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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

相互理解不可能性としての「狂気」を噛み締めて、それでもコミュニケーションをしていく

狂気を求める欲望について

SchoolDays』、あるいは『ひぐらしのなく頃に』の様な作品が流行った背景には、端的に言って、「狂気」、そして、それによってもたらされる「惨劇」というものを見たがるという欲望があったというのは、紛れもない事実だろう。
そのことをもっと敷衍して考えれば、それらの作品においても言われたことだが、「ヤンデレ萌え」というようなオタクの中での流行も、そのような欲望を、「萌え」というオブラートに包んで、語ってるだけなのだろう。
あるいは、世の中には「凶悪殺人鬼」というものにとりわけ執着し、そのような犯罪の情報をとにかく集める犯罪マニアという人種も居る。例えば、犯罪者をモチーフにしたトレーディングカードであったり、あるいは佐世保小六女児殺人事件の加害者への"萌え"を表す「NEVADAたん」という祭であったり。もちろん秋葉原連続殺傷事件を起こした容疑者を「神」と崇める、といった行動も、それらの一種である。
もちろん、ヤンデレ萌えと犯罪者萌えは、「架空の人物を対象にするか、実在の人物を対象にするか」という意味で、社会的な評価は違うかも知れない。だがそれは、"萌える"当人のみに対してはあまり意味のある違いではないだろう。結局架空だろうが現実だろうが、それはあくまで画面の向こう側の存在なのであって、自分の生活と関係はないのだから。関係がないからこそ、安全に欲望出来るのだ。実在の殺人事件のニュースを見ながら「被害者の身内が怪しい」などと憶測するのと、サスペンスドラマを見ながら「こいつが犯人だ」などと推理するのに、一体どのような違いがあるか?そんな違いなどないことは、当のニュース番組が、本来架空の事件のために作曲された、サスペンスドラマのBGMによって"物語られる"ことからも、明らかだろう。

「狂気」を求める欲望の二つの意味

本題に入る。「狂気」や「惨劇」というものを見たいという欲望。だが、そもそも何故人々はそういうものを見たがるのか。
その様に語るとき、まず思い浮かぶのは「凶人を見ることによって、自分たちは凶人ではなく常人であるということを確認し、自分たちの正常さを確かめたい」という理由だ。つまり、自分たちとは違う何者かを想像=規程することによって、「普通な私たち/異常な彼ら」という境目を作り出し、それによって「色々な違いはあるけれど、私たちは"同じ"普通の人々だ」という同質性を確認する。なぜ同質性を確認するかと言えば、それは私たちが「社会」を形成する存在だからに他ならない。社会に必要なもの、それはお互いの意思疎通が可能であるという可能性を信じ合うことだ。「話せば分かる私たち」ということを確認するために、「話しても分からない彼ら」を"発見"し、相対的な形で自分たちの正常さを確認する。
スクイズ動画を見れば「誠死ね」というような反応をする奴ら。「ヤンデレ萌え」と叫びながらも、じゃあ実際に自分たちはヤンデレと付き合いたいかと聞かれれば、「それはちょっと……」と語るような奴ら、あるいは、秋葉原連続殺傷事件の容疑者を「神」と崇めながら、一方で「そいつを死刑にしろ!」と叫ぶ奴らたちの欲望は、主にこのような形で説明できる。
しかし僕が考えたいのはそのような人たちのことではない。その様な人たちは、端的に言ってゲスなのであって、ゲスはゲスである以上、語る価値すらないだろう。社会の上層部のエリートならば、そういう人間どもをどうやって飼い慣らすか、なんてことを考えなければならないのだろうが、僕はエリートではないので、そんなことを考える義理もない。
しかし、そのような形の欲望がある一方で、それとは違う形の欲望もあるように、僕には思えてはならないのだ。上記の欲望というのは「自分が正常の側に立つために狂気を見つけて遠ざける」という心的作用だった訳だが、それとは違う、むしろ「自分(の異常性)を理解するために狂気に近づく」という心的作用も、あるのではないだろうか。

