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輪るピングドラム2話感想:荻野目苹果ちゃんかわいいよ!

というわけでまたまた『輪るピングドラム』ですよ!(一話感想はid:amamako:20110709:1310224367でどうぞ)

多くのアニメにおいては、最初の一話っていうのは当然視聴者を惹きつけるために、そのアニメの魅力をありったけ詰め込んだ密度の濃い内容になります。しかしそれに比べて二話っていうのは、よく言えば落ち着きが出てきて、悪く言えば多少ぬるくなってしまうものなんです。
しかし輪るピングドラム二話にはそんな落ち着きは一切ありませんでした。一話の密度を保ちながら今回も全力疾走。ストーリー、演出、作画全てとことん作り込まれていて、いやーほんとこんなアニメが無料で見られるなんて幸せだよなぁと思うと同時に、こんな調子で二クールアニメやって大丈夫かなぁ……TV版エヴァの最後のほうみたいになったりしないかなぁ……というような、贅沢な不安まで抱かせるような内容でした。*1
さて、内容に関しては、それこそ第一話と同じく、今回も色々語りたいことは山ほどあって、例えばペンギンさんが予想以上に可愛いキャラクターだったとか、ギャグの冴え渡り*2とかも語りたいんですが、ただそこら辺の話は、正直アニメを直接見ている人なら感覚的に分かっていることでしょうし、その感覚を上回る説明ができるとも思えないです。
なので今回は

  1. 生存戦略シーンの「意表をつく反復」
  2. 丸ノ内線がつないでいるのは何なのか
  3. ヤンデレという運命論

の3つのテーマから、まわピン*32話について語っていきたいと思います。

1.生存戦略シーンの「意表をつく反復」

今回の2話を見ていて、やっぱ一番最初にビックリしたのは、お話が始まったころにいきなり「せいぞーーん、せんりゃくーーーーーー!」が来たことでしょう。もうちょっと何かお話が流れてから生存戦略がくるのかなーと思ったらいきなりですから。
でもよく考えたらあそこが一番「意表を突く」という点では効果的なわけです。そして生存戦略のシーンを使うときは、その「意表を突くこと」が、一番重要なんですね。
生存戦略シーンというのは、ちょっとアニメに詳しい人なら分かるとおり、いわゆる一つの「バンク」です。一つのアニメ作品の中で、同じ映像を毎回使うテクニックで、魔法少女とかの変身シーンに使われ、幾原監督がかなり得意とするテクニックなわけです。
このテクニックの良い点としては、もちろんそれぞれの作品の作画枚数を節約できるっていう点もあるんですが、しかしそれだけではなく、同じシーンを毎回挿みこむことによって、作品に統一感が生まれるというのがあります。例えば美少女戦士セーラームーン、あれはかなり長いアニメで、それぞれの回のお話にもかなりのバリエーションがあった訳ですが、しかしあの変身シーンのバンクが挟み込まれることにより、これは、『美少女戦士セーラームーン』というアニメの中の一話なんだな、ということがはっきりするわけです。
しかし一方で、このテクニックには欠点もあって、やはり同じシーンですから、何回も見ているとマンネリになり、飽きてしまうことも多々あるわけです*4しかし、今回のように、それこそ視聴者の意表をつく様な形で流すことによってそういう飽きを避けることが、可能になる。むしろ「いつ生存戦略が来るんだろう」というドキドキ感が味わえるわけです。
そして、実はこの「反復するモノが、逆に予想できないものとなる」という演出は、実は作品の本質ではないかとも、言えると思います。丸ノ内線の形状に何か意味が込められているのではないかというのは、前回の記事でも論じたことですし、2ちゃんねるの考察などでも言われることですが*5、丸ノ内線の形状は、一旦東京の非技師に行って戻ってくるという形で、ループに近くありながら、しかし同じ場所には戻らない、そんな特徴を持つものなわけです。それと同じように、このバンクも、それ自身はループでありながら、しかしループにはならないという性質を表しているように見えて、ではそのような意匠が作品とどのように関わってくるのか、より一層気になってくるわけです。

