あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

あなたのような存在こそ、「大人」なのだ

はてなダイアリー

 そんな、十代の鬱屈した俺は、自分が30歳になったときに、なにをしているのだろう、と想像してみた。
 やはり、少女マンガを読んでいるのだろうな、と思った。好きになれるのはフィクションのなかの登場人物だけで、そのことがたとえ30歳になっても変化するとは思えなかった。結婚なんて想像の外だった。なにしろ俺には致命的に女性に好かれる資質が欠けている。致命的に、だ。
 そうした「30歳」は、俺の考える「大人」のイメージとはずいぶんかけ離れていた。いや、だれが考えたってかけ離れてるんだけど、俺は、自分はそのような「いきもの」なのであって、いまさらあがいて人間になろうとしてもどうしようもないのだ、と思っていた。諦めていたというには、少しばかり現実への未練がなさすぎた。やはり「俺はそういうものなのだろう」と、大した気負いもなく思っていたのだ、というのが正解に近いと思う。
(略)
 少なくとも俺は、俺がなりたくないと思っていた「大人」にはならずに済んだようだ。あの諦めきったような、疲れた横顔、世界には夢も希望もないのだというため息、世界は有限の閉じた空間であって、人はそのなかでせいいっぱいあがいて生きる以外になにも残されていないのだという諦観に裏打ちされた、即物的な享楽主義。そんなものとはあまり縁がないようだ。

人と自分の感性が違うというのはごく当たり前のことで、ある人がある意味でその言葉を捉えていたとしても、別の人が別の意味でその言葉を捉えているのはごく当たり前のこと。それを一々気に掛けたり、あるいは直したいなんて思ってたらこの世の中まともに生きていけない。そんなことは、分かってる。分かってるんだけど、その上でも、やっぱり言いたい。
「それこそ、まさに『大人』じゃないか。」

オタクという「大人」

まぁ、これは別にこの書いた人の「大人」像が悪いんではなく、ただ僕が抱いている「大人」像がねじ曲がっているだけなのだが。
というのも、僕の中にある「大人」像っていうのは、まず第一に「オタク」なのだ。これが、例えば仕事に忙殺されて家に居場所がない父親とか、ずっと家に閉じこもって家事かワイドショー見てるぐらいしかしない母親とかだったら、僕も「そんな大人にはならたくない」とか言って、そして成熟を拒否したあり方としてのオタクを、大人にならない方法として捉えることが出来たのかもしれない。
でも、そうじゃなかったんだよなぁ。ホント、こんなこと書くとはてなに数多く居る「親から十分な愛情を注がれなかったアダルトチルドレン」さんたちから石でも投げられそうだが、僕にとって親っていうのは、例えば休日になればゲームのイベントとかに連れてってくれる、というかむしろ自分たちがそういうイベントに行きたがり、ゲームやマンガはどんどん買ってくれる、というか親たち自身がゲームやマンガを買ってくるから僕はそれらをやったり読んだりしてるだけで別に買って貰う必要すらないという、ほんと、良い親だったのだ。*1そして、そんな人生の楽しみ方を心得ている人たちだから、彼らはいつも笑顔で、人生今が一番楽しいー!という感じだった。だって、自分たちで金を稼いでいるわけだから、人生の中で一番可処分所得が多くて、子供の頃買えなかったゲームやおもちゃをばんばん買えるわけだ。そりゃ楽しいわな。
だから、僕は世間で言われる「いつも下向いて人生に絶望している大人」っていうものを、理解はするけれど、実感としてはよく分からない。小町とかに書かれる愚痴を見たり、大学の飲み会とかで他の人の話を聞くと、世間一般では、大人っていうのはそういうものなのらしい、ということは分かっているのだけれど……
で、そんな世間一般の人から唾でも吐きかけられそうな僕なのだけれど、そこで更に吊し首にされそうなことを言う。で、そんな親を見ながら、しかし、僕は、こう思っていた訳だ。
「こんな大人にはなりたくないなぁ」と。

フィクションの中に幸せを求めることへの違和感

確かに僕の親たちはとても幸せそうだった。好きなゲームやアニメをやって、特に母親なんか、一日中ゲームやってて、RPGなんか買ってくれば一番最初にクリアするのは決まって母親だったりと、そんな感じの日常なのだ。きっと、本人にとってはすさまじく幸せなのだろう。
でも、そんな親を横目で見ながら、しかしある程度の年齢に達した*2とき、僕はこう思うようになったのだ。「でも、そんな人生、一体何の意味があるの?」と。
アニメやゲームなんて、所詮空想のこと、フィクションじゃないか。マンガで幾らすごい冒険や恋愛を読んだって、冒険や恋愛しているのはそのマンガの主人公であって、僕らが生きているのは相変わらずこの何にも変わらない日常だし、ゲームでいくらハイスコア出したって、「現実」には何も影響しない。お母さんそのゲーム何週目だよ!という感じになってしまった訳です。
何だろーなー、ほんと、何でそんな若いのにそんなジジ臭い感覚に至り、そしてそれがこの年になるまで続いているのか理解できないのだけれど、でも僕は、その時フィクションに絶望しちゃったのだ。それまでは順調にアニメ・マンガを読み、オタクへの道を歩んでいたわけだけど、一旦その道を止めるわけだ。
そして、僕がどこに行ったかって言うのが……すごい恥ずかしい「トラウマ」ではあるのだけれど、2ちゃんねる、なんだよねぇ……

