読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

性は「社会的」なもの。だからこそそれは「社会的」に表現されなければならない

ジェンダーとセクシャリティ

前回の記事
立命館大学におけるセクハラ写真の撤去を支持する - 斜め上から目線
に対したくさんの反響が寄せられた。まぁ案の定殆どが批判だったが、一部には賛成してくれる意見もあった。そうだろう。そもそもそのような意見に賛成する人が多かったからこそ、大学だけでなく、学生自治会も、撤去に賛成したのだから。大学のみが撤去に賛成し、学生自治会も撤去に反対していたというのなら、そりゃあこの一件は「悪い権力によって学生たちの学問・表現の自由が侵害された!」とか言うことも出来るだろう。だが、学生自治会でもこの撤去が支持されたということは、学生たちもこのセクハラ写真の撤去を支持したということに他ならない。それを大学外部の人々の抗議によって覆そうというのは、はっきり言えば学校外の権力*1による大学自治の弾圧である。もし写真撤去を撤回したいと思うのならば、しなければならないことは、何故あの写真が学生ラウンジに飾られる理由があるかを、学生たちに抗議ではなく説得するということのはずだが、はてなダイアリーのようなアジテーションを見る限り、そのような姿勢は運動側には全く感じられない。仮にこの写真撤去が弾圧だとして、弾圧しているのは「大学」ではなく「学生」なのだ。そこのところの事実認識を誤って大学という藁人形をぶっ叩いても、問題は何も解決しないだろう。
さて、ではいよいよ記事に対して出された批判についてお答えしていこう。といっても実は僕の言いたいことは既に、その批判記事のブクマコメや、はてなダイアリーというブログに書かれていたりするが。
記事に対する批判は、主に次の5点に集約されるだろう。

  1. 性は個人的なものではなく社会的なものであるというのがクィア理論の主張である。よって、「性的なことは個人的な範囲で表現してろ」という意見はそのようなクィア理論の主張を無視しているから無効である
  2. セクハラは、相手に望まないセクシャリティを押しつけることにより発生するが、この写真展はただ自己を表現しているだけで、それを他者には押しつけていない
  3. 異性愛は社会によって守られているが、それ以外のクィアは守られていない。だから、クィアは反社会的に、暴力を以ってしても社会に異議申し立てをする権利があるのだ。(非対称性の問題)
  4. 大学というのは「学問」の場なのだから、その学問をする際に必要な範囲内ならば、学生の望まないセクシャリティを押しつけることも仕方ない(必要の範囲内ならば「セクハラ」もやむなし)
  5. クィアスタディーズのような学問や、その学問に基づくアートに権力性など無い

それに対しての僕の反論はこうである。

  1. 性は確かに社会的なものである。であるからこそ、それは社会的に表象されなければならない。写真は余りに独りよがりであった。無理矢理性を「個人的なもの」として押しつけようとしたのは、むしろ写真展の方である。
    1. クィア理論は「身体の肯定」ということを殊更取り上げる。だが、例え同性愛の身体であっても異性愛の身体であっても、そもそも「身体」そのものを排除することによってこの社会は成り立っている。それを無視して無法図に「身体を肯定せよ」というのは、人間の人間性を失わせ動物のように扱う行為ではないか。
    2. さらに言うならば、身体など肯定せずとも、どのような身体であってもそれとは関係ない「自分」を持てる自信が必要なのではないか(身体性がそもそも嫌いな人に、「身体性を肯定せよ」などというのも、結局異性愛中心主義の「異性愛」が「身体性」に変わった、身体性中心主義ではないか)
  2. 写真を学生ラウンジという、そのような問題にも関心がない人も、食事などのために来なければならない場所に置く時点で、他者への押しつけである。
  3. それこそまさに「ソ連の核はきれいな核」、「反アメリカ・イスラエルのテロはきれいなテロ」ではないか。真にセクシャリティを押しつける抑圧を非難したいなら、自分たちがそれと同じ事をやったら何も説得力がなくなるということになぜ気づかないのか?異議申し立てをするにしても、あくまでそれは押しつけではない、社会的な「言葉」によらなければならない
  4. 大学は「学問」のみをする場ではない。学問は授業の時に散々やっているのに、何でそれを授業外でまで学生に強制できるのか。結局、「学問」権力によって大学生の場所を奪っているということに他ならない。
  5. 学問側にはクィア理論という「語る言葉」がある。だが大学生たちは何も持ち得ていない。のに、一方的にクィア側が大学生たちを断罪する今の状況で、何故「権力性はない」などと言えるのか?

それぞれの反論について、これから詳述していく。

1.社会的な性

例えばナルシストランス宣言に関して - 真面目なふざけ、適度な過剰はこう書いている

性は個人的なこと?

 まず、「性は個人的なことであり、やりたきゃ一人でやっておけ」の部分。こういう立場があることは理解できる。
 が、そもそもクィア・スタディーズって、「性は個人的なことである」という大前提自体を問いなおす立場なわけである。この企画の趣旨が説明されてるhttp://www.geocities.jp/rits_queer/syosai.htmlにも、

そのような人々を「ナルシシスト」と「トランス」をかけて「ナルシストランス」と名づけ、「トランス身体」が担わされ/背負わされてきた「憎い身体」「忌避すべき身体」の歴史を問い直し、トランスにとって「ありうべき身体」は存在するのかという問題提起を行う。

