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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

ボーカロイドはなぜ批判されるか

以前こんな記事を書いたことがあります。
ボーカロイドが嫌い - 斜め上から目線
で、それから2年たって、まぁ良くも悪くもボーカロイドはメジャーとなってきたわけです。ただそれにより、僕のようなボーカロイド嫌悪派とボーカロイドファンの間での紛争なんかも起きるようになってきて、例えば学校の校内放送でボーカロイド楽曲を流そうとして先生に止められたり、
ボカロ禁止 から「妹の学校」コピペへ - Togetter
親からボーカロイドのことを批判されてそれを匿名ダイアリーで愚痴る女子中学生が出てきたり、
とあるボカロ好き中学1年生の憂鬱
そしてそういうボカロ批判に対抗する形で、改めてボカロ好きを訴える記事も書かれたりしているわけです。*1
SOSOSO BLOG - ボーカロイドが好き
こんな感じで、まぁネットやリアルの各所でボーカロイドに対する対立が起きているわけですが、しかしその対立は往々にして「ボーカロイドは感動する!」か「ボーカロイドなんてキモイ!」という感性の水掛け論になってしまいがちで、あまり議論の整理が行われているとは言えません。
もちろん、最終的にボーカロイドを好きになるかどうかというのはあくまで個々の思想の自由であり、国家や教育機関、また親などが強制できるようなものではないでしょう。しかし一方で、ボカロが広まっていくにつれて、それは確実に「個人の楽しみ」の範囲では収まらなくなっています(学校放送でボカロ楽曲が流されたなんていうのはまさしくいい例です)。とするならば、ただ感性に則って「私がボカロを好き/嫌いだからボカロが好きなの!」とだけ言うのではなく、双方が一体どんな思想でもってボカロを支持・否定しているのかを示し、そしてそれを基づき、果たして「ボカロ」というものはこの公共の場にふさわしいものなのか、あるいは、もしボカロというものが公共の場にふさわしい「公共性」を持ちえるとしたら、それは一体どのようなどのようなものなのか、議論していく必要があるのではないでしょうか。まぁ、単純に言うならば学校とかの公共の場で流すんなら、好きな人の意見だけでなく嫌いな人の意見も聞かなきゃだめだよねという、至極全うなことです。
今回の記事では、ボーカロイド(楽曲)とはそもそもどのような性質を持つものなのかを簡単にまとめた上で、それが一体なぜある人には好かれ、そしてある人には嫌われるのか分析することにより、そのような議論の叩き台を提示したいと考えます。ただ僕は最初に示した記事からもわかるように、ボーカロイドについてはアンチの立場の人間です。ですからボーカロイド肯定派の意見は正直言って理屈でしか理解できませんし、叩き台自体も極めてボーカロイド否定派に有利なものとなっているでしょう。その点は理解したうえで、もし僕の記事が違うと思う人がいるなら、その人が自分の立場でコメントなり記事を書くなりすれば良いと、思っています。

ボーカロイドとはどういう性質を持つものなのか

それではまず、ボーカロイドを好きになる理由/嫌いになる理由について考える前に、そもそも「ボーカロイドとは一体とのような性質を持つ媒体*2なのか」ということを考えようと思います。僕の考えでは、今までのボーカロイドについての対立は、そもそもこの「ボーカロイドとは何か」という性質についての考えが肯定派・否定派双方で甘かったために、結局水掛け論に終わってしまっていたのではないかと思う訳です。
といってもそこでボーカロイドという技術についての辞書的、あるいは技術的背景を探っていってもそれはあまり意味をなさないでしょう。もちろん、ボーカロイドがどのような技術であるかということは、ボーカロイドの媒体としての性格を考慮するに当たっては重要な要因ですが、しかし一方でそれはその媒体としての性格をすべて決定するわけではない。あくまで重要なのは、今人々の中で、ボーカロイドがどのような存在として"捉えられているか"です。
そして、その点でボーカロイドには、二つの重要な性質があります。

  1. 実在する「歌い手」を用いなくても、歌詞が付随する楽曲を作ることができる
  2. そのボーカロイドには、キャラクター性が付与されている

まぁ当たり前といえば当たり前のことです*3。この内1点目はまさしくボーカロイドがそういう「技術」として開発されたからそうなったという、技術的な性質といえるでしょう*4。しかし2点目の性質は、別にボーカロイドの技術的側面だけを考えるなら必要なかったわけで、事実現在ボーカロイドとして有名な「初音ミク」の前にもメイコとかカイトとかそういうものはあったわけですが、しかしそれらはキャラクターとしては認知されていなかったが故に、あまり人気はなかったし、そして「初音ミク」のフィーバー後は、それ以降に開発されたボーカロイドにキャラクター性が付与されたのと同時に、それ以前のメイコやカイトといったボーカロイドや、またボーカロイドではなくただテキストを読み上げるようなソフトにまで、「ゆっくり」というキャラクター性が付与されるに至ったわけです。現在のボーカロイドは、たとえどんなボーカロイドであってもこのようなキャラクター性から逃れることはできません。*5

