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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

炎上する精神―ウェブ炎上とメンタルヘルスについての一考察

コミュニケーション 考え方 炎上 ウェブ インターネット

withnews.jp
withnews.jp
はてブではえらく評判が悪くてプチ炎上状態ですが、僕自身はこの2つの記事、結構興味深く読みました。
というのも、結構こういう、ウェブ上でブログを書いて炎上することをきっかけに、心を病む人というのが結構身の回りに多いからです。具体的に名前を出すとあれなんで出せませんが、有名・無名問わず、ブログやtwitter上でのコミュニケーションが元で病的に落ち込み、心療内科とかに通うようになった人って結構多いんですよ。
さらに言えば僕自身、今はそんなに無茶はしなくなりましたが、昔は結構境界線ギリギリのところで色々やってきたわけでして……
しかしそこで僕は思うわけです。
一体何でウェブ上で炎上することって、そんなに炎上した当人にとってショックなんでしょう?
だって、普通に考えれば、ウェブ上でちょっと炎上したからって、自分の目の前にその炎上させている相手が現れるわけでもないわけで、リアルで会った相手に叱責されたり罵倒されたりするのに比べたら、精神的負荷ってずっと小さい風に思えるわけじゃないですか。さらに言えば、炎上って言っても、「死ね」とか「殺してやる」みたいな、本気でとんでもなく厳しい罵倒や脅迫っていうのは、ごく数人だったりして、大多数はちょっときつい物言いをしてるにすぎなかったりする*1し、そもそも炎上に参加している人自体、多くても数百人程度なわけです。
にも関わらず、一旦ブログやSNSが炎上してしまうと、リアルで誰かに叱責・罵倒されたときよりもずっと心に残ったりするし、まるで世界中全てが自分の敵になったように感じるわけです。
これって一体、何でなんだろうか?
そのことを考えるために、今回の記事では

