あままこのブログ

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「女ノ絆ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」なのか?

LOFTのバレンタイン広告問題、いいかげんこの記事で最後にする予定だけれども、最後にこれだけは言いたいので言わせていただく。 「女ノ絆ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」なのか?

「女子校は桃源郷!嫌な思いなんて一つもしなかった」として、女の絆をことさら美化する人たち。 まー彼女らにとっては確かにそれは幸せだったのでしょう。しかし、それが弱者を踏み台にしたスクールカースト強者の言い草であることは、ちょっとtwitterを検索すればすぐ分かることです。 しかし、この記事ではそういう意見はあえて引用しません。なぜなら、そういう意見を目にした途端、ツイフェミたちは↓のように攻撃を加え、そういう被害者たちを沈黙させようとするからです。 そしてこうやって現実を否定することによって、ツイフェミたちの間で生まれる「女同士はみんな仲良し!女の絆は何よりも強く、そこには打算も何も含まれていない」という疑似現実。 それ、学校の先生たちがよく言う「うちのクラスはみんな仲良し、いじめなんかありません」と一体何が違うというんでしょう? 「そういう見方は古い。今の流行りはみんな仲良しだよ」と言う人がいます。そういう人たちの脳内では、集団でのいじめなんていうものは過去のものであり、もはや克服されたものなんだということに、なっているのかもしれません。 しかし現実は違います。 mainichi.jp 男だろうが女だろうが、人が集まって集団というものを形成すれば、そこには必ず勝者と敗者が生まれる。「絆」っていうものは決して美しいものじゃない。むしろ、醜悪なものである。 その現実を見ないですまそうとする輩は、フェミニストだろうがなんだろうが、僕の敵です。

「広告」こそが、見たくない現実を暴く力となる(LOFTバレンタイン広告について3)

amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp LOFTのバレンタイン広告について擁護の論陣を張ってきましたが、案の定ネット上では大不評です。 ですが、はっきり言うと僕はこれらの記事に批判をされればされるほど、むしろ逆に「あの広告は価値ある広告だった。撤回したのは実にもったいない」と思うようになっています。というか、最初は僕も「まあ広告だし批判を受ければ撤回するのは当然だよね」という考えの人間でしたが、今はもう「批判を受けようがあの広告は撤回すべきではなかった。広告を撤回させたネトフェミ共に、その声に安易に屈して広告を取り下げたLOFT、両方クソである」とすら思うようになっています。 なぜなら、批判をしてくる人の論調こそが、あの広告を今、「広告」として世に出すべき理由を証明しているからです。 それが一体どういうことか、批判してきたコメントに答える中で説明していきます。

「広告にアーティスティックな表現を持ち込むとか古臭い」のか?

LOFTのバレンタイン広告にたいする反応を見て、考え込んでしまう - あままこのブログ

「80年代広告のアーティスティックな表現」(筆者談)なるものの絶望的な古くささに、80年代から30年もたっているのに気づけない感性ってやばくね?まだこういう楽屋オチみたいなもんで笑えるの?

2019/02/04 23:02
b.hatena.ne.jp 最初は僕もこう思っていました。広告でアーティスティックな表現やるなんてもう古臭いと。 でも、はっきり言いましょう。今みたいな時代だからこそ、広告は「アート」であり、「問題提起」をしなければならないんだと。何故なら多くの人がフィルターバブルに引きこもり、自分に取って気持ちいい言葉しか受け入れなくなっているこの時代、「広告」こそが、その棲み分けの壁をぶち破り、人々の意識を侵襲するメディアになりうるからです。 この確信は、↓のような、「広告はターゲットに気に入らなければならない」という、甘ったれた声を見て、生まれたものです。
LOFTのバレンタイン広告にたいする反応を見て、考え込んでしまう - あままこのブログ

「女の子はみんな仲良し」をひっくり返したいならそれ相応の場で。バレンタイン(近年は特に自分・友チョコメインの行事)の広告だよ?お前友チョコ買ってるけど実はそいつの事ほんのり嫌いだろ?って言われるとさぁ

2019/02/04 14:39
b.hatena.ne.jp
「おっさんどものせい」にできれば楽なのだろうけど(LOFTバレンタイン広告について) - あままこのブログ

「ネトフェミのせい」にして楽に炎上狙い?アーティスト活動は自由にやればよいが、広告に使ったことでターゲットができて、そのターゲットが気に入らんと言うから下げただけ。単なる商業活動では。

2019/02/04 22:57
b.hatena.ne.jp こういう考え方を下敷きにして、金田氏のように、「ハッピーになれる表現だけ求めて何が悪い!」みたいな開き直りが生まれるのでしょう。 ですが、当たり前のことですが、自分がハッピーになれる、心地よい甘言だけを聞いて生きていくことは、いけないことです。そうやってフィルターバブルの中に閉じこもり、自分と同じ考えの者同士で傷をなめあっているうちに、考え方はどんどん過激かつ狭量なものになっていくからです。 しかし現代においては、あまりに簡単にそうして「フィルターバブルへの閉じこもり」が可能になってしまいます。よく今回の広告について「アートとしてやれば許された。広告だから許されない」と言う人がいますが、もしこれが単なるアートとして届けられるなら、こういう表現を本当に届けるべき、まさしく今回のような表現を見て怒り狂っている人たちに届けられることはなく、全く問題提起にはならなかったでしょう。それじゃ駄目なんです。 この表現は、これが「広告」として届けられたからこそ、こういう表現を嫌がる人のところまで「誤配」されていった。しかしこの「誤配」こそが、フィルターバブルをぶち破る鍵なのです。そして現代の情報社会において、このような「誤配」が可能なのは、まさしく広告の世界以外にないのです。 その代表的な例が、まさしくフェミニストたちが散々称賛していた、「ジレット」の広告です。 www.huffingtonpost.jp 「男らしさ」を疑えというような表現は、学者の議論やアートでさんざん描かれてきたことですが、しかしそのどれも、このジレットの広告のように、その表現を嫌がり、ボイコット運動まで起こすような、男らしさに囚われた男性にもとまで「誤配」されていくことはありませんでした。広告だからこそ、そういう表現を嫌がる=本当にその表現を届けるべき相手まで、届いていったのです。
「おっさんどものせい」にできれば楽なのだろうけど(LOFTバレンタイン広告について) - あままこのブログ

例えばビールを男性に売りたい会社が、革靴に注いだビール飲ませてゲラゲラ笑ってる宴会の画に「男って楽しい」とコピーつけて、茶目っ気ある絆と残酷さを描くことで男の解放を表現しましたとか、言うかな。広告で。