「狂気」に憧れる人々

ロックミュージシャンの大槻ケンジが神戸連続児童殺傷事件について、「酒鬼薔薇は僕の代わりにつかまった」というような発言をしたということは、割とよく知られている。また、酒鬼薔薇聖斗事件の時に、彼に共感する多くの少年たちがいたという様な話も、よく宮台真司などが著書に書いていた。
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もちろん、そのような告白を、どの程度まで真実味を持ったものとして受け止めるかという問題はあるだろう。「反社会的なものに惹かれる俺かっこいい」みたいに、中二病的な自己アピールとしての共感ももちろん多々あることは、間違いない。
しかし、そのような自己イメージのアピールという面を差し引いても、本気でそのような犯罪者、あるいは「狂気」に共感する態度は、結構目につく。「リストカット」や「オーバードーズ」というような行為に"憧れ"を抱き、「初音ミク 鬱曲」とニコニコ動画で検索し、見つけた動画に「分かるよこの気持ち」などとコメントし、ゴスロリデザインの日記に世間への呪詛を書き連ねる様な人々。
もちろん、それが若者の多数派であるなどとは言わない。大多数の若者は、そんな世界は全然知ることもなく、極めて健康的に日々をすごしているのだろう。しかし、そうだとしても、そのような事実を元に「そんな一部の若者のことなんか放っておけ!社会は多数派のことだけを考えろ」と叫ぶ、《俗流若者論批判論者》というような人々を見るたびに、僕は思う。「世界は多数派のためだけに存在するというのか!?」と。

欲望の「カジュアルさ」について

しかしそう語る一方で、僕は俗流若者論者が語る「その様な若者たちは心に闇を抱えており、そして将来犯罪を引き起こす危険な存在なのだ」という意見にも与しない。
何故か。なるほど、確かに上記で述べたような人たちは、そのような人たちに慣れてない人が外見だけ見ていれば本気で狂気を心に宿し、「病んでいる」様に見えるかもしれない。だが、もし本当にその人が狂気に囚われているのならば、そもそもその様な狂気に憧れは抱かない。憧れとは、それが自分の中にないものだからこそ「憧れる」のだ。大体考えても見てもらいたい、本当に狂ってる人間が、動画に「この狂気に共感したよ〜」などとコメント出来るかどうか?本気で鬱状態になり心が参ってる人間が「私鬱なんだよね〜」などと日記に書く気力があるかどうか?いや、一部の人にはあるかもしれない。だが大部分の、そのような「狂気に憧れる人々」などというのは、しかし現実にやることと言ったら、せいぜいリストカット位なのである。
つまりネット上で狂気に憧れる彼・彼女らは、しかし決して本当に狂った存在ではない。狂気を持ち得ないからこそ、カジュアルに狂気に憧れる。しかし、では何で狂ってないのにわざわざ狂気なんてものに憧れるのか?

社会の同質性強制に対する嫌悪の「徴」としての狂気

ここで私たちは、最初に述べた同質性の確認という、「狂気への欲望」の第一の機能を思い出す必要がある。この「同質性の確認」という形態において、狂気はそれが社会と違う異質な存在、「話の通じない存在」であると規定された。
そしてこの狂気というものを社会の境目の外側に置くことによって、社会の境目の内側は同質な「話の通じる存在」であると規定・確認されるわけだ。
しかし現実はどうか?理想として「話せば分かる」というようなことは良く言われる。しかし実際はどうか?むしろ現実の社会において「話せば分かる」という言葉は、「話す機会は与えてやるからその代わり少数派は多数派に服従しろ」という意味でしかない。「話して物事を決める場」の代表である国会も、実際は多数派が全ての物事の決定権を握り、議論などというのはその決定の免罪符にすぎなくなっている。そこまでマクロな話でなくても、「話す場」である学校の学級会が、実際はいじめられっ子を吊し上げる場になっていたり、会話する場である「飲み会」が実際はセクハラ・パワハラの温床であったりと、「話す場」が実際は人々を抑圧している事例など、例に事欠かない。「話せば分かる」という規定は、その実、人ごとがみんな同じ知識・立場・記憶を持っている場においてのみ成立する。しかし実際はそんなことはありえず、人々はみんな違った立場で、違う記憶を持っているのだ。にも関わらずその規定を成立させようとするとき、それは必ず少数派の異質性への抑圧となるのだ。
そのような抑圧に対する嫌悪の「徴」として持ち出されるもの、それが「狂気」なのだ。「私は狂気に共感する」というメッセージを人が発するとき、そこには「私はあなたたちと話しても分かり合えないのだから、『分かり合う=自分の異質性を否定する』ことを強制しないで」という意味があるのである。