  • ウェブ上で炎上がなぜどのようにして起こるのか

調べ、そこから

  • 炎上におけるウェブ・コミュニケーションの特性

について整理し、その上で

  • 一体なぜ炎上がそんなにメンタルヘルスを損なうほどの精神的負荷を与えるのか

考察し、そして最後に

  • 炎上してもそんなに炎上を気にしない精神をどうやったら持てるか

考えてみたいと思います。

ウェブ上で炎上がなぜどのようにして起こるのか

ウェブ上で炎上がなぜどのようにして起こるのか。

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

という本によれば、そこには

  • エコチェンバー
  • 集団分極化
  • 記号の誤配

という3要因が存在し、そしてそれらが組み合わせられることによって

という現象が発生し、それが炎上という状態を生むのだと、書かれています。
「エコチェンバー」とは、もともとは「共鳴室」という意味で、ある音を発するとその音がこだまとなって帰ってくる、そんな部屋のことなんだそうです。そこからエコチェンバーとは、ウェブ上で情報を収集する際に、自分の意見とよく似たような意見ばかり集めたり、ネット上でつながりを形成する際に自分と主義主張が同じ人同士でつながろうとしてしまう、そんな現象のことを指します。
これは自分から望んですることもあれば、ウェブサービスの仕組みでそうなっている場合もあります。例えばあるアニメやドラマを見てそれがすごく面白かったときに、「[作品名] 感想」とかで検索すると否定的意見も目に入って、せっかく盛り上がっている感情が冷めてしまうから、「[作品名] おもしろい」とかで検索した経験、ないでしょうか?少なくとも僕はあります。これは、自ら望んでエコチェンバーに入ってしまうケースといえるでしょう。
また、SNSをやっていると、「おすすめユーザー」を表示するサービスがよくあります。この場合、大抵のWebサービスでは、同じようなリンクを紹介していたり、同じような趣味を持っている人を紹介するようになっていますから、おすすめユーザーをおすすめするがままに友達登録したりフォローしたりすると、意図せずとも、自分と似たような人同士でつながりを作ってしまうこともあります。
いずれの場合にせよ、ウェブ上では自分と似たような意見・人と、簡単につながりを作れるんですね。これが「エコチェンバー」です。
そして、そうやって同じ意見同士でまとまると、今度は「集団分極化」という現象が発生します。これは簡単に言えば「違う意見を持つ2つのグループが討論すると、討論する前よりも意見の偏りが極端になる」という現象です。
「きのこ・たけのこ論争」を例にして考えてみましょう。これは、お菓子の「きのこの山」と「たけのこの里」、どっちが美味しいかという、くだらない論争です。多くの人は、そんな2つの間に明確な優劣なんかないだろうと考えているでしょう。
しかし、ではそこで「きのこの山」派と「たけのこの里」派に分かれて、どっちがおいしいか討論することになったとするとどうでしょう。一旦どちらかの派に入ったら、自分の派の優位性を示し、反対側の派の劣位性を示さなければなりません。だからきのこの山派に入ったら、きのこの山がおいしい理由、たけのこの里がまずい理由を一生懸命考えます。そして、そうやって考えて、考えた意見を相手にぶつけていくうちに、いつしか2つの間には明確な優劣があるんじゃないかと、思い込むようになるんです。
そのような効果によって、2つの意見が対立するグループが討論すると、討論する前よりも意見の偏りがより大きく、先鋭的になるのです。
そしてさらにここに「記号の誤配」という問題が絡みます。リアルで私たちがコミュニケーションを取る際、自分と全く属性が異なる相手とコミュニケーションをするということは少ないでしょう。同じ会社に勤めていたり、同じ地域に住んでいたりと、何かしらコミュニケーションする相手とは共通項があるわけです。
ところがウェブ上でのコミュニケーションでは、自分とは全く共通項がない相手とコミュニケーションをとることもできるわけです、するとどうなるか、まず価値観が全く異なります、さらに、それぞれが使う言葉の意味も微妙に異なります。だからお互い相手の言ってることを理解することができず、「何言ってんだこいつ」という状態に陥りやすいのです。そうなれば当然、相互理解などとは程遠い帰結を迎えるわけです。
以上の3要因により、人々は自分の意見と同じ意見の者同士でつながるようになり、異なる意見を持つ人々のウェブ上でのコミュニケーションは、より対立が激しくなりやすく、相互理解とは程遠いものになりがちなのです。このような現象を、サイバー・カスケードと呼びます。
そして、そのようなサイバーカスケード現象が起きると、少数派の意見は、その意見の妥当性とは関係なしに、多数派によって袋叩きにされやすいのです。ウェブ上での炎上というのは、往々にしてこのような現象の元で引き起こされる状態なのです。

2ちゃんねる型炎上・はてなブックマーク型炎上

ただしその一方で、そのようにウェブの仕組み自体に、炎上を引き起こす誘因があるとされる一方で、実際にウェブ上で参加している人の内、炎上を容認したり、積極的に参加する人はごく僅かであるとする研究もあります。

ネット炎上の研究

ネット炎上の研究

という本によれば、炎上に参加する人はインターネットユーザー全体の内0.5%程度であり、更にその中でもしつこく攻撃的な書き込みをするのはその数%で、1件の内数十〜数百人、個人への直接攻撃をする人は更に少なく、数人〜数十人程度とされています。
しかしここで問題となるのは、「炎上」という現象で、問題とすべきは「しつこく攻撃的な書き込みをする人」、「個人への直接攻撃」のみなのか?という問題です。
さらに言えば、上記の本の研究では、「炎上に参加したかどうか」という問題を、炎上に参加した側の認識のみによって判定しています。これは、アンケート調査という調査手法上仕方ない限界といえますが、一方で「意図せざる炎上」、つまり炎上する側は決して炎上させようとして書き込みを行っているのではない、にもかかわらず、結果として「炎上している」という認識を与えてしまう、そんな炎上事案を考慮に入れていません。
ですが、企業・団体や著名人の炎上ではなく、個々人が遭遇する小規模な炎上において多いのは、むしろこの研究によって考慮に入れられないような、「意図せざる炎上」なのではないでしょうか。
例えばこの記事の一番最初に挙げた北条かや氏の記事、この記事もプチ炎上しているといえるわけですが、この記事に対するはてなブックマークを見ても、個々の書き込み自体はそれほどひどいわけではありません。しかし、個々の書き込みそれ自体はそんなに直接的な個人攻撃でなくても、それらが集合したときに、総体として「大勢が寄ってたかって一人を攻撃している」という印象を与えてしまっているのです。
つまり、一口に炎上と言っても、そこには

