あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

『けものフレンズ』が僕たちに見せてくれる新しい「人間」の形

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『けものフレンズ』、自分もすっかりはまってしまっており、家に帰るとずっとdアニメストアでループ再生している、そんな感じの今日このごろです。

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

この作品に関しては、“はてな地方によくすむ、こうさつがとくいなフレンズ”の間でもすっかり人気を博しており、下記のような素晴らしい記事もたくさん書かれています。
honeshabri.hatenablog.com
ねこねこブログ : けものフレンズはなぜ見ていて泣きたくなるほど切ないのか。寂しいフレンズ達と題名『けものフレンズ』 - livedoor Blog(ブログ)
anond.hatelabo.jp
そんな中で自分がわざわざブログなんか書いても、屋上屋を架すようなことになるだけかなー、とも思うのですが、でもやっぱ書きたいので書きます。

『けものフレンズ』が打破する人間中心主義の隘路

自分がこの作品を見ていて一番好きなシーンは、サーバルちゃんと一緒に行動する、おそらく人間のかばんちゃんが、さまざまな特性を持つ他のフレンズに助けられながら進むその中で、セルリアンに対して紙飛行機を飛ばして気をそらしたり、川に橋をかけたりして、さまざまな「工夫」を編み出す、そんな瞬間だったりします。
なぜそのシーンが好きなのか。それは何より、人間というものが、他の動物とくらべて別に特別な存在ではない、フラットな立場にいる1つの「種」であること、そしてそのフラットな立場から、他の種との差異として、「知恵」を持っているということが描かれているという点にあります。
人間というのは他の動物とは違う、特別な存在であるというのは、長らく支配的な考え方でした。そして、その考え方の中心にあるのは、「人間には内面がある」という考え方です。人間ではない動物や物には、人間のように高度な自意識を持ったりすることがなく、自己というものに対して深く考えたり、文化を生み出したりすることができるのは人間だけ、だから人間は他の動物とは一線を画す特別な存在なんだと、そんな考え方です。このような考え方を「人間中心主義」といいます。
このような考えは、「人間であるかどうかが重要なんだから、人種とか性別の違いなんてそんなに重要ではない」という正の作用もありますが、しかし一方であまりに、だから人間には自然を自由にする権利があるんだというふうに考えることにより、自然破壊を引き起こしたり、内面や心というものを重視しすぎるあまり、そこですべての問題が解決できるのではないかという錯覚を引き起こしたりする、負の作用もあるわけです。
なかでも僕が問題視するのが、内面や心といったものに対する偏重です。「心の持ちよう」について私たちは深く考え過ぎるがあまり、袋小路に陥っているのではないでしょうか。
例えば、90年代に爆発的な人気を博したアニメとして、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品がありますが、これなんかはまさに、自分とはどういう存在であるかとか、他者とは一体どうやって付き合っていけばいいのかといった問題を、「心の持ちよう」の問題として引き寄せすぎたがために破綻した、代表的な作品といえます。

この作品は、結局は破綻した作品であるにも関わらず、後世の作品に大きな影響を与えました。ただ単純にロボットに乗って敵をやっつけたりするのではなく、自分がなぜロボットに乗るのか、なんで敵と戦うのか、そもそも、なんで自分は生きているのか、そんなことをアニメのキャラクターに考えさせることが、一種のステータスとなったのです。
そしてそのような風潮と軌を一にするかのようにして、カウンセリングや自己啓発セミナー、精神分析といったものがブームになり、「心の持ちようこそがすべての問題の根源である」というような言説が氾濫するようになりました。このような社会の風潮を、「心理主義(化)」といいます。ですが、ではそのような風潮によって人々は救われたのかといえば、むしろその反対でした。自己啓発セミナーによって自信を得たかと思えば、過剰な自信によってむしろ社会不適合を引き起こしたり、自分が自尊心を持てないのはすべて過去のトラウマが原因だというような(俗流?)精神分析によって、自称アダルト・チルドレンを大量に生み出したりと、人々の悩みはむしろ深くなる一方だったわけです。
このように人々が袋小路にハマる中で、「心のあり方とかについてグダグダ考えても仕方ない。とにかく行動あるのみだ」というような反動も生まれてきます。しかしそのような反動も、「心の持ちよう」へのこだわりからは抜け出せなかったため、「決断力を持つために強い『実存=心』こそが重要だ」というような、心理主義の別の有り様でしかなかったわけです。
では人々はどうやって心理主義から抜け出せるか。それには、そのような心理主義の根幹にある、「心を持っていることこそが人間の特殊性だ」という、人間中心主義からの脱却こそが、重要になるわけです。
これは、別に「心」の存在を否定する、というわけではありません*1。ただ、「心」というものを特別なものとして捉えるのではなく、人間が周囲の環境に適応するために生み出した知恵、ツールの一つとして捉え、それに固執しないことが重要になるのです。
人間は別に人類という種として分化したときから「心」、とくに「自意識」を持っていたわけではないという仮設があります。これは「二分心仮説」というもので、現在のような、自分と他人を明確に区別する、(自)意識が生まれたのは、今から3000年前ぐらいに、高度に分化した社会によるストレスになんとか適応しようとする中で、「幻聴」という形で自分の内なる声を生み出し、それがやがて「意識」と呼ばれるようになったという、そういう仮説です。
神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

ここで重要なのは、「意識」という、現在的な意味での心を生み出す基盤となるものでさえ、あくまでその時点での環境に適応するためのツールに過ぎなかったという点です。つまり、それは万能なものではなく、それがない頃にも人間は生きてきたし、これからも有用であるとは限らないのです。そして、現在まさに、「心」というツールが問題解決に限界を示している中で、「心の持ちよう」から抜け出すために、人間は一旦自分の持つ特権性から飛び降り、他の動物と同じフラットな存在として自己を再定義する必要があるのです。

