あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

ある中二病アニメオタクの半生

まどマギについてずーっと引き続きtwitterで愚痴っている中で、ふと、何で自分がここまでまどマギを大嫌いなのか、自分史と照らし合わせて考えてみたくなった。
そこでちょっと自分(1987年生まれ)のアニメ視聴史を振り返って、なんでこんなことになってしまっているのか、整理しようかなと思ったり。

幼少期(1987年〜1997年)

まずこの頃に見ていたアニメは、主に下記の三種類に分かれる

これらの内、ジブリ系はもはや説明不要だろう。要するにとなりのトトロとか、魔女の宅急便とか、あるいは天空の城ラピュタとか、そういうスタジオジブリの劇場アニメ作品である。

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ジブリアニメ、または宮崎駿作品を子どもに見せるというのがいつ頃から定番になったのかはよく分からないが、周囲の同年代の話を聞く限り、そんなに変わったことではないみたいだ。
また、ドラえもんクレヨンしんちゃんといったテレ朝ゴールデンアニメと、その劇場版も定番と言える。ドラえもんについては、古い作品はレンタルで借りられたし、新しい作品も随時放映され、劇場作品も一年ごとにやるのだから、子ども時代としては見ないほうがおかしいと言える。(『のび太と雲の王国』は、記憶に残っている中で、一番古いアニメの記憶。多分テレビで放映されたものをビデオに録画して、それを何度も見ていたからと思われる。)
また、クレヨンしんちゃんについても、TVアニメは楽しく見ていたし、また劇場版も、今でこそ原監督という戦犯*1により、「大人も感動できるアニメ」なんていうイメージがあるが、初期のクレヨンしんちゃん映画は、『アクション仮面VSハイグレ魔王』、『ブリブリ王国の秘宝』、『ヘンダーランドの大冒険』など、子どもをきちんと楽しませる作品だった。今まで述べたような作品については、僕と同年代なら、よほど親が厳しく、アニメなんかまるで見せてくれなかったという家以外、同意が得られるのではないだろうか。
ただ、うちの場合はここにちょっと特殊な事情が入り込む。それは、親がオタクであるということである。よって、90年代前半〜中盤のオタクアニメを、親と共に見る機会も、結構あったのである。
ただ、その頃の私はまだ10歳にも達していない頃だから、正直記憶はあんまり残っていない。正直、子どもの身からしたら、ビキニアーマーのおねえちゃんがはしゃいだりするアニメよりも、そりゃ自分たちと同年代の子どもが冒険するアニメを好むわけで、いっぱいそういうアニメを見ていたことは聞いているのだが、正直記憶には断片的にしか残っていない。
ただ、そんななかでも、何故か『無責任艦長タイラー』と、『天地無用!』は、少し記憶の隅にある。
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なぜかは正直よくわからない。ただ、タイラーは今でも大好きなキャラクターであることは声を大にして言っておきたい。

少年期(1997年〜2003年)

ちょうどこの頃は、新世紀エヴァンゲリオンと、その柳の下のどじょう影響を受けたメンヘル系なアニメや、またドラマの方でも野島伸司作品とかが幅をきかせてなーんか日本全体が病んでいる時代で、この時に中二病になっていたらそれはさぞかし楽しかっただろうなぁと思ったりもするわけだが、ただあいにく10歳ぐらいだとまだそういうことは分からず、せいぜい小学生の合唱で「残酷な天使のテーゼ」が、その時流行っていたアニメという理由で歌わされ、しかし当時地方在住でそもそも見てすらいなかった私としては、なんか訳の分かんない歌詞だなぁと思いながら歌っていた記憶しかない。
この頃見ているアニメとしては、次の三種類に大別できる。

月曜7時の日テレでは、金田一少年の事件簿名探偵コナンがそれぞれ30分ずつやるという時間帯で、こういう知恵によって問題を解決する物語っていうのは、あまり運動が得意でない少年にとっては身近なヒーロー像であった。特に名探偵コナンについては、最初の頃は確かクレヨンしんちゃんと時間帯がかぶっていたわけだが、その当時の少年が名探偵コナンに移動してしまうのに合わせて、クレヨンしんちゃんを時間帯移動させたぐらいの人気があった。また、明らかに綾波の影響を受けた灰原哀というキャラクターは、それまでの少年漫画アニメ系における活発系ヒロインがないミステリアスな魅力をたたえ、「エヴァまで複雑なものにはついていけないけど、なんか単純な少年漫画には飽き飽き」といった微妙な文化系少年の心をがっちりとつかみ、そして今も離していない。