  • 少数の強烈な悪意あるウェブ利用者が何度も直接の個人攻撃を行うことによって起きる炎上:2ちゃんねる型炎上

  • 多数の漠然とした批判的意識を持つウェブ利用者が1回だけ批判を行うことによって起きる炎上:はてなブックマーク型炎上

という風に、異なる2種類の、炎上を示す理念型があり、上記の研究は最初の炎上のみしか測定できていないのではないか?と僕は思うのです。
では、一体はてなブックマーク型炎上とはどのような炎上の形態なのでしょうか。

はてなブックマーク型炎上の事例分析

例えば一番最初に提示した記事のはてブ欄を見てみましょう。
b.hatena.ne.jp 
魚拓*2
このページを開いたとき、最初に表示されるのは「人気コメント(10)」という10のコメントです。この10のコメントの内、明確に北条かや氏にたいして批判的なコメントは

ここまで一貫して「自分かわいそう」を主観的に書けるのはある意味凄いなあ。放火魔がいて勝手に火をつけられたような書き方だけど、そもそもなんで燃えたんだっけ? ☆154

記事の最初の写真といい、結論のよく分からない文章といい、自分を美しく描くことしかこの人は考えてないんだろうなと思う ☆94

自ら自殺未遂の記事を上げてなかったっけ。自分の死をコンテンツ化したのは自分ではないか。 ☆86

この人、炎上した後に、更に自殺未遂ブログ書いて自分からガソリンかぶって再炎上していた印象しかないんですが・・・。☆43

炎上した経緯の隠しっぷりと自己憐憫がすごい! ☆38

の5件、直接の批判ではないものの、皮肉・揶揄的なコメントが

「死んでお詫び」ってそんな話だったっけ? http://togetter.com/li/956115 ☆53

なにげに「会えばわかりあえる」とかの常套句をちゃんと混ぜててさすがだなと思いました。☆48

???「大脳が壊れて人間になり損ねたメンヘルって事を自覚しよう。これをプリントアウトして病院で診てもらおう。放っておくととんでもない事になるぞ。恐ろしい恐ろしい」(三大せりふ全部入りってこれ1回だけだ ☆43

の3件です。これを考えると、10件のコメント中8件が批判的、または皮肉・揶揄なわけで、たしかに画一的な意見による集中攻撃を受けているように見えます。
しかしそう見えるのは、実は上記の集計が、「批判的かどうか」という類型で分類を行ったからだったりします。実際、批判の内容にはそれぞれのコメントで微妙に異なっており、多分コメントを投稿している側としては、集団で攻撃して嫌がらせをしてやろうという、2ちゃんねるユーザー的な悪意はなく、自分の気になった点をコメントしているだけ、という意識なのでしょう。このような分析は「新着コメント」の側に対してもできます。
では何で、このように個々人が異なったコメントをしてるにも関わらず、それを受け取る側はそれらを画一的に「批判している」としか捉えず、結果として「炎上」していると感じるのでしょうか?
それを考えるのには、そもそもコミュニケーションとはどういった行為なのか、そしてそれがウェブ上で行われるとどのようなものになるのか、考える必要があります。

コミュニケーションとは一体なんなのか?

そもそもコミュニケーションとは一体なんなのでしょうか。一番わかり易い定義は、ある人と他の人の間で、情報をやりとりする、というものでしょう。ある人が「AはBである(A=B)」であるという情報を持ち、それを他の人に、口頭でも手紙でも電話でもEメールでもいいから伝える、それがコミュニケーションであるという定義です。
ところが、下記の本によると、実際の生物同士のコミュニケーションはそのようなものではないそうなのです。

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

ネットとリアルのあいだ―生きるための情報学 (ちくまプリマー新書)

ネットとリアルのあいだ―生きるための情報学 (ちくまプリマー新書)

