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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

なぜ「サブカル」から狙い撃ちされているのか考えてみる

なんか最近「表現に対する自主規制」が各方面で色々と問題になっているそうで、例えば渋谷の西武デパートで開かれた展覧会が「ふさわしくない」と中止に追い込まれたり

あるいはヴィレッジヴァンガードという雑貨屋兼書店でエロ・アングラ関係のものが撤去を命じられたり
ヴィレッジヴァンガードからエロ・アングラ商品撤去、に関するツイート - Togetter
と、様々なことがここ最近起きています。
で、まぁ皆さんお気づきでしょうがこの二つの事件には大きな共通点があります。それは
規制の対象になっているのがいわゆる「サブカル」系である
ということです。展覧会の方はそのものずばり「SHIBU Culture デパートdeサブカル」という風にサブカルと銘打っていますし、ヴィレッジヴァンガードの方も、まさに「サブカル系本屋」という風に呼ばれ、「サブカル」という文化ジャンルに属するような変なものを売っているところです。
(ちなみに、ここで言う「サブカル」とは、所謂原義の、例えば社会学の本

サブカルチャー―スタイルの意味するもの
ディック・ヘブディジ
未来社
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で言われるようなサブカルチャー[sub culture]ではなく、その原義のサブカルチャーの中にある、「オタク文化」とか「ギャル系文化」みたいな一つのジャンルみたいなものです。その内実について詳しくは後述)
都条例の時に都条例に対して表現規制だと抗議していたのは、主に「マンガ・アニメが規制される!」と喧伝されたことから、いわゆるオタクの皆さんが多かったわけですが、しかし実際の表現規制が行われる対象として選ばれたのが、オタク文化ではなく、このようなサブカル文化だったというのは、なかなか意外な感じがします。いまどきデパートの展覧会やらヴィレバンやらなんてもう殆ど注目もされていないわけで。
しかしよくよく考えて、更にこの事件に対する「サブカル」の方々の反応を見てみると、そこにはやはりサブカルが狙われるべくして狙い撃ちにされたのではないか、という考えを抱いたりもするわけです。というわけで今回は、なぜサブカルが狙い撃ちにされたのか、そしてそこから、私たち、例えばサブカル以外のオタク文化などはどのような教訓を導き出すべきなのか、考えていきたいと思います。

サブカル規制に反対する人達の、不思議な二項対立

まず、当然展覧会中止に対しては、それが最初「都条例による規制」というデマも流れたことにより、「表現の自由」を守れという合唱が発覚後巻き起こりました。まぁそれ自体はよくある話なのですが、ここで注目したいのがそのようなただ「表現の自由を守れ」という言葉に紛れて、次のような反応があったことです。
『SHIBU Culture』中止で考えたこと :: Parsleyの「添え物は添え物らしく」|yaplog!(ヤプログ!)byGMO

 ただ、一つ思うのは、今回の件といい、都条例の件といい、「善意のモラリスト」という顔の見えない存在が、アートやカルチャーに与えている圧力というのは、想像以上に強い、ということだ。
 都条例に関しても、非実在性青少年を扱っている作品について、「誰」が規制をかけようとしているのか。教育委員会だったりPTAだったりするのかもしれないけれど、特定の個人の「顔」は見えないままになっている。
 「シブカル」中止の圧力となった存在も、現時点では私たちからは「顔」が見えない。だから「善意のモラリスト」と呼ぶしかないのだが、彼/彼女が「健全な社会」にすべくべくホコリを排除しようと動いていることだけは分かる。そして、それが彼/彼女の「正義」だということも。
 だからこそ、非常に性質が悪いのだ。
 そしてもう一つ。たぶんこれは世代間の問題でもあるだろう。コンクリートの壁がキレイに積まれている町並みを作り上げた世代と、公衆電話ボックスにテレクラの広告がびっしり貼られているのが当たり前の中育ってきている世代とでは、都市における美的感覚は当然違うし、「自由な表現」というものに対する感覚もまったく違うのではないだろうか。

サブカルチャーをテーマにした展示が急きょ自粛 - Togetter

渋谷西武で開催中だった「SHIBU Culture/ デパート・デ・サブカル」なるイベントが、何者かの圧力で中止になったと話題になっている。http://togetter.com/li/95763 http://yaplog.jp/parsleymood/archive/998

ボクが西武を去ってからなかなかこういう冒険イベントをやらなくなっていたので、期待していたのだが、「善意のモラリスト?」と呼ぶしかないヒトが「健全な社会」にすべくべくホコリを排除しようと動いた、ということが原因なら実に嫌な正義感だ。企業側にも表現の自由を守る覚悟が求められるのだが。