「知恵を出して問題を解決する」ということこそが、人間というフレンズの得意なこと

そして、まさにそんな現在において、僕たちに、他の動物と同じ一つの「種」としての人間を見せてくれようとしている、そんな作品が、『けものフレンズ』なのだと、僕は考えるのです。
けものフレンズに登場するフレンズたちは、自分をその技能によって定義します。「○○がとくいなフレンズなんだね」というように。しかしそんな中で、人間であるかばんちゃんは自分の技能を見つけられません。もしそこで、ただ心のなかで「自分は一体何者なのか」と内省したりするなら、このアニメは凡百な心理主義アニメと成り果てていたでしょう。しかしそうではなく、自分が何者かを知るために「図書館」へと向かうわけです。そしてその度の途中で、「知恵を出して問題を解決する」という技能を用いるのです。
……もうおわかりでしょう。この、「知恵を出して問題を解決する」ということこそが、人間というフレンズの得意なことであり、人間というのを一つの「種」として定義づけるものなのです。
ここで重要なのが、「知恵を出して問題を解決する」ということが、先天的なものではなく、後天的な特徴であるということです。つまり、人間は最初から人間なのではなく、何かをなすことによって、定義を獲得し、人間になるのです。
そしてここにこそ、心理主義や人間中心主義の隘路を回避するヒントがあります。心理主義はあくまで自分の内面に答えを求めるものであり、そうであるが故に、自分という存在が既に決定されたものとして扱います。人間中心主義もまた同じで、人間というものが特権を持つ存在であると最初に決めてしまうがゆえに、その特権性から逃れられなくなってしまう。しかしそうではなく、人間という種、そして自分という存在も、もっと軽やかな、可塑性を持つものである。そしてそうであるが故に、その定義もまた、これから何をするかで決まっていく、そういう考え方が、『けものフレンズ』からは見いだせるのではないかと、僕は考えるんですね。

『けものフレンズ』はテン年代の『風の谷のナウシカ』になる!……かも

では、そんな「自らの定義を求める旅路」は、これからどこに向かうのか。しかしこれに関しては、僕は結構ドキドキしてこのアニメを見ています。なぜなら、このアニメはどうやら、ポスト・アポカリプス、つまり人類の終末後の世界を暗示しているような、そんな節があるからです。
図書館では一体どんな真実が待ち受けているのか。もしかばんちゃんが、自らの持つ知恵というツールが、時として他の種を滅ぼしたりする、そんなツールでもあることに気づいてしまったら……
しかし、もしそこでかばんちゃんがそんな真実を目撃して、それでも自らを否定せず、フレンズたちとともに歩む、そんな道を見つけ出したのなら、こりゃあひょっとすると、漫画版『風の谷のナウシカ』に匹敵するほどの傑作となる、そんな可能性もあります。

とにかく、キャラも可愛く、ストーリーも意外と深く、考察しようと思えばいくらでも考察できる、『けものフレンズ』はそんな作品です。まだみていないフレンズたちは、ぜひ見てみましょう!

*1:そのような問題は、「心脳問題」として問題になるそうですが、僕はそちらの問題については全然知らないので

デジタル一眼レフ(Nikon D5500)を買ったよ

というわけで、この前の記事
amamako.hateblo.jp
から数日も立っていないにも関わらず、デジタル一眼レフ、買っちゃいました。
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※この写真は前回紹介したコンデジSony RX-100で撮ったものです。

なんかもうちょっと我慢してコンパクトデジカメで撮ろうかと思ってたんですが、「将来デジイチを買ったときに、コンデジで撮った写真を見て『あー、この写真、デジイチで撮ってればよかったなー』と後悔しないだろうか」という思いが写真を撮るごとに強くなっていって、それでとうとう、買ってしまいました。
ま、結論から言えば、なかなか楽しいです。しかし、どんどんお金が減っていく……

デジタル一眼レフは、コンデジより決断的

窓の外向いている
RX-100というコンパクトデジカメと比べながらデジタル一眼レフを触っていると、まず最初に思うのが、「あれ、これ結構機能少ないな」ということです。
レンズキットのレンズだと、RX-100のレンズより開放F値は高く、一方ズーム倍率は高くない*1し、コンパクトデジカメは撮る前に、画面でF値とか露出とかホワイトバランスとかをいじった写真がどうなるか確認できますが、デジタル一眼レフのファインダーだと撮ってみるまでわからない(ライブビューにすれば画面で確認できるけど)。コンパクトデジカメより高いから、いろいろな機能があると思いきや、結構機能の数自体は、コンパクトデジカメのほうが多機能だったりします。
ただ一方で、画質とかはやっぱ全然違って、デジタル一眼レフのほうが綺麗です。
そのような違いがあることにより、撮影がどう変わるか。
少なくとも僕の場合は、写真を撮るという行為が、より決断的なものになっていく、そんな気がします。
コンパクトデジカメを持って撮影しているときは、何かを撮ろうとしたとき、適当にカメラを構えて、ズーム倍率とかF値とかを適当にいじっていればそれっぽくなるので、それを撮る、で、撮った写真はまるごとスマホとかに保存すると、そんなフローなんですが、デジタル一眼レフの場合は、まず撮る前に、そもそも本当に撮りたいかとか、それのどんなところを強調したいかとかを考えた上で、設定とか位置・構図とかも決めて、さあ撮るぞと思って撮る。で、撮って、家に帰ってきたときにそれをパソコンで確認して、あーこれはうまくいったなとか、これはちょっと駄目だったなとか考える、そんな風なフローへと変化しました。
何より画質が段違いだから、家に帰って写真を見ると、うまくいった写真はすごくきれいに見える。その一方で、失敗写真は、もろに失敗だと分かっちゃうんです。だから、よりきちんと考えて決めた上で、撮ろうとする、少なくとも僕の場合そんな感じです。

自分の評価と世間の評価

神社
ただ他方で、「成功」、「失敗」の基準がわかりにくいのも、まあ写真というもので。
これは、この前美術館で写真を色々見てきたときにも感じたことなんですけど、美術館で展示されるような、一般的に「鑑賞する価値がある」とされる写真でも、ある写真についてはすごい綺麗だなとか、心動かされるなとか思う一方で、そんなに綺麗ではないし、見てもなんの感慨もわかないなと思う写真もあったりするわけです。
それはインターネットで探す写真でも同じことで、多くの人に賞賛されている写真でも、自分には合わない写真もある一方で、特に注目されてない写真でも、「これいいな」と思う写真が色々あったりするわけです。
ということは自分が撮る写真の場合も、自分がいくら良いと思っても全く評価されないこともあるし、自分がそれほどいいと思わなくても他人には評価されることだってあるかもしれない。自分がいいと思う写真を撮りたいなと思う一方で、他人からSNSとかで「いいね」もほしいわけで、どっちに寄せるつもりで写真を撮るか、凡庸な悩みではありますが、悩んでしまうわけです。
ペットボトル風車

