あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「ここに書けば誰かが真剣に読んでくれる」という期待感が今のはてなにはない

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他の人はどうだか知らないけど、少なくとも僕があんまりはてなで長文や他人の記事に反応する記事を書かなくなったのは、「ここで僕が何かを書いても、それを真剣に読んでくれる人はだれも居ないように思えてならない」からだったりする。

在りし日のはてな村

非モテ非コミュとか、あるいはオタクとしての自意識とか、はたまた現代のサブカルチャー時代精神の関係とか、ゼロ年代からテン年代前半の頃のはてな―少なくとも僕の周りのはてなは―そんなことばっかりを語り合っていた。

amamako.hateblo.jp

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なんでこういうことばっか書いていたかと言えば、それはひとえに、現実社会でこんな問題を真剣に語り合う人なんて周りには居ないけど、はてなにこういうことを書けば、その文章に賛成するのであれ否定するのであれ、書いた意見に真剣に向き合って、返答をくれるだろうという期待感があったからだ。そして実際、その期待は満たされた。

重要なのは、ここで「賛成か否定か」ではなく「真剣に読んでくれるか」ということが問題だったという点だと思う。過去のはてなが僕と同じ考えの人ばっかりだったかといえば、そうではなかった。むしろあんまり非モテ女性嫌悪に共感できなかったり、人気のアニメにいちゃもんばっかりつけたりしていたから、僕と同じ意見の人ははてなにもそんなに居なかった。

ただ、それでもはてなでやり取りする人たちは、異なる意見にも真剣に向き合っていたし、僕もまた、それに応じて、「ひどいなー」と思う意見の文章であっても、それに対して応答し、なんとか相手を説得しようとする文章を考えていた。今から考えると、なんて夢想論的なんだと思うけど。でも当時は、それができるんじゃないかという信頼が、幻想としてでもあったのだ。

規模の拡大と、マネタイズと、陣取り合戦と

それが変わり始めたのが、テン年代中盤から後半だった。

まずはじめに、ブログを書く人がどんどん増えていった。以前は一日三十分もかければ、はてな界隈で話題になっていることはだいたい網羅できて、そしてそこから自分が関心ある話題に言及する、という感じだったのが、一時間以上かけても全体を網羅すらできなくなっていった。

また、今までははてなに居なかったような人もどんどんブログを書くようになった。彼らはビジネス書とかは多く読むけど、「スクールカースト」とか「非モテ」とか「理想/夢/虚構」とか、そういった言葉は、概念としてそもそも知らない。今まではてなでそういう問題に関して言及しあえたのは、立場はどうあれ、そういう分析概念自体は知っている人が多々いたからだったけど、立場以前に、そういう分析概念や、そういう分析概念を必要とする問題自体を知らない人がどんどん増えて、やがて多数派を占めていった。そういう人たちは、そもそも今まではてなで語られてきたことに興味がなかった。

じゃあそんな人達が、一体何に興味を持っていたかというと、「マネタイズ」である。より多くPVを集め、アフィリエイトやらアドセンスやらでお金を稼ぐ。そのためには難しい言葉を浸かったり、人から同調されにくかったりするような文章は書かずに、読む人が気持ちよくなれるような、商品の紹介であったり紀行文だったりを書くようにしよう。

そして以前は非モテ非コミュについて語ってた人も、そういう人の中で地頭が良い人はどんどん路線転換していき、オトナーな、はてな編集部やらオウンドメディアやらとかから依頼を受けるような文章を書くようになっていった。

そしてさらに、ブログは陣取り合戦の道具と化していった。ブログがどんどん大衆化していなかで、現実の政治もまた、ブログにどんどん侵食していった。

ここで難しいのが、もともとのはてな村という場所も、政治について語るのは大好きだったということだ。だがそれは、あくまで分析の対象としての「政治」だ。なんで今の政治はこうなっているのか考えたり、政治思想について意見を交わしたりする、その次元で「政治について語る」ことは多々行われてきた。

ただ、「政治について語ること」と、実際に「政治をする」ことには大きな隔たりがある。実際に「政治をする」にあたって、政治思想について議論したり、分析をしたりすることはほぼ役にたたない。そうではなく、たとえ稚拙でも耳障りの良いフレーズを繰り返したり、敵対者を矮小化して味方を高揚させるような言葉を放つほうが、現実の政治においてはずっと重要なのだ。そのような言葉が支配する議論においては、重要なのは議論の相手を説得することではなく、むしろそれを見ているオーディションを味方につけることにある。

そして「どれだけオーディエンスを味方につけられたか」を評価する指標となったのが、まさしくはてなが発明した、あの最低最悪の愚劣な発明、はてなスターだ。

はてなスターをつけるという行為は、「意見に対して真摯に向き合う」という行為の、正反対に位置すると言っていい。はてなスターを付ける人は―もちろん自分も含めて―そのつけられた文章に真摯に向き合ってなど居ない。ただそれが自分の属する陣営に耳障りがよく、効果的に敵対者を侮蔑できるという評価を持って、それを付けているのだ。

しかしはてな社は、そのような愚劣な機能を開発したばかりか、あろうことかそのスターの多少によって、はてなブックマークでコメントが上位で表示されるか否かを決定するようにした。その結果は、言うまでもないだろう。はてなブックマークはもはやタダの党派対立の場でしかない。そこを支配しているのは「文章に真剣に向き合おう」という気持ちとは真逆の感情、いかに敵対者の文章の影響力を削ぎ、それによって味方の影響力を上げようかと企む、しょーもない、「政治」だ。

規模の拡大と、マネタイズと、陣取り合戦、この3つがはてなを席巻する中で、やがて多くの人は「ここに真剣な文章を書いても、それを真剣に読んでくれる人はだれもいないんじゃないか」と思うようになったのではないだろうか。少なくとも僕の場合は、そうだった。

「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」場はどうすれば作れるか

以上の理由から、僕はもう今のはてなにはあんまり期待していない。ただそれでも、たとえその場が「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」という期待が持てる場は、必要だと思うのだ。

ただそれは少なくとも、TwitterなどのSNSや、noteみたいなブログサービスではないんじゃないかと、僕は思っている。

SNSに関しては、RTやいいねといった、はてなスターと同じ機能がある以上、論外だ。

noteに関して言うと、あれは「読まれ(て、さらに金が儲けられ)る文書」を書く場所を目指しているのであって、「書きたい文章」を書く場所は目指していないのではないと、僕は認識している。

もちろん、原理的には「読まれる文章」と「書きたい文章」は両立する。しかし実際は、文章表現を洗練し、読まれやすい文章を目指せば目指すほど、その文章にもともと筆者が込めようとしていた熱量は目減りしてしまうだろう。

また、人々がお金を払う文章というのは、結局の所「読んだ人が心地よくなる文章」だ。だが、ひとが自らの実存を掛けて書いた文章は、その人自身の内面が入っている以上、かならずある部分で他者を不快にする部分があるわけで、金儲けの文章としては効率が悪いのだ。

つまるところ、もし現在のインターネットで「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」と思わせる場所を作るには、以下のような条件が必要なのだ。

  • 知識の面で参入障壁を設け、あんまり物を知らない人は出入りできないようにする
  • 反応を返すにはお手軽なワンクリックではなくある程度の文章を返すことを必須とする
  • マネタイズに人々を誘導しない

しかし、今のこの手軽なネットに慣れた人がこういう場に敢えて入っていくだろうか?さらに言えば、そんなお金にならなさそうな場を提供するWebサービス側のメリットとは?

