないですか。さらに言えば、炎上って言っても、「死ね」とか「殺してやる」みたいな、本気でとんでもなく厳しい罵倒や脅迫っていうのは、ごく数人だったりして、大多数はちょっときつい物言いをしてるにすぎなかったりする*1し、そもそも炎上に参加している人自体、多くても数百人程度なわけです。
にも関わらず、一旦ブログやSNSが炎上してしまうと、リアルで誰かに叱責・罵倒されたときよりもずっと心に残ったりするし、まるで世界中全てが自分の敵になったように感じるわけです。
これって一体、何でなんだろうか?
そのことを考えるために、今回の記事では

  • ウェブ上で炎上がなぜどのようにして起こるのか

調べ、そこから

  • 炎上におけるウェブ・コミュニケーションの特性

について整理し、その上で

  • 一体なぜ炎上がそんなにメンタルヘルスを損なうほどの精神的負荷を与えるのか

考察し、そして最後に

  • 炎上してもそんなに炎上を気にしない精神をどうやったら持てるか

考えてみたいと思います。

ウェブ上で炎上がなぜどのようにして起こるのか

ウェブ上で炎上がなぜどのようにして起こるのか。

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

という本によれば、そこには

  • エコチェンバー
  • 集団分極化
  • 記号の誤配

という3要因が存在し、そしてそれらが組み合わせられることによって

という現象が発生し、それが炎上という状態を生むのだと、書かれています。
「エコチェンバー」とは、もともとは「共鳴室」という意味で、ある音を発するとその音がこだまとなって帰ってくる、そんな部屋のことなんだそうです。そこからエコチェンバーとは、ウェブ上で情報を収集する際に、自分の意見とよく似たような意見ばかり集めたり、ネット上でつながりを形成する際に自分と主義主張が同じ人同士でつながろうとしてしまう、そんな現象のことを指します。
これは自分から望んですることもあれば、ウェブサービスの仕組みでそうなっている場合もあります。例えばあるアニメやドラマを見てそれがすごく面白かったときに、「[作品名] 感想」とかで検索すると否定的意見も目に入って、せっかく盛り上がっている感情が冷めてしまうから、「[作品名] おもしろい」とかで検索した経験、ないでしょうか?少なくとも僕はあります。これは、自ら望んでエコチェンバーに入ってしまうケースといえるでしょう。
また、SNSをやっていると、「おすすめユーザー」を表示するサービスがよくあります。この場合、大抵のWebサービスでは、同じようなリンクを紹介していたり、同じような趣味を持っている人を紹介するようになっていますから、おすすめユーザーをおすすめするがままに友達登録したりフォローしたりすると、意図せずとも、自分と似たような人同士でつながりを作ってしまうこともあります。
いずれの場合にせよ、ウェブ上では自分と似たような意見・人と、簡単につながりを作れるんですね。これが「エコチェンバー」です。
そして、そうやって同じ意見同士でまとまると、今度は「集団分極化」という現象が発生します。これは簡単に言えば「違う意見を持つ2つのグループが討論すると、討論する前よりも意見の偏りが極端になる」という現象です。
「きのこ・たけのこ論争」を例にして考えてみましょう。これは、お菓子の「きのこの山」と「たけのこの里」、どっちが美味しいかという、くだらない論争です。多くの人は、そんな2つの間に明確な優劣なんかないだろうと考えているでしょう。
しかし、ではそこで「きのこの山」派と「たけのこの里」派に分かれて、どっちがおいしいか討論することになったとするとどうでしょう。一旦どちらかの派に入ったら、自分の派の優位性を示し、反対側の派の劣位性を示さなければなりません。だからきのこの山派に入ったら、きのこの山がおいしい理由、たけのこの里がまずい理由を一生懸命考えます。そして、そうやって考えて、考えた意見を相手にぶつけていくうちに、いつしか2つの間には明確な優劣があるんじゃないかと、思い込むようになるんです。
そのような効果によって、2つの意見が対立するグループが討論すると、討論する前よりも意見の偏りがより大きく、先鋭的になるのです。
そしてさらにここに「記号の誤配」という問題が絡みます。リアルで私たちがコミュニケーションを取る際、自分と全く属性が異なる相手とコミュニケーションをするということは少ないでしょう。同じ会社に勤めていたり、同じ地域に住んでいたりと、何かしらコミュニケーションする相手とは共通項があるわけです。
ところがウェブ上でのコミュニケーションでは、自分とは全く共通項がない相手とコミュニケーションをとることもできるわけです、するとどうなるか、まず価値観が全く異なります、さらに、それぞれが使う言葉の意味も微妙に異なります。だからお互い相手の言ってることを理解することができず、「何言ってんだこいつ」という状態に陥りやすいのです。そうなれば当然、相互理解などとは程遠い帰結を迎えるわけです。
以上の3要因により、人々は自分の意見と同じ意見の者同士でつながるようになり、異なる意見を持つ人々のウェブ上でのコミュニケーションは、より対立が激しくなりやすく、相互理解とは程遠いものになりがちなのです。このような現象を、サイバー・カスケードと呼びます。
そして、そのようなサイバーカスケード現象が起きると、少数派の意見は、その意見の妥当性とは関係なしに、多数派によって袋叩きにされやすいのです。ウェブ上での炎上というのは、往々にしてこのような現象の元で引き起こされる状態なのです。

2ちゃんねる型炎上・はてなブックマーク型炎上

ただしその一方で、そのようにウェブの仕組み自体に、炎上を引き起こす誘因があるとされる一方で、実際にウェブ上で参加している人の内、炎上を容認したり、積極的に参加する人はごく僅かであるとする研究もあります。

ネット炎上の研究

ネット炎上の研究

という本によれば、炎上に参加する人はインターネットユーザー全体の内0.5%程度であり、更にその中でもしつこく攻撃的な書き込みをするのはその数%で、1件の内数十〜数百人、個人への直接攻撃をする人は更に少なく、数人〜数十人程度とされています。
しかしここで問題となるのは、「炎上」という現象で、問題とすべきは「しつこく攻撃的な書き込みをする人」、「個人への直接攻撃」のみなのか?という問題です。
さらに言えば、上記の本の研究では、「炎上に参加したかどうか」という問題を、炎上に参加した側の認識のみによって判定しています。これは、アンケート調査という調査手法上仕方ない限界といえますが、一方で「意図せざる炎上」、つまり炎上する側は決して炎上させようとして書き込みを行っているのではない、にもかかわらず、結果として「炎上している」という認識を与えてしまう、そんな炎上事案を考慮に入れていません。
ですが、企業・団体や著名人の炎上ではなく、個々人が遭遇する小規模な炎上において多いのは、むしろこの研究によって考慮に入れられないような、「意図せざる炎上」なのではないでしょうか。
例えばこの記事の一番最初に挙げた北条かや氏の記事、この記事もプチ炎上しているといえるわけですが、この記事に対するはてなブックマークを見ても、個々の書き込み自体はそれほどひどいわけではありません。しかし、個々の書き込みそれ自体はそんなに直接的な個人攻撃でなくても、それらが集合したときに、総体として「大勢が寄ってたかって一人を攻撃している」という印象を与えてしまっているのです。
つまり、一口に炎上と言っても、そこには

  • 少数の強烈な悪意あるウェブ利用者が何度も直接の個人攻撃を行うことによって起きる炎上:2ちゃんねる型炎上

  • 多数の漠然とした批判的意識を持つウェブ利用者が1回だけ批判を行うことによって起きる炎上:はてなブックマーク型炎上

という風に、異なる2種類の、炎上を示す理念型があり、上記の研究は最初の炎上のみしか測定できていないのではないか?と僕は思うのです。
では、一体はてなブックマーク型炎上とはどのような炎上の形態なのでしょうか。

はてなブックマーク型炎上の事例分析

例えば一番最初に提示した記事のはてブ欄を見てみましょう。
b.hatena.ne.jp 
魚拓*2
このページを開いたとき、最初に表示されるのは「人気コメント(10)」という10のコメントです。この10のコメントの内、明確に北条かや氏にたいして批判的なコメントは