なぜひぐらシュールはニコニコ動画で流行ったのか

例を出しながらより詳しく説明していこう。
ニコニコ動画で一時期、というか今も現在進行形で、『ひぐらしのなく頃に』を素材としたMAD、所謂「ひぐらシュール」というものが流行っている。
ひぐらしのなく頃に』という物語は、知っている人も大多数だろうが、一応説明しておく。昭和50年代の雛見沢村という山村を舞台に起こる連続殺人事件、それを解決していく同人ゲームであり、そしてそのゲームを原作にして、アニメやマンガが作られた。ただ解決といっても、このゲームにおいては事件の謎を解くこと=犯人を暴くことが解決なのではなく、事件=惨劇を未然に防ぐこと、それが「解決」であるとされている。
そして、その解決において重要とされるのが、「コミュニケーション」なのである。このゲームにおいて、事件がなんで起こるかと言えば、思い込みによる疑心暗鬼が事件の原因となる。そしてそれ故に、相手と適切なコミュニケーションを取り、疑心暗鬼を解除することが事件の惨劇を回避する鍵となるのだ。*1
しかしそれに対し、そのようなコミュニケーションの大事さを訴えた『ひぐらしのなく頃に』に対し、それを元に作成される、「ひぐらシュール」においては、コミュニケーションはほぼ成立しない。むしろ、成立しないことによるおかしさを追求するのが、ひぐらシュールなのである。
ひぐらシュールにおいては、原作の狂気は更に強化される。「登場人物みんなL5」(L5とは『ひぐらしのなく頃に』における狂気の表現法。*2)というような形容がなされ、登場キャラクターはみんな最初から狂気を持ち出して簡単に人を殺す。特に竜宮レナというキャラクターは「ヤンデレナ」という風に呼ばれ、ゲームの主人公である前原圭一に病的な恋心を抱き、嫉妬によって他のキャラクターを殺すというのが、ひぐらシュールの定番設定になっていたりするのだ。
これらを、ただ単に「その方が笑えるからそうなったんじゃないの」と言うことも出来るだろう。だが、僕が思うに、「ひぐらシュール」に惹かれる人は、確かにネタとしてそれを摂取している人が大部分だろうが、中には、むしろそれこそが本編であると思ったり、原作に対する不満を、ひぐらシュールにぶつけている人も、いるのではないだろうか。*3
はっきりと言わせていただくが、『ひぐらしのなく頃に』という作品は、一旦疑心暗鬼に陥ったキャラクターたちの狂気が面白いのであって、それをコミュニケーションによって克服し、「仲間を信じて敵と立ち向かう」という解答編においては、そこら辺の凡庸な少年マンガと変わらなくなってしまう。そしてその代わりに解答編においては、「私は神となる!」という狂気を持った、鷹野三四というキャラクターが俄然魅力を帯びてくるわけだが、しかしそのキャラクターにしても、最後の最後には日和ってしまう。そして最後に描かれるのは、誰もが相互理解をしあう世界なわけだが、しかしそんなのが「解決」と言われても、ひぐらしの狂気に感情移入して見ていた人間からすれば、「何じゃそりゃ」ということに他ならない。
そもそも、コミュニケーションを完璧に取っていけば事件を解決できるというが、そんなことが果たしてゲームを初回プレイした時に可能かどうか?ここで、ちょっと批評とかに詳しい人間なら「いやそれはゲーム的リアリズムというもので、初回プレイで成功しなくても、ひぐらしはループ世界という前提に立っているから、何回かプレイする内に正解にたどり着けば、みんな救われることになるんだよ」ということを言うかも知れない。しかし、果たしてそのようなリアリズムが万人の前提になっているか?それぞれが全く別個の世界と考えるならば、やっぱり圭一がL5になった世界ならば圭一は救われないし、その救われなさは例え別の世界で別の圭一が救われたとしても変わらないだろう。第一、ゲーム的リアリズムというけれど、「ゲームと現実世界はリアリズムのあり方が違う。何回でもやり直しOK」なんて認めるなら、それこそ死ぬことが不幸であり、避けなければいけないなんて価値観すら無効になるだろう。そんな世界に果たして僕らは思い入れを持つことが出来るか?!
それに対し、「ひぐらシュール」においては、コミュニケーションの可能性などは端から信じられていない。力と知恵と時の運を持った者が生き残るのであり、持たなかった者は殺される。例えば↓のMAD

