あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

聖なる夜にとらドラ!をdisる

はい、本日はクリスマスイブです。皆様はいかがお過ごしでしょうか。
恋人と楽しく過ごしてる?そーですかそーですか。まぁそれが本当のことなのかラブプラスのことなのかあるいは両方なのかはおいておきます。どっちでも良いからさっさと死ねば良いんじゃないでしょうか?
あるいは、一人で寂しく過ごしてるぜーなんて人も居るかもしれません。そんでもってニコニコ動画とかで「クリスマス中止のお知らせwwwww」とかコメントしあって悦に浸っていたり、正直すごく生き生きしていて、普通にクリスマス祝ってる人達と同じぐらい楽しそうに見えるんですけど、どーなんですかね。まぁ結局の所クリスマスなんてただの「祭」なんだから、自分なりの楽しみ方で楽しめばいいと思いますよ。そんでもって楽しんでいる途中に突然北朝鮮からミサイルでも振ってきてみんな死んじゃえばいいのに。
と、こんなことを書いていますが、別に僕が今回disりたいのはそういうカップル連中でも、あるいはそういうカップル連中に「リア充死ねwww」とかいいながら自分たちはちゃっかりそういう仲間内で楽しんでいる「ニコニコ型リア充」の人達でもありません。今回disるのはこれ。

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「えー今更『とらドラ!』かよ。ちょっと古いわー」と思う方もいるかもしれません。でもしょうがないでしょ、やっとつい最近積録していたのを全部見終わったんですから。*1
とらドラについては以前も『とらドラ!』の寒々しさについて - 斜め上から目線という記事で言及したことがありました。ただこの時はアニメは見ていなくて、id:y_arim氏の紹介&批評記事(はてなダイアリー)からの想像という形でした。そしてそれ故に
はてなブックマーク - 『とらドラ!』の寒々しさについて - 日常ごっこ

  • id:mae-9 otakuゼロ年代にもなってアダルトチルドレン論かよwwww”というのはまあ正論だろうけど、書いてる本人がエア批評だなんだと構ってチャン剥きだし典型的ACタイプ人間だと噴飯するしかない。あえていうけど「ゆとり乙」。 2009/02/10
  • id:m-bird これはひどい 批評とか批判とかほざく割に、自分に逃げ道作ってるのね。他人をdisったり批判したりするときには卑怯な逃げ道を作らずにするのが礼儀ってもんじゃね。 2009/02/10

という風に批判されたわけです。*2じゃあしょうがねーじゃん時間を割いて見てやろうかということで見てみました。結果はどうだったか?
はっきり懺悔します。僕のあの記事は間違っていました。
何が間違っていたか?
とらドラの有害さはあんな程度の文章では全然語り尽くせないほど根深いものだったのです。
そして、こんなものを賞賛する*3今の日本のアニメ好きっていうのは、ほんと、芯から腐っている*4と思ったわけです。
更に言えば、このとらドラというアニメは良く「若者のリアルを表している」なんて評がなされたりしています*5。それについてはまた後段でも触れますが、もしこんなアニメが若者のリアルなのだとしたら、今の若者って言うのは相当劣悪なものであると言わざるを得ません。もちろん、一つのアニメから若者全体を馬鹿にするなんてことはそれこそ俗流若者論な訳ですが、少なくともこのアニメを「リアルだー」なんて言って、それに何の問いも抱かず賞賛しているような若者は、例え俗流若者論者と批判されようが、僕は躊躇なく馬鹿であると言いましょう。
それじゃあ具体的にとらドラの何が駄目だったのか。僕の考えでは、それは

  1. 「語り」の寒々しさ(何で言葉で表すの?&それを他人が居る前で出す感覚ってどうなの?)
  2. 「意味ある青春」を描くことの阿呆らしさ
  3. 結局状況の自己肯定でしかない
  4. セクシャリティの軽視
  5. 内閉化するハッピーエンド&結局「オトナ」ですか

という五つの部分に分けて考察できます。今回の記事では、それぞれについて説明していった後に、総論として、このようなアニメが賞賛されてしまうこの今の日本の「時代」について、総括してみたいと思います。

1.『語り』の寒々しさ

それではまず最初に、「1.『語り』の寒々しさ」について。
これについては以前言及した記事でも

 みんな、行くべき場所がある。みんな一人で、歩いていく。自分で道を選び、定め、作っていく。それは時に交差し、時に傍らに並び、そうして別れ、いずれまた出会うかもしれない。もう出会わないかもしれない。
 そんなみんなの頭上には、あの夜見つけたオリオンが、同じ星々が、輝いている。見えないときも、見えるときも、いつも変わらずそこにある。確かなものは、きっとある。
(p.253-254)

これが、どの立場からの文章なのかはよく分からない。主人公とかヒロインとが思っていることなのか、はたまた作者の文なのか。ただ、どちらにしろ言えることは、こんな文が小説を読んでいる中で出てくるっていうのは、そういう小説が好きな人には良いのかも知れないが、僕にとっては寒くて仕方がないということだ。

という風に指摘しました。そしてこれはアニメにおいてもきちんと描写されていたわけです。それも、こういう様なうすら寒い文章を、内面におけるモノローグとして描写するのでもなく、周りに他人が居る状況で、わざわざ口に出して述べるのです。はっきり言って僕はその場面を見たときのけぞりました。もしこんな奴が現実の友達で居たら、僕は引きつった笑いを浮かべながら出来る限り距離を取って接するようにするでしょうね。ところがこのアニメにおいてはそれがあたかも「きちんと内面を相手に表明している」なんていう風に肯定的に描かれる。そして、こういう(僕からしたら中二病でしかないような)内面の素朴な吐露によって、「内面の成長」が示され物語が進んでいく、それがこのとらドラという物語の筋書きなわけです。