被写体と波長が合うか

ただそんな中でも、「これは譲れないな」と思うポイントがあったりします。それは「被写体と波長が合うか」ということです。
よく、「写真は、自分が好きなものを撮るのが一番」という人がいます。ただ僕の場合、好きなものと波長が合うものっていうのはあまり関係がないんですね。例えば、食べ物写真とかありますが、たとえ自分が好きな食べ物でも、どうも僕の場合、食べ物とは波長が合わないです。
これは、もちろん第一に食べ物写真を撮る技術が足りてないという問題があったりします。が、それを脇においても、やっぱり食べ物については納得がいく写真が撮れる気がしないのです。
マグロ丼
また、鉄道も好きなんですが、これも撮るとどうもうまく行かなかったりします。
軽便鉄道に使われていた蒸気機関車
一方で、自分が特に興味ないものでも、ファインダー越しに撮影すると途端に波長が合ったりもするわけです。例えば、何の変哲もない貯蔵タンク。
古びたタンク
あるいは、看板。
立入禁止
あと、そこらへんを飛んでいる鳥
着地する鳥
こういったものは、普段なら好きどころか興味もわかないんですが、写真の題材にすると何故か結構(自分の中では)かっこよく写るんです。
ここらへんの、「どの被写体と自分の波長が合うか」というのは、自分で写真を色々試してみないとわからないことなんだろうなと、思ったりします。

*

というわけで、連々と書いてきましたが、いやー、なかなか奥が深くて楽しいです。
ただ、やっぱレンズキット付属のレンズだけだと色々限界とかも感じるわけで、早速単焦点レンズをポチってしまいました。

Nikon 単焦点レンズ AF-S DX NIKKOR 35mm f/1.8G ニコンDXフォーマット専用

Nikon 単焦点レンズ AF-S DX NIKKOR 35mm f/1.8G ニコンDXフォーマット専用

ああ、どんどんお金が減っていく……

*1:これは、RX-100の性能が良すぎるっていうのもありますが

横浜~東京~沼津、写真を見て撮る

せっかくいいカメラ持ってるんだから、もっと色々写真を見て、カッコイイ写真のコツをつかみ、それで写真を撮ったりしたい。
ということで、ちょうど東京に行く予定があったので、ついでに美術館へ写真を見に行ったり、博物館へ行ったり、水族館へ行ってきたりしました。

一日目

まずは横浜へ行き
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横浜美術館
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篠山紀信展を見ました。
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篠山紀信展 写真力 | THE PEOPLE by KISHIN
篠山紀信展は、とても分かりやすくカッコよかったり可愛かったりきれいだったりして、あとそれから大判で写真を見るという機会もそんなにないので、それは良かったです。
でもなー、ポートレート写真とかはあんまり撮らないからな―、人間とコミュニケーション撮って写真撮るとか嫌だし。でもとりあえず、なんか感情が写真に宿っていると、写真は良くなるというのが分かったのは、役に立つかもしれない。
ついでにコレクション展の方も鑑賞。こちらは写真に撮っていいみたいだったので写真に撮る。
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林忠彦の戦後の混乱期の写真とかが結構カッコよかったです。時代性もあるんだろうけど、なんかこうモチーフ選びもうまいし、モチーフにうまく注目させる背景を選んでいるというか。

カストリ時代―レンズが見た昭和20年代・東京 (朝日文庫)

カストリ時代―レンズが見た昭和20年代・東京 (朝日文庫)

あと、森山大道の写真とか、実際に見てみるとやっぱり良いもんですね。でもこれを真似するのは大変なんだろうなぁ。
森山大道 路上スナップのススメ (光文社新書)

森山大道 路上スナップのススメ (光文社新書)

本買ってみたけど、やっぱり真似できそうにない……
あと、写真の歴史ということで、キャパのこんな写真も。
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トロツキー萌え。
というわけで、さあ写真を一杯見たし、今度は自分で撮ってみようということで、みなとみらい線に乗り、横浜中華街へ。
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うーん。
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うーむ。
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むむむ。
っていうか、もう快晴すぎて露出がうまく行かないのよ。うん、かの人もこう言っている。「ピーカン不許可」と。というわけで早々に切り上げる。
その後今度は、みなとみらい線東横線日比谷線を乗り継ぎ、恵比寿の東京都写真美術館へ。
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topmuseum.jp
ここでは一部写真撮影可。
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ほうほう。
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ふむふむ。
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なるほど。
うむ、わからなくなった……
いや、篠山紀信展とは違って、建築写真とかスナップ写真とか中心だから、より参考にはなるはずなのよ。なるはずなんだけど……
例えば極めてはっきりと、ある1つのモチーフを前面に打ち出し、それ以外はまったく構図内にない写真があったとする。それを見て僕は「そうか、やっぱり写真は、その構図の中に無駄なものが1つとしてあってはいけないんだな」と思うわけです。
ところがその次に見る写真では、極めて雑然と、いろいろなものがごちゃごちゃ構図内に写り込んでいる写真があったりするわけです。で、なおもたちが悪いことに、そのどちらも、僕から見るといい写真だったりするわけですよ。そんな感じで、何か1つ「これがカッコイイ写真のコツかな」というのがつかめたかと思うと、すぐそのコツとは違う写真が現れてきたりするわけで、まあ、「みんなちがって、みんないい」ぐらいの小並感しか浮かばなくなってしまうのです。
ただひとつ言えることは、「写真は自由に発想していい」ということと「一旦何かを思いついたら、やり過ぎになるまでそれを突き詰める」ということですかね。中途半端はよくない。うん。
と、なんとか教訓らしきものを見出した上で、実際に外で写真を撮ってみる。
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……なんかこう、「なんでも撮っとけばあとから『これがアートだ』って言い訳できるだろ」的な邪念が写真に現れているような写真になってしまいました。
これではいかん、ということで今度は上野の国立科学博物館へ。
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www.kahaku.go.jp
まずは建物を。
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科博の建物は普通に撮るだけで様になるから良いよなぁ。続いて展示物
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うむ、カッコイイ。結局なんのかんの言って、被写体なのかなぁ写真は。
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というわけで、その日は金曜日だったので20時まで博物館に居た。その後、浅草のカプセルホテルで就寝。
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カプセルホテルは、もうあまり泊まりたくないです。

2日目

2日目は、銀座に行き、幾つか写真を取って
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一通り自分の腕前にがっかりした後、先日の記事
amamako.hateblo.jp
で取り上げた集まりに出席しました。

