あままこのブログ

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経済成長を巡ってすれ違う二つの人間観―人は生来「働きたい」ものなのかそうでないのか

rna.hatenadiary.jp

なんだろう、やっぱり経済成長肯定論者との間では、根本的なところで議論が噛み合ってない気がする。
で、これは一体なぜなんだろうと考えてみると、そもそも「人間はいかなる存在か」という根本的な人間観が異なってるんじゃないかと、思うわけです。

「生産性は嫌でも上がっていくもの」……本当に?

id:rna氏は「経済成長は別に『生産性を上げていこう』という話ではない」と主張し、その論拠として、次のように述べています。

そもそも生産性というのは嫌でも上がっていくものなのです。労働者の日々の創意工夫や突発的な技術革新によって、同じモノを作ったりサービスを提供したりするのに必要なコストは下がっていきます。言い換えるとより少ない労働者で同じだけのモノ・サービスが供給できるようになります。*1

ということは、ただ生産性が上がるばかりで需要の拡大が伴わないと労働者が要らなくなるわけで、失業が発生したり所得が減少したりします。「供給ではなく需要が問題」というのはそういうことなのです。つまり、生産性の上昇に見合っただけの需要の拡大=経済成長が必要である、というのが僕の考え方です。なので、経済成長と言っても年率にして数%程度が必要だと言っているに過ぎません。

……

生産性の向上は、経済成長のために強いられているのではなく、個々の生産者が利益を追求する過程で必然的に生まれるもので、しかし経済成長がないと副作用として失業やらラッダイト運動やらが発生してしまいます。そういう順番の理屈なのです。

つまり、id:rna氏の考えでは、人間というのは、例え強いられなくて勝手に生産性を上げていくものであり、その生産性を上げた結果に経済を追いつかせるために経済成長が必要なんだと、そう主張しているわけです。なるほど、働いている時に常に「なにか工夫できるところはないか。よりよい技術を生み出せないか」とか真面目に考えている人は、こういう風に人間を捉えてるんだなぁ。

でもそれに対して、生来働くのがいやで、常に「ああ働きたくない、働きたくない」とつぶやいている僕なんかは、こう思うのです。

「いや、人間は何の圧力もなく普通に生きてるだけで良ければ、創意工夫やら技術革新なんかしないでしょ。少なくとも今それをみんながやってるのは、『そうやって生産性を上げられないと、自分が劣っているように思えてしまう』という、強迫観念に苛まれてるからじゃないの?」と。

ここでは、そもそも「人間はいかなる存在か」、「人間は何で働き、利益を追求しようとするのか」という根本的人間観が、異なってきているのです。

経済学者が前提とする人間観……人間は本能的に生産を向上し、利益を追求しようとする

id:rna氏が前提とする人間観、これは、僕が思うに、まさしく経済学が前提とする人間観、いわゆる経済人だと思うのです。

ja.wikipedia.org

「経済人」とは、「homo economicus」の訳語で、「もっぱら「経済的合理性」にのみ基づいて、かつ個人主義的に行動する(するだろう)」と想定した、人間に関する像・モデル・観念のことである。

つまり、経済学の考えにおいては、人間っていうのは文化とか価値観とか関係なく、本能的に生産性を向上し、それによって利益を上げようとするものなのです。だから、無駄な時間があったらその時間はより利益を生むために働こうとするし、働いてるときも常に「より効率的に、利益を生む方法はないだろうか」と考えるものなのだと。その観点から言うと、「失業者」はすべて「本人の望みは働きたいけど、様々な不都合によって働けない不幸な人たち」だから、より少なく、できればゼロに近づけないといけないとなるし、そうやって向上した生産性を無駄にしないように、経済成長をしなければならないと、なるわけです。

そして、現状の経済政策っていうのは、ケインズ主義だろうがマネタリズムだろうが、それこそMMTだろうがすべて、この経済人を元に考えられてる。れいわの経済政策も、そうだと言えるわけです。

しかしそれに対して、全く別の人間観も存在するわけです。「人間は自然と利益を追求するというけれど、それって結局、『そうでないといけない』という文化があるだけじゃね?」と疑問を呈する考え方が。

人類学的人間観……人間は「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という文化・価値観に縛られてるから、生産性を向上し利益を上げようとする

僕が前提としている人間観、それは端的に言えば、「人間が何を求め、そしてその求めるものを得るために、どう動くかは、文化によっていかようにも変わりうる」というものです。

今回の記事に沿って言うならば、「人間は『生産性を上げなきゃ駄目だ』という価値観を内面化させられてるから、その価値観に沿って動いてるわけで、決して本能的に生産を向上し、利益を追求しようとするわけではない」というものです。

このような見方は、人類学や社会学の方面から提示されてきたもので、それなりに実証的なものなのですが、こんな場末のブログでその実証性をとやかく言うことほど不毛なものはないので、説明はしません。気になる人は、以下の本でも読んでください。

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

 
西太平洋の遠洋航海者 (講談社学術文庫)

西太平洋の遠洋航海者 (講談社学術文庫)

 
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

ていうか、僕なんかするとこっちの人間観のほうがよっぽどリアリティあるんですがね。僕は誰からも何も言われなければ常に休んでいるか、遊んでいたい人間で、自分から「働きたい」と思ったことは一度もありません。ただ、そうすると親とかから冷たい目で見られるし、何より死んでしまうので仕方なく働くわけですが、働いてる間も「もっと工夫したい」とか全然考えません。

そういう人間からすると、前項で上げた「経済人」なるものは、結局、社会からそういう価値観を強迫観念として植え付けられてるから、そうなってるだけなんじゃないの?と、思えてならないのです。

あなたは、どっちの人間観がより、リアリティあると思いますか?