内面は基本的に言葉にしてはいけない

どこから突っ込んだら良いものか……まず、そもそも作劇として、「内面を、直接言葉にして示す」なんていうのは稚拙以外の何者でもないでしょう。確かにそれは分かりやすいかもしれません。例えば悲しみを表すときに「僕は悲しかった」と書く方が、例えば状況描写で、その当人の周囲に雨を降らせて悲しみを表現するなんてのより分かりやすいです。だから、本当に大切なことを示したいのならば物語中で一回ぐらいは使っても良いと、僕は思います*6
ところが、この物語ではそのようなことがあまりにも頻繁に、無造作に使われている。その結果、物語は分かりやすいですが、しかしそれ故に奥行きを失っていくわけです。何故なら、内面を言葉で吐露すると言うことは、逆に言えば「その内面を言葉の中の世界に閉じ込める」ということなのですから。例えば先ほどの例で言うならば、「私は悲しい」という言葉を登場キャラクターに言わせてしまったら、その悲しみは「私は悲しい」という言葉に囚われてしまうわけです。しかし……人間の感情がそんな単語だけで表せるわけないんですよ。だから通常は物語というのは、内面をあくまで状況描写によって表すわけです。それにより内面に揺らぎをもたらす。だって、人間の感情なんて揺らいでいるのが当たり前なんですから。そしてその揺らぎを保つことにより、物語はリアリティを持ちえるし、更に言えば「様々な奥行きがある中で、キャラクター達はこちらの方向を選択したんだな」という風なことが想像出来るわけです。ところがこのとらドラは内面を言葉に吐露させてしまうことにより、物語から奥行きを無くしてしまう。するとどうなるか?まるで物語が自動機械のように、「こうなったらそりゃ次はこうなるよなぁ」という風に進んでいくわけです。考えても見て下さい。とらドラという物語の序盤を見たとき、そこから物語の結末を想像出来ない人が一体どれだけ居るでしょう?誰だって「あーそりゃ大河と竜児がくっつくんだな」と想像出来てしまうわけです。これは物語自体がテンプレート的だからというのもありますが、それ以前に物語に余りに奥行きがないからなんです。大河と竜児がくっつかない結末が想像出来ない。これは端的に、物語から「わくわく」を奪っているという点で、物語の欠点と言えるでしょう。

内面をペラペラ人にしゃべるな

でもまぁ、その点については僕は作劇手法の専門家ではないのでこれ以上突っ込みません*7。それよりも僕が驚愕し、あきれかえってしまった点は、そのような内面の言葉による吐露が、モノローグではなく、実際に他人がいる場でなされているという点です。なんつーか、ほんとこいつらはどこの星の生命体なんだろう?と思わずにはいられません。一体どんな人間が、自分の思ったことを何の躊躇もなく言葉にするんでしょうか?僕も結構他人が居る前で独り言をぶつぶつ呟く人間ですが、それでも「この内容って今ここで口に出しても引かれないかな」とか考慮して、自己イメージがその独り言により如何に変わるかを分析し、その変貌が自己戦略と合致しているか考えた上で呟いているわけです。当たり前です。仮に「本当の自分」とやらが居ると仮定して*8みても、その「本当の自分」の内面なんか、絶対そのまま吐露したりはしないわけです。だってそれには社会性がないですから。社会性をもって初めて人間は人間たり得るんであって、もし「本当の自分」と「社会の中の自分」が等価値、つまり社会性なんてものに価値がないとすれば、それは動物と同じです。

「本当の自分」のくびき

しかしこのとらドラにおいては、それがごく当たり前のようにまかり通り、それに対する反省は一切無い。むしろ、そういう「社会性」を考慮することそのものがいやしい関係とされ、「本当の自分」を出し会うことこそが正しいとされる*9。そのことは後期の主題歌である「silky heart」の歌詞にも忠実に表われています。

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スキと言えば簡単なのに
キミが前に来ちゃうと
個性(キャラ)がそびえ 私のコトを邪魔してる
(略)
いつかは私らしくスキと
言わなきゃ…今より弱くなっちゃうよ