2019/02/04 23:30
b.hatena.ne.jp こういう反論をする人がいますが、むしろ僕は、今までのフェミニズムの考え方に則って、そういう自分たちにとって気分の悪い表現でも、受け入れなければならないと言ってきているんです。そしてその立場は、変わりません。 しかし、ジレットのCMについてはさんざん「嫌な気分になろうが男どもはその表現に真剣に向き合え」といってきたフェミニストたちが、今回の広告の話になるところっと立場を変え、「広告はターゲットを不快にしてはいけない。ハッピーなものであるのが当たり前でしょ?」とのたまう。はっきり言いましょう。ダブルスタンダードにも程があります。 では今回の広告が、示そうとした「向き合わなければならないもの」とはなにか。それは、「絆・連帯というもののは時に抑圧的に働くことがある」という事実です。

「僕たち/私たちみんな仲良しだよね」の裏にある地獄を直視しろ

例えば、今回の広告に対しては、twitterでこんな反論がよくされていました。

ここでは、例えば女子校でいじめられて最悪の学校生活を送ったり、いじめられなくても同調圧力で自分の個性を押し殺したりするような体験をした人の視線は全くありません。まるであたかも同性同士でつるめばそういうことはなくなるかのように、「理想の女同士の絆」というファンタジーが描かれるわけです。 しかし、もちろん本当はそうではありません。女子校だろうが男子校だろうが共学だろうが、「みんな仲良しのスクールライフ」の背後にあるのは、壮絶な空気の読み合いと、そしてそこに適合できなかったはぐれものに対する容赦ない排除です。まあ、その中で強者としてスクールカーストの上位に君臨すれば、それこそ「みんな仲良しのスクールライフ素晴らしい!」みたいなことが言えるんでしょうが、そういうことが言えるのは、そのスクールカーストの下で悲惨な目に合う弱者を犠牲にしているからです。 今回の広告が嫌われるのは、まさにその弱者を踏み台にして気づきあげてきた、虚構の「みんな仲良しのスクールライフ」が、虚構であることを暴くものだったからと言えるでしょう。 しかし、僕は思うのです。そのように、一見理想郷のように見える社会が、むしろ何かを犠牲にしてできたものであると告発するのは、むしろ今までフェミニズムが率先してやってきたことじゃないかと。 例えば、今回の広告についてある漫画家はこのようなことを言っています。 要するにこの漫画家さんの脳内では、家族の絆は家族の絆として描くのが正しい広告の有り様で、そこで露悪的な表現をしてはならないとなっているわけです。 しかし、フェミニズムっていうのは本来、むしろそういう「家族の絆」みたいな美辞麗句が、いかに女性たちを犠牲にしてなりたっているか、ということを暴露してきた側なはずなわけで、本来のフェミニズムでは、そういう家族の絆を露悪的に描くことのほうが素晴らしくて、家族の絆という美辞麗句をそのまま受け入れることは、むしろ家父長制を擁護するものとして批判の対象になってきたはずなのです。 所が現代のネット上では、そういう「絆」を美しく描くことがフェミニズム的であり、絆の嘘を暴くようなことは反フェミニズム的だとされる。 これって、明らかに転倒してるんじゃないかと、僕には思えてならないのです。 まあこれは、僕が古いフェミニズム観なだけなのかもしれませんが、しかしその古いフェミニズム観からすると、絆という美辞麗句の虚構を暴く竹井千佳氏の表現のほうが、脳天気に「女子校は素晴らしい空間でした」とのたまい、絆の素晴らしさを謳うネトフェミたちより、よっぽどフェミニズム的であると、そう思えてなりません。

「おっさんどものせい」にできれば楽なのだろうけど(LOFTバレンタイン広告について)

LOFTのバレンタイン広告、案の定取り下げになったそうで。

ロフト、バレンタイン広告取り下げへ 女子の不仲描いて「女性蔑視」と指摘相次ぐ : J-CASTニュース

まあ、あれだけ炎上して「LOFTの商品は二度と買わない!」とかいう不買運動起こされれば、企業が怯えて広告を取り下げるのも当然でしょう。

しかしやっぱり納得がいかないのが今回の件についてのtwitterでの反応。

どうやらこの結果を受けてtwitter上のいわゆる「ネトフェミ」と呼ばれる人たちは勝利宣言をしているみたいですが、やっぱり彼女らの主張は僕にとっては首を捻らざるを得ないものでした。

なかでも一番イライラするのがこういう主張

ハッピーゆべ on Twitter: "ロフトのバレンタイン広告イラストもテーマもくそださ… これぜったいお上()のおっさん達がゴリ押ししたんじゃない?"

📛みんみん📛 on Twitter: "ロフトの炎上したバレンタインの広告絶対作ったのおっさんだろ。「ズッ友」とか「うちの彼氏」とか絶妙な死後なんだよ"

美夜 on Twitter: "日本のおっさん管理職連中は、意地でも女子を分断して自虐をさせたいらしいな。こんな店では今後絶対買わねえ。 ロフトのバレンタイン広告「女の子って楽しい!」にTwitterユーザー困惑 「どういう意味?」「チョコを売る気はあるのか」 - ねとらぼ https://t.co/DsqCyn5D8M @itm_nlabさんから"

全肯定プラスチックフィールド on Twitter: "ロフトのやつは40代くらいで俺まだ若いしってやってる太いリムのメガネかけたパーマのおっさんとかがこういうのが女の子にはウケる!ってやってたんだろうなってありありと眼に浮かぶ"

にぎりめしおかか on Twitter: "LOFTのバレンタイン広告酷過ぎwww あれ企画したのっていい大人たちでしょ??え、女の人携わっていなかったわけ??おっさんたちばっかで考えたの?最悪すぎwwwwwwwロフトのチョコは絶対買いませんお疲れ様でした!"

🐜 on Twitter: "てかそのコンテンツを作ってる役者とかはほんとに罪がなくて大元になってる上の奴らがゴミなんだよね結局じじいとか偉そうなだからロフトの広告も問題になってるんじゃないの?どーせよくわかってないおっさんとかが会議とかで決めたんでしょあれでバレンタイン楽しむと思ったわけどうかしてるでしょ"

「ロフト 広告 おっさん」とかでTwitter 検索すりゃこの他にもこういう主張は山ほど出てきます。

要するに今回の広告は、ネトフェミたちの間では「女性蔑視のおっさんたちが発案した差別広告に、全女性が一丸となって対抗し撤回させた案件」として認識されているわけです。

でも、現実は違うわけです。

今回の広告のイラストを描いたのは、竹井千佳という “女性の”イラストレーターの方なんですよ。

しかも彼女は、この広告以前にも、こういう「女性たちの仲良しの裏にあるギスギスしたもの」をいっぱい描いてきた。というかそれがメインテーマとも言える人なわけです。

その瞳は悲しみを流しだす。愛とパワーを感じる竹井千佳画集『Sp:telling,(テリング)

もちろん、それを「男に媚びた名誉男性」とか言って批判するのは、そりゃネトフェミたちの自由でしょう。けど少なくとも、「女性蔑視のおっさんたちv.s.全女性」みたいな構図に持っていくのは端的に間違いであり、おっさんへの評判を不当に貶めるものである。そこのところは素直に謝ってほしいと、1おっさんとしては思います。