経済人とナチスの距離……「「生きるに値しない命」などない」と、言うだけで十分なの?

id:rna氏は次のように述べ、経済成長を否定しなくても、ただ「「生きるに値しない命」などない」と言えば良いと言います。

でも「富国強兵」を否定するために経済成長を否定する必要はないのです。僕ならただ一言「「生きるに値しない命」などない」と言います。それ以上の理屈など不要ではないでしょうか。

 id:rna氏の記事でも書かれているように、「生きるに値しない命」とは、ナチスの障害者殺害政策のキーワードです。そう、れいわが何であそこまで口酸っぱく「生産性で人間をはからせない世の中」と言ったかといえば、「生産性でのみ人間をはかる世の中」というのが、究極的に到達するのが、このナチスの障害者殺害政策だからなんですよね。

だから、「「生きるに値しない命」などない」と言うのは重要、重要なんだけども、でも……それだけで良いのか?という思いが、僕の中にはあるのです。

なぜなら、ナチスは別にいきなり狂人が出てきて、「『生きるに値しない命がある』という狂った信念をドイツに押し付けた」から、成立したものではないからです。ナチスの「生きるに値しない命がある」という価値観は、ポッと現れたわけではなく、それまでの「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観の延長線上にあるのです。

※ここらへん、より詳しく知りたい人は、下記の本を参照。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

 

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

 

そして「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観を、自他に適用した結果が、まさしくあの相模原の障害者殺傷事件であるわけです。

news.yahoo.co.jp

例えば、この事件を起こした植松被告に、「「生きるに値しない命」などない」とだけ言っても、鼻で笑われるでしょう。なぜなら、「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観を内面化した人間に対して、そんな言葉は、空虚な綺麗事でしかないからです。

重要なのは、そのような残酷な価値観ではない、新しい価値観をいかにして示せるかなのだと、僕は思うのです。そういう新しい価値観を示せず、「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観を人々が内面化したままでは、きっと第二、第三の相模原殺傷事件は起きるし、さらに言えば、やがてナチスのようなものをこの社会に生み出してしまうでしょう。

「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観以外の価値観をいかに示すか……経済成長と「生産性で人間をはからせない世の中」を両立する唯一の方法は、それしかない

そしてこの問いは、まさしく「経済成長が大事」と主張する経済成長肯定派にこそ、考えてもらいたいことなのです。

僕は、経済成長なんかどうでもいいと考えていますから「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観から人々を脱洗脳すればそれでいいじゃないかと考えます。その結果、現行の経済が回らなくなろうと、それはそれで人は生きていくだろうと、楽観的に考えています。

しかし、もし「経済成長」を前提とした現行の経済システムの維持が不可欠と考えるなら、考えるからこそ、「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観ではない形で、現行の経済成長を支える価値観を考えなければならないはずなのです。

しかし、それに答える人は、「経済成長」を語る人にはほとんどいません。「経済」について、価値観部分から語るのは、それこそローマ法王だったり

jp.wsj.com

ダライ・ラマだったりみたいな宗教家ばかりです。

gendai.ismedia.jp

こういう宗教家ばっかりにまかせていて良いのでしょうか?彼らは宗教が専門だけど、経済のことなんか全然知らないんですよ?

「経済成長が大事」だと言う人は、「経済について詳しい」という自負があるのでしょう。だったら、そういう人にこそ、「経済成長」と両立する価値観とはなにか、真剣に考えてもらいたいと思います。

過去記事

amamako.hateblo.jp

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「経済成長すれば生産性で人を測らなくなる」というのは、統計から見て間違い

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前回の記事、多数のブクマ・コメントありがとうございます。というわけで、今回の記事では、頂いたブクマ・コメントに対し、自分でも色々調べて考えてみたので、その結果を交えて返答していきたいと思います。

「経済成長すれば生産性で人を測らなくなる」というのは、統計から見て間違い

まず、以下のコメントで寄せられた「むしろ経済成長することによって、この社会は『生産性で人を測らなくなる世の中』になる」という意見について。

dc42jk 経済成長するからこそ生産性で人間をはからない余裕が生まれる。全体が上手くいってれば、細かい部分の違いを許容する余裕ができるが、全体が上手くいかないとその違いを許容する余裕が無くなる。だから経済成長大事 

serio 「衣食足りて礼節を知る」と2000年以上前から言われてるわけで。経済成長して懐に余裕ができないと、なかなか弱者に優しくなれないよ。 

wosamu 高度成長期に生産性とか誰もいってなかったじゃん 

giteki 逆にデフレ環境の方が『経済成長はしません。よって人々の取り分はゼロサムです→ならば弱者に回すのを減らそう』になることをここ二十年で学んだ 

SyN 経済成長せずに貧しくなっていっているからこそ、生産性の低い人を受け止められない社会になっていると考えます。十分に経済成長していれば、個人の生産性が高かろうが低かろうがあまり考える必要ないですからね。 

shinichiroinaba ALSや重度障害者が快適な市民生活を送れるようにするためには一人当たり所得がとても高くならないといけない。貧しい社会ほど一人当たりの労働生産性に汲々とせざるを得ない。 

 おそらくれいわ新選組の経済政策を支持している方々も、そのようなロジックでれいわの経済政策を支持しているのだろうと思います。

ですが、様々な統計を参考にすれば、少なくともこのようなコメントで言われている、「経済成長すれば生産性で人を測らなくなる」というのが端的に間違いであることがわかります。

事実1:経済成長をしている頃の日本のほうが、障害者に冷淡な「生産性で人を測る社会」だった

これは、僕にとってはほぼ当たり前のことだったんですが、id:wosamuのように「高度経済成長期は誰にも優しい『生産性で人を測らない世の中』だった!経済成長がなくなったから生産性で人を測る社会になってしまったんだ」という人もいるみたいなので。

生産性で人を測っているかどうか、端的に分かるのは、障害者に対してどのようにその社会が接しているかです。

ただ、高度経済成長期はそもそも障害者問題自体が関心を寄せられてこなかったんで、計量的に障害者差別を立証することはなかなか難しいです。ですが、少なくとも80年代ぐらいからの変遷なら追えます。

「障害者に関する世論調査」というものが、1987年から、数年ごとぐらいに行われてきました。ただこれ、調査項目が結構変わってるのでなかなか年次比較するのが難しいのですが、その中でずっとある問いにこんな問があります。

