あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

実存は「友達作りのネタ」なんかではない

id:republic1963:20120618:p1

欲を言えば、どう「糞」なのか詳細を教えていただけると幸いです。

よろしい、ではお答えしましょう。それは、この同人誌が慣れ合いとなぁなぁに満ちていることですよ。同人誌といえど、言論を志すものなら、異なる意見を持った他者を、真剣に納得させようとするような主張・討論こそを掲載しなければならないのに、この同人誌に満ちているのは、同じような意見を持ったものが「そうだよねー俺たち間違ってないよねー。」と傷を舐め合い、自分たちの主張の正しさを自己承認するような、そんな無意味な飲み会の愚痴のようなお話ばっかりだからです。
例えば『奇刊クリルタイ3.0』における吉田アミへのインタビュー。ここではそれが発表された時大きな物議を読んだ「受け手2.0」という議論についてインタビューをしているわけですが、しかしこのインタビューでは吉田アミの「受け手2.0」論をただ賞賛し、より詳しい説明をさせるばかりで、そういう意見に対立する立場、吉田アミの「批評とはあくまでその作品の新しい見方を提示すべきもので、ただ作品を批判するような主張や、自分の思いを押し付けるような議論はすべきではない」という立場に対し、「新しい見方を提示してその作品の商品価値を高めるのなんてただの『宣伝』であり批評とはいえない」といする立場をぶつけるとかいうことはまるでしていないのです。
これは他の上原仁真魚八重子荻上チキに対するインタビューでも同じです。上原仁がマッチョを賛美するなら、それこそはてなでさんざんなされたようなマッチョ批判をぶつけてみるべきなのにそれはせず、むしろ相手の意見を賞賛するようなことをインタビュアーがベラベラしゃべる。この同人誌におけるインタビュアーはあくまでインタビューイのご機嫌伺いでしかなく、そこに、異なる意見をぶつけることによって「議論」をし、そしてそれによってこの人の主張とは異なる主張を持つ人にも届くインタビューをしようという、言論をしようとする人間が最低限持つべき気概が全く見えないのです。
なぜこの同人誌がそのような慣れ合いに満ちているか?その理由は、『奇刊クリルタイ4.0』の対談のこの部分を読めば一目瞭然でしょう。

M*1 しかしそう考えると、中心人物ですらたいしておいしい目を見ていない、はてな非モテ論壇やクリルタイの存在価値ってどうなんだろう(笑)。
R*2 木端同人誌ですから(笑)。まぁ、友達とかできたからいいじゃん
I コミュニティとしてはよく機能していると思うけど、クリルタイ
M まぁ、実際非モテ活動(笑い)やってて一番よかったのはその辺ですね。はてな界隈でのネタとしての非モテは死んでも、そこでできた人脈は残る、みたいな。最後は人っすよ。人。

要するに彼らにとって「非モテ」に関する議論や、それを載せている『クリルタイ』という雑誌はただの「友だち作り」、「コネ作り」にすぎないのであって、そしてそうである以上、インタビューや議論をする際も、相手にとってクリティカルな反論は、「友情を壊すもの」だから、避けるわけです。
そしてid:republic1963はそのような態度を露悪主義的に肯定しながら、「しかし非モテに関するすべての議論は、id:amamakoの定義に従うならば、そのような『友達作りのネタ』にすぎない」と主張します。

つまり、我々が非モテを置きかえ可能なマクガフィンだかマクガイバーだかとして扱っていると批判し、我々のような人間は流行りの言葉に飛びついて飽きたら次の言葉について言及して、という事をやっているからダメなんだ、という事をおっしゃっています。ですが、次のセンテンスにて、

ある者は「脱オタ」「ナンパ術」などの勉強をし、異物としての自己をなんとか「モテ」に適合させようとするかもしれない。あるいは「二次元恋愛」「宗教」などによって、モテの代替物を見つけようとするだろう。また別のものは、「自分がモテないのは女どものせいだ」と主張し、ミソジニーに走るかもしれない。しかしいずれにせよ、それらの論はすべて異物としての自己を見つめ、そこを出発点として考える、まさしく実存的問題なのである。

と書いています。これってつまり、人によって興味関心が違う、それぞれが自分の好き勝手なことを言っていたという、『クリルタイ4.0』のインタビューや座談会で再三繰り返し指摘したことそのものです。で、それを冒険野郎だと罵るなら、それはそのまま、id:amamako氏が批判する非モテそのものなのではないのでしょうか。つまり、id:amamako氏の非モテ定義自体が、氏が批判するマクガフィンそのものなのではないのでしょうか。

ですが何で「異物としての自己を見つめ、そこを出発点として考える、まさしく実存的問題」が、「人によって興味関心が違うから、それぞれ好き勝手なことを言って良い」ということになるのでしょうか?
非モテ」について、それぞれがそれぞれの実存から、自分が真に重要だと思う側面からの語りを行う。しかしそうであるからこそ、そこには「個々人が好き勝手なことを言って良い」なんていう生ぬるい価値相対主義は通用しません。例えば「脱オタ」という側面から非モテについて語る人は、当然それに対して「オタクでもモテになることはできる」という語りと対立します。そして前者のような語りをする人からすれば後者のような語りは決して受け入れらないし、そして後者のような語りをする人にとっても前者のような語りは受け入れられない。そこでは「好き勝手なことを言って良い」なんていう、クリルタイ的な考え方は全く通用しないのです。
そして、このように「実存」というものについての考えが全く甘いことが、id:republic1963:20120618:p1の反論の二点目の問題にもつながっていくわけですが、それについてはまた後日最反論します。ただ一つ言っておくならば、どんなことも「友だち作りの『ネタ』」として扱える。ネタにならないような真に重要なものはないんだという、id:republic1963が考えているのと同じような方法で、「K」も、〈非モテ〉をネタとして扱い、そしてそのネタに基づいて自らを律していったんであると、指摘しておきます。

*1:id:asao_hate

*2:id:republic1963