あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

なぜステマ疑惑でここまで炎上が起きるのか

[追記:2012/01/06 20:51]
はてブで「長い」「わかりにくい」と不評なので、最初の大部分の読者にとってはどうでもいい部分を別記事にしました。

ランキングが無意味になる世界は、本当に幸せか?

以前このような記事が自分の周りでちょこっと話題になりました。
「若者像」が存在した時代から、曖昧になった時代へ - yuhka-unoの日記
内容は、これまでは画一的な「若者文化」というものが存在していたけど、これからはそんな画一的な「若者」や、それに基づいた一元的なランキングは意味をなさなくなり、自分が「本当に好きなもの」を追いかければそれでいい時代になったと。そしてそのような状況をこの記事の筆者は幸せであると主張している、といった内容です。
ただ、それに対して僕は、この記事の筆者の状況分析は確かに正しいだろうと思うわけですが、しかしそれが人々にとって「幸せ」であるかというと、ちょっと疑問に思うわけです。
例えばこの記事の筆者はニコニコ動画やPixivでのランキングについてこんな記述をして、ランキングに頼る人を批判しています。

ところで、ニコニコ動画やPixivで、ランキングが初音ミクや腐女子に乗っ取られたと言っている人を見た時は、「なんで検索ってものをしないんだ?」と思った。今時、自分の気に入るものくらい、自分でいくらでも探しに行けるのに。それがネットというものなのに。鳥の雛のように、口を開けてじっと待っていれば、誰かが餌を運んできてくれる世界がお望みなのだろうか。
自分の好みがあまりにもマニアックすぎて、いくら探しても無いというわけではないだろう。そもそもそういう人は、最初から自分のことを「本流」だと思っていないので、乗っ取られたとか言わないはずだ。乗っ取られたとか言うのは、本来なら自分が「本流」であるはずだという意識があるからだろう。そもそも、運営側が広く間口を設けるスタンスを取っている場所において、それを「俺らの場所」だと思い込むのは、それこそ乗っ取りではないか。

しかし、僕の実体験からすると、初音ミクの曲を聞くようになったのは、結局それらがランキングに上がってよく目につくようになったからなのであって、もし最初からランキングとかそういうものがなかったら、そもそも初音ミクなんか聞かなかったわけです。そもそも、そういうランキングとかいうものが全くなくて、初音ミクをおすすめされることがまるでないのに、最初から初音ミクを「自分の気にいるもの」と認識できる人なんていないわけで、今初音ミクを好きな人も、最初はランキングとかそういった場所で初音ミクを聞いて、そして聞くうちに、徐々にそれが「自分の気に入るもの」であることに気づいたはずなのです。
しかし、これから先、ランキングがどんどん無意味なものになっていき、それぞれの文化が蛸壺化して閉じこもるようになれば*1、その蛸壺にすでにどっぷり使っている人はいいですが、まだ蛸壺に入っていない人、また、一旦自分が入った蛸壺が自分に合わなくなって抜けだした人は、何も目印のないところに放り出されるてしまうわけです。そのような社会に生きることは、少なくとも僕のように自分が「本当に好きな」蛸壺を見つけられずにふらふらしている人間にとっては、幸せでないのです。