「障害者やその家族の方に対して,話しかけたり手をかしたりしたことがありますか。」

そして、この答えに対する変遷は以下のようになっているわけです。一応、経済成長率も付記してあります。

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経済成長率が高かった1987年は半数以下が障害者に話しかけたり手をかしたりすることがなく、経済成長率がずーっと低かった1990年に〜2010年代前半に、その率は上がっている。一方、経済成長率が少し上げかけた2017円には、むしろその率は下がっているんです。

さらに言えば、これが「障害者の社会進出」の唯一の指標みたいに扱われるのは大いに不満なのですが、一応デファクトスタンダードな指標なので挙げると、障害者の雇用者数・雇用率も、成長率が高かった頃の日本より今の日本のほうが断然多くなっているのです。

www.mhlw.go.jp

f:id:amamako:20190726030213g:plain

以上の統計から、まずはっきりと、経済成長をしている頃の日本のほうが、障害者の社会参加に冷淡な「生産性で人を測る社会」だったということが言えるわけです。

事実2:ある国が経済成長しているかどうかと、障害者に冷淡な「生産性で人を測る」国であるかどうかはほぼ関係ない

次に、経済成長率は主に国ごとに測られるものです。ですので、もし経済成長がされれればされるほど、生産性で人を測らなくなる国になるのなら、経済成長率が高いほど、障害者が社会参加できるということになります。

ところがこれも統計は否定します。「国際比較からみた日本の障害者政策の位置づけ」という論文に、各国のALMP支出というものを比較しているグラフがあります。ALMP支出とは、論文によれば

「社会的支出で労働者の働く機会を提供したり,能力を高めたりする為の支出を計上。障害を持つ勤労者の雇用促進を含む」

だそうです。まーた雇用の話かと、僕なんかはうんざりするんですがね。

しかしそういうデータしかないなら仕方ない、それと各国の経済成長率を比較してみましょう。

f:id:amamako:20190726032425p:plain

ほぼ関係ないですね。相関係数も-0.41で、むしろ負の相関が出てますが、そこら辺が有意かどうかとかいう議論は、統計に詳しい方におまかせします(たぶんあんま意味はないでしょう)。

とにかく、経済成長率の高低と、障害者の社会参加に前向きであるかどうかは、ほぼ関係ないということが、統計からは読み取れるわけです。

以上の二つの統計から、少なくとも統計的には、「経済成長すれば生産性で人を測らなくなる」というのが間違いであると、言えるわけです。

ただ、僕が前の記事で言いたいのはそういう話ではなかったんです。

経済成長を至上命題にする限り、「生産性の低い人は生産性の高い人の施しで生きさせてもらっている」という上下関係は覆せないのではないか

僕が言いたいことをより汲み取っていただけたのは次のコメントです。

tukanpo-kazuki 「生産性がない人でもぎりぎり生きていける世の中を作ろう」「生産性を上げて生活をどんどん豊かにしていこう」この二つは別に矛盾しない概念だと思いますよ。生産性を上げない人が豊かになることはないけど。 

otiken9 経済成長を目指す社会において、生産性が高い少ないで人を測らないことは可能なのか?という話だろう。経済成長が弱者救済をもたらす論理は、障碍者を生産性が低い人間と扱っていることに他ならないと考えるが。 

nemuiumen 「経済成長するからこそ生産性がない人にも優しくできる」は、「果実を生産性の高い人間が食べた後もし食い残しがあれば生産性がない奴らに施してやらんでもない」ということだと思うんだけど、それって正しいのか 

aves_ramphastos_toco 経済成長を目的とする場合、生産性で人間を測り不用品を潰すしかないわな。「生産性低い奴を潰す世の中バンザイ、自分がそうなったら喜んで自殺する」という覚悟がないなら一定量のアソビないし成長否定を要す。 

そう、経済成長を至上命題にする社会でも、その経済成長の施しを受けて「ぎりぎり行きていける」社会にはなれると思うんですよ。でもそれはあくまで「ぎりぎり」で、しかもあくまで施しを受けるものであるということになる。それって結局「生産性のみで人を測る」ことと何ら変わりないんじゃないの?というのが僕の疑問なんです。

これに対し、「経済成長はするけど、でもそれに寄与しているかを、人間を測る道具にしない」という主張もあります。

jkr2348fsfsd 「生産性の高低に関わらず、果実が行き渡るような経済成長を」という事では。経済成長と再分配両方やっていこうという意味合い。 

usutaru 生産性で人間をはからせないルールを決めた上で経済成長を目指すこと。現状がノールール過ぎやせんかという問いかけでは? 

masumizaru 両立もなにも、人権の保障と経済成長には何の関係もないです。経済が成長しようがしまいが人権は守られるべきだし、経済成長のために人権を犠牲にしていい法はない 

kash06 ブコメは「経済成長を否定したらこうなる」を論じるが、争点はそこだろうか。ぼんやり思うに「経済成長をするが、それを成し遂げた人の功績に応じた配分にせず、人の必要に応じて分け合う」を大胆に行うではないか。 

これは僕もいいと思うのだけど、一抹の不安が残るのが、じゃあ「経済成長に寄与しても何にも得をしない」という状況で、人は経済成長を支える活動を続けるの?ってことです。

例えば山形浩生氏などは、このように述べ、人はだまってても成長する、だからそれに追いつく経済成長が必要なんだと述べるわけです。

cruel.hatenablog.com

よほどとんでもない環境にでも置かれない限り、だまってたって人はあれこれ工夫をするし成長しちゃうし、みんながそれをやったら、経済だって当然のように成長するしかないんだもの。

しかしそうやって「人はだまってても成長する」というのは、結局の所、「生産性のみによって人を測る価値観」を内面化して、「成長してより多くのものを生産しなければ自分に価値がない」という風に思ってるからそうしているだけなんじゃないのと、僕なんかは思うんです。

とすれば、もしそこで「生産性のみで測らなくてもいいんだよ」と言ってしまえば、そもそも人は本来成長なんかしたくないんじゃないかと思うのですが、これは僕が怠惰なダメ人間だからなんでしょうか?