って文章(身体=性は「担わされ/背負わされ」る社会的なもの(≠個人的なもの)であるという前提)があるし、そもそもクィア・スタディーズなんかは「個人的なことは政治的なこと」って有名なスローガンを前提にしている部分もある(たとえば、手元にある本だと、『ゲイ・スタディーズ』の第3章辺り)。
 こうした立場に賛同する人もしない人ももちろんいるだろう。けれども、賛同するにせよしないにせよ「そもそも『性=個人的』って前提自体どうよ」って言ってるクィアの人々に「性は個人的なことだから」と批判するのは、批判として成立していない。「うん、その批判の根拠自体が問題化されてるわけだからね」と。
 なので、有効な批判を行うのならば、別の根拠を用意する必要があるのではないかと感じた次第。

これについて次のようなブクマコメが付いていた。
はてなブックマーク - ナルシストランス宣言に関して - 真面目なふざけ、適度な過剰

id:welldefined 性的な物が公共の場から除去されなければならないなら、女性とイケメンは明日からチャドルかぶってください。 2009/01/25

まぁこの場合、そもそも「女性とイケメン」というのがなぜか性的なものとして扱われているから訳のわからない話になっているのだが、でもこの話をひっくり返してみると面白いことになる。

  • 性的なものは公的な場所から排除されてはいけないから、性的な裸体で公共の場に出る権利もあるのだ!

……どう考えてもただの露出狂*2です。本当にありがとうございました。
服を着て身体を隠すという行為。これはまさに性的なものを、きちんと社会的な場面に適合させて出すということに他ならない。(例えば服を着ても、男性の服女性の服というように、それが性的なイコンとして機能する場合は多々あるだろう。しかしそれは、性的な身体そのものではない。身体はどこまで行ってもその個人の、独りよがりのものだが、ファッションは、それが他人に認められることを目的としたもの。つまり、社会的なものなのである。)
「性的なことは個人的なことではなく社会的なこと」。これはフェミニズム*3によって提起された重大なテーゼである。例えばこのテーゼにより、従来は「家族内でそれぞれの個人個人が望んでしていることだから、社会は関係ない」とされてきたアンペイド・ワークの問題が提起されてきたし、また、従来の大きな枠組みでは取り扱えなかった、男女間の微細な差別(例えば男女間が話しているとき、その時間を計ってみると、男性の話す時間の方が女性の話す時間より長い。そしてそのような日常の行為により、男性が主導権を握り、女性がそれを受動するという差別構造が維持されているなんてことが研究によって分かった)が研究や異議申し立ての対象になったりした。
しかしそこで分かったのは、「社会的に見ればおかしいはずのことが、『それは個人の間の問題だから』という形で見過ごされてきた」ということであって、故に個人的なことを社会的なこととするということは、まさしく個人のことであっても社会的なルールや構造で判断・解決しましょうということだったはずだ。
だが今回の写真展はどうだったか?あそこにあったのは、その逆。社会的な空間で、「個人的なもの」を独りよがりにさらけ出す。そんな行為そのものだったじゃないか。*4どの写真に「社会性」があるというのか。言っておくが、ここでいう「社会」とは、異性愛中心主義によって女性らしい女性の裸や男性らしい男性の裸はどんどんさらけ出して良いのに、そうでない裸は出してはいけないという、そういった「異性愛社会」ではない。そうでなく、社会的な様式、つまり独りよがりではなく、他人の気持ちを考えて、その気持ちに則って行動をするということである。
クィアの権利を主張したいのならばすれば良い。僕だって、今の社会は明らかに異性愛主義中心で動いていると思うし、それによって同性愛者は「普通じゃない」という形で抑圧されていると思う。だったら、「異性愛ではない恋愛の形もありえる」とか、「男が女の服を着たり、女が男の服を着たりすることに何の問題があるのか」と、言葉で主張すれば良い。ところが、あの写真展であったのはむしろその逆、ただ身体を露にした写真を掲示する。そんな行為で、一体どんな説得が可能になるというのだろう?ただただ相手に不快感を与えるだけじゃないか。
「不快感」という言葉を言うことによって、人々の中には↓のように「それは不快感至上主義だ」と批判する人もいる。
はてなブックマーク - 立命館大学におけるセクハラ写真の撤去を支持する - 日常ごっこ

id:PledgeCrew ……不快感のみを論拠にした「ゾーニング」要求は少数者「隔離」と同じでは。写真の程度というのもあるだろうけど論理としてはまずいと思う 2009/01/24

はてなブックマーク - ナルシストランス宣言に関して - 真面目なふざけ、適度な過剰

id:bat99 不寛容 言論・表現の自由は自分にとって不快なものをどこまで許容できるかが問題になるのではないか。不快だという表明するのも議論するのも認められるべきだが、議論なしで一方的に遮断されるのは是認できない。 2009/01/24

だが、そもそも「不快だ」という言葉でしか反意を表明できない形式でメッセージを提示したのは、むしろ写真展を行った側ではないか。もしこれが言葉によって表現されたならば、きちんとこちら側も言葉によって、それらのことに反応できただろう。だが、では写真や図像が表示され、それがその人を深く傷つけ抑圧するという場合に、「不快」という言葉以外で一体どう表現できるのか?ましてや今回の写真のように、そもそも写真にこめられた意味がどういう意味なのかも分からない、そんな独りよがりな写真*5を提示して、いざそれが「不快だ」と言われれば「それは社会的なメッセージではない」と批判するというのは、あまりに卑怯ではないだろうか?

