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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

『けものフレンズ』は、むしろ私たちに違ったあり様の「知性」を教えてくれるのだ

けものフレンズ

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

けものフレンズについて、「知能を低下させるアニメ」という評価があります。けものフレンズを見ている人が「すごーい!」「たのしー!」としか呟かなくなることなどからそう言われるようです。
これに対しては、しかしさまざまな人々から、「けものフレンズは知能を低下させるのではなく、むしろそれを高めてくれるものだ。」という反論がなされています。
anond.hatelabo.jp
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僕もこれらの反論に全面的に賛同します。
ただその一方で、このけものフレンズを見ていると自分たちの知能が低下してしまうのではないか、という不安も全く根拠のないものではないと、僕は考えるのですね。
なぜなら、けものフレンズという作品には、私たちが普段「知能」と呼んでいるもの、その根拠となる「近代的知性」を相対化し、揺さぶってくる「フレンズ的知性」があるからです。このフレンズ的知性は、私達が普段「知能」と呼んでいるものとは全く異なる考え方をします。だから一見すると、「知能」を衰退させるものとして写ってしまう。
でも違うんです。近代人が言う「知能」とは、違うあり様の知性が、けものフレンズという作品には込められており、むしろ、そのような知性こそが、現代の私たちが真に手に入れるべきものであるとさえ、言えるのです。
では、そのような「フレンズ的知性」とは一体何か。何が「近代的知性」と異なってくるのか。キーワードは次の3つです。

  • 「孤立」ではなく「共同」
  • 「競争」ではなく「互助」
  • 「啓蒙」ではなく「内発」

どういうことか、これから説明していきます。

「孤立」ではなく「共同」

近代においては「一人ですべて考え、決めること」が重要視され、「内省」というものが文学においても特別視されてきました。
自分がいかなる存在であり、他者とは一体どうやって付き合っていけばいいか、世界とは一体どういうものなのか。そういったことは、一人で延々と考え、自分の中で答えを見つけだすことが重要であり、他者の言葉などに影響されるのはよくないとされてきたのです。
しかし、このような考え方は、現代においてはむしろ答えの出ない悩みに人々を追い込んでしまっています。これについては、前回の記事で心理主義というキーワードを元に解説したので、ご参照ください。
『けものフレンズ』が僕たちに見せてくれる新しい「人間」の形 - あままこのブログ
一方、けものフレンズにおいては、そのような問いは一人で延々と考えるものではありません。「君は○○が得意なフレンズなんだね!」という言葉に代表されるように、自分という存在は、自分が内心で自分のことをどう思っているかではなく、自分が何ができるか、そしてそれによってどう周りに貢献できるかによって決まってくるのです。
つまり、悩みはみんなで分かち合い、そして答えを出すものなのです。例えばけものフレンズの3話において、トキちゃんはかばんちゃんに歌うコツを聞き、アルパカちゃんは喫茶店を繁盛させる方法についてアドバイスを得ましたし、5話において、ビーバーちゃんとプレーリードッグちゃんは、「住むところがない」という悩みを、二人で共同して意見を出し合い、仕事をすることによって解決できました。このように、一人で抱え込んで「孤立」するのではなく、みんなで「共同」することによって問題を解決すること、このような形の知性こそが、けものフレンズにおいては重要とされています。
これは、とかく主人公一人に問題を押し付けがちな、日本のサブカルチャーにおいては画期的なことです。以前著者は、『風の谷のナウシカ』という作品について、「ナウシカが問題をすべて一人で抱え込みすぎているのでないか」という批評をしたことがありましたが*1、この点に関して言うならば、実はとっくに「けものフレンズはナウシカを超えた」とさえ、言えると僕は考えます。
そして、このような形の新しい知能を、「IQ」とは異なる知能、「EQ」として捉えるという考え方もあるそうです。IQが自分ひとりで黙々と問題を解いていくものであるのに対し、EQは、人とどのように付き合い、問題を共同して解決していくか、その能力を測るものです。

EQ こころの知能指数 (講談社+α文庫)

EQ こころの知能指数 (講談社+α文庫)

そして、実は「けものフレンズ」についても、「すごーい」「そうなんだー」「たのしー」というフレンズ文法が、チームで仕事をするにあたっては、コミュニケーションを円滑にし、極めて有用に働くということが指摘されています。
tech.misoca.jp

  • フレンズ文法は、基本的にポジティブにフレーミングした上で発言する文法だ!
    • 〇〇が苦手なフレンズなんだね!へーきへーき!フレンズによってとくいなことちがうから!
    • 〇〇が得意なフレンズなんだね!すごーい!
  • 謙虚(Humility) 尊敬(Respect) 信頼(Trust) だ!