においては、圭一に惨劇を回避できるルートなど、どんなに最善の選択をしても存在しないし、ガンダムが出てくれば魔砲少女も出てきたりと、もう無茶苦茶なのである。
しかしその様に無茶苦茶であるが故に、「ひぐらシュール」はとても面白い。ひぐらし本編の分量に対しひぐらシュールはせいぜい一動画辺り多くても10分かそこら、しかも殆どがバットエンドの筈なのに、そこに描かれるキャラクターたちはとても生き生きとと、魅力的に描かれるのである。彼らは狂気に包まれている。しかし、ひぐらシュールにおいてはむしろそのような狂気=理解不可能性は全力で肯定されるのだ。コミュニケーションによって全ての狂気が訓致され、みんな相互理解し合えるという『ひぐらしのなく頃に』の認識に対し、ひぐらシュールのレナは

「嘘だっ!」
と叫ぶのである。何故なら、それは決して狂気を、そして「狂気」でしか示すことが出来ない叫びを汲み取ることはできないからだ。「コミュニケーションによって全て解決する」と言ったとき、そこではかつてL5に至り死んでいった、多くの圭一・レナ・詩音etc...たちの生が忘却される。だが、問題とされるべきはむしろ彼らの生なのだ。コミュニケーションで解消できるような狂気なら、端から苦しんだりしない。ひぐらしの原作者は再三「コミュニケーションの大事さを伝えたい」などと訴えるが、彼はひぐらしの狂気に惹かれる多くの若者たちに、本気で「コミュニケーションで全てが解決できるんだよ」などと言えるのだろうか?「意思疎通」―もちろん実際の所は多数派の意志に従うこと―を強制され、自らの異質性を押さえ込まなければ生きていけないこの世界に生きる人々が、抑圧を解消し好き勝手に狂っていくキャラクターに自己を投影する、そのような『ひぐらしのなく頃に』の消費をしている人々にとって、原作者の言葉は何の意味も持たないだろう。

コミュニケーション無き「究極の愛」としてのヤンデレ

そうだからこそ、「ひぐらシュール」は決してコミュニケーションによって狂気を否定しない。例えそれがやがて死に至るとしても、登場人物たちは文字通り命を賭けて「L5」という狂気を生き抜くのだ。
そして、ひぐらシュールにおいては、最も強く、他のどんな狂気にも対抗することのできる狂気が一つだけある。それは、「愛」だ。
前項でひぐらシュールにおいて頻出するキャラクター属性として、僕は「ヤンデレナ」というものを挙げた。これは、ひぐらし原作ではあり得ない、まさにひぐらシュールの専売特許と言っても良いだろう。つまり、原作においてはレナの狂気というのは、圭一の幻覚であるか、またはレナの妄想によるものとなるわけだが、しかし「ヤンデレナ」においては、レナの狂気は、圭一に対する愛によるものと解釈される。圭一に鉈をつきつけるのも、圭一の家に押しかけるのも、全ては愛なのだ。
このようなキャラクター設定が好かれる背景には、当然「ヤンデレ萌え」というオタク界の一つの流行がある。好きすぎて精神を病み、「狂気」の領域に踏み込んでいった女の子に萌えるというこの欲望。改めて考えてみると、本当に最悪最低な欲望だ。
だが、それにしても人は何故ヤンデレに萌えるのか。まぁ、ヤンデレ萌えを語る人間も、その大部分はただ流行りに乗っているだけのにわかバンピーであることは明らかなのであるが*4、しかし一部に本気で「ヤンデレ」という属性に囚われている人間も居る。彼らは、一体何故ヤンデレに惹かれるのか。
ここで私たちは再び「狂気」という徴の原点に立ち戻る。狂気とは「理解されない異質性」の徴である。これが恋愛に適用されるとき、それは即ち「他人には絶対理解されない理由によって、自分を好きになってくれる」という意味になる。
通常の恋愛というものを僕は良く知らない。だからこれはメディアの情報に基づく憶測になるのだけれど、普通の恋愛というのは、コミュニケーションをしていき、そしてそのコミュニケーションの中で、相手に自分の相手にとっての長所をアピールし、そして双方が上手くアピール出来たときに成立するものらしい。要するに「あの人は顔が/性格が良いから」、「あの人はお金を持ってるから」、「あの人は頭が良いから」、「あの人は高学歴だから」、「あの人と趣味が合うから」などということだ。要するに、自分と合いととの間に、相互理解が可能な側面をより多く見つけること。それこそが、普通の恋愛においては重要なのだ。
そして、そうであるが故に、普通の恋愛においては「アピールすること」と同じように「隠すこと」も重要となる。相互理解が図れない側面は、相手の居る前では出してはいけないのだ。相手が理解できない趣味は控える。相手の好みに合わない顔なら化粧して隠す。お金は持って無くても見栄は張る……そう、実はこれって、まさしく「多数派に合わせて自らの異質性を抑える」という行為に、他ならない。そしてそれを怠れば、普通の恋愛は、簡単に破綻する。
では、それがヤンデレにおいてはどうなるか。ヤンデレにおいては、そもそも「相互理解」というものそのものが存在しない。何せ、相手は狂人なのだ。相手にとって自分の何が嫌がられることで、何が好かれることなのかは全く分からない。分からないのに、とにかく好きになってくる。ヤンデレに愛される人間からすれば、まさしく自分が、自分にしか通じない異質性も含めて、全肯定されるのとほぼ同じである。
もうお分かりだろう。「ヤンデレ」とは、相互理解によってなされる普通の恋愛においては決して救われない、個々人の理解不可能な異質性=狂気を、「理由もなく愛する」という別の狂気によって救う、そんなシステムなのだ。狂気を愛せるのは狂気だけなのである。ヤンデレに萌える人間というのは、自分の中に理解されない異質性という「狂気」の徴を宿す人なのである。その「狂気」の徴を癒せるのは、別の狂気によってしかあり得ないと、彼らは考えるのだ。
狂気は狂気によってしか対抗できない。この認識は、ひぐらシュールの根本をなす考え方でもあるのは言うまでもない。人を殺すような「狂気」に対抗できるのは、その殺そうとする人を殺そうとする「狂気」か、その人を死んでも助けたいとする「狂気」だけなのである。