その点でいうと、この話題への言及で一番慧眼だったのが、プロ倫を例に出した、このコメントだったのかもしれません。

giyo381 経済成長とかだけ抜き出してもその前提の資本主義を受け入れる精神がないと。全て神の思し召しやら、労働は悪とかそういうのから資本主義を形成するプロ倫あたりから始めよう 

 マックス・ウェーバーは、近代のこの資本主義のありようが、決して人間の本能などに根ざすものではなく、むしろその反対、宗教という極めて形而上的なものを契機にして生まれた、文化的な所作であることを、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で明らかにしました。 

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

 そしてさらに、その後現れたナチスを例に社会学は、そのような近代の資本主義を形作る精神は、やがて必然的に「生産性のみによって人を測る世の中」を作り出すと述べたわけです。

コミュニケイション的行為の理論 上

コミュニケイション的行為の理論 上

 

「経済成長こそが重要なんだ」という経済学者は、しかしこの様な、現行の経済成長を前提とした経済のあり方が、いかにナチスとよく似た価値観によって支えられているかということを、全く見ようとしないように思えてなりません。そこが、僕が「経済成長こそが重要なんだ」論者に抱える不信感の根源なんです。

れいわがもしそれでも「経済成長が重要なんだ」という考えと、「生産性のみで人を測らない」という考えを両立しようとするなら、そこではただ経済学の理論(それがケインズであれフリードマンであれMMTとやらであれ)を振りかざすのではなく、そこで「経済成長」と「生産性のみで人を測らない」を両立する、今までの「資本主義の精神」ではない新しい精神こそを提示しなければならないと、僕は思うのです。

追記(2019-07-26 04:53)

参考にした統計のリンク一部書き忘れてたので追記

https://survey.gov-online.go.jp/s62/S62-07-62-06.html

https://survey.gov-online.go.jp/h04/H04-08-04-08.html

https://survey.gov-online.go.jp/h09/shogaisha.html

https://survey.gov-online.go.jp/h13/h13-shougai/index.html

https://survey.gov-online.go.jp/h18/h18-shougai/index.html

https://survey.gov-online.go.jp/h24/h24-shougai/index.html

https://survey.gov-online.go.jp/h29/h29-shougai/index.html

https://honkawa2.sakura.ne.jp/4400.html

経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか

経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか、れいわがブームな今だからこそ、改めて問いかけてみたい。

anmintei.net

やすとみ氏については毀誉褒貶色々あるけど、この記事自体は色々面白かった。れいわが何であれだけ左右問わず既存の政治関係者から嫌われているのか、にもかかわらず、それが、僕を含めたある種の人々(この記事では「無縁者」と呼ばれている)を惹きつけるのか、わかった気がする。

ただ、今回とりあげたいのはその話ではなく、この記事についた、以下のようなコメント。

b.hatena.ne.jp

rna 富国強兵と経済成長をごっちゃにしてるところで読むのやめた。 

 preciar 頭の悪い文学系らしいクソポエム社会認識。何が富国強兵より子供、だ。技術と経済の発展がなけりゃ人が死ぬんだよ。/れいわの評価点は経済だけなので、こんなパープリンを混ぜるのは勘弁してほしい 

 「経済成長こそが大事だ」っていうのは、確かにれいわのブレーンの一人である松尾匡氏なんかも散々言ってることなので、まあこういう意見も出てくることは当然予想できます。

ですが、一方でれいわのもう一つの側面、特に今回当選した二人の障害者に対して散々言ってる下記の言葉からすれば、そりゃ当然こういう成長否定論になるだろうと思うわけです。

www.nhk.or.jp

生産性で人間をはからせない世の中を目指すことと、経済成長こそが一番大事だとすること、この二つは両立するのか、僕は大いに疑問なんですよね。

だって、「生産」することなしに経済成長なんてありえないでしょう?こう書くと、ちょっと経済学をかじった左派経済学者は「いやいや生産という供給ではなく需要が問題なんだ」ということを言います。ですが、需要ばっかり高めても生産が一切増えなかったら、経済がうまく回らなくなることは、流石に僕だってわかりますよ。今の経済状況がどうかはひとまずおいておいて、原理の話だけするなら、供給と需要、つまり生産と消費、その二つが共に増えていくことが、経済成長の必要条件なわけです。ということは、「経済成長を維持することを第一に考える社会」というのは、「生産と消費を増やすことを常に人々に強いる社会」なわけです。

となれば、そういう社会は、「どれだけ何かを生産しているか」「どれだけ何かを消費しているか」でもって人間をはかるようになるわけで、やはり生産性で人間をはからせない世の中とは両立しないんじゃ、ないんですかね?

もちろん、僕は経済学が、大学時代様々な社会科学をかじった中で一番苦手だった学問だったので、経済学に詳しい人からすればツッコミどころだらけでしょう。

ですが、じゃあそういう人は、経済成長ってなんなのか、それが人々に何を強いるのか、マクロな政策の次元ではなく、ミクロな行為の次元で語れるのでしょうか?

amamako.hateblo.jp

なぜ経済成長論争がこんな風にレッテル貼り対決にしかならないか。それは、結局経済成長肯定派も否定派も、経済成長それ自体や、その経済成長を人々に強いる、または脱成長を人々に強いるということが、人々のミクロな生活(労働だったり余暇だったり)をどう方向づけるのか、価値表明の前の事実認定の段階での合意形成が取れていないし、取る気もないからではないでしょうか。
いや、マクロな面で言えばそりゃ経済成長の定義っていうのは明白なんでしょう。国内総生産が前年と比べて増加すれば経済成長?とかそんな感じなんでしょう。
しかし、そうやってマクロな現象である経済成長が、人々の一体どういうミクロな営みによって形成されているのか、経済成長が人々を幸福にするか不幸にするか問うなら、まさにそういうミクロな視点から見た経済成長論こそが重要なはずなのに、経済成長肯定派も否定派も、そういうミクロの営みについてはほとんど語らないわけです。

