あままこのブログ

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『けものフレンズ』は、むしろ私たちに違ったあり様の「知性」を教えてくれるのだ

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

けものフレンズについて、「知能を低下させるアニメ」という評価があります。けものフレンズを見ている人が「すごーい!」「たのしー!」としか呟かなくなることなどからそう言われるようです。
これに対しては、しかしさまざまな人々から、「けものフレンズは知能を低下させるのではなく、むしろそれを高めてくれるものだ。」という反論がなされています。
anond.hatelabo.jp
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僕もこれらの反論に全面的に賛同します。
ただその一方で、このけものフレンズを見ていると自分たちの知能が低下してしまうのではないか、という不安も全く根拠のないものではないと、僕は考えるのですね。
なぜなら、けものフレンズという作品には、私たちが普段「知能」と呼んでいるもの、その根拠となる「近代的知性」を相対化し、揺さぶってくる「フレンズ的知性」があるからです。このフレンズ的知性は、私達が普段「知能」と呼んでいるものとは全く異なる考え方をします。だから一見すると、「知能」を衰退させるものとして写ってしまう。
でも違うんです。近代人が言う「知能」とは、違うあり様の知性が、けものフレンズという作品には込められており、むしろ、そのような知性こそが、現代の私たちが真に手に入れるべきものであるとさえ、言えるのです。
では、そのような「フレンズ的知性」とは一体何か。何が「近代的知性」と異なってくるのか。キーワードは次の3つです。

  • 「孤立」ではなく「共同」
  • 「競争」ではなく「互助」
  • 「啓蒙」ではなく「内発」

どういうことか、これから説明していきます。

「孤立」ではなく「共同」

近代においては「一人ですべて考え、決めること」が重要視され、「内省」というものが文学においても特別視されてきました。
自分がいかなる存在であり、他者とは一体どうやって付き合っていけばいいか、世界とは一体どういうものなのか。そういったことは、一人で延々と考え、自分の中で答えを見つけだすことが重要であり、他者の言葉などに影響されるのはよくないとされてきたのです。
しかし、このような考え方は、現代においてはむしろ答えの出ない悩みに人々を追い込んでしまっています。これについては、前回の記事で心理主義というキーワードを元に解説したので、ご参照ください。
『けものフレンズ』が僕たちに見せてくれる新しい「人間」の形 - あままこのブログ
一方、けものフレンズにおいては、そのような問いは一人で延々と考えるものではありません。「君は○○が得意なフレンズなんだね!」という言葉に代表されるように、自分という存在は、自分が内心で自分のことをどう思っているかではなく、自分が何ができるか、そしてそれによってどう周りに貢献できるかによって決まってくるのです。
つまり、悩みはみんなで分かち合い、そして答えを出すものなのです。例えばけものフレンズの3話において、トキちゃんはかばんちゃんに歌うコツを聞き、アルパカちゃんは喫茶店を繁盛させる方法についてアドバイスを得ましたし、5話において、ビーバーちゃんとプレーリードッグちゃんは、「住むところがない」という悩みを、二人で共同して意見を出し合い、仕事をすることによって解決できました。このように、一人で抱え込んで「孤立」するのではなく、みんなで「共同」することによって問題を解決すること、このような形の知性こそが、けものフレンズにおいては重要とされています。
これは、とかく主人公一人に問題を押し付けがちな、日本のサブカルチャーにおいては画期的なことです。以前著者は、『風の谷のナウシカ』という作品について、「ナウシカが問題をすべて一人で抱え込みすぎているのでないか」という批評をしたことがありましたが*1、この点に関して言うならば、実はとっくに「けものフレンズはナウシカを超えた」とさえ、言えると僕は考えます。
そして、このような形の新しい知能を、「IQ」とは異なる知能、「EQ」として捉えるという考え方もあるそうです。IQが自分ひとりで黙々と問題を解いていくものであるのに対し、EQは、人とどのように付き合い、問題を共同して解決していくか、その能力を測るものです。

EQ こころの知能指数 (講談社+α文庫)

EQ こころの知能指数 (講談社+α文庫)

そして、実は「けものフレンズ」についても、「すごーい」「そうなんだー」「たのしー」というフレンズ文法が、チームで仕事をするにあたっては、コミュニケーションを円滑にし、極めて有用に働くということが指摘されています。
tech.misoca.jp

  • フレンズ文法は、基本的にポジティブにフレーミングした上で発言する文法だ!
    • 〇〇が苦手なフレンズなんだね!へーきへーき!フレンズによってとくいなことちがうから!
    • 〇〇が得意なフレンズなんだね!すごーい!
  • 謙虚(Humility) 尊敬(Respect) 信頼(Trust) だ!

nuryouguda.hatenablog.com
あなたが仕事をしたり勉強をするときに、本当に必要なのは、一人で黙々と知能テストを解く能力ですか、それとも、チームみんなと協力する能力ですか?
その点を考えただけでも、けものフレンズはむしろ、本当に私たちが必要とする「知能」を高めてくれるものであることが、分かると思います。

「競争」ではなく「互助」

けものフレンズのフレンズたちは、誰かを助けるために何かをすることを厭いません。かばんちゃんやサーバルちゃんが何か困っていれば他のフレンズを助けますし、また、かばんちゃんやサーバルちゃんも、誰かが困っていたらなんとかしてその子を助けようとします。また、渡し船をしているジャガーさんや、喫茶店を開いているアルパカさんのように、なんの見返りを求めることなく常に生活の中で誰かを助けているフレンズたちも居ます。
それに対して、現在の私たちの行動は基本的には、「競争をし、誰かを出し抜く」ことを基本としています。学校では、テストで他人より高い評価を得ることによって相対的評価を高めようとし、仕事ではライバル企業と競争し、相手を市場から蹴落とそうとします。そしてそのように競争によって自分の利益を最大化しようとすることが、社会全体を発展させ、結果的に人々をみんな幸福にするのだと、信じています。
ですが本当にそうでしょうか?例えば、震災の時、みんなが水を欲しがっているときだから、水を自分の手元に独占して価格を吊り上げることが、合理的行動だから良いのだと言った人がいました。なるほど確かに競争に勝って自分の利益を最大化することが、「近代的知性」においては善とされています。
ですが、「フレンズ的知性」においては、どうでしょうか。「みんなが水を求めて困ってるんだから、みんなで水を分配すれば良いんじゃないのかなぁ」と考えるでしょう。
では、この2つの内、より人々を幸せにする知性はどちらでしょう?
また、「近代的知性」では、競争によって自己の利益を最大化することが重要とされますから、他人を常に用/不用の基準で判断します。そしてその視点からは、劣った存在である高齢者や病者・障がい者は、不用な存在であり、突き詰めて考えれば、そのような存在は生かしておくこと自体がもったいないということになります。
しかし「フレンズ的知性」においては、そのような価値によって仕分けはされません。ただ、「フレンズであること」が重要なのです。もちろん、それぞれのフレンズに得意なこと/苦手なことはあります。ですが、一見何も得意なことがなにもないように見えるかばんちゃんに対しても、サーバルちゃんや他のフレンズは決して見下したりしません。むしろ、積極的にかばんちゃんを助けようとします*2。おそらくそこでは、「共にあること」そのこと自体がフレンズにとってうれしい、幸福なことと認識されているのでしょう。
さて、この2つの知性のどちらがより人々を幸福にするのでしょうか。前者のような知性では、人々は常に自分が老人や病者・障がい者になることに怯えなければなりません。しかし、どんなに怯えたって人はふとした瞬間に病者・障がい者になってしまいますし、さらに言えば、人はだれでも年老いれば高齢者となります。そうなったときに、「君は不用な存在だから」と切り捨てられるのか、あるいは、「へーきへーき」と、むしろ共にあることに感謝してもらえるのか、僕は、後者のような社会を生む知性こそが、人々を幸福にすると断言します。