それでも、コミュニケーションを信じるなら

しかし、そうであったとしても、そのような認識に立った上で、だからこそ、「狂気」への憧れを、僕は否定する。
成る程確かに「理解しないで愛し合って互いを全肯定しあえればみんなハッピー」というのは、その内側にある人々からはそう見えるだろう。しかし、それはあくまで「理由無き愛」であり、そうである以上、それを将来にわたって支えるものは、何もないのである。
ヤンデレという流行において、様々なヤンデレを描いた作品が現れ、多種多様なヤンデレキャラクターが生み出されてきた。しかし、実はそんな中でも、皆無に等しいタイプのヤンデレというのも存在する。
それは、「一度病的に自分のことを好きになるが、突然理由もなしにその好きになるのが止まってしまう」というタイプだ。理由無く好きになったのならば、理由無く嫌いになっても至極当然なはずだが、しかし何故かそのようなキャラクターは殆ど見かけない。それは、端的に言って、ヤンデレに萌える側のご都合主義なのだ。
「理由無き愛」は、簡単に敵意へと繋がる。「愛」に限らず、狂気というものはすべからくそうだ。理由無く肯定されることを求めるなんていうのは、理由無く敵視され排斥されても文句は言えないということに他ならない。
id:deathno:20090329

それでは何がこの状況を打開できるのか、というと、それはたぶん「寛容」なのではないかと思います。「お前のことは全く理解できないし理解したいとも思わないけど、今のところ実害は無いから居てもいいよ」という寛容さです。
争いを避けることが目的なら、互いを理解することは十分条件であって必要条件ではありません。理解できない相手とも争いを起こさないよう心がけること、もっと言うなら、理解できない相手に対する疑念は単なる疑心暗鬼に過ぎないと自覚し、その疑念を自分の行動の(特に攻撃行動の)動機にしないよう自戒すること、それだけで争いは避けることができます*2。
これを非現実的だと思いますか?しかし実際に我々は、互いにほとんど何も知らないままでも同じ電車に乗り合わせることができますし、同じ教室で授業を受けることができますし、同じ職場で仕事をすることができます。確かに痴漢だのイジメだのパワハラだのという実害を及ぼす輩は正してやる必要がありますが、互いに実害を及ぼさないかぎり、我々は相互理解など無くても共生していくことができるのです*3。
我々は常日頃からそういうことができているのに、それでも争いが絶えなかったりする。それは(単に利害の問題・パイの奪い合いというどうしても避け得ない生存競争的なものもあるのですが、それ抜きだと、)自分の寛容さの範囲を無自覚なうちに狭めてしまっているせいです。日本人どうしなら相手のことがほとんど理解できてなくても同席できるけど、相手が外国人だったりするとソワソワしたりしてしまう。日本人ならいつも周りにいるから寛容でいられるけど、そうでない外国人に対しては寛容よりも疑念が勝ってしまう。誰にでも分け隔てなく寛容であるためにはやはり難しさがあるんですね。
その難しさを克服するもののヒントは、マクロスの物語にあるように思います*4。
前述の電車・教室・職場の例と同様に、互いにほとんど何も知らないままでも、同じライブ会場に集まった者どうし、同じ歌を聴いて熱狂することができる。そこに集まった聴衆は本当に生い立ちから思想から宗教から何から何まで違うけれども、同じ歌を素晴らしいと思える、ただその一点だけで、互いに対する疑念は弱まり、互いに寛容であろうという態度を持てるのではないでしょうか。
それをバカでかい規模で描いているのがマクロスの物語なのだと思います。もともとは異なるルーツを持つ者(異星人)どうしでも、同じモノに興じ熱狂することで、互いへの疑念を払拭できるのではないかという希望。「戦争なんてくだらねぇ!俺の歌を聞けーっ!!」という熱気バサラのセリフは、そういった歌の働きというものを改めて見つめ直せば、「みんな等しく1つの歌を素晴らしいと思えるんなら、互いに疑念を抱えて争う必要なんて無いだろ」という意味が込められているように感じられます。

