あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

ぐだぐだ日記

まぁ、ラジオを全部聴いたり仲正氏の新書読んだりすればわかることなのかもしれないけど。とりあえず↓の記事読んでぱっと浮かんだ「?」をメモ。
2009年05月24日放送「文化系トークラジオ Life『現代の現代思想』」抜き書きノート - そのきらめきはスターライト

  • 仲正昌樹が「アーレントを読む」みたいな新書*1を出して、その序文のところでもいっているけれど、政治というのは、元々私的利害を超えたところにある。だから economy と police、 oikos と polis が分かれる。
    • で、そのときに日本で「政治」といわれてきたものは私的利害のぶつかり合いでしかない。こんなのは政治の名にも値しないし、思想の名にも値しない。政治というのは本当はそうじゃない、自分の立場をカッコ入れするのが政治や思想の力。
      • ところがこの国にはそれがない。宮台・仲正より絶望が深くて、どうせ人間はそこにはいけないと思っている、人間は私的利害のことしかいわない。

だとするならば、かつてアーレントの夢見た polis の空間は google しかない。

  • 20世紀後半、普遍性を装った言葉は全て発言者の私的利害を考慮に入れなければ理解できないのだ、というタイプの人文科学的言説が大量に出てきた。全ての「普遍的な言説」は「普遍性を装っただけの私的利害の言説」に過ぎないというのが結論。社会科学的な言説といわれているものは、観測者の立場に極めて依存しているし、言葉の定義にも依存している。
    • ならば普遍性をどうやって確保するか、と考えたとき、無意識のレベル、情報のレベルっていうと google しかないじゃん。

について。
「無意識」ってこれはどういう意味合いのことなのかなぁ(精神分析と関係あるのかしら)とか、googleのアルゴリズムにそこまで中立性を見出せるのは何でなのかなぁ(まぁ感覚なんだけど、あれってすごい西洋的発想の元に成り立っているような気がするんだけどなぁ。少なくとも「野生の思考」*1にはああいうアルゴリズムはないよね)とか、色々思うことはあるけど、一番わからないのはやっぱこれだ。
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  • id:lakehill politics 「日本で「政治」といわれてきたものは私的利害のぶつかり合いでしかない。こんなのは政治の名にも値しないし」>私的利害を超えた政治って何だよ?こっちの方が絵空事で謎だ 2009/10/31

だよなぁ。
まぁ単純に考えればそれこそ「神への奉仕」とか「愛国心」とかそういうことを考えてしまうけど、でもそういうことさえも「そのようなことを信じる人々の私的利害である(普遍性はない)」としてきたのが、それこそ普遍性を装った言葉は全て発言者の私的利害を考慮に入れなければ理解できないのだとしてきた人文科学であってさ、だからそういうことではないのだろうけど。
これは、僕が最近の議論についていけないから、未だに古い観念に縛られているのかもしれない(というか多分そうなのだろう)けど、日本で「日本には『政治』が根付いていない」という時、そこでその理由として挙げられてきたのっていうのは、大抵「日本には『個』が根付いてないからだ」なんだよね。つまり、個人が自立して物を考えて、その考えに基づいて行動するのではなく、世間とか、あるいは自分が所属する団体とか、あるいはそれこそ「空気」に引きずられて物を判断してしまうかだー、みたいなことが言われてきたと思うのよ。つまり、「私的利害」を考えて行動するから政治がないのではなくて、むしろ「私的利害」を考えずに集団に引きずられて行動するが故に政治が芽生えないというのが、まぁ知識人の啓蒙のスタンスであったわけだ。そして、ここでいう「政治」のイメージっていうのは、まぁ単純に、自分が望むことをきちんと主張して、そしてそれに対する反論をきちんと聞き、議論を尽くして決めるっていう単純で牧歌的な感じ。*2
だから、上記の発言っていうのは多分そういうことを念頭に置きながら、しかしそういう昔ながらの知識人を批判するー、という感じの話なのだろうな。でも、じゃあそうだとしたら昔ながらの知識人を批判しなきゃいけないはずで、そこの所が↑の記事では抜け落ちているか、僕が書いているのを見落としているから分からないのだろうな。
うん、セルフ納得した。