3日目

3日目は、東京駅から踊り子号に乗って
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伊豆長岡駅まで行き、そこから伊豆箱根バスラブライブ!サンシャインラッピングバス
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に乗って、伊豆・三津シーパラダイスに来ました。
www.izuhakone.co.jp
目当ては、まあラブライブ!サンシャイン
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もあるんですが、それに加えて、生き物写真というのをちょっと水族館で練習したいなと思ったわけです。
で、結果はこちら。
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まーあれです、屋内でしかもちょっと暗く光量が少ない中で、動くものを撮るって難しいんですねー。
というわけで、F値を最大にして絞りを開放した上で、ギリギリまでシャッタースピードを上げて、なんとか止まっているところを狙って写真を撮ってみます。
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まあまあ、うまくいったんじゃないでしょうか。単調さは否めないもの。
ついでに、外でイルカとかアシカとかセイウチとかが出ているショーがやっていたのでそれも撮る。
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これはなんかあからさまに旅行写真って感じだな―。
一通り見物した後、今度は東海バスラブライブ!サンシャインラッピングバスが出るので、それに乗って沼津駅まで行く。
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沼津駅前にはラブライブ!サンシャインのカフェがあるのでそこへ。
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www.yudai.co.jp
デザートと飲み物を頼み、コースターをもらう。
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一通りカフェ内を見物した後
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カフェを出て、ゲマズに寄って
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沼津駅に戻り、そこから帰路につきました。

最近デジカメを買いました

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最近↓のコンデジを買いまして、写真を撮ることにまあまあハマっております。

で、とりあえず花を撮ってみたり
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海まで行って海岸を撮ってみたりしているわけですが、そんな中で思ったことをつれづれと書いてみたり。

ボケ写真ってかんたん。パンフォーカスってむずい

とりあえずF値っていうのをむちゃくちゃ小さく、1.8とか2とかにすると、フォーカスが当たってないところ以外がぼけーっとした写真が撮れる。で、そういう写真は周りがぼけてるだけで結構それっぽくなる。かんたん。
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でもF値っていうやつを5以上ぐらいに大きくして写真を撮ると、全体にピントが合うんだけど、そうするとなんかいかにも素人が撮ったって感じの写真になる。カッコつけるためにわざわざデジカメ買ったのに、これはよくない。
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だけど周りがボケてる写真ばっか撮るのもなんかつまらないし、そもそも全体がきちんと写ってないものより、全体がきちんと写っている写真のほうが、情報量がきちんと多くて好きなんだよな。

構図は難しい

構図について色々記事を読む。
liginc.co.jp
そうすると、読んだ瞬間には「なるほど、こういう風に写真を撮ればカッコイイのか!」と思う。
ところがではじゃあ実際写真を撮ってみようとなると、読んだ構図のことなんかほぼ忘れてるし、覚えていても、都合よくそんな構図に当てはまる光景なんか見つからない。
結局、三分割構図に頼るわけである。
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おそらく構図の知識というのは、数多く写真を撮った後に、「あ、あの写真はこういう構図で撮ればよかった」と思い出し、身につけていくものなのだろう。うんそうだ、そうにちがいない(と、自分をなぐさめる)。
ま、とりあえずは「世はなべて3分の1」という言葉だけを目安にすることとする。

写真を見るのは楽しくなる。が、役には立たない

で、それでもなんとかカッコイイ写真を手っ取り早く取りたい僕としては、500pxとかの写真投稿サイトを見て、なんとかカッコイイ写真を撮るコツを身に着けようとする。
500px.com
そうすると、自分で写真を撮るようになる前だと、綺麗な写真を見ても、「ふーん、綺麗だなー」で済ませていたのが、自分で写真を撮るようになると「これってどうやって撮ったんだろう、こういう風に撮ったのかなぁ」と、以前より写真を見るのが楽しくなっていることに気づいたりします。
これは結構な収穫でした。
しかし、綺麗な写真を見たからと言って写真はそんな急にうまくなりません。これもまた事実です。

写真・カメラネタの記事やマンガが面白くなる

また、自分で写真を撮るようになり、写真・カメラについて情報を集めるようになると、写真・カメラを題材にした記事やマンガが楽しくなります。
togetter.com
teikokulunch.booth.pm
getnavi.jp
ていうか世の中けっこうカメラをテーマにしたマンガってあるもんなんですね。

結局一眼レフが欲しくなる

で、そうやってマンガとかで知識を得たりしていると……やっぱり一眼レフが欲しくなるわけです。
やっぱ画質がぜんぜん違うんだろうなぁ……レンズとかも選べば今とはぜんぜん違う写真が撮れるんだろうなぁ……
EOS Kiss X7、これ結構安いじゃん。

でもキヤノンかあ、キヤノンは嫌いだなぁ*1。というとニコンのD5500とかかなぁと、順調に沼にハマっていくわけです。いかんいかん。

このはてなの片隅で「何」を叫ぶ?

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先日銀座でこんな集まりがありまして、最近のはてなとかその他インターネットに関して色々話を聞いてきました。
そんな中で特に自分が気になったことについてまとめてみたり。

承認欲求から所属欲求へ

人々を動かす欲求が、承認欲求から所属欲求へと変わりつつあるという大きな流れがインターネット上であり、ブログからSNSへの移行や、いわゆる「互助会」なるものの出現もそういう文脈からまとめることができるのではないかという話が、シロクマ先生(id:p-shirokuma)からありました。
p-shirokuma.hatenadiary.com
p-shirokuma.hatenadiary.com
考えてみるとたしかに、昔のはてなとかによくあった「こんな『私』の存在・主張・考え方を知ってくれ、認めてくれ!」みたいな文章っていうのは割と少なくなってきた一方で、それこそ「私はこんな人たちと仲いいですよー」みたいないわゆる互助会的コミュニケーションであったり、「これが好きな人集まれ」みたいな仲間探し記事、あるいがあるあるネタや共感を求める文章や、「こんなものが最近巷で人気みたいですよ」みたいなアフィ記事はどんどん多くなっている気がしますし、そんな中でウェブ炎上も、何か強烈な個性が疎まれて起きるような炎上から、ある集団では当たり前だったことが、別の集団や社会一般では当たり前ではなかった結果起きる炎上へと、炎上の性質が大きく変わってきているように見えます。

炎上への恐怖

また、ブログであんまり記事が書かれない一方で、はてな匿名ダイアリー、いわゆる増田では相変わらず多くの記事が投稿され、その中には色々な意味で「興味深い」記事が投稿されているということも、集まりでは話題になりました。
そして、増田に投稿する理由として、自分のブログより増田のほうが見ている人が多いという理由もある中で、ある参加者が挙げていたのが「増田に投稿するのは、炎上が怖くて自分のブログには書けないような記事」が多いという理由でした。
僕なんかはついつい、炎上をするほど注目されるような記事なら、それこそ自分のブログに書いて、より自分に注目してほしいと思うような人間なんですが、まあ世の中むしろそういう人間のほうが(当たり前ですが)少ないみたいで、炎上をリスクと捉えて、そのリスクを上回るほどのリターンが見込めない限り、自分のブログには書かないそうです。