ここまで一貫して「自分かわいそう」を主観的に書けるのはある意味凄いなあ。放火魔がいて勝手に火をつけられたような書き方だけど、そもそもなんで燃えたんだっけ? ☆154

記事の最初の写真といい、結論のよく分からない文章といい、自分を美しく描くことしかこの人は考えてないんだろうなと思う ☆94

自ら自殺未遂の記事を上げてなかったっけ。自分の死をコンテンツ化したのは自分ではないか。 ☆86

この人、炎上した後に、更に自殺未遂ブログ書いて自分からガソリンかぶって再炎上していた印象しかないんですが・・・。☆43

炎上した経緯の隠しっぷりと自己憐憫がすごい! ☆38

の5件、直接の批判ではないものの、皮肉・揶揄的なコメントが

「死んでお詫び」ってそんな話だったっけ? http://togetter.com/li/956115 ☆53

なにげに「会えばわかりあえる」とかの常套句をちゃんと混ぜててさすがだなと思いました。☆48

???「大脳が壊れて人間になり損ねたメンヘルって事を自覚しよう。これをプリントアウトして病院で診てもらおう。放っておくととんでもない事になるぞ。恐ろしい恐ろしい」(三大せりふ全部入りってこれ1回だけだ ☆43

の3件です。これを考えると、10件のコメント中8件が批判的、または皮肉・揶揄なわけで、たしかに画一的な意見による集中攻撃を受けているように見えます。
しかしそう見えるのは、実は上記の集計が、「批判的かどうか」という類型で分類を行ったからだったりします。実際、批判の内容にはそれぞれのコメントで微妙に異なっており、多分コメントを投稿している側としては、集団で攻撃して嫌がらせをしてやろうという、2ちゃんねるユーザー的な悪意はなく、自分の気になった点をコメントしているだけ、という意識なのでしょう。このような分析は「新着コメント」の側に対してもできます。
では何で、このように個々人が異なったコメントをしてるにも関わらず、それを受け取る側はそれらを画一的に「批判している」としか捉えず、結果として「炎上」していると感じるのでしょうか?
それを考えるのには、そもそもコミュニケーションとはどういった行為なのか、そしてそれがウェブ上で行われるとどのようなものになるのか、考える必要があります。

コミュニケーションとは一体なんなのか?

そもそもコミュニケーションとは一体なんなのでしょうか。一番わかり易い定義は、ある人と他の人の間で、情報をやりとりする、というものでしょう。ある人が「AはBである(A=B)」であるという情報を持ち、それを他の人に、口頭でも手紙でも電話でもEメールでもいいから伝える、それがコミュニケーションであるという定義です。
ところが、下記の本によると、実際の生物同士のコミュニケーションはそのようなものではないそうなのです。

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

ネットとリアルのあいだ―生きるための情報学 (ちくまプリマー新書)

ネットとリアルのあいだ―生きるための情報学 (ちくまプリマー新書)

どういうことか。おおざっぱに説明します*3と、そもそも情報とは、「A=B」というように、客観的に観察できる「実体」なのではなく、観察者が主観的に見出す「パターン」であり、それは観察者の主観から独立しては存在し得ない。よって、そもそもある人から他者に情報が伝達されるというのはありえない、というのです。
にもかかわらず、普段私たちは「情報」をやり取りできていて、そしてそれがコミュニケーションの正しい有り様だという風に錯覚している。これは一体なぜなのか。
1つ例を出して考えてみましょう。例えば、私たちはコミュニケーションを行っていて、分からない単語が出てくると辞書を取り出します。辞書の中において言葉は常に1つ、あるいは少数の定義によって定義づけられているため、辞書で言葉の意味を調べることによって、きちんと情報を、相手が定義した上で捉えられていると安心するわけです。
ところが、実際は同じ言葉でも、辞書によってぜんぜん違う定義がされていることがあります。例えば「手紙」、これは中国語の辞書を引けば「トイレットペーパー」ということになります。さらに言えば、日本語の辞書でも
手紙(テガミ)とは - コトバンク

用事などを記して、人に送る文書。

用件を紙に書いて相手に伝える文書。

考え・用件などを記して送る文書。

手紙は筆と紙による通信手段である。

と、同じ言葉なのに微妙に違う意味を持っているのです(さらに言えば、辞書の説明にあるそれぞれの言葉の意味は本当に同じであるか……という風にも考えられるため、厳密な情報“伝達”をしようとすれば、無限後退に陥らざるを得なくなる)。だから、例え辞書を使ったって実際は同じ「情報」をやり取りできているとは限らない。けど、辞書を使えばなんとなく、同じ意味で言葉を使ってるんだと安心することが出来る。なぜかといえば「辞書の内容は、少なくとも社会的に認められているから、これに沿ってコミュニケーションを行えば、情報の伝達ミスは起きない」という認識が共通しているからです。
重要なのは「社会的に認められている言葉の単一の定義がある」という思い込みです。そしてこの思い込みに沿ってコミュニケーションをするために、コミュニケーションをする相手と同じ意味世界を、同じ社会で共有しているというフィクションが、人間の言葉によるコミュニケーションが成立するために必要なのです。
と、ここまでがコミュニケーション一般の話です。次に、ではそのようなコミュニケーションの方法が、ウェブという仕組みの上ではどう変容するか考えてみます。

ウェブにおけるコミュニケーションとは「理想的なコミュニケーション」である

ウェブという仕組みを考える上で重要なのは、この仕組みが「社会」というものに可能な限り依存しないよう設計されているという点です。地域・言語・国家・企業などといった社会に閉じたコミュニケーションではなく、そういったリアルの社会から遊離した場所に、理想的なコミュニケーションの場を作る、それがウェブの基本理念といえます。
そしてそのような理想的なコミュニケーションの前提となるのが、シャノンの情報理論の、コミュニケーション全体への援用です。
シャノンの情報理論とは、簡単にいえば、情報の量がいかにして測れるかを定義した上で、その情報を効率的かつ正確に通信するにはどのようにすればいいか示した理論です。この情報理論においては、通信されるのはあくまで、記号(0と1)そのものの連なりであり、そこで、記号に込められた意味といったものは考慮されていません。ただ、この情報理論が機械間の情報伝達に適用されている限りは、機械はそこでやり取りされる情報の意味なんて理解しえませんから、良かったわけです。
ところが、このような情報理論が、人間同士のコミュニケーション一般にまで援用できるというのが、「理想的なコミュニケーション」を考える場合の基本的理念となっているわけです。
このような情報理論を援用してコミュニケーションを考えると、コミュニケーションとは情報という、0と1の記号の連なりからなる「実体」をやりとりする行為として解釈され、そしてその記号の連なりは出来る限り冗長性をなくし、かつあらゆる空間・時間において同一の指示対象を指し示すものであるべきとなります。
言い換えれば、社会という限定的・可変的な存在に依存したコミュニケーションは、理想的なコミュニケーションではなく、理想的なコミュニケーションに代替されるべきものと位置づけられるのです。