……

なぜこういう風にミクロな観点から経済成長というものが生活に占める位置を確定させることが重要なのかと言えば、こうやってミクロな意味をはっきりすることで初めて、「では人々は経済成長を選択すべきか否か」がわかるからです。
例えば上記の定義に従って言うならば、経済成長を肯定し、経済成長を推し進める政策とはつまり「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。」ことを奨励し、人々にこのように振る舞うよう条件付ける政策ということになります。そして逆に言えば、経済成長を批判し、脱成長を推し進める政策とはつまり、「明日はもう少し能率よく仕事を片付けて、あまった時間で新しい何かをやろうと思う。いまは捨てているこのピーマンのへたを、新しい料理に使ってみようと思う。」ことをむしろ悪いことだと考え、人々にこのようにしないよう条件付ける政策ということになります。
このように具体的に、人々の生活をどう条件付けるかが分かって初めて、そのどちらを選ぶか判断ができるわけです。

僕がこの記事を書いたのは今から2年前ですが、 しかしこの記事に対して経済成長肯定派が返答することはありませんでした。もしかして答えられるものがないのでしょうか?だとしたら、実際に経済成長を推進することが、人々のマインドをどう規定するかわからず、ただ「経済成長」という概念を神様のように崇めてるだけなんじゃないの、それって経済成長真理教と何が違うの?と批判されても、仕方ないでしょう。

だから、れいわ支持者を含め、「経済成長こそが一番大事だ」と考える人は、経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか、両立するとしたらそれはどんな社会で、そこで人々はどんなマインドで生きることになるのか、是非答えてほしいとおもいます。

が、まあおそらく、前回の記事と同じように、この記事も黙殺されるんでしょうね。

障害者の家族こそ、障害者の敵である(少なくとも、ある側面では)

どうも、あままこです。

もう、本来だったら前回の記事に引き続き天気の子の話をしたいんですが、twitterを見ていて、あまりに腹が立つというか、「リベラルの中でさえ未だこのレベルなの!?」と落胆するような出来事があったので、記事を書きます。

きっかけはこのツイート。

 このツイートを、木上ちがやとかいう大月書店から本を出したり、論座に記事を書くような人が、以下のように擁護するわけです。

 これを見たとき僕は愕然とするわけです。

「障害者の家族が障害者の意見を代弁したり、障害者の権利を擁護することなんてできない。なぜなら、障害者の一番の敵は、障害者の家族だから」

こんなの、ちょっとでも障害者問題に関心があったり、障害者に普段接する機会があったら、当たり前のことなんですが、大月書店から本を出したり、論座に記事を書くような人、僕よりずっと勉強してるような人が、それを知らないなんてことあるのかと。

障害者の家族は、むしろ障害者が意見を言うのを嫌がる。面倒だから

告白すると、実は僕自身、障害者の家族です。具体的に言えば、知的障害を持つ者の兄です。

ですが、僕は今まであまりネットではそれを公言してきませんでしたし、さらに言えば、障害者の権利擁護や差別反対といった活動からも、敢えて距離を取ってきました。

なぜか?

「障害者の家族」だから、障害者のために頑張りなさい。障害者の意見を代弁してやりなさいという、世間の声がうざかったからです。

一般的な社会問題としてなら、別に障害者の権利擁護とか差別反対には何ら反対しません。ですが、じゃあ実際、家族である障害者が、そういう声を上げ始めたらどう思うか?分かるでしょう。「面倒くさいなぁ、やめてくれないかなぁ」ですよ。

「そう思うのはお前が薄情で冷淡なだけ」と言う人もいるかも知れません。まあ自分が薄情で冷淡な人間であることは別に否定しませんが、じゃああなたがもし障害者の家族だったら、どうですか?

例を挙げて説明しましょうか。実際にあった例です。

僕と弟はある日遊園地(具体的に言うと、浅草にあるやつ)に行きました。その遊園地では、障害者割引があったため、弟はその障害者割引を使って入りました。

するとその遊園地では、バッジを弟の胸につけました。そしてこう言います。「障害者は、いざという時に危険だから、ローラーコースターやフリーフォールみたいなアトラクションには乗れませんと」。

それに対して弟は激怒するわけです。いや別に自分は身体に障害があるわけではないから、別にそういうアトラクションにも普通に乗れると。事実他の遊園地では普通にローラーコースターやフリーフォールみたいなアトラクションにも乗っている。これは明らかに、障害者に対する合理性のない差別だと。

そして弟と遊園地のスタッフの間で口論が始まるわけです。

それをそばで眺めていて僕は何を思ったか?「そうだ弟の言うとおりだ。これは差別だ」と弟と一緒に憤る?「いやでも遊園地のスタッフの言う通り危険かもしれない」と、遊園地側に理解を示す?

答えはこれ。

そんなのどっちでもいいよ。なんで遊園地を楽しみにしてたのに、こんな口論をしなきゃならないのさ」ですよ。

だって別に弟が我慢さえすれば、僕は普通に自由にいろんなアトラクションにも乗れるんですから。さらに言えば、口論をしてれば当然周囲からはいろんな目で見られます。遊園地のスタッフからは「なんとか弟さんを説得してよ」という目で見られるし、周りの人からは「なんかクレーマー二人が遊園地のスタッフにクレーム付けてる」という目で見られるわけです。

そんな状況に至れば、人間「面倒くさい」と思うわけです。そしてそういうことが何回も重なるうちに、障害者の家族はこう思うわけです。「こいつが黙ってさえいてくれれば、全てが丸く収まるのに」と。

だから、障害者のことは、家族ではなく、障害者自身に聞かなければならない。障害者のためにも、家族のためにも

もちろん世の中には「いやそうは思わない!私は障害者のために自分を犠牲にして頑張っている。」と主張する障害者の家族もいるでしょう。ですがね、そんなの人間が耐えられるわけないんですよ。必ずどこかで、「障害者のため」と言いつつ、自分のためにする行為が混ざってくるわけです。ていうかむしろそれが人間として健全なありようなわけで、その健全な有り様を否定すればどうなるか?障害者の家族によくある話。「これはあなたのためを思ってやってるんだから」という暴力・虐待です。

しかし世間はそれに対してこう言います。「障害者で同じ家族なのになんでこんなひどいことを。愛が足りないんでしょ」と。そして、更に障害者の家族に、障害者のために自分を犠牲にしろ、それが家族の正しい姿だと、圧力をかけるわけです。

もうこんなの、やめにしませんか?

