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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

魂のアップロード時間

あままこです。今日は何も盛り上がりもひねりもオチもない日記なんぞを書こうかと。
実は最近、親族に不幸がありまして、その亡くなる瞬間に立ち会っていたんですね。
それで、その亡くなる瞬間、呼吸が止まってから心拍数がなくなって、心臓が停止するまで、ちょっと間があったんですね。それで、親族一同で心拍数が下がっていくのを、何をするでもなくぼーっと見ていた(すでに緩和治療の段階だったし)んです。
その時間がなーんか自分の中で、印象に残っているのです。
なんかこう、心電図の数字がだんだんと減っていき、そして最後の0まで至る時間というのが、それまでのその人の人生と、その死を受け入れて、そして認めるそんな時間に思えたりして。
僕はその時間を「魂をアップロードする時間」なんじゃないかなぁと、そんなことを考えたりしていました。
自分はもう若くはないとはいえ、自分の死を現実的に意識するほど老いてもいないので、メメント・モリなんて経験はなかなかないんですけど、それでもそういう時はやっぱ、観念的にですけど、「死」について考えたりするわけですよ、無駄に。
で、生者と死者の一番の違いって何かとか考えたりして、そして、結局のところ、「自分という存在が、自分によって全くコントロールできなくなる」ということなんじゃないかと、思ったりするわけです。
もちろん、生きている時だって、自分という存在を完全にコントロールできるかといえばそうではなく、他人にどう言われ、どう思われるかによっても自分という存在は形作られ、そしてそれは往々にして自分の意図しないものともなっていくでしょう。
しかしそれでも、「でも本当の自分はそうじゃない、本当の自分はこうだ」という風に思う、最終的な自己のコントロール権は、自分にあるわけです。
しかし死んでしまったら、もう自分という存在は、この社会に流通する情報の中にしか存在しなくなり、そしてその情報は、もはや自分は一切干渉できなくなる。神格化されるかもしれないし、あるいは逆に全否定されるかもしれない。
そして実はそれこそが、死というものを人間が恐れる、根源的理由の一つだったりする。
ただまぁ、実際死んだ人のことを悪くいう人はそういういないわけです。だってそんなことしても無駄ですから。生きている人は、生きなきゃならないんだから、死んだ人を貶す暇があったら、そこから少しでも役立つ情報を引き出して、明日からの生に結び付けなきゃならない。
だから、まぁ自分がもし死んだとしても、自分がこの世界に残した情報はなくなるわけではなく、むしろ死後になって、自分のコントロールから、自分が自由になり、そして世界に拡散していくと考えていくと、実はそんなに怖いことでも、ないのかもしれない。
そういう風に考えると、あの死の直前の時間は、自分という存在、魂を世界にアップロードし、オープンソース化する、そんな時間なんじゃないかなぁと、思ったりしたのです。