そして更に重要なのは、こうやって女性の中からも「女の絆(シスターフッド)ってそんなに美しくて正しいもの?それが時に自分たちを傷つけるものとして働くこともあるんじゃない?」という疑義が提示されていること、そのことにネトフェミたちは向き合うべきなんじゃないの?ということです。

今回のLOFT広告を受けて、twitter上では「対案」と称するイラストが多く投稿されました。

ぬまがさワタリ@『絶滅どうぶつ図鑑』&福岡マリンワールドで1月よりコラボ展! on Twitter: "ロフトのバレンタイン特集のやつ(https://t.co/gllsW7W1mw)、今時「女同士は実はギスギスしてて…」でもないと思うし、こんな感じにすればよかったのに。(ドニーさん脳)… "

時田時雨*月田さん1巻発売中 on Twitter: "思わず2次創作しちゃった… #ロフト #バレンタイン #百合… "

でも、はっきり言いましょう。これらのイラストに、表現として素晴らしいと思える点は一ミリもありません。少なくとも竹井千佳氏が描いているような表現に比べれば、毒にも薬にもならない、陳腐な表現です。

なぜならそれらのイラストは、「仲のいい女の子って素晴らしいね」という、一般常識から一ミリも外れることのない、安全な表現だからです。

それに比べれば竹井千佳氏の表現は、多少毒かもしれませんが、よっぽど問題提起的であり、表現として見るべき部分があります。

そして更に言うなら、上記の「対案」と称するような表現は、誰も救いませんが、竹井千佳氏のような表現に救われる人は、いるでしょう。

これは男性とか女性とか関係ありません。人間の普遍的性質として、群れて行動すれば、そこには必ず同調圧力というものがうまれ、異質なものを排除しようとします。

特に学生時代というのは、その同調圧力がとても強いもので、ある人はそれを「友だち地獄」とすら呼んだりするわけです。

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

 

仲良しグループの素晴らしさ、楽しさばかりを誇示しようとする人間は、絶対見ようとしないものですが。

というかむしろ昔のフェミニズムは、こういう「一般に良いものとされているものの内実はむしろ醜悪なものである」という風に、一般常識の嘘を暴くものだったはずです。

それ故にフェミニストと呼ばれる人たちは孤独であったけど、むしろその孤独を誇っていた。「群れてしかものを言えない連中たちとは違うんだぜ」と、僕はそういうフェミニストたちを、カッコいいと思っていました。

ところが今のフェミニストはどうか。シスターフッドとか美辞麗句を駆使しながら、結局やっていることは、世間的に正しく、美しいとされていることをただ追認して、そこから外れた、今回の広告のような表現を集団でぶっ叩き、数の力で沈黙させる。そこでその表現の背後にどのような思いがあったのかを、真剣に考えようともせずに。

そんなネトフェミたちを見ていると、もはやフェミニズムとは世間の多数派の、抑圧の口実にしかなってないんじゃないかと、そんなことすら思いますね。

 

 

LOFTのバレンタイン広告にたいする反応を見て、考え込んでしまう

LOFTのバレンタイン広告がネット上で炎上しているそうで。 www.huffingtonpost.jp twitterから引用すると、女性たちはこういう理由で怒っているそうです。

まあ、これ自体は正当な理由の怒りだとは思うんですよ。

でも、続くこのツイートを読んで、なんか「うーむ」と、考え込んでしまったんですね。

そしてそうやって考えているうちに、TLに、今回の広告の対案として以下のような漫画が投稿されているのを見て、ますます僕は考え込んでしまうのです。 なぜなら、僕のようなおじさんの感性からすると、むしろ後者のような「バレンタインにみんな仲良くハッピー!」みたいな広告こそ、嘘くさくてうんざりしてしまうようなものに思えるからです。

広告に「毒」があってはいけない時代

僕なんかは、基本80年代文化に憧れて育ってきましたから、広告っていうのを「アーティスティックな表現」が許される場として見てしまうんですね。で、そういう視線からすると後者のような表現は、あまりに陳腐に見えちゃうわけです。「女の子はみんな可愛くて仲良し!」って、道徳の教科書じゃああるまいしと。そして、むしろそういう「女の子はみんな仲良し」みたいな女性に押し付けられたファンタジーを壊すことが、問題提起的で新鮮なんじゃないのと思っちゃうわけです。多分この広告の作り手たちも、そういう考えのもと広告を作ったと思うんですね。

ところが、今の若い世代にとっては、むしろそういう考え方のほうが「古臭い」ものになってしまっているんですね。広告にアーティスティックな表現が出ることが当たり前になってくると、その反動として「いや広告ってもの売るための表現でしょ。何勘違いしてんの」ということになり、「女の子はみんな仲良し!」みたいなファンタジーが壊されたあとに出てきた「女の子はみんなギスギスしてる」みたいなステレオタイプこそが、攻撃されるべきものとなった。だから今回の広告は、ここまで批判される。

それ自体はまあ良いんですよ。かつて新しかった考え方が今は古くなるっていうのは当然のことだし、そして、広告とかに携わる人間なら、そういう時代の流れについていけてないことは、罪であるとすら言って良い。

でも、その対案として出てくるのが「女の子はみんな可愛くて仲良し!」っていう、道徳の教科書に出てきそうな光景というのは、なんか違うんじゃないかなあと。

まあ、女性のことは女性が決めて考えるべきことなんで、本来僕が口を挟むべき問題ではないってことはわかってる、わかってるんですけどね。

でも、例えばもし男性向けの広告で、「男同士の友情の絆は永遠だぜ!」みたいな表現が出てきたら、まあBL好きの方はキャーキャー叫ぶのかもしれませんが、少なくとも僕は「うげー」と思います。そんな男同士のホモソーシャルって美しいものじゃないし。むしろそこから疎外されるような人間のことを考えてくれよと、思ってしまうでしょう。

女性にはそういう「女性同士の絆とか嘘くさいし」っていう感情って、ないんでしょうかね?いや、ないならまあ良いんですけどね……

コミケ「韓国人・中国人お断り」張り紙問題についてのまとめ

3行まとめ

  • コミックマーケットコミケ)95において、あるサークルで「韓国人・中国人お断り」という張り紙がされていたという証言が上がり、問題となっています
  • 更に、上記の張り紙について見解を問われたコミケ準備会が、法律で規制できない以上、そのような張り紙は容認すると解釈できる発言をしたことも大きな問題となっています
  • 「韓国人・中国人お断り」という張り紙が法的に本当に問題ないかについては、多くの人が過去の判例や近年施行された法律・条例をもとに疑義を呈しています

