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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

春樹問題をだしにして最近考えていることについて語るよ

政治と運動

何か村上春樹とかいう作家がエルサレム賞っていうイスラエルの賞を取ったそうで、それに対して村上春樹がどういう返答をするのか(「きちんとイスラエルが今やっているパレスチナの人民の虐殺を糾弾せよ」とか「ただ粛々と賞を受け取ったことの喜びだけを語れ」とか)が、なんか色々問題になっているそうです。
村上春樹っつーと、そういえばなんか現代文の教科書*1に、なんか友達の女の人が死んだけど目玉焼き焼いてたよーみたいな、そんな読んでどうせいっちゅうようなエッセイが載ってて、で現代文の先生がなんかハルキストだったらしくてそのエッセイを散々プッシュしてたんだけど、僕はそれより岩井克人の評論(多分『貨幣論』)の方が断然面白いなーとか思っていた記憶があります(しかし今考えると本当にちくまイデオロギーまっしぐらな教科書だったんだな。まぁ結構面白かったから良いけど)。っていうか未だに小説とかエッセイとかを現代文で教える意義が分からない。
で、そんな僕だから、村上春樹の作家性と政治性がどーこーというような議論には関われないし、そもそも興味ない(一度、海辺のカフカとかいう作品に出てくるフェミニストがカリカチュア化されてるっつーんでやり玉に挙がってたとき、読もうかと思ったが3ページぐらい読んで止めた)んですが、ただ議論を見ていて、何か最近思っていることと重なるなーということがあったので書いておきます。
それは、どーも「イスラエルを批判しろ」と言っている人と、「別に批判しないでもいいやん」と言っている人の間では、「政治」とか、あるいは「社会問題」に対する考え方が、違うんだろーなっつーことです。

「政治的である」ことは前提条件なのか選び取るものなのか

「イスラエルを批判しろー」って言ってる人の根本にある考え方っつーのは、「村上春樹がどんな小説家であろうと、一人の人間がイスラエルに対して物言える立場に立ったのなら、イスラエルを批判しなきゃ駄目だろ」っつー考えなんだよね。これがどういう考えかたなのかっつーと、「政治的であれ」っつーことなわけだ。
で、それに対して「別に批判せんでもええやん」と言っている人は、「村上春樹はそういう『政治的な問題』とは関係ない人なんだから、別にしたければすればいいし、しなくても良いでしょ」って考えをするわけだ。これがどういう考え方なのかといえば、それは「政治的であるかどうかは人々の好み」ということなわけだ
で、これどっちが正しいと言えるのか。っつーと、実は純粋まっすぐ君*2が考えるほど、問題は単純じゃない。
「人々は民主主義社会に生きているんだから、一人一人が政治的主体である自覚と責任を持って、きちんと政治について考え行動を起こしなさい」っていうのは、長い間(といっても1960年から80年の20年ぐらいだけど*3)僕らの戦後民主主義社会の「良識」であった。
しかしそれが疑われ始めたのが80年代から90年代の、いわゆる「ポストモダン」だったわけだ。この背景には連合赤軍のトラウマとか、その結果生まれた80年代安保の「抵抗としての無反省」とかいうややこしい話があるんだけど、まぁそこら辺の話は長くなるので割愛。詳しく知りたい人は『嘲う日本の「ナショナリズム」』でも呼んでください。
でそこで生まれてきた考え方(で、しかもニューアカみたいにオタク的教養にならずに、きちんと人々の観念の基礎になった考え方)っつーのは、「100人の馬鹿が議論するよりも、10人のプロが話し合ったほうがいい結果を生むだろう」という考え方で、まぁ簡単に言っちゃえば政治は専門家に任せちゃいなさい。「善良な市民」*4は政治について考える前に、まず自分の「日常」をしっかりしなさい、という発想なわけ。まぁここら辺の思想について知りたいのなら、呉智英とか浅羽通明とかの本読むか、『脱正義論』っつーマンガでも読んでおいてください。『クレヨンしんちゃん オトナ帝国の逆襲』っつーのもお勧め。*5
もちろんそれに対してサヨクたちは必死で反抗してきたわけ*6ですが、しかしその反抗が正しかったはともかくとしても、少なくとも成果はあげられてない。
「そうはいっても最近再び『政治に関心を持つのがクール』みたいなことが思われてるらしいよ?STUDIO VOICEとかでも特集組んでたし*7」とかいう意見もあるけど、でもあくまでそれは「シュミ」としての政治なんだな。つまり、「自分は、好きだからこういう話題に首突っ込むけど、でも別にそういうのが嫌いな人とか無関心な人とかもいて良いんじゃない」って感覚。そして、シュミである以上、関わるとしても、それは自分にとって都合のいい、関心のある所だけつまみ食いでなわけ。例えば誰とは言わないけど、「大学は学問の場であるのだから、学問に関心のない奴は来るな」とかいう知識人論は非常にベンキョーしてるけど、でもじゃあ実際に大学が社会の中でどのような役割を占めているのか。例えば大学に行くのと高校卒で働くの、年収が一体幾ら違うのかとか、そういう社会学的な知識はゼロな奴とか、そういうやつが生まれちゃってる訳。
そりゃあ、それが本当に良いことなのかって聞かれれば、僕だってそういうのはだめだと思うよ。でも幾らそういう倫理的判断をしたって、現実が変わるわけではないよね。はてなサヨクが1000人集まって「みんなもっと政治的問題に関心を持ちましょー」つったって、そもそもそういうのに関心を持ってない人の耳に届くわけがない。そこで幾ら自分たちの中で「何故人々は政治的問題に関心を持つべきなのか」について緻密な理論を深めたって、そんなの結局自分たちの内輪でしか通用しないんだよね。
だから、今回の問題はよかったと思うのよ、そういう「政治的であるべき」という前提が、人々の間では必ずしも共有されてないっていうことが、はてなサヨクにも分かったという点で。ただ、これを本当に良い経験に結び付けられるのかは、はてなサヨク次第って所なんだろうね。ここでもし「『政治的であるべき』っていう正しいことが分からないあいつらは馬鹿だ!やっぱりあいつらはdisるしかない!」とか言うんだったら、はてなサヨクは一生変わらず、内輪向けのおしゃべりを繰り返す人々になっちゃうんだろうし、もしここで「そうかー、そもそも『政治的であるべき』ということすら理解されてないのかー。だったら、そういう人にも、きちんと聞いてもらえる、そんな話を考えないとなー」と思うのであれば、はてなサヨクは変われるよ、なんつーことを、思ったりしました

*1:筑摩書房。ちくまイデオロギー(笑)

*2:ここで敢えてよしりんの造語を使うよ。

*3:長くないじゃん!

*4:(笑)

*5:『脱正義論』が出たときはあんなに批判されたのに、それから10年くらい経って『オトナ帝国の逆襲』が出てきたとき、誰も批判しなかったっつーのは、まさにそういう思想がいかに浸透したかを物語ってるよね

*6:「部分部分しか見られない専門家に任せた結果、公害みたいな部分が最適化されても全体に悪影響を与えることが起きたんじゃないか」みたいな。それの真偽はほうっておく

*7:ここ、笑うところね