ボーカロイドはそれまでの音楽と比べて何が違うのか

では、このような二つの性質がなぜ重要なのか?それを探るためには、それ以前のボーカロイドと似たような性質をもった媒体と比較する必要があるでしょう。具体的に言うならば

  • テクノ(ポップ)

  • アイドル

です。まぁ、これも感覚的には納得が行く話でしょう*6。電子楽器・機器を用いて楽曲を作るという点でまさしくテクノ的であり、そして作られた楽曲を歌う「初音ミク」のようなキャラクターは、まさしくアイドルとして扱われているわけです。
しかし一方で、このような二つとボーカロイドには大きな違いがあります。まず、テクノ的な曲においては、そもそも「歌詞」が存在しないような曲も多々ありますし、また歌詞が存在する局においても、それを歌う声は多くの場合、ボコーダーによって歪まされ、人間の自然な声とは程遠い、機械のような声で表現されることが多々あります。ところが初音ミクの場合は、そもそも「歌詞」がないような曲はボーカロイドに歌わせる必要もあんまりないですし、歌詞を歌うにあたって、多くのボーカロイドでは「いかに人間らしい自然な声を出させるか」という点が重要視され、また聞く側もそのような側面を重要視しています。このことは、記事の冒頭に上げた匿名ダイアリーの記事で

機械だからって「本物の声はなぁ…」っとか言って良さを「分かろうとしない」
みたいな╬機械だから何?それは確かに本物の声にも良さがあるよ。
でもそうだったら「ボカロは偽物」なの?違うでしょ╬クリプトンは本物の声の良さも消えない様に、両方を保ってるし。

という風に言われたり、またtwitterにおいて

妹の学校で、昼の放送でボカロ曲をかける事が禁止になった。理由は「機械だから」「歌詞が分からないから」。そんな理由で禁止にして欲しくない。機械だって、人の心を打つ素晴らしい歌を歌うのだ。そんな偏見は、ボカロPやプログラマーに失礼だと思う。そういう誤解はやめてほしい。

という風に、「人の心を打つ素晴らしい歌を歌う」ものとしてボーカロイドが定義されていることからもわかることでしょう(テクノ的楽曲においては、むしろ歌詞を訳わからなくして、「人の心を打つ素晴らしい歌」が絶対視される傾向に対するアンチテーゼこそが重要とされたわけです。
cf.YouTube
まぁただこの曲を聞けば分かるとおり、実は「オリジナリティがあり、人の心を打つ素晴らしい歌なんてもうない」っていうようなことを歌うことがある種の共感=人の心を打つみたいなアイロニーがある訳ですが)。
そして一方、「アイドル」と比較しても、初音ミクは確かにアイドル的性質を持つものな訳ですが、しかしそこにも旧来のアイドルとは大きな違いがあるわけです。既存の人間がやるアイドルの場合、そのアイドルには、例えば「清純派」や「セクシー系」であったり、「文化系」や「スポーツ系」、「癒し系」や「小悪魔系」というような性格・趣味・嗜好にさまざまな属性付けがなされ、それによって歌わせる曲なども決定していくわけです。ところが「初音ミク」やその他のボーカロイドの場合は、一応漠然としたキャラ付けはあるものの、容姿もそれぞれのイメージで微妙にずれますし*7、その性格は、個々人によって、時には正反対にズレたりするわけです*8。そして更に言えば、ボーカロイドは既存のアイドルにつきものの、いわゆる「スキャンダル」といったものから無縁です。自発的にタバコを吸ったり酒を飲むこともなければ、勝手に恋人を作ったりセックスすることもない。もちろん、個々の作り手がそういう物語を作ることはできますが、しかしそれはあくまでその作り手によって作られる「物語」であって、そういう物語が好きならそれを受け取ることもできるし、嫌いならそれを拒否することもできる。決して「初音ミク」といったようなボーカロイドのキャラクターそのものを書き換えることはできないのです。
このような点は、ボーカロイド支持派に往々にして「理想のアイドルを可能にするもの」として肯定的に捉えられます。しかし、それは本当に良いことなのか?スキャンダルとかを持つことはなく、完全に自分のお好みの「アイドル」的キャラクターをもてることが、本当に素晴らしいことなのか?実はそれこそが、ボーカロイドを認めるか嫌悪するかの、重要な違いなのです。

