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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

マジとネタの区別とかついて

最近実生活のほうが忙しくてしょーもないことを考えたり、それをブログに書いている時間がないのだが、しかししょーもないことを考えなかったら人生なんていうものはほぼ生きる価値はないものである(少なくとも僕にとっては)ので、なんとか少ない時間でしょーもないことを考えて、それを断片的にブログに記す。本当は、下記に述べるようなことを一週間単位でグチグチと考えていき、そしてまとめてみるというのが僕のライフスタイルだった筈なのだが、生きるためにはそうもいかないので。

マジな物語が苦手

  • 物語を読んでいて「マジな物語につきあわされる」というのが苦痛になることが、昔から結構ある
  • この苦痛さって一体なんなのだろうなというのを、最近改めて考えるのだ。
    • なぜ今改めてそういうことを考えるかというと、最近特に「マジな物語」全般が受け付けなくなっているということがある。去年ぐらいから見たアニメやマンガ・小説をずっと思い出してみても、シリアス作品で「これ面白いなー」と思えるような作品が全然無いのだ。要するにギャグやコメディの作品しか見れなくなっているというか
  • この苦痛さの理由について、自分の中での一応の仮説としては「自分にはそもそも『キャラクターに感情移入する』という回路が脳内にないのではないか」というものがある
    • 物語の楽しみ方っていうのを大まかに3つに分けると、
      • 1.気づきによる楽しみ―「この現実をちょっといじると、こんな別様の世界が生まれうる」という事に対し気づくことの楽しみ。ギャグとかパロディとか、あとSFとかの楽しみ方ってこれじゃないかな。
      • 2.展開の妙への楽しみ―「この仮定のもとでこのように手順をすすめていくと、こういう意図せざる帰結を生む」という過程を見ることの楽しみ。このスパンを短期的に取るとミステリーやサスペンスになるし、長期的に取ると仮想戦記になる。
      • 3.キャラクターへの感情移入による楽しみ―「○○(キャラクター名)頑張れ!」という楽しみ。だから○○というキャラクターが悲しいことに遭うとその物語の受け手も悲しむし、○○というキャラクターが爽快感を得ていると自分も爽快感を得る
    • という3つに分けられるのではないか。そして僕は、1と2の楽しみはわかるけど、3の楽しみがわからないから、3の楽しみが物語の主要な楽しみ方であるような物語に遭遇すると、「マジな物語に付き合わされる」という感覚を覚えてしまうのではないだろうか

なぜキャラクターへの感情移入ができないのか

  • しかしだとしたら、次のような新たな疑問が生まれる。なぜ僕は、「キャラクターへの感情移入」ができないのだろうか
  • その理由として思い当たるのは、「幼少期からパロディとかに慣れ親しんでしまっている」ということだ。
    • 80年代に爛熟したパロディ文化の影響を過分に受けて育ったからねぇ。ドラクエのゲームより先にドラクエのパロディ四コマを読んでいたり。
  • キャラクターに感情移入するというのは、そのキャラクターが歩む背景が絶対的なものでなければそもそも出来ないものだと思うんですよ。ところが、パロディというものを最初に刷り込まれてしまうと、その絶対性を感じ取れなくなってしまう。
    • 一番わかり易いのは、やっぱり「死」というもので、そのキャラクターが死んだ時、その死が悲しいのは、そのキャラクターが死んだことが絶対的に覆せないものだからなわけですよ。
    • ところがパロディの世界においては、「死」というものは往々にして覆せるし、なんなら「幽霊にして登場」みたいなことも普通にできる。
    • でもそうやって生き返ったり幽霊になって出ることが可能になってしまうと、そもそも「死」っていうものは別に悲しいものではなくなってしまうのではないかと。
      • 余談だけど、実はそういう考え方があるから、僕は「(魔法とかタイムマシンとかで)死んだ人は生き返らせたりしてはいけない」という妙な倫理観を振りかざす作品が大っ嫌いだったりする。「死んだ人が生き返らない」というのは単なるこの世界の事実であって、その事実が覆せるならどんどんくつがえしちゃったらいいじゃんと。なんで「死んだ人はいきかえらない」という単なる事実が、そうでなければいけないという倫理になってしまうのか。昔っから納得行かないんだよね
  • だから、真面目な物語において「キャラクターが死んだぞ、ほら泣けよ」みたいなことを押し付けられると、「なんでそんなことをあんたが押し付けられるんですか。“たかが原作者”のくせに」ということを思って反発を抱くのではないか。
    • ちなみに、そういう風に考えていくと、実は僕がサザエさん時空に基づいた「日常系」物語が大好きな理由も納得がいく。日常系の物語っていうのは、要するに「原作者が何も押し付けてこない」物語なんですよね。だからパロディとかととても親和性が高いし、押し付けられないことに安心も感じる。

「マジ」と「ネタ」の区別を改めてつけていくためには

  • ただ、そういう風にパロディとかがありふれて存在している世界に幼少期から接していることにより、物語を真面目に受け取ることができなくなるとするならば、デジタルネイティブであり、パロディ作品があふれているインターネットに幼少期から接している若い人は、僕よりさらに物語を真面目に受け取ることができなくなり、斜に構えてしまう嫌な子供になっていっているはず
  • しかし実際はそんなことはなく、むしろ「原作と二次創作が並列に存在していても、ネタ物語はネタとして受け取り、真面目な物語は真面目に受け取る」という風に、斜に構えることなく素直に物語に感動したり、キャラクターに感情移入したりしているように思うんですよね。これは一体どういうことなのか。
    • なんでそういうことを考えるかといえば、もちろんそれは、そういう風に生きたほうがより多くの物語を楽しめるんだろうなと思うからなんだけど
  • 仮説としては、「それぞれ複数異なる物語にあわせて、複数異なる自己が存在し、使い分けられている」というのがもっともらしいかなーと思ったりする。
    • 例えばあるAというキャラクターが死ぬ原作があり、それに対してAというキャラクターが普通に生きている二次創作があるとする。そういうのを見ると、僕なんかは「Aというキャラクターは別に普通に生き返らせることが出来るんだから、原作の泣かせに一々付き合うのは馬鹿らしいや」と思ってしまうのだが、そう思うのは、原作と二次創作を見ている僕が、同じ記憶を持っている状態だからなんだよね。
    • それに対して今の、素直に物語に感動する若者というのは、原作と二次創作を読むときに、それぞれ「原作の世界の記憶しか持たない自分」と「二次創作の記憶しか持たない自分」に使い分けているのではないかと。そうすれば、原作でのAというキャラクターの死に感動することと、二次創作でAというキャラクターが生存している物語を楽しむことの二つを、並行的に楽しむことが出来るのではないかというのが、僕の仮説なのだ。
  • しかし一体なんでそういう風に都合よくそれぞれの作品に応じて別々の自我を持ち、それを使い分けることが出来るのかはよく分からないんだよなー。それさえわかれば、僕も再び「マジな物語につきあわされる」ことに苦痛を感じず、シリアス作品を受け入れられるようになるのではないかと、思うんだけどね。