炎上耐性の強い人

集まりでは他にも、1つ自分が何をやっても賞賛されるようなクラスタを持っていると、別のクラスタでいくら評判が落ちても、生き残れるよねという話をしたりしました。
例に出ていたのはNewsPicksというソーシャルブックマークサイトで、はてなとかtwitterとかで何回も何回も炎上しているような人でも、このNewsPicksというサイトでは賞賛されるという人が結構多いそうです。
逆に、色々なクラスタで広く薄く人気を得ているという人は、1つ失敗してしまうと、全方位から叩かれてしまうために、意外と炎上耐性が低いわけです。
何をやっても賞賛するような信者を抱えるっていうのは、その中で社会一般と徐々にズレが生じたり、倫理観が麻痺していってしまうという点で、危ういとは思うのですが、しかし一方でネット上での精神衛生上は、そのほうが健康を保てるともいえるわけで、なかなか難しい問題です。

認知の歪み

で、上記の問題と関連する問題なのが、ある主義・主張を一旦持ってしまうと、それに反するような情報そのものを知ろうとしなくなってしまうという、認知の歪みの問題です。
この問題の何が厄介かって、結局前項の問題と一緒で、社会倫理とかそういう問題を無視して考えるなら、自分の主義主張と同じような主義主張の人と付き合ったり、そういう考えを支持してくれるような情報ばかり摂取するほうが、その人の心は楽であるという問題です。「自分と違う意見の人の意見にもきちんと耳を傾け理解し、その人と対話するようにしよう」とは聞こえは良いですが、しかし実際はとてつもなくしんどいですし、だいたいtwitterとかをみても、そうやって他者と対話を試みる人ほど疲弊して不健康に見えます。
個々人の心の健康と、民主主義社会の倫理との間の対立、実はこれって結構真剣に悩ましい問題なのではないかと、思ったりします。

このはてなの片隅で

とまあ、いろんな話がでてきた集まりだったんですが、そんな集まりを終えて、僕は今こんなことを考えています。それは
「このはてなの片隅で『アイ(I=私)』を叫ぶことが可能なのだろうか」
ということです。
というのも、話せば話すほど、昨今のインターネットというのは、おぼろげながらもかろうじて存在していた、「私」という存在が溶解していっているのではないかと、不安を抱くようになったからです。
承認欲求はたしかにキモいです。自分を承認してくれとか殊更に叫ぶ存在なんか鬱陶しくて仕方ありません。でも、そのキモさって、言ってみれば他者が他者であることのキモさそのものなわけです。あなたは自分とは違う人間なのに、ずうずうしくも自分の近くに来ようとする。そこでキモさを感じながらも、まあまあなんとかその他者と他者として、拒絶しながらも受容していく、そんな微妙な関係が結ばれるわけです。
しかし所属欲求は違って、むしろ心地よいです。「あなたも私も同じものに所属しているんだよ」というわけですから。同じ旗を振って、同じ行動をし、同じ思考をする。そこには他者との緊張関係というものはまるでありません。でももし、その同じ所属している集団が暴走し、危うい方向に行ったとき、所属欲求にもとづいて動く人間がそれを止められるか?それは無理でしょう。なぜなら集団の動きに反して動くというのは、結局多かれ少なかれ、個として動くという点で、承認欲求的だからです。しかし現在のインターネットは、所属欲求ドリブンで動いている。とすれば、結局その行き着く先は、どうあがいたとしても、それぞれの集団が閉じこもり、自分たちの集団の思想や好みをより強化していく方向にしか情報を摂取しない、「閉じこもるインターネット」でしかなくなってしまうのではないか、そんなことを思うのです。

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

ただ、ではそれを「悪いこと」だと指弾すれば解決するかといえば、そんな単純な問題でもないでしょう。なぜなら、そうやって何かに所属することで一体感を得るというのは、それが良いか悪いかはさておいても、とにかく「心地よい」ことだからです。快/不快という基準に則る限り、肯定するしかないのです。
しかしそれでも、少なくとも僕は、このインターネット上で「アイ(I=私)」を叫び続けたいと、そう思うのです。それは、結局僕が承認欲求に囚われたオールドタイプな人間だからなのかもしれません。ですがやはり僕は、それがどんなにキモくて時代錯誤でも、承認欲求を声高に叫ぶ「私」にあふれていたあの頃のインターネットが好きだし、そして、たとえインターネットの大多数がそうではないとしても、ごく一部の片隅には、おぼろげながらも「私」をつかもうとする声が存在し続けると信じているし、そういう声とともに有りたいと、そう、願っているのです。

『大砲とスタンプ』の好きなキャラ・嫌いなキャラとか

なんか前回の記事
amamako.hateblo.jp
書き上げた後になって、「いやこんなこと書きたかったわけではないのになー」と思ったので、素直に書きたかったことを箇条書きメソッドで書いてみる

  • ガブリエラ・ラドワンスカ大佐はカッコイイよねほんと。有能すぎて鼻にかかるという人も居るかもしれないけど。
  • 大公軍側ではマンチコフ軍曹が好き。特に「ドンゾコ自由国」でのはしゃぎっぷりがもう愛おしくて。
    • というか「ドンゾコ自由国」編全体が好きなんだよね。人工国家ものって大好きだし。なんか祝祭感があるというか。
  • 逆に嫌いなキャラはスィナンだねぇ。
    • 人によってはああいうピカレスクで、どっちの陣営にも属さないニヒリスティックなキャラが好きなのかもしれないんだけど。どーも僕はそういうキャラ苦手だ。
  • そういえば、「イデオロギーに殉じる」ってタイプのキャラがほとんどいないよね。きちんと描かれてるキャラの中では囚人船のリーザンカぐらい?
    • リーザンカはぜひ再登場してほしいよね。
  • 「ドンゾコ自由国」編以外で特に好きなエピソードは、従軍記者編かなー。プロパガンダ戦の話とか好きなもんで
    • イヤなやつっぽくされたラジオ・メガフォンの記者だけど、僕はこういう敵キャラがいても良いんじゃないかと思ったので、死んじゃったのはもったいない
    • プロパガンダ戦の話は兵站の話からはズレちゃうんだろうけど、「戦線の後方の戦場」というテーマとは合ってると思うんで、もっと扱ってほしい

