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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

レイプゲーム規制問題について「まじめに」考えるためのまとめ3

表現規制

レイプゲーム規制問題について「まじめに」考えるためのまとめ1 - 斜め上から目線
レイプゲーム規制問題について「まじめに」考えるためのまとめ2 - 斜め上から目線

3.上記二つのようなことは、どのような手順で決められるべきか。

さて、ここまでレイプエロゲー問題について様々な議論があることをまとめてきたわけですが、しかしまとめればまとめる程確かになることが一つだけ言えます。それは確かなことはあまりないということです。レイプエロゲーがどの程度まで差別的であるのかということにも、差別に基づいているかもしれないけど、実際に女性に対する差別を維持するということは言えないだろうという見方から、レイプエロゲーは実際に犯罪を誘発するという見方まで様々ありえますし、そして更に、では社会はそれにどのように対応すべきかという方法論も、様々な方法論があるわけです。
ですから、当然人によって、今回の問題をどうするべきかという見解も異なってくるわけです。たとえばある人はレイプエロゲーは差別に基づいているけど、差別を維持はしないとし、故に社会は何も対応すべきではないとする見解を持っているかもしれません。しかし一方で別の人は、レイプエロゲーは女性に対する差別を増強する、そしてそれを止められるのは法規制しかない(自主規制やゾーニングでは差別の増強は止められない)と考え、社会はこのようなエロゲーを法に基づいて発売禁止とするべきだという見解を持っているかもしれないのです。また、その中間に位置し、レイプエロゲーは差別を増強はしないが維持はすると考えたり、あるいはゾーニングや自主規制でも適切に行えば十分差別は抑制できると考えるかもしれません。人々は、無数の見解を持ちえるのです。
しかし一方で、そんな中でも私たち社会は、「何もしない」という選択肢も含めて、このようなレイプエロゲーにどう対応するかという、選択を迫られています。しかし人々はいまだ無数の見解をこの問題に対して持っている。では、いったいどうすればいいのか。
この問題については、下記のブログの記事が、とてもよく考えられていると思ったので引用します。
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でもまあそろそろ、自分たちのことは自分たちで決められないかなあ、と思う。それぐらい「社会」というものを信頼してもいいのではないか、と。たしかに間違うことはある。でもそれは、「社会」にとって永久になくならない本質的な要素なのだろうか、それともゆっくりとした進化の途上で一時的にあらわれる「誤作動」なのだろうか。
(略)
法律や規制を具体的にどうするとかいうことは、まあこの際おいといて、「『この種の表現が不愉快である』と訴える側」としては、相手に表現の自由を認めてやる必要もないし、「レイプや暴力がなぜ悪いのか」という問いに対する、非歴史的で状況や立場から独立した、誰もが納得する答えをこちら側で用意する必要もない。だからといって「悪」というもの自体がこの世界にまったく存在しないということにはならんのだ。それは長く複雑な社会的プロセスの過程において(そしてその過程においてのみ)決定される。それが「社会的につくられる」ということである。構築主義はよく叩かれるけども、「社会的につくられる」というのはこういうことであると、すくなくとも私は理解しています。
……ただ同時に、不愉快であるとするこちら側の意見が、「社会」のなかでどれくらい通るかは、わからない。まったく通らないかもしれない。でも、どれくらいこちら側の意見が通るか、通ったら社会がどうなるか、そういうところまでどうしていちいちこちらが考えてやらなきゃいけないの、と思う。こちらとしては、「こういう不愉快なものは禁止すべき」と言えばそれでよい。
これは、何が何でも無根拠でもこちらの意見を通す、ということではなくて、むしろ逆だ。このへん俺なんか実は逆にめっちゃ冷めてるねんな。簡単にいうと、こっちはこっちの意見をただ言えばよい、あるいは、こちらが正しいと思う社会運動を展開すればよい、ということで、けっきょくどっちが正しかったのかは、「社会」が決めるだろう、ということでしかない。ていうか、社会運動なんか、しょせんその程度のことしかできない。神様じゃないんだから。
(略)
だから、「最適解」は社会が見つけてくれるだろうから、とにかく不愉快なものはもっと大声で不愉快と言えばいいのではないか、そのときに、相手の表現の自由まで考えてあげなくてもいいのではないか、ということだ。どうせこちらが否定してもそういう表現はなくならないだろうし、「地下に潜ってやっとけ!」という主張は、やはりちゃんと地下に潜らせてあげるとこまでしないと中途半端だからな(笑)。

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で、「社会的に決められる」っていうのが必ずしもファシズムや無秩序におちいるわけではないことがある程度信頼できるなら、社会的に決めていくことにそんなに弱腰になったり臆病になったりする必要はないんちゃうかっていう話やんか。だいたいちょっと発言の自由を制限しようと言うただけで「世の中の人がみんなそんなこと言い出したらどうする!」とか言われるけど、みんなそんなこと言わないって!