このまとめについて

このまとめは、コミックマーケットコミケ)95において、あるサークルで「韓国人・中国人お断り」という張り紙がされていたという証言から始まったさまざまな事象について、現時点(2019/01/04)でわかっていることや、この事件を考えるにあたって参考になりそうな知識についてまとめたものです。

なお、まとめ主自身が「韓国人・中国人お断り」という張り紙を容認すべきではないという立場なため、そのような立場からの情報に偏っています。

なので、もし「このまとめは偏ってる!」と考える方がいたら、是非そのような立場からまた別のまとめ記事を書いていただければと思います。

問題の経緯について

発端は、ある一般参加者が、コミックマーケットコミケ)95三日目に、「韓国人・中国人お断り」という張り紙をしているサークルを見たという告発をした*1ことでした。 そして、コミケ後、コミケ反省会というイベント*2において、「韓国人・中国人お断り」という張り紙をどう思うか問われた準備会が、次のように答えたことも、大きな波紋を呼びました。

どういう方法で頒布するかはサークルの判断と責任に委ねている。日本の法律に違反していない以上、準備会からは口出しする案件ではないと思う。

ヘイトスピーチとか云々…」グレーな状態であることは理解しているが、他のスペースには「男性お断り」としているスペースもある。*3

コミケ準備会がこのような見解を示したことについて、多くの人が問題視し、「コミケ準備会はこのような張り紙を許容しないとはっきり言い、再発防止策を取るべきではないか」という声を上げています。

問題が話題になったあとにtwitter上で行われたアンケートでは、3000人が回答したアンケートで約半数が「コミケ準備会が、c95で登場した「韓国人・中国人お断り」のビラについて、何らかの再発防止対策を行わない限り、コミケには参加しない。」と回答しています*4

一方でtwitter上では、コミケは「表現の自由」が最大限尊重される場である以上、「韓国人・中国人お断り」というような差別表現も許されるのがコミケという場であり、準備会はこの張り紙を問題視する圧力に屈してはならない、という主張もされており、大きな論争になっています。

そのような張り紙は実際にあったの?

当初、「韓国人・中国人お断り」という張り紙をしているサークルを見たという告発をした人が一人であったことから、その告発は嘘だったのではないかという声が上がりました。

しかしその後、複数人が、この張り紙について反省会で質問がなされた際に、自分がその張り紙をしたことを認めた人がいたという証言をしています。*5

ただいずれにせよ、まずは準備会自身が、事の真偽をはっきり調査し、報告すべきでしょう。

ただ、多くの人は、「韓国人・中国人お断り」という張り紙も問題視していますが、それ以上にコミケ準備会がそのような張り紙をすることを容認するような発言をしたことを問題視しています。 そして、準備会がした発言自体については、とくに疑義は出されていません。

本当に準備会が言っているように、「韓国人・中国人お断り」という張り紙をすることに法的に問題はないの?

実際は大きな問題があるのではないかと言われています。

法的な問題としては大きく二つがあります。

それぞれについて解説していきます。

ヘイトスピーチ対策法や、東京都人権尊重条例に違反する「ヘイトスピーチ」ではないかという問題

ヘイトスピーチ対策法は、2016年に成立した法律で、その内容は以下のようなものです。

「不当な差別的言動は許されないことを宣言」し、人権教育や啓発活動を通じて解消に取り組むと定めた理念法で、罰則はない。差別的言動の解消に向け、国や地域社会が、教育や啓発広報、相談窓口の設置など「地域の実情に応じた施策を講ずる」よう定めている。

ここでははっきりと「不当な差別的言動は許されないことを宣言」しています。

そして、このヘイトスピーチ対策法をもとに、東京都では2018年に人権尊重条例というものを可決。今年の4月に施行する予定です*6

この条例では、ヘイトスピーチが行われる可能性が高い集会等について、知事の権限で都の施設を利用することを制限することができます*7

なので、もしコミケが「ヘイトスピーチが行われる可能性が高い集会」とみなされれば、ビックサイトなどの仕様が制限される可能性もあるわけです。

国際人権規約人種差別撤廃条約の間接適用による不法行為に当たらないかという問題

また、今回の張り紙はそもそも「韓国人・中国人お断り」というように、国籍によって不当に排斥を行っているとも取れるため、そもそも「差別的表現」ではなく、民法不法行為として損害賠償の対象になるものではないかという声もあります*8

類似の例としては小樽市外国人入浴拒否事件や、宝石店外国人入店拒否事件が挙げられます。これについて詳細は後述しますが、いずれも「国籍を理由に不当な取扱を行ったことに対して、不当な取り扱いを行った人物に損害賠償が命じられた」事件です。

以上のように、「韓国人・中国人お断り」という張り紙をすることが「日本の法律に違反していない」という準備会の説明は、かなり怪しいと思われ、弁護士の方も疑問を呈しています*9

今回の問題に似たような例って何がある?

とりあえず以下のような事件があり、いすれのケースにおいても、「韓国人・中国人お断り」のような張り紙は結局は許容されなかったということを知っておくべきでしょう。

浦和レッズ差別横断幕事件

浦和レッズの主催試合において主催者が「JAPANESE ONLY」という差別横断幕をスタジアム内に掲示した事件です。サポーターの差別横断幕自体もさることながら、抗議を受けながら試合終了までそれを黙認し、問題発覚後も曖昧な態度を取っていたチーム側にも大きな批判が集まり、結果として無観客試合などの制裁が課され、当該サポーターグループの永久出入り禁止・他のサポーターグループの解散・横断幕の全面撤去・応援方法の規制強化などが実施されることとなりました。

個人的には、「集団内でのローカルルールが結果として差別を容認することになってしまった」という点や、「差別表現をした人間だけでなく、それを黙認した運営側の責任こそが問われた」という点において、まさしく今回の事件で参照されるべき事件じゃないかと考えています。

参考リンク

d.hatena.ne.jp - 浦和レッズの現状と今後について|URAWA RED DIAMONDS OFFICIAL WEBSITE business.nikkeibp.co.jp

 インサイダーの判断は、いつもこんな調子のところに落ち着く。  仮に差別を糾弾する記事を書いたサッカー記者がいたら、彼は、「空気を読めないヤツ」(←だって、彼の記事で被害を受けるのは、差別をした人間じゃなくて、サッカーそのものだから)という感じの扱いを受けたはずだ。

 いや、これは、私の憶測に過ぎない。  でも、そんなに外れていないと思う。

 インサイダーは、愛するものを守ると言いながら、その実、自分の身を守っている。  というのも、インサイダーにとって、自分が帰属する集団は、自己利益そのものだからだ。

今回の騒動について、「コミケを守るため」と言って差別張り紙や、準備会を擁護している人は、まさにここでいう「インサイダー」になっちゃってはいないかと思うのですが、どうでしょう?