【shibuカルチャー中止】少なくとも、正義漢ぶって小さな問題を暴き立てる陰険な潔癖主義者は嫌いだ。少しも怪しさや汚れのない社会なんて、花粉症をはびこらせる原因にしかならない。

【Shibuカルチャー中止】それでも百貨店が中止しないとマスコミに訴え、バカなマスコミはそれを鬼の首を取ったように暴き立てる。それでご立派な風紀委員が管理する整然としたクラスルームが完成するが、そこから鬼才や天才は育たない。

はてなブックマーク - Togetter - 「サブカル・アート展が圧力を受け中止になった件について、元西武百貨店社長の喝」

y_arim twitter, culture, art, 表現の自由 どんな展示だったのかと言っているひとたちは、公表されている作家名で検索するくらいのことはしたのだろうか?//以前知人が「埼京線が伸びたおかげでシブヤもすっかり埼玉化している」と嘆いていたっけ。 2011/02/03

はてなブックマーク - 『SHIBU Culture』中止で考えたこと :: Parsleyの「添え物は添え物らしく」

yachimon 表現の自由, art 善意のモラリストと正義の味方がいなくなれば、世界は平和になる。戦いがなくなるから。 2011/02/02

まず注目すべきなのが、ここでは「善意のモラリスト」「正義の味方」というフレーズが極めて嘲笑的に用いられています。まるで善意を持ったり正義を信じたりすることそのものが悪であるかのように。そして更に、水野氏が「西武」というものをとても特別視しながら今回の騒動を論じ、そして有村氏(id:y_arim)が、なぜかここで「埼京線が伸びたおかげでシブヤもすっかり埼玉化している」ということを引用しているように、そのようなものと対比される象徴として、「西武(セゾン)」、「シブヤ」というものが提示されているということにも、目を配らなければなりません。そして更に、id:y_arim氏はその「シブヤ」が「埼玉」にのみこまれていることを暗示することによって、「善意のモラリスト」、「正義の味方」と「埼玉」という概念を結びつけているわけです。
この様な構図を二項対立として整理するならば

反サブカル展
(嘲笑されるべきものとしての)正義・良識、埼玉(≒田舎)
サブカル展
アンチ正義・良識、西武、シブヤ(≒都会)

という図式です。
そして実はこのような図式はヴィレバン問題の方にも当てはまります。まだあまり時間が経ってないので反応はそれほど多くはありませんが、それでも
Twitter / ?

ヴィレヴァン全店でエロ、アングラ商品撤去だそうです。すごくショックです。ヴィレヴァンがただの雑貨屋になっていきます。

ヴィレッジヴァンガードからエロ・アングラ商品撤去、に関するツイート - Togetter

知りませんでした。VVが健全な(失礼)お店になるのですね…(笑)。 私はmixiとか、サイトにつなぐと何かにつけて表示されるエロ広告とかの方がどうかと思いますけどね。

深夜で人気を博していたTV番組がゴールデン枠に進出して、視聴率は上がったけど勢いがなくなる。みたいな印象。

というような反応が多々あり、それらを要約するならば

ヴィレバン規制
健全、ただの雑貨屋、ショッピングモール(イオン≒田舎)
反ヴィレバン規制
エロ・アングラ、ヴィレバン文化、非ショッピングモール

という二項対立になるでしょう。
もちろん、これらの二項対立の穴を見つけるのは簡単なことです。何故か展覧会の方ではセゾンのメセナに関心がない田舎者がイベントを批判しているということになっていますが、批判者がわからない以上それが本当にそうかは断言できませんし、ヴィレバンの方だって何故か田舎のショッピングモールで抗議が起こったということになっていますが、本当はそれこそ下北沢店とかかもしれない。
ただ、そのような些末な点よりも問題なのが、そもそも何で表現規制に対する批判で、このような二項対立がことさら強調され、そして更にそこで「善意/悪意」、「都会/田舎」というような直接は関係ないイメージが引用されるのかという点です。もちろん、このような点は都条例批判の際にもある程度はありました。しかし大部分の都条例批判者は、それこそ素朴に「俺達が楽しんでいるのの邪魔をするなよぉ」という感じで批判し、そしてその根拠として「表現の自由」を持ち出したりしていたわけです。このようなイメージの利用が行われるのは、まさしく「サブカル」に特に顕著な現象であると言えるでしょう。
そして実は、そのような「イメージ」を利用すること、そしてそのやり方こそが、サブカルが殊更狙い撃ちにされた理由でもあるわけです。

