あままこのブログ

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中二病考

キーワード:中二病、病気、正常/異常、「未来の自分」、中二病イズビューティフル、社会の流動化、コミュニケーション能力、旧制高校、前期近代/後期近代、再帰的自己、本質主義的定義/構築主義的定義、存在論的安心、生きづらさ
勧められたので初めてエロゲ雑誌というものを買って、記事を読んでみた。
MEGA STORE (メガストア) 2010年 01月号 [雑誌]
といっても雑誌の大部分は(別に買う気もあんまり無い)エロゲ紹介であった。エロゲ雑誌だから当たり前だ。しかし普通にゲームとしてシステムやシナリオが面白い作品ならともかく、どー考えてもただエロだけが目的のような、いわゆる「抜きゲー」っていうのも、実は結構高いんだね……ここらへんのソフトを沢山買う人の心理は良く分からない。でもまぁ、そういう人の方がよっぽど「オタク」っぽくはあるよね。
さて、本題に戻る。なんかこの記事は「ドキュメントオタクの生き様」ってことで、オタク周辺の色んな事柄を特集しているそうな。で、この号での記事のテーマが「中二病」ってことだそうで、様々な中二病エピソードや、今も中二病を抱えているクリエイターへのインタビュー、それとライター中二病エピソード紹介とか、まぁそんな感じの内容だ。
中二病を語る語り口っていうのは、ややもすれば「中二病って痛いよねーwww」という様に中二病っぽいものを探し出しては馬鹿にするっていう感じになるか、それかあるいは「中二病を極めた奴が面白い物語を作れるんだよ」という様な感じになると言う、全否定か全肯定かという二極分化に陥りがちである。ただこの記事に関してはそこら辺のバランスは良くて、馬鹿にするだけでなく、かといっておかしいものはきちんと「おかしい」と指摘できている記事だなぁと思った。

中二病認定は常に「未来の自分」からなされる

記事の概要紹介はここまで。もっと詳しく知りたければ実際に買って読めば良いんじゃないでしょうか。
で、ここからは上記の記事なんかも参照しながら、「中二病」という概念について、改めて考えて見ようと思う。
っていうのも、普段僕たちはノリで「これって中二病じゃねwwww」とか言いながら嗤い合って暮らしているわけだけど、良く考えて見るとこの言葉って謎だ。そもそも何で「病」なんだろう。そして、それが「病」だとして、それが嗤えるネタになるのは、一体なぜなのか。
そもそも「病」、つまり病気とは一体何だろうか。ということを語り出すとそれこそ1つの論文のテーマになるぐらい長くなるが、まぁ単純化して定義するならば

  1. 心身の健康が異常であり
  2. その異常によって社会生活上困難が生じている状態

と言えよう。これ以上詳しく考えると「病者役割」とかいう話になって、僕の記事が実はボロを持つないようであることが分かるので止めておく(笑)。しかしそう定義してみるだけでもおかしな点があることに人々は気付くだろう。中二病が「異常」であることはまぁ良い。いや、もちろんこれも本当は重要な問題で、例えばリアル中二である人は中二病のようであっても中二病ではない、という説もある。何故なら十四歳の思春期で中二病のような行為をすることは正常であり、大人になってもそれをすることが異常であると考えるからだ。しかし一方で、例えリアル中二であっても中二病のような行動は異常であると考える向きもある。何が正常で何が正常であるかは一概には決められず、社会の様々なアクターによって構築される政治的なものであると言うことは、もはや常識と言っても良いことだと思うが、この件においてもそれは同じだ。しかし一方でそれが構築されたものであったとしても、「正常/異常」という境目がそこに存在することは明らかなわけで、そして中二病はやはり大多数にとっては「異常」の側とされているからこそ、注目されるのだ。
よって問題は、何故それが注目されるのかという点にあるのであり、そこで問題となるのが「社会生活上の困難」ということなのだ。中二病によって生じる困難とは一体なんなのか。
この問いは簡単なようでいて意外と難しい。確かに中二病的な奇行というのはそれだけでその人の評価を下げ、周囲の人とのコミュニケーションをしにくくする。だが、それがその人にとって「避けるべきこと」ならば、そもそもその様な奇行はなされないだろう。「こんなことやったら周りの人引くよなー、それは嫌だよなー」と考える人は、そもそもそんな中二病的な奇行はしない。中二病的な奇行をする人は、それがその人の評価を下げ、そしてその評価はとても重要なものであると思ってないからこそ、その様な中二病的奇行をするのである。
ではそれは一体どのような視点から「困難」と認識されるのか。それは「未来の自分」からである。と考えるのがやはり妥当だろう。例えば「前世妄想」を例にして考えてみる。「私の前世は戦士だったの!そしていつか地球滅亡の危機の時には前世で出逢った仲間と一緒に戦うの!」という妄想を信じ、そしてそれに則って前世の仲間捜しやら戦うための武器やらをそろえている段階では、それは当人には中二病と認識されない。しかし、その妄想がなくなり、別に自分に地球を救う運命なんて無いと気付いたとき、その未来の自分が、そうやって前世の仲間捜しとかいう痛い行為をやっていることによって失ってきた時間・労力・関係を思い起こし、「ああ自分は中二病だったのか」と思い至るのである。
つまり中二病という病気は、その病気を罹患する本人にとっては、常に事後的に「未来の自分」から認められるものなのだ。そしてその点にこそ、「中二病」という概念の肝なのである。