小樽市外国人入浴拒否事件・宝石店外国人入店拒否事件

www.hurights.or.jp

1999年10月に静岡地裁浜松支部は、ブラジル人であることを理由に入店を拒否した宝石店主の行為について人種差別撤廃条約を間接適用し、これを不法行為とする判決を下した。被告が控訴しなかったためこの判決は確定し、日本の裁判所が人種差別撤廃条約を適用した最初の裁判例となった。1990年代後半から北海道など各地で公衆浴場や居酒屋による「外国人お断り」の動きがあり、これに市民団体が反発し、人種差別撤廃条例の制定を求める運動が活発化した。2002年11月の小樽入浴拒否事件に関する札幌地裁判決では、公衆浴場による外国人の入浴拒否は人種差別撤廃条約の趣旨からして私人間でも撤廃されるべき人種差別にあたるとして、これを不法行為と認定した。

参考リンク

news.yahoo.co.jp

最後に

もちろん、現実にコミケ準備会が全てのブースを点検し、差別的張り紙がなされていないかチェックすることは不可能でしょう。

ただ、だとしても少なくとも今回の「韓国人・中国人お断り」のような張り紙は、規約で明確に禁止し、それが報告されたら即座に頒布禁止にする、ぐらいの措置は取るべきでしょう。

中には下記のように「同人の主催にそこまで求めるな」というような声もあります。

コミケは一般社会から遊離した、「社会の外」の存在だから、差別も許されるべきだという声もあります。

しかし、そのように「同人だから許される」「自分たちは社会の外の存在」というのは、あくまでコミケの内輪の論理であって、外には通じないというのを、コミケ参加者は自覚すべきじゃないかと、僕は思います。

もちろんなんでもかんでも社会一般の価値観を優先すべきという話ではありません。社会全体のメインカルチャーに対するカウンターとしてコミックマーケットが存在してきた、この意義は僕も認めますし、一参加者として、この場を潰したくはないと思います。

しかし、それを隠れ蓑にして、差別や排外主義が温存される場所にコミケがなってしまうのなら、残念ながら、そんな場所は潰してしまうべきとも、一市民として思います。

この先、準備会、そして参加者一人一人がどういう対応を取っていくのか、注視していきたいと思います。

参考リンク

matome.naver.jp togetter.com kamiyakenkyujo.hatenablog.com

設計についてあーだこーだ言う前に、まず「要件」をしっかり定義したほうがいいんだろうね

papapico.hatenablog.com 元のタレントの夫婦関係があーだこーだいう記事には全く興味ないんだけど、「家事はイベント実行ではなくフローでバッチ処理しろ」という主張は、その主張の仕方も含めちょっと面白かった。

ただ、その例えで言うならば、「そもそも人間ってイベント駆動で異なる物事を解決するのは得意だけど、同じ作業を繰り返し行うバッチ処理って苦手なんだから、人間をバッチ処理に組み込むその設計に問題があるんじゃないの?」ということもできるよね。なんでコンピュータのプログラム設計でバッチ処理が多用されるかといえば、それはコンピュータというものが「同じことを何回も同じようにやる」ということが得意だからなわけで。

人間を巻き込んだ作業で、もし同じことを周期的に何回もやらせる作業フローがあったとしたら、プログラマがまず考えることは「それ、自動化できない?」ということ。人間の判断がいらないものは機械に任せて、状況によって異なる、人間の判断が必要な部分だけ人間がやる、そういうシステムを構築する必要が、まずあるわけだ。

そして更に言うなら、「家事」は仕事とは異なり、効率だけを重視する必要もないわけだ。これがもし企業の生産活動なら、それによって利潤を生むという目的があり、その目的を達成するための目的合理性のみが問題となるから、当然効率が最優先となるわけだけど、家事はそうではない。

家事は、その家事を行うことそれ自体が価値となる、価値合理性も持つ行為なわけだ。例として「料理」を考えてみる。もし家事が目的合理性のみを求めるならば、毎日同じ、最もコストパフォーマンスの良い食材を、一番栄養がよく取れる形で調理すればそれでいい(実際、そういう考え方をもとにして作られた商品もある)。

だが実際は、料理そのものに、「美味しさ」「料理の楽しさ」という価値を生むものがあるために、毎日同じではなく、日によって異なる様々なやり方で料理は行われるわけだ。

となると、じゃあむしろ家事は、同じ方法で対応するバッチ処理ではなく、イベント実行の考え方で対応したほうが、それ自身価値をより生むんじゃないの?という考え方もできるわけだ。

設計についてあーだこーだ意見が出るときは、大抵その前の要件に問題がある

とまあ、「家事というプログラムをどう設計するか」ということを考えてみると、ちょっと考えただけでも色々な設計方法が思い浮かぶわけだ。イベント駆動で設計をすすめていくのも必ずしも悪いわけじゃないわけで。

しかし、こうやって設計についてあーだこーだ異論が出てくるときっていうのは、大抵の場合、実は設計の前の「要件」がうまく定義できてなかったりするんですよね。

そのことについては上記で上げた記事でも次のように触れられている。

家事最適化に向けて家庭内PDCAサイクルを回すしかない

結局のところ「何をもって家事とするか」というゴール設定が合意できていないと、結局双方不幸になるということなので、「一緒に生活する」という原点に立ち戻って、同じチームの人間として快適に過ごせるように合意形成・ブラッシュアップしていくしかないと思います。

例えば「掃除」一つをとっても

  • 部屋に埃が落ちていない状態を目指す(物は散らかっていてもいい)
  • 全体的にものが仕舞われていてきれいな状態を目指す(整理整頓の優先度は低)

ではゴールが全然違います。

そして得てして人の「感覚」はだいぶ違う。

そのすれ違いを起こさないためには「自分が何を求めているのか」を明確にして相手に伝え、また「相手が何を求めているか」を把握して妥協点なりボーダーラインなりを設定するしかない。相手の「気になるポイント」が全然ないのであれば、自分の「気になるポイント」を相手に伝わるように具体化して、整理するしかないのです。

結局ここなんだろうね。このやり方は、別にウォーターフォール的に、共同生活する前に徹底的に議論して要件定義書にまとめてもいいし、あるいはアジャイル的に日々の生活の中ですり合わせをやっていくでも良いと思うのだが

アジャイルサムライ−達人開発者への道−

アジャイルサムライ−達人開発者への道−

結局「双方が『家事』に何を求めているか」というのが重要になってくるのだ。

多くの場合「気になるポイント」が多いのが「女性側」のため、男女論に集約されていくのですが、「気になる、ストレスを溜める」側が発露しないとものごと進まないので、そこはしょうがないと折れるしかない。

というけど、これも「気になる、ストレスを溜める」側ばっかの言うことをほいほい聞いていたらオーバースペックになってしまうし。

どういう設計がいいのか、その答えは、それぞれの生活の要件によって違うわけで、「銀の弾丸」は存在しないのだろうね。

もともとの芸能人の記事については

Team Geek ―Googleのギークたちはいかにしてチームを作るのか

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これでも読んで、「心理的安全性」がきちんと確保されてるか考えてみれば?ぐらいしか言うことはないです。