2ちゃんねるこそ「現実」だった

具体的に言うとニュー速板の住人だったわけだ。その頃のニュー速っていうのは本当にアングラからいよいよメジャーになる途上の、なんつーか、「俺らもしかして社会を変えられるんじゃね?」的な良く分からない活気があったんだよね。で、ちょうど電凸やらスネークやら、そういうものが生まれる頃だったんだよね。で、そういうのを見ながら僕は、ここでなら日常でない「現実」に触れ、そして、変えられるんじゃないかっていう、そんなことを思ったのだ。例えば、児童ポルノを掲載しているホームページを晒し上げて通報したりしてたらテレビ局からメールが来たり、自殺予告を止めようとみんなでその自殺予告をした人を見つけ出そうとしたり、ある芸能人がラジオ番組で自分の子どもを虐待していることを告白してた、なんてコピペを真に受けてみんなでラジオ局に電凸したり……
そして、実際そういうことをしている中で、そういう内容がちょこちょこっと既存のメディアに取り上げられたりするわけだ。それは、スポーツ新聞の片隅にちょこっと載ったりするだけなのだけれど、それだけで何か、自分たちがすごいことをやっているかのような錯覚を抱いたりして……それこそまるで自分たちが「戦士」にでもなったりするような感覚だ。よくネット右翼のことをはてななんかでは「国士様(笑)」なんて揶揄するけど、あれは結構当事者の心理をよく表していると思う。現実の闇に立ち向かい、世界をよりよくしていく「戦士」、いや、実際はそれこそせいぜい自分の部屋に閉じこもって、メールしたり電凸したりしてるだけなんだけどさ、その頃の僕は、それだけで世界が変えられると本気で信じていたんだよ。
でも、そんな夢もやがて破れる訳で……だってその行為には何もリスクを負ってないんだもの。リスクも何も得られずに、世界を変えられるほど、世界は甘くない。具体的に言っちゃうと、ネットの中でやったいろいろな事が、リアルにも影響を与えてくるようになっちゃったのだ。個人情報が晒し上げられ、家に嫌がらせの電話や手紙が届いたり、あるいはリアルのクラスメートが僕がネットでやっていることを調べて馬鹿にしてきたり……
ここで、ちょっと時間をさかのぼる。僕がなんで2ちゃんねるに嵌ったか。そもそも、フィクションに絶望したとして、じゃあ友達づきあいなり恋愛なり、そういう日常を楽しむようにすれば良いことなわけだ、普通の人にとっては。でも僕は、人生の最初っからとにかくフィクションに囲まれた生活を送ってきた。それこそ学校から帰ったら外にも出ずずっと家で独りでマンガ読んだりゲームしたりするような。しかもそこで読むのは親の物な訳だから、当然周りと話は合わない。そしてその結果として、中学生の頃には立派な非コミュが完成していたわけです。
そして非コミュの日常なんていうのは、ほんとフィクションを除けば「退屈」とかない、そんな生活な訳でさ。学校でも休み時間はとにかく机に突っ伏して、学校が終わったら即座に家に帰る。そんな生活で、友達も恋人もできる訳がないわけです。というかむしろいじめの対象にならないように、出来るだけ人と関わらないようにするしなければならない……
そんな日常を送ってたからこそ、2ちゃんねるにハマったわけですが、しかしそのハマった2ちゃんねるも、当たり前ですが、日常と地続きだったんですよね……そしてネットが日常を浸食してきたとき、初めて僕は、真の「現実」というもの、そしてそのおぞましさを、身を以て経験するわけです。あの電話の向こう側の声の気持ち悪さ。「お前のサイト見たぜ」という時のクラスメートの顔のおぞましさ。ここで僕に一定のコミュニケーション能力があればそういうことにも対処できたんでしょうが、そんな能力は昔も今もないわけで、その時はとにかく必死に2ちゃんねるから足を洗おうとしていたわけです。
もし、その時足を洗わなかったら、それこそ僕は極東板とかで今も、「国士様(笑)」として活躍していたかもしれません。もしかしたらその過程で本気の活動家にでもなっていたのかもしれませんな。多分その方が幸せだったろうなぁ……