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

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「啓蒙」ではなく「内発」

かばんちゃんたちは図書館へと向かう旅先の途中で、フレンズたちが抱えている様々な問題に遭遇します。そして、その問題を解決するために、知恵を振り絞るわけですが、しかしその際にかばんちゃんは、常にそのフレンズそれぞれの特性を活かす方法で、問題を解決することを考えます。
そのことが一番顕著なのは、5話の家造りでしょう。5話において、ビーバーちゃんは、計画を実行する手順を考えることは得意でも、実際にその手順を実行することは苦手です。そしてその一方、プレーリードッグちゃんはなにかを実行することは得意でも、その手順を計画することが苦手なのです。
このような時、「近代的知性」にもとづいて考えるならば、教育≒啓蒙を行い、ビーバーちゃんに手順を実行することを、そしてプレーリードッグちゃんに手順を計画することを教え込もうとするでしょう。なぜなら「近代的知性」においては、すべての個人が一つの完成された「近代的自己」になることが求められ、その中で個々人が持っている特性は無視されなければならないからです。
しかし、かばんちゃんはそうはしませんでした。得意なこと/苦手なことという特性がそれぞれあるんだったら、その特性を否定するのではなく、活用しようとします。具体的には、二人で共同で家を作ることを提案したのです。そしてさらに、家の形も、それぞれが意見を自由に出し合い、それぞれの要望を出来る限り実現する形にしようとしたのです。
これは、同じ「異人*3たちがやってきて問題を解決する」という、近年アニメや漫画・ライトノベルに流行している作品のストーリーの中でも、かなり独特な方法です。それらの作品においては、異人たちはしばしば「転生者」としてやってきて、ただ自分のやり方を教育≒啓蒙というかたちで、押し付けて問題を解決しようとします。例えば、そういう作品の例として代表的な『まおゆう』という作品においては、魔王というキャラクターが転生者として現れ、中世以前の社会を、現代の近代的手法で「啓蒙」することによって変革しようとしますが、その過程においてはその世界の特性は完全に無視され、まるで出来の悪い歴史の教科書のように、ただ現実の歴史をなぞり、その中で乗じる悲劇も「発展のためにはしょうがないことだ」と無視します。
このようなやり方は、まさに「近代的知性」特有のものといえるでしょう。ある一つの理想形があって、それは万人が求めているものだと決めつける。そして、その理想形に至らせるやり方も一つであると決めつけ、やり方が一つだから、そのことで生じる犠牲も、「理想のためには仕方のないものだ」として許容されるのです。
しかし、「フレンズ的知性」のやり方は違います。そもそも、それぞれの地域・フレンズによって、理想とするものは全く異なってくるし、その理想を実現する方法も、多種多様なものなのです。そしてさらに言えば、その地域・フレンズの理想や、得意なこと・苦手なことについて、最もよく知っているのは、問題を抱えているフレンズ本人たちなのです。そのことは、かばんちゃんたちにとっては当然のことですから、自分のやり方を押しつけようとするのではなく、フレンズたちの特性を用いて何かできないかと、フレンズたちの試行錯誤を重要視しながら、考えるのです。そこには、「俺のやり方でやればうまくいくんだから黙って従え」というような、前節で挙げた「転生もの」特有の傲慢さはありません。
このように、その当事者自身で、当事者の特性を活かした形での、問題の解決を測ることは、近年「内発的発展」ですとか「当事者主義」として重要視されています。

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

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内発的発展論の展開

内発的発展論の展開

なぜこのような当事者自身が、当事者自身のやり方で問題を解決していくことが、重要視されているのか。その背景には「近代的知性」の、ある一つのやり方が最善で、それをみんながやればうまくいくという、「啓蒙主義」が、限界に来ているということが挙げられます。
例えば発展途上国支援。近代における西欧の発展が唯一存在する発展のやり方だとすれば、まず工場を作り、そしてその工場を支える社会インフラを作ることこそが、発展の唯一のやり方であるということになります。そして事実、発展途上国では「開発独裁」という、正しいやり方を国家が人々に押し付ける形で押し付けてきました。
しかしその結果生じたのが、地域の環境破壊であったり、社会構造の破壊によるセーフティーネットの無効化や、不平等の拡大などでした。そんな啓蒙主義の負の側面が明らかになる中で、近代西欧の発展方法のみが唯一のやり方ではないんじゃないんか、例えば自然豊かな地域なら、その自然を活かした形での発展があるのではないかとか、
フェアトレード―格差を生まない経済システム

フェアトレード―格差を生まない経済システム

宗教による不平等是正のシステムがあるのだったら、そのシステムを使ってベンチャー企業を支援したりすれば良いんではないかとか、
イスラム金融はなぜ強い (光文社新書)

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そういった様々な地域独自のやり方の模索がされるようになっているのです。
また、身近なところで言えば、「学校」という制度においても、「近代的教育」、つまり集団で机に座って同じ授業を受ける、そんなやり方から、個々人が自発的に学習をしていく、そんなやり方への移行が叫ばれています。
その理由の一つとしてあるのが、そのようなやり方は、机に座って授業を受けるのが苦にならない、いわゆる「定型発達者」にとってはよくても、そうでない「非定型発達者」にとってはとても苦痛になっているということが、近年気づかれるようになったということです。
それこそ例えば、けものフレンズの4話に出てきたスナネコちゃんのような存在が、机にじっと座ってただ黙々と板書を写す、みたいなことができるでしょうか?それより、スナネコちゃんがあれだけ好奇心があるんだから、その好奇心を活用して自分からいろんなことを調べられるような授業を行うほうが、よっぽど良いはずです。
このように、「近代的知性」に基づく「啓蒙」という方法が様々な点で限界に突き当たる中で、そうでない、「フレンズ的知性」に基づく「内発」という方法を知ることは、マクロな問題でもミクロな問題でも、きっと役立つはずです。そしてそのような「内発」というやり方について、けものフレンズは格好の教科書となるのです。