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一方でまぁ推理系ではない少年漫画系アニメというものも人並みには見ていた。ただ正直、強いものこそが主人公であるという少年漫画のイデオロギーは(デスノートや神知る、スケットダンスのような、推理ものではないけど知恵で勝負するような少年漫画が流行っていない)この頃はまだ強く、運動が苦手な文化系少年にはちょっとついていけないものがあった。上記に挙げたような作品も、正直惰性で見ているか、あるいは地獄先生ぬ〜ベ〜の雪女みたいな、くせのあるヒロインを楽しむために見ていた覚えがある。
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これは、同年代の、文化系男子に聞いても多数が同意してくれるので、ある程度普遍性を持った答えではないかと思うのだが、当時私と同年代の文化系少年の多くは、少年漫画のアニメよりもむしろ、セーラームーンカードキャプターさくらこどものおもちゃといった、少女漫画原作のアニメを好んでみており、また記憶にも残っている場合が多い。初期のセーラームーンは割と戦隊物的なフォーマットでありながら、そこにほのかな恋愛も絡ませることによって、幼少期と少年期の橋渡しを見事に果たし、そしてカードキャプターさくらこどものおもちゃは、青年記のような悶々さがなく、かといって幼少期のように無邪気に振る舞えない、微妙な人間関係を上手く描いていた。また、少年漫画はジャンプ的なインフレの法則によりどんどん世界が肥大化し、そしてそれ故に日常空間からは乖離していき、すでに島宇宙化していた私達の身の丈に合わなくなりつつなり、むしろ少女漫画のほうが、少年にとっても、自分たちの「リアル」を描いてくれる作品として、人気を博していたのである。(その魅力的なキャラクターたちがおりなす物語は、多くの少年たちに「萌え」という感情を植えつけた。)
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(単なる「子ども騙し」ではなく、かといって背伸びをしなきゃ届かない「大人向け」でもない、まさしくその世代の同伴者として、私たちが本当に抱えている問題を、コミカルに、しかし赤裸々に描き出した。)
しかし、一方で今まで述べたような作品も、やはりエヴァや、それと連動した心理ブームに―敢えてこういう言い方をするが―惑わされた。後期セーラームーンは徐々に私たちの住む日常世界から離れ、神話の世界へと移行していった。それが当時の大きなお友達にどう受け入れられたかは知るよしもないが、少なくとも私は、その壮大な展開には正直ついていけず、特にセーラー戦士が全員死亡する展開にいたってはただただポカーンとするよりなかった覚えがある。まぁ、ほたるちゃんは可愛かったけどさ。
また少年漫画においても、例えばるろうに剣心は、徐々にそのコミカルさをなくしていき、シリアス展開といえば聞こえがいいが、少年にとってはただ陰鬱な展開がずっと続き、正直途中で見るのに飽きてしまった。
なるほど、確かに少年期とは、幼少期を終え、徐々に自我に目覚めていく過程で、様々な問題に直面していく時期だ。だがその成長は、決して辛いことばかりではないはずなのだ。しかし当時の少年・少女向けアニメは、エヴァという特異な成功例に引きづられ、「身の程」を超えたシリアスさを抱え込み、しかしその自重に耐え切れず、自壊していったのではないだろうか。事実、このころを境に、「少年・少女」に向けて放送されるべき夕方・ゴールデンアニメは、その存在自体が衰退していく。そんな中残っているアニメは、それこそ銀魂スケットダンスのように、様々な問題を描きながらも、しかし決してシリアスすきるようにはならず、コミカルさを忘れないことによって、生き残っている。もし、夕方・ゴールデンタイムのアニメを復活させ、「少年・少女」のためのアニメを再興しようとするならば、思い出すべきは、まずそのようなコミカルさの重要性であるように、僕には思えてならない。