ボーカロイドのどのような点が好かれ、嫌われるのか

「テクノ・アイドル」と「ボーカロイド」を比較することにより、ボーカロイド肯定派は一体なぜボーカロイドを好きであり、それに対しボーカロイド否定派はなぜボーカロイドを嫌悪するのかが、明白になります。
まず、ボーカロイド肯定派からすれば、ボーカロイドという存在は、これまでのテクノやアイドルといった存在が内包していた欠点をなくした素晴らしいものと捉えられるでしょう。結局既存の素晴らしい楽曲に対するアンチテーゼとアイロニーでしかなかったテクノに対し、ボーカロイドは、私たちの使える技術で、十分「人間らしい」、「人の心を打つ素晴らしい歌を歌う」ことができるのだと。これは言い換えれば、結局ネガティブな諦めしか歌えなかったテクノ的なものに対して、ボーカロイドはポジティブな希望を提示することができると。ボーカロイド肯定派は、冒頭で紹介した記事に示されるようによく「ポジティブであることが重要なんだ」と述べます

いろいろなところで話していることだが、
「ハジメテノオト」がなければ自分はボーカロイドオリジナル曲を
発表するに至っていないだろう。
ボーカロイドオリジナル曲を作るようになって、
物事を前向きに考えられるようになった自分が確かにいる。

それがプギャーだと思うならそれでも構わないけれど、
世界中で何百人、何千人と自分の作品を聴かれていることに
誇りを持てないのはただの謙遜だと思うから、
自分はボーカロイドの楽曲を作ることで
自身のポジティブなメンタリティーを沢山生み出しているとはっきり言っておく。

もう一回。

上に挙げたような曲たちがなければ、今の自分はいない。
今の自分は決してネガティブな方向を向いていない。
むしろボーカロイドの曲をきっかけに自分はポジティブな方向を向いている。

