あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

かくて〈魔獣〉は世に放たれる。

http://anond.hatelabo.jp/20110519201250
なんか身体の調子が悪いと心までネガティブになってしまうなぁと痛感する風邪気味の僕。だから今回はネガティブなことをだらだらと書く。
あのさー、最近なんか声優さんに彼氏が出来たとかで、騒動が起きてるじゃない。まぁ知らない人は別に知らなくてもいいことだけど、ある声優さんがいて、その声優さんとあるミュージシャンが付き合っていた、しかもその声優とミュージシャンはあるオタクに大人気のアニメの楽曲制作で知りあったということで、一部の人達が酷くショックを受けて、その声優さんに中傷や殺人予告をしたりしているという話。
これ、もちろん声優さんたちが誰と付きあおうが声優さんの勝手なのであって、一部の人達はただその声優さんたちに勝手なイメージを押し付け、そして勝手に裏切られたと思い込んでいるだけの話である。つまり、その声優さん自体は絶対何も悪くない。僕自身、今もってその声優さんは好きだし、正直その声優さんにひどい事をいう人に対しては怒りや憎しみも、ある。
でもね、一方でそういう人たちに対して、同情と言うかなんというか、分かってしまうという点もあるんだよねぇ。こう、独りで毎日人間性なんか求められず、ただお客様を接待する機械であることを強いられ、友達も彼女もいない、楽しみと言ったら休日家で一人ネットやったりアニメ見たりすることぐらいしかない、そういう趣味は楽しいんだけど、でも心の空白を埋めやしない。やったり見たりしているときは楽しいけど、それが終わって、ふと自宅で自分が一人でいることに気づいた時の、あのどうしようもない孤独や絶望感は、本当にキツイ。実際そういう生活を営んでいると、ほんと生きがいってものが全くなくなっていくというか、別に生きたくもないのにただ死ぬきっかけがないから生きながらえている様に思えてくるわけだ。
で、そんな時、ふとライブに行って、そしてそこで、可愛い女の子が自分のために一生懸命歌ってくれる、あるいは握手会で、自分の手を握りながらにっこり笑ってくれる、そんな体験をしたら、いくら理性がブレーキをかけようとしても、そんなものは何の歯止めにもならず、その女の子にのめり込んでしまうだろうと思うわけだ。そしていっぱいお金掛けてCDやDVD買ってライブにも行って、でもそれは結局二人の交際を助けていただけだったってなった時、発狂することは、分かりたくないけど、分かってしまうというか。
別にその声優の演技や歌が好きだったんだし、最初から「声優とファン」であってそれ以上の付き合いでも何でもないんだから、そんなにショックを受けることはないという声もあって、その声は圧倒的に正しい。でも、だめなんだよ。「その声優さんが誰と付き合っている」と聞くと、その声優さんはその彼氏のことだけが好きで、俺達の事は金づるぐらいにしか思ってないんだろう、俺達の事を馬鹿にしてるんだろう、という被害妄想が湧いてきてしまうわけだ。なぜなら、自分自身がそういう人間だから。いろんな人を好きになれる才能がある人だったら、そんな友達も彼女もいないようなぼっちな人生歩んでいないわけで、セカイの全てを嫌いでいるか、誰か一人を好きになって、それ以外のセカイ全てを敵にまわすような、そんな「恋愛」しか想像できないんだ。だから自分が好きだった声優だってそうなんだろうと思い込む。
一部のオタクの処女信仰っていうのは、ほんと醜く哀れなもので、要するにそこにはまず「自分はこの世界で最低な人間だ」という強い思い込みが存在するわけだ。そして、そういう思い込みにそっていくと、以前に男性と付き合っていたような女性は、きっと自分と過去の男性を比較するだろう、そうなったら自分はこの世で最低な人間なんだから、過去の男性に勝てるわけがなく、自分は劣ったものとみなされる。だったらその前に、こっちから女性を劣ったものとみなしてやろうと、そういうことなんだよね。彼らのほんと聞くのもおぞましいような女性蔑視的発言は、しかしその裏に、どうしようもない劣等感がある。もちろんだとしても、表面に出てくるのは見にくい女性嫌悪なのだから、それは批判されて当然、むしろ批判されなきゃおかしい(今はそういう女性嫌悪の声があまりにネットで公に認められすぎている)のだけれど。
しかし、そういう孤独感や絶望感、また劣等感は、一体どうすれば良いのか。今僕は24歳ぐらいなのだけれど、24歳にもなって、いろいろな庇護を離れ、社会と一対一で向かい合うようになると、いよいよこういう感情と戦わないと、それこそ声優に殺人予告するような、そういうグロテスクな未成熟さを社会にばらまいてしまうのではないか(その最悪の形が秋葉原の事件だと思うのだけれど)、そういう、ぶっちゃけていうならば恐怖が、頭っから離れないのだ。
かつてネットでは、「非モテ」とか「弱者男性」とかいうカテゴライズを用いて、そういう問題を語るムーブメントがあった。けど今はもはやそんなものはなく、世間は「声優に彼女がいるからってギャーギャー騒ぐオタクキモい」という真っ当な正論と、「声優に彼女いるとかまじありえねー!」という暴論(ここでは言葉を柔らかくしているけど、本当はもっとひどい言葉が沢山書き連ねられている)しかなくなってしまっている。しかし、本当にこの二つの道しかないのだろうか。正論による断罪でも、暴論による憎悪でもない、前に進むための言葉がないものか、そう思うのだけれど、一方で「正論があるんだから、それ以上のものなんてあるわけがない。そして正論に従えない人たちは、救済から見放された〈魔獣〉として生きるしかないのだ」という、一番最初に示した増田の記事の様な思いもある。そして今は、正直後者の思いのほうが強いのだ。