「イケてる文化/イケてない文化」の二分法こそサブカルの本質

そもそもなぜサブカルはそのように「イメージ」を利用するのか。しかしその問は、実はトートロジーでしかありません。「イメージを利用し、自分たちが『イケてる文化』であることを示し、逆に自分たち以外の文化が『イケてない文化』であることを示す」、それこそが“サブカル”文化の本質だからです。
例えばよく“サブカル”文化と対立するものとして、オタク文化が挙げられます。といっても、最近は所謂サブカルなんてオタクに比べたらあまりに小さなものですから、この対立構図はネットの辺境にあるという「はてな村」という所以外ではほぼ忘れ去られていますが、しかし過去は結構目立った対立となっていたようです(例:ARTIFACT −人工事実− : オタク定点観測 第15回 オタクとサブカル様)。
しかし実はこの対立、ある意味サブカルのマッチポンプとも言えます。というのも、そもそもオタク―発見された当初は「おたく」と呼ばれていましたが―という概念自体、実は「自分たちが『イケてる文化』であることを示し、その対象物として『イケてない文化』を馬鹿にする」サブカルが、その馬鹿にする相手の「イケてない文化」として引っ張り出してきて名付けたものだからです。
その資料となるのが、中森明夫という評論家の「おたくの研究」という記事です。
漫画ブリッコの世界 『おたく』の研究 第1回
漫画ブリッコの世界 『おたく』の研究 第2回
漫画ブリッコの世界 『おたく』の研究 おたく地帯に迷い込んだで
漫画ブリッコの世界 おたくの研究――総論
漫画ブリッコの世界 『おたく』の研究 岡崎京子・桜沢エリカはなぜ『ブリッコ』でウケないのか
というか実はこの文章こそ「おたく」という概念が出版物で出た一番最初の文章ではないか*1という話もあるのですが、しかしそうであると同時に、この文章って言うのは極めてサブカルっぽい文章でもあるわけです。
読んでもらえば分かりますが、この文章では「おたく」のことを徹底的に馬鹿にしています。そして、その馬鹿の仕方も、その文化で享受されるものの中身を批判するというよりは、例えば「ファッションが安い」、「男らしくない」という風なイメージを利用して馬鹿にするわけです。更に言うと、実はここで既に、そうやって馬鹿にする自分たちがじゃあどういう存在なのかを示すに際して

どうやらおた○ってのは差別用語に指定されちまったらしく使えなくなってしまったのだ。でまぁこーゆー場合、言い換えとゆう手段があったのです。ホラ、口が不自由な人とか、目が不自由な人ってあるでしょ、そういう言い換えでいくと、お○くってのは、現実感覚の不自由な人、ファッションセンスに不自由な人、友達の不自由な人、明るさに不自由な人…ダメだ、なんかますます差別っぽくなっちまった。身障者を笑う健常者の中森です(笑)。宝島少女、ポンプ少年とともに女子大生もバカにする中森です。

というように、「良識」を馬鹿にするサブカルの立ち位置を明確になぞっていたりもするわけです。
(一方で、この文章が興味深いのは、そのような「サブカル」の立ち位置から書かれていたこの文章が、しかしその内容においては例えば「彼らは精神的に未熟である」という、都条例関連の議論で飛び出した「オタクは認知障害者」という言葉を彷彿とさせるような表現を使っていたり、そして更にこの文章への大塚英志氏の当時の反論において
漫画ブリッコの世界 『おたく』の研究 「妥協の森」1984年6月号