どういうことか。おおざっぱに説明します*3と、そもそも情報とは、「A=B」というように、客観的に観察できる「実体」なのではなく、観察者が主観的に見出す「パターン」であり、それは観察者の主観から独立しては存在し得ない。よって、そもそもある人から他者に情報が伝達されるというのはありえない、というのです。
にもかかわらず、普段私たちは「情報」をやり取りできていて、そしてそれがコミュニケーションの正しい有り様だという風に錯覚している。これは一体なぜなのか。
1つ例を出して考えてみましょう。例えば、私たちはコミュニケーションを行っていて、分からない単語が出てくると辞書を取り出します。辞書の中において言葉は常に1つ、あるいは少数の定義によって定義づけられているため、辞書で言葉の意味を調べることによって、きちんと情報を、相手が定義した上で捉えられていると安心するわけです。
ところが、実際は同じ言葉でも、辞書によってぜんぜん違う定義がされていることがあります。例えば「手紙」、これは中国語の辞書を引けば「トイレットペーパー」ということになります。さらに言えば、日本語の辞書でも
手紙(テガミ)とは - コトバンク

用事などを記して、人に送る文書。

用件を紙に書いて相手に伝える文書。

考え・用件などを記して送る文書。

手紙は筆と紙による通信手段である。

と、同じ言葉なのに微妙に違う意味を持っているのです(さらに言えば、辞書の説明にあるそれぞれの言葉の意味は本当に同じであるか……という風にも考えられるため、厳密な情報“伝達”をしようとすれば、無限後退に陥らざるを得なくなる)。だから、例え辞書を使ったって実際は同じ「情報」をやり取りできているとは限らない。けど、辞書を使えばなんとなく、同じ意味で言葉を使ってるんだと安心することが出来る。なぜかといえば「辞書の内容は、少なくとも社会的に認められているから、これに沿ってコミュニケーションを行えば、情報の伝達ミスは起きない」という認識が共通しているからです。
重要なのは「社会的に認められている言葉の単一の定義がある」という思い込みです。そしてこの思い込みに沿ってコミュニケーションをするために、コミュニケーションをする相手と同じ意味世界を、同じ社会で共有しているというフィクションが、人間の言葉によるコミュニケーションが成立するために必要なのです。
と、ここまでがコミュニケーション一般の話です。次に、ではそのようなコミュニケーションの方法が、ウェブという仕組みの上ではどう変容するか考えてみます。

ウェブにおけるコミュニケーションとは「理想的なコミュニケーション」である

ウェブという仕組みを考える上で重要なのは、この仕組みが「社会」というものに可能な限り依存しないよう設計されているという点です。地域・言語・国家・企業などといった社会に閉じたコミュニケーションではなく、そういったリアルの社会から遊離した場所に、理想的なコミュニケーションの場を作る、それがウェブの基本理念といえます。
そしてそのような理想的なコミュニケーションの前提となるのが、シャノンの情報理論の、コミュニケーション全体への援用です。
シャノンの情報理論とは、簡単にいえば、情報の量がいかにして測れるかを定義した上で、その情報を効率的かつ正確に通信するにはどのようにすればいいか示した理論です。この情報理論においては、通信されるのはあくまで、記号(0と1)そのものの連なりであり、そこで、記号に込められた意味といったものは考慮されていません。ただ、この情報理論が機械間の情報伝達に適用されている限りは、機械はそこでやり取りされる情報の意味なんて理解しえませんから、良かったわけです。
ところが、このような情報理論が、人間同士のコミュニケーション一般にまで援用できるというのが、「理想的なコミュニケーション」を考える場合の基本的理念となっているわけです。
このような情報理論を援用してコミュニケーションを考えると、コミュニケーションとは情報という、0と1の記号の連なりからなる「実体」をやりとりする行為として解釈され、そしてその記号の連なりは出来る限り冗長性をなくし、かつあらゆる空間・時間において同一の指示対象を指し示すものであるべきとなります。
言い換えれば、社会という限定的・可変的な存在に依存したコミュニケーションは、理想的なコミュニケーションではなく、理想的なコミュニケーションに代替されるべきものと位置づけられるのです。

