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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

なぜマミさんの葬儀は開かれないか

アニメ

円環の理に導かれ、巴マミさん死去 15歳
まぁ、(いい意味でも悪い意味でも)*1相変わらずの虚構新聞の記事なわけですが、気になったのはid:kyo_ju氏のこのブックマークコメント。
はてなブックマーク - 円環の理に導かれ、巴マミさん死去 15歳

こうした場合ファンによる葬儀が行われることがあるが、そこまでのファンもいないため行われない。/←いや本当、ファンがしてあげればいいと思うよ。そのときには線香の一本くらいは立てに行きたい。

架空のキャラクターに対しての葬儀というと、有名なのはそれこそ『あしたのジョー』における力石徹の葬儀であったり

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あるいは最近では『北斗の拳』におけるラオウの葬儀なんかもその例でしょう。「北斗の拳」ラオウの葬式に3000人参列 - シネマニュース : nikkansports.com

コミックなどの登場人物の葬式は、70年に「あしたのジョー」の力石徹の告別式が都内の講談社で行われてファン800人が参列して話題になった。80年には「科学忍者隊ガッチャマンF」の南部孝三郎長官の追悼式も東京・千代田会館で行われた。この日は雨の中、約3000人の一般ファンが参列してラオウの死を追悼した。

科学忍者隊の南部長官の追悼式なんてのも昔はあったんですねぇ。*2
いずれにせよ、昔の作品については、結構こういう葬儀や追悼イベントというのはなされているみたいです。といってもそれこそ「あしたのジョー」も「科学忍者隊ガッチャマン」も「北斗の拳」も、それこそ超有名作品だったからこそそういうイベントが発生し得たという側面もありますが、しかしだとしても、なぜ力石は弔われ、マミさんは弔われないのか。僕はそこに、現代の「キャラクター」、そしてそれを眼差す「私たち」の悲劇的特性が、現れているように思えてならないのです。

かつて、力石はどう弔われたのか

力石徹の告別式を主催したのは、詩人であり、アニメ版「あしたのジョー」の主題歌を作詞した寺山修司という人です。彼は、力石徹の死に対してこんな文を書いているそうです。
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「誰が力石を殺したか」寺山修司
力石はスーパーマンでも同時代の英雄でもなく、要するにスラムのゲリラだった矢吹丈の描いた仮想敵、幻想の体制権力だったのである。丈の風来橋の下での生活、あの犯罪の日々、交番襲撃から集団窃盗、そしてじぶんの血を売って丈をボクサーにしようとした片目の丹下段平の父性への裏切りといったものが、しだいに「あしたのために1」といった紙片による学習へと綱領に組み込まれ、二流の技術のために一流の野性を失ってゆくことになったのである。
「あした」を破産させられたあしたのジョーはどうするか? また新しく幻想の敵を獲得し、水前寺清子のように
♪東京でだめなら名古屋があるさ・・・
と うそぶきながら、トレーニングにはげむか? それともスラムへ帰って昔の仲間たちと解放の夢からはなれて暴力団にでもはいるか? かつてのチャンピオン小林久雄のように浅草のなかを肩で風切りながら、ときにはテレビのボクシングを見て感傷するか?
 力石は死んだのではなく、見失われたのであり、それは七〇年の時代感情の憎々しいまでの的確な反映であるというほかはないだろう。東大の安田講堂には今も消し残された落書きが「幻想打破」とチョークのあとを残しているが、耳をすましてもきこえてくるのはシュプレヒコールでもなければ時計台放送でもない。矢吹丈のシュッ、シュッというシャドウの息の音でもない。ただの二月の空っ風だけである。
(抜粋)

この文章を読んでも分かることですし、またよど号ハイジャック事件を起こした人たちが「我々はあしたのジョーである」と言った有名な声明からも分かることですが、が、当時「あしたのジョー」という作品は確実にこの私たちが生きる社会の延長線上にあるものとして想像され、そしてそのキャラクターたちも、自分と同じ社会を生きる「仲間」として、想像されていたわけです。そしてだからこそ、力石が死んだ時、多くの若者達は、自分たちの「仲間」が死んだと認識し、そこで「自分たちそのものの一部」が消えてしまったかのような喪失感に襲われ、その喪失感を弔うためにも、告別式というイベントを開かずにはいられなかったわけです。この弔辞は、は確かにタイトルこそ「誰が力石を殺したか」という文なわけですが、しかしそこで問題とされているのは、物語の中の「力石徹」の死そのものというよりは、むしろそこに投影された、自分たちの挫折こそが問題となっているわけです。

