あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

答えはただ、風に吹かれて(『風立ちぬ』感想)

映画『風立ちぬ』を見て来たので感想を。一応ネタバレになりそうなところは注釈に回したつもりです。


まず感想を一言で言うと、「期待は見事に裏切られた。しかし、期待とは違うけれど、心に残るずしりと重いものを受け取った」という感じです。
僕がこの映画に期待していたことは、まず「答え合わせ」なんですね。ゼロ戦設計者の堀越二郎という人物を映画で描くということは、当然実在した兵器、そして実際に起きた戦争を描かなければならないということですから、そこではパンフレットで鈴木敏夫プロデューサーが書いている通り「戦闘機が大好きで、戦争が大嫌い」という矛盾を、本人がどのように考えているのか、答えが提示されるのではないかと。
更に、誰もが驚いた、その主人公堀越二郎役への、庵野秀明氏の大抜擢。一体ここにどういう意味があるのか。「偏執狂的に自分が作りたいものを作ったら、とんでもない結果を産んでしまった(そしてそのとんでもない結果を宮崎駿監督は決して好ましく思っていない)」という共通項が両者にはあるわけで、当然そこで「エヴァV.S.もののけ姫」から10年経った後、宮崎駿庵野秀明に何かを伝えようとしているのか、伝えようとしているとしたら、それは一体何なのかとか、そういうことも考えるわけです。
そして、やはり気になるのは「なぜファンタジーではなく現実の世界を舞台にした物語を描くのか」ということ。しかもその舞台は関東大震災とその後の戦争へと突き進む日本であるわけで、当然そこでは現代の日本へのメッセージみたいなものも含まれているのではないか、そんなことも考えるわけです。
そんな風な様々な問いに対して、映画ではどういう風に答えが示されるのか、そしてその答えを示す過程で、どういうカタルシスを与えてくれるのか(例えば映画『天空の城ラピュタ』ならば「土から離れては生きられないのよ!」という答えとともに発動する「バルス」のカタルシス)、それが僕がこの映画に込めた期待だったわけです。
では、この映画では答えが示され、そしカタルシスが与えられたのか?
これは、全くといっていい程示されなかったし、与えられなかったわけです。ネタバレは避けたいので詳細は述べませんが、少なくとも「なるほどこれが答えだったんだ!」みたいな明確な言葉や展開は、「生きねば」という言葉を除けばまるでないし、正のカタルシスも負のカタルシスもラストにはない。一応途中には盛り上がりもあるにはあるけれど、それは残酷に裏切られるわけです。*1
しかし、その「答えがないこと」こそが、まさにこの作品を傑作にしていると、僕は思うのですね。
耳心地のいい「答え」を提示し、観客にカタルシスを与えることなんていうのは、それこそ宮崎駿監督の技術をもってすれば造作のないことでしょう。それこそ映画『カリオストロの城』『ラピュタ』『ナウシカ』みたいにすればいい。ただ、ファンタジーの世界ならともかく、実在の「近代日本」を舞台にそれをやることは、やっぱりアニメという技術の誤用だし、やってはいけないことであるわけです。それは、伝える「答え」がどのような方向の内容であってもです。
実際の近代日本がどんなものであり、そこでどんなことが起きたのか、どんな結末を迎えたかということは、きちんと自分で歴史の教科書を読むなり、その時代を生きた当事者の話を聞いて学ばなきゃいけないことであって、カタルシスを与えてくれるアニメでそれを理解できたと勘違いしてしまっては、「歴史」ではなく、「物語」を歴史と勘違いしてしまう。それは宮崎駿監督が絶対避けたかったことなのでしょう。*2
しかしそういうような倫理より更に重要なことは、そもそも僕がこの作品に思ったような「自分の好きなものの非倫理性と如何に向き合うか」、「戦争へと突き進むこの国で一個人は何ができ、何をすべきなのか」というような問いに、答えなんてものは最初からないということです。
そして、答えなんてないにもかかわらず、その問いに答えることが出来ないことにより、人は大きな代償を払わされてしまう。人生とはそういう辛いものであり、けれどそういう辛い人生を人は「生きねば」ならない。それこそが、この作品で示された唯一の答え、「生きねば」なわけです。
この「生きねば」という言葉と似たようなキャッチコピーは、『もののけ姫』でも「生きろ」という形で使われていました。ただ、もののけ姫の時はそのメッセージはやはり上滑りしていました。それは『もののけ姫』が結局、観客にカタルシスを与えてくれる真っ当なアニメ映画であったために、そんなキャラクターに「生きろ」と言われても「そりゃああいうクライマックスがあるならそういうことも言えるんだろうけど」と思ってしまうわけです。その点で言うと、今回の『風立ちぬ』における「生きねば」という台詞は、むしろその「生きろ」の台詞の元ネタである漫画版「風の谷のナウシカ」に近いでしょう。あの漫画のラストは、結局様々な問いや不安を残したまま「しかし生きなければならない」というメッセージで終わる。ただ、そういう消化不良さがあるからこそ、よりそのラストメッセージが強度を持つわけです。
今回の『風立ちぬ』もまさに、それと同じなのです。主人公の堀越二郎は、10年間かけて才能を使い果たしながら、結局何も得ることはできず、挙句の果てに国を滅ぼしてしまう。しかし、そんなキャラクターだからこそ、彼がそのラストにおいて「生きねば」と思うことはずしりと重い意味をもつのです。

ちなみに

そういう物語は脇において映像や作画だけを見ると、そこは流石のジブリなのでご安心を。僕的には戦前の様々な乗り物(汽車・路面電車・蒸気船・バス)が描かれているのが、乗り物好きとしてホント楽しかったです。当然飛行機もきちんと、それこそ宮崎駿の「夢」全開で描かれるのでご安心を。あと、関東大震災の作画は圧巻。これだけで元は絶対取れます。

*1:ここで映画を見た人のためにちょっと注釈しておくと、堀越二郎は、結局孤独だったと、僕は映画を見て解釈したんですね。彼の飛行機への執着は、恋人の菜穂子も結局共有し得なかったわけで、二人は確かに愛し合っているのかもしれないけれど、そこには深いコミュニケーションの断絶があるわけです。だから、菜穂子は結局ああいう結末を迎えてしまうし、そしてその結末と、堀越二郎が作った戦闘機が戦争に出て一機も戻って来なかったという、二つの喪失こそが、堀越二郎が「10年全力で働ける期間」を使い果たした果てに味わった残酷な結末なのです。

*2:ここら辺のスタジオジブリにおける「実在の歴史に対するアニメの限界」への考え方は[http://kenpo-9.net/document/041124_kouenroku.html:title=高畑勲氏の講演]を読めばよく分かると思う。これは高畑勲氏の考えだろうけど多分宮崎駿監督も同じではないでしょうか