などと書く馬鹿*5も居るが、歌を歌っている途中は平和になっても、歌が終わった途端にまた殺し合うのが「相互理解無き寛容」の実態なのだ。そもそも、同じ社会で生きているのに全く相手に実害を与えないで生きていくことなんか出来るわけ無いだろうが。例えば重度の障害者は他人の助けを生存の絶対条件とする点で、絶対「他人に実害を与える存在」だし、あるいは無職の人への生活保護、児童福祉、高齢者福祉、このようなもの、全てその他の人間にとっては「実害」なのだ。「寛容」を唱えるのは良いだろう。だが、それを支える相互理解が無い限りは、その「寛容」はちょっとの「実害」で簡単に崩れ去る。id:deathnoが言ってる「寛容」なんてものは、つまり「ヤンデレに守ってもらって生き延びましょー」なんていう主張と全く同義なのだ。こんな奴ホラーやサスペンスなら真っ先に死んでるだろうね。
id:deathnoという輩の記事が余りに馬鹿馬鹿しくて、馬鹿をいじめるのに夢中になってついつい話が逸れたが話を元に戻す。もちろん、そのように「相互理解無き愛」が例え容易に敵視・差別・排斥に繋がるものだとしても、一方で「相互理解」が困難なものであり、それが可能であると認識すること自体が少数派への抑圧になることは否定されない。『ひぐらしのなく頃に』は、「ディスコミュニケーションによる狂気」という現実のアクチュアルな問題を持ち出しながら、しかしその解決は「相互理解でみんなハッピー」などという絵空事だったという点で、やはり批判されるべき作品なのだ。まぁ、現実を絵空事で解決して、しかもその絵空事は無自覚の内にその絵空事を信じていない人間を抑圧するという点においては、「寛容は全てを救うんだよー」などと言い垂れる『マクロス』とかいう作品と同じぐらいダメダメなのだが(id:deathnoの言によればだけど)。
「相互理解」は達成されない。しかし「相互理解なき寛容」などというのも馬鹿の言う絵空事だ。とすれば、私たちは一体どうすれば良いのか。
ここで私たちは「コミュニケーション」というものの原点に返る必要があるのではないだろうか。この世の中において、コミュニケーションというものはいつの間にか「他者と意見をすりあわせ、社会を統合する」という目的を達成するための手段となっている。そして、手段である以上、そのコミュニケーションはあくまでその社会統合という目的のために為されるようになっている。つまり、社会統合のためのコミュニケーションだから、それは社会統合の的となる異分子への弾圧として働くし、そしていつしかコミュニケーションは「多数派による専制の道具」と成り果てていく。
何故か?結局の所、それは「コミュニケーション」があくまで目的のための手段に過ぎないからです。社会統合のためのコミュニケーション……別に平和のためのコミュニケーションでも良いですが、結局何かの目的に付随する手段である以上、それはどんどん歪んでいき、原初の「コミュニケーション」とは離れていく。
では、原初の「コミュニケーション」とは一体何か?それは、本来「他人の考えを知りたい」という目的そのものだった筈なんです。他人の考えを知りたいから話す。他人の考えをとり込むことによって、より自分の思考の多様性を広げられる。そのような目的そのものとしてコミュニケーションはあった。
そうである以上、「相互理解」とか「問題解決」、「社会統合」といった、別の目的をコミュニケーションに付随させること。それ自体が、不必要であり、有害なのだ。