はてなスター」的コミュニケーション

では、このような、「理想的なコミュニケーション」の考え方が、一体ウェブ上でのコミュニケーションの実際、そして、ウェブ上でコミュニケーションを行う私たちに、どのような影響を与えているのでしょうか。
例えば「はてなスター」や「Facebookのいいね」、「twitterのファボ」について考えてみましょう。これらはいずれも、まさに「理想的コミュニケーション」を人々の実際のコミュニケーションに実装しようとする仕組みといえるのではないかと、僕は考えます。
これらの機能においては、「○○を押した」という記号のみが伝達され、それがどのような意味を持つかといったことは全く規定されていません。逆に言えば、そのように意味を欠落させたコミュニケーションだからこそ、言語障壁や、その他現実のコミュニケーションに付随する―「理想的なコミュニケーション」を目指す立場から見れば―不必要なコミュニケーション障壁を無視し、効率的かつ正確に情報を伝達するツールとなりうるのです。
そしてまた、そのような「はてなスター」的コミュニケーションの仕組みは、そのようなコミュニケーションの仕組みを利用する私達の認知枠組みも変容させるのではないでしょうか。
はてなスターの個々のスターにどんな意味があるか、いくら理解しようとしても、はてなスターの原理上それは不可能です。その代わりに個々のユーザーができるのは、「それぞれの発言に何個☆がついたか」を計測することです。そのようなコミュニケーション様式を強いられることにより、いつしかその個人のコミュニケーション・モデルが、「理想的なコミュニケーション」に侵食されます。つまり、コミュニケーションにおいて相手のメッセージの意味を理解しようとするのではなく、メッセージを「賛成/反対」、「肯定的/否定的」といった二値に符号化し、それぞれの値を計測するというのが、個々のユーザーにおける。コミュニケーション・モデルとして刷り込まれるのです。さらに言えば、そのようなコミュニケーション・モデルは、ウェブという仕組みにおいて行われるコミュニケーションに極めて適合的でありうるのです。なぜなら、意味理解は、相手の属する社会の文脈を共有しておくことが不可欠ですが、符号化・計測は、そのような文脈依存性がまったくないという点で、ウェブ上でのコミュニケーション全体に適用できるからです。
そして、そのようなコミュニケーションモデルが個々人に浸透すればするほど、意味から遊離した記号の連なりを伝達し合うコミュニケーションの仕組みがより効果的に使用され、強化されるのです。
まとめれば、ウェブ上の仕組みと個々人のコミュニケーションがフィードバックしあって、相互に強化しあうと、言えるでしょう。

「理想的なコミュニケーション」が炎上を生む

しかし、実はそのような「理想的なコミュニケーション」を指向するウェブ上の仕組みと個々人のコミュニケーションモデルこそが、炎上という、コミュニケーションの失敗を生み出していのではないかと、僕は考えるのです。
はてブのコメントページの例を示したように、分類の類型によっては「全方位から批判されている」と感じるような状況でも、個々のコメントの意味をきちんと読み取ろうとすれば、必ずしもそうではないと理解することができます。しかし、そのような意味理解ではなく、符号化・計測によってコメント情報を処理しようとすれば、やはり「批判的意見が大多数」としか認知できないのです。
またさらに言えば、そのコメントそれぞれに付与されたはてなスターにおいては、そもそも意味を理解することが原理的に不可能です。ですからその情報は、符号化・計測によって処理するしかない。たとえどんなにスターを付けた個々人がそのスターに複雑な意味を込めたとしても、そのような意味は捨象されてしまうのです。

炎上がなぜメンタルヘルスを傷つけるのか

そして更に、そのような意味を欠落させた二値的評価は、特にその評価が「否定」一辺倒である場合に、その評価される対象に対し、多大なストレスを与えるのです。
意味を含有した多義的な評価ならば、その評価にに対する対応もまた、多義的なものになります。簡単に言うなら、ある批判がなされたときに、「いやその批判はこういう理由で無効なんだよ」と再反論したり、「その批判は誤解ですね。自分が本当に言いたかったのは~」というふうに、相手の理解が誤解によるものであると説明することが可能になるわけです。それは往々にして第三者からは冗長で無意味なものに思えますが、当事者にとっては、批判をやりすごし、逃げ場を用意するという点で、精神衛生的に重要なわけです。
ところが、「肯定/否定」という二値的評価においては、そのように多義的な対応は不可能です。「おまえ嫌い!」というだけの単純な言明には、反論することも、誤解だということもできません。相手の敵意をダイレクトに受け入れるしかなくなるのです。
このような状態は、通常これまでは二極思考(白黒思考)と呼ばれ、病理的な現象とされてきました。そこから、炎上に対して過度な反応をする人は、もともとそのような病理的思考を持っていたのではないかとも、指摘されてきました。
しかし、これまで述べてきたことからも分かる通り、炎上にあった人々が二極思考に陥りやすいのは、その人々の内面に還元される問題ではなく、炎上を含んだウェブ的コミュニケーションの仕組みが、そのような思考に誘導するという、アーキテクチャの問題であるといえるのです。
それでは改めて一番最初の問い。「一体何でウェブ上で炎上することって、そんなに炎上した当人にとってショックなのか?」に回答しましょう。
その答えは一言で言えば以下の様になります。
ウェブ上での炎上は、ウェブの特性上、炎上する人に逃げ場を与えず、ダイレクトに敵意を受け入れるよう迫るものであるから。なのです。
では、その上で、そのようなウェブの炎上によるメンタルヘルスへの負荷をいかに軽減するか、考えていきましょう。

「炎上」の痛みを緩和する処方箋

まず一番最初に思いつく選択肢は「ネット上の反応なんか全て無視する」というものです。しかしそれだったらそもそもネット上においてコミュニケーションを求める意味がなくなってしまいます。
次に思いつく選択肢は「はてなスターみたいな意味のわからないものは無視して、意味を理解できるコメントだけを丹念に理解することによって、二値的評価に陥らないようにする」というやり方です。要するに、ウェブ上だろうがなんだろうが、リアルと同様のコミュニケーションモデルを貫こうとするやり方です。
しかしこれはウェブという仕組みがもたらした現状を無視した意見であると言わざるを得ません。先程も述べたように、ウェブという仕組みは、地域・言語・国家・企業といった枠組みを壊し、万人が万人とコミュニケーションできる環境を形作るものです。そしてその結果として生じるのは、社会という文脈がなかったり、そこにたどり着くのが難しいメッセージが群となって結集する状況です。
再び先程のはてブページを見てみましょう。
はてなブックマーク - インターネットで死ぬということ 1度の炎上で折れた心 北条かや - withnews(ウィズニュース)
人気コメントだけでも10も存在し、しかもそれぞれの文章が短文なため、その意味を理解するためにコメントの文脈を追うのはかなり難しくなっているのがお分かりいただけるでしょう。
例えば下記のコメント

瞑想と運動をしない奴の末路は憐れだ。インターネットという油の海で燃えないためには、健全な肉体と精神が不可欠。お大事に(とあの人なら言うだろう)

???「大脳が壊れて人間になり損ねたメンヘルって事を自覚しよう。これをプリントアウトして病院で診てもらおう。放っておくととんでもない事になるぞ。恐ろしい恐ろしい」(三大せりふ全部入りってこれ1回だけだ

これらのコメントに意味を理解するためには、id:xevraという、「瞑想と運動」「プリントアウト」が口癖のはてなユーザーがいて、その人の口真似をしているということを理解する必要があるわけですが、そのような文脈にどうやってたどり着けばいいのでしょう?
「新着コメント」を見ると状況は更に絶望的です。ざっと見ただけで数百あるコメントそれぞれについて、それぞれのユーザーがどんなバックグラウンドを持ち、それまで過去にどんなコメントをした上で、そのコメントにどんな意味を込めたか理解しようとする……あまりに労力がかかりすぎます。
ではこうしたらどうでしょうか?参加ユーザーを数人から、多くても数十人に限定した上で、コメントするユーザーのバックグラウンドが明瞭なユーザーのみがコメントできるようにする。
これは、先ほど紹介した『ネット炎上の研究』で提言されている、サロン型SNSというものです。詳しくは当該書を参照してほしいのですが、要するに「読むのは誰でもできるけど、コメントできるユーザーはつながりのある個人に限定する」というものです。
これは一定の効果を出しそうですが、しかし一方で現行の「理想的なコミュニケーション」に真っ向から抵抗するもの(新たにコミュニケーション障壁を作るものなわけですから)なため、現行のウェブ上のコミュニケーションに適応してしまったものが馴染めるかという問題もあります。何より一番の問題は、「書き込まれる情報量が圧倒的に(現行の仕組みと比べて)少なくなってしまう」という点です。
『ネット炎上の研究』では、インターネット・ユーザーの多くは、炎上が蔓延している現行のインターネットよりは、サロン型SNSを好むというアンケート結果が提示されています。しかしだとしたら、一体何で炎上を焚き付けるまとめブログなどが未だに蔓延っているのでしょうか?
僕はここに「マクドナルドのヘルシーメニュー」の話と同じ効果が働いているのではないかと思うのです。「マクドナルドのヘルシーメニュー」の話とは以下の様なものです。

