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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

反社会的でありたくないのなら社会的にならないと

政治と運動 ジェンダーとセクシャリティ

はてな
まぁ現場で働いている人には十分分かっているのだろうけど、ただ消費しているだけの側には、この記事を読んで「そう、放っといてほしいだけなんだ!だから反権力のポーズとか、見せかけの規制なんていらないんだ」とか思う輩が居るといけないなーと思ったので、一応書いておく。
「エロゲ―は反権力のためのメディアではない」。もしこの意見に君が賛同するとしよう。だとすれば、だからこそ君は、反権力(というか「国家からの自由」)を、ポーズとして取らなければならないのです。
どういうことか、分かるでしょうか。
要するに「反権力」の虎の衣を借りるのだ。今僕らが住んでいるこの日本という国の、民主主義という制度は、そのままでは、多数派が権力を操るっていう意味である。これは、みなさん承知しているよね?
しかし、もしその原則が真っ当に適用されてしまったら、当然陵辱エロなんて少数派な訳で、それを嫌悪する方が多数派なわけですから、陵辱エロなんていうのは簡単に弾圧されてしまうわけですよ。であるからこそ、そこで「民主主義」という理念をもとにした制度に対抗する、「自由主義」、つまり「権力であっても縛れないものがある」っていう理念を、"一つの手段として"持ち出す必要があるわけです。
もちろん、だからといってそれ一本槍ではいけません。これはあくまで一つの武器です。「民主主義vs自由主義」という、曲がりなりにも理念的な対立の場合はこれでも良いでしょう。しかし、エロゲ―規制がそんな高尚な理念ばっかで行われているのではないことは、もちろん皆さんご承知でしょう。中には「俺らがそれ気持ち悪いと思うからそれ規制しろよ―」とかいう、そんな低レベルな主張もあるわけです。しかし逆に言えば、それは低レベルだからこそ強いとも言えます。
そして、そんな奴らに対応するためには、時に「うるせー何でお前らの気持ち悪さに配慮しなければいけないんだよー」なんて逆ギレすることも有効だったりしますが、それだけではなんとかならず、そういう人の目に触れないようにするゾーニング、「いやいや、これはそんなに気持ち悪いものではないんですよ」という説明、そして時には、「じゃあこういう表現は規制します。その代わりこれ以外の表現は許してください」という表現自主規制、これらを手段として、相手の性質・規模・声の大きさ・権力などを分析した上で、臨機応変に使い分けなくてはならないわけです。
まとめます。もし、エロゲ―は別に反権力のためのメディアではなく、それ自体が目的である思う、言い換えれば、エロゲ―を「反権力」のために殉死させてくないと、そう思うならば、だからこそ、そう思う人たちは

  • 「反権力」や「国家からの自由」というポーズを取る
  • 何でエロ表現してはいけないんですか?と開き直る
  • エロはきちんと区分けして、ゾーニングする
  • 自分たちで自主規制して、「これだけ規制しているから良いでしょ?」と主張する
  • 権力と"仲良く"なって、お目こぼしをいただく