nuryouguda.hatenablog.com
あなたが仕事をしたり勉強をするときに、本当に必要なのは、一人で黙々と知能テストを解く能力ですか、それとも、チームみんなと協力する能力ですか?
その点を考えただけでも、けものフレンズはむしろ、本当に私たちが必要とする「知能」を高めてくれるものであることが、分かると思います。

「競争」ではなく「互助」

けものフレンズのフレンズたちは、誰かを助けるために何かをすることを厭いません。かばんちゃんやサーバルちゃんが何か困っていれば他のフレンズを助けますし、また、かばんちゃんやサーバルちゃんも、誰かが困っていたらなんとかしてその子を助けようとします。また、渡し船をしているジャガーさんや、喫茶店を開いているアルパカさんのように、なんの見返りを求めることなく常に生活の中で誰かを助けているフレンズたちも居ます。
それに対して、現在の私たちの行動は基本的には、「競争をし、誰かを出し抜く」ことを基本としています。学校では、テストで他人より高い評価を得ることによって相対的評価を高めようとし、仕事ではライバル企業と競争し、相手を市場から蹴落とそうとします。そしてそのように競争によって自分の利益を最大化しようとすることが、社会全体を発展させ、結果的に人々をみんな幸福にするのだと、信じています。
ですが本当にそうでしょうか?例えば、震災の時、みんなが水を欲しがっているときだから、水を自分の手元に独占して価格を吊り上げることが、合理的行動だから良いのだと言った人がいました。なるほど確かに競争に勝って自分の利益を最大化することが、「近代的知性」においては善とされています。
ですが、「フレンズ的知性」においては、どうでしょうか。「みんなが水を求めて困ってるんだから、みんなで水を分配すれば良いんじゃないのかなぁ」と考えるでしょう。
では、この2つの内、より人々を幸せにする知性はどちらでしょう?
また、「近代的知性」では、競争によって自己の利益を最大化することが重要とされますから、他人を常に用/不用の基準で判断します。そしてその視点からは、劣った存在である高齢者や病者・障がい者は、不用な存在であり、突き詰めて考えれば、そのような存在は生かしておくこと自体がもったいないということになります。
しかし「フレンズ的知性」においては、そのような価値によって仕分けはされません。ただ、「フレンズであること」が重要なのです。もちろん、それぞれのフレンズに得意なこと/苦手なことはあります。ですが、一見何も得意なことがなにもないように見えるかばんちゃんに対しても、サーバルちゃんや他のフレンズは決して見下したりしません。むしろ、積極的にかばんちゃんを助けようとします*2。おそらくそこでは、「共にあること」そのこと自体がフレンズにとってうれしい、幸福なことと認識されているのでしょう。
さて、この2つの知性のどちらがより人々を幸福にするのでしょうか。前者のような知性では、人々は常に自分が老人や病者・障がい者になることに怯えなければなりません。しかし、どんなに怯えたって人はふとした瞬間に病者・障がい者になってしまいますし、さらに言えば、人はだれでも年老いれば高齢者となります。そうなったときに、「君は不用な存在だから」と切り捨てられるのか、あるいは、「へーきへーき」と、むしろ共にあることに感謝してもらえるのか、僕は、後者のような社会を生む知性こそが、人々を幸福にすると断言します。