はてなスター」的コミュニケーション

では、このような、「理想的なコミュニケーション」の考え方が、一体ウェブ上でのコミュニケーションの実際、そして、ウェブ上でコミュニケーションを行う私たちに、どのような影響を与えているのでしょうか。
例えば「はてなスター」や「Facebookのいいね」、「twitterのファボ」について考えてみましょう。これらはいずれも、まさに「理想的コミュニケーション」を人々の実際のコミュニケーションに実装しようとする仕組みといえるのではないかと、僕は考えます。
これらの機能においては、「○○を押した」という記号のみが伝達され、それがどのような意味を持つかといったことは全く規定されていません。逆に言えば、そのように意味を欠落させたコミュニケーションだからこそ、言語障壁や、その他現実のコミュニケーションに付随する―「理想的なコミュニケーション」を目指す立場から見れば―不必要なコミュニケーション障壁を無視し、効率的かつ正確に情報を伝達するツールとなりうるのです。
そしてまた、そのような「はてなスター」的コミュニケーションの仕組みは、そのようなコミュニケーションの仕組みを利用する私達の認知枠組みも変容させるのではないでしょうか。
はてなスターの個々のスターにどんな意味があるか、いくら理解しようとしても、はてなスターの原理上それは不可能です。その代わりに個々のユーザーができるのは、「それぞれの発言に何個☆がついたか」を計測することです。そのようなコミュニケーション様式を強いられることにより、いつしかその個人のコミュニケーション・モデルが、「理想的なコミュニケーション」に侵食されます。つまり、コミュニケーションにおいて相手のメッセージの意味を理解しようとするのではなく、メッセージを「賛成/反対」、「肯定的/否定的」といった二値に符号化し、それぞれの値を計測するというのが、個々のユーザーにおける。コミュニケーション・モデルとして刷り込まれるのです。さらに言えば、そのようなコミュニケーション・モデルは、ウェブという仕組みにおいて行われるコミュニケーションに極めて適合的でありうるのです。なぜなら、意味理解は、相手の属する社会の文脈を共有しておくことが不可欠ですが、符号化・計測は、そのような文脈依存性がまったくないという点で、ウェブ上でのコミュニケーション全体に適用できるからです。
そして、そのようなコミュニケーションモデルが個々人に浸透すればするほど、意味から遊離した記号の連なりを伝達し合うコミュニケーションの仕組みがより効果的に使用され、強化されるのです。
まとめれば、ウェブ上の仕組みと個々人のコミュニケーションがフィードバックしあって、相互に強化しあうと、言えるでしょう。

「理想的なコミュニケーション」が炎上を生む

しかし、実はそのような「理想的なコミュニケーション」を指向するウェブ上の仕組みと個々人のコミュニケーションモデルこそが、炎上という、コミュニケーションの失敗を生み出していのではないかと、僕は考えるのです。
はてブのコメントページの例を示したように、分類の類型によっては「全方位から批判されている」と感じるような状況でも、個々のコメントの意味をきちんと読み取ろうとすれば、必ずしもそうではないと理解することができます。しかし、そのような意味理解ではなく、符号化・計測によってコメント情報を処理しようとすれば、やはり「批判的意見が大多数」としか認知できないのです。
またさらに言えば、そのコメントそれぞれに付与されたはてなスターにおいては、そもそも意味を理解することが原理的に不可能です。ですからその情報は、符号化・計測によって処理するしかない。たとえどんなにスターを付けた個々人がそのスターに複雑な意味を込めたとしても、そのような意味は捨象されてしまうのです。