そう考えると、難題は山積みで、解決不可能なように思えてくる。

しかしそれでも、「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」場を必要とする人はいるとおもうのだ。身の回りには打ち明けられない、普通だったら反社会的と糾弾されるような思い、でもそれを抱えていたら、自分が変になってしまうような、そんな思いを、打ち明けられる場。敢えて言えば、そういう場があれば起きなかった"事件"も、多々あるのではないだろうか。

「子どもたちに伝えたい物語」とは?―『ガンダム Gのレコンギスタ I』「行け!コア・ファイター」を見て

というわけで、グダ氏にお金もらってGのレコンギスタ見てきました。

nuryouguda.hatenablog.com

いやほんと、遅くなって申し訳ございません。

ただ、一つ言い訳をさせてもらうと、正直僕みたいなアニメの見方、「アニメをダシにして社会を語っちゃうタイプの見方」をする人間にとって、このアニメはかなーり語りづらいんですよ。

僕は、いわゆる「ガンダム」と呼ばれるような作品群は、最近2つの系譜に分かれてるんじゃないかと思うんですね。一つは『機動戦士ガンダムSEED』、『機動戦士ガンダム00』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』のような、「現実の国際情勢や社会問題とリンクさせた世界」を描くガンダム。もう一つは『機動戦士ガンダムUC』や、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』のような、既存の宇宙世紀に則って、「ガンダムのお約束の中の世界」を描くガンダム

この2つの系譜に沿って物語が描かれると、感想も書きやすいんですよ。前者のようなガンダムなら、ではその社会情勢とのリンクのさせ方の是非はどうなのか。そこで伝えたい、現代社会を生きる若者へのメッセージとは何なのかとか、考えられる。一方後者のガンダムなら、これまでさんざんガンダムというものに親しんできたガンダムオタクに対して、この物語は何を伝えようとしているのかとか、そういうことが考えられる。

ところが、今回の『Gのレコンギスタ』は、僕が見るにそのどちらでもないんですね。なんか現実の社会とかとはかけ離れていて、しかも宇宙世紀でもない世界で物語が紡がれる。そうなると、もう何を基準にして物語を見ればいいかよくわからないんですよ。

ただ、そう愚痴ばっか言っていてもどうしようもないので、とりあえず「良かった点」と「よくわからなかった点」をそれぞれ言っていき、最後にではこの物語は何をしたかったのかというのをなんとか僕なりに考えてみたいと思います。ただ、正直この読み方で本当にこの物語が読み取れてるのか、自信は全く無いです。

良かった点―メカ描写・宇宙描写のわくわく感

まず良かった点ですが、まず一番が、ガンダムを見ていて初めて「この宇宙行ってみたい」「このメカ触ってみたい」と思えたことですね。なんだろう、こう言うとなんか玄人たちには「ケッ」と思われるかもしれませんが、チームラボの作品のような、そんな色彩豊かでキラキラしてて、「見ていて楽しい、触ってみるともっと楽しい」、そんな感じの宇宙描写・メカ描写でした。

だから、これを見た子どもが「こんな宇宙に行ってみたい」「こんなメカを作りたい」と思うことも大いに予想できるわけで、そういう点では「子どもが観て一生に残るものをつくる」というのは、その一点において成功しているだろうと思うわけです。

animeanime.jp

よくわからなかった点―監督が好きなもの詰め込んだだけに見える政治・社会描写、登場人物たちの感情

逆に、そういう小道具・大道具から離れて、登場人物たちや、政治・社会描写に目を向けてみると、これがよくわからない。主人公が最初に属している陣営は、どうやら祭政一致の体制らしいんだけど、このそんなもの歴史の教科書にのっているぐらいのリアリティしかないわけで、じゃあ完全に歴史絵巻みたいなものかといえば、そこに生きる登場人物はどうやら現代人のメンタリティらしくて、どうもちぐはぐなんですね。

いや、もし本当に「現代人のメンタリティと祭政一致の制度を両立させて描きたいんだ」というんなら、それでもいいんですよ。社会学の分野でも、むしろ現代人は世俗化から再魔術化へと向かってるのではないかという議論もあるし。科学文明を抑制しようとするニューエイジ的な宗教思想が、むしろ現代人には適合的になるという逆説を描こうとするんなら、それはそれですごい批評的な作品になるとは思うのです。

ただ、どうもこの分野については、そこまで深く考えてるというよりは、ただ単に「宗教画とかがある中世っぽい建物の中で法王とかのひとが出てくるの描きたい」という、監督のフェティシズムなだけなんじゃないかと思うわけです。だとしたら、見てる人としては「すみませんちょっとよくわかんないです」と言うしかなくなるわけです。

そして、主人公を含む登場人物のメンタリティや感情の動きについても、これがやっぱりよくわからない。なんかよくわからないところで怒ったり悲しんだりしてんなーという感じ。「富野節」全開で、過剰なまでに説明口調で感情を説明されはするんだけど、「うーん?」となってしまう。

なんでそうなるかといえば、登場人物、特に主人公周辺の若者たちが一体どういう自己形成をされているかがよく分からないからだと思うんですね。一応、なんか士官学校とか、あるいは女子校みたいなところにいることは描写されるわけですが、ただそれがどうも薄っぺらく見えるわけです。どういうスクールカーストに属しているかとかもよくわかんないし、ここで本当に学生生活送ってんの?と。

基本、青少年の世界観って、半径5メートルの友人関係がすべてなわけですよ。もちろん、ガンダムのような物語はそこから飛び出していくから面白いわけですけど、この作品ではその飛び出す前の環境がどんなものかわからないから、そこから少年少女が飛び出していってもいまいち爽快感も不安感も沸かず、ただ根無し草がふわふわ浮いてるなー、としか思えないんです。

そういう点では、いくら「子どものための物語」といっても、そこはもうちょっと対象年齢高くして、せめて中学生ぐらいの子が感情移入できるようにしてほしかったなーと、思うわけです。

まとめ―「子どもたちに伝えたい物語」とは?