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

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「啓蒙」ではなく「内発」

かばんちゃんたちは図書館へと向かう旅先の途中で、フレンズたちが抱えている様々な問題に遭遇します。そして、その問題を解決するために、知恵を振り絞るわけですが、しかしその際にかばんちゃんは、常にそのフレンズそれぞれの特性を活かす方法で、問題を解決することを考えます。
そのことが一番顕著なのは、5話の家造りでしょう。5話において、ビーバーちゃんは、計画を実行する手順を考えることは得意でも、実際にその手順を実行することは苦手です。そしてその一方、プレーリードッグちゃんはなにかを実行することは得意でも、その手順を計画することが苦手なのです。
このような時、「近代的知性」にもとづいて考えるならば、教育≒啓蒙を行い、ビーバーちゃんに手順を実行することを、そしてプレーリードッグちゃんに手順を計画することを教え込もうとするでしょう。なぜなら「近代的知性」においては、すべての個人が一つの完成された「近代的自己」になることが求められ、その中で個々人が持っている特性は無視されなければならないからです。
しかし、かばんちゃんはそうはしませんでした。得意なこと/苦手なことという特性がそれぞれあるんだったら、その特性を否定するのではなく、活用しようとします。具体的には、二人で共同で家を作ることを提案したのです。そしてさらに、家の形も、それぞれが意見を自由に出し合い、それぞれの要望を出来る限り実現する形にしようとしたのです。
これは、同じ「異人*3たちがやってきて問題を解決する」という、近年アニメや漫画・ライトノベルに流行している作品のストーリーの中でも、かなり独特な方法です。それらの作品においては、異人たちはしばしば「転生者」としてやってきて、ただ自分のやり方を教育≒啓蒙というかたちで、押し付けて問題を解決しようとします。例えば、そういう作品の例として代表的な『まおゆう』という作品においては、魔王というキャラクターが転生者として現れ、中世以前の社会を、現代の近代的手法で「啓蒙」することによって変革しようとしますが、その過程においてはその世界の特性は完全に無視され、まるで出来の悪い歴史の教科書のように、ただ現実の歴史をなぞり、その中で乗じる悲劇も「発展のためにはしょうがないことだ」と無視します。
このようなやり方は、まさに「近代的知性」特有のものといえるでしょう。ある一つの理想形があって、それは万人が求めているものだと決めつける。そして、その理想形に至らせるやり方も一つであると決めつけ、やり方が一つだから、そのことで生じる犠牲も、「理想のためには仕方のないものだ」として許容されるのです。
しかし、「フレンズ的知性」のやり方は違います。そもそも、それぞれの地域・フレンズによって、理想とするものは全く異なってくるし、その理想を実現する方法も、多種多様なものなのです。そしてさらに言えば、その地域・フレンズの理想や、得意なこと・苦手なことについて、最もよく知っているのは、問題を抱えているフレンズ本人たちなのです。そのことは、かばんちゃんたちにとっては当然のことですから、自分のやり方を押しつけようとするのではなく、フレンズたちの特性を用いて何かできないかと、フレンズたちの試行錯誤を重要視しながら、考えるのです。そこには、「俺のやり方でやればうまくいくんだから黙って従え」というような、前節で挙げた「転生もの」特有の傲慢さはありません。
このように、その当事者自身で、当事者の特性を活かした形での、問題の解決を測ることは、近年「内発的発展」ですとか「当事者主義」として重要視されています。

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

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内発的発展論の展開

内発的発展論の展開

なぜこのような当事者自身が、当事者自身のやり方で問題を解決していくことが、重要視されているのか。その背景には「近代的知性」の、ある一つのやり方が最善で、それをみんながやればうまくいくという、「啓蒙主義」が、限界に来ているということが挙げられます。
例えば発展途上国支援。近代における西欧の発展が唯一存在する発展のやり方だとすれば、まず工場を作り、そしてその工場を支える社会インフラを作ることこそが、発展の唯一のやり方であるということになります。そして事実、発展途上国では「開発独裁」という、正しいやり方を国家が人々に押し付ける形で押し付けてきました。
しかしその結果生じたのが、地域の環境破壊であったり、社会構造の破壊によるセーフティーネットの無効化や、不平等の拡大などでした。そんな啓蒙主義の負の側面が明らかになる中で、近代西欧の発展方法のみが唯一のやり方ではないんじゃないんか、例えば自然豊かな地域なら、その自然を活かした形での発展があるのではないかとか、
フェアトレード―格差を生まない経済システム

フェアトレード―格差を生まない経済システム

宗教による不平等是正のシステムがあるのだったら、そのシステムを使ってベンチャー企業を支援したりすれば良いんではないかとか、
イスラム金融はなぜ強い (光文社新書)

イスラム金融はなぜ強い (光文社新書)

そういった様々な地域独自のやり方の模索がされるようになっているのです。
また、身近なところで言えば、「学校」という制度においても、「近代的教育」、つまり集団で机に座って同じ授業を受ける、そんなやり方から、個々人が自発的に学習をしていく、そんなやり方への移行が叫ばれています。
その理由の一つとしてあるのが、そのようなやり方は、机に座って授業を受けるのが苦にならない、いわゆる「定型発達者」にとってはよくても、そうでない「非定型発達者」にとってはとても苦痛になっているということが、近年気づかれるようになったということです。
それこそ例えば、けものフレンズの4話に出てきたスナネコちゃんのような存在が、机にじっと座ってただ黙々と板書を写す、みたいなことができるでしょうか?それより、スナネコちゃんがあれだけ好奇心があるんだから、その好奇心を活用して自分からいろんなことを調べられるような授業を行うほうが、よっぽど良いはずです。
このように、「近代的知性」に基づく「啓蒙」という方法が様々な点で限界に突き当たる中で、そうでない、「フレンズ的知性」に基づく「内発」という方法を知ることは、マクロな問題でもミクロな問題でも、きっと役立つはずです。そしてそのような「内発」というやり方について、けものフレンズは格好の教科書となるのです。