http://cyzo.tumblr.com/post/18692530900/日本マクドナルド原田さんアンケートをとると必ずヘルシーなラップサンドやサラダがほしいと要望があって商
cyzo.tumblr.com
炎上に参加してる人は、たしかに全体から見たらごくわずかかもしれませんし、アンケートを取れば炎上を嫌がり、炎上なんかなくなればいいと答える声が多数はかもしれません。しかしそこに人々の本心があるかどうかは、慎重な検討が必要でしょう。どうせ読み書きするならより多くの情報が書き込まれる場所を選ぶでしょうし、その点で言うなら、書き込みできる人が限定されているサロン型SNSは、書き込みユーザーが限定されない、twitterはてなブックマークとくらべて圧倒的に不利なのですから。
上記の方法は、ウェブ上でのコミュニケーションの有り様を変えるという選択肢ですが、それに対し、ウェブ上のコミュニケーションはもはや所与のものであると断念しながら、そのようなコミュニケーションにおいてもメンタルヘルスに負荷をかけないマインドセットを探るという方法もありえます。
その中でも一番代表的なものは、「ウェブ上でのコミュニケーションとは別に、リアルでコミュニケーションの回路を確保しておく」というものです。これは、今まで会ってきた人のことを考えると、効果的なように思えます。ウェブ炎上でメンタルヘルスを害する人の多くは、ウェブ上でしかコミュニケーションの回路が確立されてなかったり、「ウェブの私が本当の私」というように、ウェブ上でのコミュニケーションが本流であると考えている人が多いからです。逆に、「ウェブなんて所詮お遊び、リアルでの友達付き合い・ビジネス関係こそが本流」と割り切ったりしているひとは、ネット上でいくら炎上しても、それほどメンタルヘルスに負荷を感じなくて済むことが多いのです。
一番最初に例として示した北条かや氏も、下記のように述べ、ネット以外での居場所の大切さを述べています。

誰に何を評価してもらうのが目的だったんだろう

 本当は見ていなかっただけで、私が存在していい場所は、ネット以外にも沢山あったはずなのに。家族、友人、取引先の人たちなど、顔の見える関係のありがたさを当時は意識できていなかった。そういう場所よりネットでの評判を気にして、ネットの中で勝手に「北条かやの価値」を決めていた。

 入院生活を経験し、私はネット以外の居場所があることにようやく気がついた。院内で友人もできたし、彼、彼女らと話すことで落ち着いたり、癒やされたりすることが何度もあった。

 どうして今まで気が付かなかったのだろう。北条かやは、今までどこで何をしていたんだろうと不思議な感覚に陥った。私の仕事って何だろう。誰に何を評価してもらうのが目的だったんだろう。

しかしその一方で、これは所詮、ウェブ上以外に社会関係資本を持つことができ、ウェブに頼らなくても生計を維持することができる、強者の生存戦略ではないかということも、言えます。
ただその一方で、そのようなオルタナティブな居場所の確保を、むしろウェブを用いて実現するという選択肢もあるのではないでしょうか。ウェブは、たしかにその理念においては、「理想的なコミュニケーション」を目指すものとして設計されましたが、しかし一方で、その仕組みをハックし、ウェブ発の「理想的でないコミュニケーション」を実現するということも、もしかしたら可能なのかもしれません。
現状のクローズドなSNSでは駄目なのか?という声もあるでしょう。しかし現状のクローズドなSNSは、多くの場合、すでにリアルで培われたつながりを補助するものであったり、あるいは利用するユーザーのコミュニケーション・スキルに依存したものでしかないように思えてならないのです。コミュニケーション・スキル(≒文脈を「読む」力)を必要としないコミュニケーションを厳格に求めようとすると、結局「理想的なコミュニケーション」に陥らざるをえないので、そこはアポリアといえるのですが、ウェブ上に新たな「文脈」を構築することが可能になれば、そのアポリアも解決できるのではないかと、考えたりするのです(理念型以前の、夢想の段階の話ですが)。

最後に

誤解を招きそうなので一応言っておくと、僕は別に、メンタルヘルスに全く問題のない人間でも、一旦ウェブ上でコミュニケーションを取ればとたんに病気になってしまう、ウェブっていうのは恐ろしいものなんだよと主張したい、わけではありません。
自分も含めて考えてみると、やっぱりネット上での炎上を過度に気にするのは、その背景に、ネットへの病的なアディクトがあるといえるでしょう。だから、そのような人々が炎上ででメンタルヘルスを害するのは、もともと抱えていた病気が顕現しただけ、病的なアディクトこそが問題であり、炎上は過程にすぎないというように言ってしまうことも、もちろん可能です。
しかしここで僕が思うのは、ある程度病的であったり、普通の人よりひ弱だったり、障害を持っていたりしても、そのことを持ってコミュニケーションの場から疎外されてしまうというのは、どんなに形式的に「理想的なコミュニケーション」だったとしても、民主社会にふさわしいコミュニケーションとはいえないのではないか、ということです。
「コミュニケーションの場に参加できる権利」というのも、実は全ての人々に保証されるべき重要な権利ではないのか、この文章は、そのような観点から記されたものなのです。

*1:特にはてなブックマークが舞台の炎上の場合

*2:はてなブックマークのページは取得日時によって内容が変わるため、分析対象を固定するために取得

*3:詳しくは紹介した本を読んで下さい。ここからの二節は、ほぼ上記の本の僕なりの解釈です

ラブライブ!サンシャイン第一期最終回をあえて擁護する

いやー、ひどかったですね第一期最終回(笑)。
一応補足しておくと、それまでのラブライブ!サンシャインは個人的に百点満点中120点ぐらい大好きで、聖地巡礼にも行ってのっぽパン買ってきたし、CDも揃えちゃうぐらいです。好きなキャラは善子ヨハネです。ってそれはどうでもいいか。
で、まあそんな僕だけど、最終回は正直……特になんか劇が始まった時点から( ゚д゚)という感じでした。
で、なんでこうなっちゃったかなー、これで最終回が良ければ絶賛だったろうに、掲示板とか荒れちゃうだろうなーとか思ってたんですが、冷静になって考えてみて、まあ最終回がああなっても仕方なかったのかな……と思う理由を、3つほどこじつけた考えてみました。
その3つはこれです。

  1. 最終回でコケるのが名作の条件
  2. 同じ学校の生徒たちを巻きこむ
  3. ハマっているファンを現実に帰還させる

それぞれについて解説していきます。

1.最終回でコケるのが名作の条件

これについては僕がグダグダ言うより、吼えろペン8巻を引用したほうが分かりやすいので引用します。

f:id:amamako:20160925001811j:plain
まあ、そういうことです。それに最終回あたりでは、色々抱えてた問題も解決して、特にやらなきゃならないこともなかったんだし、いいじゃないですか。これが1話とか重要な回でやられたら目も当てられないですよ。うん。

2.同じ学校の生徒たちを巻きこむ

最終回を見ていた人なら分かると思いますが、最終回では9人だけではなく、学校のクラスメートみんなが集まって、Aqoursに参加したいと言う、そんな展開がありました。
そういう展開があること自体は良いんですよ。ていうかそれ自体は感動的じゃないですか。沼津の学校みんなが一丸となってAqoursを応援してくれる、そんな熱い展開なんですから。一貫して「地域の絆」がテーマであったラブライブ!サンシャインにふさわしい展開です。
ただ……沼津の学校のみんなは、Aqoursを応援してくれるけど、それまでAqoursがどんな体験をしてきたかとかは全然知らないわけですよ。
そこにあの寸劇がくる、それによって沼津の学校みんなが、Aqoursがどんな体験をしてきたか追体験し、経験を共有することによって、真に一体感を感じることができるようになるんです。だから、あの寸劇に物語上の必然性はあったんです。
……でもまぁ、そのAqoursがどんな体験をしてきたか既に重々承知の、私たち視聴者にとって、退屈以外の何物でもないということは、変わらないんですけどね。