青年期(2003年〜2007年)

さて、そしてとうとうやってきた青年期、またの名を「思春期」。自意識がどんどん肥大化し、セカイを飲み込もうとする一方で、性もいよいよ本格的に目覚める。しかしそれに比較して現実はあまりに矮小。物語欲というものの絶好の繁殖状況が、そこにはあるわけです。
ただ一方で、この「思春期」が一体どれぐらい重症なものなのかは人それぞれであり、全く罹らない人もいれば、重篤化して(私みたいに)大人になってもずっと引きずる人も居る。罹る時期もバラバラであり、ここらへんから世代の共通体験というものは崩れていく。それでも、エヴァのような青年向けアニメが夕方に放映されていた時代なら、まだ少しはまとまりもあるのかもしれないが、しかし前項で述べたように、この頃はもはや夕方・ゴールデンアニメが衰退し、深夜アニメが隆盛した時代だったわけで、深夜アニメは一部の都会しか見ることが出来なかった。そこで地方民は、ケーブルテレビやレンタルビデオ屋に頼るようになり、どんどん経験の個別化が進んでいくのである。
よって、ここからは正真正銘、私の「自分(史)」語りということになる。レンタルビデオ・ケーブルテレビも利用するようになるから、作品の初出時期もバラバラになっていく。
この時期に見たアニメは次の二種類である。

まずやっぱりご多分にもれず、「思春期アニメ」の代表格であるエヴァにはまったのはこの頃である。私の世代だと、見るのはもっと早くても良かったのだが、しかし早く見たとしても、理解できるになるには、やはりこれぐらいの年齢にならないと無理だろうと、私は思う。
そして、ちょうど思春期どっぷりの時に見ているために、ベタに後半や映画版での精神世界の描写や、庵野監督の虚構批判・オタク批判のメッセージを間に受けてしまう。自我が肥大化していく中で、他人といかにコミュニケーションを取っていくか。結局それは「泣きながら、相手の首を絞める」ことにしか繋がらないのではないか。この問は、当の庵野監督本人がとっくに手放して『ヱヴァ』などというウェルメイドな映画を作っている今も、私の中では解決していない。

しかもちょうどこの頃は、まぁ何時の時代も起きていることではあるが、長崎男児誘拐殺人事件佐世保小6女児同級生殺害事件といった、少年犯罪というものも多発していた。そのような事件に触発されていき、また「ぼっち」であるという自分の境遇も合わさって、更にどんどん私は「自他の境界」問題に執着するようになった。そんななかで僕は『なるたる』や『妄想代理人』といった、メンヘル系のアニメに傾倒していったのであった。
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(ちょうどこの作品の最終回がケーブルテレビで放映される頃に、佐世保の同級生殺害事件が起こり、そして最終回らへんの展開が「いじめられっ子が学校でいじめっ子に復讐する」という、妙にシンクロしたものだった故に、かなりなるたるについてはのめり込んだ。いや、ホント全く嫌で嫌で、絶対見返す気にはならない、大嫌いな作品なのだけれど、当時の私は―というか今の私にとっても―その「痛み」こそが、自分が直視すべきものに思えてならなかったのだ。)
ただ、この頃はアニメ業界的にはもはやエヴァの影響は一段落していたため、実はそういう精神世界とか、メンヘル系なアニメっていうのはあまりない(それを期待して『機動戦艦ナデシコ』を見たけど、あんまり面白くなかったり)。よって僕は、どっちかというとこの方面へ行くうちに、アニメではなく、例えば『リリイ・シュシュのすべて』のような実写映画や、『ヨイコノミライ』の様なマンガ方面に行ってしまった。もしかしたらこの時、KanonやAIRといったKEY方面に行っていたならば、今頃僕は立派な鍵厨として、Angel Beats!を賞賛していたのかもしれない。ただ、正直当時の私*2には、key作品は「泣ける!」という一言で宣伝されているように見え、セカチューのようなただ客を泣かせればいいみたいなしょーもない作品、エヴァなんかには遠く及ばないと思っていた(まぁ、今も思っているけど)。もしここで東浩紀のような評論に触れて、「エロゲ批評」とかに目覚めていたのなら、また僕は別のオタク道を進んでいたのかもしれない。しかしそういう道に進むことは、結局なかった。
ただ一方で、この時期はインターネットを本格的に使い始めた時期でもあった。当時は「しろはた」という本田透氏が運営していたサイトがかなり面白いアニメ批評を行っていた*3。他にも様々なアニメ批評をインターネットで読む中で、「やはりアニメの教養を抑えておかなきゃ駄目だろう」という意識も芽生え、ガンダムやイデオンうる星やつらパトレイバー攻殻機動隊AKIRAといった様々な「名作アニメ」と呼ばれるようなものを見るようになった。
その中でも重要なのはやはり「押井守作品」の発見だった。私は、親がオタクだったが、しかしそうであるが故に逆に、「オタク」的な楽しみ方というのをスルーして育ってきた。そんな中で、押井守作品に出会い、うる星やつらを129話まで全部見て、当然映画版も何回も見、パトレイバーを見たりしていく中で、思春期的迷宮をなんとか破滅的なところまで行かずにやりすごす、「オタク的倫理・自己」を学んでいった。エヴァ的な思春期命題の完全な答えにはならないが、しかしそれをやりすごすための手段として、諸星あたる的な倫理であったり、パトレイバー的な韜晦は、まさしく私を救ってくれたと言っても過言ではない。
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まとめるならば、シンジとあたるの間をぶらぶら揺れていたのが、この頃ということが出来るだろう。まぁ、正直今もその心的構造自体は変わっていないわけだが。