*

誤解があるといけないので一応言っておくと、僕は別に「近代的知性」をすべて捨て去り、「フレンズ的知性」に全面的に移行すべきというようなことを述べてるのではありません。前項で述べたとおり、方法は一つじゃないのですから、フレンズ的知性が有効な場面もあるように、近代的知性が有効な場面も当然あるでしょう。近代的知性がなかったら、あのジャパリパークを走るバスとかを一体誰が作れるのか。
そうではなく、重要なのは、「知能」、及びそれの基盤となる「近代的知性」とは、違ったあり様の「知性」があると知ることなのです。それは―例え表面上そう見えたとしても―決して「知能」を低くすることではありません。むしろ、「すごーい」「そうなんだー」「たのしー」という言葉を、そう言いたいことを感じたときに素直に言えるということ、それだって「知能」の一つなのではないでしょうか。
だから、とにかく言いたいことはただ一つなのです。


『けものフレンズ』、みよう!

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

*1:sjs7アーカイブ - 2008-08-15

*2:このことからも、けものフレンズに障害者がいたらこうなる。ワイが間違ってる?というしょーもない記事が端的に誤りであることがわかります

*3:ストレンジャー

『けものフレンズ』が僕たちに見せてくれる新しい「人間」の形

アニメ けものフレンズ

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『けものフレンズ』、自分もすっかりはまってしまっており、家に帰るとずっとdアニメストアでループ再生している、そんな感じの今日このごろです。

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

この作品に関しては、“はてな地方によくすむ、こうさつがとくいなフレンズ”の間でもすっかり人気を博しており、下記のような素晴らしい記事もたくさん書かれています。
honeshabri.hatenablog.com
ねこねこブログ : けものフレンズはなぜ見ていて泣きたくなるほど切ないのか。寂しいフレンズ達と題名『けものフレンズ』 - livedoor Blog(ブログ)
anond.hatelabo.jp
そんな中で自分がわざわざブログなんか書いても、屋上屋を架すようなことになるだけかなー、とも思うのですが、でもやっぱ書きたいので書きます。

『けものフレンズ』が打破する人間中心主義の隘路

自分がこの作品を見ていて一番好きなシーンは、サーバルちゃんと一緒に行動する、おそらく人間のかばんちゃんが、さまざまな特性を持つ他のフレンズに助けられながら進むその中で、セルリアンに対して紙飛行機を飛ばして気をそらしたり、川に橋をかけたりして、さまざまな「工夫」を編み出す、そんな瞬間だったりします。
なぜそのシーンが好きなのか。それは何より、人間というものが、他の動物とくらべて別に特別な存在ではない、フラットな立場にいる1つの「種」であること、そしてそのフラットな立場から、他の種との差異として、「知恵」を持っているということが描かれているという点にあります。
人間というのは他の動物とは違う、特別な存在であるというのは、長らく支配的な考え方でした。そして、その考え方の中心にあるのは、「人間には内面がある」という考え方です。人間ではない動物や物には、人間のように高度な自意識を持ったりすることがなく、自己というものに対して深く考えたり、文化を生み出したりすることができるのは人間だけ、だから人間は他の動物とは一線を画す特別な存在なんだと、そんな考え方です。このような考え方を「人間中心主義」といいます。
このような考えは、「人間であるかどうかが重要なんだから、人種とか性別の違いなんてそんなに重要ではない」という正の作用もありますが、しかし一方であまりに、だから人間には自然を自由にする権利があるんだというふうに考えることにより、自然破壊を引き起こしたり、内面や心というものを重視しすぎるあまり、そこですべての問題が解決できるのではないかという錯覚を引き起こしたりする、負の作用もあるわけです。
なかでも僕が問題視するのが、内面や心といったものに対する偏重です。「心の持ちよう」について私たちは深く考え過ぎるがあまり、袋小路に陥っているのではないでしょうか。
例えば、90年代に爆発的な人気を博したアニメとして、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品がありますが、これなんかはまさに、自分とはどういう存在であるかとか、他者とは一体どうやって付き合っていけばいいのかといった問題を、「心の持ちよう」の問題として引き寄せすぎたがために破綻した、代表的な作品といえます。