身体の肯定に関して

更に言えば、この企画を支えるイデオロギーである

そのような人々を「ナルシシスト」と「トランス」をかけて「ナルシストランス」と名づけ、「トランス身体」が担わされ/背負わされてきた「憎い身体」「忌避すべき身体」の歴史を問い直し、トランスにとって「ありうべき身体」は存在するのかという問題提起を行う。

というテーゼ。これについても僕は批判したい。
このようなテーゼに基づいて、「トランスジェンダーの身体は忌避すべき身体ではないのだ。だから食事をする大学のラウンジにあっても良い筈だ」という考えの下、この写真展が行われたのだと思う。そしてそこには、「トランスでない身体は忌避されないのに、トランスである身体が忌避されるのはおかしい」という考えがある。
しかし、僕に言わせてもらえば、それは問題を転倒させた考え方だ。トランスでない身体もまた、社会的な場においては忌避されるべきなのであって、それが今現在は忌避されていないのが"おかしい"のだ。
身体そのものは性愛に直結している。しかし性愛や性欲というものを野放図にしておけば、そこには秩序は生まれないし、そして秩序により維持される社会も生まれない。だから裸体そのものは「わいせつ物」として、何時の時代も隠されてきた。だがしかし異性愛主義、それも今日の後期近代における商業主義と連結した異性愛主義においては、本来隠されるべき裸体が、異性愛という形式に則る限りにいては容認され、アナーキーにばら撒かれてきた。そしてそれにより、より異性愛的な身体、つまり"モテる身体"が賞賛され、そうではない身体は下等な身体と差別されたのである。
では全ての身体がすばらしい身体であると賞賛すれば、この差別は解決するのか?このナルシストランス宣言においてはそうなのだろう。僕も、確かに"差別"はなくなると思う。しかし、それによって生まれるのは、身体と、それに直結した性愛による支配だ。身体の魅力というのは、身体的にしか感知できない。「言葉」にすることはできないのだ。そして言葉にすることができないというのは、コミュニケートすることができないということでもあるのだ。つまりどこまで言っても独りよがりな一方通行のメッセージなのであって、私があなたを理解する代わりにあなたも私を理解しようという、相互理解の回路は開かれない。どこまで行ってもただ「私を見て!」だけの世界。そのような世界をは、動物の世界と一体何が違うのだろうか?
むしろ必要なのは、例えどんな身体であっても、身体そのものは社会的世界にはもちこまず、きちんと身体に由来しない「自己」を確立することだ。これをもっと簡略化して言えば「人を容姿で判断しない世界」ということになる。つまり身体や容姿にプライオリティを置かず、そうではない、「言葉」の領域のものにプライオリティをおくべきなのである。*6
自分の身体を許容できない人、そんな人は沢山いると思う。*7そんな人に対し、クィア理論においては「いやいやその身体も結構いいものなんだよ。そう社会が証明しよう」と語りかける。だが、自分の身体が嫌いなのは自分なのだ。そこで「社会が認めるんだからお前もその身体を好きになれ」と言うのは、まさしく社会による個人の抑圧ではないか。社会の側が本当にすべきこと、それは「お前がお前の身体を好きであろうが嫌いであろうが、それはお前の問題だ。だが、社会においては、そんな身体なんてものは無価値だ」とし、別に自分の身体を認めなくても社会で暮らせるようにすることなのだ。もちろんその先で、その嫌いな自分の身体をどうするかという、実存の問題は残るだろう。だがそれは社会外の実存の問題である以上、社会は関与できないし、すべきではないのだ。もしそれをしようとすれば、異性愛中心主義と同じように、個人を一つの範型によって抑圧し、結果多様な個人という社会の存立基底をも壊すことになると断言する。

2.自己を表現しているだけだから、他者には押し付けていない?

ナルシストランス宣言に関して - 真面目なふざけ、適度な過剰

セクハラ?

 では、もう一つの理由である「公共の場で自らの性を人に開示するのはセクハラ」ってのはどうなのか。
 これはまず、「自己の性の開示」と「他者に対する性の要求」とがイコールになってる点で、やや飛躍がある主張だと感じる。セクハラは、望まない性(規範)を強要する行為(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%83%A9)。「自分はこういう性の持ち主である(で、こういう性の持ち主を承認をしてほしい(≠お前らもこうあれ))」って声を上げることと、「こういう性のあり方であれ」と要求することがイコールであるという論理が、よく分からない。ここが分からないため、「セクハラだから(世のセクハラも問題視されるならば)本件も規制されて当然」というご主張もよく分からない。「そもそも何で一緒なの?」と感じるわけである。また、

問題は、このような写真を、不特定多数が来る場所に、ゾーニングも無しに置くことにより、「そのような写真をみたくない」という大学生のセクシャリティを抑圧していることなのだ。
単純なことである。職場に扇情的な女性を置くといったような行為、これは立派なセクシャル・ハラスメントという人権抑圧として捉えられる。

 この例も分からない。「扇情的な女性」(もしかして「写真」ってことだろうか)って一体何だろう。そりゃ、女性社員に対して「扇情的な格好して」と言えばセクハラだが、その場合は言った側がセクハラに問われるわけである。今回の写真展は、誰かに「お前もこういう格好して」と求めるものなのだろうか。そこが(そう考えるならなぜそうなのかも含めて)分からない。

これに関しては、僕もきちんと表現しなかったのが問題だと考え、追記した。「職場に扇情的な女性の写真を置く」である。
で、どう思うだろうか?職場に扇情的な女性の写真を置くような行為、これはセクハラか、セクハラでないか?
その写真を置いた人がこう言ったらどうだろうか。「いや、別に僕はこの職場にいる女性にこういう性的な魅力を付けろとは言ってないよ?僕はただ、自分がこういう女の子が好きだからこういう女の子の写真を置いているだけで、他の人は別にそんなこと何にも気にせず、仕事しててて良いですよ」と。
あるいは、↓のようなブックマークコメント
はてなブックマーク - 立命館大学におけるセクハラ写真の撤去を支持する - 日常ごっこ