3.ハマっているファンを現実に帰還させる

でもまあそれで良かったと思うんですよ。
もしこれが最終回もこれまでと変わらず傑作だったらどうしますか。のめり込みすぎてもう他のアニメなんか見られなくなっちゃいますよ。毎週土曜日には「今日はラブライブ!サンシャインの日だー」と幻覚を覚えるようになり、沼津から帰ってこれなくなっちゃいます。
でも、こうやって最終回で盛り下がることによって、私たちは現実に戻ってきて、「さーて来期のアニメは何見ようかな」とか考えることが出来るんです。これはむしろ温情というべきでしょう。

まとめ

色々グダグダ言ってきましたが、言いたいことはこれです。
「第一期最終回が嫌いでも、ラブライブ!サンシャインのことは嫌いにならないでね」と。
何度も言いますが、最終回以前のラブライブ!サンシャインはほんと素晴らしかったんですよ。少女たちの絆、地域の絆がよく描かれ、些細な事から始まるすれ違いや、それを乗り越えていく過程は繊細だけど力強いものだったし、特に善子ヨハネの回なんかは、思春期のちょっと変わった女の子の内面がかわいく描かれていて、本当にいいんですよ。
だから、そんな素晴らしい物語を12話も堪能したんだから、最後ちょっとぐらいコケたって、まあいいじゃないですか。かならず来るであろう、二期に期待しましょう。





でもまあ、二期で同じようなことやったら流石に擁護しきれませんけどね。

「反省したいじめ加害者のことを『許さない!』と、いじめ被害者が主張するのは、危ない思想(by山本弘)」なのか

先日、こういうtwitterまとめをtogetterで作成しました。
togetter.com
上記のまとめには賛否両論様々な意見が寄せられていて、そのどれも真剣に考えなきゃいけないなと思ってるところです。
ただ、その一方で、小説家の山本弘氏がした発言が、僕にはどうしても納得行かないものでした。
その内容はこちらです。
山本弘 on Twitter: "あのさあ、いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと、加害者側から被害者側に転落し、自分のやったことを悔いている主人公を「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、..「『聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノなのか」 https://t.co/NPrOtylQoJ"

あのさあ、いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと、加害者側から被害者側に転落し、自分のやったことを悔いている主人公を「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、すごく危ない思想だと思うぞ。

『聲の形』という物語が実際にそういう物語構造なのかは、まとめを読めば分かる通り諸説あることなのでとりあえずおいておきます。
この発言に対する僕の疑問はこうです。
いじめ被害者が、例え更生し、十分に反省したとはいえ、いじめ加害者のことを「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、「危ない思想」として否定されなきゃならないことなんだろうか?

山本弘氏は、自らの発言の最初で「いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと」と言っています。これはつまり、自分は、十分更生したなら、たとえ自分をいじめたいじめ加害者でも許すということでしょう。もちろん、山本弘氏が自分自身の意志でそういう選択をすることは否定しません。
僕が「おかしいんじゃないか」と思うのは、そうでない考え、つまり「自分はいじめ加害者が例え更生したとしても、その人のことを許しはしない」という、自分の考えと異なる考えを、「危ない思想」として否定することです。
当たり前のことですが、一口に「いじめ」と言っても、その内容はそれぞれのいじめによって大きく異なり、そしてそれによって被害者が受けた苦痛も、大きく異なっています。
そんな中で、自分がいじめ加害者を許せるからって、他のいじめ被害者にも、「俺のように、きちんと反省して更生したいじめ加害者は許してやりなさい」と、許しを強要することは、すごく暴力的なことではないでしょうか。
むしろ僕はこう考えます。「いじめ加害者を許すか許さないか、それを決められるのは、そのいじめを受けた被害者本人であり、加害者や第三者はあくまでその意思を尊重すべきではないか」と。
こう考える理由は2つあります。
一つは、まず何より、いじめにおいて悪いのは加害者であり、それによって尊厳を傷つけられたのは被害者なのだから、被害者の意思こそが優先されるべきではないかという理由。
そして二つ目に、いじめという暴力は、まず何より被害者から、自分の状況に対するコントロール権限を奪うものであり、そのような状態を回復するには、「許しを与える」という行為に対するコントロール権限が被害者のものであるということを、大前提として確認しなければならないのではないか、という理由です。
それに対して「いじめ加害者への許しを強要する」ということは、まず第一に、被害者にも譲歩すべき点があるというメッセージにより、加害者が悪いという大前提を崩しますし、第二に、結局誰かを許す/許さないという自己決定すら、その状況に委ねるという点で、被害者から自己決定権を奪った、いじめという状況の再生産に他ならないんじゃないかと、僕は考えるのです。

ここで少し自分の話をしましょう。
自分もまた、かつていじめ被害者でした。ただ、そのいじめがどんなものであったかは断片的にしか覚えていません。それはおそらく、僕が「許し」でも「憎み続ける」でもなく、「忘却」を選択したからでしょう。いじめのトラウマをいつまでも抱いて、それに囚われるよりは、忘れてしまっていたほうが、何よりも楽ですから。
しかしこれは、いじめ加害者を「許す」ということとは大きく異なります。もしいじめ加害者が、忘れている今頃やってきて、「昔のことだし俺も反省してるから許してくれや」とか言われても、何言ってやがるとしか思わないです
ただ、だからといっていじめ加害者自身に復讐しようとは思いません。それよりも、いじめという状況を生み出す現在の教育、特に学級制度(クラス制度)を憎みます。いじめが起きたら、速やかに加害者を「犯罪者」として処罰すること。また、いじめを生み出す温床となる、同質的コミュニケーションを強要する、現行の学級制度(クラス制度)を解体し、現在の学級が、授業の時にだけ集まって、それ以外の生活面に侵食してこないような制度に改革するということ。この二点こそが重要だと考えるのです。
なお、学級制度の解体についてより詳しく知りたい人は、下記リンク等を是非参照してください。
学校からクラスを撤廃せよ
matome.naver.jp
togetter.com
ただ、ここは重要なので何度も繰り返しますが、僕がいじめという経験を経て、教育制度の改革という方向を指向しているからといって、全てのいじめ被害者に、いじめ加害者を憎むのではなく、その背後のシステムこそを憎めとは、決して強制したくないのです。システムなんかどうでもいい。俺はいじめ加害者が憎いんだという、そういう声も含めて、全てのいじめ被害者の声がきちんと受け止められる、それこそが、いじめにNOと言う社会の大前提となると考えるのです。

戦後責任論 (講談社学術文庫)

戦後責任論 (講談社学術文庫)

「『許し』を与えるかどうかは、あくまで被害者が決めることで、加害者が許しを強要するようなことがあってはならない」というのは、戦争責任論、特に日本の戦争における加害責任においても、重要な考え方だと思っています。