*

誤解があるといけないので一応言っておくと、僕は別に「近代的知性」をすべて捨て去り、「フレンズ的知性」に全面的に移行すべきというようなことを述べてるのではありません。前項で述べたとおり、方法は一つじゃないのですから、フレンズ的知性が有効な場面もあるように、近代的知性が有効な場面も当然あるでしょう。近代的知性がなかったら、あのジャパリパークを走るバスとかを一体誰が作れるのか。
そうではなく、重要なのは、「知能」、及びそれの基盤となる「近代的知性」とは、違ったあり様の「知性」があると知ることなのです。それは―例え表面上そう見えたとしても―決して「知能」を低くすることではありません。むしろ、「すごーい」「そうなんだー」「たのしー」という言葉を、そう言いたいことを感じたときに素直に言えるということ、それだって「知能」の一つなのではないでしょうか。
だから、とにかく言いたいことはただ一つなのです。


『けものフレンズ』、みよう!

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

*1:sjs7アーカイブ - 2008-08-15

*2:このことからも、けものフレンズに障害者がいたらこうなる。ワイが間違ってる?というしょーもない記事が端的に誤りであることがわかります

*3:ストレンジャー

『けものフレンズ』が僕たちに見せてくれる新しい「人間」の形

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『けものフレンズ』、自分もすっかりはまってしまっており、家に帰るとずっとdアニメストアでループ再生している、そんな感じの今日このごろです。

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

この作品に関しては、“はてな地方によくすむ、こうさつがとくいなフレンズ”の間でもすっかり人気を博しており、下記のような素晴らしい記事もたくさん書かれています。
honeshabri.hatenablog.com
ねこねこブログ : けものフレンズはなぜ見ていて泣きたくなるほど切ないのか。寂しいフレンズ達と題名『けものフレンズ』 - livedoor Blog(ブログ)
anond.hatelabo.jp
そんな中で自分がわざわざブログなんか書いても、屋上屋を架すようなことになるだけかなー、とも思うのですが、でもやっぱ書きたいので書きます。

『けものフレンズ』が打破する人間中心主義の隘路

自分がこの作品を見ていて一番好きなシーンは、サーバルちゃんと一緒に行動する、おそらく人間のかばんちゃんが、さまざまな特性を持つ他のフレンズに助けられながら進むその中で、セルリアンに対して紙飛行機を飛ばして気をそらしたり、川に橋をかけたりして、さまざまな「工夫」を編み出す、そんな瞬間だったりします。
なぜそのシーンが好きなのか。それは何より、人間というものが、他の動物とくらべて別に特別な存在ではない、フラットな立場にいる1つの「種」であること、そしてそのフラットな立場から、他の種との差異として、「知恵」を持っているということが描かれているという点にあります。
人間というのは他の動物とは違う、特別な存在であるというのは、長らく支配的な考え方でした。そして、その考え方の中心にあるのは、「人間には内面がある」という考え方です。人間ではない動物や物には、人間のように高度な自意識を持ったりすることがなく、自己というものに対して深く考えたり、文化を生み出したりすることができるのは人間だけ、だから人間は他の動物とは一線を画す特別な存在なんだと、そんな考え方です。このような考え方を「人間中心主義」といいます。
このような考えは、「人間であるかどうかが重要なんだから、人種とか性別の違いなんてそんなに重要ではない」という正の作用もありますが、しかし一方であまりに、だから人間には自然を自由にする権利があるんだというふうに考えることにより、自然破壊を引き起こしたり、内面や心というものを重視しすぎるあまり、そこですべての問題が解決できるのではないかという錯覚を引き起こしたりする、負の作用もあるわけです。
なかでも僕が問題視するのが、内面や心といったものに対する偏重です。「心の持ちよう」について私たちは深く考え過ぎるがあまり、袋小路に陥っているのではないでしょうか。
例えば、90年代に爆発的な人気を博したアニメとして、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品がありますが、これなんかはまさに、自分とはどういう存在であるかとか、他者とは一体どうやって付き合っていけばいいのかといった問題を、「心の持ちよう」の問題として引き寄せすぎたがために破綻した、代表的な作品といえます。

この作品は、結局は破綻した作品であるにも関わらず、後世の作品に大きな影響を与えました。ただ単純にロボットに乗って敵をやっつけたりするのではなく、自分がなぜロボットに乗るのか、なんで敵と戦うのか、そもそも、なんで自分は生きているのか、そんなことをアニメのキャラクターに考えさせることが、一種のステータスとなったのです。
そしてそのような風潮と軌を一にするかのようにして、カウンセリングや自己啓発セミナー、精神分析といったものがブームになり、「心の持ちようこそがすべての問題の根源である」というような言説が氾濫するようになりました。このような社会の風潮を、「心理主義(化)」といいます。ですが、ではそのような風潮によって人々は救われたのかといえば、むしろその反対でした。自己啓発セミナーによって自信を得たかと思えば、過剰な自信によってむしろ社会不適合を引き起こしたり、自分が自尊心を持てないのはすべて過去のトラウマが原因だというような(俗流?)精神分析によって、自称アダルト・チルドレンを大量に生み出したりと、人々の悩みはむしろ深くなる一方だったわけです。
このように人々が袋小路にハマる中で、「心のあり方とかについてグダグダ考えても仕方ない。とにかく行動あるのみだ」というような反動も生まれてきます。しかしそのような反動も、「心の持ちよう」へのこだわりからは抜け出せなかったため、「決断力を持つために強い『実存=心』こそが重要だ」というような、心理主義の別の有り様でしかなかったわけです。
では人々はどうやって心理主義から抜け出せるか。それには、そのような心理主義の根幹にある、「心を持っていることこそが人間の特殊性だ」という、人間中心主義からの脱却こそが、重要になるわけです。
これは、別に「心」の存在を否定する、というわけではありません*1。ただ、「心」というものを特別なものとして捉えるのではなく、人間が周囲の環境に適応するために生み出した知恵、ツールの一つとして捉え、それに固執しないことが重要になるのです。
人間は別に人類という種として分化したときから「心」、とくに「自意識」を持っていたわけではないという仮設があります。これは「二分心仮説」というもので、現在のような、自分と他人を明確に区別する、(自)意識が生まれたのは、今から3000年前ぐらいに、高度に分化した社会によるストレスになんとか適応しようとする中で、「幻聴」という形で自分の内なる声を生み出し、それがやがて「意識」と呼ばれるようになったという、そういう仮説です。
神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