ぼくにとっては<おたく>批難も「ブリッコ」を没収する教師も、中曽根内閣の<少年の性雑誌規制>とやらも同じものとして映るわけです。

という風に、表現規制する人達のメンタリティとの類似性を指摘されているという点です。ただそこら辺はちょっと今回の記事とは話がずれるので深追いはしません。する能力もないですし。)
そしてこのように「他の文化を『イケてない文化』と馬鹿にすることにより、自分の文化を『イケてる文化』とする」ということは、オタクだけが対象ではありませんでした。例えば「ネアカ/ネクラ」なんてその最たるものですし、「ださいたま」なんていう風に田舎を馬鹿にするやり方、あるいはビートたけし的な「露悪趣味」に賛成し、その反対の「良識」を馬鹿にするやり方、これらのやり方によって80年代に築かれた虚栄の「イケてる文化」、これがまさしく「西武(セゾン)的なもの」とほぼ同じですし、現在のヴィレバンにつながる「サブカル」の源流でもあるわけです。
ここで重要なのが、そのような「イケてるサブカル文化」は、しかしそれが他人との比較でしか成り立たないものである以上、馬鹿にし、そして啓蒙していく対象として「イケてない文化」を常に必要とすることです。しかしそのような戦略は当然「イケてない」とされる他人から憎しみを買います。しかしそれは「サブカル」が強い勢力を保ち、ヘゲモニーを握っていたならば、まさしく「イケてない連中が何言ってるんだよw」という様に、まさしくイメージの利用により、握り潰すことが可能だったでしょう。しかしそのような戦略は勢力が弱まれば当然使えなくなります。その時に待っているのは……

「復讐」としてのサブカル狙い撃ち

サブカルと対比するものとして再び「オタク」について触れてみましょう。もし今回の騒動が「サブカル文化」に対してではなく「オタク文化」に対して起こったらと想像してみたらどうなるか?しかしそれは、実は難しんですね。例えばデパートの展覧会、サブカルがそういうの好きっぽいことはなんとなく分かりますが、じゃあオタクの方はどうか?むしろオタクは、いの一番にそういう展覧会みたいなものを開こうとする人間には「オタクの恥を世間に晒すな!」と怒るのではないでしょうか(cf.村上隆)。オタクにとってのヴィレバンとされるのはアニメイトとかでしょう。しかしヴィレバンは、その陳列の乱雑さが売りで、逆に言えばだからこそ抗議を受けたわけですが、一方アニメイトの構造って言うのは基本的にジャンルごとに商品をきっちり整頓し、そして成人向けのものはできるだけ押し込めるという形ですから、例えショッピングモールに出店してもそれほどの非難は浴びないのでは、ないでしょうか。。
このように、オタクの態度っていうのは「自分たちは自分たちで楽しんでる。こっちも干渉しないから、その代わりにあんたたちも干渉しないでくれ」という、「棲み分け」を基本とするといえるでしょう。
しかし一方でサブカルは、むしろそのように棲み分けてしまったら“サブカル”として存立できなくなってしまいます。サブカルはあくまで周りに馬鹿にできるものがないと存続出来ないのです。だからこそサブカルは積極的に自分たちの文化以外の人達のテリトリーに上がりこみ、しかもそこでその自分たちの文化以外のものを馬鹿にします。デパートでわざわざ展覧会を開きながら、実際にデパートにやってくる人を「良識人(笑)」、「田舎者(笑)」として馬鹿にしたりするわけです。ヴィレバンについても、地方のショッピングモールとかにあるんだから別に「普通の雑貨屋」でいろよと、オタク的な感性では思うわけですが、そうはならず、「地方の田舎者にサブカル文化を啓蒙してやる」という態度で、殊更露悪的にエロ・アングラを全面に押し出していくわけです。
(一応誤解されないように言っておくと、僕はだからといって展覧会が中止に追い込まれたり、ヴィレバンでエロ・アングラ商品が撤去されるのが正当であると言っているわけではありません。ただ、それが人々の逆鱗にふれる構図は理解して、その上でそれに対する対処法を考えるべきだと言っているのです。)
しかしそうやって殊更馬鹿にされ、上から目線で「啓蒙してやるよ」と言われる人々はどう思うか。しかもそこで啓蒙してやるものとして提示されるのが、エロ・アングラ的な、自分たちが大事なものだと思っている「良識」や「正義」を嘲笑うようなものだったとしたら……しかも更に言えば、ちょっと前までそのようなものに文句を言えば「イケてない奴だなぁ(笑)」という風に馬鹿にされていたのが、やっと最近言える様になったとしたら……そこで「まず、俺たちをさんざん馬鹿にしたサブカルから規制してやる」と思われることは、極めて自然でしょう。
これこそが、まさしく今サブカルが狙い撃ちにされている理由なのです。一言で言えば「仕返し」、「復讐」なのです。ですからその復習に対し、それこそ「善意(笑)」、「正義(笑)」と嘲笑したり、「シブヤが埼玉化しちゃったよ」と言って相手に負のイメージをかぶせ、それを利用することによって勝とうとしても、むしろ火に油を注ぐ結果となるでしょう。