ただ一方で、そういう「思春期の閉塞感とそこからの解放」みたいな物語は、日本のアニメにおいては手垢が付きまくってるテーマではあるので、そうでない物語を描きたいというのも理解はできるんですね。

この「Gのレコンギスタ I」を見て全般的に言えるのは、とにかく「今日本で主流のアニメの文法とは全く違う物語を編み出したいのかな」ということです。だから、既存のアニメの文法にどっぷりと浸かり、それに沿ったものを無意識に望んでしまう人間が見ると、どうしても「なんでそこでそうなるのよ?」と思ってしまうわけですね。

だから、そういう既存のアニメの文法に浸かり切る前の、少年期の子どもたちがみたらまた違う評価をするのかもしれません。そういう子どもたちに夢を持つ元気を与えるというのがこのアニメの目的なら、僕みたいな無駄に年齢を重ねたオタクがとやかく言うこと自体間違いなのでしょう。

そして、アニメの作り手に求められる資質という点で言うなら、正しいのは富野監督だと思うんですね。少なくとも、「未来の地球のために環境を守ろう!」と立ち上がった女の子に対し「すべてを奪って絶望のどん底に叩き落として嘲笑してやりたい。」とか言うようなラノベ原作者なんかよりはずっと正しい。

nlab.itmedia.co.jp

というわけで、今のアニメに対して何かしら不満や違和感を持っている人は、もしかしたらこの「Gのレコンギスタ」をみたら、「そうだよこれだよこれ!」と思う、かもしれません。ので、ぜひ見てみれば良いんじゃないでしょうか。

少年ジャンプ・篠原健太氏の炎上について:作家は自由に描け、読者は自由に批判しろ……という原則論

要約

  • 少年ジャンプの漫画家・篠原健太氏のTwitterでの「少年漫画の描写は少年を対象にしている以上、女性を不快にしてもしょうがない」という旨の発言が炎上
  • これに関連し「少年ジャンプの編集者はは『少年の心』が分かる人でないといけないので、女性は難しい」という集英社の就活セミナーでの発言が発見され、それも物議を呼んでいる
  • 「少年ジャンプでも、女性への性差別であったり、女性が不快になるような表現はすべきではない」という意見もあれば「女性のことなんか一切考えない少年ジャンプでこれからもいるべきだ」という意見もある
  • 僕の考え①:少年ジャンプがフェミニズムジェンダーの意見を取り入れた漫画を作れるとは思えない。システム的にも能力的にも無理でしょ。
  • 僕の考え②:作家にはとにかく自分の望むように漫画を描かせるしかない。読者が「こういう漫画を描け」と言うことは、それがどんな望みであっても矯正することは出来ない
  • 僕の考え③:その代わり、読者は出された漫画がおかしいと思ったら遠慮なく批判しろ。批判があることによって、読者の少年たちはそれが「いけないこと」であることを学ぶ。それで作者がどうするかは作者の自由だし、筆を折ったり作風を変えても、それは作者の決断だから批判側は何も悪くない

篠原健太氏の炎上について

詳しい経緯は

seafoodfriends.hatenablog.com

にありますが、長いので簡単に要約します。

篠原健太氏の『彼方のアストラ』 

という漫画に対して、読者から「漫画に登場する女性キャラクターの描写が性差別的で不快である」という指摘が篠原健太氏に伝えられ、

 という風に返答したことが、「少年漫画上で女性差別的描写をすると開き直ってる」と捉えられ、炎上しました。

なお、この後、篠原健太氏は次のような補足をしています。

ですが、「少数の声は届かない」と開き直る以上、それは「性差別を容認してる」事と捉えられると、僕は思いますけどね。

また、今回の騒動では、これに関連して、次のような発言を集英社の社員が就活セミナーでしたことも物議を呼んでいます。

"私の大学に集英社の人事が来た時「女性はジャンプ漫画の編集にはなれませんか?」て質問したら「前例が無い訳ではありませんが週刊少年ジャンプの編集には『少年の心』が分かる人でないと……」て返されたの絶対許せない 嘘松ではなく令和1年、都内私立K大学にて行われた企業説明会での出来事です"

 

―元発言は削除済み

これに関しては、そもそも男女雇用機会均等法の観点から法的に問題があるんじゃないかという指摘がされていますが、それについては僕は別に法律の専門家でなくわかりませんので、何も言いません。

あ、ちなみにこれを、集英社の就活セミナーがまだ行われていないからデマだとする情報が一部のクソまとめサイトから出てますが、下記にあるようにきちんと就活セミナーは行われているのでデマです。デマを流したクソまとめサイトはさっさとサイト畳んで回線切って首○ってください。

今回の騒動では、フェミニズム側と反フェミニズム側から2つの異なる意見が出されています。

「少年ジャンプでも、女性への性差別であったり、女性が不快になるような表現はすべきではない」

フェミニズム側は、今回の篠原健太氏の発言や集英社の社員の発言を批判しています。

 また、そこから更に「少年ジャンプでフェミニズムジェンダーの視点を取り入れた漫画ができればいいのに」という発言がなされています。

 「女性のことなんか一切考えない少年ジャンプでこれからもいるべきだ」 

一方反フェミニズム側からは、「女性に媚びてないのが少年ジャンプの魅力だから、これからもその姿勢を貫くべきだ」という主張がされています。

僕の考え①:少年ジャンプがフェミニズムジェンダーの意見を取り入れた漫画を作れるとは思えない。システム的にも能力的にも無理でしょ。

以上が今回の騒動の簡単なまとめで、ここからが僕の意見です。

まず、フェミニズム側に釘を指しときましょう。

少年ジャンプにフェミニズムジェンダーの観点を取り入れた漫画を作らせるなんて、そもそも能力的にもシステム的にも無理です。諦めてください。

これが、少女漫画誌とか青年誌とかだったらもちろん可能です。というかすでに

さよならミニスカート 1 (りぼんマスコットコミックス)

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 とか 

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赤白つるばみ 上 (愛蔵版コミックス)

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www.huffingtonpost.jp

とかそこそこあるわけで、「だったら少年ジャンプでもそういうのすればいいじゃん」と思うのも無理はないでしょう。ですが、諦めてください。

まず第一に、週刊誌の連載スケジュールでそんな複雑なテーマを調べ、しかもそれに対する読者の反応に真摯に応答するような作品を作るのは不可能でしょう。上記のような作品は、あくまで月刊以上のペースだからできる作品なのです。

さらに言えば、少年ジャンプはよく知られてるように読者アンケート絶対主義なわけで、少年ジャンプの読者がそんなフェミニズムとかジェンダーとか分かると思います?「なんか男が批判されて嫌だから低評価ー」みたいな感覚で居ることが目に見えています。読者アンケート絶対主義である以上、現在の大衆の保守的な欲望を慰撫するような作品しかできない、そういうシステムなんです。週刊少年漫画っていうのは。そこにフェミニズムとかジェンダーみたいな革新性は期待できません。