ここで重要なのは、「意識」という、現在的な意味での心を生み出す基盤となるものでさえ、あくまでその時点での環境に適応するためのツールに過ぎなかったという点です。つまり、それは万能なものではなく、それがない頃にも人間は生きてきたし、これからも有用であるとは限らないのです。そして、現在まさに、「心」というツールが問題解決に限界を示している中で、「心の持ちよう」から抜け出すために、人間は一旦自分の持つ特権性から飛び降り、他の動物と同じフラットな存在として自己を再定義する必要があるのです。

「知恵を出して問題を解決する」ということこそが、人間というフレンズの得意なこと

そして、まさにそんな現在において、僕たちに、他の動物と同じ一つの「種」としての人間を見せてくれようとしている、そんな作品が、『けものフレンズ』なのだと、僕は考えるのです。
けものフレンズに登場するフレンズたちは、自分をその技能によって定義します。「○○がとくいなフレンズなんだね」というように。しかしそんな中で、人間であるかばんちゃんは自分の技能を見つけられません。もしそこで、ただ心のなかで「自分は一体何者なのか」と内省したりするなら、このアニメは凡百な心理主義アニメと成り果てていたでしょう。しかしそうではなく、自分が何者かを知るために「図書館」へと向かうわけです。そしてその度の途中で、「知恵を出して問題を解決する」という技能を用いるのです。
……もうおわかりでしょう。この、「知恵を出して問題を解決する」ということこそが、人間というフレンズの得意なことであり、人間というのを一つの「種」として定義づけるものなのです。
ここで重要なのが、「知恵を出して問題を解決する」ということが、先天的なものではなく、後天的な特徴であるということです。つまり、人間は最初から人間なのではなく、何かをなすことによって、定義を獲得し、人間になるのです。
そしてここにこそ、心理主義や人間中心主義の隘路を回避するヒントがあります。心理主義はあくまで自分の内面に答えを求めるものであり、そうであるが故に、自分という存在が既に決定されたものとして扱います。人間中心主義もまた同じで、人間というものが特権を持つ存在であると最初に決めてしまうがゆえに、その特権性から逃れられなくなってしまう。しかしそうではなく、人間という種、そして自分という存在も、もっと軽やかな、可塑性を持つものである。そしてそうであるが故に、その定義もまた、これから何をするかで決まっていく、そういう考え方が、『けものフレンズ』からは見いだせるのではないかと、僕は考えるんですね。

『けものフレンズ』はテン年代の『風の谷のナウシカ』になる!……かも

では、そんな「自らの定義を求める旅路」は、これからどこに向かうのか。しかしこれに関しては、僕は結構ドキドキしてこのアニメを見ています。なぜなら、このアニメはどうやら、ポスト・アポカリプス、つまり人類の終末後の世界を暗示しているような、そんな節があるからです。
図書館では一体どんな真実が待ち受けているのか。もしかばんちゃんが、自らの持つ知恵というツールが、時として他の種を滅ぼしたりする、そんなツールでもあることに気づいてしまったら……
しかし、もしそこでかばんちゃんがそんな真実を目撃して、それでも自らを否定せず、フレンズたちとともに歩む、そんな道を見つけ出したのなら、こりゃあひょっとすると、漫画版『風の谷のナウシカ』に匹敵するほどの傑作となる、そんな可能性もあります。

とにかく、キャラも可愛く、ストーリーも意外と深く、考察しようと思えばいくらでも考察できる、『けものフレンズ』はそんな作品です。まだみていないフレンズたちは、ぜひ見てみましょう!

*1:そのような問題は、「心脳問題」として問題になるそうですが、僕はそちらの問題については全然知らないので

デジタル一眼レフ(Nikon D5500)を買ったよ

というわけで、この前の記事
amamako.hateblo.jp
から数日も立っていないにも関わらず、デジタル一眼レフ、買っちゃいました。
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※この写真は前回紹介したコンデジSony RX-100で撮ったものです。

なんかもうちょっと我慢してコンパクトデジカメで撮ろうかと思ってたんですが、「将来デジイチを買ったときに、コンデジで撮った写真を見て『あー、この写真、デジイチで撮ってればよかったなー』と後悔しないだろうか」という思いが写真を撮るごとに強くなっていって、それでとうとう、買ってしまいました。
ま、結論から言えば、なかなか楽しいです。しかし、どんどんお金が減っていく……

デジタル一眼レフは、コンデジより決断的

窓の外向いている
RX-100というコンパクトデジカメと比べながらデジタル一眼レフを触っていると、まず最初に思うのが、「あれ、これ結構機能少ないな」ということです。
レンズキットのレンズだと、RX-100のレンズより開放F値は高く、一方ズーム倍率は高くない*1し、コンパクトデジカメは撮る前に、画面でF値とか露出とかホワイトバランスとかをいじった写真がどうなるか確認できますが、デジタル一眼レフのファインダーだと撮ってみるまでわからない(ライブビューにすれば画面で確認できるけど)。コンパクトデジカメより高いから、いろいろな機能があると思いきや、結構機能の数自体は、コンパクトデジカメのほうが多機能だったりします。
ただ一方で、画質とかはやっぱ全然違って、デジタル一眼レフのほうが綺麗です。
そのような違いがあることにより、撮影がどう変わるか。
少なくとも僕の場合は、写真を撮るという行為が、より決断的なものになっていく、そんな気がします。
コンパクトデジカメを持って撮影しているときは、何かを撮ろうとしたとき、適当にカメラを構えて、ズーム倍率とかF値とかを適当にいじっていればそれっぽくなるので、それを撮る、で、撮った写真はまるごとスマホとかに保存すると、そんなフローなんですが、デジタル一眼レフの場合は、まず撮る前に、そもそも本当に撮りたいかとか、それのどんなところを強調したいかとかを考えた上で、設定とか位置・構図とかも決めて、さあ撮るぞと思って撮る。で、撮って、家に帰ってきたときにそれをパソコンで確認して、あーこれはうまくいったなとか、これはちょっと駄目だったなとか考える、そんな風なフローへと変化しました。
何より画質が段違いだから、家に帰って写真を見ると、うまくいった写真はすごくきれいに見える。その一方で、失敗写真は、もろに失敗だと分かっちゃうんです。だから、よりきちんと考えて決めた上で、撮ろうとする、少なくとも僕の場合そんな感じです。