2.丸ノ内線がつないでいるのは何なのか

というわけで、やっぱりこの作品を論じるなら、絶対語らなきゃいけない要素の一つである「地下鉄丸ノ内線」についてです。
いやー、前回の記事であれだけ「丸の内線が重要になる!」とと言いながら、全然出てこなかったらどうしようかと、内心ヒヤヒヤしていたわけですが、今回も多く登場していて、内心ほっとしています。*6
さて、今回は荻窪と池袋の他に、東高円寺なんて駅も登場しました。そして、池袋に関しては東口の風景が描かれたり、荻窪駅前も風景もかなり描かれたりしていたわけです。このように実在の場所を写実的に描くことによって作品を「土着性」を示し、安心感を得られるようにするって言うのは、近年のアニメ、特に「聖地巡礼」が話題になるようなアニメではよくやられることです。そしてこのアニメもそのような聖地巡礼アニメ的な流れに沿ってはいるのですが、しかし一方でその流れからはみ出している感じも見受けられるのです。つまり「土着性」がないのですね。
例えば池袋のシーン、それこそ池袋っていうのは、『池袋ウエストゲートパーク』というドラマもありましたし、アニメでは『デュラララ!』なんていうアニメもあって、かなり東京の中でありながら「ローカル」なものを感じさせる街でもあるわけです。しかし、少なくとも今回のアニメでは、池袋はあくまで降りる駅の一つであり、きちんとした目的があっていくところで、故に「池袋っぽさ」みたいなものも特には描かれないわけです。もしここで池袋っぽさが強調されるなら、このアニメは『花咲くいろは』みたいな「ご当地アニメ」と見ることも可能になるわけですが、しかしどうやらこのアニメはそういうアニメではないらしいと。
ここでやはり重要なのが、「地下鉄」というものの特徴なんですね。バイクや車や、あるいは通常の鉄道といったものは、当然その外に一体どんなものがあるのか眺めることが出来ます。そしてそこから、景色の移り変わりを見て「あー自分はこんな所からこんな場所を通ってここへ来たんだ」と実感することができる。ところが地下鉄の場合、ある場所から一旦地下に潜り、そして電車に乗って目的駅に行き、目的駅から出ると、そこで全く違う街に出る。いうなればワープのような感覚を味わえる交通機関なわけです。*7
これってある意味現代における人々のライフコースを表象しているともいえるでしょう。前近代、日本で言うならば江戸時代ぐらいまでの人々は、それこそ自分が生まれた場所・地位からはみ出ることなく、それを当然のものとして一生を終える。ご当地アニメみたいなものが目指す「土着性」は、これをもう一度再構築しようという試みと捉えることも可能です。
一方、近代、日本で言えば明治時代になると、人は生まれた場所や地位を、いつかは離れ、立身出世していくというライフコースへと変化していく。これは言うならば自動車のように、ある場所に行く意思を持って進み、そして様々な学校や、ある学校の部署・職階を体験しながら、しかし一つのところで留まることなく、進んでいくというものです。ただここにいたっても、それこそ「学生時代を過ごした学校があった静岡」とかいうようにそれぞれの「土着性」は、限定的にせよ確保されていたわけです。
ところが現代においては、そのような確固としたライフコースはもはや存在せず、雇用を含めた社会制度が流動化していく中で、個々人はまるで嵐の中の木の葉のように、自分がどこに行くかも分からず、それこそ「運命」に翻弄されるわけです。まさしく地下鉄のように。そのような世界では街は、その「土着性」というものはそもそも確保できなくなり、ただ「ツバメを写真に撮る場所」みたいな目的がある場所でしかありえず、逆に言えばそうではない「なんとなくその街の雰囲気を味わいたくなったから行く」みたいな場所ではなくなるのです。
そのような現代的な「運命」が、地下鉄という存在の描き方には含まれているのではないでしょうか。