なんていうような、様々な手段を、それらが相互に矛盾することは分かっていながら*1、プラグマティックに、それらを使い分けていく必要があるわけです。

なんで「ゾーニング」一本槍ではいけないのか→戦わなくては生き残れない

と、ここで「なんでゾーニング一本槍じゃいけないの?嫌いな人が完全に見れない、そんなシステムを作れば、不快感を持つ人だってそもそも見ないで不快感を持たなくなり、みんな平和なんじゃない?」と、そういう思いを持つ人も居るかもしれません。
ですが、それはそもそも無理というのが僕の考えです。
そもそも今回の問題はどういう発端で起きてしまったか?もともとレイプレイなんてそんなゲーム、日本ではよほどの好事家でなければ存在すら知らない、そんなゲームだったわけです。ところがそれが、何故かイギリスのアマゾンで、海賊版なのかどうかは知りませんがとにかく売られ、そしてそれがイギリスで問題になることにより日本に波及する、そんな展開を見せたわけです。
これは、明らかにゾーニングの失敗なんですね。それが誰の責任か?という議論もなされていますが、僕はそんな議論に興味は持ちません。だってそんなの明らかにしたって、「ゾーニングは必ず穴が空く」という事実は変わらないんですから。仮にイギリスのアマゾンを非難して、そういうことが二度と起きないような再発防止策を取らせたとしましょうか?でも次は、今度は別の国のアマゾンが、あるいはアマゾンではなく他のショッピングサイト・オークションサイトがこのような問題を起こすかもしれない。税金逃れでさえ、それを防ぐようなシステムを全世界的に構築するのは不可能なのに、たかがエロゲーのゾーニングを全世界的に構築できるか?それは、端的に言って無理でしょう。これほど情報化が進み、ボーダーレス化が進んでる社会で、「完璧なゾーニング」をすること事態、無理なんです
そして、エロゲ―に嫌悪感を持つ人もそのボーダーレスな情報化社会に続々と入ってくるわけです。そもそも今まで何でエロゲ―がそんなに注目を浴びなかったかといえば、それはゾーニングがきちんとされてきたというよりは、端的に「パソコンとかがまだマニアしか持たないものだったから」でしょう。つまり、余程のこと、例えばいきなり秋葉原にやってきてどっかのいかがわしいビルに入り込んで地下一階に行くとか、そういうかなり直接的な行動が無い限り、エロゲ―なんてものはそういう人の目に触れることはなかった訳です。
ところが今はどうか?前にはてなブックマークでこんなエントリが話題になりましたが
「おばあちゃん」「おかあさん」でググると - 荻上式BLOG
ことほど左様に、エロに関するゾーニングというのは難しいものとなっているわけです。
もちろんだからといって、「じゃあゾーニングなんて止める!」という極論に走ることも出来ないわけです。ゾーニングは、そういう嫌悪感を持つ人の目に触れる、"可能性"を下げることは可能なんですから。ゾーニングを全くせず、アキバの路上に堂々とエロゲーの広告を置いておくのと置かないのでは、やっぱり違うでしょう。
ですが、それは絶対じゃないんです。ゾーニングによっていざこざを避けることは、ある程度は出来るけれども、しかしそれでも時にいざこざは発生します。そういう時には、やはり上記で述べたような様々な手段を使って、戦い、そしてその裏で双方の落としどころを探るような、そういう"政治"が必要になるのです。
それを面倒くさがっている限り、やがてエロゲーが弾圧され消し去られるのも、それが良いか悪いかは別としても、必然なのです。

しかし

と、こうして原則を散々述べる僕ですが、じゃあ具体的にどうすれば良いか?なんてことを問われると、これは全然分かりません。そもそも、そんな、様々な手段を上手く使って、最適手を取るなんてことが出来れば、今頃僕はプロ棋手か、ベンチャー企業の社長か、東大生にでもなってるでしょう(僕の頭の中にある同年代の天才のイメージ)。
ここまで原則を言っていて、しかし思うは、やっぱりある手のむなしさなんですよねぇ……そうやって万人が万人に対して闘争を仕掛ける、そんな世界が果たしていつまで続くのだろうかと。そんな虚しさが、万人の心に去来するようになれば、あるいは事態は何か変わるのかもしれません。
しかし、それまではとりあえず、馬鹿は馬鹿なりに、それでも必死で頭を使って、数々の手段を戦略的に駆使して、自分と、自分が好きなものを、生き延びさせるために戦うしかないのかなぁと、そう感じます。

*1:だってもし本当に表現は国家からの自由だなんて言うなら、そもそも自主的な規制すら必要ないし、国家権力と"仲良く"(=癒着)する必要もない、むしろそれは害悪な筈なんだから