自分の評価と世間の評価

神社
ただ他方で、「成功」、「失敗」の基準がわかりにくいのも、まあ写真というもので。
これは、この前美術館で写真を色々見てきたときにも感じたことなんですけど、美術館で展示されるような、一般的に「鑑賞する価値がある」とされる写真でも、ある写真についてはすごい綺麗だなとか、心動かされるなとか思う一方で、そんなに綺麗ではないし、見てもなんの感慨もわかないなと思う写真もあったりするわけです。
それはインターネットで探す写真でも同じことで、多くの人に賞賛されている写真でも、自分には合わない写真もある一方で、特に注目されてない写真でも、「これいいな」と思う写真が色々あったりするわけです。
ということは自分が撮る写真の場合も、自分がいくら良いと思っても全く評価されないこともあるし、自分がそれほどいいと思わなくても他人には評価されることだってあるかもしれない。自分がいいと思う写真を撮りたいなと思う一方で、他人からSNSとかで「いいね」もほしいわけで、どっちに寄せるつもりで写真を撮るか、凡庸な悩みではありますが、悩んでしまうわけです。
ペットボトル風車

被写体と波長が合うか

ただそんな中でも、「これは譲れないな」と思うポイントがあったりします。それは「被写体と波長が合うか」ということです。
よく、「写真は、自分が好きなものを撮るのが一番」という人がいます。ただ僕の場合、好きなものと波長が合うものっていうのはあまり関係がないんですね。例えば、食べ物写真とかありますが、たとえ自分が好きな食べ物でも、どうも僕の場合、食べ物とは波長が合わないです。
これは、もちろん第一に食べ物写真を撮る技術が足りてないという問題があったりします。が、それを脇においても、やっぱり食べ物については納得がいく写真が撮れる気がしないのです。
マグロ丼
また、鉄道も好きなんですが、これも撮るとどうもうまく行かなかったりします。
軽便鉄道に使われていた蒸気機関車
一方で、自分が特に興味ないものでも、ファインダー越しに撮影すると途端に波長が合ったりもするわけです。例えば、何の変哲もない貯蔵タンク。
古びたタンク
あるいは、看板。
立入禁止
あと、そこらへんを飛んでいる鳥
着地する鳥
こういったものは、普段なら好きどころか興味もわかないんですが、写真の題材にすると何故か結構(自分の中では)かっこよく写るんです。
ここらへんの、「どの被写体と自分の波長が合うか」というのは、自分で写真を色々試してみないとわからないことなんだろうなと、思ったりします。

*

というわけで、連々と書いてきましたが、いやー、なかなか奥が深くて楽しいです。
ただ、やっぱレンズキット付属のレンズだけだと色々限界とかも感じるわけで、早速単焦点レンズをポチってしまいました。

Nikon 単焦点レンズ AF-S DX NIKKOR 35mm f/1.8G ニコンDXフォーマット専用

Nikon 単焦点レンズ AF-S DX NIKKOR 35mm f/1.8G ニコンDXフォーマット専用

ああ、どんどんお金が減っていく……

*1:これは、RX-100の性能が良すぎるっていうのもありますが

横浜~東京~沼津、写真を見て撮る

せっかくいいカメラ持ってるんだから、もっと色々写真を見て、カッコイイ写真のコツをつかみ、それで写真を撮ったりしたい。
ということで、ちょうど東京に行く予定があったので、ついでに美術館へ写真を見に行ったり、博物館へ行ったり、水族館へ行ってきたりしました。

一日目

まずは横浜へ行き
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横浜美術館
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篠山紀信展を見ました。
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篠山紀信展 写真力 | THE PEOPLE by KISHIN
篠山紀信展は、とても分かりやすくカッコよかったり可愛かったりきれいだったりして、あとそれから大判で写真を見るという機会もそんなにないので、それは良かったです。
でもなー、ポートレート写真とかはあんまり撮らないからな―、人間とコミュニケーション撮って写真撮るとか嫌だし。でもとりあえず、なんか感情が写真に宿っていると、写真は良くなるというのが分かったのは、役に立つかもしれない。
ついでにコレクション展の方も鑑賞。こちらは写真に撮っていいみたいだったので写真に撮る。
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林忠彦の戦後の混乱期の写真とかが結構カッコよかったです。時代性もあるんだろうけど、なんかこうモチーフ選びもうまいし、モチーフにうまく注目させる背景を選んでいるというか。

カストリ時代―レンズが見た昭和20年代・東京 (朝日文庫)

カストリ時代―レンズが見た昭和20年代・東京 (朝日文庫)

あと、森山大道の写真とか、実際に見てみるとやっぱり良いもんですね。でもこれを真似するのは大変なんだろうなぁ。
森山大道 路上スナップのススメ (光文社新書)

森山大道 路上スナップのススメ (光文社新書)

本買ってみたけど、やっぱり真似できそうにない……
あと、写真の歴史ということで、キャパのこんな写真も。
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トロツキー萌え。
というわけで、さあ写真を一杯見たし、今度は自分で撮ってみようということで、みなとみらい線に乗り、横浜中華街へ。
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うーん。
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うーむ。
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むむむ。
っていうか、もう快晴すぎて露出がうまく行かないのよ。うん、かの人もこう言っている。「ピーカン不許可」と。というわけで早々に切り上げる。
その後今度は、みなとみらい線東横線日比谷線を乗り継ぎ、恵比寿の東京都写真美術館へ。
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topmuseum.jp
ここでは一部写真撮影可。
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ほうほう。
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ふむふむ。
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なるほど。
うむ、わからなくなった……
いや、篠山紀信展とは違って、建築写真とかスナップ写真とか中心だから、より参考にはなるはずなのよ。なるはずなんだけど……
例えば極めてはっきりと、ある1つのモチーフを前面に打ち出し、それ以外はまったく構図内にない写真があったとする。それを見て僕は「そうか、やっぱり写真は、その構図の中に無駄なものが1つとしてあってはいけないんだな」と思うわけです。
ところがその次に見る写真では、極めて雑然と、いろいろなものがごちゃごちゃ構図内に写り込んでいる写真があったりするわけです。で、なおもたちが悪いことに、そのどちらも、僕から見るといい写真だったりするわけですよ。そんな感じで、何か1つ「これがカッコイイ写真のコツかな」というのがつかめたかと思うと、すぐそのコツとは違う写真が現れてきたりするわけで、まあ、「みんなちがって、みんないい」ぐらいの小並感しか浮かばなくなってしまうのです。
ただひとつ言えることは、「写真は自由に発想していい」ということと「一旦何かを思いついたら、やり過ぎになるまでそれを突き詰める」ということですかね。中途半端はよくない。うん。
と、なんとか教訓らしきものを見出した上で、実際に外で写真を撮ってみる。
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……なんかこう、「なんでも撮っとけばあとから『これがアートだ』って言い訳できるだろ」的な邪念が写真に現れているような写真になってしまいました。
これではいかん、ということで今度は上野の国立科学博物館へ。
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www.kahaku.go.jp
まずは建物を。
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科博の建物は普通に撮るだけで様になるから良いよなぁ。続いて展示物
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うむ、カッコイイ。結局なんのかんの言って、被写体なのかなぁ写真は。
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というわけで、その日は金曜日だったので20時まで博物館に居た。その後、浅草のカプセルホテルで就寝。
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カプセルホテルは、もうあまり泊まりたくないです。