ステマが炎上の種になる理由

そしてそれぞれの文化は、それぞれが画一的で一元的な「若者」やランキングといった基準から解き放たれて、「自分の気にいるもの」だけを追いかけているが故に、それぞれの間で対話は不可能になるのです。
これが、もし「若者文化」という虚構が存在していだ時代なら、そうはならないでしょう。「自分がそれを好きだから」という理由だけでは自分の好きなものを肯定できず、それがどのように今の時代を表現しているか、いわゆる「時代性」というものが存在するかどうかが、厳しく問題になるわけです。そしてそこで時代性を証明するために、例えばオリコンランキングを持ってきて「これだけ大勢売れているんだからこの時代を象徴している曲と言っていいだろう」という風に言ったり、あるいは「エヴァは90年代後半の心の時代を反映している」という風な時代批評をする必要があるわけです。それはある意味面倒くさい議論なわけですが、しかしそのような議論をすることにより、それぞれの文化に対し、間主観的*2な評価をする対話が生まれるわけです。
しかし、先ほど引用した記事でも述べられている様に、現代においてはもはや画一的な「若者」や、それに基づくランキングといったものは権威をもたなくなっているわけです。そうなれば、結局作品の内容に対する評価は「好きだから好き」、「嫌いだから嫌い」としか言えなくなってしまう。「天使ちゃんマジ天使」とか「ほむらちゃんまじほむほむ」とかいうような、その文化の中にいる人には意味が分かるけど、しかしその文化の外にいる人には全く意味を成さない、独語でしか作品の内容を語れなくなり、対話は成立しなくなるのです。
ですが、先ほども述べたように、人は別に生まれ持ってある文化を好きになる本能があるわけでもないし、ある文化が気にいったからといったって、それを一生好きでいるわけではない、人は文化の蛸壺から出て、他の文化と対話したいと思ってしまうのです。だがそこでは作品の内容について対話することはできない。だからこそ、「ステマ」や「投票権商法」といったような、内容とは関係なく、簡単に叩けるネタが重要視され、炎上の原因となるのです。ちょうど、「まどマギの内容は○○だからダメだ」と墓くがいくら言ってもそれが盛り上がることはまるでなかったのに、「まどマギはステマで売れた!」という誰でも批判できるネタが提供されたら、いっきにまどマギが叩かれるようになった現状のように。
これは、アンチだけでなく、ファンについても同様です。例えば、僕がまどマギアンチであると言った時、このようなリプライが、おそらくまどマギファンであろう人物からなされました。
http://twitter.com/#!/David19881988/status/154630040775176192

@amamako  まあファンスレ荒らす腐ったアンチが多くて困りものですがね。死ねよ。糞が。

「死ねよ。糞が。」という言葉には僕も傷つきますが、しかし一方で、対話の前提条件が既に消失した現代において、無理やりファンとアンチが対話しようとすれば、結局アンチ「ステマ乙」→ファン「死ね」、というようなやり取りにならざるをえなくなるのです。
だって、無理やり「若者」とか「時代性」といったものを仮構して語ろうとしたって、結局待っているのは、こういう結果なのですから。
ポップカルチャー評論家宇野常寛「ARBはいかにもな90年代Jロック(キリ」オレ「ARBは80年代なんだが」宇野「ぐぬぬ」 - Togetter
宇野氏の『けいおん!』『輪るビングドラム』批評については、そりゃあ賛否両論あって当然です。ROCK OVER JAPANという曲が所詮「虚構の時代」に置いていかれたものなのか、それとも現代性を持つものなのかという論についても、当然様々な意見があるでしょう。ですが、このまとめで話題になっているのはそんな次元の話ではなく、ただ単純に、宇野氏が事実についての間違いをしているのが笑われているというだけの話です。それでこのまとめで騒いでいる人の殆どは宇野氏の議論が全否定できると思っているのです。断言しますが、このまとめに対して、これで宇野氏の議論が全否定されるというように言及している人の殆どは、そもそも宇野氏の議論の内容がどんなものか、理解すらしていないし、興味も湧いていないでしょう。だってもはや現代においては「時代性」とかいうことは全くの嘘であり、そんなものは無視して「好きなものを好きと叫ぶ」ことだけが正しいとされているわけですから。

まとめ

画一的な「若者」、「時代」といった概念や、ランキングといったものを排除し、「自分の気に入るもの」だけを追い求められる、そんな世界は、今までの人々にとっては解放された世界なのかもしれません。しかし、そこではもはや対話は成立せず、「天使ちゃんマジ天使」、「ほむっちほむほむ」といったような意味不明の独語か、あるいは「ステマ乙」、「死ねアンチ」というような罵り合いだけがくり転げられるのです。そしてそんなユートピア(あるいは、ディストピア)が、きっとこの先も続いていくのでしょう。
今は文化の領域だからまだ著しく不快なだけですみますが、このような光景が社会全体のコミュニケーションに広がったら一体どうなってしまうのか、そう考えると、私は不安になって、仕方が無いのです。

*1:このような危惧については、これまでも散々述べてきました。[http://d.hatena.ne.jp/amamako/20091028/1256739724:title]、[http://blog.livedoor.jp/taitiro/archives/1338049.html:title]も参照

*2:「客観的」とまで言うと言い過ぎなので。間主観的の意味が分からない人は「客観的」と置き換えて読んでもらっても構わないです