id:PledgeCrew セクシャリティ, 話が違う 職場に扇情的女性が置かれるのは男性による性的消費のため。同じではない。

に沿って、次のような発言をしたらどうだろう。「僕は純粋に芸術的*8な視点からこの写真を置きたいんであって、性的な意図なんて一切ないんだよ。むしろ性的な意図を想起する君の方がおかしいんじゃないの?」と。
セクハラであるかの基準を、「相手が性規範を押し付けようとしている」という"意図"の問題にする限り、こういう言い訳はどこまでも出来るし、そしてそれらの言い訳は反駁できない。だって、相手の心の内は相手にしかわからないんだから。ついでに言うならば、別にどんな意思を持っていたとしても、それを行動に移さない限りは、それは摘発されないし、気づかれない以上悪いことではない。ある人を目の前にした誰かさんが、そのある人について幾ら妄想したとしても、それがある人に気づかれない限りは、そのある人に害は与えないし、そもそも気づかれもしないから告発も出来ないだろう。
しかし、そこでもし告発できるとするならば、それは、その意図が"行動"に出たからである。つまり、妄想を口に出した(例えば「女はきれいでなくちゃ」と発言したり)とか、そういうことである。そして、何故それが非難されるかといえば、その発言の意図はともかくとして、その発言が他者を不快にさせたからである。つまり、問題はセクハラをした側の"意図"ではなく、された側の"気持ち"の問題なのだ。
そう定義するならば、如何にid;K416の説明がおかしいか分かるだろう。「自分はこういう性の持ち主である(で、こういう性の持ち主を承認をしてほしい(≠お前らもこうあれ))」って声を上げることというが、相手に対して声を上げることが、相手にとって自分のセクシャリティを踏みにじられたような不快を与えれば、それは立派なセクハラなのである。そして、本来社会で忌避されるべき性的なことを、社会性のあるメッセージ=「言葉」に直すことすらせず、個人的な性でしかない形で、別に自分がそういう性的なことを社会で*9受け取りたいという意思表示もしていないのに押し付ける。これ、セクハラジジイがいきなり性的なことを女の子に言ってくるのと、何が違うんでしょうか。セクハラジジイは「きたない異性愛者」だから、その人が性的メッセージを投げつけるのはいけないけど、この写真展をした人は「きれいな同性愛者」だから、別に性的メッセージを投げつけられても非難はしてはいけない、とでも言うの?それって単なるクィアの党派意識以外の何者でもないと、僕は感じるんだけどなぁ。

3.クィアは社会から排除されているから反社会的な行動を取ってもいい

クィアが社会から排除されていることを以って今回の写真展を肯定する立場もある
ナルシストランス宣言に関して - 真面目なふざけ、適度な過剰

似たような話だけど

 で、セクハラってのはなぜ法で規制されるまでに問題化されてきたか。それは当然、その場に存在する力関係を背景にしているから(だからこそなかなか声を上げられないから)なわけである。言える人なら「嫌」と言えばOKなんだが、言えない状況に置かれた人が嫌がらせをされるからこそ、法的規制をかけて「嫌」と言いやすい状況を作らなければならなかった、と。そういう意味で、

異性愛的なイコンは社会的規範(異性愛中心主義)によって保護されているから、殊更規制しなければならないが、同性愛的なイコンはむしろ逆に社会からの攻撃に晒されているのだから、規制はしてはならない。むしろ保護しなければならない」という意見もあるかもしれない。だが、それは二つの点で間違っていると言わざるを得ない。
一つは、全体として確かに異性愛中心主義という社会規範は存在しているかもしれないが、しかしいくらそのような社会規範があったとしても、それらは「大学ラウンジにある同性愛者の性的写真」を視界から逸らしてはくれないのだ。セクハラが何故問題となるかといえば、それは自分のセクシャリティに反すること・ものを強制されるという、人権抑圧なのであって、そのセクシャリティが社会規範に則っているか否かは関係ないのだ。

 というご指摘は「どうなんだろう」と感じる。
 なぜなら、ご自身でも「異性愛中心主義が社会規範として存在している」とお認めになられているわけで。であるならば(で、セクハラという指摘に乗って、それを比喩的に用いるならば)、今回のイベントの主催者たちが既に、世に広がる「異性愛中心主義」によって「自分のセクシャリティに反すること・ものを強制されるという」ハラスメントを受けている人々と考えるべき。で、それに対する告発の意図が込められたのが今回のイベント(であることは、先に引用した趣旨からも分かる)。
 となれば、喩えて言うと、主催者はむしろ、「(異性愛中心主義による)セクハラやめてよ」と告発してる立場であって、「お前らもこういう性であれ」と強要する立場ではない。繰り返すが、共用する者(が前提とする規範)を告発してるのが主催者でなのである。「自分はこういう理由で、『異性愛中心主義』による(ある種の)セクハラが嫌なのだ」と。
 したがって、「(一般的な)セクハラの告発(における「なぜ嫌か」の表明)」が「セクハラ」ではないのと同様に、今回のイベントも「セクハラ」とは表現しようがないことのように思うわけである。なので実は、「そのセクシャリティが社会規範に則っているか否かは関係ない」ことはない。本件のそもそもの時点を考えるためには、「社会規範」を考慮に入れることは必要なのではないだろうか。

はてなブックマーク - 立命館大学におけるセクハラ写真の撤去を支持する - 日常ごっこ

id:Romance 賛同できない, 学生に迷惑かかるから あれは社会運動なんだからゾーニングされたところでやるなら意味ない/性的表現ゆえの難しさはあるかもだけど、異性愛主義的な性的表現ならすでに溢れてるじゃんか、という意味もあの企画にはあるんじゃないの? 2009/01/24
id:hokusyu 賛同できない, 学生に迷惑かかるから 性に関する表現は難しいが、少なくともこの記事は「無人島の話」がセクハラだという告発がタケルンバや出題者のようなセクシストに対するセクハラだと言っているようなもの。 2009/01/24