お手頃に承認欲求が満たされる時代

かつて、「承認欲求をいかに満たすか」みたいなことが、ブロゴスフィアで盛んに議論されていた時代があったわけだけれど、
昨今はむしろ「勝手に満たされてしまう承認欲求にいかに甘えないようにするか」が、問題なんではないだろうかとか、思ったり。
例えば、twitterやらfacebookとかで何か、世の中では賛否両論あるようなことをつぶやいたとする。
で、ある程度のフォロワー数がいれば、その中にはいつもふぁぼなりRTなりいいねなりをしてくれるありがたい人っていうのがいるわけで、でまあそういう時、だいたいそういう人はふぁぼとかしてくれるわけだ。
で、そのふぁぼとかを見て、人は―というか自分の場合は―まあ気分よくなって、「ああやっぱ自分の意見に賛同してくれる人っているんだな」と、承認欲求を満たされるわけだ。
ほんと、お手頃に承認欲求が満たされる時代になったよなぁと思うわけですよ。
いやもちろん、検索して探そうと思えば、そのようなポジティブな反応ではないネガティブな反応っていうのも見つかります。でも、まーある程度ネットで発言するのになれちゃった人って、そういうネガティブな反応は受け流して、ポジティブな反応により多く反応するような心的機制が身についちゃってるもんでしょう。もちろん倫理的にはネガティブな意見こそ真剣に拝聴すべきものなんだけど、でもそんなこといちいちやってたら早々心が折れちゃうわけで、良くも悪くもそういう心的機制は、たとえ倫理に反しても、身についちゃうものなんじゃないかなぁ。
というか、個人の視点に立てば、そういう自分のメンタルを防御する試みってのは、そんなに悪いものではないと思うのよ。ネット上での発言を生業にしたりする特殊な人なら違うかもしれないけど、多くの個人は別にネットにそこまで人生かけてないわけで、余暇としてやる分には、そりゃあメンタルにいいやり方でネットライフを楽しんだ方がいいに決まってる。
で、さらに言えば、そうやって似たような意見を持つもの同士が寄り集まって相互承認するようにすれば、マイノリティな意見を持つ人たちでも安定的に意見を発することができて、結果としてインターネット全体に流通する意見が多様化するわけで、実は大局的に見ても、こういうお手軽に承認欲求が満たされてしまうシステムは、そんなに悪くはないとも思うわけですよ。
でも、やっぱりなんかこう、「それで本当にいいのか」とも思うわけで。
僕の持つ意見、それに対して違う意見を持つ人がいる。だったら、いったいどっちの意見が正しいのか、本気で、言葉を拳にして、殴り合わなきゃいけないんじゃないか。そしていったいどっちが正しいのか、きっちりと決着をつけないといけないんじゃないかと、思うわけです。そしてそのためには、ポジティブな反応なんかより、むしろネガティブな反応にこそしっかり向き合い、それと対決しなきゃならないんではないかと。
でも、そう思いつつも、やっぱりお手軽に承認欲求が満たされる、SNSでのポジティブな反応集めから逃れられない自分がいて。
「そんなんじゃだめだ、もっと生きるか死ぬかの戦場で戦わなきゃ」と思う自分と、「もうそんなのいいじゃん、ぬるく生きようよ」と思ってしまう自分。二つの自分の間で葛藤に悩む、そんな今日この頃なんです。

シン・ゴジラという「癒やし」の物語

今週のお題「映画の夏」
というわけで、どうやら最近はてな界隈ではシン・ゴジラの記事を書くとアクセスが集められるそうなので、アクセス数に囚われたものとしては是非記事を書かねばなーと思い、映画を見てきた。
最初に言っておくと、僕はこの映画、あんまり面白いと感じなかった人間である。まあ理由は単純に、官僚組織とか建造物・重機とか特撮とかといった、この映画が用意した萌えポイントが、ことごとく僕にはヒットしなかったということである。逆に言えば、こういったものが萌えポイントの人は、見に行って存分に萌えればよろしい。以上。エチケットペーパー敷き終了。
だが一方で、そういう個々の萌えポイントとは別に、物語構造として、そーいうのが今の日本人は好みなんですねーと思う点があった。それは、
「組織への信仰」
である。

ゴジラ」v.s.「官僚機構」?

この映画、登場人物は一応色々いるのだが、そのどれもが類型的な範疇をでることがない。政治家・官僚は出世欲は持つけど真面目、科学者はコミュニケーション能力に難のある天才、外人(あえて「外国人」ではなく)は高飛車。誰もが登場した時点で予想される型どおりの行動をする、
まー、もともとこの映画の総監督庵野秀明は人間が描けないことで有名なので、個性的で予想を裏切るようなキャラクター造形など期待もしていなかったので、それはそれでいい。
問題は、キャラクターが類型的な行動をしない以上、一体何が物語を動かす役を務めるかという点だ。
もちろんその一つは「ゴジラ」である。だが、ゴジラがただ暴れるだけの映画では、せいぜい短編作品にしかなりえない。ゴジラに対抗する役、この作品でそれは政府、それも「官僚機構」ということになる。つまりこの作品の主役とは、「ゴジラ」と「官僚機構」なのだ(ここまでは、映画を見た人なら誰しもが同意してくれるだろう)。
もちろん、実際怪獣が現れたら、政府という「官僚機構」が相手になるのがリアリティある表現だろうから、それ自体は何の問題もない。問題なのは、そこで「官僚機構」があくまでも正しい行動を取ろうとする存在であるということだ。
もちろん劇中でも官僚機構が間違える場面はある。だが、その間違いはあくまで官僚機構の力不足によるものであるとされ、官僚機構自体の善性は決して疑われない。ゴジラ」は人々を襲う悪い怪獣、「官僚機構」は人々を守る良い怪獣というわけだ。
これはあまりにナイーブすぎる考えではないだろうか?様々な清濁を飲み込んだ上、それでも逡巡の先で、「官僚機構」の善性を信じるというのなら、(僕の思想とは異なるが)まだ納得できる。例えば、よくこの映画と似ていると評される*1踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』という作品では、そのあたりの逡巡が作品のメインテーマとして描かれていて、僕は結構好きな作品だ。

だが、『シン・ゴジラ』という作品においてはそのような逡巡は全く見られず、一貫して「官僚機構」は善良で、疑われることのない絶対不可侵な存在として扱われる。これは一体なぜか?「作品のメインテーマではないから」というのも答えの一つだろう。では、仮にそうだとして、ではなぜ多くの『シン・ゴジラ』を絶賛する観客は、この点に違和感を感じないのか。
それは、多くの人が、この映画を3.11以降の「癒やし」の物語として、受容したからではないだろうかと、僕は考える。

「学園エヴァ」としての「シン・ゴジラ

「癒やし」とは、一見すると怪獣映画とは最も程遠いキーワードに見える。だが、それを言うならこの映画を絶賛する人々の口上こそ、「元気をもらった」、「前向きな気持になった」というような、怪獣映画を見た人々の感想とは思えないものばかりだ。
なぜ人々は『シン・ゴジラ』を見てそのような感想を抱くのか。それは、3.11以降、人々が不安に思う現実それぞれに対し、そのような不安が存在しない、「こうありたかった3.11以降の日本」を幻視させるからなのだ。
官僚機構はあくまで優秀で、その中にいる個々人は公益のためにしっかり働いて、決して悪いことを考えない。放射線は短期間で消えてしまう。いざとなったら国民は(一部のデモやっているような非国民を除いて)一致団結する……そういった、多くの国民が「こうありたかった」と願うような、3.11以降の日本を幻視させて「癒やし」を与える、そのためには官僚機構ははなから善性のものでなくてはならなかったのである。
いうなればこの映画は、庵野秀明フィルモグラフィーでいう「学園エヴァ」のようなものなのだ。「こうなってほしかったエヴァ」を充足するものとして「学園エヴァ」が提示されたように、「こうなってほしかった3.11」として、『シン・ゴジラ』が存在する。ただ、「学園エヴァ」においてはあった、そのような「癒やし」を求める主体の欲望に対する批評的目線は、今回の作品においてはもはや存在しない。

「癒やし」ではなく、現実と立ち向かったアメリカ

このようのことを書くと決まってこういう反論が来る。「映画なんて所詮エンターテイメントなんだから、楽しいことだけ描いて何が悪いのさ」と。
もちろんエンターテイメント作品なんだから、楽しくなければそもそも見てもらえない。だが、楽しさの中にだって、「癒やし」とは全く違う「楽しさ」だってあるんじゃないだろうかと、ぼくは思うのだ。
そのいい例が、映画『キャプテン・アメリカ』、それも特に2作目『ウィンター・ソルジャー』と

と、3作目「シビル・ウォー」だ。
キャプテン・アメリカ」は、それこそ日本のゴジラに匹敵するような、アメリカのサブカルチャーの原初にあるキャラクターだ。当然、それを現代において再始動させるなら、9.11以降の混迷するアメリカにおいて、悪を討ち善を助け、人々に「こうでありたかったアメリカ」を見せる、単純明快な勧善懲悪ヒーローにもできただろう。なにしろ国名を名前に持つヒーローなのだから。
だが、映画『キャプテン・アメリカ』の、特に現代を舞台にした2作目と3作目は、単純な勧善懲悪物語とは全く異なる、むしろ現代のアメリカが抱える問題と正面から向き合う、そんな作品だ。一応敵キャラは登場するのだが、むしろそれよりも、自分たちが属する組織の闇との対決を迫られる、キャプテン・アメリカはそんななかで、「組織に属する中で正義は一体どうすれば成し遂げられるか」といった問いを、エンターテイメントの中で、視聴者に突きつけてくる。
もしかしたそこにはアメリカと日本の国民性の違いもあるのかもしれない。まず最初に自立した個人が存在し、その個人が集まってある目的のために組織を結成するアメリカと、最初に組織ありき、むしろ組織を作ること自体が目的化する日本。
だが、例えいま日本がそうであったとしても、変わることは可能だろう。というか、たとえそれがどんなに「癒やし」とは程遠くても、変わることが、3.11以降の日本においては、絶対必要なのではないか。それこそが、真の意味で、「日本に勇気を与える」ことではないのか。
というわけで、この映画の夏、あままこのブログでは、『キャプテン・アメリカ』を見ることを、是非、おすすめします!(アレ?)