成年期(2007年〜2010年)

しかし一方で、あたる的な自己も決定打とはなることなく、思春期に未だ決着を付けられないまま、私は大学生になってしまったわけだ。
だがこの頃になると、メンヘル系の作品は正直食傷気味になり、また、大学生になったということで、より自由にアニメをみられるようになったことも、アニメ視聴を大きく変化させる。
メンヘル系の作品には正直飽き、また基本的教養としての名作アニメもそろそろ探すのが難しくなってきたところで、僕が見る作品は、主に次の二系統に別れていくわけである。

まず、前者のバトロワ系、これは簡単にいえば「他人の首絞めて生き残るような世界を描きながら、そこに希望を見出そうとする」タイプの作品だ。バトロワ系という風に言いますが、しかし実はデスノートを除き、これらの作品はバトロワ的世界(そういう認識世界を生きていたのが、まさしく佐世保の少女だったわけで……)をコンスタティブに認めながらも、しかしパフォーマティブにはそれを脱却しようとする作品たちである。

(「僕と契約して、魔法少女になってよ」という台詞を聞くと、僕なんかは反射的に「いいだろう、結ぶぞその契約!」と言いたくなるのは、僕だけでしょうか?)
そして更に、そのような社会に立ち向かう想像力を構築しようとするのが、鋼の錬金術師*4に代表されるようなシャカイ派作品なわけだ。(僕は本当にこの『シャンバラを征く者』っていう映画が大好きなわけだ。詳しくはネタバレになるので話せませんが、最後のエドが、共に歩んでいくシーン、あれは、その後の世界を知っている私たちに取っては決して楽観視出来るものではないのだが、しかしそれでもそこには、共に生きていく希望が存在する。世界/社会とどういう風に向き合っていくかという日本のアニメがずっと抱えてきた問は、ここでひとつの到達点を迎えると言っても、過言ではない。)
一方で、そのようなバトロワ的作品の系譜にあるものは、この世界を生きづらいものとして捉えているわけだが、そのような前提を覆し、「楽しもうとすればこの世界は十分楽しめる」という価値観を示してくるのが、けいおんのような日常系や、銀魂のようなコメディと言えるだろう。別に他人の首を締めなくたって、ほんのちょっと試行錯誤すれば、ぎくしゃくでも生きていける。その程度にこの世界は優しいというのが、日常系の基本理念と言える。
例えばらき☆すたげんしけんといったような作品は、「オタク」をテーマにするが、しかしそこに、80年代〜90年代に貼られていた「コミュニケーション不全者」というレッテルはない。オタクは確かにちょっと変わった人たちですが、しかしそれは別に絶対的なコミュニケーション不可能性には繋がらないのだ(少なくとも作品内の「優しい世界」では)。
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けいおんにしたって、例えば唯なんかは、高校に入るまでずーっとぼーっと生きてきた人間として描かれるわけですが、しかしそれでも軽音楽部に入ることによって、彼女は「青春」を手に入れることができる。
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銀魂や荒川アンダーザブリッジの登場人物たちは、それぞれが一癖も二癖もあるキャラクターであり、時に衝突するが、しかし同じ場所で共に生きていく。このような形で、日常系もまた、思春期的な自意識過剰に対する処方箋を、与えようとするのだ。