はてなブックマーク - ナルシストランス宣言に関して - 真面目なふざけ、適度な過剰

id:hokusyu ガッテン, 生 一般的に言って、「個々の立場を尊重」とだけしか言わないのは、非対称的な関係が前提になっている場では、まったく「尊重」したことにはならない。 2009/01/24

タケルンバの例に関して言うならば、今回の話は、タケルンバのセクハラを批判するために、タケルンバにセクハラをして、「ほらセクハラをされるってこんなに苦しいことなんだぞ」と分からせるようにするってことでしょう。だったら僕はその批判のためのセクハラも、同じセクハラとして告発しますよ。それは、おかしいことですか?
上記で書いたように、僕もクィアという存在にとって今の社会がとても生きにくい社会であるということは認めますよ。クィアにとっては、今の世の中って言うのは四六時中セクハラをされているような状況だっていうのも知ってますし、何とか変えていかなければならないとも思います。
ですが、だからといって「じゃあ自分たちも異性愛者にとって不快になるようなセクハラをして、自分たちが受けているセクハラがどんなに酷いかを告発しよう!」っていうのは認められません。そんなことをしたって、結局全員が不快になっていくだけなんですから。不快にさせられて、それで改心しようなんて思う人が居る訳ないでしょう?不快にされたらその不快にした相手を憎む。憎んでいる相手の言うことを聞く人間なんて居ますか?そりゃあ、道義的に考えれば、ずっとクィアを不快にさせてきたのは異性愛者の方で、異性愛者の方が罪は重いんだから、その罪を気づいたのだから素直に謝って、社会を改善していくべきでしょう。ですが、そのような道義をさておいて現実がどのように進行していくかを考えたら、そんなの「やっぱりあいつらは差別されて当然の人間なんだ」というように、クィアへの敵視が強まるだけでしょうが。
しかも更に言うならば、今回の写真展は、そのような「仕返し」とすら受け取られません。例えば、このような写真の横に、「このような不快な写真を掲示されるような苦しみを、ずっと私たちクィアは受けてきたんです」とかいう言葉が書いてあれば、そういうことだと分かりもするでしょう。ですが今回の写真展をいきなり掲示されてそのようなことを果たして考え付くかどうか?僕は、あの写真展だけただ取り出して見た場合、「おかしな人たちが自分勝手に自分の肉体を誇示してるだけ」と捉えるでしょう。そして、そんな裏のメッセージなんか気づくことなく、ただこんな変な奴らに昼食とか食べるスペースを奪われたと不快になり、憎むだけです。
何度も繰り返しになりますが、自分たちの置かれてる状況が不遇なら、それを改善しろと告発するのは結構、そしてそのような告発を社会運動として起こすのも、是非やればいいんです。しかし、社会運動ならば、それは社会的なルール、つまり「相手の気持ちを思ってする」ということを忘れちゃいけないはずなんです。その運動で本当に相手は啓蒙・改心してくれるのか?それには「言葉」を使うしかないんです。「仕返し」という方法は、余りに自分たちの相手にも「心」があるということを無視した態度であると、いわざるを得ません。

4.「学問」のためならセクハラも許されるのか

この写真展示会が「大学」で行われたことを理由に擁護する意見も多々ありました(「ラウンジ」であるところには注目せずに)。
コメント欄参照(※一部略)

amamakoさんがおっしゃっている、ゾーニングの問題。これについてはそんなに異論がありません。好きな人が好きなことをやっていける社会をめざすためには、お互いが不快にならないような社会秩序は必要だと思います。
しかし、その一方で、ゾーニングが形成するみえない壁を越えて数多くの事象に触れなければならないことも時には時にはあるでしょう。それが、少なくとも大学、学校という場所だと思います。例えば、学校の授業でよく戦争や原爆の写真展などを見にいく機会もあるかと思いますが、それを「グロテスクだ!」「不快だ!」という理由でゾーニングされてしまえば、自らにとって好ましいこと、快なことしか学ばない学生しか育たないでしょう。
ゾーニングをしないといけない空間、ゾーニングをあえて打ち破る空間、それぞれがあってよいと考えています。そして社会一般の話はひとまずおいておくとして、大学というのはゾーニングをあえて打ち破るべき空間だと私は考えています。
今回の写真展が人々にどううけとめられたか、どう誤解されたか、どう不快にさせたか、それについては粛々と受けとめていくべきだと思います。しかし、そこには言葉がほしい。私自身、この企画展を手伝っていて「撤去されるのではないか」という不安がなかったわけではありません。しかし、それはどういう理由で撤去されるのか、その理由について一つ一つ自分たちの考えと言葉をかわしつつ、ゾーニングという規範をある程度守るべきなのか、それともやはりあえてその規範を破ってでもやるべき、やろうとすべきなのか、それを判断したいと個人的には考えておりました。それが今回の無断撤去ということで、これはあまりにもひどいと私個人としても受け止めました。理由無きゾーニング、言葉なきゾーニングは、むしろ社会的恐怖でしょう。それは暴力だと私は思います。

>タケルンバのような異性愛者のセクハラは「きたないセクハラ」で、同性愛者のセクハラは「きれいなセクハラ」とでも言うのだろうか?