マミさんに掛ける「弔辞」はあるか

しかし、残念ながら現代の若者は、僕を含め、この文章を読んでも感覚的に理解はできないでしょう。なんで物語上のキャラクターに対してここまで熱く、「仲間」意識を持って、文章が書けるのか。寺山修司という、その時代における稀代の詩人によって書かれた文章でさえ、感覚的には理解出来ない私たちは、そうであるが故に、現代のキャラクター、それこそ『魔法少女まどか☆マギカ』において死亡したマミさんに対してこのような弔辞を書けるかと聞かれれば、無理であると答えざるをえないわけです。
試しにもし「弔辞」を書くとすればどんな弔辞を書けるか、思考実験してみましょうか。とりあえず「マミさんは後輩たちにも親しまれ……」なんて書く……いや、それはどーしても嘘になります。まどかやさやかさんたちが本当にマミさんを慕っていたかなんて、分かりませんし、第一そんな事実を羅列したって、それはマミさんに対する弔いには一切ならないでしょう。では、それこそ上記の力石に対する弔文みたいに、「マミさんはこの社会の犠牲者だ!」なんて事大に構えて文章を書いてみましょうか?「マミさんを殺したのはシャルロッテではない、人々を酷使し、その生命までも搾取する、現代日本社会の犠牲者なのである……」……ええ、お察しのとおり、全然心にもないことを書いています。
もし、マミさんに対して、儀礼的にではなく、真剣に、彼女を弔う「弔辞」を書こうとしたら、少なくとも僕は、沈黙した後、自分にはそんな「弔おう」なんていう気持ちはないことに気づいてしまうのです。なぜなら、かつて「あしたのジョー」がリアリティを持った時代とは違い、現代においては、そもそもフィクションという物語を、自分の位置する社会の延長線上に捉え、そして、その物語のキャラクターたちを、自分たちの「仲間」であるというように捉えてはいないからです。

「仲間同士の連帯感覚」から「孤立した個人の間の理解」へ

誤解してほしくないのは、別に僕はここで「あしたのジョー」が「魔法少女まどか☆マギカ」より断然優れていて、リアリティのある作品だから、そのような違いが出てきたのだということを言いたいわけではないということです。というかむしろ、現代の若者にとっては、大部分が「あしたのジョー」より「魔法少女まどか☆マギカ」の方に心動かされるでしょう。僕がここで問題としたいのは、70年代の若者が「あしたのジョー」に心を動かされることと、現代の若者が「魔法少女まどか☆マギカ」に心を動かされること、二つの「動かされ方」に、どのような違いがあるのかということなのです。
あしたのジョー」という物語を読むとき、当時の若者はどのようにそれを読んだのか、それはおそらく「力石は俺だ」、「ジョーは俺だ」という様に自己を投影して、まるで自分の分身が戦っているかのような、そんな体験をしていたのではないでしょうか?しかし現代において、それこそ「魔法少女まどか☆マギカ」を見るときに視聴者がそのように「まどかは俺だ」、あるいは「マミは俺だ」みたいな読み方をするかどうか。おそらくしません。というよりできません。私たちはこれは所詮フィクションの物語であり、私たちの住む世界とは別の世界でのお話として「魔法少女まどか☆マギカ」を見ているのです。
もちろん、別の世界といっても、魔法少女まどか☆マギカの世界は、実はかなりうまく現実世界、それも平成不況以降のプレカリアート的世界観をうまく再現した物語内世界ではあります。最初夢を見せられるけど、夢を実現する場所で実際は「やりがいの搾取」によって人々は次々と搾取され、この社会を維持するために使い捨てられていく。