中二病イズビューティフル」の嘘

中二病という概念は伊集院光氏の1999年のラジオ番組で提唱されたのが初出で、そこから徐々に人々の間に知れ渡っていった概念らしい。いずれにしろ、そんなに古い概念ではないわけだが、しかしじゃあ今中二病と称されるようなものが最近出てきたものかというともちろんそうではない。古くは旧制高校の高校生の所行にまで遡ることが出来るが、「大人」と「子供」の間のマージナルな領域、つまり青年期(思春期)には得てして過度の妄想やら反社会的な傾向を持つものである。少年犯罪データベース 戦前の少年犯罪を見れば、過去の「少年」にも、今から思えば中二病と言えるような、そういう少年が一杯居たことが分かる。*1
しかし一方で、当時はそれは、まぁ恥ずかしいことではあるけれど、一方で青年の内には当然通過する段階として、認められていたことがあったのは確かである。少なくとも過去の旧制高校生は、彼らが大人になり学生当時の行為を思い出したとき、「あの頃自分は若かったなぁ」と思うことはあっても、その頃の記憶を思い出して恥に感じたり、死にたくなったりすることはない。むしろ殆どの人*2はその頃の記憶を誇りに思うのであって、だからこそ文学の中で語り継がれるのである。
翻って、では現在「中二病」の経験がどうやって当事者にイメージされているかと言えば、大多数の一般人は恥ずかしい、思い出したり死んでしまいそうな黒歴史とイメージする。一方、そのような中二病的なものを物種とするクリエイターや、その様なクリエイターを尊敬したり死亡する人々は、「むしろそれこそが創作の源なんだ。中二病イズビューティフル」と賞賛するわけである。
しかしこの「中二病イズビューティフル」というもの、僕はちょっと違和感を覚える。というのも、確かに世の中の創作物の多くは中二病的アイテムに溢れているのであって、その点で創作に中二病はむしろプラスになるというのは確かかもしれない。しかし、中二病的アイテムだけで作られたものが一体どうなるかといえば、それこそメガストアの記事のid:y_arimの自作創作設定資料みたいに、ただただ痛々しいものになるのであって、そこに創作物の面白さは宿らないだろう。記事で紹介されている中二病クリエイターも、後者のルーツ氏の作品なんかは、まさにそれがニコニコ動画の実況動画という、コメントと実況によってそれが「中二病的痛さを持つもの」と客観視され、中二病的痛さをネタとして笑う第三者的視点からだから面白いのであって、実際の作品自体が面白いわけではない。実際世の中に出回っている創作物というのも、決して中二病的素材だけで出来ているのではなく、それを程度の差はあれ、ある程度引いた客観的視点から眺められるようレイアウトされているから面白いのである。逆に言うと、客観視が無く中二病的な素材がただある当然のようにあるだけの物語はつまらない。冴えない男がいきなり美少女に詰め寄られたら「これなんてエロゲ?」という突っ込みがなければ行けないし、渋谷に巨大な剣を持っている様な女が現れたら「なんのアニメの真似だよ……」という突っ込みがなければならない。そういう所まできちんと考えてあるからカオスヘッドは面白いんだよぉ。シュタインズゲートもきっとそんな感じで面白いんだろうなぁやりたいなぁ。シュタインズゲートやった人は是非カオスヘッドもやって欲しいなぁ……と、これは余談。ついでに宣伝。

CHAOS; HEAD NOAH (カオスヘッドノア) (通常版) 【CEROレーティング「Z」】

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Steins;Gate (シュタインズ・ゲート) (通常版)

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とにかく、「中二病イズビューティフル」と主張する人々の主張の内容も、実際考えて見るとただ「中二病であれ」と言っているのではなく、むしろ単純に中二病を否定している人以上に、中二病を客観視して、きちんとそれが「痛い」ことを認識しろと主張しているのだ。この様に現代においては中二病的経験は、いったんは否定しなければならないものと捉えられている。では、一体昔と今で何が変わったのか。