インターネットでの議論と「市民的公共性」について

前回の記事 amamako.hateblo.jp で書くの忘れていたことをあとで思い出したんで。

千田有紀氏が次のようなツイートをしたことによって、「市民的公共性」についての議論が盛んになっています。

私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。 あと表現って、さまざまな他者への配慮のなかでこそ磨かれていくものだと思う。フリーハンドの表現なんてない

https://twitter.com/chitaponta/status/1047451777220501504

まず、基本的に言うと、僕もこの意見には賛成。というか、ずっと以前に、僕も「表現の自由は、むしろその表現について、批判的な意見も言えるような市民的公共性の中でこそ保たれる」というような主張をしたことがあります。 amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp amamako.hateblo.jp (今見たらこれ9年前の記事なのね……)

というか、逆に聞きたいんですけど、「万人が、その立場に関わらず自由に議論を提起し、そしてその議論が尽くされないとならない」という「市民的公共性」を、それが実際に実現しているかではなく、そもそも「そんなことは必要ない!」という規範として*1否定している人達は、いったいそれでどうやって今のこの、言論の自由を保証する自由民主主義制度を支えられると考えてるんでしょうかね?

「議論すれば社会は変えられる」とみんな信じているからこそ、人々は社会を変える際に、暴力ではなく議論を選択するわけで、もし「議論なんかしても社会は変わらない」とみんなが考えるようになったら、行き着く先は万人の万人による、暴力を用いた闘争、そして勝者による独裁なわけです。そうなれば、今のこの言論・表現の自由なんて消し飛びますよ。勝者による、「不快なものを規制する」表現規制を妨げるものなんて何もなくなるんですから。もしかしたら、「そうなったとしても自分は勝者の立場に立つから、自分の表現は守られる」とか考えてるんですかね?だとしたら、おめでてーなーとしか言いようがありませんが。

(実はここ、市民的公共性を批判しがちな社会学者に対する愚痴だったりもして。そう、実は社会学自身の内部でも最近は「市民的公共性とか古いっしょ」みたいな話がよく出るのだ。おそらく、今回の議論でもそういう連中が市民的公共性を揶揄する文章を増田とかtwitterとかに書いているんだと思うんですよ。いや確かに、市民的公共性は「事実」として実現してないし、それが実際は公共性の外のマイノリティを不可視なものとしてしまうという批判はあると思うよ。しかしだとしても、少なくとも今の自由民主義体制は、「市民的公共性」を前提として動いているわけで、市民的公共性を規範としても否定するんなら、じゃあそれとは違う「公共性」のあり様を提起できるのかと。もしそれができないでただ「否定」を叫んでるだけなら、それはワイマール共和国時代に「今の政治ってクソだよねー」と文句ばっか言ってナチスの台頭をまねいた、当時のインテリたちの態度と何が違うんですかと。)

インターネットに「市民的公共性」は存在しない……少なくとも現在は

ただ、その一方で、じゃあ今のこの社会、特に今の日本のインターネット空間で、無邪気に「議論が活発になされること」=市民的公共性の発露とみなせるかといえば、まあ、僕が言うまでもありませんが、それは違うわけです。

そもそも、市民的公共性を成り立たせるためには、まず「立場や身分の違いのかかわらず、議論の相手を一人の人間として尊重し、相手の意見を真摯に聞き、自分の意見を真面目に言う」ということがその公共性の参加者に求められるわけですが、前回の記事で述べたように、そんなの価値観だれも持ってないわけです。更に言うなら、市民的公共性は基本的に、メディアによって歪められることのない直接的な対話を想定したものなわけで、そのためにハーバマスはそのような公共性が芽生えた場所として「サロン」のような場所を想定したわけです。が、現在のインターネット環境は「サロン」と呼ぶにはあまりに広大でフラットすぎます。人間どんなに頑張ったって、一度に同時に対話できる人数はせいぜい十人程度が限界でしょう。ところが、インターネット空間で「誰でも参加できる自由な議論」なんてものを行おうとすれば、それこそ一度に数百人を相手にしなくならなきゃならなくなるわけです(前回の記事も数百ブクマぐらいでしたしね)。そんなものをいちいち誠実に行っていたら、そりゃ疲弊して、それこそ今回の千田氏のように議論から撤退せざるを得なくなるわけです。それか、そのようなインターネットに過剰適応して、メンタルに失調をきたすか。

だから人々は当然、インターネット上においても、というかインターネット空間だからこそ、そういう「開かれた空間」から撤退して「閉じた空間」に移行しようとします。ところがそこにも罠がある。「閉じた空間」を作ろうとすれば、そこには当然、どんな人間を閉じた空間に入れるか選別が行われます。そうすれば人間、やっぱ自分と同じような価値観の人とつるみたくなるんですね。そして、同じような人と「閉じた空間」にこもって、コミュニケーションをしていると、どんどん先鋭化して、違う立場の人の意見を聞かなくなっちゃうわけです(ここで「自分もそうかもしれない」と思った人はまだ大丈夫、「あーあいつらのことね。」とか、自分と敵対する側を思い浮かべてる人ほど危険ですよ)。

つまり、インターネット上で議論をしようとすると、頭の良い・悪い、ウヨサヨとかに関係なく、他人の意見は聞かなくなるものなんです。これは、個人の性格とかではなく、インターネットというアーキテクチャの特性です。まあ、それが必ずしも悪いとは言えない(趣味のつながりを作る際は今まで述べた特徴はむしろ好都合だったりするしね)んですが、少なくとも市民的公共性に基づく討議との相性は、最悪であると言わざるをえなくなるわけです。

市民的公共性は「難しい」、だからこそそれを実現する「仕組み」が必要

ただ、前に述べたことの繰り返しとなりますが、市民的公共性は、確かにそういうふうに、今の社会で実現するものとしては極めて「難しい」ものなわけです、が、それでもこの、曲がりなりにも自由な社会を守るためには「目指さなければならないもの」なんです。

だからこそ、私たちはその難しい課題をいかに実現するかを、考えなくてはならないのです。例えば、「閉じた空間」であっても、同質性ばかりではなく、意見の異なる人々をマッチングさせることができないかとか、「炎上」のように、一度に少数の人に多数がわっと押しかける構図を防ぐことはできないかとか。

実は、そのような「社会」を制御する方法を考えるツールを蓄積したものが、社会学という学問だったりするわけで、僕が今回の騒動を通じて思ったのは、おそらく多くの人と正反対なのでしょうが、「だからこそ、社会学的な考え方が重要なんだよな」ということだったりするのです。