そしてこれがとらドラ好きの人達にとっては、「今の若者の閉塞を打破する素晴らしい態度だ」と祭り上げられるわけです。*10要するに最近「仲間内にさえ自分の内面を告白できない」ということが問題とされていて*11、それをこの物語は打破しているのだと。ですが、そんな「本当の自分をきちんと伝えよう」なんて『心のノート』にでも載っていそうなスローガン*12で打破できるんなら、そもそも「問題」にすらならないわけです。
ここら辺の議論はややこしい問題ですが、やはり若者のコミュニケーションに関する問題を取り上げる場合、きちんと言及しなければならない問題ですから、詳しく説明しましょう。
仲間うちの中では、出来る限りその仲間と対立せず、相手を傷つけないような「優しい関係」を保つことに、今の若者は腐心している。これは確かに良く言われることです。実際統計でも、「相手のプライドを傷つけたくないし、自分のプライドも傷つけられたくない」と答える人達は若者全体で83%にもなるというデータもでています。
しかし一方で、確かに仲間うちの間ではそのように相手のことを考える「優しい関係」が維持されているわけですが、しかし一方でひとたびその仲間うちの外へ出ると、そこでの行動は、周囲には無関心であり、周囲への配慮は何もないような行動が取られるわけです。ちょうど、とらドラの第19話「聖夜祭」で、大河が竜児が出ていった後マンションの前に立ち、周囲のことなんか何にも気にせず大声で叫んだりしたように、あるいは、第16話「踏み出す一歩」において、北村が生徒会長選演説という公共の場を私物化して、自分の恋愛を告白するなんていうことをしたように*13。この「仲間うち」と「それ以外」の乖離は、一体何故生じるのか?
ここで登場するのが「本当の自分」です。ここで言う「本当の自分」とは、「社会的な自分ではなく、内面的な自分」のことを指します。例えば進路について考える時に、「親」、「学校」、「自分の社会的評価」といったもの(自分の希望と共に)を考慮に入れるのが社会的な自分であり、それに対して、「自分が望むもの」だけしか考えないのが内面的な自分です。そして、その「内面的な自分」、彼らの言葉を使えば「純度100%の私」というものを重視する傾向が最近あるということが、言われるわけです。
何故そういう傾向が生まれたか。これは、様々な形で説明できます。まず、「社会の不安定性が増大化」したという点が挙げられるでしょう。つまり、以前の高度経済成長期であったらそれぞれ安定した「レール」というものがあり、親や学校といった「社会」の言う通りにしていけば安定した環境を得られた。しかし現在においては、そもそも親や学校も一体どういう道に行けば将来の安定が得られるか分からない。だから社会自体が「お前の望むものはお前が決めなさい(そして責任もお前が取りなさい):自己決定・自己責任」というものを個人に要求するようになったという説明です。
ただ、ここではそのようなマクロな視点も含めながら、しかしもうちょっとミクロな視点から考えてみましょう。まず、具体的に「学校」という場所に焦点を当てます。学校というのは、端的に言うならば同じ年代の子どもたちを同じ場所に集めて、そこで生活の大半を同年齢の同質的な子どもたちによる集団生活により営ませる装置です。そして、その「学校」という空間は、「教師」以外の社会的存在は極力排除する性格を持ちます。社会が多様化し、下手に学校を開放すれば学校を否定するような価値観も流れ込んでくる恐れもある現代では特にそうです。よって子どもたちはそこで承認を得る必要が生まれてくる。*14もちろんそれでも、別に学校というのは永遠そこに居る場所ではありませんから、例えば「学校ではいけてなくても将来社会に出れば……」という風に将来に希望を持つことも可能です。ところがここで先ほどの「社会の不安定化」という問題が出てくる。つまり、将来に向けて頑張っても、それで良い社会的地位を獲得できる保証はどこにもない。あるいは、「コミュニケーション能力」ということが昨今叫ばれるように、むしろ学校の中でいかに上手く立ち振る舞えるかが、社会に出ても重要であるというような考え方が主流になる。*15そうなってくると、子どもたちは「学校」の中で承認を得なければならない。所が、学校という場所は先ほども述べたように「教師」以外はみんな同質的な「仲間うち」です。つまり、「社会的な自己」による承認(具体的に言うならば例えば「あの人は無口だけど職人として腕は良い」というような職能的評価など)が行われないんですね。そうなってくると、そういう社会的な評価とは一切関係ない「本当の自分」しか承認を得るツールとしては使えなくなる。よって「本当の自分」というものの重要性が著しく増していき、またそれに付随して、その「本当の自分」について、それを触れないことにより認め合う、「仲間うち」のコミュニケーションが比重を増していく、そしてそれに負の比例を示しながら、「それ以外=社会的」なコミュニケーションは減退していくわけです。これが、「優しい関係」の裏にあるメカニズムです。
さて、ではそれに対して、とらドラの「本当の自分を仲間うちにきちんと示そう!」という根性論はどの様に機能するか?実はこれ、答えは既に小説に書いてあります。「泥沼」です。だって、そんな社会性のない「本当の自分」なんてもの、いきなり提示されたってコンフリクトを生むだけなんですから。そして、「本当の自分」とやらを提示することによってコンフリクトを生んでいるのに、それを「本当の自分の開示が足りないからだ!」と勘違いし、そしてそれを物語の作り手側も肯定しているから、どんどん物語が無駄に「重たく」なっていく。とらドラの原作者は編集から「放っておくとどんどん話がシリアスになる」と指摘されているそうだが*16それは別に作者の趣向とかの問題でなく、物語の構造的にそういう負のスパイラルがあるわけで、それに気付かない編集はもう編集者っていう職業向いてないんじゃないかって思うわけです。
(一応言っておくと、僕は別に「泥沼展開」自体を否定しているわけではない。むしろ僕はスクイズが大好きだったりすることからも分かるように泥沼展開は大好物です。

しかしそれはあくまで、物語の作り手がそれの泥沼展開の原因をきちんと「分かっている」場合です。例えばスクイズにおいては誠の優柔不断さ*17が泥沼の原因となっていくわけで、故にそれは作り手によって醜悪なものに描かれます。ですがとらドラの場合、作り手はその泥沼展開も、それを生み出す原因である「本物の自分」への欲望も正しいものと思い込んでいて、しかしそれと泥沼の結末=バットエンドは適合しないから、最終回直前でいきなりご都合主義的な展開と自己啓発セミナー*18により、物語を完全に破綻させた状態でハッピーエンドを生み出さざるを得なくなるのです。しかしそのようなことはやはり否定されるべきでしょう。)
では一体どうすれば良かったのか?答えは一つしかありません。「社会性を取り戻す」のです。具体的に言うならば、あんな内面の吐露は、「これ恥ずかしいよな」と自重すること。そして、それをきちんと自重する「社会的な自分」によって、仲間うちだけでなく、学校の外でも居場所=承認を得ようとすることです。あんなこっぱずかしい内面の吐露なんかやっている内は、それを聞いてくれるのはそりゃ仲間うちだけに決まってるんですよ。でも、それを抑えさえすれば別に社会は拒絶なんかしないわけです。そして、「社会的な自分」を社会で承認して貰うことにより、「本当の自分」のくびきから脱すること。「これは偽ってる自分だけど、でもそれも『私』の一部だ」という様に感じられるようになること。もし、このとらドラという小説でジュブナイルがやりたかったことは、やるべきことはそういうことです。それか開き直って馬鹿っぽいラブコメに終始するか、あるいは泥沼の悲劇を提示することにより逆説的に「本当の自分」の醜さを示すか。しかしとらドラはジュブナイルを気取りながら、しかしやることといったらそれと反対にどんどん内閉的な「本当の自分」にのめりこんでいく。これは明らかに「物語の失敗」と言わざるを得ないでしょう。