3.ヤンデレという運命論

では、そのような「運命」にどのように対峙していくか。このアニメの主題はまさにそこにあるわけですが、まず第一話で示された対立としては「運命を受け入れられずに立ち止まる」か、「運命を受け入れて前に進む」という兄弟の対立だったわけです。しかしそれに対して今度は「運命は好きか嫌いか」という対立軸を、今回登場した荻野目苹果ちゃんは示したといえるでしょう。兄弟にとって、妹は死んでしまうは、生き返ってしまったら今度はピングドラムを探さなきゃいけないなんて言われるような運命なんてものは、それを受け入れるか受け入れないかはともかくとしても、決して好きになれるものではありません。ところがこの苹果ちゃんは、運命は好きだと言い張る。そして、運命を実現する存在として、その運命の保障の元に、ストーカーまでしているわけです。まぁ、典型的なヤンデレとして描かれるわけですが、では、ヤンデレとは一体物語にとってどーいう意味を持つキャラクターなのか?
ヤンデレブームは、最近ではそれほどではありませんが、ゼロ年代の後半ぐらいにはかなり盛り上がり、今だってむしろ一つの萌え属性として定着した感のある、ムーヴメントです。ただ一方で、ヤンデレは、僕を含めた一部の人の熱狂的な支持と、大多数の興味関心は惹くものの、大勢に普及がしていないのもまた現状です。ツンデレやら無口やらっていうのは、まぁ男性の古典的欲望ですから、(僕に取ってはつまらないですが)理解はしやすい。ところがヤンデレは、「好きすぎて殺しちゃう」とかいう属性で、まぁまともな感性をしている人なら「なんでそんな女の子が良いの!?」と首をかしげてしまうのでしょう。
ヤンデレという属性、及びそのヤンデレに萌えるとは一体どういうことなのか、僕もずいぶん前から考えてきて、いくつか記事も書いています(http://www.ymrl.net/sjs7/Rir6/2008-02-24.html#1203831679相互理解不可能性としての「狂気」を噛み締めて、それでもコミュニケーションをしていく - 斜め上から目線)。ただ、それだけ考えてもやっぱり何で自分がそこまでヤンデレを好きなのか完璧には理解出来ないわけですが、まぁ大きな要因となっているのは、「何の根拠もなく好きになってくれるなんて、病気の女の子じゃなきゃありえないじゃないか」という感覚なのです。まわぴんに即した用語で言うならば、「なにか理由があるのではなく、それが『運命』だから好きになってくれる」というわけです。
例えば、苹果ちゃんは「運命の出会いって言葉は素敵じゃない」ということを言って、運命を肯定します。運命の出逢いとは一体何か?それは、決して当人たちが最初から望んでいたり、それを目的としたわけではないということです。運命の出会いの反対としては、「お見合い」や「合コン」といった、望んだことによる出会いがあるでしょう。まず最初に「相手の家柄がきっちりしている」とか「年収一千万以上」とか属性で限定をかけ、そしてその限定に適合する中でより好条件の相手を見定める。しかし、そんなものはヤンデレの女の子や、そのヤンデレに萌える僕みたいな「男の子」からすると、恋愛と呼ぶに値しないものと言えます。だってそれは、結局「その人」が好きなのではなく、「その人の年収(家柄、容姿etc...)」が好きっていうことなわけですから。もし真にその人が好きなら、その人がどんな状態―例えば無一文になろうが、いきなり魔法をかけられて蛙になろうが―でも好きになるはずなんです。しかしそうだとするならば、そこでは逆に「その人を好きな理由」っていうのも見いだせなくなってしまう。そこで、そのような状態で愛を肯定するためのゼロ記号が「運命」なのです。「運命だからあなたを好きになり、恋愛に至るのだ」と。
このようなヤンデレ的な恋愛論・運命論は、しかし現代に生きるなら必然ともいえるでしょう。もう一度、前節の「現代の運命は地下鉄的である」という話を思い出してください。私たちは流動化の中で、自分たちがどんな存在になるか、あるいは全くなれないかは、自分では全然操作できない存在となっているわけです(まさしく「きっと何者にもなれないお前たち」!)。とするならば、そのような状態で属性にこだわって恋愛をすることは、その属性がいつ失われるか分からない(それこそ年収なんて会社をリストラされたらあっという間に0円になる)わけで、運命以外のものを根拠として恋愛をするのは不可能なのです。また、そのような環境では、出会いもまた、自己の制御の範囲外の「運命的なもの」でしかありえないわけで、恋愛のきっかけも、恋愛の根拠も、「運命」が作り出す物となるのです。そしてそれは、その運命が実質何も意味していないゼロ記号である以上、病的な「ヤンデレ」でしかありえないのです*8
つまり、現代においては恋する女の子は「運命」という地下鉄に乗るヤンデレでしかあり得ないのです!だから苹果ちゃんはかわいいし正義なのだ!*9
さて、ではそのような現代に必然的なヤンデレという「恋する女の子」に対し、このアニメは一体どういう答えを出していくのか。次回も生存戦略しなくちゃなぁ。