が、このようなポジティブさの無制限な賞賛は80年代〜90年代の空気とは大きく異なる、まあ言ってしまえばすごく「ゼロ年代」的なものだといえます。
そして、それがポジティブなものであるためには、当然人々の気持ちを落胆させてしまうような「スキャンダル」的なものとは無縁でなくてはいけないわけで、その点で、初音ミクは今までのアイドルの欠点をなくした、理想の「アイドル」でもあり、人々を元気付けてくれる素晴らしい存在だとなるわけです。
しかしそのような点に対し、ボーカロイド否定派は、ボーカロイドは、むしろ今までテクノやアイドルが抱え込んできた重要な「問題意識」を無視していると捉えているわけです。つまり、ボーカロイド否定派にとっては、ボーカロイド肯定派が「欠点」とみなしたような点こそが、むしろテクノやアイドルにおいては重要な「長所」となるのです。
例えばボーカロイドがより「人間らしく」、「人の心を打つ曲」を目指すこと。これは、ボーカロイド否定派から言わせれば、それまでテクノがずっとこだわってきた「人間性への懐疑」、「人の心を打つことへの懐疑」を忘れ去ったものに写ります。ボーカロイドに「人間らしく」歌わせれば歌わせるほど、そこでは「でも結局機械に歌わせている」ということは忘れられていき、人間じゃないものを人間であるかのように扱うことによるさまざまなおかしさは消えていくわけです。例えば、ボーカロイド楽曲においてもよく「この曲泣ける」というようなことが言われるわけですが、しかしよく考えたら機械であるボーカロイドが涙することなんかありえないわけで、そこで感情を持ち得ないものが感情を持っているかのように偽装することはおかしくないかと、人間でさえも、「感情を持って歌うってなんかうそ臭くない」ということが言われて、感情を無化したような歌い方がこれまでもてはやされてきた
cf.Kraftwerk - The Robots - YouTube
のに、なんで機械そのものであるボーカロイドが「感情豊かな」楽曲を歌えるのかと、それは欺きではないかという風に移るわけです。ここでは、ボーカロイド肯定派が賞賛していたボーカロイドの「ポジティブさ」が、むしろ能天気さとして写るわけです。
そしてそのようにボーカロイドが「感情を持つかのように扱われる」ことへの疑義は、「そもそもその『感情』はもともと誰のものなのか」という問題へ発展していきます。
ボーカロイドは確かに既存のアイドルと違い、完全にそれをまなざす消費者の理想に則したものです。ですが、それは逆に言えば、そこでは「他者」といものが全く存在しないということでもあるわけです。
例えばあるアイドルがスキャンダルを起こしたり、自分がそのアイドルに抱いていたイメージとは全くかけ離れた楽曲を歌ったとします。この時、短期的に確かにそのアイドルのファンである「自分」はとても怒るでしょう。しかし一方で、そこで「自分」は、アイドルというものを決して自分の欲望どおりには動いてくれない「他者」として認識もするわけです。そしてそこでは、そのアイドルと離れることにより、そのアイドルに抱いていた「こうあってほしい」という欲望を全面的に断念するかもしれないし、あるいは「まぁこういう側面もしょうがないよな」と欲望の一部を断念することによって他の欲望を満たそうとしたり、あるいは「でもこういう側面も結構好きかも」と自分の欲望を変化させることもありえるかもしれない。いずれのケースであっても、そのアイドルを「他者」として認識することにより、その人は、自分の欲望が全面的に受け入れられることっていうのはありえないことであることを学習し、そんな中でも他者とコミュニケーションすることにより一部満たすことができるということを試行錯誤できるわけです。
ところがボーカロイドの場合、結局そこには「他者」は存在しません。ボーカロイドのキャラ付けが気に入らなかったら、それを排斥することにより、自分の好む形でのボーカロイド像のみを摂取し、自分の欲望を全面的にボーカロイドに投影することができるわけです。ですがそうすることによって、人々はどんどん自分の欲望に閉じこもり、それをあきらめて「他者」とかかわることが出来なくなってしまうのではないか、という危惧が生まれるわけです。
そして更に言うならば、作り手にとってもボーカロイドが「他者」たりえないということは重要な問題です。例えばアイドルの場合、いくら自分が「こういう楽曲を歌わせたい」と思っても、アイドルやマネージャーは「それは歌いたくない」と言い、そしてそれにより、楽曲を歌わせることをあきらめたり、あるいは楽曲を修正することがあり得たりする。このことは、確かにその作り手自身にとっては辛いことでしょうが、しかしそのようなプロセスは一方で、その楽曲に「社会性」を与えるともいえるわけです。しかしボーカロイドの場合、それこそ作ろうとすれば一人で楽曲を作れてしまう。それは確かにストレスフリーなことであるかもしれないが、しかしそうであるが故に、その楽曲は結局個人の欲望の垂れ流しであり、社会性を獲得し得ない。シンガーソングライターのように、作り手自身が歌い手の場合は、それでも自身が歌うことにより、それに対して直接聞き手が反応し、最低限の社会性は生まれるかもしれないが、ボーカロイドの場合、あくまで聞き手が聞くのは「ボーカロイドが歌う歌」なため、それへのコメントも原理的に「そのボーカロイド」への反応とならざるを得ない。もちろん、論理的にはそれは完全に作り手の統制で作られた以上、「ボーカロイドが歌っているもの」=「作り手が歌わせているもの」となるわけですが、しかし感覚的に、「自分が歌っているもの」に何かコメントされることと「ボーカロイドが歌っているもの」にコメントされることの両者を比較するならば、後者はより傷つかないものとなってしまうのではないかという危惧が、あるのです。

まとめ

ここまでの議論をふりかえり、ボーカロイドの性質と、それに対する肯定派・否定派の見解をまとめてみましょう。

  • 電子楽器を使った現代音楽でありながら、「感情」や「人間らしさ」を表現することが出来る
    • 肯定派:自分たちの思いや感情をポジティブに表現できるからよい
    • 否定派:自分たちの思いや感情といったものが、本当に自分たちのものであり、存在するのかといったことへの問題意識にかけていて能天気
  • 既存のアイドルと違い、スキャンダルや自分の理想とのズレがない
    • 肯定派:自分の欲望を完全に満たしてくれるからよい
    • 否定派:自分の欲望が絶対のものではないことを学ぶ機会が生じえず、社会性のないメッセージを大量に生み出してしまうのではないか。