2日目

2日目は、銀座に行き、幾つか写真を取って
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一通り自分の腕前にがっかりした後、先日の記事
amamako.hateblo.jp
で取り上げた集まりに出席しました。

3日目

3日目は、東京駅から踊り子号に乗って
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伊豆長岡駅まで行き、そこから伊豆箱根バスラブライブ!サンシャインラッピングバス
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に乗って、伊豆・三津シーパラダイスに来ました。
www.izuhakone.co.jp
目当ては、まあラブライブ!サンシャイン
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もあるんですが、それに加えて、生き物写真というのをちょっと水族館で練習したいなと思ったわけです。
で、結果はこちら。
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まーあれです、屋内でしかもちょっと暗く光量が少ない中で、動くものを撮るって難しいんですねー。
というわけで、F値を最大にして絞りを開放した上で、ギリギリまでシャッタースピードを上げて、なんとか止まっているところを狙って写真を撮ってみます。
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まあまあ、うまくいったんじゃないでしょうか。単調さは否めないもの。
ついでに、外でイルカとかアシカとかセイウチとかが出ているショーがやっていたのでそれも撮る。
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これはなんかあからさまに旅行写真って感じだな―。
一通り見物した後、今度は東海バスラブライブ!サンシャインラッピングバスが出るので、それに乗って沼津駅まで行く。
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沼津駅前にはラブライブ!サンシャインのカフェがあるのでそこへ。
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www.yudai.co.jp
デザートと飲み物を頼み、コースターをもらう。
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一通りカフェ内を見物した後
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カフェを出て、ゲマズに寄って
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沼津駅に戻り、そこから帰路につきました。

最近デジカメを買いました

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最近↓のコンデジを買いまして、写真を撮ることにまあまあハマっております。

で、とりあえず花を撮ってみたり
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海まで行って海岸を撮ってみたりしているわけですが、そんな中で思ったことをつれづれと書いてみたり。

ボケ写真ってかんたん。パンフォーカスってむずい

とりあえずF値っていうのをむちゃくちゃ小さく、1.8とか2とかにすると、フォーカスが当たってないところ以外がぼけーっとした写真が撮れる。で、そういう写真は周りがぼけてるだけで結構それっぽくなる。かんたん。
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でもF値っていうやつを5以上ぐらいに大きくして写真を撮ると、全体にピントが合うんだけど、そうするとなんかいかにも素人が撮ったって感じの写真になる。カッコつけるためにわざわざデジカメ買ったのに、これはよくない。
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だけど周りがボケてる写真ばっか撮るのもなんかつまらないし、そもそも全体がきちんと写ってないものより、全体がきちんと写っている写真のほうが、情報量がきちんと多くて好きなんだよな。

構図は難しい

構図について色々記事を読む。
liginc.co.jp
そうすると、読んだ瞬間には「なるほど、こういう風に写真を撮ればカッコイイのか!」と思う。
ところがではじゃあ実際写真を撮ってみようとなると、読んだ構図のことなんかほぼ忘れてるし、覚えていても、都合よくそんな構図に当てはまる光景なんか見つからない。
結局、三分割構図に頼るわけである。
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おそらく構図の知識というのは、数多く写真を撮った後に、「あ、あの写真はこういう構図で撮ればよかった」と思い出し、身につけていくものなのだろう。うんそうだ、そうにちがいない(と、自分をなぐさめる)。
ま、とりあえずは「世はなべて3分の1」という言葉だけを目安にすることとする。

写真を見るのは楽しくなる。が、役には立たない

で、それでもなんとかカッコイイ写真を手っ取り早く取りたい僕としては、500pxとかの写真投稿サイトを見て、なんとかカッコイイ写真を撮るコツを身に着けようとする。
500px.com
そうすると、自分で写真を撮るようになる前だと、綺麗な写真を見ても、「ふーん、綺麗だなー」で済ませていたのが、自分で写真を撮るようになると「これってどうやって撮ったんだろう、こういう風に撮ったのかなぁ」と、以前より写真を見るのが楽しくなっていることに気づいたりします。
これは結構な収穫でした。
しかし、綺麗な写真を見たからと言って写真はそんな急にうまくなりません。これもまた事実です。

写真・カメラネタの記事やマンガが面白くなる

また、自分で写真を撮るようになり、写真・カメラについて情報を集めるようになると、写真・カメラを題材にした記事やマンガが楽しくなります。
togetter.com
teikokulunch.booth.pm
getnavi.jp
ていうか世の中けっこうカメラをテーマにしたマンガってあるもんなんですね。

結局一眼レフが欲しくなる

で、そうやってマンガとかで知識を得たりしていると……やっぱり一眼レフが欲しくなるわけです。
やっぱ画質がぜんぜん違うんだろうなぁ……レンズとかも選べば今とはぜんぜん違う写真が撮れるんだろうなぁ……
EOS Kiss X7、これ結構安いじゃん。

でもキヤノンかあ、キヤノンは嫌いだなぁ*1。というとニコンのD5500とかかなぁと、順調に沼にハマっていくわけです。いかんいかん。

このはてなの片隅で「何」を叫ぶ?

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先日銀座でこんな集まりがありまして、最近のはてなとかその他インターネットに関して色々話を聞いてきました。
そんな中で特に自分が気になったことについてまとめてみたり。

承認欲求から所属欲求へ

人々を動かす欲求が、承認欲求から所属欲求へと変わりつつあるという大きな流れがインターネット上であり、ブログからSNSへの移行や、いわゆる「互助会」なるものの出現もそういう文脈からまとめることができるのではないかという話が、シロクマ先生(id:p-shirokuma)からありました。
p-shirokuma.hatenadiary.com
p-shirokuma.hatenadiary.com
考えてみるとたしかに、昔のはてなとかによくあった「こんな『私』の存在・主張・考え方を知ってくれ、認めてくれ!」みたいな文章っていうのは割と少なくなってきた一方で、それこそ「私はこんな人たちと仲いいですよー」みたいないわゆる互助会的コミュニケーションであったり、「これが好きな人集まれ」みたいな仲間探し記事、あるいがあるあるネタや共感を求める文章や、「こんなものが最近巷で人気みたいですよ」みたいなアフィ記事はどんどん多くなっている気がしますし、そんな中でウェブ炎上も、何か強烈な個性が疎まれて起きるような炎上から、ある集団では当たり前だったことが、別の集団や社会一般では当たり前ではなかった結果起きる炎上へと、炎上の性質が大きく変わってきているように見えます。

