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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

キャラクターは「友達」だよ

うたわれてきてしまったもの - 梅ラボmemo?
週刊金曜日ニュース» ブログアーカイブ » 萌えアートを斬る!(アライ=ヒロユキ)
ニートのかんさつ日記EX
カオス*ラウンジは他のコミュニティから収奪を行うが故に非難される
多分、カオスラウンジには本来二つのやり方があったのだろうな。
一つは、それこそ現代アート界隈とも、ふたば界隈・同人界隈とも、適切な距離を保って、きちんと真面目に独自の創作活動を行うことによって、双方のコミュニティに利益をもたらし、それによって双方と適当に仲良くやっていくこと。なんか真っ当できれいな同人でも作ったり、あるいはツールや独自のキャラクターなり提供して、「よく分かんない連中だけどまぁ面白いものを見せてくれそうだ」みたいな評価を得ながら、「現代アート」という名の同人活動を続けていく。まぁ、そんなもん普通の同人と一体何が違うの変わらんし、そんなものが「アート」として認められる(でもまぁ、認められるでしょ)日本の現代美術の現状もクソつまんねぇなぁとは思うが、そうやって「小さな成熟」とやらを目指すのも、戦略としては悪くない。
しかし、そういうただのふたば界隈・同人界隈のケツ舐めみたいなことをしているのはいやなんなら、まぁ徹底的にケンカを売るしかないでしょうな。いくら相手に嫌われようが、ふたばやら同人やらのキャラクターを切り刻み、踏みつけ、その上に己の表現をエゴイスティックに描いていくしかない。当然、ふたばや同人とかとは戦争になりますよ。圧倒的に非はこっちにあるんだから。平和にのほほんとやっていたふたばや同人に勝手に土足で踏み込み、そこでその界隈の人々が大事にしていたものを無茶苦茶にする。正直、殺されたって文句は言えないようなことですよ。でも、それでしか自分が望む表現はできないと言うならば、それはやるしかない。そんなことすりゃあみんなから嫌われ、憎まれる。その憎しみを全て受け止めて、完璧な悪役として立ち振る舞い、自らの表現を実現するしかないでしょう。
ところが、カオスラウンジの連中がやってたことっていうのは、そのどっちでもない。ふたばや同人界隈に何の貢献をするでもなく、ただそのコミュニティからキャラクターを収奪し、ひどい目に合わせる。ところがそうやってひどい目に合わせながら、いざ相手から抗議が来ると、「私たちはあなたたちのことが好きなんです」だの「ふたばのキャラクターはすばらしい」だののらりくらりと言い訳をして、何とか憎しみを買わないようにする。戦略も何もあったもんじゃない。ただ場当たり的に「他人に嫌われるような表現をやりたい。でも他人には嫌われたくない」という願望のもと、行動を起こすわけだが、そんなものが通用するわけがない。と、そんなわけでカオスラウンジは戦略的にも大失敗し、もうどの面を切り取ってもしょーもないような、そんな騒動を引き起こして潰れていったわけだ。

「3.11で物語が変わった」という議論のカオスラ的しょーもなさ

で、だからカオスラウンジなんてしょーもない連中は本当はブログ記事で取り上げる価値さえないと思うのだが、しかし何でここであえて取り上げたかといえば、それは実はこういうカオスラ的なしょーもなさっていうのが、オタク自身にも蔓延しつつあるのではないかと思うわけだ。特に、3.11以降、あの3.11で物語の意味が変わったとか言っている連中は、みーんな多かれ少なかれこーいうカオスラ的しょーもなさを持っているといわざるをえない。
例えばよく言われる「3.11で日常系は終わった」みたいな議論。結局それって、ただ単にそういう議論をする人が「日常」を維持できないぐらい弱ってるだけなんであって、そもそも震災以前においたって、突然の死やら別れっていうのは普通にあった。だが、そうであっても敢えてそれを見ないふりして、日常を楽しむ、「日常系」とは元々そういう覚悟のもとに成り立っている物語ジャンルなのだ。そこであんたの心が弱って日常系についていけなくなったのは、まぁ可哀想ですねとき思うが、そこで「日常系は3.11以降は不可能になった」なんて過度に一般化して、周りを巻き込もうとするのはやめていただきたい。
そして、そーいう連中がさんざん日常系を罵倒した後に、何を言うかと思えば、それこそ最初のリンクに載っているような、「キャラクターの神性が私たちに救いを与えてくれる」みたいな議論なのだ。だが、それは二重の意味で卑怯だ。そもそも、キャラクターというのはあくまでそのキャラクターがどのような「日常」をおくってきたか、そういった土台の上に成り立つのであって、そしてその土台は、まさしく絶え間ない「日常系」を維持する営みからしか生み出されない。逆に言えば、そーいう営みを忌避し、ただ「日常は終わった―」なんて叫んでいる連中には、そもそもキャラクターに救いを求める資格なんてないのだ。
そして、更に言えば、そういう連中っていうのは、キャラクターに救いを求めるとか言っているけど、その内実は、キャラクターを必要としているのではなく、キャラクターというフィルターを経由して、「自分」に自分を救ってもらいたがっているだけなのだ。要するにただの自己満足。本当は、自分こそが「自分は生きたい」と思っているはずなのに、そういうことを思う自分を直視できないから、キャラクターというフィルター越しに、「キャラクターが自分に『生きろ』と命じている」なんていう風にして、自分で自分に承認を与えようとしている。しかしそこでは、キャラクターはあくまで「自分」というものを映し出す存在にすぎず、そこに真のキャラクター性なんてものは存在しないし、なによりそうやってキャラクターをフィルターにすることによって、真の自分から目を背ける。これはもう「卑怯」以外のなにものでもない。
このように日常系を、それを維持する努力をしたくないから否定して、しかしキャラクターを利用することはやめない姿勢。これはまさしく、コミュニティに対し一切貢献しないでいながら、しかしそのコミュニティから生まれるキャラクターは何の恥らいもなく利用する、カオスラ的しょーもなさと、同じものであると、いわざるをえない。

3.11を越えて

極めて、極めて当たり前のことだが、3.11というものは、人類に訪れる数々の「災害」の一つであり、それは終末でもなんでもなく、例え3.11が来ようが人類は生き延び、そして日常を過ごさなければならない。それはオタクにとっても同じである。3.11が来ようが、僕らはいつも通りアニメを見て、そのキャラクターに萌えたりして、そして二次創作でそのキャラクターの同人を作ったりして、日々を楽しく生きていく。
そこにおけるキャラクターは、決して「神」なんではありえない。だって、そんな神様になってしまったら、僕らはそのキャラクターに萌えられないじゃないか。みんなで作ったキャラクターに萌えて、自分の心の穴を埋めようとして、でもそれは決して全てを埋められなくて、それで時にはむしゃくしゃして、八つ当たりしてそのキャラクターをひどい目に合わせたりする。そんなことをずっと繰り返しながら、僕らはキャラクターと“共に”生き続けていくのだ。それは、例えるなら「神」ではなく、「友達」のような関係なのだと思う。
もし、3.11が、何かオタクの物語に変化を与えるとするならば、あの「災害」を通り抜けた、からこそ、そういう当たり前の関係に気づき、そしてそういう関係をこれからも続けていく、そう、気づけたことこそが、重要なはずなのだ。