面白い批評

さて、段々まわピンについては色々面白い評論とかが出回ってきました。今回の記事では、最後にその中から、次の二つを紹介して終りにします。

失われた何か 輪るピングドラム 挿入歌「ROCK OVER JAPAN」から生存戦略を考える

生存戦略のシーンの挿入歌である「ROCK OVER JAPAN」から作品のメッセージを読み込もうとする記事。そうなんですよね。なんでわざわざあんなバリバリのロックなのか?普通にアニソンの新しい曲を作ってもいいし、それこそウテナみたいにちょっとサブカルっぽい臭いのする所から曲をもらってもいいのに、一体何故なのか?この記事では、曲の歌詞のポジティブさが重要なんではないかと睨んでいますね。
ただ僕は、この曲の使い方にはもうちょっとアイロニー(皮肉)を含んでいるんではないかと思ったりもします。ロックっていうのは、最初は「反抗のロック」という意味合いがかなり強い文化で、それこそ60〜70年代なんかにベトナム戦争反対など、数々のプロテストがロックによって行われていてもいるわけです。
ところが80年代に入ると、ロックというのはそういう「大きな敵」を失っていきます。そんな中でロックは、個々人の「人生」を応援するものとなっていくんですね。もちろんその中でも個々人の人生を抑圧する「大きな敵」っていうものは描かれることは多いわけですが、しかしそれよりも重要なのは「どうやってポジティブに生きるか」みたいな問題になってくる。80年代ロックの代表であるTHE BLUE HEARTSなんかも、社会にプロテストする曲を歌いながらも、まぁどっちかというとそういう側面よりは単純に「明るくて前向きになれる」みたいなところが受けたわけです。
そーいう80年代ロックは、しかし90年代になると、時代についていけなくなります。THE BLUE HEARTSが宗教の問題から解散したという話は有名ですが、大きな敵と戦ったり、個々人をポジティブにすることは、もはやロックではなく、宗教の役割となってしまったのです*10。そして日本は失われた十年(もう二十年だけどw)に突入し、ロック的なポジティブさがなくなっていき、それこそ「病んでる」系の歌やら、あるいはただ単純に日常を肯定する歌ばかりになっていく……
つまり、80年代ロックのポジティブさって言うのは、ある意味そのポジティブさが裏切られる前の、花火の最後の輝きみたいな側面も、現代から見れば残念ながら持っている。実は、そのポジティブさの危うさこそが、この曲を解釈する時に重要になるのかもしれないとも、思ったりするのです。
そしてだからこそ、それこそこの80年代ロックを現代アニソンっぽくして、現代にひきずりだそうとしているのではないかと、解釈できるのです。
ただ一方で単純なアイロニーだけでなく、そのような意味をも含んだ上で、しかし「失敗した80年代ロック的想像力を取り戻す」というようなポジティブさもあるのかもしれない。そういう点で、やっぱりこれから「生存戦略」のシーンが一体どう使われるのか、注目すべきといえるでしょう。

2011-07-15 - 偽日記@はてな

二話感想。この古谷氏は画家だそうで、さすがそれぞれの場面の構図からの読み取りがすごいです。「地下鉄の外ではモブは記号的なのに、地下鉄の中でははっきりと描かれる」という指摘はまさにハッとする指摘でした。
しかし一方で、地下鉄の外でも「水族館」においてはモブが描かれていたわけです。とするならば、現在このアニメでは「地下鉄」と「水族館」が重要な場所として描かれているわけです。さて、では次にモブがきちんと描かれる場所はどこなのか?このアニメでは、そういうそれぞれの「場所」の特質なに注目することが、物語を読み解く重要なヒントとなるといえるのでは、ないでしょうか。

*1:でもま、そこら辺は総集編でもやれば……っていうと怒られるのかしら。いやでも最近のアニメってむしろ総集編が全然なくてつまらないっていうのが僕の持論でもあるのだ。

*2:90年代のギャグ黄金期と違って、ゼロ年代のアニメって面白いアニメでもギャグ部分は滑ってるものがかなり多かったからねぇ……そこはさすがベテランという感じ

*3:前回の記事ではピンドラと言ってましたが、まぁこっちの言い方の方がなんかしっくり来る気がしたのでこっちの略称に変更。まぁ色々試行錯誤してみます。

*4:まぁこの「生存戦略」のシーンは、ほんとただでさえ面白いまわピンの中でも一番クオリティが高い映像を示していて、映像と音楽が最大限に組み合わさり、見ているだけでアドレナリンがドバドバ出てくる映像なので、もしかしたらただ漠然と2クール使っていたって飽きることはないのかもしれませんが

*5:[http://otanews.livedoor.biz/archives/51803932.html:title]参照

*6:まぁ、あれだけOP映像に登場していますから、物語に全く関係ないってことは十中八九ないわけですが

*7:ただ一方、丸の内線を知っている方ならご存知のとおり、丸ノ内線って結構地上に出るんですよね。だからもしかしたらそれこそが、この地下鉄という表象に穴をあける重要な点となるのかもしれませんが、それについてはもうちょっと見てみないと何ともいえないところも……

*8:どっかのおえらい海外の社会学者さんは「現代における純粋な関係性=恋愛は、かならずアディクションヤンデレにならざるをえない」と言ってたような言ってなかったような

*9:それが言いたかっただけなんじゃねーの?

*10:そう考えるとオウム真理教幸福の科学って実に象徴的だ