もっと考えを進めるために

最後に今回の問題について考える参考文献。

インターネットと“世論”形成―間メディア的言説の連鎖と抗争

インターネットと“世論”形成―間メディア的言説の連鎖と抗争

フラッシュモブズ ―儀礼と運動の交わるところ

フラッシュモブズ ―儀礼と運動の交わるところ

本文でさんざん「市民的公共性」の重要性を叫んで起きながらあれですが、これらの本は「市民的公共性とはまた違う公共性がインターネットにはあるのではないか」と述べた本です。僕は頭の固い人間なので、「いやそれでもやはり市民的公共性こそが重要なのだ」と考えてしまいますが。まあ、市民的公共性を批判するなら、せめてこれらの本ぐらいの議論はしなさいってことです。
公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

「そもそも公共性ってなに?なんでそれが必要なの?」と思う人にはこの本がおすすめ。
インターネットは民主主義の敵か

インターネットは民主主義の敵か

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

「今のインターネットはいかに市民的な議論に向いていないか、それをなんとかするにはどうしたらいいか」を考えるならこちらがおすすめ。

*1:一応述べておくと、「市民的公共性」は規範概念です。

キズナアイの騒動に寄せて―アンビバレンツな態度をいかに保つか

なんかものすごく久しぶりに記事を書く気がします。あままこです。 今ネット上では、NHKのニュースサイトにキズナアイが登場し、その登場の仕方が問題あるのではないかとか、そうやって社会学者が「ポリコレ」を盾にいちゃもんをつけるのこそ問題だ、という感じで、論争が巻き起こっていますね。

で、まずこの論争に対する僕の意見はというと、まあ、荻上チキという評論家の人*1TBSラジオの番組で述べていた意見 www.tbsradio.jp と大体同じ感じで、「キズナアイの記事にはジェンダー的な問題があるから、それに対して議論をすることはいいことで、『騒ぐ方がおかしい』と一蹴するのはおかしい。」というものです。

さらに言えば、ジェンダー的な問題とは更に別に、「こういう解説記事で、聞き役にバカを演じることが強いられる」ということも問題だと思っています。これに関しては、twitterで意見を連投したのでそれを転載しておきます。

僕の、今回の論争の発端となった記事への意見は、だいたいこんな感じです。

論争の議題より、それに言及する人々の態度が気になる

もちろん、これはあくまで僕の意見であって、これに反対する人はまた別の意見を持っているでしょう。それ自体は至極健全なことだし、どんどん論争をして、意見を戦わせればいい。

ただ、今回の論争を見てて思ったのは、そういう「議論」を行うこと自体が、実は人々に嫌悪されていうるのではないかということです。

実際、今回の論争では、明らかに揶揄するために、相手の主張を曲解して、「マスメディアに女性が登場するときはヒジャブでもかぶらないと駄目ってことですかー」みたいなことを言ったり、最初に議論を提起した弁護士の太田啓子氏とか、社会学者の千田有紀氏とかの個人攻撃・人格攻撃に走ったりする人が、あまりに多かったです。まあ、ネットは広大ですから、そういう汚いことをする人が一部に居るのは仕方ないと思えますが、しかしそれが万単位でRT・ふぁぼされたりするのは、やはりおかしいように思えてなりません。

さらに言えば、そういう揶揄・誹謗中傷は、ごく普通の人によって行われてるんですよね。もしこれが自分と全く関係ないネトウヨ連中とかが行っていたんなら、そんなにショックではなかったですが、普通に同じアニメやゲームを楽しんでいて、「あ、この人と趣味合うんだな」と思っていてフォローしていた人や、実際にオフ会で会って趣味の話題を楽しくしたような人が、この話題になるととたんに豹変して、先程のような揶揄・個人攻撃をRT・ブクマしたり、自らそういう揶揄・個人攻撃をおこなったりする。そういう光景には、とてもショックを受けました。

ただ、ショックを受けてるだけではどうにもならないので、色々考えをめぐらしていると、そもそもこういうふうに「議論を提起する」、「異議申し立て」をすること自体が、ごく普通の一般の人にはとても不快で、自分たちの周りから撃退すべき侵襲者として認識されるのかもしれないなと、思うようになったのです。

「当たり前を疑う」ことの苦痛

僕は昔、社会学という学問を勉強し、大学院の修士課程まで行きました。将来は研究者を目指していたんですが、精神の不調とか色々ありまして、ドロップアウトした人間です。

で、社会学―というかこれは人文・社会科学全体で言えることだと思うんですが―という学問に入門して、まずはじめに叩き込まれることは、「当たり前を疑う」ということです。例えば学部1年生が受けるような社会学の入門講座では、まず「世間ではこういうことが常識になっているけど、それは実は違うんだよ」ということをとにかく教えまくります。少年犯罪や外国人犯罪が増加。凶悪化してるって言われてるけど、それは統計のトリックだというものや、専業主婦というのは保守すべき伝統でも何でもなくて近代に構築されたものだとか、ニートやパラサイトシングル・引きこもりは個人の甘えが原因ではなく社会構造の変化が原因だというものまで、とにかく、世間一般で言われている常識・通説が、本当は「当たり前」のものではなく、社会的に捏造されたものであり、そうではない事実・考えもあるということが徹底的に教え込まれるわけです。

もちろん、それはあくまで入門段階のことで、実際にどんどん勉強していくと、「当たり前のものじゃないんだけど、それを当たり前として扱うことによって今の社会は回ってるよね」というような話も出てくるわけですが、ただそれにしても基本は「当たり前のことは当たり前でない。常に、『それって本当なの?』と疑問に思うことが大事」というのは、あらゆる社会学者のマインドセットの基底にあるものなわけです。 (なぜ、そうなったかといえば、それは1960年代の異議申し立て運動があり……というような話をしようと思ったが、そんな社会学史の初歩は、社会学研究者ならとうに知っていることだろうし、そうでない人にとっては興味ないだろうから割愛)。

ただ、当時の僕も含め、多くの研究者が忘れがちなんですが、そうやって「当たり前を疑う」ことって、多くの人にとっては、とても苦痛を伴うものなわけです。

研究者はいいんですよ、そもそも、これだけ人文系研究が厳しいって言われてる中で、それでも研究の道に進もうなんて考えるような人は、最初っから「この社会、なんか違和感がある」と思っているから、敢えてそれを探求するようにその道を選んだような人ばっかりですから。そういう人にとっては、「当たり前を疑う」ことってむしろ楽しいことです。

でも、多くの人はそうではない、当たり前のことは、当たり前として受け取り、そしてその中で、日々の日常に楽しみを見つけ、生きているわけです。そんな中で、突然「それは当たり前ではない、常識を疑いなさい」と言われることは、苦痛以外の何物でもない。

僕がそれに気づいたのは、研究者への道をドロップアウトして、働き始めてからでした。毎日毎日、朝から夜遅くまでずっとパソコンに向かってコード書いて、で家に帰ったらご飯食べて寝る、そして合間に、短時間で済むような娯楽を楽しむ。そんな生活をずっと送っていると、もうできる限り余計なこと考えたくなくなるわけです。アニメとかゲームとか動画とか見るんだったら、いちいちそこに、隠された差別構造があるのではとか考えるより、ただぼーっと笑ってみていたい。可愛い女の子とか見たら余計なこと考えずただ可愛いと言っていたいと、そんなふうに思うようになるわけです。

