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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

自己啓発に抗してこの再帰的近代に「私」を守るために

腐フェミニスト記-801 Feminist Diary-
↑を読んで考えたことをなんとなーくメモ

元々「自分史」って、社会から「自己=私」を守るためのものだった。

上記の記事では、企業が個人に「自分語り」を要求する、その際に「自分史」の再構築が求められ、それが就活のキツさの一因となっているっていうことが言われているよね。
まーそれは確かに正しいんだろうけど、しかし上記の記事はそこから「内面」を語ることや、「自己」を語ること全般が嫌悪すべきであるかのように言われていて、そこがちょっと違和感があった。*1
とゆーのもさ、もともと「自分史」とかを語ることによって「自己=私」を再構築しようっていうのは、社会から「私」を守るために始められたことだったわけじゃん。
これは、多分僕なんかよりフェミニストのid:nagano_haruさんの方がよっぽど深く知ってることなんだろうけど、元々「自分史」っていうのはさ、1970年代から80年代にかけて、女性たちの間で「自分で自分の人生を語ろう!」っていうムーブメントがあって、それで一気に広まっていったものなわけじゃん。っていうのも、それまでの女性っていうのはあくまで男に見られ、評価される「客体」でしかなくって、男の人生が「自伝」における主人公になるのに対して、女性はあくまでその主人公の周りの脇役だったわけ。それに対して、自分で自分の人生を「主体」として描き、評価しよう。自分が主人公の「自分史」を語ろうっていうのが、「自分史」のそもそもの目的だったわけよ。
まぁ、もちろんそこで言う「自分史」と、企業がエントリーシートとかで求める「自分史」に直接のつながりがあるなんてことは思わないよ。ただ、性質はやっぱり似てる。ちょーど当該記事で「再帰性」なんて言葉が出てるからそれを使うけど、「自分史」っていうのは、よーするに「再帰性」が求められる後期近代の産物なんだよね。つまり、それまでの「前期近代」っていうのは、あくまで自分というものは国だったりムラだったり職業だったりといった、外部のイデオロギーによって評価されるものでしかなかった。男は戦争に行って国のために戦うかモーレツサラリーマンとなって会社のために働く、そして女はそんな男を支え良き妻として家庭を守る。それがそれまでの前期近代だったわけだ。ところが、それが1973年頃から変わり始める。国とかムラとか職業とか、そういうモノが絶対に価値を持つとは言えない、社会が流動化していくなかで男だって失業したりすることもある様になるし女だって働きに出るようになる、そんな社会の変化の中で、「外部のイデオロギーに頼らず自分で自分の大切なものを見つけ出そう」とするようになるのが、後期近代であり、そして「再帰性」ということなんだよね本来は。だから女性の間で流行った「自分史」ももちろん再帰性の増大によるものな訳。そして会社によって人々に求められる「自分史」もその同じ再帰性なの。
ちょうどはてブのコメ欄*2でもそういう意見が挙がってるけど、実は企業が求める「自己分析」においては、よほどのブラック企業を除いて、「会社に忠実であり、会社の言うことに全てイエスであるような人」というのは求められない。だってそもそも、肉体労働みたいに上からの命令をただ実行していれば良い職業なんて、この産業が高度化した現在においては殆どないからね。むしろ、今の会社組織に反逆して、よりよいイノベーションを起こしてくれるような人材こそが必要なわけ。もし本当にただ会社に忠実な人間が欲しいんだったらそんな自分史なんてまどろっこしいことやらなくても、圧迫面接でもやって反抗的な奴を取り除いて、で従順なやつを自衛隊にでも体験入隊させてより従順な忠誠心でも養わせればいい。ただ、そんな無能な働き者みたいな人材は、もはや今は「使えない」わけで、だから企業は個人に、会社組織に反逆するような「自己」を持て!と脅してくるの。「俺たちの命令にはいはい従うな!」と命令してくる会社。なんか頭が痛くなってくるパラドックスだけど、それこそがまさに企業が個人に「再帰性」を求める光景の、真実なんだよね。