蛸壷的想像力

ただ一方で、そのようなバトロワ的作品も、日常系作品も、「現実はそんなに甘くないし、人はそんなに頑張れない」という言葉にはほとんど耐性がないと言える。
そして、この耐性のなさに付け込んでくるのが、蛸壺的想像力なのだ。(どういうものなのかの説明は、前回記事参照)
このような想像力は、主に二次創作で姿を表す。けいおんや俺妹にはそのまま蛸壷屋同人が書かれるし、らき☆すたには木冬かがみが大学でぼっちになっているようですひだまりスケッチにはゆのっち腹パンと、また、それこそコミケや同人誌売り場に行けば、陵辱されていないアニメキャラなんてほぼ存在しないことが分かる。
逆にエヴァなんかは、もう公式が陵辱の限りを尽くしたといっても過言ではないから、逆に『RE-TAKE』なんていう、「公式が救わないなら俺達が救う!」みたいな二次創作も出てくるわけだが。
このような二次創作と一次創作のせめぎ合いもまた、現代のアニメ視聴では切っても切り離せない。

まとめ

さて、ここまでぐだぐだと、中二病オタクとしてどのようなアニメを見てきたか述べてきたわけだが、ここでちょっと、これまでに見てきた作品を、系統図にまとめてみようと思う。
それがこの図だ。

太い黒矢印が直接的な系譜、細い矢印は間接的な影響を示すが、これだけでは全然意味が分からないと思うので上の左側から解説していく。

幼少期

まず「90年代オタクアニメ」、これは幼少期に見たものだが、正直少年期になるとほとんど見なくなる。だが、青年期に入り、様々な名作アニメを見てオタク的教養を身につける中で、「ああ、あのアニメはこういう視点から楽しめばいいのか」と、後から回顧することによって魅力を再発見するという点で、名作アニメ群の視聴に再帰的効果を発揮していると言える。
次に「ジブリ系」、実はジブリアニメは、正直幼少期に大量に見過ぎたせいもあって、少年期にはあまり見なくなった。しかし、これも青年期に入ると、「宮崎・富野・押井・庵野」という監督の性質からアニメを見る作法が身につくことによって、宮崎監督の作品の良さを再帰的に理解するようになる。例えば風の谷のナウシカ巨神兵を作画した庵野監督がやがてエヴァを作り、「だから、みんな死んじゃえばいいのに」と叫ぶが、同じ頃宮崎駿もののけ姫において「生きろ!」と叫ぶ、そのメッセージの差異とは何かとか、カリオストロの城の次にルパン映画を作る予定だったのが押井監督であり、そこで押井監督はルパンを消そうとした。その原案がやがてパトレイバーにつながる、というような視点からのアニメ視聴が出来るようになったのである。
しかし一方で、やっぱりそれ以降のアニメ視聴に一番つながるのは、ドラえもんクレヨンしんちゃんといった、「子ども向けアニメ」だった。幼少期の頃は、まだ自我が未発達だったため、ただただアニメを見るのが「楽しい」の一言で済んでいたが、少年期になるとその「楽しさ」が機能分化し、様々な問題系へと整理されていく。