代用品としての「フィクション」

そして、そういう現実から逃げるようにして僕は、再び「フィクション」の世界へと逃げ込み、そしてオタクとなった訳です。
ですが、それでもやっぱり、それは僕にとっては現実の代用品でしかないんじゃないか、という気持ちは変わらないんですよね……いや、それはただ単にオタクとしての精進が足りないんだ。もっともっと深いオタクになれば、現実なんて不要になるんじゃないかと思って頑張ってきたけど、オタク的なものを摂取すれば摂取するほど、逆に、でもそれはフィクションでしかない。現実じゃない。いくらゲームの中で主人公になれたって、現実では僕は友達も恋人も作れず、一日中暗い部屋の中で過ごす非コミュじゃないかって思えて、むしろ作品の中で色々楽しそうな経験をするキャラクターたちが憎くなってくるわけです。
もちろん、これが多くのオタクには全然理解されないことであろうっていうのは分かるんですよ。よく訓練されたオタクである彼らは言うのでしょう。どれが現実で、どれが現実でないかなんていうのは、結局人の心の持ちようで幾らでも変わるものなんだと。だったら、より都合の良いものを「現実」と認めたほうが人生ずっと楽しく生きられるじゃないかと。そしてそうやってみんながそれぞれにとっての〈優しい世界〉に引きこもれば、みんな幸せになれる。何も悪いことなんかないじゃないか、と。
でも、僕はそんな各々が自分の世界に引きこもって、自分に優しい世界を作り、そこで生きるということに、どうも拒否感がある訳なんです。例えば、この前、「初音ミクは生の声の人々に失礼だ」という記事が増田で人気になりました。はてなでは、どうやらあれは単なる時代について行けない劣等人種の戯れ言として処理されたようですが、僕はあの記事に共感してしまうんですね。
もちろん、初音ミクの楽曲だって作り手はすごく苦労するんでしょう。でも初音ミクの場合、歌うのはあくまでミクですから、それは隠されて届けられるわけです。例えばものすごい高い音を出そうとしたとき、生の声ならば、その高い音を出す苦しみが、ノイズとなって曲を聞くとき直に耳に届くかもしれない。でも初音ミクは、どんなに高い声でも苦もなく歌い上げ、ノイズが一切無い、聞き手にとって心地よいきれいな音で、耳に届けるわけです。
でも、本当にそれで良いのか?双方が双方に取って心地よい、都合の良いものだけを送り合って、醜く気持ち悪い、そんな部分を隠し合う。そんな形で伝えられる曲が、その曲の作り手の心を伝えられるのか?という思いがあるわけです。
でも、じゃあ歌い手の苦しみを楽しむことが出来るのかっていえば、やっぱりノイズなんてものはない方が自分にとっては心地よいわけで……だからミクは流行るわけです。
フィクションには「現実」はない、と僕は愚痴る。でもじゃあ僕にフィクションではない「現実」を受け入れる覚悟があるのかって言えば、そんなものないわけでさ。例えば、↓の動画
永井先生のアイドルマスター 番外編3 ‐ ニコニコ動画:GINZA
この動画は、ほんとアイマスっていう〈優しい世界〉をプレイする僕たちの姿を見せるということで、逆説的に「現実」を見事に描ききっている動画だと思うわけだけど……僕は、この動画を見て、真面目に吐きそうになるわけです。
これがまさに「現実」なんですよね。フィクションを捨てて、現実を直視しようとするならば、まさにこういう「現実」こそを直視しなければならない。現実に生きるというのは、こういう永井先生みたいな自分たちを認めなければならないわけですけど、でも……
あるいは恋愛、とくにセックスについて考えてみようか。一番最初に挙げたページにこんな記述がある。

 あるいは、二十代後半まで童貞でいることはおかしい、だれかがそう言うかもしれない。悪いかよ!! ……すんません、いまは逆ギレすべきところではありませんでした。いやまあ、確かにセックスしたければできるように努力したほうがいいんだけどさ、すべてを投げ打ってまでそんなにセックスしたいか?って話。別にいまのままの自分で棚ボタ的にちょういんらんな女子中学生とかに迫られる可能性を夢想してもいんじゃね?(答。あんまりよくないです)

それに対して僕はどうか。僕は、セックスすごいしたいです!といっても、もちろん童貞で、セックスのやり方すらよく分かってないわけだけど、とにかく女の人に抱かれたいわけです。何もしないで、ただ一つになっていたい。独りじゃなくて私が見ているって、言って欲しいわけです。
でも、一方で、僕はすごくセックスしたくなかったりする。というのも、女が怖いのだ。例えば僕は、エロゲーをやるときもセックスシーンは実は直視出来ない。モザイクがあっても、そのモザイクの向こう側にあるものを想像すると途端に気持ちが悪くなるのだ。あるいは、セックスをしているときに、相手も自分を評価しているということが怖い。つまり、自分の身体が値定めされるというのが怖いのだ。相手の心の中で自分が罵倒されているということへの恐怖。
でも一方で、そういう気持ち悪さや恐怖があるからこそ、一つになることの快楽があるというのも理解している。理解しているけれど……!とまぁ、こんな風な感じで、極端な気持ちよさと極端な気持ち悪さの間を矛盾しながらいったりきたりするわけ。それは、確かに中和すれば引用してきたサイトの人のように、「セックスなんてどーでもいいや」という風になるのだろうけど、僕の中ではそれは絶対に中和できず、ただ2極の間で引きちぎられそうになる、そんな感覚な訳です。
そして、こんな感覚に悩まされる僕からすると、引用元の態度は、やっぱりすごく「大人」なんですよ。