2.「意味ある青春」を描くことの阿呆らしさ

さて、次は「『意味ある青春』を描くことの阿呆らしさ」について。といってもここまでで1万文字も費やしているのでここからはちょっと駆け足で進めます。*19
とらドラにおいてはプール、文化祭、生徒会長選挙、クリスマス会、修学旅行のスキーなど、学校行事というものが物語を進めるに当たってキーポイントとなります。まぁ、これもジュブナイルとしてみた場合にそもそもどうなのと思いますが、しかしそれは前章で述べたので繰り返しません。また、これから述べるように学校行事において自己を確立するということは、別に不可能ではないです。
しかしとらドラの場合問題となるのは、それらの学校行事が殆ど「成功した形」、または「良い感じ」で終ることです。文化祭や生徒会長選挙、クリスマス会などはまさに「大成功」の内に終りましたし、プールにしても大河は負けましたが、竜児を助けるという結構「格好いい形」だった訳です。実は彼ら、最初に嫌われていた時点以外では、修学旅行まで、一貫して成功を収めた、「勝ち組」として学園生活を過ごしてきたわけです。
これの何が問題か?まず現実問題、そんな風に学園生活のイベントが「成功」に終る事なんてそうそうないでしょう。彼らはまだ未熟な学生であって、しかもあの大橋高校は先生の影が無茶苦茶薄いですから。そんな成功例だけ示されても、それこそ実際に高校生活を送った身とすれば、感情移入出来ずに冷めてしまうわけです。
しかしそれはまぁ些末な問題です。もっと重要なことは、そもそも「何故成功例しか存在しないか?」という問題なのです。これを考えて見ると、このとらドラという物語が、学校行事という「青春」について、過程ではなく結果に重点を置いているのではないかという疑惑が湧きます。そしてそれは、「青春」を扱う態度としては、最も醜悪な態度なのです。
その疑惑を深めるシーンとして、18話「もみの木の下で」のクリスマス会で星が割れるシーンがあります。あそこのシーンは色々多義的ではありますが、しかしそれを考慮したとしても、あそこで星に拘り、あの星を直すというのは端的に言って間違っています。何故なら、あの星を直すことに執着し、そしてその執着が肯定されることによって、クリスマス会はあたかもその「星」を飾るという結果の為だけに存在しているように思ってしまえるからです。まぁ物語の筋としては難しいのですが、あそこで竜児はなんとかみのりんを星を直させる以外の手伝いへと導くべきだったんです。また、物語ではみのりんがクリスマス会当日に参加するかどうかが重要とされていますが、しかし「準備に参加しない」時点で、もう結果は駄目なのです。だったら、そもそもクリスマス会のシーン自体要りません。
とらドラを見ていて思うのは、その物語が一元的な軸の上でしか動いていないという点です。「本当の自分」かどうかというのも一元的ですし、「行事の結果が成功か否か」に拘る点もそうです。ですが、そのような一元的な尺度でしか物事を捉えられないために、せっかく学校行事という「青春」も、その存在を台無しにしてしまっています。何故なら、青春とは何より、そういう一元的な尺度ではない、多元的な尺度を体験させる場なのですから。「結果は駄目だったけど、でもまぁ楽しかったよね」というようなことも人生においてはあり得るのだと思える。それが「青春」の効用なのです。故に、そもそも青春に一元的な「意味」などあってはいけない。
一番分かりやすい具体例を出しましょう。文化祭の後の競争のシーン、あそこで竜児とみのりんは一番になります。ですが、それは結局、じゃあ一番にならなきゃ大河は落ち込みから救えないのか?逆に言えば、「一番」という形ある証、結果が結局大河にとっては重要なのか?ということになります。それは、「親父が来なきゃ文化祭は全部失敗」という、大河の思い込みを反転させたものに過ぎません。
故に、ここは至極真面目に言うのですが、僕はあのシーン、春田が一等賞を取るべきだったとはっきり明言します。(凡庸な頑張り)物語の筋から言えば絶対に竜児・みのりんが一番になりそうなところで、敢えて春田が一等賞を取ることにより、物語をスカす。しかしそれによって初めて「文化祭は結果だけが重要」という物語的思い込みを脱構築し、「まぁ結果は伴わなかったけど、クラスのみんなで頑張った過程があるんだから別に良いじゃん」という多元的評価による承認が獲得できるのです。
これは、ある意味では「幼稚なおままごと」かもしれません。しかし僕は敢えて言いましょう。とらドラには「幼稚なおままごと」こそが足りなかったのだと。一元的な現実に縛られず、偽りの「幼稚なおままごと」を、しかしきちんとやることこそが、現代のジュブナイルには求められているのです。逆に「現実」に囚われそれに燃えるというのは、60年代スポ根主義を好むおじさんたちのエクスプロイテーションでしかないでしょう。