『大砲とスタンプ』を読んで―「戦争」のもう一つの姿

大砲とスタンプ』というマンガを読みました。

今(2017/01/15)だと1巻目がkindleで99円だったので、「それなら買って読んでみるか」と思って買ったのですが、これがもう面白くて一気に6巻まで一気読みしてしまいました。
このマンガは、ある戦争中の国において、前線の兵站、つまり武器・弾薬ですとか、それ以外にも食料・嗜好品・衣服といった、軍隊に必要なあらゆるものの補給を担当する「兵站軍」という軍隊の下士官が主人公として活躍するマンガです。
で、このマンガの何が面白いか。キャラクターたちそれぞれの個性や、登場する珍妙な兵器も大きな魅力の1つなんですが、やはり一番の魅力は、「兵站軍」という舞台設定の妙じゃないかと、僕は考えるんですね。
兵站軍という立ち位置から物語を描くことによって、この漫画は、他の戦争マンガとは一味違う視点から「戦争」を描いているのです。直接敵と殺し合いをする一兵卒の戦場から見たものでも、あるいは、どこの地域を獲得した・喪失したという、遠くの司令部の高所から見たものではない、ちょうど真ん中から見ている戦争マンガというのは、少なくとも僕はあまり知りません。
そしてこの『大砲とスタンプ』というマンガは、間近の下からでも、遠くの上からでもない、ちょうど真ん中の視点から戦争を描いているからこそ、戦争―特に近代以降のいわゆる「総力戦」―というものの重要な一側面を描いているのです。悲惨な殺し合いという側面、あるいは、領土や資源を取り合うゲームとしての側面ではない、近代における「戦争」を、描いているのです。
近代より昔、戦争というものは、あくまで一部の人達が、一部の場所で行う、限定的なものでした。もちろんその中でも悲惨な殺し合いはありましたし、戦場になってしまった場所では、破壊と搾取が行われていたわけですが、あくまでそれは限定的なもので、国家や世界全体を覆い尽くすようなものではなかったのです。
しかし近代以降、戦争は大きく変わります。国家が常備軍を持ち、徴兵制が整備されることによって、戦争は、その戦争に参加する国民すべてが関与するものとなり、飛行機などの輸送技術の進歩により、戦場の最前線ではない場所でも、兵器や軍隊に必要な物資の製造が行われるようになり、そしてそれゆえに、戦略兵器やゲリラ戦といった、戦線の後方でも、殺戮や破壊が行われるようになっていったのです。近代戦において兵站が特に重要視されるようになったのは、まさにこのような戦争の本質の変化にあります。その本質の変化は、一言で言うなら「戦争の生活空間への侵食」と言えるでしょう。
大砲とスタンプ』という作品において、主人公が属する兵站軍は、ごく単純に言うなら、戦線以外の場所からいかに物資を調達し、実際に戦う最前線にその物資を送るかという役割を担っています、それは、まさに上記で言う侵食の尖兵に位置するという役割と、言えるでしょう。
ただ、そこでこの作品がすごいのは、その侵食を単純に「人々の生活を踏みにじる存在」として描いていないという点です。兵站軍は、むしろ物資の調達先に対して極めて低姿勢で紳士な態度で接しています。むしろ市民の側のほうが、いかに戦争を利用してやろうかと考えているのです。
そして、そこで生活空間と戦争を結ぶ媒介物となっているものが、主人公の個性を支える重要な要素でもある官僚主義、そしてそれを支える「官僚制」なのです。
セクショナリズム・文書主義・規則の遵守、こういった官僚制の特色は従来の戦争描写ではいの一番に否定されるものです。しかしこのマンガにおいて主人公たちが属する兵站軍は、むしろその否定されがちなものがあるからこそ、横領や略奪といった不正に対抗できるのです。
大砲とスタンプ』において主人公たちがばらまく軍票は、まさにその代表例です。もし戦争が単なる野蛮な殺し合いならば、軍票なんてものは発行せず、どんどん市民から物資を略奪していけば良いのです。しかしそんなことをすれば、市民からはどんどん反発されていく。そこで軍票を与えることにより、一応の体裁を整える。そしてその体裁があるからこそ、戦争というものが、生活空間に侵食していくことが可能となるのです。
しかしここで、僕はどうしても、そのように、戦争が「官僚制」というものを媒介として生活空間に全面化していった結果生まれた最悪の帰結を思い起こさずに入られません。それは、ホロコーストであり、そしてそれを忠実に実行したアイヒマンという存在です。
イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

アイヒマンはホロコーストを実際に指揮しましたが、しかしそれは決して、彼自身が特別残虐な人間だったからとか、ユダヤ人に対する強い憎しみを抱いていたから、といった理由によるものではありませんでした。そうではなく、彼は規則や命令を忠実に実行する、優秀で真面目な人間だったからこそ、上から受けた「ユダヤ人絶滅」という命令を、合理的かつ効率的に実行していったのです、そういった意味で、アイヒマンはまさに「官僚制」の申し子だったと言えるでしょう。
これは戦争という状況において、官僚制というものが生み出す最悪の帰結です。が、決して例外的なものではないでしょう。近代以降の戦争が、国家全体を巻き込むものになったことにより、戦争における「敵」というものも、敵国全体を指すものとなり、その敵を殲滅するために、戦略爆撃核兵器民族浄化といったあらゆる手段が、「戦争における勝利」という究極目的のための合理的手段として、正当化されるようになったのです。
大砲とスタンプ』の最新刊である6巻ラストでは、それまで描かれなかったような衝撃的なシーンが描かれています。詳細は、ネタバレになってしまうので書きませんが、僕の見立てでは、この展開はまさにそういった問題に切り込む描写なのだと思います。
ここから作者がどのように物語を紡ぐのか。要注目だと思います。
と、こう書いてしまうとなんかえらく真面目な話のように感じてしまうと思いますが、それはあくまでこの作品を見て僕が連想したことに過ぎません。実際はむしろギャグ・ユーモアあり、個性的なキャラクターたちの活躍ありの、肩肘張らずに楽しめる面白い作品ですので、そこは勘違いなさぬよう。

この世界の片隅に・太極旗論争のまとめ

結構気になる論争なのでまとめてみました。

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この記事で取り扱う「この世界の片隅に・太極旗論争」とは

  1. この世界の片隅に』というマンガ、及びそのマンガを元にしたアニメ映画の終盤において描かれた、終戦後の呉市で掲げられた太極旗と、それを目にした時の主人公すずの言葉をどのように解釈するかを巡った論争。
  2. その場面を描くにあたって、原作マンガと、それを元にしたアニメ映画の間での言葉の違いについて、なぜそこの言葉・描写が異なるのか、理由・意味を巡る論争
  3. 以上の2点に関連して、『この世界の片隅に』は戦争をどのようなものとして描いているか、そこに反戦戦争責任という要素はあるのかないのかを巡る論争

新聞・ネットニュース記事

webnewtype.com

――終戦を迎えて怒り涙するすずさんの台詞が大きく変わっていました。ここまで大きく変えた理由というのは?