結論:矛盾

で、こーやってぐだぐだ書いてきたわけですが、実はこんな感覚はぜいたく病で、働きもすれば忘れていくことであることもまた知ってる訳なんですよね。
だってそんな矛盾を抱えてられるっていうのも結局、自分が何も働かなくても生きていけるモラトリアムにあるわけですが、そのモラトリアムが終われば、人は自分の力でサバイブしていかなきゃならなくなる訳です。そうなれば、どっちにしろ選ばなきゃならなくなる。オタク化して、日常は単なる作業だと割り切り、フィクションの中の閉ざされた〈優しい世界〉を自分にとっての「現実」だと思い込むか、あるいはこの醜い現実に踏み込んで、適者生存のバトルロワイヤルをするかという、二つの選択。
結局今の僕っていうのは、その二つの選択のどちらを選ぶかで迷ってずるずると引き延ばす。そんな「ぜいたくな子ども」な訳です。そして、その選択をしたとき、人は「大人」になるのかもしれない。
でも、はっきりいって今の僕にはそんな道は見えない……というか、見たくないわけで、でもそうやって引き延ばすことなんかもはや出来ないわけで……
自分の頭の中が混乱してきたのでここらで記事を書くのをやめにする。なんか発狂しそうだ……というか、むしろ発狂してしまった方が楽な気も、なんかするなぁ……

*1:マンガで言うと[asin:4840236577:title]みたいな感じかな

*2:具体的に言えば中二である。えー、そうです、中二病ってやつです。それをこんな21まで引きずった結果がこんな文章ですよ!

陰謀論について

世の中にはさまざまな「陰謀」についての情報があります。9.11はアメリカの自作自演であるとか、ユダヤ人のホロコーストはユダヤのでっち上げであるとか、それこそこの前の記事で触れたように創価学会が一個人を嫌がらせによって破滅に陥れようとしているとか、他にも月着陸は嘘だったとか、ロッキード事件はアメリカの謀略だとか、イルミナティ、フリーメーソン、300人委員会たちが世界を裏で操っているとか、日本の政治家の中には北朝鮮や韓国や中国の工作員が混ざってる、などなど。
ですがそういうのを聞いたとき、すぐ「こんな酷い陰謀があったんだ!みんなに知らせよう!」と考えるのは、ちょっと待ってみませんか?
まあ気持ちはわかるんです。私たちは今までずっと、自分で政治的なことについても考え、そして自分の意思で政治的なアクションを起こすことが素晴らしいって、戦後民主主義教育の中で教わってきました。そして、そのような民主主義の敵は断固排除すること。それこそが民主主義社会に生きる私たちの義務なのだと、そうも教わってきたわけです。
しかし、本当にそうベタに言ってしまっていいんでしょうか?なーんてことを書くとまたはてなサヨクの方々からお叱りを受けそうですが、「政治的なこと」、あるいは「社会的なこと」に関心を持つことは、全ての人がしなければならないことである。という戦後民主主義的な発想が、逆に、「ホロコーストなんてでっち上げだ!」とか「国籍法改正によって日本は乗っ取られる!」なーんていう、陰謀論の跋扈につながってるんじゃないかと、思うわけですよ。
僕の極論かつ暴論的な主張を言ってみましょう。僕は、「政治的なこと」や「社会的なこと」に全ての人が首を突っ込む必要は、ないんじゃないかと思っています。自分が関係ない、分からないことには口をつぐむ。そんな心構えこそが重要なんじゃないかと。
どういうことか、具体的に述べていきましょう。

1.陰謀を否定することは不可能である−興味のないことについては

何か最近はてなでは、「知的冒険としての歴史修正主義」などと言って、ホロコースト否定論をある人がぶち上げたり、それに対してはてなサヨクの方々が反論したりと、そういうことが色々あったそうです。
で、ホロコースト否定論をぶち上げている人はともかくとして、それに反対するはてなサヨクの方々は、「歴史科学の考え方を誤解している」とか、「それまでの長い論争をぜんぜん把握していない」と批判するわけです。が、実は僕は、それらの批判は実効性のない批判ではないかと考えています。理由は簡単です。そもそもホロコースト否定論にはまる人なんていうのは、ホロコーストについて「真剣な興味もない」んですから。僕と同じようにね。
まず哲学的な議論をしましょうか。と言うとまた「哲学的な懐疑は実際の歴史学の中で行うべきではない」という声が聞こえてきそうですが、しかし敢えて断行します。この文章を読むような人の中で、ホロコーストを実際に体験したり、あるいは目の前でそれを見聞きした、という方は、ほとんど居ないでしょう。みんな、本なりテレビなりネットなり、何かしらのメディアを通じて、「ホロコースト」についての情報を得ているわけです。ですが、じゃあメディアがユダヤに支配されていたら?全く偽の情報を真実であるかのように報道し、人々を洗脳しようとしているとしたら……この種の懐疑は、あらゆる事象に当てはまります。突き詰めていけば、今自分が体験している現実は仮想現実であって、本当の自分は脳だけぷかぷかとどっかのプールに浮かされて、脳につながったコードから擬似的な五感情報を受けているんじゃないかっていう、マトリックス的懐疑(妄想)にまで行き着くでしょう。
ですが、じゃあ人が全ての事柄についてこの種の懐疑を抱くか?そんなことはないわけです。例えば日常生きてきて、家族や友達や恋人とコミュニケーションしているとき、「こいつは本当に実在の人物なのだろうか?」って懐疑を抱きますか?哲学者ならいざ知れず、普通の人ならそんな懐疑は抱かないわけです。だって、そんな懐疑を一々抱いていたら、日常生活そのものが成り立たなくなるからです。
ですが、歴史修正主義については、この種の哲学的懐疑が抱かれ、そして否定論が紡がれてしまう。これは一体なぜなのか。簡単なことです。哲学的懐疑というのは、その人にとって「どーでもいいこと」の場合のみに適用されるんですね。ホロコーストがあろうがなかろうが、実際自分の日常生活には一切影響しない。せいぜい話のネタになるぐらい。だからこそ、そういう哲学的懐疑が可能になってしまう。というか、そういう懐疑をするぐらいしか、「どーでもいいこと」に対処する頭の回路は、ないでしょう。だって、「どーでもいいこと」なんですから。
もしそういう哲学的懐疑をなくそうとするならば、まず最初にすべきことは、実証的な歴史学の手法を叩き込むことよりも、ホロコーストをその論じ手にとって「どーでもいいこと」から「人生にとってすごく重要なこと」にしなければならないわけです。ですが、そんなこと可能でしょうか?この日本で生きてきて、そもそもユダヤ人なんて会ったことすらないって人が、ホロコーストを「すごく重要なこと」と捉える?それは僕には、無理線のように思えてならないんですよねぇ。