炎上への恐怖

また、ブログであんまり記事が書かれない一方で、はてな匿名ダイアリー、いわゆる増田では相変わらず多くの記事が投稿され、その中には色々な意味で「興味深い」記事が投稿されているということも、集まりでは話題になりました。
そして、増田に投稿する理由として、自分のブログより増田のほうが見ている人が多いという理由もある中で、ある参加者が挙げていたのが「増田に投稿するのは、炎上が怖くて自分のブログには書けないような記事」が多いという理由でした。
僕なんかはついつい、炎上をするほど注目されるような記事なら、それこそ自分のブログに書いて、より自分に注目してほしいと思うような人間なんですが、まあ世の中むしろそういう人間のほうが(当たり前ですが)少ないみたいで、炎上をリスクと捉えて、そのリスクを上回るほどのリターンが見込めない限り、自分のブログには書かないそうです。

炎上耐性の強い人

集まりでは他にも、1つ自分が何をやっても賞賛されるようなクラスタを持っていると、別のクラスタでいくら評判が落ちても、生き残れるよねという話をしたりしました。
例に出ていたのはNewsPicksというソーシャルブックマークサイトで、はてなとかtwitterとかで何回も何回も炎上しているような人でも、このNewsPicksというサイトでは賞賛されるという人が結構多いそうです。
逆に、色々なクラスタで広く薄く人気を得ているという人は、1つ失敗してしまうと、全方位から叩かれてしまうために、意外と炎上耐性が低いわけです。
何をやっても賞賛するような信者を抱えるっていうのは、その中で社会一般と徐々にズレが生じたり、倫理観が麻痺していってしまうという点で、危ういとは思うのですが、しかし一方でネット上での精神衛生上は、そのほうが健康を保てるともいえるわけで、なかなか難しい問題です。

認知の歪み

で、上記の問題と関連する問題なのが、ある主義・主張を一旦持ってしまうと、それに反するような情報そのものを知ろうとしなくなってしまうという、認知の歪みの問題です。
この問題の何が厄介かって、結局前項の問題と一緒で、社会倫理とかそういう問題を無視して考えるなら、自分の主義主張と同じような主義主張の人と付き合ったり、そういう考えを支持してくれるような情報ばかり摂取するほうが、その人の心は楽であるという問題です。「自分と違う意見の人の意見にもきちんと耳を傾け理解し、その人と対話するようにしよう」とは聞こえは良いですが、しかし実際はとてつもなくしんどいですし、だいたいtwitterとかをみても、そうやって他者と対話を試みる人ほど疲弊して不健康に見えます。
個々人の心の健康と、民主主義社会の倫理との間の対立、実はこれって結構真剣に悩ましい問題なのではないかと、思ったりします。

このはてなの片隅で

とまあ、いろんな話がでてきた集まりだったんですが、そんな集まりを終えて、僕は今こんなことを考えています。それは
「このはてなの片隅で『アイ(I=私)』を叫ぶことが可能なのだろうか」
ということです。
というのも、話せば話すほど、昨今のインターネットというのは、おぼろげながらもかろうじて存在していた、「私」という存在が溶解していっているのではないかと、不安を抱くようになったからです。
承認欲求はたしかにキモいです。自分を承認してくれとか殊更に叫ぶ存在なんか鬱陶しくて仕方ありません。でも、そのキモさって、言ってみれば他者が他者であることのキモさそのものなわけです。あなたは自分とは違う人間なのに、ずうずうしくも自分の近くに来ようとする。そこでキモさを感じながらも、まあまあなんとかその他者と他者として、拒絶しながらも受容していく、そんな微妙な関係が結ばれるわけです。
しかし所属欲求は違って、むしろ心地よいです。「あなたも私も同じものに所属しているんだよ」というわけですから。同じ旗を振って、同じ行動をし、同じ思考をする。そこには他者との緊張関係というものはまるでありません。でももし、その同じ所属している集団が暴走し、危うい方向に行ったとき、所属欲求にもとづいて動く人間がそれを止められるか?それは無理でしょう。なぜなら集団の動きに反して動くというのは、結局多かれ少なかれ、個として動くという点で、承認欲求的だからです。しかし現在のインターネットは、所属欲求ドリブンで動いている。とすれば、結局その行き着く先は、どうあがいたとしても、それぞれの集団が閉じこもり、自分たちの集団の思想や好みをより強化していく方向にしか情報を摂取しない、「閉じこもるインターネット」でしかなくなってしまうのではないか、そんなことを思うのです。

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

ただ、ではそれを「悪いこと」だと指弾すれば解決するかといえば、そんな単純な問題でもないでしょう。なぜなら、そうやって何かに所属することで一体感を得るというのは、それが良いか悪いかはさておいても、とにかく「心地よい」ことだからです。快/不快という基準に則る限り、肯定するしかないのです。
しかしそれでも、少なくとも僕は、このインターネット上で「アイ(I=私)」を叫び続けたいと、そう思うのです。それは、結局僕が承認欲求に囚われたオールドタイプな人間だからなのかもしれません。ですがやはり僕は、それがどんなにキモくて時代錯誤でも、承認欲求を声高に叫ぶ「私」にあふれていたあの頃のインターネットが好きだし、そして、たとえインターネットの大多数がそうではないとしても、ごく一部の片隅には、おぼろげながらも「私」をつかもうとする声が存在し続けると信じているし、そういう声とともに有りたいと、そう、願っているのです。

『大砲とスタンプ』の好きなキャラ・嫌いなキャラとか

なんか前回の記事
amamako.hateblo.jp
書き上げた後になって、「いやこんなこと書きたかったわけではないのになー」と思ったので、素直に書きたかったことを箇条書きメソッドで書いてみる

  • ガブリエラ・ラドワンスカ大佐はカッコイイよねほんと。有能すぎて鼻にかかるという人も居るかもしれないけど。
  • 大公軍側ではマンチコフ軍曹が好き。特に「ドンゾコ自由国」でのはしゃぎっぷりがもう愛おしくて。
    • というか「ドンゾコ自由国」編全体が好きなんだよね。人工国家ものって大好きだし。なんか祝祭感があるというか。
  • 逆に嫌いなキャラはスィナンだねぇ。
    • 人によってはああいうピカレスクで、どっちの陣営にも属さないニヒリスティックなキャラが好きなのかもしれないんだけど。どーも僕はそういうキャラ苦手だ。
  • そういえば、「イデオロギーに殉じる」ってタイプのキャラがほとんどいないよね。きちんと描かれてるキャラの中では囚人船のリーザンカぐらい?
    • リーザンカはぜひ再登場してほしいよね。
  • 「ドンゾコ自由国」編以外で特に好きなエピソードは、従軍記者編かなー。プロパガンダ戦の話とか好きなもんで
    • イヤなやつっぽくされたラジオ・メガフォンの記者だけど、僕はこういう敵キャラがいても良いんじゃないかと思ったので、死んじゃったのはもったいない
    • プロパガンダ戦の話は兵站の話からはズレちゃうんだろうけど、「戦線の後方の戦場」というテーマとは合ってると思うんで、もっと扱ってほしい