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このような世界観をうまく物語上に再現したからこそ、まどか☆マギカはここまで人気を博したわけです。しかし、だとしても人々はそこで、かつて「あしたのジョー」を見たときの様に、そこで戦う魔法少女たちが自分たちの「仲間」、自分たちの一部そのものであるという風には考えるのではなく、あくまで彼女たちは「自分たちと同じような境遇にいる物語のキャラクター」として捉えられ、「彼女たちの苦しみは理解できるなー」と、あくまで別々の世界に住むものとして「理解」をし、可哀想とか思ったりするわけです。
例えて言うならば、あしたのジョーにおける力石の死は、まさしく自分の友人が死んだ悲しみそのものなわけです。それに対して魔法少女まどか☆マギカにおけるマミさんの死は、自分とは全く関わりがないけれど、自分ととてもよく似た生育環境で育った人の死をニュースで聞くような感覚なのです。そこで人は「可哀想」とかは感じるでしょう。しかしあくまで他人ですから、喪失感とか、そういう感情は抱かれず、一つの「物語の出来事」として消費され、弔われることもないのです。

全てを弔う神としての「まどか」

そしてそうだからこそ、そこで魔法少女を弔う存在となるために、まどかは最終回において「神」とならなくてはならなかったのです。
物語の中でも、社会に属さず、孤独に戦い、そして更に自分たちが住む世界自体が「魔法少女まどか☆マギカ」という物語であり現実と隔離されている、そのような二重の孤立の中で、弔われずに死んでいく魔法少女に対し「弔い」を与えられるのは、神様だけ。だから、「まどか」という神様が必要になるのです。
そして実は、それは「私たち」にとってもなのです。
最近、「まどか教」という宗教が、インターネット上で流行の兆しを見せています。これは、「魔法少女まどか☆マギカ」の物語の中で神となった「まどか」を、現実世界の私たちも信仰しようという、宗教運動です。
まどか教 - アンサイクロペディア
まぁ、この記事がアンサイクロペディアに掲載されていることからも分かる通り、これはほとんどジョークの一種と考えられているわけですが、しかしジョークだとしてもなぜそれがわざわざ「宗教」という形を取るのか、別に「まどかちゃん友の会」でも「まどかちゃんファンクラブ」でも構わないはずです。なのになぜ「まどか教」なのか。
答えは明白でしょう。まどかさんも「魔法少女まどか☆マギカ」の登場キャラクターの一人である以上、やはりマミさんと同じように、通常の仕方では孤立した個人同士でしかありえないるだから、そのような境界を無化できる「神」になってもらう必要があるる。そして更に言うならば、願わくば、自分もその物語に登場した魔法少女たちのように、「まどか」という神によって救済してもらいたい、そんな願いが、「まどか教」というジョークの、しかし深層意識の部分には、あるのではないでしょうか。

神様なんて、やっぱりいらない

……しかし、僕はどーしてもここでため息をつかざるを得ません。何故現代の私たちは、ここまで「キャラクター」たちと離れてしまったのかと。離れた場所から「可哀想だなー」と思うか、神と人という違う身分としてしか会えないような、そんな距離でしか接することができないのか。僕は前回の慟哭で、まどかには神様になって欲しくなかったと述べました。別に神様にならなくたって、自分の近くの境界を自分の手で飛び越えて、周りの人達と付き合えば、それでいいじゃないかと。逆に、そこで「神」になってしまったら、二度と私たちは「仲間」となることはできなくなるじゃないかと、そんな思いが、頭から離れなくて仕方ないのです。
自分と同じ境遇にいる人が、同じ形で苦しんでいるときに「可哀想だなー」と私たちは理解します。だからこそ魔法少女まどか☆マギカという物語に感動するわけです。しかしそこで、私たちはもうちょっと手足を動かせば、実際に苦しんでいる人の近くに行き、その人の手をとって「仲間だよ」と言うことが、本当はできるはずなのです。これは、リアルの人間同士でもフィクションのキャラクターとの間でも―少なくとも僕にとっては―同じことです。何より、たった40年ぐらい前までは、人々はそういうことが出来ていたはずなんです。フィクションのキャラクターの死を、我が事のように悲しみ、涙する。そういう回路がたった40年前まであった。だったらなぜ今、それを取り戻すことが不可能になっているのか!?理由はいっぱい挙げられますけど、それでも、叫びとして、僕はこう問いたいのです。

*1:僕は虚構新聞よりはボーガスニュースのほうが好き。虚構新聞は何つーか、この記事でもそうだけど、「アイロニー」の精神が足りなくて必死に見えて、僕にはあまり面白くない

*2:ていうかこの文章を読んで初めて南部長官が死ぬことを知った