2.陰謀が事実だったとして、それがあなたの人生に何か影響を?

じゃあどうすれば良いか?やっぱり、「興味のないことには触れない・語らない。相応の覚悟が持てるときだけ語る」っていう心構えが、重要なんじゃないですかねぇ。
例えば、9.11はアメリカの自作自演だ。なんて陰謀論があります。これも、よく批判される陰謀論なわけですが、しかし具体的に相手の主張に批判すればするほど、単なる水掛け論っぽく思えてきてしまいもするわけです。だって、何度でも述べますが、哲学的懐疑をしてしまえばあらゆることは疑えてしまうわけですから。
だから僕は、そういう陰謀論を語る人に具体的な反証を挙げるという批判はしません。それよりも、こう問います。「その陰謀が事実だとして、それがあなたの人生に何か影響を与えるの?」と。例えば、実際に9.11で自分の家族・恋人・親しい友人とかが死んだりしましたか?
「自分ひとりの問題じゃない。これは世界全てにかかわる問題なんだ」と、陰謀論者のあなたは言うかもしれません。ですが、9.11とはまず第一に、世界貿易センタービルで沢山の人々が亡くなったり怪我をした、その人々の事件なわけです。その人々に対し、あなたはどんな位置にいるのか。彼らの悲しみが共有できますか?
「隠された真実」っていうものを主張する人には、二つのタイプがあります。一つは、その「隠された真実」というのが、本当にその人にとって重要である、というタイプ。これは、まぁ良いでしょう。問題は、そうではなく、「隠された真実」を暴くという、その行為自体に酔っているタイプです。人々が本当だと言っていることが、実は間違っているんだよと言うことって、本当に気持ちのいいことなんですよ。ですが、何度も言うとおり、どんなに確からしいことも、疑おうと思えば疑えるんです。人間は五感からの情報によって主観を構成しますが、その情報が偽者だとしたら、主観は構成されなくなり、後に残るのは、全てのことについてイエスと言え、またノーとも言える、そんな混沌でしかないですから。でも、なぜそれが混沌であることが可能であるかと言えば、それは、混沌であっても別に困らないからなわけで、つまり「どーでもいい」と思ってるからな訳。しかし世の中にはそれを「どーでもよくない」と思って、混沌のままでは良くないと思っている人も居るんだよ。そして、そのことについて語る権利を持っている人っていうのは、まずそのような、「どーでもよくない」と思ってる人であり、「どーでもいい」人は、その人の邪魔をしては、いけないでしょう。