これについては、私は、まぁ、個別の状況によるところも大きいかもしれませんが、ともに「セクハラ」だと思います。公共の場や社会的な関係のなかで、「セクハラ」についてルールを守ることは重要です。
一方で大学で講義を受けておりますと、授業で取り上げた農村に伝わる説話のなかにでてくる猥談めいた話、あるいは源氏物語の一場面、あるいはラブホテルの地理的分布の戦後の変遷などを取り扱った場合にはセクハラではないと思います。それは、そこを「セクハラ」という理由にしてしまえば、その授業自体が換骨奪胎されてしまい、また問題そのものと向き合う契機を失いかねません。それは大学という場においては大きな損失でしょう。

  • monako

たとえば、典型的なセクハラ事例として、「職場にヌードポスター」というものがあります。多くは上司(男性)がヌード(女性)ポスターを貼って、それを社員(女性)がセクハラだと指摘する、という形です。今の日本のハラスメントという概念は( )のセクシャリティが払拭されずに語られる、つまり( )に男性とか女性とか入れないとセクハラと認定されない、ということに限界性があります。この点はamamakoさんもご指摘されているように「例えゲイであっても」「セクシャルマイノリティであっても」セクハラは起こりうる訳です(私がamamakoさんに強く共感した点はこの点です)。
 ただ、一方で、この典型的なセクハラ事例は、「不必要に」「説明無く」ヌードポスターを貼ったこと、そこに問題がある訳です。例えば、何らかの必要に応じてやむなく、といった場合は、本来はセクハラとは認定されてはならないのです。
 こんなことを書くと、アセクシャルの方など、不快に思う人たちから、「私たちはどうなるんだ(必要があろうとなかろうと、私たちにとっては気持ちが悪い)」と抗議がくるかもしれません。そこで初めて「話し合い」が生じ、さて、今後どうする、という「調整」が始まる訳です。その話し合いの結果、例えばヌードを貼った側が「おまえたちの意見なぞ聞けない(こっちは必要に応じてるんだ)」と割り切ってしまった際に、セクハラなりハラスメントという概念が持ち出されます。
 ですから、本来、この一連の騒動については、今の段階で「話し合い」が行われなければなりません。ところが、今回はそれがなく、無断で撤去という形になった訳です。そうであるならば、やはり今回の件はまずは大学側に非があるのでは、と考え直したのです。

まず、講義という形式と、ラウンジにおいて写真を展示するというのは明らかに違うよね。講義は、それこそ受けたくなければ受けなくてもいいし、受ける側も「これは学問を学びに行くんだ」という心構えで受けてるわけだから。つまり、講義という時点ですでにゾーニングは出来ているわけだ。
しかし、id:souryukutsu氏は、「大学においてはゾーニングはすべきではない!」と言い、大学全体を、いわば学問の講義の場の様にしたいと、そういうことなのだと理解した。
これには、二つの点から反論できる。
一つは、そもそも大学って別に学問したい人だけが集まっている場じゃないよねということだ。そりゃあ、学問したい人ばっかが集まっている場なら、こんな学問的に興味深い写真展示なんて大歓迎だろうし、そもそもこんな撤去なんて問題にすらならなかっただろう。
しかし実際はそうではない。ただ「大卒」「立命館大卒」というブランドが欲しい人も居れば、モラトリアムの人間も居るだろう。親に「大学は行きなさい」とか言われたから来た人とかも居るだろう。断言してもいいが、そういう「学問以外の目的」で大学に来ているやつは、「学問」が目的で大学に来ている奴なんかより遥かに多い。
それが道義的にどうか、という問題は、また様々な意見があるだろう。真面目で古風な、未だに教養主義を頑として持っている大学生なら、「こんな今の状況はけしからん!大学には学問を志すものだけが来るべきなのに……」なんて言って不満げに大学ライフを送っているのかもしれない。まぁ、よく居るタイプである*10*11
しかし、道義的にどうであれ、実際問題として、今の日本の社会システムというのは、大学に学問以外の様々な目的を持たせ、そしてそれによって成り立っているのである。大学行かなかったら一定水準以上の職業には就けないとか、高校では職業教育というようなものは殆どされないとか、そういう様々な社会的要因があるからこそ、学問以外を目指す人も大学に来ているのである。そこで幾ら「大学は学問の場なんだからお前らはきちんと大学に居る間は四六時中学問するか、大学から去れ!」と言ったって、道義的には正しいかもしれないが現実的には実現不可能、無理な提言なのである。そして無理なことを強いるということは、抑圧に他ならない。
大学というものに学問以外の様々な目的が付与されている、そしてそのような大学を組み込んだ形で社会システムが成り立っている以上、例え道義的には大学は学問のための場であっても、現実問題として、大学が学問以外のことを目的とした様々な生徒を抱えてもスムーズに機能するよう、ゾーニングという制度設計が行われなければならないのだ。例えその社会自体を変えようとするにしても、いや、変えようと思うからこそ、その社会の現実に沿った形で行動・運動を起こさなければならない。そうでないような社会変革の計画を、机上の空論と呼ぶのだ。*12
そして第二に、百歩譲って、この写真展は「講義」のようなものだから許されるとしよう。だが、そもそも講義としてみた場合にも、この写真展は問題がある。
なるほど確かに学問ということならば、そこでは必要に応じ性的な話題についてダイレクトに語らなければならない場面が多々ある。そのような学問を学ぶかどうかは、個々人の自由に委ねられるべきだが、もしその人が個々人の決断によりそのような学問を学ぶと決意したのならば、性的な話題を出されても文句は言えないだろう。
しかし、そのような講義の場であったとしても、教える側には、それが出来るだけその教えられる人のセクシャリティを傷つけない形で進める、努力義務があるはずではないのか?例えばid:souryukutsu氏は