この作品は、結局は破綻した作品であるにも関わらず、後世の作品に大きな影響を与えました。ただ単純にロボットに乗って敵をやっつけたりするのではなく、自分がなぜロボットに乗るのか、なんで敵と戦うのか、そもそも、なんで自分は生きているのか、そんなことをアニメのキャラクターに考えさせることが、一種のステータスとなったのです。
そしてそのような風潮と軌を一にするかのようにして、カウンセリングや自己啓発セミナー、精神分析といったものがブームになり、「心の持ちようこそがすべての問題の根源である」というような言説が氾濫するようになりました。このような社会の風潮を、「心理主義(化)」といいます。ですが、ではそのような風潮によって人々は救われたのかといえば、むしろその反対でした。自己啓発セミナーによって自信を得たかと思えば、過剰な自信によってむしろ社会不適合を引き起こしたり、自分が自尊心を持てないのはすべて過去のトラウマが原因だというような(俗流?)精神分析によって、自称アダルト・チルドレンを大量に生み出したりと、人々の悩みはむしろ深くなる一方だったわけです。
このように人々が袋小路にハマる中で、「心のあり方とかについてグダグダ考えても仕方ない。とにかく行動あるのみだ」というような反動も生まれてきます。しかしそのような反動も、「心の持ちよう」へのこだわりからは抜け出せなかったため、「決断力を持つために強い『実存=心』こそが重要だ」というような、心理主義の別の有り様でしかなかったわけです。
では人々はどうやって心理主義から抜け出せるか。それには、そのような心理主義の根幹にある、「心を持っていることこそが人間の特殊性だ」という、人間中心主義からの脱却こそが、重要になるわけです。
これは、別に「心」の存在を否定する、というわけではありません*1。ただ、「心」というものを特別なものとして捉えるのではなく、人間が周囲の環境に適応するために生み出した知恵、ツールの一つとして捉え、それに固執しないことが重要になるのです。
人間は別に人類という種として分化したときから「心」、とくに「自意識」を持っていたわけではないという仮設があります。これは「二分心仮説」というもので、現在のような、自分と他人を明確に区別する、(自)意識が生まれたのは、今から3000年前ぐらいに、高度に分化した社会によるストレスになんとか適応しようとする中で、「幻聴」という形で自分の内なる声を生み出し、それがやがて「意識」と呼ばれるようになったという、そういう仮説です。
神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

ここで重要なのは、「意識」という、現在的な意味での心を生み出す基盤となるものでさえ、あくまでその時点での環境に適応するためのツールに過ぎなかったという点です。つまり、それは万能なものではなく、それがない頃にも人間は生きてきたし、これからも有用であるとは限らないのです。そして、現在まさに、「心」というツールが問題解決に限界を示している中で、「心の持ちよう」から抜け出すために、人間は一旦自分の持つ特権性から飛び降り、他の動物と同じフラットな存在として自己を再定義する必要があるのです。

「知恵を出して問題を解決する」ということこそが、人間というフレンズの得意なこと

そして、まさにそんな現在において、僕たちに、他の動物と同じ一つの「種」としての人間を見せてくれようとしている、そんな作品が、『けものフレンズ』なのだと、僕は考えるのです。
けものフレンズに登場するフレンズたちは、自分をその技能によって定義します。「○○がとくいなフレンズなんだね」というように。しかしそんな中で、人間であるかばんちゃんは自分の技能を見つけられません。もしそこで、ただ心のなかで「自分は一体何者なのか」と内省したりするなら、このアニメは凡百な心理主義アニメと成り果てていたでしょう。しかしそうではなく、自分が何者かを知るために「図書館」へと向かうわけです。そしてその度の途中で、「知恵を出して問題を解決する」という技能を用いるのです。
……もうおわかりでしょう。この、「知恵を出して問題を解決する」ということこそが、人間というフレンズの得意なことであり、人間というのを一つの「種」として定義づけるものなのです。
ここで重要なのが、「知恵を出して問題を解決する」ということが、先天的なものではなく、後天的な特徴であるということです。つまり、人間は最初から人間なのではなく、何かをなすことによって、定義を獲得し、人間になるのです。
そしてここにこそ、心理主義や人間中心主義の隘路を回避するヒントがあります。心理主義はあくまで自分の内面に答えを求めるものであり、そうであるが故に、自分という存在が既に決定されたものとして扱います。人間中心主義もまた同じで、人間というものが特権を持つ存在であると最初に決めてしまうがゆえに、その特権性から逃れられなくなってしまう。しかしそうではなく、人間という種、そして自分という存在も、もっと軽やかな、可塑性を持つものである。そしてそうであるが故に、その定義もまた、これから何をするかで決まっていく、そういう考え方が、『けものフレンズ』からは見いだせるのではないかと、僕は考えるんですね。