3.まず、自分の人生を生きようよ

逆に言えば、そういう人の邪魔をしないで、あくまで「個人的妄想」としてそういう陰謀論を思っている分には、別にいいわけだ。例えば、「フリーメーソンが世界を支配している」とか「創価学会が日本のマスコミを掌握している」なんていうのは、「世界はハナモゲラ星人に支配されてる」とか「地底の奥には地底人が居て、虎視眈々と地上を征服しようと思っている」なんてことを自分の心の底で信じるのと同程度には、信じていて良いでしょう。
ところが、陰謀論者っていうのは往々にしてそれだけでは飽き足らず、その陰謀論をより多くの人に知ってもらおう、信じてもらおう、そして、その陰謀を阻止するために陰謀を企てている団体を攻撃しようと、声高に宣伝するわけです。
それが彼らなりの正義感によって行われているということ、それ自体は、否定しません。ですが、「正義」なら全て許容されるのか?といえば、実際はむしろ逆。「正義」と名乗るようなことほど、それをするのは慎重にならなければならないのです。
問いたいのは次のようなことです。「そんな陰謀を宣伝する手間暇があったら、もっと自分の生活を充実すべきじゃないか」と。特に、こういう陰謀論の宣伝活動や、政治的活動に熱心になって、家族、恋人、友人と触れ合ってない人に、僕はそう言いたい。その陰謀を宣伝する時間を、友達と遊んだり、家族サービスをしたりすれば、あなたの人生はもっと豊かになるんじゃないの?
更に言いましょう。そのような日常の生活が上手くいっていない、そのはけ口に、陰謀論の宣伝や政治的活動を利用していませんか?
9.11がアメリカの陰謀だとして、あるいは、ホロコーストが幻だったとして、あるいは、世界は1999年7の月に滅亡するとして、でも、それは本当に、「あなた」にとって重要なことですか?
それよりも、例えば恋人とデートしたり、家族とコミュニケーションを取ったりすることこそ、「あなた」の現実にとっては、重要なことじゃ、ないんでしょうか。
もし、そうやって日常という現実を生きてきて、その中で、自分だけではどーにもならないことに遭遇した、そのときに、初めて「社会的なこと」や「政治的なこと」に関われば良いんであって、別に人生でそのようなことを必要としていないのに、無理に戦後民主主義の価値観に乗って、そういうことに関わろうとしなくても、良いんじゃないのかな。
そう、僕は、自戒を込めて皆さんに問いかけようと、思います。

騒音おばさんの真実の奥の奥

最近、はてなブックマークでこんな動画が話題になっていた。

はてなブックマーク - YouTube - 浅野さん

<浅野さんの発言(途中略)>


「何年か前、騒音叔母さんという問題になりましたよね?あのーショッキングな映像覚えておられると思いますよね。
あの映像はいったいだれが撮影したんですか。あのおばさんというのはどういう立場だったんですか?テレビでは何にも報道されていないものが、ネットの世界では色々言われておりますよ、んでネットの世界に氾濫している情報を総合するとですね・・・テレビはあのおばさんをおもちゃにしたのではないかと、バラエティ番組から果ては、お笑い番組にまであの映像が流れていましたよ。

そんなテレビがなぜ信頼できるんですか、どなたか意見きかせてもらえますか」

その結果、三宅司会者は・・・

司会者「えーと、具体的な事例について質問されても・・・
 その事件を覚えてらっしゃる方はいらっしゃない・・じゃないですかね・・」
で、スルー。

| ^^ |秒刊SUNDAY | テレビは『騒音おばさんをおもちゃにした』NHK番組で出演者凍りつくより)
へー、騒音おばさんってただキ○ガイなおばさんってだけじゃなかったんだなぁ。何かマスメディアによって作られた像なのか。じゃあ、真実ってどんなものなんだろう。ちょっとネットで調べてみよう……
お、ちょうどまとめた動画があったあった。

動画を見るのが面倒な人のために、ちょうど似たようなことが書いてあるサイトがあったんで引用するね。
シーサー株式会社

4年ほど前、奈良県在住の通称“騒音おばさん”という人がワイドショーで話題になった。

早朝から布団を出して「引っ越し!引っ越し!さっさと引っ越し!しばくぞ!!」と大声で怒鳴りながら布団をバンバン叩く。
朝から晩まで大音量の音楽を流し続け、“被害者”が回すビデオカメラに向かい、目を剥いて怒りをぶつける。
そんな様から“騒音おばさん”と呼ばれたのだ。

その“騒音おばさん”カワハラミヨコさんに睡眠障害で悩まされていると言う隣家の老夫婦の訴えで“おばさん”は逮捕。懲役1年8ヶ月の実刑が言い渡された。

テレビの報道では“被害者”の撮影した ビデオを中心に“おばさん”の荒れる様子が紹介され、視聴者は「なんて迷惑な人だ。」とか「まともな精神状態じゃないな。」と一様に思ったことだろう。

しかし、実はその報道、とんでもない情報操作だったのだ。


カワハラさんは若い頃、相手が母親からの遺伝である「小脳脊髄変形症」という障害を持っていることを知らされないまま見合い結婚させられ、その後産まれた三人の子供は三人とも障害を持っていた。
ご主人は入院中で娘二人は死亡、息子と二人暮らしという環境の中、道一本隔てた隣に“被害者夫婦”が引っ越して来た。(娘二人は“被害者夫婦”の転居後に死亡したという情報もある。)

“被害者夫婦”はカワハラさん宅まで届く強烈なライトを庭に設置。カワハラさんは「子供の病状が悪くなるからやめてくれ。」と懇願するが、“被害者夫婦”はそれを無視した上にワザと早朝からの布団叩きを始める。
おまけにカワハラ家の茶碗を洗う音がうるさいとか、息子さんの発する「うー」という声を「キチガイがうるさい」と自治会の班長にクレームつけたり、家庭内の会話に聞き耳をたてて言いふらしたりなどした。
それらの嫌がらせに対してカワハラさんは「布団叩き」の反撃に出る。音楽を常にガナリ立てるのは盗み聞き対策でもある。
“被害者夫婦”はビデオカメラによる監視・記録を始め、時には20〜30人の集団で嫌がらせ行為に及んだ。
そして挙げ句の果てには自作自演の「塀の落書き」の濡れ衣まできせたのだった。