*1:僕からするとぜんぜん違うのだけれど

問題は、いかに「政治性」にポピュラー音楽が向き合っていくか

フジロックの1ステージに運動家が登壇するとかでなんかネット全体がかしましいですね。
まーまず最初に素朴な感想として、そもそもフジロックは元からそういうものを内包したイベントだし、政治性が脱色されたイベントに行きたければそれこそサマソニとか色々他にも選択肢はあるわけで、わざわざフジロックに行きながらそういうことを言うっていうのは、なんかこってりラーメンが売りの店に行って「このラーメン油多いよー」と言っているような、そんな間抜けな印象しか受けないわけですが。
ただ、一方で、いくらこってりラーメンだからって、油をただ入れれば美味しいこってりになるわけじゃない*1わけで、ただ自分と異なるイデオロギーの人が居るから文句を言っている人はさておき、フジロックでそうやっておためごかしに「環境保護」「平和」みたいなものが大上段に掲げられると、辟易してしまう、その辟易の結果として、稚拙な言い方だとは思いますが、「音楽に政治性を持ち込むな」みたいなことを言っちゃう人も一定数居るんじゃないかと、思うわけです。
で、そういう形の辟易なら、僕も、共感する部分がないわけでもないのです。
ただ、それを「音楽に政治性を持ち込むな」みたいなスローガンにしちゃうのは、やっぱりおかしいわけです。問題とされるべきは、音楽に政治性を持ち込むことそれ自体の是非ではなく、音楽に否応なしに付随してくる政治性を、いかに表現するか、表現方法、つまり言葉の問題なのではないでしょうか。

*

よく日本のポピュラー音楽についてこういうことを言う人がいます。「日本には諸外国と違って明確な階級意識みたいなものがなかった。従って日本のポピュラー音楽に政治的な主義主張はない」みたいなことを。例えばこんな記事。
ロックと政治と飯 - あざなえるなわのごとし
ですが、階級とかメッセージ性とか、そういうものを全面に出すことだけが、「政治的」なのでしょうか。僕はそうじゃないと思うんですね。
例えば上記の記事では「個人主義的な愛や恋」が、政治性というものと対比されているわけですが、しかしロマンチック・ラブ・イデオロギーや、LGBTの問題等でも分かる通り、どんな人を、どんなやり方で愛すかみたいなことほど、「政治」に満ちあふれていることはないわけですよ。それこそ、上記の記事で孫引きされている「噂だけの世紀末」

MESS/AGE

MESS/AGE

の紹介元の「ニッポン戦後サブカルチャー史」で紹介されていた、ダムタイプの「S/N」、

dumb type S/N 1/2
という作品、これなんかまさに「愛や恋」の問題を取り上げている作品なわけですが、これが政治的でないとなぜ言えるのか。
さらに言えば、愛や恋といった問題にかかわらず、これから自分は一体何を目指して生きていけばいいんだろうという自意識の問題や、明日学校や会社で顔を合わせるクラスメートや同僚と、どう付き合えばいいんだろうという問題だって、その元を考えていけば、決して個人の内面だけの問題ではなく、社会がどのようにそのような自意識やコミュニケーション形式のロールモデルを形作っているかという点で持って、社会的・政治的な問題なのです。
だから、日本のポピュラー音楽が、政治性を持ち得なかったなんて言えなかったとは、決して僕は思わないんですね。というかそもそも、政治性のない音楽なんてものは存在しない。問題は、そこで政治性が“いかに”表現されるかという点なのだと、僕は考えるのです。

*

ただ一方で、このような政治性が存在することへの「気づき」は、それこそ上記の記事を例に出すまでもなく、日本のポピュラー音楽においては、作り手・受け手ともに、ほとんどなかったというのも、日本のポピュラー音楽の実情ではあるわけです。
もちろん例外はあります。それこそ日本のヒップホップなんかでは、よくも悪くも自分の現在の状況を意識的に社会性に引きつけて歌うような曲が多くあります。それは時には「ナショナリズム」みたいな形をとることもあったにせよ*2、とにかく自分の個人的内省のなかに、社会性・政治性への萌芽を見出してきたわけです。
ところがポピュラー音楽の多く、特にロックやポップスという分野では、依然として「個人的な問題/政治的な問題」みたいな、カビが生えたオールドリベラルチックな二分法でもって物事が理解されてしまっている。そんな二分法に囚われたまま、いきなり政治的な音楽を紡ごうとしたって、そりゃあ個人の肌感覚から遊離したものになってしまうわけです。
いや、別に良いんですよ。いきなり憲法9条を朗読したり、原発反対とか叫んだって。それが自分の語る言葉として語られるなら。でも、そうじゃなく、借り物の言葉を振りかざして、それに曲を合わせてるだけにしか見えないケースも多々あるわけです。本当にその言葉が、そのアーティストの内面から語られた言葉なのか、それに気づかないほど受け手は鈍感ではないわけです。
平和の問題にしろ環境の問題にしろ、重要なのはそれを「我がことの問題」として、自分の言葉で語られているか。例えば平和の問題なら、ただ平和大事と言うだけでなく、例えば日常生活で会う、自分が絶対許せないようなひと・ことを見ながら、それを権力や暴力で解決せずに、いかに共生していくか、そういった事柄から語っていったり、環境の問題なら、自分が普段どのようにテクノロジーというものと向き合っているか考えていったり、そういう等身大の問題から語られるべきではないか。
さらに言えば、平和や環境といった問題だけが「政治」ではありません。先程も言ったように、自分がどのような存在であるか自己認識する自意識の問題や、コミュニケーションの問題だって立派に、「政治的」なことのはずなのです。そして、多くの人はむしろそういった問題に日々悩んでいるわけです。だとしたら、そういった事柄について、政治性・社会性、いかにそこに社会的な規範というものが存在するか、または存在しないか、そしてそのような社会が、ある意味では導き、ある意味では押し付けてくるような規範に、どのように向き合うか、そういったことこそ、現代日本のポピュラー音楽で言葉が紡がれるべき、「政治」の問題ではないか。
フジロックというイベントが、「政治性」というものに自覚的であるならば、平和とか環境とかを語るのも結構ですが、こういう問題だって、語られるべきなんじゃないか。むしろこういう問題こそが、言っちゃあ悪いですが、自意識をこじらせたような人が大勢集まるフジロックに重要な、「政治的問題」なんじゃないかなぁと、僕は思ったりします。

*1:いや、こってりラーメンはある意味油の多さだけで美味しさが決まっちゃうかもしれないけど

*2:日本語ラップとナショナリズム “不良映画”から読み解く思想の変化とは?|Real Sound|リアルサウンド等参照

さよならサブカルチャー

仕事を退職して暇なので、甘いあまいサブカル自意識地獄 ハセガワケイスケ『いのち短しサブカれ乙女。』 - 小説☆ワンダーランドで紹介されていた『いのち短しサブカれ乙女。』なる小説