さらに言えば、集英社のジャンプの編集部はこういうセンシティブな問題を扱うセンスが著しく低い連中が揃っていることで有名なので、能力的にも無理です。『バクマン』という漫画もジェンダー的に散々叩かれる程度の低いものでしたし

togetter.com

そのくせ表現の自由については狂信的で、『有害都市』という漫画ではアメコミに対し「表現規制により多様性がなくなった」なんていうデマまで捏造して過剰に表現規制への危機感を煽ろうとする、まあ端的に言って頭の悪い連中なんです。

nlab.itmedia.co.jp

だから、フェミニズム側の人は、お気持はわかりますが、少年ジャンプにジェンダーとかフェミニズムなんて概念取り入れるなんてできると思わないでください。彼らはそんなの出来ない〇〇なんです。

僕の考え②:作家にはとにかく自分の望むように漫画を描かせるしかない。読者が「こういう漫画を描け」と言うことは、それがどんな望みであっても矯正することは出来ない

そして更に言えば、原則として、漫画をどんな作品にするか、決定するのは作者です。公的な表現規制というものはあくまでされるべきでない以上、「女性に配慮しろ」ということもできませんし、逆に「女性に一切配慮するな」なんてことも強制できません。どうやらフェミニズム側も反フェミニズム側もここを勘違いしているようで、「少年漫画はこうあるべきだ!」みたいな議論を戦わせていますが、僕から言わせれば、どっちも「お前、なぁんか勘違いしとりゃあせんか?」と言わざるを得ません。

漫画の作者がジェンダー的観点を取り入れようが、逆に性差別全開のミソジニー作品を描こうが、描くこと自体は自由なのです。

まあ、もちろん僕だって、せめて手塚治虫の言葉ぐらいは抑制的であってほしい

 とは思いますが、しかしこれでさえも、強制はできません。手塚治虫なんてクソ食らえだ!俺は女性の人権なんかまるで無視した酷いマンガを描くぞ!」という意見の作者ですら、漫画を描くこと自体は、自由であるべきです。

僕の考え③:その代わり、読者は出された漫画がおかしいと思ったら遠慮なく批判しろ。批判があることによって、読者の少年たちはそれが「いけないこと」であることを学ぶ。それで作者がどうするかは作者の自由だし、筆を折ったり作風を変えても、それは作者の決断だから批判側は何も悪くない

じゃあ漫画を読む読者の側は、それを黙って読むしかないのでしょうか?

そんなことありません。もし読んだときに「これはひどい」と思うような漫画が出版されたら、きちんと厳しく、それを批判すれば良いんです。「この漫画に描かれているような描写は性差別であり、いけないことだ!」と、ぶっ叩いてやりゃあ良いんです。「こういう批判によって作者が萎縮したりしないだろうか」なんて気にする必要はないんです。作者は好きに描いたんだから、読者も好きに批判するべきなんです。どっちかの自由が侵害されるなら、それこそまさに「表現の自由の侵害」でしょう。

こう書くと、↓のツイートみたいに「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!」みたいなこと言う人もいるかもしれません。

が、はっきり言いましょう。性差別的であったり、倫理的に間違った作品があるときは、他の作品がどうこうじゃなく、まずその作品を批判することが重要なんです。↑のツイートはピントがズレズレのボケボケであると言わざるを得ません。

そういう批判がされることにより、少年漫画の読者は「マンガに描かれているああいう描写は、性差別的でいけないことなんだ」と学ぶわけです。スカートめくりや覗き見の描写を、「性暴力だ!」と厳しく批判することによって、子どもたちにそれがいけないことを教えるんです。

「少年漫画は『少年の心』を持って描かれる」と、集英社の社員は美辞麗句のように言います。しかし、女性への性加害やセクハラというものは、往々にして「少年の心」でもって行われます。「少年の心」っていうのは決してきれいなだけのものじゃない。だからこそ、その邪悪な側面が少年漫画に現れたとき、大人がきちんとそれを厳しく叱ってやることで、少年は初めて成長できるのでは、ないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……という原則論を述べたところで、最後にちょっとだけ異論を。

ただそうは言っても、人間、作者も読者もそんなに強くはなれないよねー。Twitterでの議論をみてると、フェミニズム側も反フェミニズム側も強い人ばっかが目につくけど、本当はその裏に、沢山の怯えてる弱い人が、フェミニズム側・反フェミニズム側双方に居るはずなわけで、僕はむしろそういう人たちのことを考えたいと、思ったり。

ただそこで「敵をやっつける」話にはしたくなくて、そうでなく「敵に気付かれないようにしながら、やり過ごす」方法を考えたいんだよね。「敵には見つからないけど、味方にはなんとなく伝わる」というやり方。

というか、昔のオタクって、本来そういう隠れみの術が得意だったと思うんだけど、なんか最近はそういう技術が失伝されちゃってる気がして、SNSで万人の万人に対する戦いが始まった今だからこそ、その技術を復活させるべきじゃないかと思ったり。

いうなれば、「フェミニズム側には気づかないけど、見る人が見ればそのエロさが分かる」とか、その反対に「褒めてる感想文に見えて、その実ジェンダー的に遅れてる部分を褒め殺す批評」とか、そういう複雑な搦め手を、双方学ぶべきなんじゃないかなーと、思ったりするわけです。

宇崎ちゃん献血ポスターに「間違った解釈」なんてあるのだろうか

要約

  • 宇崎ちゃんの献血ポスターが女性を性的対象としているかしていないかについて「その解釈は間違ってる!」と証明することって、不可能なんじゃないの?
  • そもそも「正しい解釈/間違った解釈」っていうのを決める絶対的に偉い人って、もういないんじゃないの?
  • 絶対的に偉い人がいない中で「その解釈は正しい!/間違ってる!」と議論することって、不毛に思えてならない。
  • 「様々な解釈が同時に存在する」ということを認めた上で、異なった解釈をする人同士がどうやって付き合っていくか考えたほうが、建設的なんじゃないか。
  • 「正しい解釈/間違った解釈」ではなく「抑圧する解釈/抑圧される解釈」について、後者をすくい上げるような批評こそ、個人的には批評に期待したいな

献血ポスターをめぐる立場の違いの整理

www.j-cast.com

この論争に言及する人たちの主張を僕的にごく簡単にまとめると、以下のようになるんじゃないかと考えています。

  • 今回の献血ポスターは女性を性的対象にする性差別を含んでいる
    • 性差別を含んでいるから公的な機関は表現に採用するべきではない
    • 性差別を含んでいたとしてもそれを規制することは表現の自由の侵害だ
  • 今回の献血ポスターには女性を性的対象にする性差別の要素なんかない

ただ、僕は「表現の自由の侵害か否か」という論点には、正直あんまり興味はありません。そういう議論は、お好きな方で勝手にやっててください。

僕が気になるのは、そもそも「今回の献血ポスターをどう解釈するか」という時点で、まさしく解釈が食い違っていること。そしてそこに「間違った解釈」はあるのかどうかということです。

「正しい解釈はないけど、間違った解釈はある」から、献血ポスターに性差別がないというのは「間違った解釈」?