社会の流動化こそが、「中二病」という病気を生み出した

答えは簡単、「人生の安定度」である。旧制高校生は、例えその時代に馬鹿をやっても、むしろその馬鹿をやるからこそ一人前の成人と認められ、そして立派な安定した地位を持つ大人へとなっていくのである。よって未来の自分から見てもその過去の馬鹿騒ぎは決して否定されない。何故なら(古来の自分にとって)今の自分は輝かしいものであり、そしてそれは過去の自分の行為によるものであるという認識がなされているからである。
時は流れて現代、人々の地位はどんどん流動化していき、何をしたって「絶対の安定」というものは得られない。そこで重要になってくるのが、個々人の能力であり、それが育てられる少年期〜青年期ということになる。さて、では少年〜青年期に中二病に罹ると何が失われるか。勉強する時間?体を鍛える時間?そのどちらもあるかもしれないが、一番重要なのは、やっぱりコミュニケーション能力を鍛えることが出来なくなることだろう。中二病に罹患することによって奪われるもの、それは何より人間関係なのである。そして人間関係から疎外され、コミュニケーション能力を得る機会を失い大人になったとき、流動的な社会の中でもやはりコミュニケーション能力が重要となってくる。しかしそれが少年〜青年期に鍛えられなかったことに気付いたとき、そこで過去の中二病が遡及的に認識され、「あのとき俺が中二病だったから今の自分は人付き合いが下手なんだ!」という過去から現在に続く困難の認識がなされるのである。
しかしそもそも何で中二病になると他者とのコミュニケーションが困難になるのだろうか。それも、社会の流動化が関係している。子供と大人の中間であるマージナルな青年期というのは、保護され、一方で制限される存在であった子供が、その制限を取り払われ、自己決定の主体となっていく期間である。いきなり保護と制限両方を外してしまったら、アノミーに陥ってしまうので、一定の保護はするけど制限を取り払い、その中で自分の方向性を決定する、このようなマージナルな期間が自由な個人を前提とする近代社会には必要なのだ。そして、そこで試行錯誤される過程では当然過度に自分の能力を見積もったりする、いわゆる「自意識の肥大化」も、当然生じうるのだ。
しかし旧制高校生のような前期近代においては、これはそれほど大きな障害ではなかった。確かに子供はマージナルな青年期を経て自分のことを自分で決める決定主体としての大人になるのだが、その大人は、建前上は「自由」ではあっても実際は、階層社会の中でより上の位置に行くという、一つの方向を定められた大人像であった。そして、同じような方向性を目指すから当然、その試行錯誤の過程で自意識が肥大化する過程も、全員が同じようなものとなる。そしてみんなが同じように自意識を肥大化させているのならば、別に自分がそれと同じように自意識を肥大化させてもコミュニケーションは取れる。むしろ、みんなが誇大妄想を抱いているのに一人だけ冷静な方がコミュニケーションからは疎外されるだろう。
しかしこれが後期近代に入ると事情は一変する。みんなが一つの方向性を目指すべきとされる社会は終わり、それぞれがそれぞれ自分で決めた道を行くということになる。そうなると当然様々な方向性を目指す人達が現れ、同世代で同じように生活を共にする人達との間でも、方向性が異なってくるケースが出てくる。そのとき、その生活集団で主流である方向性とは違う方向性で自意識を肥大化されれば、それは集団の主流派にとっては「気持ち悪い」存在となり、疎外されるのだ。これこそがまさに「中二病」によるコミュニケーションの困難なのである。例えばアニメ好きが多く集まる集まりで好きなアニメのことを熱弁しても、それは中二病的なふるまいとはならず、コミュニケーションの困難も生じないだろう。だが、アニメなんか全く知らないような人達が多い集まりでアニメについて熱弁をふるえば、それは中二病的ふるまいとなり、「あの人ちょっとキモイ」と、コミュニケーションの困難も生まれるのである。

中二病概念に如何に対処するか―使用しながら、問題点は改善していく

以上の様な理由から、後期近代社会においては「中二病」という問題が問題視されるのだ。時代こそが、まさに「中二病」という病気を生んだのである。
では、この問題に人々はどう対処すべきなのか?「中二病」が困難を生み出さない社会を作る?だが、もはや前期近代のようにだれもが画一的に同じ方向性を持ち、まっすぐな人生を歩んでいくというような安定した社会はもはや不可能だ。どうやったって社会の集団はより多様化し、そしてその中で人はその人が所属する集団に合わせて生きていかなければならない。「あらゆる集団はどんなキモイ人で受けれるべきだ!」とか「コミュニケーション能力なんかどーでも良い社会を!」という理想は、確かに絶えず現代の社会に突きつけていかなければならないものではあるだろう。しかしそうはいっても現実がそういう理想が受け入れられる社会でない以上、人は一方でその現実に合わせ、より集団にとってキモくないように生き、そしてその中で効率的にコミュニケーションを鍛えていかなければならない。とするならば、「中二病」という概念によって、絶えず自己を再点検し、そのような中二病的要素が自分にないか検査することは必要だろう。なぜなら後期近代の自己像とは、自分のことを自分で点検する、再帰的自己なのであって、そして「中二病」概念による検査は、まさにその再帰的自己による点検にぴったりの概念なのである。
しかし一方で、現在の「中二病」概念に全くの欠陥がないかといえば、それはそうではない。現代の中二病概念には