少年期

まず一番左の「少女漫画系アニメ」これは、身の回りの親密圏、ミクロな社会でのコミュニケーションの問題に焦点をあわせるものである。友達や、ちょっと気になるあの子とどう付き合っていけばいいか、親や先生といった他者にはどう接したらいいか、どう接すれば楽しい生活が送れるか。そういう問題を、ギャグや魔法少女というファンタジーによる異化作用によって見やすくし、そこでよりよい生活を送ることを想像しやすくするのが、「少女漫画系アニメ」に求められた機能であったといえる。
一方で、「少年漫画系アニメ」は、そのような日々の生活から少し外れたところで、「男の子は如何に生きるべきか」を問う場となる。言い換えれば、マクロな社会における「男性ジェンダー規範」をいかに受容していくかが問題となるのだ。だからそこでは当然、より男性ジェンダーの役割とされる、「腕っ節が強くて、弱いものを助ける、正義の味方」であることが重要視されるのだ。
一方で、そういう社会とはかけ離れたところで、探偵というヒーローに自己を投影し、自尊心を持とうとするものが、「推理系アニメ」なわけである。
言うなれば、「友たちと仲良くなりたい」、「男らしくなりたい」、「ヒーローでいたい」という少年の三大欲求に対し、それぞれのアニメが対応しているのだ。
ところがこれが青年期に入るにつれ、それぞれの機能に問題が生じるようになる。

青年期

まず「少女漫画系アニメ」。ここにおいては、複雑化するコミュニケーションに、他方で肥大化する自我がついていけず、ファンタジーやギャグを用いても、親密圏でのコミュニケーションを成功させる想像が出来ないようになる。「空気読め」と言われ手ても、空気なんか全然分からない。そもそも何で私があんたたちのような程度の低い連中にレベルを合わせなきゃならないんだと、他人を侮蔑する一方で、しかし他方では、病的までにコミュニケーションを求めるのである。
次に「少年漫画系アニメ」。ここにおいては、「正義」という問題に困難が発生する。成長するに従い、多様な価値観・多様な善の有り様を知る中で、人々は今まで自分が当然だと思っていた規範に疑いを持つようになる。ロボットに乗って敵を倒すことは本当に「正義」なのか。そもそもなんで自分がロボットに乗らなきゃいけないのか。そんな中で、規範についての問いも複雑化し、やがて、判断困難な自体が生じるようになる。
ここに至り、「少女漫画系アニメ」が示すコミュニケーションの問題系と「少年漫画系アニメ」が示す正義の問題系の双方において、もはや「少年を大人にする」といったビルドゥングスロマンの機能は達成不可能となり、アニメは、ただただその青年たちの成長の困難さを映しだすだけのものとなるのである。このような物語の代表が、まさしく「新世紀エヴァンゲリオン」なのだ。*5
しかし一方で、このような成熟の困難さに対し、それを解決はしないまでも、「成熟しないまま成人する」という迂回路を示すものとして、「名作アニメ」というオタク的教養を手に入れることによる、オタク的自己が、発生する。つまり、エヴァのようなメンヘル系アニメによる成熟困難さを、とりあえず引き受けるものとして、「名作アニメ」の視聴によるオタク化が存在するのだ。(メンヘル系アニメから名作アニメへの矢印の意味)