音楽学者の増田聡氏がtwitterでこのようなツイートをしています。

 そして更に、今回の献血ポスターについて批判的な立場である文学者の北村紗衣氏は、このようなツイートをしています。

北村氏がしている「批評には正解はないけど間違いはあるっていう話、単著でやった。」というのは、次の一文のことでしょう。 

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

 

ここでひとつ強調しておきたいのは、批評をする時の解釈には正解はないが、間違いはある、ということです。よく、解釈なんて自由だから間違いなんかない、と思っている人がいますが、これは大間違いです。間違った解釈というのは、とくにフィクション内事実の認定に関するものを中心に、けっこうあります。フィクション内事実の認定というのは、ある物語の中で事実として提示されていることを正確に押さえられているかどうかです。たまに映画評などを読んでいると、「いや、そいつそこで死んでなくない?」とか「それ、説明する場面が最初にあったでしょ」みたいなツッコミを入れたくなることがありますが、そういう誤読ですね。いくら解釈が自由だと言っても、作品内で提示されている事柄の辻褄がおかしくならないように読まなければなりません

 

―まえがきより引用

 なるほど。確かにこう書かれると、「間違った解釈」というのもあるように感じます。

では、今回の献血ポスターはどうでしょう。ポスターに性差別が含まれているというのは「間違った解釈」なのか、そうではない妥当な解釈なのか?

「性差別を含んでいるかどうかというのは、曖昧な基準なので正しいとか間違っているとかいうことはできない」と言うかもしれません。

では、次の論争はどうでしょう?今回の献血ポスターを見て、浦野真氏は次のようにつぶやきました。

 これに対してぬにふちさか氏は次のように反論します。

 この二人がどういうふうに議論していったかは実際にtwitterで見ていただくとして、ここでは「献血ポスターのキャラが誰に話しかけているか」という、それほど曖昧ではないように思われることでまで、解釈が分かれているわけです。そして両者は、twitter上で議論をしても、解釈が一致することはありませんでした。

もし「間違った解釈」というものがあるとすれば、どちらかが間違っているということになるでしょう。しかし、では「両者のうち、こちらのほうが間違っている」とは、一体誰が、どうやって決めるのでしょうか?

これについて、上記のツイートの言葉を借りて「勉強しようというしかない」と言う人もいるかも知れませんかもしれません。では、なにか絶対的に正しい解釈を教える、聖典のようなものがあって、それに基づけば「間違ってる解釈」が誰にでも同じように判別できるようになるのでしょうか?それこそ北村氏のように、「大英図書館にある本を全部見」*1でもすれば、誰もが同じように「間違ってる」ものを見分けられるようになるのでしょうか?

僕は、そう単純な話ではないと思うのですね。というか、仮にそのような難行苦行の果てに「間違った解釈」が見分けられるようになるとしても、それをできる人はほとんどいないでしょう。結局多くの人は、自分が今まで得た、偏った知識体系の中からしか、物事を解釈することはできません。そして、それぞれ違った環境で育った人は―ときには一致することもあるかもしれませんが―大体の場合において、「解釈」ですら一致することはないのです。

そこでそれでも「間違った解釈を排除したい!」というのなら、もう誰か絶対的に解釈を決定する王様でも作って、その人の解釈に従うようにするしかないでしょう。それは、まさしく「表現の自由」にとっては暗黒時代となるでしょう。しかし「議論すれば誰もが同じ解釈に至る」というのが実際は不可能である以上、「間違った解釈は許さない」という立場を取るなら、そうするしかありません。

「どの解釈が正しいか」不毛な議論をするより「異なる解釈を持つ者同士がどうやって付き合っていくか」を考えた方が、建設的なんじゃないの?

まあ別に、それでも「自分の解釈こそが正しくて、相手の解釈が間違っているということを主張したい!」と言うなら、別にそれを止めはしません。ただ、不毛だなあと思うだけです。

ただ僕はそれより、異なる解釈をそれぞれが持ち、それが一致することはないということを認めた上で、それでも両者がうまく付き合っていく方法を考えたほうが、建設的なように思えて、ならないんですね。

例えば今回のポスターについて言うならば、別に「宇崎ちゃんの献血ポスターを性差別的だと思う人」を献血から遠ざける必要なんて、まるでないわけです。さらに言えば、性差別がいけないことだってことは、万人がほぼ認めているわけです。だったら「別に自分たちは性差別をするつもりはなかったけど、性差別的だと思う人がいるんだったら、今後はこういう表現を広告ポスターでしないよう注意します」で十分じゃないですか。

で、宇崎ちゃんが好きな人は、好きな人同士で変わらず宇崎ちゃんを楽しく読む。宇崎ちゃんが嫌いな人は、宇崎ちゃんには触れないようにする。それで終わりじゃ、いけないんですかね?

(なお、ここで「じゃあ表現の不自由展だって不快に思う人を遠ざけているじゃないか!」とか思った人は、文章をよく読みましょう。表現の不自由展は、逆にそれを嫌う人に見るのを押し付けることなんかしてません。さらに言えば、むしろ表現の不自由展の作品における「戦時暴力への批判」は、性差別とは違い、すべての人がすべきことだと、世界の大勢が認めていることです。)

もちろん、全ての問題がそのように簡単に解決できるわけではありません。好きな人同士という「仲間内」が一体どこまでの範囲を指すのかというのは、インターネット以降ますます曖昧になってきていますし、そうやって島宇宙化が進むことにより、私達はますます共通言語を持たなくなってきてしまうのではないかという問題もあります。

ただ、そのような問題があるとしても、僕たちはもはや「絶え間ない議論を続ければやがて万人が解釈を同じくするようになる」とは思えないわけです。そんな、世界をどのように解釈するかということ自体が異なる他者と、どう付き合っていくことこそを、考えるべきなんじゃないかと、僕は思うわけです。

むしろ批評は、「正しい解釈」を押し付け「間違った解釈」を排斥するものに、反抗するものであってほしい

そして更に言えば、ある集団や社会の中で「これこそが正しい解釈で、それは間違った解釈だ」という抑圧がある時、それに反抗する声を与えるものこそが、僕は批評なんじゃないかと、批評に期待するのです。

例えば今回の騒動では、オタクは全員宇崎ちゃんの献血ポスターを擁護し、フェミニスト側は全員批判するような構図が形成されてしまっていますが、別にオタクだって「あの宇崎ちゃんのポスターちょっと嫌だな」と思う人が居てもいいし、逆にフェミニストであっても「別にこのポスターいいじゃん」と思った人がいてもいいと思うんですね。

ところが現在の党派的な雰囲気ではそのような気持ちは空気に押しつぶされてしまうわけです。「オタク/フェミニストなのにそのように考えるのは間違ってる」と。

僕は、むしろ間違っていてもいいから、そこで空気に抗い「いや自分はこう解釈するんだ!」と言ってしまうのが、批評の力なんじゃないかと思うわけなんです。党派的な正しさではなく、間違っていてもいいから「私」をエンパワーメントする力、それを僕は批評に期待したいし、今まで読んできた中で、面白かった批評は、まさしくそういう「私」の目線から書かれていたと思うんです。