3.結局状況の自己肯定でしかない

この「現実」への拘泥は、そのまま人間の主体性を軽んじ、人間は与えられた状況に服従するしかないという態度を示します。そのことが端的に分かるのが、最終回直前の駆け落ち騒動でしょう。
この駆け落ち騒動は、突っ込み所が多々あるとらドラの中でも特に突っ込み所が満載です。まず、何であれだけ大河と仲が良さそうに見えた竜児の母親が、大河と敵対することが明白な大河の母親と結託しているのか(竜児のバイトを止めさせる。これは良い。だがその為に大河の母親と結託させ、「大人」勢力を一枚岩にする必要があったのか?それぞれ独自に行動させることによって、敵対する「大人」も一枚岩ではなく、そこに戦略性を介入させる余地があったのではないか?)。そして駆け落ちという選択肢を取ったとき、そこでなぜそれが即結婚となるのかなどなど、疑問点が多々ある。そしてそれがもやもや残ったまま駆け落ちは終わり、大河は大河の家に行くわけだが、それを竜児は達観したような形で見守る。この達観は果たしてなんなのか。
これらを考える時参考になると思われるのがid:p_shirokuma氏の次の記事です。
『とらドラ!』で描かれた、母性のエゴイズムへの“処方箋” - シロクマの屑籠
この記事においては、最終回周辺のあの騒動で伝えたかったものとして「母性のエゴイズムに対する“処方箋”」ということが挙げられている。id:p_shirokuma氏はここから「だからこそとらドラは素晴らしい」という論をするのですが、しかし本当にそうでしょうか?
そもそも「エゴイズム」とは一体何か。まぁセイシンブンセキ的には色々意味があるのかもしれませんが、ここでは単純に「自己中心主義」と置きましょう。母性のエゴイズムとは、普通に考えれば、母親が母親自身のためにとして子供を支配したがる、そういう考え方を示してると定義できます。
そして、確かにそうやって定義すれば、大河の母親も竜児の母親も、同じ「母性のエゴイズム」に則って行動しているという考えられます。が、じゃあ実際両者がどのような考え方に基づき、そしてどんな風に行動していたかを比較してみれば、そこではむしろ類似点より相違点の方が目に付くはずです。両者の「母性のエゴイズム」は、しかしその内実は大きく異なるものなのです。だってそもそもそれはエゴイズム、つまり「自己中心主義」なんですから。両者の母性はそれぞれの「自己」に基づいた考え方なのであって、別に共通規範によって画一的に押しつけられているわけではない。確かに「母性神話」自体は社会全体で画一的な物語としてありますが、しかしそれをどう自分の人生に適応するかはそれこそ千差万別。そして、だからこそそれは本来「利用」できる筈なのです。大河の母親の「母性のエゴイズム」と、竜児の母親の「母性のエゴイズム」を利用して、戦略的に自分たちに利をもたらすということも―それが成功するかはともかくとして―可能だったのです。*20
しかしことはそうならない。物語は両者の母親の「母性のエゴイズム」を一緒のものとし、そしてそれらを消滅させなければならないものと定義づけた。これは一体何故か?
答えは簡単です。「母性のエゴイズム」は、それが「エゴイズム」であるが故に、「現実」と衝突するからです。そして現実至上主義に貫かれたこのとらドラという物語は、故にその現実に刃向かう母性のエゴイズムを、消滅させなければならなかったと。
考えても見て下さい。あのやっちゃんの態度を。お金もないのに竜児を何とか大学に行かせようと思い、無理してバイトを入れてそして倒れてしまう。これは確かにある意味では子供を支配しようとする態度かもしれません。しかしそれ以上に僕の目には、このままではお金が無くて息子を大学にやれない「現実」と何とかして戦おうとする、強くたくましい母の態度が映るのです。それが母性のエゴイズムならば、それはむしろ賞賛すべきエゴイズムと言えるのではないでしょうか!?
考えてもみて下さい。母子家庭で母親は低学歴。そんな家庭に生まれた子供は、十中八九低学歴・低所得のヤンキーとなっていく、それが「現実」なわけです。もちろんそれでもid:p_shirokuma氏が賞賛するように「世代は繋がれる」わけですが、しかしそれは結局、貧困の再生産でしかないわけです。その現実に、やっちゃんは何とか抵抗しようとしてきた。
しかしそんな親の苦労も顧みず、あのガキ共は勝手に「結婚しよう!」なんてほざいてる。僕は最初これを聞いたとき「ハァ?」という言葉しか湧いてきませんでした。つきあい始めるのは良いんですよ。ですがまだつきあい始めたばかりで、しかも18歳で「結婚」って……更に言えば、ゲームではその後彼らはすぐ妊娠までするそうです。*21

若くしていきなり結婚してそして妊娠・出産、あーこりゃーもう完璧にヤンキー夫婦の誕生だな−。きっと最初は熱々だけど、すぐその熱は冷めてDVとかが始まるんだろーな―、そしてすぐ離婚するんだろーな―と、もう簡単に「現実」が想像出来てしまうわけです。そして、その「現実」に彼らは見事に従うわけです。
そもそも何で恋愛からすぐ結婚なのか、そして結婚からすぐ妊娠なのか。恋愛を長くして籍は後回しにし、籍を入れないなんていう選択肢ももちろんあるし、結婚しても子どもを作らない選択肢だってもちろんある。しかしそのような選択肢はこのバカップルや、それを賞賛するとらドラ好き共には見えていない訳です。何故ならそれは「現実的」ではないから。そして、彼らの頭の中にある現実っていうのはよーするに「世代を繋ぐ」、かっこよく言ってますがよーするに繁殖するっていう、極めて動物的な行為なわけです。動物は「子どもを作らない幸福」とか考えませんから。ですが人間なら、例えそれが「エゴイズム」と言われようが*22なんと言われようが、そういう幸福について考えるべき何です。
まぁ、でもこれは確かにある意味若者のリアルというものを象徴していると言えます。しかしそのリアルは、結局言い方を変えれば貧困の再生産であり、そして不幸の再生産であり、決して楽観的に肯定できる様なものではないと思うんですがねぇ。