成年期

そして、メンヘル系アニメに成熟の困難さをつきつけられつつも、名作アニメの視聴によって形成されるオタク的自己によって「成熟しないまま成人する」という迂回を行った自己は、いよいよその成熟の困難さを解決する手段として、「バトロワ系アニメ」と「日常系アニメ」の、二つの処方箋が示されるのである。
まず、バトロワ系アニメについて。これは、まず少年期において視聴した「推理系アニメ」の知識を転用し、バトロワ的世界に推理ゲーム的方法論によって参入する。
これは、デスノートコードギアスを見た人ならすぐ分かることだと思うのだが、これらの物語における主人公たちの戦い方は、如何に自分は真実を知り、相手は騙すことにより、自分が優位に立つかという、まるで探偵と犯人との間のやり取りのような推理と交渉が行われる。そこにおいては社会的規範などというものはむしろ無駄なものであり、逆にそれに囚われないことによって、相手の裏をかくことが出来るようになるのだ。
だが、そこかバトロワ系アニメは、一方で推理ゲーム的な騙し合いを駆使しながら、他方でそのような騙し合いによる弱肉強食ではない世界を構築するか。正義がある程度正義であり、コミュニケーションの困難さを受容可能な範囲にまで縮小するか、工作するのである。一番典型的なのは、まさしくコードギアスにおける「ゼロ・レクイエム」である。しかし、騙し合いによって作られる世界で騙し合いをしなくて済む世界を作るということ自体が自己矛盾をきたしているが故に、そのような試みは残念ながらほぼ成功していないと言ってもいいだろう。ゼロ・レクイエムにしたって、あれが物語的に感動的なのは認めるが、しかしやはりよくよく考えてみると、ゼロに全ての責任を着せるということは、結局戦後日本の「悪いのは軍とか政府の上層部。一般国民は悪くない」と同じなわけで、上手くいかないであろうことが明らかに想像できる。ただ、そうはいっても、なんとか成熟の困難さの先にある「明日」を作り出したいとおもうこれらの物語の意気込みは、認めざるをえないだろう。
一方で、日常系アニメは、「そもそも私たちの世界は、そんな他人の首を絞めなきゃやっていけない世界なのか?」という認識の段階で、成熟の困難さに疑問を呈す。それぞれが多様な正義を信じていたって、まぁなんとなく上手くやっていけるのではないか。空気なんて読まなくたって、別にいいんじゃないか。そこで日常系アニメの物語は、まさに物語が持つ固有の機能である「異化作用」により、多様な正義が並立する世界、空気を読まなくても楽しい世界を描き出すのである。そこでは名作アニメ、特に押井守うる星やつら2ビューティフル・ドリーマーの問題を引き継ぎながら、しかしそれを更に発展させた、学園祭的想像が用いられるのである(名作アニメからの矢印はそういう意味)。
だが一方で、このような日常系アニメは蛸壺的想像力に対し極めて脆弱であることは、先に述べたとおりだ。唯みたいな存在が認められる空間を物語は作り出せるが、しかし一方でその物語は別の、唯みたいな存在が認められない物語と対等な戦力で戦うことを余儀なくされる。そこでは結局、「この世界は多様性を認める世界だ」ということを信じるような強い正義が必要になるが、しかしそれは困難なのである。

現在

とまぁ、このように、バトロワ系アニメと日常系アニメは、それぞれがそれぞれの方策で、エヴァのようなメンヘル系アニメが示した成熟の困難さに立ち向かい、ある面では勝利を収めながらも、しかし完全な克服には至っていない。
このような現状において、なぜまどマギが注目されたか?それはやはり、「バトロワ的アニメ」を代表する虚淵氏と、「日常系アニメ」を代表する蒼樹うめ氏がタッグを組み、新しいアニメを作る。そのことにより、今までのアニメが果たせなかった、新しい物語のあり様を示してくれるのではないか、そのような期待が、かかったからではないだろうか。
では、そのような期待を、まどマギはどのように裏切ったのか。最後に総括として、twitterで何回も繰り返した、「まどマギが如何に駄目駄目か論」を、このオタク自分史と照らし合わせながら、愚痴りたいと思う。ただまぁこれは言っても詮無い愚痴だし、twitterで何百回もつぶやいてきたことなので、更に折りたたみ、読みたい人だけが読めるようにする。

