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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

感動の心地よさがいまいちよく分からない

思考

前の記事の話題と関連して思いついたこと。

  • よく「この映画泣ける!」とか「このアニメ見て感動した!」という言葉を、ある作品を褒めたり、他人におすすめしたりするときに使う人がいるけど、一体何で、泣けることとか感動することとかが、作品の褒め言葉になったり薦め文句になったりするのだろう。
    • 例えば、僕は昔ペットの亀を亡くして、その時にワンワン泣いたことがあったのだが、それって別に楽しくも心地よくもなく、ただただ悲しくて、「快/不快」の二つに分類するなら、圧倒的に不快な、二度と体験したくない感情だった。
    • だからフィクションでも、人や動物を死なせることによって、受け手を泣かせる物語は大っ嫌いだし、そういう物語に接するとただただ不快になる。
    • しかし世の中ではなぜか、そういう物語が「人を泣かせるいい物語」として称賛されるし、ひそういう物語を好んで読みに行く人がいる
      • そういう人って、じゃあ実際にリアルで親しい人やかわいがっていたペットが死んだりしてわんわん泣いている時も、「こんなに泣けるって気持ちいい!もっとどんどん親しい人やかわいがっているペットが死ねばいいのに!」と思ってるのかしら
      • それはないか。
      • でもだとしたら、一体何で「リアルでの喪失体験は辛いことなのに、フィクションでの喪失体験は辛くなくてむしろ楽しい」ということになるんだろう?
  • もちろん、そういう不快な感動ではない、心地良い感動を感じることだってある。例えば映画けいおで、あずにゃんに対して「天使にふれたよ!」が歌われる場面は、いつみても涙ぐむ。
    • でもそれは、たまたま「泣かせ」と、僕が好む物語展開がマッチしたから、涙が心地よく感じられたわけで、別にあそこで泣かせに入ったりしなくても心地よさは感じられるし、もし全く僕が好まない物語展開とあの「泣かせ」が合致したら、それは即不快な感動になっていたと思うんだよな。
      • そして、そういう心地よい感動は、不快な感動と比べれば圧倒的に少ない。現実でも物語でも、泣くのって大抵、その直面している物語であったり現実であったりを受け入れたくないときに出るわけで、そして、受け入れたくないんだったら、それは不快なことなのだから。
  • しかし世の中にはなぜか「受け入れたくないような展開を見せつけられる」ことを快楽に感じる人が居るんだよなー
    • 「受け入れたくないけど、でもこれは面白い展開だなぁ」と思うんならまだ分かるんだけどね。エヴァとかイデオンとかみたいに、「そんな救いのない結末はいやだけど、でもあれがこうなってそうなったらそうなるしかないよな。うんこれは上手い」みたいな。でもそれって感動とかそういう感情的な物語の楽しみ方とはちょっと違うよね
    • しかし世の中の感動好きの人たちというのは、少なくとも僕から見ると、そういうのとも違い「この展開は受け入れられない、だから好きだ!」という風に物語を楽しんでいるように見えて、僕からするとマゾにしか感じられないんだよね。
  • しかしこれだけ「泣ける」「感動した!」という言葉が褒め言葉として流通している世の中なんだから、異端はむしろ僕の方なんだよな。いやまぁ、異端であることは別に良いんだけど、では一体僕は何が異常なのだろうか、どういう物語を楽しむ回路が欠落しているから、「泣ける」ことを楽しむことが出来なくなってしまっているのだろう