別に強制はしないけど、僕が読みたいのは、そんな、間違った解釈に基づく、間違った批評です。

2019年のヨイコノミライ

ふと思い立ち、『ヨイコノミライ』を再読していました。 

 そしたら、かつてはとてもリアルで残酷な物語に見えたお話が、途端に、どこかとても遠い国で繰り広げられる、むしろ、なんか憧れてしまうようなお話に見えてしまって、仕方がないのです。

かつて僕らは『ヨイコノミライ』から、この社会に適応する処世術を学んだ

ヨイコノミライ』、それは2003年から連載された、ある高校の漫画サークルのお話です。

話の筋は、一言で言ってしまえば、ダメなオタクばっかが集まる漫画サークルに、美人のサークルクラッシャーが入ってサークル内の人間関係をかき乱し、そしてサークルを崩壊に追い込む、そんなお話です。

当時この作品ははてな界隈で大きな話題を呼び、感想記事もたくさん書かれました。

p-shirokuma.hatenadiary.com

culcom.hatenadiary.org

kill.g.hatena.ne.jp

makaronisan.hatenablog.com

a-park.hatenablog.com

kaien.hatenadiary.org

なんでここまでこの漫画が当時の人々の心に突き刺さったかといえば、この漫画に出てくるダメなオタクたちの生態が、当時のオタクたちにはまさしく「あるある!」という感じだったからです。

例を挙げれば

  • 相手の好みも理解しようとせず自分の好きな作品をひたすら押し付ける
  • 周りの目を気にせず傍若無人に振る舞う
  • 単なるあら捜しや好みの押しつけを「批評」と勘違いする
  • 妄想と現実の区別を付けられない

といった内容で、それを端的に表現してるのが最終話のこの説教です。

amiyoshida.hatenablog.com

「アナタが簡単に他人を蔑むのは賢いからじゃない。他人を理解しようともしない、馬鹿だからよ。

気楽なもんね。
自称批評家さん。
批評っていうのは感想文でも、作者への意見書でもないわよ。

人が作ったものを 安易にくさして 優越感にひたるヤツのために、皆は必死で描いてるんじゃないわよ。
一読者よりも昇格してるって言うなら、作品にもっと真剣に取り組みなさい。」

「失敬な! 拙者を侮辱する気でありますか!
誠意こそあればこそ
耳の痛い忠告も申してやるのでですわ。
甘受するのは作者の義務ですぞ!」


「誠意?
自己顕示欲でしょ?
アナタの!

誠意があるんなら、セリフの向こうの作者探しや 他の作品とのくらべっこばかりしてないで、内容そのものに興味を持ったら? 貧弱な読解能力でも 少しは使って見せなさいよ!

誤解しないでね。私、本当の批評家は大好きよ。
作品への新しい読み方を提示して、
作品と
作家と
読者に、
新しい道を拓いてくれるから。」

「…!」

「あら。
無責任な感想文に、無責任に感想を言わせてもらっただけよ。
悪く思わないでね。さようなら。」

 今の人々には理解できないかもしれませんが、当時のオタク界隈には、まさにこの説教に描写されるような「自称批評家さん」が本当に多かったんです。というか、僕自身がまさにそういった「自称批評家」であり、それ故この文章には激昂しました。*1*2

ただ、実際は多くのオタクはそのように逆ギレすることなく、こういう説教を読んで真摯に「そうだ。こんな自称批評家になってはいけない」と反省していたわけです。多くのオタクにとって、『ヨイコノミライ』という漫画は、まさに自分たちの暗部を突く告発書であり、そしてこれを読んで「オタクだからってダメで居ていいわけではない。きちんと社会に適応しないと」と、襟を正していたわけです。

それが、『ヨイコノミライ』が発表された、ゼロ年代という時代の空気だったのです。

果たして今の若いオタクは、『ヨイコノミライ』をリアルに感じるか?

そしてこの10年代も終わりに差し掛かっている2019年、『ヨイコノミライ』は、どう映るか?

僕の感想を言いましょう。「こんなコテコテのオタク、もう今はいないよなぁ……」です。

誤解を避けるために注釈しておくと、『ヨイコノミライ』の一つの要素であるサークルクラッシャー、こういう存在は今も相変わらずリアルです。というか、惚れただの腫れただの、挿れただの挿れられただのの話が、そう十年でコロコロ変わるわけはないわけで、きっと十年経っても百年経っても、人は恋愛とやらで右往左往するのでしょう。僕には全く関係ありませんがね!*3

でも、そういうあいのりとかテラスハウスとかバチェラー的な話なら、別にわざわざ『ヨイコノミライ』じゃなくたって味わえるわけで、そうでない『ヨイコノミライ』独自の色である、「オタクのダメさ」という描写は、正直、古びてしまったのかなと、そう感じてならないのです。

例えば、今のオタクは、自分のオタ話をするにあたっても、ほんと器用に相手の好みに合わせて話をします。いきなり初手でBLの話をする腐女子や、ロリコン漫画の話を男ヲタなんてものはもうほぼおらず、「カードキャプターってどうだった?」的な無難な話題から、BL的なものやロリコン的なものが受け入れられるか慎重に見極めて来ますし、またそこで相手を傷つけずに「いや、そういう話題は地雷です」みたいなサインを出すのも本当にうまいです。

また、今のオタクは、その場の空気がそういう空気でない限り、めったに作品の批評的な事は言いません。今の若いオタクたちは「語彙がない」なんて自嘲しますが、批評的なことを敢えて言わないだけで、「当たり障りのないボキャブラリー」の豊富さは、昔のオタクなんかより断然豊富です。

そこには、かつて『ヨイコノミライ』の平松ちゃんや天原くんのような、肥大化した自意識や、幼児的万能感を振り回す幼稚なオタクはほぼいません。「私は霊が見えるんです」とか「バッサバッサ批評してやりますよ」みたいなキャラを通すオタクはいます。しかしそういうオタクも、あくまでその場の空気を読み、その空気に順応するためにそういうキャラをやっているだけで、そういうキャラが受け入れられない空気になったら、途端にキャラ変するでしょう。だって、彼らにとって最も恐ろしいのは、空気を読まず、コミュニティからハブられることなのですから。自意識なんてゴミ箱に捨てちゃえ♪というわけです。

つまり、今の若いオタクたちにとっては、『ヨイコノミライ』に見られるような幼稚なオタクは、どこか遠い国の、おとぎ話のキャラクター程度のもので、何もリアリティなんかないのではと、思ってしまうのですね。かくしてオタクたちはみんな改心し、自称批評家は僕が死ねばこの世から消滅する。

でも、これは絶滅しつつあるダメなオタクの、引かれ者の小唄なのかもしれませんが、そんな今のオタクたちを見て、僕はこう思ってしまうのです。 

「そうやって空気読んで自分押し殺して、苦しくない?」と。

肥大化した自意識・幼児的万能感を持たないよう成熟することは、本当にいいことなのだろうか?