もちろん、それが堕落だっていうことは分かっています。ていうか、僕がそうやって当たり前のことを当たり前として受け取って、それでなんの疑問も持たずに楽しく生きて行けているのは、結局僕が、多少心根がひねくれていたとしても、日本国籍を持ちエスニシティも、いわゆる「日本人」、有職者で貧困にあえいでもおらず、ジェンダーも、生物学的性;男性・性自認:男性・性的指向異性愛というマジョリティかつ強者の側であるからなわけです。そういう人たちが「当たり前」を社会に押し付けることによって、マイノリティを抑圧することによって利益を受け取っている。まあ、実際はもっと複雑だとしても、基本的な構図としてはそういうふうに、他者を踏みつけた上で「当たり前の日常の幸せ」を受け取っているわけです。

ただ、そういうふうにその幸せが他者を踏み台にし、抑圧した上で得られるものだったとしても、それが「幸せ」であることに変わりはありません。「当たり前のことを当たり前に受け取れる」ことが幸せである以上、それに対して「当たり前を疑え!」と言ってくる社会学者は、結局どう言い繕っても、幸せな日常を壊す、破壊者・侵襲者でしかなく、多くの人にとっては、そんな存在とは議論の価値すらない(議論に乗れば、その時点で「当たり前を当たり前として受け取る」幸せは崩れてしまうのですから)、ひたすら自分の周りから排除すべき対象となるわけです。

だから、千田有紀氏が現在ひどいバッシングを受けていることも、決しておかしなことではなく、むしろ社会の当然の反応なわけです。

(ただ、もしそうであるならば、今のネット上での千田由紀氏に対するバッシングは、社会学、というか人文社会科学全体へのバッシングとも言って良い訳で、別に千田氏を擁護しろとまでは言いませんが、一部の(特に計量系の)社会学者や人文社会学者が、そのバッシングの波に乗って千田氏を攻撃してネットの歓心を集めているのを見ると、「その刃が将来自分に向かってくるとなんで気づかないんだろうな」とは思いますけどね。ま、僕はドロップアウトした人間ですので、どーでもいいですが。)

アンビバレンツな態度をいかに保つか

では、一体どーすればいいのか。

社会の側が反省し、「今まで『これが当たり前だから』という理由で、色々な異議申し立てから目をそむけてたのは間違いでした。改めます」という風になるのが一番正しいです、が、先程述べたように、そんなの実際は実現不可能でしょう。

では、もはや社会学は社会に対する異議申し立て・提言から撤退し、象牙の塔にこもって内輪で議論をしてればいいのか。おそらく、今のネットの大多数が望んでるのはそれで、社会学者の多くも、本音を言えばそれでしょう。実際、社会学者の中には「一般向けの本なんかを書いたりメディアに露出している暇があったら学術雑誌に論文を出したり学会で発表しろ」という風潮があり、それは年々強くなっています(だから古市氏なんかもう、社会学業界の内輪ではパブリック・エネミー扱いだったり)。

ただ、例え社会学が社会に対する提言・異議申し立てから撤退したとしても、それで、現在の社会に対する異議申し立てがなくなるとは思えません。一旦「当たり前のことが当たり前でないこと」がばれた以上、例え社会学がやらなくても、より一層過激な形で、それを担う運動は出てきます。しかも、それはもはや「学問」ではありませんから、手段を選ばない運動となるでしょう。

そして訪れるのが、終わりなき闘争が行われる「公共圏」です。「棲み分けが行われるようになるから、やがて今のような対立は終焉する」と楽観視している人もいるみたいですが。だったらなんでキズナアイは棲み分けされた「Youtube」から出てきて、公共の代名詞のような「NHK」に出てきたのか?

結局、僕らは「自分の当たり前の世界を壊してくる他者」から逃げることはできない。なぜなら自分たちがそうだから。僕らみんな、被害者であると同時に、加害者なんです。

大事なのは、そこで居直らないこと、一方で、過度に深刻に受け止めないこと、また、訴える側も、そのようなアンビバレンツを許容することなのでは、ないでしょうか。

例えば、今、昔の映画やドラマ、バラエティを見ると、その当時は当たり前だった、差別的な描写に嫌な気分になることは、誰しも経験があるでしょう。

でも、だからといってそのような作品が今見たら全く見るべきないところがないつまらない作品かといえば、そうではないわけです。「当時の時代の限界はあってそこは嫌だけれど、一方でこの作品が面白いのもまた事実」というような評価が、昔の作品にはできるはずです。

だったらそれを今現在の時代に適用することも、可能なはずでしょう。今の時代の作品だから、昔の作品と比べて距離を保つのが難しいというのも理解できます。しかし、そもそもオタクの人々は、「この作品にだめな部分はあるし、それをパロディにしおたりするが、それでも自分はこの作品が好きだ」という作品の両義的な楽しみ方を心得ていた人々だったはずなんですね。いつしかそれが盲目的に作品を信仰・全肯定する人々になってしまいましたが、そうではない楽しみ方っていうのもあったはずなんです。

キズナアイを擁護して、今回の問題を提起した、太田啓子氏や千田有紀氏、少年ブレンダ氏を攻撃している人に問いたい。今回の発端となった記事、本当に「全肯定」しなきゃならないような、そこにキズナアイの魅力を全て詰めたような、そんあ記事ですか?僕はキズナアイちゃんの動画も見ましたが、どうしてもそうは思えないんです。むしろあの記事は、明らかにキズナアイちゃんの魅力を伝えるのに失敗していませんか?あれじゃあ、キズナアイちゃんじゃなくて、そこらの女性アイドル捕まえたって似たような記事ができあがっちゃうんじゃないですか?

そして、次に、今回の論争でヒートアップして、キズナアイ自身を攻撃してるようなネトフェミの人たちはこう言いたい。例えそれがどんなに差別的に見えたとしても、世の中にはそれを楽しみにし、それを人生の糧にしているような人がいる。そういう人たちをあなたたちはこの社会から排除したいんですか?だとしたら、排除されることになるのはむしろあなたたちですよと。

「問題はある。しかし一方で、人々を楽しませている」。そのアンビバレンツさを認め、攻撃ではなく、対話を始める。まずはそこから始めるべきなんじゃないでしょうか。でなければ、終わりなき殲滅戦が続くだけでしょう。

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

この言葉を、論争に参加している人たち、そして、キズナアイちゃん自身にも思い出してほしい*2と、そう、思います。

*1:もうid:chikiみたいに気安くIDコールできる感じではないのかしら

*2:https://twitter.com/Sadndeath/status/1049046295078268928参照