このような議論は、所詮平和ぼけした日本の大学生だから言える発言であって、切羽詰まった環境に行けば、そんなこと言ってられないと、批判する声もあるだろう。僕はそれを否定しない。何故なら、それは事実だからだ。僕が言っていることっていうのは、つまり、コミュニケーションなんてなーんの役にも立たないよってことなのだから。コミュニケーションによって惨劇が回避されるなんて言うのも嘘っぱち、コミュニケーションによって戦争が無くなるなんていうのも嘘っぱち*6、自分を殺したいと思っている人間とコミュニケーションしたって、自分は殺される。ニヒリズムと言われようが、僕はコミュニケーションというものが他人に対して効果を持つことを一切否定する。
しかしにも関わらず、僕らはコミュニケーションしたがる。相手が自分を殺そうとするなら、殺そうとする理由を聞きたい。どこかの国が日本という国を憎んでいるのなら、その理由を聞きたい。そんなこと、実際は何の意味もないことを知りつつ、それでも、相手の心の内を知りたい。そして、自分の心の内を伝えたい。それを否定することは出来ないのだ。
だからこそ、「狂気」への憧れは、僕自身のわがままによって否定される。「狂気」とは、詰まるところコミュニケーションの拒絶に他ならないから。僕が話を聞きたいというエゴに基づいて、「狂気」なんてものは否定するのだ。「これは『分かる人』にしか聞かせられないよね〜」という声に対して反逆する。相手が嫌がっているところに無理矢理押しかけていって、喧嘩を吹っ掛ける。
ひぐらしのなく頃に』も、もし本気でコミュニケーションを肯定する作品にしたかったら、そういう作品にしなきゃいけなかったんじゃないだろうか。惨劇を回避するためにコミュニケーションをするのではなく、惨劇を前提に、それでもコミュニケーションをする。殺しながら相手に話しかける、殺されながら相手に話しかける。そういう覚悟が必要だったんじゃないだろうかと、僕は思う。

*1:[http://mainichi.jp/enta/mantan/news/20090418mog00m200024000c.html:title]

*2:あくまでニコニコで慣用句的に使われる意味であって、ゲーム内での本当の意味とはちょっと違う。

*3:というか、僕自身その一人

*4:にわかバンピーかそうでないかを見分ける方法はただ一つ。「三次元のヤンデレを愛せますか?」と問うことだ。NOと答える輩は所詮にわかである。いや、まぁにわかであることはもちろんむしろ良いことなのだが

*5:脳内お花畑という意味

*6:ガンダム00について、あれは相互理解によって戦争が無くなるなんて言う絵空事を書いているって話があったけど、それだったらそもそもソレスタルビーイングがアロウズを攻撃した意味もないでしょうが。更に言えば、物語が終わっても、別に世界が完全に平和になったなんてことも言ってない。そもそも、旧作のハガレンエルリック兄弟をよりによって大戦直前のドイツへと飛ばした監督がそんな優しい仕打ちをするわけがないw。争いは続くし自分の身を守るためには武力も必要になる。しかしそれでも、人は生きて、対話し、考えなければならない。ニュータイプなんていう幻想は打ち壊さなければならない。っていうメッセージが込められていたわけで、でもまぁ、古いガンダムに縛られた知的能力の低いガンダムヲタ以外はみーんな分かってることだから、別に声高に言う必要もない気がするなぁこれは。じゃあなんで書いたんだろうなぁw