つまり、表現の自由を規制するかしないかというのは、「社会」が決めることであり、そしてその「社会」に対し、個々人は自分の意見を言い、自分が正しいと思う社会運動をすべきであると、そういう主張です。これは、もっともらしいですね。
ですが一方で、なんで社会が正しいと言えるのかと、そういう疑問も沸いてくるわけです。そして、その答えになるのが、実は「表現の自由」を支える根幹法理である、「思想の自由市場」なんです。
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1 表現の自由に「優越的な価値」があるのは、話し、書き、描き、歌う、という表現行為〜相手に伝えることまで含む〜が「個人の自己実現」に不可欠であること、それが民主主義的な政治過程の実現と維持に欠かすことができないこと、による。
2 そのイデオロギー上の根拠になっているのは「思想の自由市場」という考え方。要するに、合理的な判断は、少数派の、あるいは気にくわない、または醜悪にみえる議論も排除することなく、自由に議論をすることによって達することができるんですよ、というやつ。
3 だから、表現の自由の規制は、慎重にやんなさいよ、やるなら重大かつ深刻かつ切実な利益を守るために、必要最小限の手段でやりなさないよ、とされている(学説のうえでは。)。

私たちは一応曲がりなりにも自由主義社会に生きています。自由主義社会においては、「表現の自由」が保障され、そしてそれ故に、「思想の自由市場」が成立します。
そして、合理的な判断は思想の自由市場においてしか成立し得ない。逆に言えば、思想の自由市場において達することのできた結論は、合理的な判断であると、そう言うことができるわけです。
だから、自由主義社会においては、社会の言うことは、それが「思想の自由市場」で培われた議論である限り、正しいのです。
しかし一方で、「思想の自由市場」で考えられない限りは、如何にそれが自分にとって頭いい議論であっても、アプリオリに正しいということはできないのですね。しかしながら世の中には、勝手にアプリオリに自分の意見こそが最強と考えて、対話をしようとしない人もいます。id:pakinaさんはそんな人のことを「気弱」と表現しています。
にがにが日記

んで、これまで気づかなかったんですが、「エロゲきもいけど、表現の自由もあるしー、うーん」とかですね、「ウヨもサヨもキモーイ。コワーイ。どっちもどっち」っていうてる自称「りべ」ちゃんも、たいがい気が弱いなあって思った。自分だけきれいな立場にいながら正しいとか思ってるんちゃうん、何にも発言してないくせに「さよ」ちゃん「うよ」ちゃんをフンッって鼻で笑うなよ〜〜って。どっか「感情的になるのはかっこわるい」みたいのがあるように思う。
 この際、ウヨでもサヨでもリベでも、ちゃんと議論をしてる人はいいんです(あーでも、懇切丁寧に時間かけて説得してる人はさよくの人が多いと思うな(こういう人好き)。しかしこの方法だと、果てない闘いを続けて、中には燃え尽きちゃう人もいる気がするんだな…)。でも、コメント欄とかブクマで書き逃げだけする人って、ウヨでもサヨでもリベでも「気がよわいなー」って思います。私も気弱ですけど。だからこそわかるねん気弱な人の気持ちが。きしやいしけりさんにはわかるまい(笑)。

しかしこのような気弱な人ばかりだと、「思想の自由市場」は機能しません。なぜなら、色々な人が議論に参加し、そして議論して双方の言い分が分かった上で、それでも何とか同じ結論にたどり着こうとする、そのような手法の上にのみ、「思想の自由市場」の正当性は成り立つのです。
ですから、「表現の自由」を守ろうとする人、つまり「思想の自由市場」のみが正しい結論を出せるのだと信じる人は、それを信じるからこそ、「思想の自由市場」で、自分と異なる、時には表現の自由を重要視しないかもしれない相手と議論し、そこでなんとか相手とともに一つの答えを出そうとしなければならないのです。逆に言えば、それをせずに「あいつらは馬鹿だから知らしむべからずで、あいつらに気づかれないようにして自分たちだけで物事を決めよう」とするならば、その時点で表現の自由なんかすでに大事じゃなくなるのです。
もし本当に「表現の自由」が重要であると考え、自分の議論はそこに根ざしていると思うのなら、であるからこそ、その議論を万人に広く知らしめ、そして万人の理解を得ようと努力しなければなりません。「知らしむべからず」で進める哲人政治は、根本的に表現の自由とはマッチしないのです。

まとめ

  • もし表現の自由を大事にしようとするのなら、「思想の自由市場」で、それを万人に問うべき
  • そしてそこで生まれる結論を尊重するべき

僕の記事が、その「思想の自由市場」に参加して自分の意見を伝えようとするときに、少しでも助けになれば幸いです。