障害者のことは、家族や、支援者ではなく、障害者自身が語るべきなんです。意見や要求を主張するのも、まず第一は障害者自身が声を上げるべきなんです。

そして障害者の家族は、「障害者」の意見や気持ちを代弁なんかできないということを認め、「障害者の家族」としてではなく、「自分」の意見を持ち、自分のために生きるべきなんです。

そのためには、まず社会が、障害者に意見を聞く時に、障害の当事者ではなく、まず家族や支援者に意見を聞こうとするのをやめるべきでしょう。障害者の家族が「障害者のためを思って〜」とか言うときは、むしろ「それは障害者本人ではなく、あんたの意見でしょ」と、遠慮なく批判すべきです。

そうやってこそ、真に障害者と、障害者の家族が両方幸せになれるのではないでしょうか。

「障害者の家族で苦労してるんだから、それを批判するのはよくない」という偽善的態度こそが、何より障害者と、障害者の家族を追い詰めるのです。

「天気の子」を見に行ってきて、おもいだしたこと(ネタバレ無し感想)

「天気の子」、公開初日の午前9時から見に行ってきました。

https://www.instagram.com/p/B0FMcvsg_nc/

というわけで『天気の子』見終わったー!百点満点中一億兆点!出来れば梅雨のうちに見て!


はい、もう声を大にして言いたい。今を生きる人間なら、絶対これはリアルタイムで見に行くべきだ!と。


なぜ見に行くべきか?これは、「あなたのための映画」だからです。

 

前作の「君の名は」は、「みんなのための映画」でした。あの震災を経験したみんなが、漠然と思っていた「世界はこうあってほしい」と、エンターテイメントを求める中で、それに見事答えた作品です。つまり、万人が共通して持っている要素に働きかける作品だったんだと、僕は思っています。

しかしそれに対し、今回の「天気の子」は、決して万人に受け入れられる、そんな作品ではないです。しかし、少なくとも、このブログに辿り着いた人なら、それがどういう形であれ、「刺さる」部分を持つ、そんな尖った作品になっています。

もちろん、具体的にどういう部分が刺さるのかというのは、ネタバレになってしまうので詳しくは言えません。ですが、例えばこの予告編


映画『天気の子』スペシャル予報


この予告編をみて、「そうそうこれが新海誠なんだよ。だから新海誠が好きだ」と思う人、あるいは、「こんな作品ばっかだよな新海誠は。だから新海誠は嫌いなんだ」、そういう人は、まさしく今回の作品を見て、今の新海誠が、過去を礎にどう人々にメッセージを送ろうとしているのか、そして自分はそれをどう受け取るのか、確かめるべきです。
あるいは、新海誠に全然思い入れが無かったとしても、思春期をくぐり抜けたり、今思春期真っ最中という人には、ぜひ見てもらいたいです。
更には、年齢とか関係なくこの社会に息苦しさを感じてる、そんな人にも見てもらいたいし、あるいは逆に、今の社会万歳!と思っている人にも、この作品の問いかけを聞いてほしいと思います。


とにかく、もしあなたが、「物語」というものに、人の心を揺り動かす力があると信じていたり、揺り動かされる人間ならば、断言しましょう、この「天気の子」という映画は「あなたのための映画」なのです。


では、「天気の声」のどういう部分が僕に刺さったのか、ネタバレにならないように、敢えて「天気の子」の作品のあらすじには一切触れない形で、語ってみましょう。


 「天気の子」を見に行ってきて、おもいだしたこと

「天気の子」を見に行ってきて、僕は、中学・高校の頃を思い出したんですね。なぜか?答えは単純で、「天気の子」の主人公の男の子が行く新宿のマクドナルド、あそこに僕もよく行っていたからです。
その頃の僕は、東京から新幹線で一時間半ぐらいのところにある地方暮らしでした。島ぐらしだった主人公の男の子よりは恵まれた環境だったかもしれませんが、それでも、地方の中高生がだいたいそうであるように、僕も、地方での生活に息苦しさを感じる日々でした。それで、長期休暇にはよく、宿のあてもなく東京に飛び出てきて、それこそネカフェやマクドで一週間ぐらい寝泊まりする、そんなことをやっていました。
東京に出れば何かが自分のこの息苦しさを振り払う出来事が起きるだろう、そんな期待もちょこっとありました。もちろん、そんな期待は成就することはなかったわけですが。


ただ、そんな中で、東京にいるということをネットでつぶやいたりすると、時たまネットの向こう側から「じゃあ会わない?」みたいな声がかかることがあります。今考えれば、そんな怪しい誘いに乗るなんて危険なことよくやっていたと思いますし、事実、トラブルもまあまあありました。

ただ、それでも会いに行くと、そこでは様々な人に出会いました。同年代の人と会うこともあれば、全然年下だったり年上だったりする人と会うこともあります。ただ、その全てに共通して言えるのは、大体「まともじゃない、社会から外れちゃった人」ということです。未成年だろうがタバコやアルコールはみんなほぼやってましたし、学校や会社にまともに行ってなかったり、行ってたとしても、そこでの暮らしは「擬態」なんだと言い切っていたり、はては、このご時世に暴力革命の夢を見る運動家だったり……彼らには、「今の社会のために自分を犠牲にする」という考えがはなからありませんでした。彼らの生活の様子をネット上にアップすれば、それだけで炎上しそうな人たちです。社会が何だ、俺/私はやりたいようにやりますよ、そんな人たちだったのです。しかし、そんな「社会から外れちゃった人」の間にいると、不思議と息苦しさが、なくなったのです。

……しかし、そんな思春期はやがて過ぎ去り、ぼくは、一応年齢的には大人、というかおじさんの年齢になりました。当時の付き合いで、今も続いているものは殆どありません。時折、風のうわさで、お彼岸に行ってしまった人が出たことを聞くぐらいです。

 