授業で取り上げた農村に伝わる説話のなかにでてくる猥談めいた話、あるいは源氏物語の一場面、あるいはラブホテルの地理的分布の戦後の変遷

という例示を出した。だが例えこれらのことが大学で教えられるとしても、それこそポルノのような露骨な形で性的なメッセージが伝えられるだろうか?答えは否である。幸い、学問には学術用語があって、そのようなことについても、オブラートに包んだ形で伝えるノウハウがあるということは、そのような講義を受けたからこそ、よく知っている話ではないか。事実、僕もそのような手法を用いて、この記事を書いてきた。
何故そのような努力をするかといえば、それは、例えゾーニングをするとしても、多くの人に話を聞いてもらいたいからに他ならない。そのような性的な話題に嫌悪感を持つ人にも、むしろそういうことを嫌悪する人が、その嫌悪感を肯定できるような手法を身に付けてもらいたいから、僕はそのような努力をしてきた。目的は違ったとしても、より多くの人に聞いてもらいたいと望むのなら、同じような努力をするはずだし、事実学問はしてきた。
しかし、今回の写真展はどうだったか。むしろその反対、性的なものをダイレクトに見せようとする方法だったではないか。そんな方法をすれば、好意的な意味で興味・関心を持つ人の輪がどんどん狭くなってしまうことは分かりきったことのはずだ。もちろん輪が狭くなるだけ熱狂的な高まりは生まれるだろうが、そんなことだったら、それこそ個人の個展ででもすれば良いのである。大学のラウンジでやるということは、問題提起、社会運動の意味があったのだろう。だとするならば、そこでは、より多くの人に好意的な意味で興味・関心を持ってもらうことが目的となるはずだ。
monako氏は例えば、何らかの必要に応じてやむなく、といった場合は、本来はセクハラとは認定されてはならないのです。と述べている。だったら、必要に応じてならセクハラも許されるのか*13と問いたいが、百歩譲ってそれを認めたとしても、今回のセクハラ行為は、より人々にクィアについての理解を広めるという目的の何の役にも立たない。故に全く必要のない行為なのだから、許されないのである。

5.「クィアスタディーズ」なんて学問には権力はない?

ナルシストランス宣言に関して - 真面目なふざけ、適度な過剰

学問という装い

 最後。学問(あるいはアート)という装いについて。amamakoさんは以下のようなことをおっしゃっている。

そして第二に、そもそもこの展示会自体、「アート」、「学問」という、別の社会規範を利用したものである。つまり、これらの写真展示は「アート」であり、「学問」の一環なのだから、それを理解しない人間は、「アート」や「学問」を理解しない人間なのだと。まさしくブルデューが述べたような「文化資本」による差別・抑圧ではないか。学者側が認定する「アート」、「学問」はすばらしいものなのだから、学部生のような大衆は、例えそれが自分にとって不快なものでも拒否してはならない。ありがたく享受せよ。このような図式において、一体どちらが強者であり、どちらが弱者なのか?

 まず第一に、これもそもそものことを考えてほしいのだが、クィア・スタディーズが学問として成立したのは、自らの生と性を論理的かつ学問的に分析し、それを規定している社会構造(の問題点)を指摘するという意図があったから(これは『ゲイ・スタディーズ』の1章辺り)。非一般的な性のあり方が、ともすれば「個人的なこと」だとか「病理」だとかされがちなのはなぜかってのを、別角度から考えようとしたから。で、そのことによって、同様の立場にいる人と議論する共通の土台を作ろうとしたから。つまり、学問やアートの装いを取るのは、告発と議論を展開するための手段の一つなわけで、その辺をふまえずに「「文化資本」による差別・抑圧」とするのはどうかな、と。
 また、その辺をふまえると。「文化資本」を持ち出すのならば、これはむしろ、学問から疎外されてた人々が文化資本をめぐる闘争に参入していこうとする過程だと(ブルデューも『ディスタンクシオン』1巻の243頁あたりで文化をめぐる闘争について言ってますな)捉えるべきだろう。
 また、「学問」「アート」によって、「大衆」が反論不可能となるというのも、勝手かつ過度に「大衆」の意識を汲み取ろうとしてることのように思える。そんなに「学問」や「アート」に萎縮させる力があるって、本当なんだろうか。という、結構どうでもいい疑問が第2点目。

一点目について言うならば、学問から疎外されてた人々が文化資本をめぐる闘争に参入していったとして、その人たちが、また新たに他の人々を文化資本」により差別・抑圧」していくということになるっていうことは、別におかしな話ではないでしょう。搾取される側が別の局面では搾取する側なんて話は山ほどある。
問題は2点目である。確かにそんなに「学問」や「アート」に萎縮させる力があるって、本当なんだろうか。という疑問は多くの人が持つだろう。だが、こう表現を変えてみてはどうだろうか?「学問・アート側には、『クィア理論』という、この問題について語る理論がある。だが、学生側には何もないじゃないか」と。
この写真の展示会側と学生自治会側が話す姿を想像してみていただきたい。展示会側はそれこそid:K416がやったように様々な学問の言葉を駆使して展示会撤去の非を追及してくる。では、それに対して学生自治会側はどうやって応戦できるか?そんなクィア理論なんて聞いたことすらない。ただ、「あんな裸に近いような写真を見ながらご飯食べたくない」という素朴な気持ちはあるけれど、それを理論付けする言葉は知らない。これこそがまさに「文化資本」による抑圧である。文化資本による抑圧の何が恐ろしいかといえば、それがあたかも「当然の結果」の様にして現れてくることである。例えばこれが物理的暴力なら、暴力を振るった側に非を追求できる。金銭などの普通の資本においても同じだ。だが「文化資本」においては、議論によって相手が負けたのだから……という、きわめて民主的・公平に物事が決まったかのようになってしまうのだ。しかし実際は、見えない「文化資本」によって、両者には力の差が歴然とある。*14