『けものフレンズ』はテン年代の『風の谷のナウシカ』になる!……かも

では、そんな「自らの定義を求める旅路」は、これからどこに向かうのか。しかしこれに関しては、僕は結構ドキドキしてこのアニメを見ています。なぜなら、このアニメはどうやら、ポスト・アポカリプス、つまり人類の終末後の世界を暗示しているような、そんな節があるからです。
図書館では一体どんな真実が待ち受けているのか。もしかばんちゃんが、自らの持つ知恵というツールが、時として他の種を滅ぼしたりする、そんなツールでもあることに気づいてしまったら……
しかし、もしそこでかばんちゃんがそんな真実を目撃して、それでも自らを否定せず、フレンズたちとともに歩む、そんな道を見つけ出したのなら、こりゃあひょっとすると、漫画版『風の谷のナウシカ』に匹敵するほどの傑作となる、そんな可能性もあります。

とにかく、キャラも可愛く、ストーリーも意外と深く、考察しようと思えばいくらでも考察できる、『けものフレンズ』はそんな作品です。まだみていないフレンズたちは、ぜひ見てみましょう!

*1:そのような問題は、「心脳問題」として問題になるそうですが、僕はそちらの問題については全然知らないので

デジタル一眼レフ(Nikon D5500)を買ったよ

カメラ 写真

というわけで、この前の記事
amamako.hateblo.jp
から数日も立っていないにも関わらず、デジタル一眼レフ、買っちゃいました。
f:id:amamako:20170203152902j:plain
※この写真は前回紹介したコンデジSony RX-100で撮ったものです。

なんかもうちょっと我慢してコンパクトデジカメで撮ろうかと思ってたんですが、「将来デジイチを買ったときに、コンデジで撮った写真を見て『あー、この写真、デジイチで撮ってればよかったなー』と後悔しないだろうか」という思いが写真を撮るごとに強くなっていって、それでとうとう、買ってしまいました。
ま、結論から言えば、なかなか楽しいです。しかし、どんどんお金が減っていく……

デジタル一眼レフは、コンデジより決断的

窓の外向いている
RX-100というコンパクトデジカメと比べながらデジタル一眼レフを触っていると、まず最初に思うのが、「あれ、これ結構機能少ないな」ということです。
レンズキットのレンズだと、RX-100のレンズより開放F値は高く、一方ズーム倍率は高くない*1し、コンパクトデジカメは撮る前に、画面でF値とか露出とかホワイトバランスとかをいじった写真がどうなるか確認できますが、デジタル一眼レフのファインダーだと撮ってみるまでわからない(ライブビューにすれば画面で確認できるけど)。コンパクトデジカメより高いから、いろいろな機能があると思いきや、結構機能の数自体は、コンパクトデジカメのほうが多機能だったりします。
ただ一方で、画質とかはやっぱ全然違って、デジタル一眼レフのほうが綺麗です。
そのような違いがあることにより、撮影がどう変わるか。
少なくとも僕の場合は、写真を撮るという行為が、より決断的なものになっていく、そんな気がします。
コンパクトデジカメを持って撮影しているときは、何かを撮ろうとしたとき、適当にカメラを構えて、ズーム倍率とかF値とかを適当にいじっていればそれっぽくなるので、それを撮る、で、撮った写真はまるごとスマホとかに保存すると、そんなフローなんですが、デジタル一眼レフの場合は、まず撮る前に、そもそも本当に撮りたいかとか、それのどんなところを強調したいかとかを考えた上で、設定とか位置・構図とかも決めて、さあ撮るぞと思って撮る。で、撮って、家に帰ってきたときにそれをパソコンで確認して、あーこれはうまくいったなとか、これはちょっと駄目だったなとか考える、そんな風なフローへと変化しました。
何より画質が段違いだから、家に帰って写真を見ると、うまくいった写真はすごくきれいに見える。その一方で、失敗写真は、もろに失敗だと分かっちゃうんです。だから、よりきちんと考えて決めた上で、撮ろうとする、少なくとも僕の場合そんな感じです。