しかし、このようなまとめが極めて単純で図式的なものであることは否めないでしょう。僕が前回の記事(ボーカロイドが嫌い - 斜め上から目線)を書いたときは、まさしく上記の構図にあてはまるような曲ばっかりであり、だからこそ僕は非難したわけですが、しかし最近は、例えばwowaka氏の楽曲なんかは割りと人間らしさとか感情移入的側面が良い意味で薄かったりして結構好きだったり(それでも一部感情的な部分は残っている「ローリンガール」とかは嫌いだけど)
初音ミク オリジナル曲 「裏表ラバーズ」 ‐ ニコニコ動画:GINZA
また前回の記事で酷評した「初音ミクの消失」を作ったcosMo氏も、初音ミクというキャラクターの「アイドル」性を疑うアイロニーを内包した「初音ミクの分裂→破壊」という曲を作ったりしていて*9
初音ミクアペンド総出撃オリジナル組曲 「初音ミクの分裂→破壊」 ‐ ニコニコ動画:GINZA
結構そこらへんで前と比べて状況は改善したと言えるでしょう。ただその一方で、今まで述べたようなボーカロイドの矛盾や危険性、それを自覚したアイロニーなんかを全く内包せず、ただ「感動できる歌詞歌わせてみんなで萌えればそれでいいじゃーん」的な楽曲(前回の記事で示した「恋は戦争」のようにね)も依然として多いわけです。また、僕が嫌いな作り手にほぼ日Pという人がいたりしますが、彼の楽曲
【初音ミク】馬鹿が見るテレビ【オリジナル】 ‐ ニコニコ動画:GINZA
なんかは、僕からするとまさしく「自分の政治的主張を示したいという欲望を『ボーカロイド』のキャラクター性を悪用して押し付ける」作り手として大嫌いなわけです。
ただ、こういう風に書くと「結局作り手によってぜんぜん楽曲の性質は違うから、ボカロ全体についてどうこうは言えない」っていう風に誤解して解釈する人が居そうなので一応注釈しておくと、上記で賞賛した曲と貶した曲の違いは、それがボーカロイドの危険性とアイロニーにどれだけ自覚的であるかなんですね。だからボーカロイドというもの全体について嫌悪するか肯定するという議論がまず先にあるからこそ、そこで「でもそれに自覚的であるからまだ認められる」か「全然だめ」かの違いが出てくるわけです。
だからこそ、ボーカロイドについて肯定するにせよ否定するにせよ、まず重要なのは、そもそもボーカロイドとは一体どのような性質を持つものなのかをきちんと見極め、そしてその上で、ボーカロイドの何が好きなのか、あるいは何が嫌いなのかをきちんと発言し、議論することなのです。それをせずに自分と同じ意見を持つもの同士で凝り固まって「ボーカロイドだからって学校でかけちゃいけないとかひどいよねー」とか喋っているだけなら、そんなものはずっと社会で認められず、学校で掛けることも許されないでしょう。そこで「じゃあしょうがない」と公共の場から撤退するか、あるいは議論を尽くしてでもみんなにボーカロイドの良さを広めたいか、拡大するボーカロイドファンは、今、大きな選択を迫られているのでは、ないでしょうか。

*1:時系列からいったらばらばらだけど、まぁこの2年の間にそういうことが同時並行的に各所で起こってきたというわけで

*2:情報を伝達するもの

*3:しかしいったんボーカロイドを肯定するか否定するかの議論になると、このごくごく当たり前の性質が忘れ去られ、ボーカロイドがまるで単なる楽器であるかのように言われたり、ボーカロイド楽曲と普通に「歌い手」が歌う曲に何の違いもないように議論されるから不思議だ

*4:ただそこで、ボーカロイドが既存の歌い手を大体までしてしまうといことを、技術を開発した側が考えていたかには疑問符がつく、というかそこまで考えてはいなかったわけですが

*5:別にここで「キャラクター的でないボーカロイドはありうる!」という意見に配慮して、この記事ではそういうボーカロイドではない、現在流行している「キャラクター型ボーカロイド」について論じるものです、という言い方をしてもいいんですけど、敢えてそれはしない。ただそこでどーしてもキャラクター的でないボーカロイドを認めたいというならば、別にそういう風に、この記事はボーカロイド全体について論じているのではなく、ボーカロイドの中の「キャラクター型ボーカロイド」について論じているのだと解釈しても、僕は止めません。

*6:というか、音楽ジャンル的にいうならば、この二つのジャンルはボーカロイドというジャンルの父と母であるといっても別に過言ではないでしょう

*7:初音ミクのおっぱいの大きさが描き手によって大きく変わるのは一部の筋では有名な話

*8:ちなみに僕は、キャラクターとしての初音ミクを見る場合、ヤンデレミクが好きです。とことんどーでもいいことですが

*9:初音ミクの消失」が気に入らなかったのは、結局初音ミクは絶対に「消失」することなんてありえないのに、そこで無理やり「消失」という物語を偽装することによって、「生まれて死ぬ」人間性を偽装し、しょーもないkey的な感動物語を作ったことにあったわけで、だからこそ自分のパソコンからアンインストールしようが勝手に他の人が別の「初音ミク」をどんどん作っていくっていう点をきちんと見つめている「分裂」は結構好き