今、こうやって過去のものとなった『ヨイコノミライ』を読むと、そこに僕は、ある種の郷愁を感じざるを得ないのです。それは、たしかに今の優しいオタクのコミュニケーションとは違い、苛烈かつ残酷に、むき身のナイフで自分と相手を傷つけ合う、そんなコミュニケーションでした。「あんなのもう二度とごめんだ」と、思う人がいるのも理解はできます。

しかし、そうやってでしか得られない、どうしようもない、けどかけがえのない「私」というものが、そこにはあった気がして、僕にはならないのです。

それは、社会的に見れば本当にダメダメな甘えたもので、そんなもの抱えていたら一生おとなになれない、呪いのようなものなのかもしれません。

でも僕は、それを捨て去ることで大人になることが、万人にとって幸せであるとは、どうしても思えないのです。そういう「私」を、たとえ他人を傷つけても抱えなければ、ほんとうの意味で「生きて」いけない人も、いるのではないかと。

もっと言えば、僕たちオタクは、万人に優しく成熟したオタクになる過程で、そういう人たちを「殺して」しまったんじゃないかとすら、思うのです。

ではどうすればいいか?正直わかりません。これだけ「空気」による支配が進んだ中で、それに逆らえと、もはや若者でない人間が安易に主張することほど欺瞞はないでしょう。

ただ、もしこういうみんなが「優しく」なった世界で、それでも優しくなれない「私」を、もし抱えている人がいたなら、僕はこう言いたいのです。「それは、殺してはいけない」と。

www.youtube.com

吹き続けてね花ちゃん
その花垂れたメロディーが
例え教室のやつらなんかに
馬鹿にされてしまおうが
吹き続けてやれ花ちゃん
きっと君だからまた泣いて
しまう事も多分あるかもしれんが
笛吹きの名に恥じぬように

追記(2019/11/07 2:51)

記事中である人の名前出してて、別に今はそんなに気にはしてないんだけど当時は本気で怒ってたから、それをネタにする感じで、自分的には軽い感じで名前出してたんですけど、なんかその人は本気で嫌がってるみたいなので削除しました。本当にごめんなさい。

こういう人が本気で嫌がってることがわからずついついやってしまうのも、まさしく『ヨイコノミライ』で描かれてたダメなコミュ障オタクの典型例だなぁ。 

*1:http://www.ymrl.net/sjs7/Rir6/2008-04-22.html

*2:ついでにいうなら、僕自身は今も変わらず「自称批評家」を貫き通している。だからこんな文章書いてるんだよ。

*3:突然の逆ギレ。ああ、右往左往してみたいもんだ。

最近「嫌いな物語を見る力」が衰えていると感じる

なんか最近、自分の中で「嫌いな物語を見る力」というものが衰えていると感じる。

というと、ほとんどの人は「は?」と思うのかもしれない。ほとんどの人にとって、小説や映画といった物語は「好きなものを楽しむ」ものであり、嫌いなものなんか端から読まなくていいじゃんと、そう思うものだろうから。

しかし、少なくとも若い頃の僕にとっては、物語とは「好きなものも嫌いなものもまんべんなく摂取し、自分の中で咀嚼しなきゃならないもの」だった。少なくともそういう強迫観念があった。

だから若い頃は、たとえ自分がどんなに嫌いそうな物語であっても、それが世間で流行ってる以上、きちんと物語を摂取し、それに対して自分なりに感想を持たなければならないと思っていた。

ところが最近は、もうそういう強迫観念がとんと薄れてしまって、流行ってるアニメや漫画を見ても、自分に合わないと「じゃあいいや」と視聴をやめるようになってしまった。

これは、ある意味では確かに健康なことなのだろうと思う。なんだかんだ言って、嫌いな物語を見ることは苦痛だし、それに対して感想を文章にすることも苦痛だ。そしてそれをインターネットに発表したりでもすれば、その作品が好きな人を傷つけることにもなる。それに比べれば、嫌いな物語を見たとき「これは自分向けじゃないな(Not for me)」と思うようになったのは、たしかに健康的なのだろう。

ただ、そこで僕は一抹の不安を覚える。というのも僕は、これまでの物語を摂取してきた人生の中で、好きな物語、自分に合った物語よりも、むしろ嫌いで、自分に全く合わない物語について考えることにより、自分の考えを深化させてきたという自負があるからだ。

つまり、好きな物語は、自分の思想なり感性と同じだから、それを摂取しても「ああ楽しかった」としか感じないわけだけど、嫌いな物語の場合は、その物語がなぜ嫌いであるかを考えることによって、「自分はその物語のどこが嫌いで否定したいと思うのか」という形で、自分の思想なり感性の輪郭を相対化させ、精緻化することができてきたのではないかと、考えているのである。

ところが、嫌いな物語を摂取することすらやめてしまうと、そういうふうに自分の思想や感性を相対化させることができなくなり、自己相対化ができなくなってしまうのではないかと、危惧しているのである。

ただ、これはもう、若者ではない以上、しょうがないことなのかなぁとも、一方では思ったりする。いちいち物語でアイデンティティを揺らがされるのは所詮若者の特権であり、おじさんになった僕は、自分の考えが正しいと無条件に信じる老害になるしかないのかと。それは、とても嫌なことなのだけれど。

どうでしょう?みなさんはこういう老い、感じたことあるでしょうか?

なんだか凄いことになっちゃった世界

企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても国家や民族が消えてなくなる程情報化されていない近未来

 ふと思う、なんでこんなことになっちゃったのかなぁと。

そりゃさ、多少は僕らも調子に乗ってたんだと思う。オリコンチャートでアニソン一位にして、avexだののJ-POPをコケにしてやりたいとか、24時間マラソンや27時間ゴミ拾いを邪魔して、ネットを馬鹿にするテレビの鼻を明かしてやろうとか。

でも、じゃあ僕らが結局何をしたかったかといえば、そんな外のことは本来どうでも良くて、多分ネットの仲間たちでつるんで、わいわいくだらないことやりたかっただけだと思うんだよな。社会を変えようとか、どうでもよくて、半径1クリックぐらいの内輪で盛り上がれればそれで良かったはず。ネットの外も、所詮ネットなんてその程度のお遊びだと考えていたし、中の住人だった僕らも、それで満足してたはず。

でも今、僕らはなんか、悪い奴らから日本とか表現の自由とかそんなものを守る聖戦士のように言われたり、あるいは、民主主義を破壊する悪の権化のように言われたりする。僕らが戯れにつぶやくネタがフェイクニュースとして世界中を駆け巡り、どこかの国の大統領を決めたり、戦争や革命を起こしたりしちゃうわけだ。

いや別に、そのことに関して責任逃れしたいわけじゃないんだ。「そんなつもりじゃなかったんだ。マジになるなよ」とか、実際にマジに受け取られるんだから、それはそれで、真摯に、受け止めなきゃならないんだろうと、思う。