最後

「撤去の是非はともかくとしても、それを無断で行うというのはおかしい」という意見がある。つまりまず最初に話し合いをして、その話し合いの決着をつけて撤去なり存置なり決めれば良いという意見だ。
しかしそれだったら、いったん撤去してから話し合いをするという選択肢も当然ありえるはずだ。というかむしろ、その方が筋に通っているだろう。もともと学生ラウンジは、大学、そして何より学生自治会の管理下にあるのであって、写真展示側はその場所を借りているだけなのだから。最終的にどうするかは相互の同意の下で決めるにしても、とりあえずの処置をする権利は、自治会側にあるはずだ。
もちろんそのような処置の上で、改めて写真展をどうするかについては、きちんと話し合うべきだとは思う。もしかしたら話し合う中で、学生自治会側が「学生間で話した結果、ある程度の展示は認めてもいい」という風になるかもしれないし、そこでもし大学がゴネたりしたら、それこそ抗議活動なり何なり起こせば良いと思う。
だが実際はそのような話し合いはアジテーション文を見る限り要求されていない。呼びかけられているのは、抗議と現状回復である。そこでは、学生が、学生の自治によって写真展を拒否したという、学生の自治権への考えが余りに欠けていると言わざるを得ない。学生を説得しよう、そのために内省しようともせず、ただとにかく「抗議」をすれば良いって言うのは、結局内輪向けだけを狙った行為ではないか。
「クィアを含む、様々な性的嗜好を持つ、全ての人たちの為の運動」ならば、僕も支持する。だが、「一部のクィアがお祭り騒ぎをするためだけの運動」ならば、僕は支持しない。僕が主張したいのは、結局のところ、ただそれだけである。

おまけ

はてなブックマーク - 立命館大学におけるセクハラ写真の撤去を支持する - 日常ごっこ

id:toled こんど、立命館に行って、僕のペニスを公開しますので、その上で感想をください。 2009/01/25
id:dalmacija これはひどい, 智将w 『「そのような写真をみたくない」という大学生のセクシャリティを抑圧』大体この辺りで薄っぺらな理論武装で否定済みのドグマを擁護したいだけなのがわかる 2009/01/24

こういう文字通り下劣だったり、ただ人にレッテル張り*15をして自尊心を守っている輩を見るたびに、こんな奴らが「性的少数者を差別するな」とか言ってるのかよ……と、なんだかいやーな気分になってしまう。
なんだろうなぁ、非論理的な方面に行きやすい分野だから、人も党派的になりやすいのかなぁこっちの方面の話題は……それとも単純にただウンコとかチンチンとか言いたいそういう幼稚園児レベルの子供が集まりやすいのか……
そりゃ確かに性的な話題を取り扱うことによって、初めて重要な事実を探求できるってのが、セクシャリティに関する学問分野なんだけどさー、中にはそれが逆転してて、性的なことを大っぴらげに言いたいが為に、そういう学問分野を研究するような輩もいるよなぁ。僕はそういう輩がだいっ嫌いです。

*1:この権力こそ、まさに後述した「学問」「アート」の権力である

*2:公然わいせつ

*3:とくにラディカルフェミニズムですな

*4:というか、そのid:K416の提示しているナルシストランス宣言にしたって、誰に承認されなくとも  誰に祝福されなくとも「わたしたち」は  この身体を語り この身体を愛する道を探り この身体を表現し始める。というように社会性を拒否し、「自分たちのことは自分たちの何だから他人は邪魔すんなよー」という個人性に引きこもったものだ。うん、勝手に語ったり探ったり表現したりすればいいじゃん。でも承認されなくて良いんだったら、自分たちで勝手にやってればいいじゃん?承認されたくないんなら、なんで学生という他者を巻き込むの?

*5:写真展では「写真への加工一切なし」ということがはっきりと提示されていた。これこそまさに、社会性の忌避そのものだろう。

*6:ナルシストランス宣言を主張する人々の意見はその反対。「身体が全て」

*7:僕だって、はっきり言うとこんな身体、捨て去れるものなら捨てて、精神だけになりたい。

*8:アート!

*9:何度も言うが、「大学のラウンジ」である。人々が食事をするような場なのだ。

*10:僕なんかは、別に大学というのはシステムなんだから、そのシステムでどんな目的を達成するかなんて個人の意思に任せればいいじゃん。別に大学というシステム自体を、「○○の目的のためにしか使っちゃだめ」なんていう風に目的を限定する必要なんてないじゃんと思って、そういう真面目な教養主義大学生を馬鹿にしているわけだが

*11:で、そういう大学生が、はてなダイアリーなんかを見つけちゃうと、「これこそ俺の居場所だ!」とかなんとか言って、社会に向かって提言なんかしたりして、立派なはてなサヨクになるんだろーな。で、インテリサヨクらしく頭の悪いネット右翼なんかを小馬鹿にした記事を書くわけだ。で、その延長線上で右傾化する大衆批判なんかを書いたりしてブログ炎上。そして「やっぱり大衆は馬鹿だ。あんな大衆にならないように僕は勉強しないと」と学問の道にのめりこむインテリスパイラル……本当に大衆より頭がいいんだったら、何でその大衆を騙したり納得させたり出来ないんだろーね?

*12:学生自身が、自治会を通じてこの写真展を拒否したこと、これが、社会運動としてこの写真展が失敗したことの、何よりの証明だろう。

*13:それこそタケルンバ氏が行ったようなセクハラは、「社員研修」という合理的な目的のためだから許されるのか

*14:だから、そのような文化資本の存在を明らかにする、「メタ文化資本」が必要になるのだ。

*15:少なくとも140文字もあるのに何に反論しているか理解不能な文章を書くような人間に「薄っぺらな理論武装」とか言われる筋合いはねー