あままこのブログ

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「反省したいじめ加害者のことを『許さない!』と、いじめ被害者が主張するのは、危ない思想(by山本弘)」なのか

先日、こういうtwitterまとめをtogetterで作成しました。
togetter.com
上記のまとめには賛否両論様々な意見が寄せられていて、そのどれも真剣に考えなきゃいけないなと思ってるところです。
ただ、その一方で、小説家の山本弘氏がした発言が、僕にはどうしても納得行かないものでした。
その内容はこちらです。
山本弘 on Twitter: "あのさあ、いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと、加害者側から被害者側に転落し、自分のやったことを悔いている主人公を「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、..「『聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノなのか」 https://t.co/NPrOtylQoJ"

あのさあ、いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと、加害者側から被害者側に転落し、自分のやったことを悔いている主人公を「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、すごく危ない思想だと思うぞ。

『聲の形』という物語が実際にそういう物語構造なのかは、まとめを読めば分かる通り諸説あることなのでとりあえずおいておきます。
この発言に対する僕の疑問はこうです。
いじめ被害者が、例え更生し、十分に反省したとはいえ、いじめ加害者のことを「許さない!」「救済されてはいけない!」と主張するのは、「危ない思想」として否定されなきゃならないことなんだろうか?

山本弘氏は、自らの発言の最初で「いじめ被害者だった一人として言わせてもらうと」と言っています。これはつまり、自分は、十分更生したなら、たとえ自分をいじめたいじめ加害者でも許すということでしょう。もちろん、山本弘氏が自分自身の意志でそういう選択をすることは否定しません。
僕が「おかしいんじゃないか」と思うのは、そうでない考え、つまり「自分はいじめ加害者が例え更生したとしても、その人のことを許しはしない」という、自分の考えと異なる考えを、「危ない思想」として否定することです。
当たり前のことですが、一口に「いじめ」と言っても、その内容はそれぞれのいじめによって大きく異なり、そしてそれによって被害者が受けた苦痛も、大きく異なっています。
そんな中で、自分がいじめ加害者を許せるからって、他のいじめ被害者にも、「俺のように、きちんと反省して更生したいじめ加害者は許してやりなさい」と、許しを強要することは、すごく暴力的なことではないでしょうか。
むしろ僕はこう考えます。「いじめ加害者を許すか許さないか、それを決められるのは、そのいじめを受けた被害者本人であり、加害者や第三者はあくまでその意思を尊重すべきではないか」と。
こう考える理由は2つあります。
一つは、まず何より、いじめにおいて悪いのは加害者であり、それによって尊厳を傷つけられたのは被害者なのだから、被害者の意思こそが優先されるべきではないかという理由。
そして二つ目に、いじめという暴力は、まず何より被害者から、自分の状況に対するコントロール権限を奪うものであり、そのような状態を回復するには、「許しを与える」という行為に対するコントロール権限が被害者のものであるということを、大前提として確認しなければならないのではないか、という理由です。
それに対して「いじめ加害者への許しを強要する」ということは、まず第一に、被害者にも譲歩すべき点があるというメッセージにより、加害者が悪いという大前提を崩しますし、第二に、結局誰かを許す/許さないという自己決定すら、その状況に委ねるという点で、被害者から自己決定権を奪った、いじめという状況の再生産に他ならないんじゃないかと、僕は考えるのです。

ここで少し自分の話をしましょう。
自分もまた、かつていじめ被害者でした。ただ、そのいじめがどんなものであったかは断片的にしか覚えていません。それはおそらく、僕が「許し」でも「憎み続ける」でもなく、「忘却」を選択したからでしょう。いじめのトラウマをいつまでも抱いて、それに囚われるよりは、忘れてしまっていたほうが、何よりも楽ですから。
しかしこれは、いじめ加害者を「許す」ということとは大きく異なります。もしいじめ加害者が、忘れている今頃やってきて、「昔のことだし俺も反省してるから許してくれや」とか言われても、何言ってやがるとしか思わないです
ただ、だからといっていじめ加害者自身に復讐しようとは思いません。それよりも、いじめという状況を生み出す現在の教育、特に学級制度(クラス制度)を憎みます。いじめが起きたら、速やかに加害者を「犯罪者」として処罰すること。また、いじめを生み出す温床となる、同質的コミュニケーションを強要する、現行の学級制度(クラス制度)を解体し、現在の学級が、授業の時にだけ集まって、それ以外の生活面に侵食してこないような制度に改革するということ。この二点こそが重要だと考えるのです。
なお、学級制度の解体についてより詳しく知りたい人は、下記リンク等を是非参照してください。
学校からクラスを撤廃せよ
matome.naver.jp
togetter.com
ただ、ここは重要なので何度も繰り返しますが、僕がいじめという経験を経て、教育制度の改革という方向を指向しているからといって、全てのいじめ被害者に、いじめ加害者を憎むのではなく、その背後のシステムこそを憎めとは、決して強制したくないのです。システムなんかどうでもいい。俺はいじめ加害者が憎いんだという、そういう声も含めて、全てのいじめ被害者の声がきちんと受け止められる、それこそが、いじめにNOと言う社会の大前提となると考えるのです。

戦後責任論 (講談社学術文庫)

戦後責任論 (講談社学術文庫)

「『許し』を与えるかどうかは、あくまで被害者が決めることで、加害者が許しを強要するようなことがあってはならない」というのは、戦争責任論、特に日本の戦争における加害責任においても、重要な考え方だと思っています。