を読んでいました。
いやー、ノアちゃん(この小説に登場しているサブカル女子*1)の言葉の一言一句が、いかにもサブカル女子らしいパワーフレーズばっかりで、こういう痛い女の子が大好きな僕としては、ゲラゲラ笑いながらいちいちセリフに傍線を読んで一気読みしてしまいました。傍線引きながら小説読むとかはじめての経験ですよ……
具体的にどんなパワーフレーズがあるかといえば、例えば、いつも被っているベレー帽について聞かれた時に

「なんちゃってオシャレアイテムで流行に乗って何の魂もなくベレー帽を頭にのせてたやつらはみんないなくなった。そして真に魂の権化のごときベレー帽をかぶった、いやベレー帽に選ばれし者だけが残った……――それがつまり、サブカルよ」

と、そこまで聞かれてもいないのに長々と演説したり、ノアちゃんの友人である主人公「わたし」がふと浅野いにお作品を手に取ると、いきなり

浅野いにお先品はね、サブカル好きの登竜門でもあるの」
「そうなんだ」
「数々のすばらしいサブカル好きの先人たちを生み出したそうまさにサブカルバイブル。しかし――」
ノアちゃんは苦々しく唇を噛みしめる。
「と同時に! サブカル糞野郎へのとっかかりでもあるんだよ!」
えっ!
「残念ながら勘違いしたファッションサブカルどもがハイエナのごとくいにお臭をかぎつけ我も我もと群がってきやがったんだもの!」

と、ファッションサブカルへの憎悪を爆発させたりする。かと思えば見ているゲーム実況動画のゲーム*2のヒロインが死んだ時には

iPhoneを手からこぼすように床に置いて、ノアちゃんは大きなため息をついた。
「……逝ってしまわれた。」

なんてあざとい可愛らしい様子を見せる。こんな痛い女の子、もう萌えるしかないでしょ!分かるでしょ!?あ、分かりませんか、そうですか……
とにかく、僕は小説読んでる間ノアちゃんに萌えっぱなしだったわけですが、一方で読んでる内に、こんな思いもしてくるわけです。
「こういう女の子が、特に現実を見せつけられもせず、優しい世界で『日常系』できる、今って―良くも悪くも―そんな時代なんだよなぁ」と。

「厳しい世界」から「優しいセカイ」へ

だって、こういうサブカル系の痛い女の子が登場する作品では、ほとんどの場合、それこそ『ヤサシイワタシ』

やら、『ヨイコノミライ』やらのように、ひどい仕打ちを受けるような作品ばっかなんですもの。正直小説を読んでてラストに至るまではずっと、ノアちゃんもこういう作品みたいに手痛いしっぺ返しを受けるんじゃないかとハラハラしちゃうわけです。
しかしそうはならないわけです。むしろ、ノアちゃんの回りにいるのは、ノアちゃんを素直に尊敬していて、"サブカルではまったくないんだが、しかし自分のサブカル趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らないサブカルの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる"ような"都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女"である、主人公の「わたし」ちゃんを筆頭に、理解ある人たちばっかりで、水を差してくるような敵キャラは全くいないわけです。そういう点では、それこそ『中二病でも恋がしたい!とか、あるいは『げんしけんとかの作品における「中二病」・「オタク」というのがそのまま、「サブカル」に置換された作品であると言えるかもしれません。

現代のサブカルは「キャラとしてのサブカル」である

さて、多くの場合、前者のような「痛さに厳しい世界」を描く作品のほうが、後者のような、「痛さに優しいセカイ」の作品よりリアルであるとされて、後者のような作品は、物語の中の都合の良い世界とされてしまうわけですが、でも僕は、むしろ現代においては後者のような作品のほうがリアルであると、そう思えてならないのです。
どういうことか。つまり現代のコミュニケーション状況とは、どんなに痛いキャラクターであっても、その「痛いキャラクター」から逸脱せず、また他者のキャラクターを否定しない限りは、その「痛さ」でさえ許されて、ひとつの個性として認められてしまう、そんな「優しいセカイ」なのではないかということです。
それは、良い面もあれば、悪い面もあるでしょう。良い面としては、それこそ手ひどい目に合わずに誰もが、そこそこ優しい世界で、自分のキャラに沿って自分の趣味に没頭することが出来るという点がそうです。しかしそれは逆に、それぞれのキャラが固定化され、そのキャラから逸脱する可能性が、最初から排除され、成長、または変容のチャンスが失われてしまうということです。それは「サブカル」という文化そのものにも言えることで、「キャラとしてのサブカル」が認められる、しかしその時点で、そのキャラから逸脱して、他の文化クラスタ―それこそv.s.オタクというような―にけんかを売って、打ちのめしたり打ちのめされたりして、その中で文化自体が成熟・変容していくチャンスが奪われていくということでもあります。
このような「キャラとしてのサブカル」についてどのような評価を下すかは人それぞれでしょう。僕個人としては、そこに一抹の寂しさを感じざるをえないところもあります。ただ、よくも悪くも、現代の「サブカル」とはこういうものであるということを、『いのち短しサブカれ乙女。』という小説は象徴しているのでは、ないでしょうか。

アーバンギャルド - さよならサブカルチャー

*1:というラベリングを当のキャラクターは嫌がっているわけだけど、でもサブカル好きな女子なんだからサブカル女子じゃん

*2:ゲームを実際にやっているんではなく、ゲーム実況動画を見てるというのが、実に今のサブカルっぽい浅さでいいよね……

僕の世代の最良の精神たち

id:debedebeの死 - ゆうれいパジャマ
にて、id:debedebeさんが亡くなったことを知る。

debedebeさんとは、7、8年ぐらい前*1に、「ゆとり世代部」という、同年代のはてな界隈の人でつるむ、よく分からない集まりのオフ会で、何度か会ったことがあり、そこで結構お話とかしたことがある。

その当時の印象としては、「こんな面白い変な人がいるんだ」というもので、まだ地方の大学で、平凡な狭い世界しか知らない僕は、結構衝撃を受けたりした。

当時のはてな界隈は、debedebeさんに限らず、とにかく変な、社会からちょっと……いや、大分ズレた人々の集まりだった*2。そんな中でもdebedebeさんは、一番最初の記事で紹介されている「あたし状態遷移図」にしてもだけれど、自分からアピールをしなくても、その異才にみんなが勝手に注目していくというような人だった。

そんな存在がなくなることにより、世界はまた1つ色をなくし、つまらなくなってしまったのかなと、思う。


ちょうど最近読んだ本の中で、今の気持ちと共鳴するような詩を見つけたので、一部引用しつつ、故人に捧げる。
ギンズバーグ詩集

吠える


僕は見た 狂気によって破壊された僕の世代の最良の精神たちを 飢え 苛ら立ち 裸で 夜明けの黒人街を腹立たしい一服の薬を求めて のろのろと歩いてゆくのを
夜の機械の 星々のダイナモとの 古代からの神聖な関係を憧れてしきりに求めている天使の顔をしたヒップスターたち
ある者らは 金もなく ぼろぼろのシャツを着て うつろな眼でタバコをふかし 寝もせずに 湯も出ないアパートの超自然的な暗闇で 都市の上を漂いジャズを瞑想していた


〜〜


いま気違いは浮浪し 天使は羽ばたいている まだ記されていない未知よ 死の後に来る時の中にいうべきことを書きしるす
バラがバンドの金色の影の中で幽霊のようなジャズの衣装をまとって復活する エリ・エリ・ラマ・ラマ・サバクタニ 愛に飢え渇いたアメリカの精神の苦痛を訴えるサキソフォンの悲鳴がラジオから流れて都市を震え上がらせた
多くの年月かかって食いものにされてきた彼らの肉体からえぐり取った人生の詩の 絶対的な心臓と共に

*1:僕がまだ「RIR6」とか「sjs7」とかいうハンドルネームで活動していたころ

*2:ゆとり世代部もその1つだったし、ファック文芸部、モヒカン族など、とにかく変なものが寄せ集められていた。そして、その妖しくも魅力的なブロゴスフィアに憧れて、僕もはてなダイアリーでブログを書いていた。