そして、息苦しさは今なお消えません。ただ、年をとって、その息苦しさをうまくやり過ごすすべは身につけました。「誰も一人で生きてなんかいない。みんなで助け合って生きているんだ」とか言ったり、「誰かが犠牲にならなきゃいけないんだ」と諦めてみたり。幸い、世間の物語で、そういうメッセージを助けてくれるものは山程あります。まさしく、「大人のための、ビターな物語」というやつです。5人を救うために1人を殺すポイント切り替え。

 

……「天気の子」は、そんな今の僕と、そんな今の僕をきっと蔑んでる、あの頃の僕への物語なんだと、僕は勝手に、思い込んでいるのです。

おまけ

増補改訂 アースダイバー

増補改訂 アースダイバー

 

 新海誠氏がツイッターでこの本が陳列されている本棚の写真をアップしていましたが、「天気の子」を見る人で、人文系の本に抵抗がない人は、見る前でも見たあとでもいいんで、この本読むと、「あーそういうことか!」とわかることが多々あると思います。詳しくは、これもネタバレになっちゃうので言えませんが……

夢見りあむって誰?ザコメンタル?炎上経験がある?曲は?声優は?好きな漫画は?調べてみました!

2019年2月7日に『アイドルマスターシンデレラガールズ』というゲームに初登場した夢見りあむというアイドルが、「ほんとすこ」、「まじ無理」、「こういう子いるいる」、「古傷を思い出す」、「ひどいことしたい」などと、様々な形でtwitterで話題になっています!

この記事では、そんな夢見りあむがいったいどんな子なのか。調べてみました!

夢見りあむのプロフィール

アイドル名 夢見りあむ
フリガナ ゆめみりあむ
年齢 19
身長 149cm
体重 リンゴたくさん
B-W-H でっかい-ふつう-たぶんふつう
誕生日 9月12日
星座 乙女座
血液型 AB型
利き手
出身地 やさしい世界
趣味 夜中の意味深ポエム、現場参戦

夢見りあむ - アイドルマスターシンデレラガールズwikiより)

出身地が「やさしい世界」っていうのは一体どういうことなんでしょう?趣味が「夜中の意味深ポエム、現場参戦」ということですが、一体どんなポエムを書いてるのか、気になりますね!

ザコメンタル?

夢見りあむちゃんは特技が「ザコメンタル」ということで、他にも

  • マウントとられて…めっちゃやむ!
  • 学校続かなかったしこれでアイドル向いてなかったら本気でやむよ!?頼むよPサマ!ぼくを救って!その力でアイドルにして!!!
  • アイドルはメンタルに効くんだよ特効薬だよ!財布にダメージだけど!

などと、様々なセリフで、メンタルが不安定なことをほのめかしています。 ただ、一方でりあむちゃんはこんなことを言っています。

ということでtwitterでは、「りあむちゃんはファッションメンヘラ」「病気じゃない。ただクズなだけ」などと言われています。

[https://twitter.com/Az_91/status/1093689536909996034:embed] [https://twitter.com/tnta_mcas/status/1093517019708719105:embed]

本当のところはどうなんでしょう?とっても気になりますね!

炎上経験がある?

夢見りあむちゃんは「炎上でもいい!目立ちたい!」と言っています。

しかしその一方で、

  • 意見はマシュマロに包んでそっと投げてほしい…甘い言葉だけくれ
  • ネットで叩かないでほしい!!
  • え、ネット炎上してる?何で!?

というように、実際に炎上するとうろたえてしまうようです。

twitterでは、夢見りあむちゃんが一体どんな炎上をしたのか、様々な想像がされています。

一体どんな炎上をしたんでしょう?とっても気になりますね!

曲は?

アイドルといえば歌!ということで夢見りあむちゃんが一体どんな歌を歌うのか?とっても気になりますね!

しかし 2019年2月8日現在、まだ発表されている曲はありません。残念……

しかしtwitterでは早くも、夢見りあむちゃんにどんな曲を歌ってほしいかなどが、話題になっているようです!

www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com

大森靖子神聖かまってちゃん倉橋ヨエコ、ナナヲアカリなど、さまざまな歌手の曲が上がっていますが、一体どんな曲を歌うことになるんでしょうね!

声優は?

夢見りあむの声は一体どんな声優が担当するのか、気になりますね! しかし2019年2月8日現在、まだ夢見りあむに声はついていません。残念……

twitterではさまざまな意見があるみたいです。

 中にはこんな声も。

これを受けてはるかぜちゃんはこんなツイートをしています。

……とってもわくわくしますね!

好きな漫画は?

そんな夢見りあむちゃんですが、非公式情報ですが、実はこんな一面もあったりするようです。

これを受けて、知るかバカうどんさんはこんなツイートをしています。

……注目ですね!

なんでここまで好かれるの?

しかし夢見りあむちゃんは一体なんでこんなにネット上で人気を集めるのでしょうか?twitterではこんなことが言われています。

[https://twitter.com/rea_rin/status/1093449681139462145:embed]

要するにtwitter民は自分が今まで出会ってきたり、自分の心の中にある闇を夢見りあむちゃんに投影しているみたいです。

うーん、なんか夢見りあむちゃんがかわいそうですね!

まとめ

いかがでしたか?

今回は夢見りあむちゃんについて調べてみましたが、結局夢見りあむちゃんが本当はどんな子なのか、詳しいことは分かりませんでした。

夢見りあむちゃんの今後に注目ですね!