結局“被害者夫婦”は民事裁判を起こし、勝訴するのだが、本当の被害者はカワハラさんの方なのだ。

マスコミの報道は初めからカワハラさんを悪者扱いした内容であった。
公正な取材など全くせず、老夫婦側の言い分ばかりを放送していた。使われている映像が老夫婦が撮影したビデオカメラの映像ばかりな事に違和感を覚える。当然、老夫婦側に都合がいい部分だけを使っている。

これが“マスゴミ”のやり方なのだ。
一方に偏った報道をすることで事実をひっくり返してしまうことが出来る。
報道というものは真に受けてはいけない。


実はこの老夫婦は創価学会員で、彼等の勧誘をカワハラさんが断ったことから嫌がらせが始まったようだ。
事故や病気などの不幸にみまわれている人は格好のターゲットである。
20〜30人の集団も、周辺の学会員を集めたものだ。

カワハラさんは“被害者夫婦”以外の近隣住民には親しく接している常識人だという。それを学会員集団と学会の犬であるマスゴミとがグルになって異常人物に仕立て上げたのだ。

“騒音おばさん”の叫びは自分に降りかかった不条理に対するたった一人の戦いの声だったのだ。

そ、そんなことがあったのか、創価学会って怖いなぁ。彼らに刃向かったら、こんな嫌がらせを受けるのか……
はっ!そういえば最近なんかやけに光を目に当てられる!夜に町中を歩いているとライトを持っている人にいきなりライトを当てられたり、化粧をしている人の鏡から光が反射して目に入ったり……あ、あとなんか最近人からぶつかられることも多くなったし、何か自分のことを馬鹿にするような目つきで見られることも多くなった!隣の人とかも僕を見るといつも笑ってくるし、嫌がらせの様に僕と全く関係ないダイレクトメールがどっさり郵便箱に届いたり……
あれって、よく考えると勧誘に来た創価学会を断って以来のことじゃないか。だとしたら僕ももしかして奴らの嫌がらせの被害にあってるのか!?だとしたらどうしたら良い?警察とかに言ってもあいつらはまともに取り合ってくれないだろう。あいつらも創価の手下だからな。だとしたら自分の身は自分で守るしかないじゃないか……くそう、そっちがその気ならこっちも……

どう見ても被害妄想です、本当にありがとうございました。

ちょっとメンヘルとかそういう方面の怪しい話に知識がある人なら、上記の告発文を見ただけでピンと来るでしょう。「ああ、これは"集団ストーカー"だな」と。
集団ストーカーってのは、簡単に言うと「自分は数十〜数百人単位の組織にストーカーされて、散々嫌がらせを受けている」っていう被害妄想です。例えば周りの人間が特殊な音波を発生する装置を持っていて、その装置によって常時耳鳴りに悩まされるとか、あとまさに上記の動画でも出てきた「光による嫌がらせ」っつうのも良くある話で、ライトによる嫌がらせっていうのもあれば、上記で書いたような手鏡によって通りすがりの人から光を目に入れられるっつーのもあります。同じく上記で書いたので言えば、「自分の周りの人間がいつも嘲笑してくる」なんていうのもポピュラーな話ですし、あと自分が考えていたことをいきなり話してきて、「お前の思考は盗撮されているんだぞ」と相手に思い知らせる嫌がらせをしてくる、なーんてのもあります。というか言い出したらきりが無い。何てったって妄想なんですから。
この集団ストーカーについてもっと知りたい人はお部屋1628/「集団ストーカー」というキーワード | ポット出版というページがネット上では一番"まとも"ですので読んでみてください。いや、別に直接「集団ストーカー」でググっても良いんですけどね。一目見れば、「ああ、そういう系の話なんだな……」って分かりますから。まぁ、それで調べて「結構説得力がある話じゃないか!」って思っても良いんですが、そう思ったときはもう僕のこの記事なんか忘れてどーぞ「本当の真実」とやらを手に入れてください。ただし、もう僕に関わるのは止めてね♪
で、上記のページによればそういう集団ストーカーというの仕掛ける「組織」として良く出てくるのが、公安やCIAとかのスパイ機関、またはそれらと敵対する左翼団体だったり、あるいは、まさに上記の動画で出てきた「創価学会」なわけだ。
もちろん、これこそまさに、創価学会が他の場所でもこういう嫌がらせをやっている証拠だ!と思うこともできると思う。あるいは、そういうものを全くの偶然の一致として、そういう集団ストーカーはあくまで妄想かもしれないが、騒音おばさんへの嫌がらせは真実だと、そういうことも可能でしょう。でも、一番もっともらしいシナリオを考えるとすれば、実際はこんなところな様に思えてなりません

騒音おばさんは子どもたちの看病のせいで心底疲れ、その現実から逃れるために被害妄想を発症した。そして周りのあらゆることが自分に対する嫌がらせに思えてきた。で、そういう類の嫌がらせを調べていくと、そういう嫌がらせは創価学会がよくやるらしいということを知ったので、創価学会による嫌がらせだと思うようになったと。