『大砲とスタンプ』を読んで―「戦争」のもう一つの姿

大砲とスタンプ』というマンガを読みました。

今(2017/01/15)だと1巻目がkindleで99円だったので、「それなら買って読んでみるか」と思って買ったのですが、これがもう面白くて一気に6巻まで一気読みしてしまいました。
このマンガは、ある戦争中の国において、前線の兵站、つまり武器・弾薬ですとか、それ以外にも食料・嗜好品・衣服といった、軍隊に必要なあらゆるものの補給を担当する「兵站軍」という軍隊の下士官が主人公として活躍するマンガです。
で、このマンガの何が面白いか。キャラクターたちそれぞれの個性や、登場する珍妙な兵器も大きな魅力の1つなんですが、やはり一番の魅力は、「兵站軍」という舞台設定の妙じゃないかと、僕は考えるんですね。
兵站軍という立ち位置から物語を描くことによって、この漫画は、他の戦争マンガとは一味違う視点から「戦争」を描いているのです。直接敵と殺し合いをする一兵卒の戦場から見たものでも、あるいは、どこの地域を獲得した・喪失したという、遠くの司令部の高所から見たものではない、ちょうど真ん中から見ている戦争マンガというのは、少なくとも僕はあまり知りません。
そしてこの『大砲とスタンプ』というマンガは、間近の下からでも、遠くの上からでもない、ちょうど真ん中の視点から戦争を描いているからこそ、戦争―特に近代以降のいわゆる「総力戦」―というものの重要な一側面を描いているのです。悲惨な殺し合いという側面、あるいは、領土や資源を取り合うゲームとしての側面ではない、近代における「戦争」を、描いているのです。
近代より昔、戦争というものは、あくまで一部の人達が、一部の場所で行う、限定的なものでした。もちろんその中でも悲惨な殺し合いはありましたし、戦場になってしまった場所では、破壊と搾取が行われていたわけですが、あくまでそれは限定的なもので、国家や世界全体を覆い尽くすようなものではなかったのです。
しかし近代以降、戦争は大きく変わります。国家が常備軍を持ち、徴兵制が整備されることによって、戦争は、その戦争に参加する国民すべてが関与するものとなり、飛行機などの輸送技術の進歩により、戦場の最前線ではない場所でも、兵器や軍隊に必要な物資の製造が行われるようになり、そしてそれゆえに、戦略兵器やゲリラ戦といった、戦線の後方でも、殺戮や破壊が行われるようになっていったのです。近代戦において兵站が特に重要視されるようになったのは、まさにこのような戦争の本質の変化にあります。その本質の変化は、一言で言うなら「戦争の生活空間への侵食」と言えるでしょう。
大砲とスタンプ』という作品において、主人公が属する兵站軍は、ごく単純に言うなら、戦線以外の場所からいかに物資を調達し、実際に戦う最前線にその物資を送るかという役割を担っています、それは、まさに上記で言う侵食の尖兵に位置するという役割と、言えるでしょう。
ただ、そこでこの作品がすごいのは、その侵食を単純に「人々の生活を踏みにじる存在」として描いていないという点です。兵站軍は、むしろ物資の調達先に対して極めて低姿勢で紳士な態度で接しています。むしろ市民の側のほうが、いかに戦争を利用してやろうかと考えているのです。
そして、そこで生活空間と戦争を結ぶ媒介物となっているものが、主人公の個性を支える重要な要素でもある官僚主義、そしてそれを支える「官僚制」なのです。
セクショナリズム・文書主義・規則の遵守、こういった官僚制の特色は従来の戦争描写ではいの一番に否定されるものです。しかしこのマンガにおいて主人公たちが属する兵站軍は、むしろその否定されがちなものがあるからこそ、横領や略奪といった不正に対抗できるのです。
大砲とスタンプ』において主人公たちがばらまく軍票は、まさにその代表例です。もし戦争が単なる野蛮な殺し合いならば、軍票なんてものは発行せず、どんどん市民から物資を略奪していけば良いのです。しかしそんなことをすれば、市民からはどんどん反発されていく。そこで軍票を与えることにより、一応の体裁を整える。そしてその体裁があるからこそ、戦争というものが、生活空間に侵食していくことが可能となるのです。
しかしここで、僕はどうしても、そのように、戦争が「官僚制」というものを媒介として生活空間に全面化していった結果生まれた最悪の帰結を思い起こさずに入られません。それは、ホロコーストであり、そしてそれを忠実に実行したアイヒマンという存在です。
イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

アイヒマンはホロコーストを実際に指揮しましたが、しかしそれは決して、彼自身が特別残虐な人間だったからとか、ユダヤ人に対する強い憎しみを抱いていたから、といった理由によるものではありませんでした。そうではなく、彼は規則や命令を忠実に実行する、優秀で真面目な人間だったからこそ、上から受けた「ユダヤ人絶滅」という命令を、合理的かつ効率的に実行していったのです、そういった意味で、アイヒマンはまさに「官僚制」の申し子だったと言えるでしょう。
これは戦争という状況において、官僚制というものが生み出す最悪の帰結です。が、決して例外的なものではないでしょう。近代以降の戦争が、国家全体を巻き込むものになったことにより、戦争における「敵」というものも、敵国全体を指すものとなり、その敵を殲滅するために、戦略爆撃核兵器民族浄化といったあらゆる手段が、「戦争における勝利」という究極目的のための合理的手段として、正当化されるようになったのです。
大砲とスタンプ』の最新刊である6巻ラストでは、それまで描かれなかったような衝撃的なシーンが描かれています。詳細は、ネタバレになってしまうので書きませんが、僕の見立てでは、この展開はまさにそういった問題に切り込む描写なのだと思います。
ここから作者がどのように物語を紡ぐのか。要注目だと思います。
と、こう書いてしまうとなんかえらく真面目な話のように感じてしまうと思いますが、それはあくまでこの作品を見て僕が連想したことに過ぎません。実際はむしろギャグ・ユーモアあり、個性的なキャラクターたちの活躍ありの、肩肘張らずに楽しめる面白い作品ですので、そこは勘違いなさぬよう。