ただ、思うのだ。「なんでこんなことになっちゃったかなぁ」と。

昔、「ネットの俺らが世界を変えるんだ」なんていう声を言う奴らは、こんなカバ夫のAAで嘲笑されていた。

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ところが今や誰も彼もがみんなカバ夫くんみたいになっている。風、確かに吹いている。あるときは左から右に。また別のときは下から上に。

昔僕らは、僕らがやることで世界が簡単に変わってしまうような物語を「セカイ系」とか言って揶揄していた。そりゃそうだ。世界なんて、そんな簡単に変わるはずはなかったんだから。ライ麦畑でぎゃーぎゃー騒いでも、やがて僕らはそこを卒業し、社会に帰っていくもんだと思ってた。

とこらが今は、もう世界がぐるんぐるん変わってしまう。クリックひとつで県を挙げたイベントを中止にもできるし、そのうち戦争までできそうじゃないの。一体どうしちゃったのこの世界は。

「遊びの時間はもう終わったんだよ少年」ということなのかもしれない。でも、遊ぶことしか知らない僕たちは、一体これからどうすればいいと、言うんだろう。

「表現の不自由展・その後」展示中止について、僕の考え

先日見てきたあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」

「表現の不自由展・その後」を見てきました - あままこのブログ

ですが、残念なことに、展示を中止するという方向なようです。

「表現の不自由展」中止に 少女像作品めぐり抗議が殺到 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

「撤去しなければガソリンの脅迫も」企画展中止に知事 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

津田大介氏が謝罪「想定を超えた。僕の責任であります」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

これに対し、「表現の不自由展・その後」の展示内容を実際に考えた実行委員会の人たちは、展示中止の決定に抗議し、撤回を求めています。

表現の不自由展、中止に実行委が抗議「戦後最大の検閲」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

この展示中止について、実際にこの展示を立場から、意見を述べます。

僕の意見は、要約すると次のとおりです。

  1. 脅迫や嫌がらせが相次ぎ、テロの恐怖さえある現状では、一時的に展示を中止することはやむを得ない。
  2. そのような脅迫や嫌がらせに対する備えをし、安全に展示を行える万全な対策をした上で、展示は絶対に復活させるべき

まず、脅迫が相次ぎ、安全が確保できないために、一時的に展示を中止すること、これについては、僕は賛成です。というのも、実際に見てきた感じから言うと、明らかに展示会場はこの種の脅迫や嫌がらせ、また実際に起こるかもしれないテロに対して準備ができてなかったからです。前回の記事でも述べましたが、普通に怪しいペットボトルを持った右翼らしき人が展示場所をうろうろ出来る状況だったわけで、ブコメでも「京都アニメーションの放火事件を思い出して怖い」という意見がありましたが、あとから考えると僕もよくあの現場に入れたなと、背筋が寒くなります。

そしてこの種の危険は放置しておけばどんどん大きくなっていきます。事実、最終日の展示会場をルポしている朝日新聞の記事によれば、僕が行った日よりも嫌がらせ等が頻発し、かなり危険な状況になっているように思えます。

少女像頭に紙袋、怒鳴り声…「表現の不自由展」最後の日 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

これに対し、「こういう展示をするんならこんな危険があることは予め想定できたわけで、準備不足は運営側の責任」という声もあります。

しかし前回の記事で述べたように、今回の展示はそんな危険を予期させるほど過激なものではありませんでした。展示を見た僕からしても、あの程度の展示でここまで脅迫・嫌がらせが相次ぐということは、ちょっと想像しずらいんじゃないかとおもうわけです。

なので、安全を確保するまで一時的に展示を中断すること、これはしてもいいし、むしろするべきであると考えます。

ただ、それはあくまで一時的な措置であるべきで、安全対策を万全に整え、テロの危険をできる限り抑えた上で、今回の展示は、絶対再開すべきであると、僕は考えます。

その理由は、前回の記事で述べたように、この程度の展示すらできないんであれば、他の現代の芸術作品も展示できなくなるわけで、芸術に限らず、今後の表現活動全般に対し、悪しき前例を作ることになってしまうからです。

残念ながら、社会がとことん分断され、レイシズムがはびこる日本の現状を考えると、今後もあらゆる表現に対し、脅迫や嫌がらせによってその表現を封じようとする動きは生まれるでしょう。そういう動きに対し、何も対策をとらずただ表現を自粛してしまったら、まさしく表現の自由の死であり、そんな中で芸術祭などできるわけがありません。脅迫や嫌がらせがあっても、それに屈せず、安全に表現を行う方法を稽え、実行に移すこと。これは、今後も芸術祭を行っていくつもりならば、絶対にやらなきゃいけないことなはずです。

そして、私達市民も、脅迫や嫌がらせに屈せず、表現の自由を守ろうとする動きには、連帯を表明すべきです。その点から言えば、今回の騒動について、twitterで「#あいちトリエンナーレを支持します」という連帯を示すハッシュタグが広まったことは素晴らしいことだと思うし、僕も大いに賛同します。

「#あいちトリエンナーレを支持します」支援の声、SNSで広がる|MAGAZINE | 美術手帖

ただその一方で、忘れてはならないのは、脅迫や嫌がらせによって表現を封じようとする動きは、決して今回の展示でいきなり生まれたものではないということです平和の少女像にしろ、元慰安婦の写真展にしろ、展示しようとする動きに対し、日本の右派・保守派といわれる人々は、さんざんこの種の脅迫や嫌がらせを繰り返してきました。

それに対し、展示をしようとする側は今回のような支持表明なんかほとんど得られないまま、孤軍奮闘で戦ってきたわけです。

Oshiete Nikon | Just another WordPress site

そういう点から言うと、ことさら、今回の芸術祭に限り、津田大介氏のような運営側の人間を、英雄視して祭り上げるということには、違和感を覚えます。もっとずっと以前から、この種の表現の自由への弾圧に対し、戦い、正義を貫いてきた人がいるということを、今回の騒動を考えるにあたっては忘れてはならないと思います。

誤解を恐れずに言えば、今回の展示を継続するということは、「当たり前にするべきこと」なのです。自分たちの加害の歴史に真摯に向き合うこと、これはごく当たり前のことで、それをやったからといってことさら褒められるようなことではありません。

もちろん、今の日本の現状は、そんな「当たり前のこと」をすることすら大きな危険を伴うように、なってしまっています。自分たちの加害の歴史を示す表現をしようとするだけで、テロの恐怖に怯えなきゃならないなんて、明らかにおかしい、異常なことです。ですが、そんな狂ってしまった社会を直すためには、勇気をもち、万全の準備をした上で、異常な社会の中で「当たり前にするべきこと」をするしかないのです。

最後に、先頭で旗を降って今回の脅迫・嫌がらせを扇動し、あまつさえ転じ側が謝罪しろとのたまう河村たかし名古屋市長に対して一言。

名古屋市長、関係者に謝罪要求 少女像展示で | 共同通信

地獄へ落ちろ。クソ野郎。