まとめ―イメージを利用するのは、とにかくやめよう

では、このようなサブカルの末路から、私を含めたサブカル以外の人間はどのような教訓を導き出すべきなのでしょうか。
まず言えるのは、自分たちが多数派でない限り、「あいつら馬鹿だからorダサいからor感受性がないからダメ」という風に負のイメージを貼り付けることによって相手を打ち負かそうとすることは辞めたほうが良い。むしろ逆効果になるということです。
例えば都条例の際にも、一部に「都条例に賛成しているアグネスは中国人」などという、全く別の負のイメージを持ってきて批判するような輩がいましたが、これこそまさにサブカル的なやり方の悪い所をそのままコピーしたようなやり方です。他にも、過去の春画みたいなものを持ち出しながら、「エロを許容できないやつは文化的教養がない奴w」というように批判する個人の感受性を否定するやり方や、「ヒステリックなフェミババアだろ?」というような言葉を使って相手を貶めるやり方も、結局自分たちを慰めるだけで、逆に敵や多くの普通の人々を敵にまわすものに他なりません。
むしろ、そのような張り巡らせされているイメージ戦略そのものを解消していくことこそが必要なのです。つまり、どっちかが劣っていてどっちかが優れているとかではなく、エロが嫌いな人好きな人、あるいはアングラが嫌いな人好きな人、どちらもこの世の中にいて、そして共に同じ社会で尊厳を持って生きる権利が平等にあることをまず認めることです。その上でどうやって共存していくかは色々議論があるでしょう。現在のオタクが志向している「完璧な棲み分け」でいいのか、そんなものは機能しないのか。ちなみに僕は同じ社会で生きている以上「完璧な棲み分け」なんてありえないと思っていますから、やはりどこかでエロ・アングラが好きな人も嫌いな人も相対さなければならない。そしてその時に、双方には双方に対し「なぜこのような表現が必要なのか。」きちんと説明し、そしてその説明が妥当かどうか議論しなければならないと思っています。ただその場合も、できるだけそれは国の権力が介入するのではなく、市民的な討議が行わなければならないと考えていますが、一方でそのような市民的な討議など夢想に過ぎない、それは結局権力介入につながる。というような意見もあります。ただいずれにせよ、「相手を馬鹿にすることで勝とう」などというサブカル的なやり方がもう通用しないことは、極めて明白なのです。

最後に―サブカルが生き残る道は

最後に、サブカルに関してはあまり当事者ではありませんが、それでもヴィレバンにはたまーに行くものとして、「こうしたらいいんじゃないかな」というアドバイスをしてみます。
まず、相手の「良識」、「正義」といったものを馬鹿にすること、これは絶対辞めたほうがいいです。大体、「良識」、「正義」なんてものが成り立たないなら、その基盤の上に成り立つ「基本的人権」、そしてその中の「表現の自由」も成り立たなくなるわけで、そのような方法は自己矛盾の塊であると言っていいでしょう。相手が「正義」、「良識」によって行動しているからこそ、そこでその正義に語りかけることが可能になるわけで、本当に「ただ俺の気に入らないものはぶっ潰すー」とかいう行動倫理で動いている人間よりは、数万倍御しやすいわけでから。
そしてその上で、なぜそのような展示・陳列が必要なのか、懇々と批判する相手に説明する必要があります。逆に言えば、そのような説明ができない展示・商品、ただ「悪趣味とかエログロって格好いいじゃん」程度の理由で置かれたものはもう撤去すべきです。それによって一体誰が、どんな風に得を得るのか、展示者や販売者には説明責任があるのです。
このようなことは、自分達の文化こそが「イケてる文化」と考え、自分たち以外の人間、例えば埼玉に住んでいる人間などを「イケてない人間」などと馬鹿にし、嫌悪するサブカルにとってはとても辛いことなのかもしれません。しかし、そのように「俺達はイケてるやつだから、埼玉のイケてないやつなんかに合わせてたまるか。逆に向こうがこっちに合わせるべきだろう」なんていう愚劣な選民思想こそがあるかぎり、サブカルは規制され、やがて根絶やしにされるか、そうでなくても骨抜きにされるでしょう。むしろシブヤに埼玉の人を呼び込んだ上で、その人達にサブカルの素晴らしさをなんとか知ってもらおうとするような態度でなければならないのでは、ないでしょうか。
ただ僕はあくまでサブカルの方はほぼ初心者(なので、この記事にも結構誤りがあるだろうけど、まぁそこははてな村の詳しい人が勝手に直してくれるだろう)なので、サブカルがこれからどうしたいのか、どうなるのかは正直よく分からないということも、付け加えておきます

*1:※但し異論もあり。詳しくはwikipediaでも見てください