しかし「自分史」には「穴」がある

さて、じゃあまぁちょっちパラドックスがあるのは気になるけど、でも今の時代って言うのはよーするに自分が大切なこととかを自分で決められる、そういう時代なわけだ。じゃあ良いじゃん?って思う人も、多分いるだろう。ところがそうは問屋が卸さない。*3
何故なら、そうやって作り出された「自己」、そしてそれを形作る「自分史」には、しかしそれ自体が構造的にはらむ矛盾があるからです。そして、今の日本社会のシステムというのは、再帰性ばっかりどんどん向上していっているくせに、その矛盾に対する対策は全然十分ではない。だからこそ、人はどんどんその矛盾という穴に墜ち、身体と精神を摩耗していっているのです。どういうことか?
具体的に説明しましょう。「自分史」というのは、当たり前ですが自分の歴史です。といっても、それはただ単に自分に対する出来事を羅列しただけのモノではありえません。そこには必ず自分の主観が入り込みます。というか、自分に対する出来事を羅列するってだけでそれは十分主観的行為なんですよねそもそも。だって、そこでは、人生のどの出来事を「出来事」として取り出し、どの出来事を「取るに足らないモノ」として排除するかという選択が行われてるんですから。
例えばサッカー選手の「自分史」とか考えてみましょうか。サッカー選手になるってことは、必ずどこかでサッカーに関わる経験をしたからサッカー選手になります。例えば小さい頃にすごい有名なサッカー選手にあったからとか、子どもの頃いつも近くにサッカーボールがあったからとか、そんな感じの出来事、それらの出来事はまさに「自分史」の一部を構成するものとなるわけです。
ところが、じゃあサッカー選手になるような人はサッカーだけに出会ったのか?そんなはずはないでしょう。サッカーに出会ったこともあれば、野球やテニスに出会ったこともあっただろうし、全然そういうスポーツですらない何かに出会っていたかも知れない。ところが、そういうことは「サッカー選手になった私」という個人史では“無視”されるわけです。なぜって、それを取り上げたら「幼少期のころの出会いがきっかけでサッカーをするようになった」という「自分史」が崩壊してしまうからです。だからそういうサッカー以外の体験は、「自分史」が内包する矛盾を隠蔽するために、無視されるのです。本当は、そのサッカーに出会った体験も、別のモノに出会った体験も、その当時は同じぐらいのインパクトがあったものかもしれないのに、事後的に「自分はサッカー選手である」という自己規定が為される故に、それはなかったことになるのです。
このように、「自分史」というのは、それが自己を描写するモノである以上、原理的に矛盾をはらみ、そして、その矛盾を隠蔽するために何かを無視するものなのです。つまり、「自分史」は、例えそれがどんなにトコトン追求されたものであったとしても、「“真の”自分史」とはなれない、偽史なのです。ところが、それをあたかも正史であり、真実であるかのように扱えば一体どうなるか。
例えば過労死について考えてみましょう。ある人は、自分で望んである職業に就き、そしてその職業が好きだから、とても一生懸命働いている。その人は、きちんと会社の言うことを聞き、自己を啓発し、「自分史」を紡いでいる。ですが、その自分史というのは、「仕事が楽しくてそれを頑張っている自分」という自己規定に基づいて書かれるモノですから、当然それ以外のことは無視されます。眠いのに全然寝れないとか、仕事をしていたら急に倒れそうになったとか、体重がげっそり落ちたとかそういう体験は、「仕事が楽しいから頑張っている自分」という自分史のストーリーにはそぐわないが故、自ら見ないようになってしまうんですね。そうして身体の警告をどんどん無視していくうちに、とうとう過労死してしまう。このようなストーリーは、実際過労死にとてもよくあるケースです。こういうケースの場合は、「本人が好きこのんで働いていた」とされますから、より会社の責任は免責され、まさに「自己責任」とされるわけですが、しかしだとしても、その会社の仕事によってその人は死んだのですから、それはどう考えたって会社の責任の筈だと思うんですがねぇ。
とにかく、「自分史」というのは、原理的に「偽物なのに本物っぽく見える」という穴を持っているものなのです。そして、その穴に落ちてしまえば、最悪の場合死に至るし、例え死に至らなかったとしても、精神や身体をいたく傷つけてしまう、そういう危険なモノでもあるのです。