自分の評価と世間の評価

神社
ただ他方で、「成功」、「失敗」の基準がわかりにくいのも、まあ写真というもので。
これは、この前美術館で写真を色々見てきたときにも感じたことなんですけど、美術館で展示されるような、一般的に「鑑賞する価値がある」とされる写真でも、ある写真についてはすごい綺麗だなとか、心動かされるなとか思う一方で、そんなに綺麗ではないし、見てもなんの感慨もわかないなと思う写真もあったりするわけです。
それはインターネットで探す写真でも同じことで、多くの人に賞賛されている写真でも、自分には合わない写真もある一方で、特に注目されてない写真でも、「これいいな」と思う写真が色々あったりするわけです。
ということは自分が撮る写真の場合も、自分がいくら良いと思っても全く評価されないこともあるし、自分がそれほどいいと思わなくても他人には評価されることだってあるかもしれない。自分がいいと思う写真を撮りたいなと思う一方で、他人からSNSとかで「いいね」もほしいわけで、どっちに寄せるつもりで写真を撮るか、凡庸な悩みではありますが、悩んでしまうわけです。
ペットボトル風車

被写体と波長が合うか

ただそんな中でも、「これは譲れないな」と思うポイントがあったりします。それは「被写体と波長が合うか」ということです。
よく、「写真は、自分が好きなものを撮るのが一番」という人がいます。ただ僕の場合、好きなものと波長が合うものっていうのはあまり関係がないんですね。例えば、食べ物写真とかありますが、たとえ自分が好きな食べ物でも、どうも僕の場合、食べ物とは波長が合わないです。
これは、もちろん第一に食べ物写真を撮る技術が足りてないという問題があったりします。が、それを脇においても、やっぱり食べ物については納得がいく写真が撮れる気がしないのです。
マグロ丼
また、鉄道も好きなんですが、これも撮るとどうもうまく行かなかったりします。
軽便鉄道に使われていた蒸気機関車
一方で、自分が特に興味ないものでも、ファインダー越しに撮影すると途端に波長が合ったりもするわけです。例えば、何の変哲もない貯蔵タンク。
古びたタンク
あるいは、看板。
立入禁止
あと、そこらへんを飛んでいる鳥
着地する鳥
こういったものは、普段なら好きどころか興味もわかないんですが、写真の題材にすると何故か結構(自分の中では)かっこよく写るんです。
ここらへんの、「どの被写体と自分の波長が合うか」というのは、自分で写真を色々試してみないとわからないことなんだろうなと、思ったりします。

*

というわけで、連々と書いてきましたが、いやー、なかなか奥が深くて楽しいです。
ただ、やっぱレンズキット付属のレンズだけだと色々限界とかも感じるわけで、早速単焦点レンズをポチってしまいました。

Nikon 単焦点レンズ AF-S DX NIKKOR 35mm f/1.8G ニコンDXフォーマット専用

Nikon 単焦点レンズ AF-S DX NIKKOR 35mm f/1.8G ニコンDXフォーマット専用

ああ、どんどんお金が減っていく……

*1:これは、RX-100の性能が良すぎるっていうのもありますが

横浜~東京~沼津、写真を見て撮る

写真 旅行

せっかくいいカメラ持ってるんだから、もっと色々写真を見て、カッコイイ写真のコツをつかみ、それで写真を撮ったりしたい。
ということで、ちょうど東京に行く予定があったので、ついでに美術館へ写真を見に行ったり、博物館へ行ったり、水族館へ行ってきたりしました。

一日目

まずは横浜へ行き
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横浜美術館
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篠山紀信展を見ました。
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篠山紀信展 写真力 | THE PEOPLE by KISHIN
篠山紀信展は、とても分かりやすくカッコよかったり可愛かったりきれいだったりして、あとそれから大判で写真を見るという機会もそんなにないので、それは良かったです。
でもなー、ポートレート写真とかはあんまり撮らないからな―、人間とコミュニケーション撮って写真撮るとか嫌だし。でもとりあえず、なんか感情が写真に宿っていると、写真は良くなるというのが分かったのは、役に立つかもしれない。
ついでにコレクション展の方も鑑賞。こちらは写真に撮っていいみたいだったので写真に撮る。
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林忠彦の戦後の混乱期の写真とかが結構カッコよかったです。時代性もあるんだろうけど、なんかこうモチーフ選びもうまいし、モチーフにうまく注目させる背景を選んでいるというか。

カストリ時代―レンズが見た昭和20年代・東京 (朝日文庫)

カストリ時代―レンズが見た昭和20年代・東京 (朝日文庫)