というのは実はどーでもよくて

そんな僕は、これからの社会をデザインしようという東氏とか鈴木氏のこーしょーな議論に対し突っ込めたり茶々入れられるなんて尊大なことは考えていないのだ。そんなことは前途ある未来の若者にでも任せておけばえーねん。
僕が気になるのはもっと卑近なこと。つまり、東氏とか鈴木氏とかが実際どーいうことを考えているのかっていうことは、どーでも良い。それを聞いてうなづいているであろう、この「Life」とかいうラジオを聞いたりしている人が、どんな感じでこういう発言を聞いているのかなーっつーことなのだ。
と、ここで念頭にあるのはやっぱりid:schizo-08_08氏。いや、まぁ自分でも粘着しすぎだとは思うんだけどねー。あ、ちなみにid:schizo-08_08氏はもし見ていたら、別に(僕を含めた)ネット上の人に返信とかしなくても良いから、勉強するなり、あるいはもう勉強しなくてもぜんぜん大丈夫っつーなら、そういう宇野とか東みたいな今流行の本じゃなくて、少なくとも1990年より前の、文庫とかになっている本を沢山読むことを薦めるよー。それをしなくて今頃苦労している僕からの忠告だ。
で、そう言いながらやっぱり彼の発言を引用してしまう。だって何だかんだ言って面白いのだ。もちろんいい意味で。
はてなダイアリー

ちなみに、政治的に社会を変革することにはあまり興味がありません。私の世代がいくら主張しても、民主主義の数の論理で、老人世代が優遇されることは目に見えています。その無力感と諦観から「欲望の抑止」を思いつきました。同世代の人間と会う機会がほとんどないので、これが、私の世代に共通している心理かどうかはわかりません。

ここでも「政治」っていう言葉が出てくることに、乙女座の私にはセンチメンタリズムな運命を感じずにはいられないなぁ。別に乙女座じゃないけど。
まぁ、ここで政治っていう言葉は、まさしく東氏が政治の名にも値しないといった「私的利害のぶつかり合い」なんだろうけど。表にすればこんな感じ。

  東氏にとっての id:schizo-08_08氏にとっての
私的利害のぶつかり合い こんなの政治じゃない! こういうのが政治なんだ(こんなのに付き合いたくない・・・・・・)
私的利害じゃない「何か」 これこそが政治だ!

で、ここでid:schizo-08_08氏みたいな考えを、Lifeとかを聞くような人が持っているという仮定をしてみる*3。そうするとなんとなーく思考の流れが分かる気がしてこない?
「自分は今まで『私的利害のぶつかりあい』みたいなものが政治だと思って、政治なんて嫌だと思ってきたけど、ほんとは『私的利害なんか超越したもの』が政治だったんだ!間違っていたのは俺じゃない、世界の方だったんだ!」という風に生き生き*4するLife聴取者。なんか自分で想像して自分で勝手に萌えてしまっているんだけど、どーでしょ?
え?ちょっと妄想しすぎ?そーですか。

まー政治なんて言葉はそりゃ良い意味持たないからねー日本では

例えば『踊る大捜査線』とかでも、「私は政治をしに来たんだ」なんて室井管理官が言うことがあってさ、それはやっぱりネガティブな言葉だったしさー。
ただ、僕はむしろ言ってみたいけどねー、「私は政治をしに来たんだ」なんて台詞。うん、一度でいいから言ってみたい。かっこいいじゃん。実力ではなく、言葉で状況を変えてしまうなんて言うのは、文系ヘタレ少年にとってはそれこそ最も憧れるシチュエーションに思えるわけだけどなぁ。
でもまぁ、普通はあんまり意味をもたないんだろーね。何でだろーねー、やっぱ「不言実行」みたいなのがカッコいい姿っていうのが日本人の価値観だからなのかなー。
でも、「不言実行」でチームを組んで何かプロジェクトをやっていると、必ずどっかでメンバー間に齟齬が生まれたりすると思うんだけどなー。特にそもそもそのプロジェクトの目的について意見が食い違ったりしてるのに、それを「不言実行」で見過ごすともうとてつもなく悲惨なことになっちゃうもんだと思うのだがねー。
あそっか、だから「セカイが閉じる」のか。「政治」をしなくても目的とか理想とかが全く同じなコミュニティメンバーで閉じておけば、「政治」をする必要はないからねー。うん、セルフ納得した。
ただそれってなんだかさびしいことですなぁ。

*1:レヴィ=ストロースが死んだのでなんとなく言葉使ってみた。多分使い方間違ってる

*2:ただ、理想っていうのはどこまでも単純で牧歌的でなければだめでしょ。だって理想っていうのは多くの人に「それが良い。そういう風になりたい」と共有されるものなんだから

*3:無理な仮定かしら?

*4:もちろん皮肉だー