総括

まず、そもそもだ。まどマギっていうアニメは、さんざん「エヴァの命題を解決した」とかなんとか褒められているけど、今回のぼくの見方に立てば、ぜーんぜん問題を解決していないわけよ!
そもそもコミュニケーションなんて問題は土俵にすら上がらなかったよね。本来だったら、あの場で問題となりうるのは、いかに魔法少女間で的確なコミュニケーションを図るか、そしてそれにより、魔女システムという強大な敵に立ち向かうか、であったはずなのに、そんな問題全くすっ飛ばして、ただただ「コミュニケーションが通じない悲劇」を描いちゃった。それも、エヴァなんかより全然稚拙なやり方で。
次に正義の問題。これも、せっかくキュウベェという存在や、魔女という存在がいるんだから、そーいう存在に人格性を認めて、多様な正義というものを示せば良いのに、そんなことは全然やらなかった。虚淵氏は朝日新聞で「正義は誰かにとっての悪」なんていう、もう今更口にだすのが却って恥ずかしいぐらいの素朴な中二正義論を示しているけど、はっきりいってこの作品からは全然伝わらんよ。
で、そーいうコミュニケーションの問題も正義の問題もうっちゃり投げて、やってるこっつーたら、何?「希望を持つことは正しいんです」っていう魔法少女の肯定?いやそりゃ、正義の問題もコミュニケーションの問題もうっちゃれるような、そんな青年期に提示される困難を全て無視して少年期のように都合のいい環境が作れるなら、それこそ簡単に「希望」なんか口に出せるよ。カードキャプターさくらはずっと簡単かつ効率的に「希望」をしめしてくれてるよ?自己犠牲なんか使わなくたってさぁ。っていうか、自己犠牲を使ったら、また別の問題がとーぜん生じるでしょ?だって、誰かの犠牲なしにその世界が生まれないとしたら、その世界を維持するのだって、結局誰かの犠牲が必要になるでしょ。「誰かが犠牲にならないために、自分が犠牲になる」っていう論理は、それ自体が自己矛盾を引き起こしている。しかもその結果は何?魔女が魔獣になっただけで、結局魔法少女は戦わなくちゃならなくなってる。まだゼロのほうが、よっぽど上手くやって、より多くの「希望」を残しているよ。コードギアスから物語の技術がむしろ後退している!
物語の技術論から言ってもさぁ、バトロワ的アニメっていうのは、少年期の推理系アニメの想像力を密輸入することによって、斬新さが確保されているわけだけど、まどマギには全然そんなものなかったよね?そんなんしたら、バトロワ的アニメなんかに全く価値がないことは明らかじゃん。デスノートにおいてはライトとリュークがそれこそ丁々発止のやり取りをしていた、これこそがバトロワ的アニメが優れている理由だけど、キュウベェとの間にそーいうやりとりあった?むしろ、ライトが見てたら鼻で笑うような確認しないことによるミスで物語が駆動しているよね。そんなの全く意味無いじゃん。
そして、じゃあもう片方の蒼樹うめから受け継いだ日常系アニメ的な部分がうまく作用したかといえば、そんなことはまるでない。魔法少女達はなんか戦ってこの世界を守っているそうだけど、日常描写が全然ないからまるで「彼女らがなんでこんなに必死になって戦っているか説得力が沸かない」いや、エヴァみたいに日常描写を叙々に希薄にしていくことによって、「なんでこんな世界のために戦わなきゃならないのか?」っていう疑問を投げかけるならそういうのもいいかもしれないよ(なんでそれなら蒼樹うめをわざわざ使うのか全く意味不明だけど)。でも、彼女ら全然そういう「何故戦うのか?」みたいなこと疑問に思わないよね。だったら尚の事、なんでみんなして「もうこんな世界滅びろ」とか思わないのさ?そういうことを思ってしまう、思春期の子どもたちのために、アニメっていうのは存在しているんじゃないのかい?
最後に、これだけは強く問いたい。例えば、長崎で男の子を誘拐した少年や、佐世保で同級生を殺した少女。そんな人達が、もしこのまどマギというアニメを見てさ、その殺人を思いとどまり、明日も生きていこうとか、そういうこと、思うと思いますか?僕は全く思わない。むしろその「殺人」を崇高な犠牲であるかのように勘違いしてしまうと思う。僕は、いくら多くの健全な人達を楽しませようが、批評家たちに「革新的な物語だ!」と褒められようが、そういう人たちに思いとどまらせ、そういう人たちに、違う「明日」を見せる物語じゃないんなら、その物語に価値を全く認めません。

*1:敢えてそう言わせてもらう。

*2:というか今も印象としては同じ

*3:このころネットに掲載されていた文章は、『電波男』とかなんかよりよっぽど面白かったんだけどなぁ

*4:第一期と映画第一作しか知らないんで、二期の方はよくしりません

*5:更に言うならば、「推理系アニメ」が示してきたヒーローとしての自尊心確保も、青年期になり、より社会化圧力が高まる中で、困難というか、存在不可能なものとなる。