あのシーンは終戦を迎えた日本人がなぜ泣いたのか、こうのさんが「実は自分の感情では理解できない」って言われたことがきっかけなんです。それで実際にはどうだったのかを色々と調べてみたのですが、当時の人の日記を見てみると、本当に皆さん泣いているんですよ。それから、終戦直後に進駐軍がやってきて日本人の意識調査をやっているんですね。いろんな町でいろんな階層の人にどう思っているのかを聞いているのですが、ほとんどの人がどうも大義とか正義で負けたとは思ってなくて、単純に科学力と物量で負けたっていう悔しさがあるとしかいっていなくて……。もしそうなら、あのシーンですずさんは日本という国をいきなり背負わなくてもいいんじゃないか?と思ったんです。彼女の身のうちのことで、同じように悔しいという思う理由を考え出せないかと考えたんですね。


すずさん自身はお米を炊いておかずを作って……ということをずっとやってきて、そこに彼女のアイデンティティがあった訳です。ならば、ごはんのことで原作のようなことを、彼女のことを語れないかと考えたんですね。


実際、その当時の日本本土の食料自給率ってそれほど高くなくて、海外から輸入している穀物がなければやっていけなかったんですよ。そういうのがわかると、やっぱりすずさんは生活人だから、あのような反応をしたほうがいいと思ったんです。

lite-ra.com

 もちろん、原作者のこうの史代氏にしても映画の片渕須直監督にしても、徹底的に時代考証を行って作品化しており、「朝鮮進駐軍」なるトンデモ陰謀論を採用しているわけがない。
 むしろ、物語の舞台が軍港だった呉であり、そこでは大勢の朝鮮人たちが働かされていた史実を踏まえれば、作中の太極旗に込められているのは、この町で日本人と同じく在日コリアンたちが戦火に巻き込まれながら暮らしていたという事実であり、戦争によって大切なものを奪われた存在=戦争被害者としての主人公が、そのじつ大切なものを奪う側の存在でもあったことを知る場面だったのではないか。

www.sankei.com

 片渕監督は、原作通りに旗を出したが、そこに政治的な意図を込めたくなかった。そこであのようなセリフになったというのが真相のようだ。片渕監督としてはあくまでもすずを中心とした人々の暮らしを描くことが主眼で、そういった思いを超えて政治的に受け止められることを嫌ったのだろう。

twitterまとめ(togetter

togetter.com

蝮 @mamusi02 「この世界の片隅に」原作漫画 読み終わったあと純粋に無差別爆撃卑怯おのれ鬼畜米英って思えるし、太極旗が出てきてる一コマで朝鮮進駐軍の暴挙を表してるし、単純な反戦平和主義漫画ではない


mishiki@3日目東x02a @mishiki 『この世界の片隅に』は、教科書のお説教みたいな反戦イデオロギー臭さから距離を取ることにかんっぺきに成功している。反戦イデオロギーさえ打ち出してりゃ評価にブーストがかかるような時代は本当に終焉したのだ。2016年というのはそういう年なのだと思う。長かった、んだろうな。

togetter.com

noby @nob_de 『この世界の片隅に』の主人公すずを「普通」の代表として「すずさん」と読んでしまいたくなる構造には巧妙な仕掛けがある。この映画の恐ろしさは生活の連続に戦争があるだけではない。敗戦時、眼下で太極旗(朝鮮旗)が掲げられるワンカットですずが「普通」に差別構造の一員だったことが露わになる。


ITK1982 @ITK1982 『この世界の片隅に』には玉音放送の後に太極旗が掲げられる場面がある。8月15日は韓国では光復節北朝鮮では解放記念日と呼ばれ大日本帝国からの独立を祝う日とされている。あの場面、不意に「他者」の視点が差し挟まれることでふと我に返る観客も多いかもしれない。
#この世界の片隅に

togetter.com

西村飯店 @k_kinono すずさんのリアルの中で、あのシーンで日本国としての加害責任を言い出すわけがないんです。戦争を映画として描くことと戦争を客観的に裁くことは違う。雑なことを言うと、あの映画はセカイ系なんです。政治とか社会がなくて、セカイと自分の恋が直接つながってる。その世界に敵はないんです。


りょふ @ryofu1213 この世界の片隅に
に太極旗のシーンがあるのか。
原作は自虐史観なのね。
なんか観る気が削がれたな

togetter.com

司史生@がんばらない @tsukasafumio「反戦映画の押しつけがましさ」ですけど、メッセージの直截さより「泣かせ」に依りかかる傾向があるのかと。戦中の戦意高揚映画も戦後の反戦映画も、主人公や大事な人が死んじゃう悲劇が多いので、感傷的な描写は容易にその意味づけが反転しちゃうのですよね。


司史生@がんばらない @tsukasafumio「この世界の片隅に」や「野火」、それから岡本喜八監督の作品とかそうですけど「ああ戦争は悲劇ですね」だけじゃ済まない、心にずしんとくる重いものがあるのですね。

個人ブログ

d.hatena.ne.jp

だから終戦記念日玉音放送を聞いた後、主人公は慟哭する。最後の一人まで戦うのではなかったのか、納得がいかない、と。終わった終わったと周囲が口先だけでも安堵した後での言葉だ。ここで、苦しい戦時下を懸命に楽しく生きていたかに見えていた主人公こそが、激しく内面へ抑圧を受け続けていたことが明らかになる。


そして屋外へ飛び出した主人公は、遠くの屋根に太極旗がひるがえっている光景を見て、ようやく片隅で生きていた自らも他者を抑圧していたことを知る。「暴力で従えとったいうことか」「じゃけえ暴力に屈するという事かね」と吐露する主人公の台詞を、「意外だったのは、実は、日本に暮らしながらこの国を好きでない人がいる、という事」という作者の言葉に重ねることは難しくない。作者自身も、玉音放送の描写を「山場」ととらえていたという。

ichigan411.hatenablog.com

 はっきりとした論理性のある原作のセリフに比べて、映画のセリフは支離滅裂になっているという印象を持たざるを得ない。いったいどうしたことか…。(絵コンテにはこう書かれていたというだけの話なので、実際どう言っていたか、ちゃんともう一度劇場に足を運んで確かめるつもりだ。)