4.セクシャリティの軽視

さて、ではじゃあとらドラは人間を完璧に「動物」として見てるのか。それだったらそれはそれで逆に突き抜けているわけです。僕はそんな小説だったとしても大っ嫌いですが。しかしそこまでは突き抜けて考えられていないところがまた、この小説の駄目なところと言えるでしょう。何が突き抜けてないか?竜児などの男性キャラクターのセクシャリティがあまりに現実離れして平面的なんです。ものすごく簡単に言うならば、このキャラクターに男性器が付いていると思えない。
これは結構下世話な話と思われるかもしれません。しかし高校生のジュブナイルを、しかも恋愛を通して描くのであれば、セクシャリティや性愛についての描写は必要不可欠なはずです。ましてや、竜児の場合。彼は明らかに「童貞」でしょう。しかし彼の行動からは、そういう「童貞」っぽさやその焦りが余りに感じられない。まぁ、一部ラブレターや、あーみんへの反応などでちょろっと描かれはしますけど、しかしそれもあくまで刺身のツマ程度の扱いでしかないわけです。
もちろん、別にエロゲ並にセックス描写とか「性欲をもてあます」感じを描けと言っているわけではありません。ただやっぱり、9話「海にいこうと君は」において、同級生の女性から性的に誘惑っぽいことをされたのに、その女性をその後特に意識せずに過ごし、竜児にとって伏線たり得ないというのは余りにおかしすぎる。もちろん竜児は「精神的な恋愛」においてはみのりんであったり、あるいは大河が好きなんでしょう。しかし「肉体的な性愛」においては川島亜美を意識してないわけ無いはずで、そしてその「肉体的な性愛」は、「精神的な恋愛」にも当然変換されうるのです。
何故ここで「精神的な恋愛」と「肉体的な性愛」に拘るかと言えば、それこそまさに、僕がこの記事でさんざん主張してきた「多元的な私」というものを象徴するものだからです。精神的に「あなたを愛している/愛していない」というのは、所詮一元的な尺度です。そしてその尺度に囚われる限り、その「精神的な恋愛」を相対化できず、結果として泥沼的破滅へとずるずる引きずり込まれていく。*23ですが、そこで「肉体的な性愛」を想起し、そしてそれが「精神的な恋愛」と、対立しながらも、しかし関係していると言うことに気付いたとき、少年は初めて「恋愛って言うのはそこまで絶対的に考えなくて良いんだ」と、恋愛を相対化できるわけです。*24
しかしそこでとらドラはあまりにもベタに、愛には「精神的な恋愛」しか存在せず、しかもそれがとても崇高であるかのように主張している。そしてだからこそそれはロマンティック・ラブ・イデオロギーや、それ基づく「恋愛・性・結婚の三位一体」というものをベタに信仰してしまい、最終回直前のあのトンデモ展開へと結びつくわけです。ですが、この21世紀になって数年経とうとしている時代に、ロマンティック・ラブ・イデオロギーを(相対化した上で、改めて選びとるのではなく)ベタに信仰するというのは、やっぱり時代感覚としておかしいと、言わざるをえないでしょう。

5.内閉化するハッピーエンド&結局「オトナ」ですか

さて、このようにとらドラは破綻だらけの物語な訳ですが、しかしそれでも一応とらドラは最後までイデオン落ちに陥ることもなく*25、一応ハッピーエンドと言える地点にまで到達したわけです。では、一体何がそれを可能にしたのか?
まず基本的に、ご都合主義の物量作戦というものがあるのは、例えとらドラ好きの人であっても簡単に同意してくれるでしょう。あの物語は、結局誰一人としてダークサイドに墜ち、包丁やノコギリで相手の首をかっ切ることなくエンドまで到達したわけですが、それは端的に「運が良かったから」に過ぎません。誰かが墜ちそうなときに、たまたま隣に健康的な誰かが居たという偶然。いっそ露悪的にそういう偶然をなくして、恋愛バトルロワイヤルを行わせたらどんなに良い小説になっただろう……と妄想するが、まぁそれは僕の好みでしかないですね。
しかし幾らご都合主義を繰り返したとしても、そもそもとらドラというのは物語の構造からして「本当の自分」やら「結果主義」やら「現実」やら「純愛」という、一元的尺度の上でしか動かないものでした。だからどんなに頑張っても原理的にそれは一元的評価に追い詰められ*26た、泥沼バットエンドにしか到達し得ないはず。なのに一体何故?
答えはただ一つ、エヴァによってオタク文化に持ち込まれた禁断の兵器、「自己啓発セミナー」の使用です。
これは、ほんと何で僕以外だーれも主張しないのが不思議で仕方ないんですが、22話「進むべき道」において、バレンタインデーのチョコを大河が渡した後に起きたあの惨劇*27は、どこからどー見ても「自己啓発セミナー」でしかないんですよ。ある部屋に人を閉じ込めて、そこで強迫的な問い詰めを行い、それによりその対象の「本心」を自白させるというのは、自己啓発セミナーのやり口以外の何者でもない。そしてそこで彼らは精神を高揚させることにより、竜児とみのりんと大河という三角関係に無理矢理「正解」を作り出すわけです。もちろん、作り手的にはそうならないとハッピーエンドにならないから、そのような目線に立てばそれは「正解」なわけですが、しかしキャラクターサイドに立てば、あそこで竜児が大河を選択する絶対的根拠なんてものは、自己啓発セミナー前までなにもありませんでした。しかしそれが自己啓発セミナーによって選択された後に、遡及的に「正解」であると構築される。そしてそこで竜児と大河以外のキャラクターから能動性をはぎ取り、背景としてしまう。何故なら自己啓発セミナーにおいては啓発された者だけが前景なのであり、それ以外は受動される「対象」でしかなくなるからです。
後の話は蛇足に過ぎません。学園エヴァみたいなもんです。なるほど、あの駆け落ちにおいて大河と竜児は主体的に行動している様に見えます。では、彼らは「主体」を獲得できたのか、とんでもない!だってああなった時点で、そもそも「駆け落ちしない」という選択肢がありえますか?自己啓発セミナーが一番卑怯な点。それは、選択肢がただ一つしかないのに、その選択肢を選択することによって、「あなたはその選択肢を選択する主体を獲得しました。おめでとう!」と、主体性を偽装するからです。本当は選ばされているのにまるで自らが選んだかのように取り扱われる。これは新自由主義のロジックに他ならないわけですが、ではそこで提示された選択肢とは一体何か?
それは「オトナになること」です。
ここでやっと僕は、前回とらドラについて言及したときに、id:y_arim氏などから提示された問いに返答することが出来ます。

id:y_arim 2009/02/10 09:22
気になったのは、
> 「ゼロ年代にもなってアダルトチルドレン論かよwwww」
という箇所。ということはつまり、現在では通用しない議論であり、有効な反論が登場していると捉えていいのだろうか。もしよかったら、きみの知る限りにおいてのそういうものを紹介してはいただけまいか。個人的にでもいいから。