重要なのは、「穴」に“安全に落ちる”こと。そして、それを支えるシステム

なんでこういうことが生じてしまうのか。それは、端的に言えば、今の日本社会のシステムは、再帰性をどんどん向上させ、人々を「自分史」へと誘いながら、その「自分史」が偽物であるという穴を気づかせる装置が欠けている、そういう欠陥システムだからです。具体的に言うならば、「やり直しのきかない社会」です。今回は就活の話ですから、それはまさしく新卒偏重のことです。
もし、人々が、「自分史」が、再帰性の高まる現代においては重要だけど、しかしそれは原理的に偽物であると気付けるなら、その穴はそんな大した穴じゃない筈なんですよ。だって、「穴がある」って分かっていれば、それに気をつけるだろうし、その穴に一旦落ちてしまってもすぐ気づくことができるわけですから。しかし、だとしたらどうやって「穴がある」、つまり自分史というものが結局の所偽史でしかないことに気づくのか。
これは、端的に言えば、「実際に穴に落ちてみる」以外にないでしょう。要するに、今までの自分がくつがえされる様な体験をして、初めて「ああ、今の自分が絶対の自分ではないんだ」ということに気づけるわけです。このことは、幾ら口で言ったって無駄です。実際に体験してみないと。
ところが、このような体験は、あくまでその人が今の自分を否定されても、なんとか余裕を持って受け止められるから許されるし、当人たちも安心して体験できるわけです。もし、当人たちにとって「今の自分」が否定されることが即抜け出せない底辺への転落であってしまったら、当人たちはなにが何でもそのような体験が起きそうな境遇に近づかないようにしてしまうでしょう。実際に穴に落ちて穴の存在を知るのは結構ですが、それはあくまでその穴に落ちても打撲程度で済み、すぐ抜け出せるからこそ結構なことであって、もしその穴に落ちたら二度と這い上がれないなんてことになってしまっていたら、絶対に穴に落ちるなんてことは勧められないのです。ところが、今の日本社会というのはそういう風に出来てしまっている。
いまの新卒就活がまさにそうです。今の時代、新卒は「絶対新卒の内に就職しろよ!」ときつく言われます。何故なら、いまの日本においては新卒と既卒に歴然とした差別があるからです。よって、就活生は一年の間で小さな失敗は何度かしても、絶対に大学卒業するまでは成功することが求められるんですね。ところが、成功するっていうことは、まさに「穴を知らないまま行ってしまう」ということに他ならないわけです。しかし、だからといってじゃあ今の世の中で就活生に「よし、就活失敗してこい!」なんて保護者や学校が言えるか?言えないでしょう。だから、今の若者にとって「自分史」とか「自己啓発」は、とても危険なツールになってしまっているのです。
だからこそ、社会システムを変革して、「穴に落ちても大丈夫な社会(後から這い上がれる社会)」を作る必要があるのです。僕が以前むしろ「就活くたばれ」と言ってこなかったからこそ今の惨状があるんじゃないの - 斜め上から目線という記事の最後に

「無理に働かなくても良い社会」を構築すること。

と書いた時、非難囂々でした。ですが、その非難した人たちに敢えて言うなら、あなた達に今を生きる資格はない!だって、無理にじゃないと働けない人にまで「働け」と言い、その人たちを追い詰める、失敗を許さない社会なんていうのは、そもそも後期近代に不適合な社会だからです。後期近代とは「社会ではなく自己が正しさを決める時代」であると言いました。これはつまり、社会は人々に「かならず成功する方法」は教えられない、但しその代わりに「失敗してもなんとかなるような制度」は整えておくよってことなのです。全員に成功することを要求し、そのためにあれしろこーしろという様な社会は、再帰性が著しく低い前期近代には適合しているかも知れませんが、後期近代においてはかならず潰れます。そして、日本は実際に今、時代の変化に適合できず潰れかかっていると言って良いでしょう。日本を潰さないためにも、今こそ新卒偏重などの制度を壊し、「無理に働かなくても良い社会」を構築することが必要なのです。

参考文献

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ

「自分史」というか自己を物語として語ることの重要性や、しかしそれは原理的に矛盾を内包しているという話など。「自分史」とか「自己(啓発)」について考えておくんなら必読本じゃあないかな。
他に「自分史」っていうのは「ライフヒストリー研究」とかで研究されているんでもっと興味ある人はそういう方面の研究も読んでみると面白いと思います。
「再帰性」うんぬんの話はまぁ……僕が一番分かりやすかったのはネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)だったけど、そうでなくてもそれこそまさに『カーニヴァル化する社会』とかそういう売れっ子社会学者の新書を読んでおけば良いんじゃないかなぁ。

*1:『脱アイデンティティ』ってことなのかしら。

*2:[http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20100124/1264349181:title]

*3:まぁ今の時代問屋なんてとことん中抜きされる対象ですが