不確かな情報の総和は、真実とはなりえない

さて、今までの話は、騒音おばさん側が実際にこういう話を「真実」として語っていたという前提で語ってきました。
でも、よく考えれば、そもそも上記のような被害(妄想)を本当に騒音おばさんが主張したのか?それすら、本当は分かってないわけです。
もしかしたら、集団ストーカー妄想を持ってる人が騒音おばさんのニュースを聞き、「この事件にはこういう裏があるんじゃないか」と推理した話が、広まってしまった(そして、それに騒音おばさん側が乗った?)のかもしれない。
あるいは、集団ストーカーという話なんか本当は全然信じていないけど、創価学会を叩きたい人たちが、この噂をねつ造したのかも知れない。
NHKの番組に出ていた浅野氏は、「ネットの話を総合すると……」という風に語りました。ですが、検索してみればわかりますが、この件に関しては、ネット上のソースで信用できるソースなんかほぼ0です。ゼロを幾ら足したってそれはゼロのままなんですから、総合してどうして「マスコミが伝えない真実」なんてものが分かると言うのか?動画でも

コメにもあるようにこの動画だけで信用するのは流石に良くないとは思うので、個人で調べて見る事をオススメします。

ということが書かれています。が、そもそもこんなこと調べようがないんですよ。自分で実際に現地に行ってみでもしない限り。ネット上で「騒音おばさん」とかポチポチって打って検索して、それで「調べた」なんていうのは調べた内に入りません
もちろん、じゃあマスメディアが伝える情報が正しいのか?って言われれば、そう言うことも出来ないのかも知れませんよ。テレビではとかく騒音おばさんのことをタダのおかしな人として報道してしましたが、もし上記のようなことを実際に騒音おばさん側が主張していたとしたら、「タダのおかしな人」ではなく、きちんと「妄想に苦しむ本当は良い人」という風に報道しなければならなかったのかもしれない。
でもだからといって、テレビが酷いからネットが良いなんてことは絶対に言えないわけです。テレビだろうがネットだろうが、良いときは良いし酷いときは酷いと言えるでしょう。もっと言えば、純粋に取材に費やせるマンパワーや情報源という面から言えば、むしろテレビの方が真実を伝えることが可能であると言えます。だって、例えどんなに「真実を解き明かしたい」という熱意を持っている人がネット上に居たとして、その人が一体何を出来るというのか?テレビの現場にいれば、実際に取材ができるかもしれないけど、何の組織にも勤めていない人が何を出来るのかといえば、それこそネット上でゼロとゼロを足す作業ぐらいしか出来ないわけです。

「真実」への距離の取り方

で、ここで二転三転してきた議論を更にひっくり返してみましょうか。
マスメディアが伝える「単なるキ○ガイおばさんの嫌がらせ」という物語。
それに対してネットの伝える「創価学会の陰謀」という物語。
そして更にそれに対して僕が今回述べた「集団ストーカーという被害妄想に苦しんでいた女性」という物語。
実は、結局どれも単なる「物語」でしかないんですよね。だって自分で見聞きした情報では無いんですから。というかメディアによって伝えられることなんて、大体こんな感じの「物語」です。テレビ、新聞、そしてネットなどのメディアに流れる情報、それらの内、実際に自分が見聞きした情報が一体どれだけあるか?ほとんどが結局、他人の又聞きでしかないわけです。そして、それこそ何かまた被害妄想的な話になってしまいますが、それらが自分たちを操る嘘かもしれないっていう疑念は、否定することは不可能です。もしかしたらテレビ局や新聞社やネットは全てある「組織」によって検閲され、その組織に都合の悪い情報は消されているのかもしれない。また、もしかしたら自分の周りの人間もその組織の手先で、組織の命で自分を監視しているのかもしりない。あるいは、実は自分はもはや肉体なんて無くて、組織から脳に仮想現実情報を送られているだけの存在なのかもしれない……ずっと疑っていけば、それこそそんなマトリックス的な妄想にまで行き着くことが出来るわけです。
でも、そんな妄想に行き着いたって結局人間は何も出来ないわけで、どっかで、物語でしかないものを「真実」であると"信じ込まなければならない"わけです。そして、ネットを「真実」だと思うっていう人は、結局の所、ネットが好きだから、ネットを信じたい、ただそれだけのことなわけです。
それを否定できるか?と問われれば、僕は否定は出来ないと思います。つまり、人間自立して生きていくなんてことは不可能で、どっかで寄っかかって生きていかざるをえない訳で、ネットの中で、ネットの情報を信じることによって、自分の居場所を見つけられるなら、それを否定できる根拠は僕にはないのです。
ただ、そこでもし一定の歯止めをかけられるとしたら、それは「自分は、それを物語=虚構だと知りながら、それを真実だと信じ込んでいる」というメタ意識を持つこと、そして、他人は違う虚構を真実だと思い込んでいるけど、それはその人にとって真実なのだから、その人の範疇にある限りは否定することは出来ない、そんな風に思うことしか、ないのではないでしようか。
でも、そうは言っててもついついこういう騒動に出会うと言っちゃうんだけどね。「お前ら馬鹿じゃねーの?」って。