何故アダルトチルドレン論が現代では通用しない議論なのか。それは、その概念が結局「オトナ/コドモ」という一元的価値観に基づく、平面的な概念でしかないからです。簡単に言えば「別にオトナにならなくったって幸せに生きていける!」ということです。
そもそも「オトナ」とは一体何なのか?働いていたらオトナ?だったらニートや引きこもりはオトナではないのか。ボランティアはしているけど賃金労働はしていない人間はオトナではないのか。家から出て自立したらオトナ?だったらパラサイト・シングルはオトナじゃないのか。家族を持ったり恋人が居たらオトナ?だったら非モテは。
結局アダルトチルドレン論の背景にある「オトナ/コドモ」という価値観は、高度経済成長期、普通に生きれば誰もが同じ様な暮らしが出来た、まだ社会が画一的だった時代の遺物でしかないわけです。そしてそれは、これだけ社会が多様化した現代においては、もはや根性論以外の何者でもない。「オトナになれ!」と口にすることは確かにできるかもしれない。でも、「じゃあどんな存在がオトナなのか、根拠を挙げて答えられる?」と問いただしたら、そんな問い、誰も完璧に答えられないのですから。
もちろん、だからといって精神的な困難がなくなったわけではない。むしろ、そうやって画一的な価値観が薄らいできたために、逆に多種多様な悩みや精神障害が噴出しているというのが、今の日本の現状でしょう。しかしだからといって、もはや日本は過去のようには戻れません。戻ろうとすることは、結局「無理なことを心が弱い人に要求し、より心が弱い人を苦しめる」結果にしか繋がりません。万人に当てはまる価値観という万能薬はもはや存在しないのを認めた上で、個々のケースに沿って、個々の対処をしなければならないのです。
ただ一方で、そのように「多様性が存在する」という、ここの精神よりメタレベルのことについては、ある程度一般的な議論は出来るでしょう。僕が第一章でした「本当の自分」という議論なんかもまさにそれです。「本当の自分」がどんな具体的内容であるか。それは個人において千差万別です。ですが、それがよりメタレベルで、どういう社会的性格を持つかは言及できるのです。
そして、そのようなことは、この第五章においても可能です。とらドラという物語は、構造として、主人公達に「オトナになる」ことを強要します。それは、個々人の精神のよりメタレベルにある、物語の枠組みがそうさせているわけですが、しかしそれはあまりにも時代錯誤的すぎるでしょう。なるほど確かに「自己肯定感」や「親からの自立」は必要でしょう。ですが、それがとらドラという物語がしたように「本当の自分」や「結果主義」や「純愛」といった単一的なものに寄り掛かっていたのでは、結局作品内の「現実」に依存し、それが存在しなくなればまた不安感に陥る、そういう脆弱なものでしかありません。重要なのは「何が大きい者に寄り掛かる」ことではなく、「複数の支えを確保しておく」ことなのです。id:y_arim氏ははてなダイアリーという記事の中で「オラクル」という言葉を用いています。ですが幾らオラクルをがむしゃらになって探したとしても、それが単一のものとしてしか存在し得ないなら、それはいずれやがて何かの拍子に落ちて砕け、そのたびに恐慌状態が訪れるでしょう。
重要なのは、例え弱いオラクルだとしても、それを複数確保しておくことなのです。クリスマスツリーのスターだって、実は無くなっても下の飾りから似たようなものを探せるんですから。現代のジュブナイルにおいて真に重要なこと。それは、この社会が多元的であるのを認めた上で、その多元性をより多く活用し、より多くの者に軸足を置いて自己を安定させる、そういう戦略性を少年少女達に教えることなのでは、ないのでしょうか。

最後に

しかし改めて思う。何でとらドラはここまでアニメ論壇に受けたのか。結局みんな保守反動*28が好きなのだろうか。
そうだと言える根拠はある。
「ぼく」が「ぼくら」へとつながる意義――「とらドラ!」に見る後期近代と、そこにおける生の存在論的根拠―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

人は分子化され、脱統合化され、自己の存在論的意味の根拠を見失い孤独なままに、スーパーフラット化したむき出しの「世界」と対峙することになる。そうした大状況の影絵として「とらドラ!」の登場人物たちの孤独とオラクルの不在は捉えうるのではないか。
このような状況において、ひとは大きくふたつの選択を行いうる。ひとつは自らの存在論的根拠を世界に問うことを諦め、スーパーフラット化した高度消費社会に分子として埋没する「一般論の国の王様」(村上春樹)となることであり、もうひとつは、むき出しの世界を超克せんと試みることで、自己の存在論的根拠を成立させようとする「テロルの現象学」(笠井潔)である。*1前者は動物化、後者は決断主義へとつながる、という話は以前にも書いたか、このふたつの立場では自己あるいは世界の意味論的根拠を十全に保全できない。なぜならばこのふたつは、そうしたものの無根拠を前提になりたつ態度だからだ。
(略)
そう。「ぼくら」は求めているのだ。自らの存在論的根拠を、手を取り合える隣人を、そしてそこから動き出す物語を。そうしたものの代償として、これら作品たちはあるのだ――そう明言することで、この項を終わりとしたい。

要するに「人は絶対的な根拠がなければ生きていけない。そしてその絶対的な根拠とは、身近な他者である」という主張*29なのだが、それって結局のところ、江戸時代のような「全体社会」の存在しない「ムラ社会」を復活させるだけではないのだろうか。
もちろんそれをid:crow_henmi氏は前段で

社会システムの発展と高度経済成長による近代の完成が、近代における非近代部分としてのゲマインシャフト――家族、中間集団、国民国家などというものをもゲゼルシャフト化する