あと、森山大道の写真とか、実際に見てみるとやっぱり良いもんですね。でもこれを真似するのは大変なんだろうなぁ。
森山大道 路上スナップのススメ (光文社新書)

森山大道 路上スナップのススメ (光文社新書)

本買ってみたけど、やっぱり真似できそうにない……
あと、写真の歴史ということで、キャパのこんな写真も。
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トロツキー萌え。
というわけで、さあ写真を一杯見たし、今度は自分で撮ってみようということで、みなとみらい線に乗り、横浜中華街へ。
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うーん。
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うーむ。
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むむむ。
っていうか、もう快晴すぎて露出がうまく行かないのよ。うん、かの人もこう言っている。「ピーカン不許可」と。というわけで早々に切り上げる。
その後今度は、みなとみらい線東横線日比谷線を乗り継ぎ、恵比寿の東京都写真美術館へ。
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topmuseum.jp
ここでは一部写真撮影可。
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ほうほう。
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ふむふむ。
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なるほど。
うむ、わからなくなった……
いや、篠山紀信展とは違って、建築写真とかスナップ写真とか中心だから、より参考にはなるはずなのよ。なるはずなんだけど……
例えば極めてはっきりと、ある1つのモチーフを前面に打ち出し、それ以外はまったく構図内にない写真があったとする。それを見て僕は「そうか、やっぱり写真は、その構図の中に無駄なものが1つとしてあってはいけないんだな」と思うわけです。
ところがその次に見る写真では、極めて雑然と、いろいろなものがごちゃごちゃ構図内に写り込んでいる写真があったりするわけです。で、なおもたちが悪いことに、そのどちらも、僕から見るといい写真だったりするわけですよ。そんな感じで、何か1つ「これがカッコイイ写真のコツかな」というのがつかめたかと思うと、すぐそのコツとは違う写真が現れてきたりするわけで、まあ、「みんなちがって、みんないい」ぐらいの小並感しか浮かばなくなってしまうのです。
ただひとつ言えることは、「写真は自由に発想していい」ということと「一旦何かを思いついたら、やり過ぎになるまでそれを突き詰める」ということですかね。中途半端はよくない。うん。
と、なんとか教訓らしきものを見出した上で、実際に外で写真を撮ってみる。
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……なんかこう、「なんでも撮っとけばあとから『これがアートだ』って言い訳できるだろ」的な邪念が写真に現れているような写真になってしまいました。
これではいかん、ということで今度は上野の国立科学博物館へ。
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www.kahaku.go.jp
まずは建物を。
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科博の建物は普通に撮るだけで様になるから良いよなぁ。続いて展示物
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うむ、カッコイイ。結局なんのかんの言って、被写体なのかなぁ写真は。
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というわけで、その日は金曜日だったので20時まで博物館に居た。その後、浅草のカプセルホテルで就寝。
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カプセルホテルは、もうあまり泊まりたくないです。

2日目

2日目は、銀座に行き、幾つか写真を取って
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一通り自分の腕前にがっかりした後、先日の記事
amamako.hateblo.jp
で取り上げた集まりに出席しました。

3日目

3日目は、東京駅から踊り子号に乗って
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伊豆長岡駅まで行き、そこから伊豆箱根バスラブライブ!サンシャインラッピングバス
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に乗って、伊豆・三津シーパラダイスに来ました。
www.izuhakone.co.jp
目当ては、まあラブライブ!サンシャイン
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もあるんですが、それに加えて、生き物写真というのをちょっと水族館で練習したいなと思ったわけです。
で、結果はこちら。
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まーあれです、屋内でしかもちょっと暗く光量が少ない中で、動くものを撮るって難しいんですねー。
というわけで、F値を最大にして絞りを開放した上で、ギリギリまでシャッタースピードを上げて、なんとか止まっているところを狙って写真を撮ってみます。
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まあまあ、うまくいったんじゃないでしょうか。単調さは否めないもの。
ついでに、外でイルカとかアシカとかセイウチとかが出ているショーがやっていたのでそれも撮る。
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これはなんかあからさまに旅行写真って感じだな―。
一通り見物した後、今度は東海バスラブライブ!サンシャインラッピングバスが出るので、それに乗って沼津駅まで行く。
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沼津駅前にはラブライブ!サンシャインのカフェがあるのでそこへ。
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www.yudai.co.jp
デザートと飲み物を頼み、コースターをもらう。
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一通りカフェ内を見物した後
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カフェを出て、ゲマズに寄って
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沼津駅に戻り、そこから帰路につきました。