 この件に限らず、この作品における、「見たくないものの隠蔽」という側面から目を背けるわけにはいかないのではないかと思う。太極旗が視認できるくらいだから、すずの生活圏に朝鮮人は普通にいたわけだが、それは一切出てこない。

golconda.hatenablog.com

あらためて、なぜ「すず」は太極旗を見て泣いたのか、自分なりの考えを書きたいと思う。玉音放送の聞くシーンでは、お年寄りは「やれやれ、やっと終わった」といい、一番若いすずさんだけが憤る。子を育て終わり、最も大変な自分の社会的使命を終えつつあることを自覚する人間よりも、不具になりながらも未来に向けて挑戦し、来るべき自分の使命に生きる人間の方が、より困難な生活の予感と、これまでの努力の報われなさに、怒るのは当然ではないだろうか。そして、掲揚された太極旗を見て、自分達が食べていた外地米がこれから無くなる恐怖、そしてそれらを作っている植民地の労務者への自分たちの仕打ちと、その報いが自分たちにも返ることを想像し、今後の屈辱の予想に悲しみを感じたのではないだろうか。

blog.goo.ne.jp

原作では、
「暴力で従えとったいうことか」
「じゃけえ暴力に屈するという事かね」
という台詞があり、
理不尽な暴力に日常の力で戦ってるつもりだったすずが、
日本が負けて朝鮮人が日の丸を太極旗に描き替えて掲げ祝う光景を遠目に見て、
自らも他者を抑圧していたことを知るという重要なシーンであるのだが、
映画では、このセリフを微妙に変えてある。
「海の向こうから来たお米…大豆…そんなそんで出来とるんじゃろうなあ、うちは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね」
と叫ぶのである。
戦時中は食糧難で、暴力で収奪した植民地の食料が、国内の食料の3~4割を占めていたらしい。
それが敗戦したことで、一気になくなり、地獄へと突き進むことになるのだ。
原作では、他者を抑圧していたことを知るのだが、
映画では、またもや被害者意識が台頭している。

はてな匿名ダイアリー

anond.hatelabo.jp

この世界の片隅に」とか
勝手に国連抜けてアメリカに奇襲仕掛けて戦争始めたのに空襲にあって大変アメリカは悪魔ですって映画ばっかりなの?
どう考えても日本の自業自得なのに被害者面する映画が反戦映画なのか?

anond.hatelabo.jp

だからさあ。なんつーか「反戦イデオロギーうぜえ。コノセカ万歳」って唱えるのはいいけどさ(個人的には名作(かもしれない)映画をそんな目線で賞めたくないけどそれは人の勝手だからまあいいけどさ)、悪いけどそれが「イデオロギーうぜえ。アート万歳」って意味で言ってるつもりなら、その「反イデオロギー」主張だって十分に偏ったイデオロギーであり、すでにあなたの頭の中で歴史のねつ造が始まってるってことは知っておいて欲しいね。少なくとも、うちのひいじーちゃんのような人の存在をなかったように得意げに話されると、ちょっとムカッとくるわ。


だいたい、宗教とかマルチにしても、ふだん「宗教/マルチなんて」って言ってる連中をはめるのが一番チョロいのなんて常識だよ。右翼でも中道でもいいけど、自分のもってるその感覚が、左翼と同じく一つの「イデオロギー」であることを十分自覚した上で、左翼を批判するなら批判してほしいやね。それができない人は、ほんと、その手の人間の手にかかればチョロく騙されるんだから。自分はイデオロギーから自由だ、とか思ってる時点ですでにあんたはイデオロギーに染まってるんだから。

anond.hatelabo.jp

映画やフィクションで反戦思想を押し出すべきではない理由 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/1048335

こんなまとめまで工作して「この世界の片隅に」は保守層のための映画だと言わんばかりですけどね。


作者のこうの史代はかつて「古い女」という短編で、まさにこういう国士様たちを思いっきりコケにしてたんですけどね。


その事実をこの人達が知ったら一気に掌返すんじゃない?w

anond.hatelabo.jp

そんなことがアメリカでトランプが登場したときに日本でどう語られたかといえば、ポリティカルコレクトネスだよ
なるほどっておもったね
こうすればいいという公式がポリティカルコレクトネスなのよね
日本の戦争映画も老人ホームも紅白も、みんなが納得するよしなにな最適解なわけで、そういった公式に対する反発がいくつも起こっているわけで
たまたまアメリカで起こったから関心高く語られてるけど、こんなことはいくつもあるよなって思う


この世界の片隅には、べつにトランプと一緒にするのは失礼な話だけど、でもようやく出てきたって感じだよね
そうだいいぞ!やってやれ!戦争映画はこうすればいいとか思ってるやつらにみせてやれ!みたいな感じはあったね

anond.hatelabo.jp

大丈夫!
最近の戦争は日本人がほとんどいないような外国に自衛隊を送り込むだけだから!
現地の人たちが虐殺されてるあいだでも俺たちの生活は変わらないよ!
映画で描かれてるような悲惨な戦争なんて今どきやらないよ!
安心してね!

anond.hatelabo.jp

あの映画を見た感想は日本が、とかそういう印象も確かにあるけどもっと違って…
日本はこの世界の片隅でしかないんだな、ということだった。
今は普通のフリして暮らしてるけど
一歩外に出たら人が爆撃で死んでて…自衛隊が戦地に居て…
充分分かってたつもりだけど分かってない
映画を見た後、それを一度体感してしまった気になっている
もう連日報道されている外の国の戦争の映像が、映画を見る前と同じ映像とは思えなくなってしまった
あそこにはたくさんの人が住んでいて、精一杯生きていて。
そういう衝撃を持っている映画だと思う

anond.hatelabo.jp

この世界の片隅に』の感想を述べている人たちは、こぞって、「反戦思想を押し出していないのがよい」という言い方をする。
そして「主人公が反戦思想を語らないのがよい」と言っている人もいた。


それで気になったんだけど、『火垂るの墓』って主人公が反戦思想を語るシーンがあった?
主人公の男子はむしろ愛国少年だった。彼は政府や軍部を批判しなかったし、日本の勝利を信じていたので、けっして反戦思想を語ったりしなかったと思う。


なので、あれが反戦映画とされるのは、「おいお前ら、この悲惨な子供たちを見たら戦争のひどさが分かるだろ!?」という理由ではないのか。
ようは受け手の解釈の問題だ。