というように、「ムラ社会」はもはや復活しないと述べているのだが、でもだとしたら、一体「身近な他者」とは何なのか?そもそも、何を持って「身近/身近でない」を判断するのか。この高度情報化が進み、地理的な場所はコミュニケーションにおいて意味をなさなくなった世界で。「身近」なるものがどんどん融解していくからこそ、近代社会は「近代」なのだ。
だから、どーしたって絶対的な根拠なんてものはこの社会には見いだせないのだ。にも関わらずそれをフィクション上で生み出そうとするならば、それは必ず保守反動とならざるを得ないだろう。*30もちろんそれ(保守反動)がどんな場合にもいけないと言うことは出来ない。というか「どんな場合にもいけない」と言うこと自体、一種の否定神学であり、それもまた「絶対的な根拠」を仮構する態度なのだから。
しかし、だとしても時代の針は巻き戻せない。あるいは戦争でも起きれば別なのかもしれないが、しかしそれを欲望することによって犠牲にする「何か」を考えるならば、世界が十全に保全できないなぞ、そもそも些末な問題なのではないか。
そもそも、たかがアニメに「世界の十全なる保全」なる任務を託す方が馬鹿げている。アニメはアニメであり、そこに描かれるのはキャラクターだ。神様でも何でもない。そこに神様にお願いするような願いを託すからこそ、『とらドラ』のようなアニメがまるとカルト教団の教祖のように祭り上げられるのだろう。



でもそれはやっぱりハリボテの神でしかない。そして、ハリボテの神という「偽物」だからこそ、アニメは愛おしいのだ。だからそれを「本物」と偽っては、いけない。

*1:それが如何に苦行だった感を知りたい人は、僕が一人でtwitterでフォロワーを減らしながら実況した軌跡(http://togetter.com/li/2150)でも見て下さい

*2:「そんな半年以上前のことまだ音に持ってるのかよ……」と引く人がいるかもしれません。しかし僕は人から受けた恩は忘れますが、仇は忘れないんです。引かば引け

*3:これだけ(id:gundamF94:20090210:1234223547)とらドラはネット上で言及されたのに、とらドラ批判って僕はせいぜいhttp://nanari.tumblr.com/post/140189968ぐらいしか見たことがありません。

*4:だってとらドラを好きだって言う人の中には、東大卒やら僕より頭の良い人も多いわけで、別に頭の悪い人が頭の悪いアニメを支持していても何にも思わない(むしろそういうのは敢えておもしろがるのがオタクだろう)が、頭の良い人がベタに悪いアニメを支持し始めたら終わりですよ

*5:[http://d.hatena.ne.jp/sad_smiLey3/20090215/1234704064:title]など

*6:それすら許されない!っていう人も居るけど

*7:ただ注釈しておくなら、作劇手法については素人な僕でもこれぐらい指摘出来るのに、それが指摘されなかったこのアニメ論壇って一体何なのか?とは言えるでしょう

*8:それ自体も僕は怪しいと思っていて、とらドラがそういう虚構を余りに無邪気に信じていることについての指摘はhttp://nanari.tumblr.com/post/140189968においてもなされている

*9:あとで触れるけどこれ、典型的な自己啓発セミナーの論理なのよね

*10:一方でid:y_arimは「そんな中でもみのりんは自分の内面を隠している(だから悲劇的だ)」と言うけれど、これは僕には分からない。みのりんもまた物語内においてはぐだぐだぐだぐだしゃべっていたし、終盤においては「私は自分自身の力で道を切り開いてみせる!」的な、真剣10代しゃべり場ででも宣言すれば受けるんじゃない?w的な内面を吐露してくるわけだ。いや、あれももしかしたら嘘なのかもしれないけど、でもじゃあその嘘は一体どういう戦略の元に放たれたものなのか?

*11:詳しく知りたい人は、[http://d.hatena.ne.jp/sad_smiLey3/20090215/1234704064:title=この記事]のコメント欄でy_arim氏が提示している友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)など参照。ただ、id:y_arimはこの本の「本音でぶつかり合うものから対立を避けようとする「優しい関係」に変化」という主張だけを取り上げているが、後述するようにその主張だけを取り上げることはむしろ土井氏の主張全体と反するだろう

*12:先の『友だち地獄』を書いた土井氏は、「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)において「心のノート」を批判している

*13:個人的にああいうことはすごーくムカツクのだ。

*14:「第四空間はー?」とか呟いてくる脳内存在が居るがそういうことに触れていたら書き終わらなくなるので無視

*15:それが現実かどうかは関係ありません。大切なのは「そう信じられている」ということです

*16:[http://ralf-halfmoon.jugem.jp/?eid=406:title]

*17:notマッチョ!

*18:それについては後述

*19:こんなに長くなるとは予想外……

*20:まぁここは正直ちょっと僕がやっちゃんを過大評価しすぎている点もあると思うが、しかし僕はやっぱりどーしてもあのやっちゃんがあの時点において大河の母親と同程度に「悪い人」だったとは思えないのだ。

*21:[http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-2834.html:title]

*22:「エゴ」がない生物は人間ではなく只の動物だ

*23:ちょうどスクイズで、プレイヤーが誠に禁欲を迫れば迫るほど、事態は逆に悪化していくように

*24:まぁこれは男性キャラクターの場合で、女性キャラクターにどの程度適用できるかは僕は知りませんが。

*25:むしろそうなったら僕は賞賛していたが

*26:「自分にはそれしかない」と追い詰められるということ

*27:敢えてこう言う

*28:[http://nanari.tumblr.com/post/140189968:title]より。今回の記事は、本当にこの文章に助けられて書き上げた者である。というか殆どこの文章のパクりなんだけどね

*29:これって実は宇野が目指していることと同じでないかなぁ。ジモト主義ってことでしょ、よーするに

*30:大塚英志氏が言っていた「〈正史〉への焦燥」と言っても良いのかもしれない(「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義)。「身近な他者」の歴史、つまり郷土史もまた、立派な〈正史〉たりえるのだから