……

f:id:amamako:20190208154356j:plain というわけで、夢見りあむちゃんについて気になった人は、こんな記事を読んでる暇があったら、さっさとデレマスをプレイしなさい。 www.andapp.jp

「エンパワーメント」なる言葉のうさんくささ

このツイートに対し「いや受け手を不快にするものが全て『広告』として許されないなら、フェミニストたちがさんざん称賛してきたジレットの『男らしさ』広告なんてどうなるのよ」という批判をしたら、多くの人から「いや、ジレットの広告は男性をエンパワーメントするものだが、ロフトの広告には女性をエンパワーメントする気が見られない。だから駄目だ」という反論が多く寄せられました*1。 要するにこの人らの脳内では、「エンパワーメント」の要素こそが、ある表現が許されるか/許されないかを決める、決定的要素となっているみたいです。

しかしねぇ……僕は思うのです。

「エンパワーメント」,これほどうさんくさい言葉も、なかなかねぇぞ?と。

エンパワーメントとは結局、心地よい疑似現実に逃げ込む言い訳にすぎない

エンパワーメントという言葉は、どうやら最近の「意識高い系」の人々の間では流行語になっているようで、Googleニュースで検索してみると、「女性をエンパワーメント」とか、「クリエイターをエンパワーメント」なる言葉がずらずらっと出てきます。

www.google.com

では、「エンパワーメント」なる言葉は一体どういう意味なのか。Wikipediaを引いてみると、次のような定義が載っています。

ja.wikipedia.org

エンパワーメント(empowerment、エンパワメントとも)とは一般的には、個人や集団が自らの生活への統御感を獲得し、組織的、社会的、構造に外郭的な影響を与えるようになることであると定義される。日本では能力開化や権限付与とも言う。エンパワメントの考え方は昨今大きな広がりを見せ、保健医療福祉、教育、企業などでも用いられている。広義のエンパワメント(湧活)とは、人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させることと定義される。

「人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させること」ねぇ……

まあ、なんていうか……この文章を見て「うわきもっ」と反射的に思えない人とは、正直一生分かり合える気がしません。

大体、もし自分が本当に「それが正しい!」と思ってる信条なら、エンパワーメントなんてされなくてもそれを貫けるはずなのです。もし、「女性の絆は清く美しいもので、そこには打算とか抑圧なんてものはない」と本気で信じているのなら、それが他者の表現でどう描かれようが気にならないはずでしょう。

それが、エンパワーメントされなきゃ信じられないというのなら、それは所詮それまでのことなんですよ。心のどこかで「いやでも女性の絆にも足の引っ張り合いとか普通にあるんじゃないか?」という疑念が心のどこかにあって、それを打ち消したいから、「女性の絆は生来美しいものなのだ!」という表現を、「女性をエンパワーメントするものだ」といって称賛し、そうでない表現を「女性をエンパワーメントしない!」と言って過剰に貶める。そうやって自分の身の回りから、自分の心の奥底に眠る疑念を呼び起こすものを排除し、「やっぱ女性の絆は美しいねぇ」と仲間内で確認し合う。

はっきり言いましょう。「エンパワーメント」とは結局、同調圧力によって現実から目をそらし、心地の良い「疑似現実」に逃げ込む、体の良い言い訳に過ぎないのです。

凡人は、真に世界を変えうる稀人の邪魔をするな

まあ、そうやって心地よい疑似現実の中で一生を終えられれば、それはそれで幸せなのでしょう。しかし、世の中そういう鈍感な人ばかりでできているわけではありません。例えどんなに心地よい「エンパワーメント」で覆い隠そうとしても、その裏にある「見たくない現実」というものを見てしまう人も、世の中にはいるのです。そして、本当に素晴らしい、人の心を揺り動かし、後世まで残る表現を生み出す表現者というのは、まさにそういう感受性を持った人なのです。

そういう表現者の表現というのは、むしろ「エンパワーメント」なる美辞麗句とは程遠いものになります。その表現を受け取っても決して愉快な気持ちにならないし、元気づけられもしない。「夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させる」なんてもっての外です。

でも、「エンパワーメント」なる言葉を無邪気に称賛する輩には一生理解できないことかもしれませんが、こういう表現こそが、この社会で生きづらいと思っている人たちにとっては、この社会をサバイブする「武器」となるのです。そして更に言うなら、「エンパワーメント」的な表現によってしか自分の信条を本気で信じることができない人がいくら集まっても変えることができない現実を、打ち破る力を持つ人は、まさにそういう感受性を持った「稀人」なのです。

僕が言いたいことは唯一つ。「凡人はそういう稀人の邪魔をするな」ということです。凡人たちは自分たちの内輪で散々「エンパワーメント」なるものを称賛していればよろしい。清く正しい人たちが、悪を打ち破る勧善懲悪なポリコレ的物語でも読んで、「とーってもエンパワーメントされました!ポリコレサイコー!」と、目から出る体液の量でしか映画の良し悪しを測れない〇〇どものようにのたまっていればいい。ただ、自分たちの好む物語と違う、その鈍感さでは図りえない表現が出てきたとき、それを邪魔するのはやめてほしいと、そう思います。

「女ノ絆ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」なのか?

LOFTのバレンタイン広告問題、いいかげんこの記事で最後にする予定だけれども、最後にこれだけは言いたいので言わせていただく。 「女ノ絆ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」なのか?

「女子校は桃源郷!嫌な思いなんて一つもしなかった」として、女の絆をことさら美化する人たち。 まー彼女らにとっては確かにそれは幸せだったのでしょう。しかし、それが弱者を踏み台にしたスクールカースト強者の言い草であることは、ちょっとtwitterを検索すればすぐ分かることです。 しかし、この記事ではそういう意見はあえて引用しません。なぜなら、そういう意見を目にした途端、ツイフェミたちは↓のように攻撃を加え、そういう被害者たちを沈黙させようとするからです。 そしてこうやって現実を否定することによって、ツイフェミたちの間で生まれる「女同士はみんな仲良し!女の絆は何よりも強く、そこには打算も何も含まれていない」という疑似現実。 それ、学校の先生たちがよく言う「うちのクラスはみんな仲良し、いじめなんかありません」と一体何が違うというんでしょう? 「そういう見方は古い。今の流行りはみんな仲良しだよ」と言う人がいます。そういう人たちの脳内では、集団でのいじめなんていうものは過去のものであり、もはや克服されたものなんだということに、なっているのかもしれません。 しかし現実は違います。 mainichi.jp 男だろうが女だろうが、人が集まって集団というものを形成すれば、そこには必ず勝者と敗者が生まれる。「絆」っていうものは決して美しいものじゃない。むしろ、醜悪なものである。 その現実を見ないですまそうとする輩は、フェミニストだろうがなんだろうが、僕の敵です。