  1. それが構築主義的定義ではなく本質主義的定義である
  2. 自分そのものの全否定となる

という二つの問題がある。
一番目の問題が、「中二病」という概念が、自己と集団の不協和という構築主義的定義ではなく、「変な自分」という本質主義的定義になっていることを意味している。つまり、周囲の集団と自分がずれているという問題こそが「中二病」だと考えるのではなく、自分が殊更以上だから「中二病」なのだという風に、今の概念定義はなっている。そしてそれ故に、中二病を抑えるということは、それ即ち自分の行動を抑えるということになってしまっているのだ。
だが実際はそうではない。先ほども述べたが、アニメ好きが殆ど居ないところで自分の好きなアニメについて熱弁をふるうのは中二病的ふるまいである。だが、アニメ好きが集まっている場所ならばそれはごく当たり前の行為であり、別に「殊更異常な行為」でもなんでもないのだ。中二病というものが自己と周囲の不協和によって成り立っているものである以上、自己を変えることももちろん中二病の抑えにはなるが、それと同時に周囲を変えることももちろん中二病の解消となるのだ。周囲を変えるとは、具体的に言うなら「場を移動する」ということである。それぞれの行為にはそれぞれにふさわしい場がある。前世の話は前世占いの場ならば正常な話となる。コスプレはコミケですればむしろクールとなる。大切なのは、自分を抑えることよりも、自分のふさわしい場を見つけ、あるいは作り上げ、そこに移動するということなのだ。そしてこれこそが、最も簡便なセルフプロデュースなのである。
そして二番目の問題は、過去の中二病が、その人の未来全てに対し過度の負担を与えているということに原因がある。。過去の自分について反省すること。それ自体は良い。だが、それも度が過ぎると。「過去の自分は駄目だった→過去の自分の結果である現在の自分、そしてその結果である未来の自分も駄目なんだ」という風に自己の全否定に陥ってしまい、結局駄目な人生から全撤退すると言うことになってしまう。なぜそういうことになってしまうかといえば、「過去の自分は中二病だった」という反省的診断をする際に、過去の自分全てに対し「中二病の駄目な自分」であるという風に考えてしまうからだ。つまり、その過去の時点で表層に表われていた自己の人格こそが自分の全てであるという思い込みである。これを解除するためには、確かにその時々の表層の自分の人格自体は、常に絶えず自己点検し、時には否定的評価を下して反省を下す必要があるけど、そのような表層のコアにある自分の存在自体は、絶対に肯定されるべきものであり、表層の自己がいくらぶれても安定して存在するという、「存在論的安心」を確保する必要があるだろう。

終わりに

この記事を書いた背景には、最近ネット上の世論で揺り戻しが起き、ただ中二病を嗤う様式から、「中二病こそ素晴らしい。中二病を一々指摘するやつは駄目だ」という風な様式へと移行しているように感じたと言うことがある。だが、議論でも述べたとおり、「中二病」について否定的、あるいは肯定的などちらの様式も、一面の真実は含んでいるものの、しかしそれ故に有用ではなく、むしろ過度の不安や恐怖、あるいはその反対に過度の安心を生むことになる。必要なのは、あくまで冷静に、自己を含めた全てを客観視することなのに。
もちろんこの記事で書いたことはあくまで目標であり、僕自身これを達成できているとはとても言い難い。しかしそれにしても、一応「自分は中二病ではないか」という風な自己点検は出来る限りしているわけで、世の中には「中二病なんてどーでも良いぜー!自分のやりたいようにやるんだー!」という風に突っ走って、結果的に痛くなってしまう人が余りに多いなぁと思ったりもするわけです。
もろちん、才能のある人の中にはそうやって突き抜けることにより成功する人も居るのかもしれませんが、それはごく一部であり、大多数はセルフプロデュース無しに生き抜くことなんて不可能。だったら、無謀なやり方で人生に挑んで「生きづらさ」とやらに苦しむよりは、最低限の攻略法は知っていて、気にした方が良いんじゃないかと、僕は思うのです。

*1:もっと言ってしまえば、戦前世界で猛威をふるったファシズム自体、集団で罹った中二病とも言えるだろう。ナチスが唱えた「人権なんて嘘だ!」なんてテーゼは、まさにそれだ。

*2:太宰治とかを除くということ。太宰こそまさに元祖中二病だろうな。自分の痛さを自覚していたという意味で。