炎上がなぜメンタルヘルスを傷つけるのか

そして更に、そのような意味を欠落させた二値的評価は、特にその評価が「否定」一辺倒である場合に、その評価される対象に対し、多大なストレスを与えるのです。
意味を含有した多義的な評価ならば、その評価にに対する対応もまた、多義的なものになります。簡単に言うなら、ある批判がなされたときに、「いやその批判はこういう理由で無効なんだよ」と再反論したり、「その批判は誤解ですね。自分が本当に言いたかったのは~」というふうに、相手の理解が誤解によるものであると説明することが可能になるわけです。それは往々にして第三者からは冗長で無意味なものに思えますが、当事者にとっては、批判をやりすごし、逃げ場を用意するという点で、精神衛生的に重要なわけです。
ところが、「肯定/否定」という二値的評価においては、そのように多義的な対応は不可能です。「おまえ嫌い!」というだけの単純な言明には、反論することも、誤解だということもできません。相手の敵意をダイレクトに受け入れるしかなくなるのです。
このような状態は、通常これまでは二極思考(白黒思考)と呼ばれ、病理的な現象とされてきました。そこから、炎上に対して過度な反応をする人は、もともとそのような病理的思考を持っていたのではないかとも、指摘されてきました。
しかし、これまで述べてきたことからも分かる通り、炎上にあった人々が二極思考に陥りやすいのは、その人々の内面に還元される問題ではなく、炎上を含んだウェブ的コミュニケーションの仕組みが、そのような思考に誘導するという、アーキテクチャの問題であるといえるのです。
それでは改めて一番最初の問い。「一体何でウェブ上で炎上することって、そんなに炎上した当人にとってショックなのか?」に回答しましょう。
その答えは一言で言えば以下の様になります。
ウェブ上での炎上は、ウェブの特性上、炎上する人に逃げ場を与えず、ダイレクトに敵意を受け入れるよう迫るものであるから。なのです。
では、その上で、そのようなウェブの炎上によるメンタルヘルスへの負荷をいかに軽減するか、考えていきましょう。

「炎上」の痛みを緩和する処方箋

まず一番最初に思いつく選択肢は「ネット上の反応なんか全て無視する」というものです。しかしそれだったらそもそもネット上においてコミュニケーションを求める意味がなくなってしまいます。
次に思いつく選択肢は「はてなスターみたいな意味のわからないものは無視して、意味を理解できるコメントだけを丹念に理解することによって、二値的評価に陥らないようにする」というやり方です。要するに、ウェブ上だろうがなんだろうが、リアルと同様のコミュニケーションモデルを貫こうとするやり方です。
しかしこれはウェブという仕組みがもたらした現状を無視した意見であると言わざるを得ません。先程も述べたように、ウェブという仕組みは、地域・言語・国家・企業といった枠組みを壊し、万人が万人とコミュニケーションできる環境を形作るものです。そしてその結果として生じるのは、社会という文脈がなかったり、そこにたどり着くのが難しいメッセージが群となって結集する状況です。
再び先程のはてブページを見てみましょう。
はてなブックマーク - インターネットで死ぬということ 1度の炎上で折れた心 北条かや - withnews(ウィズニュース)
人気コメントだけでも10も存在し、しかもそれぞれの文章が短文なため、その意味を理解するためにコメントの文脈を追うのはかなり難しくなっているのがお分かりいただけるでしょう。
例えば下記のコメント

瞑想と運動をしない奴の末路は憐れだ。インターネットという油の海で燃えないためには、健全な肉体と精神が不可欠。お大事に(とあの人なら言うだろう)

???「大脳が壊れて人間になり損ねたメンヘルって事を自覚しよう。これをプリントアウトして病院で診てもらおう。放っておくととんでもない事になるぞ。恐ろしい恐ろしい」(三大せりふ全部入りってこれ1回だけだ

これらのコメントに意味を理解するためには、id:xevraという、「瞑想と運動」「プリントアウト」が口癖のはてなユーザーがいて、その人の口真似をしているということを理解する必要があるわけですが、そのような文脈にどうやってたどり着けばいいのでしょう?
「新着コメント」を見ると状況は更に絶望的です。ざっと見ただけで数百あるコメントそれぞれについて、それぞれのユーザーがどんなバックグラウンドを持ち、それまで過去にどんなコメントをした上で、そのコメントにどんな意味を込めたか理解しようとする……あまりに労力がかかりすぎます。
ではこうしたらどうでしょうか?参加ユーザーを数人から、多くても数十人に限定した上で、コメントするユーザーのバックグラウンドが明瞭なユーザーのみがコメントできるようにする。
これは、先ほど紹介した『ネット炎上の研究』で提言されている、サロン型SNSというものです。詳しくは当該書を参照してほしいのですが、要するに「読むのは誰でもできるけど、コメントできるユーザーはつながりのある個人に限定する」というものです。
これは一定の効果を出しそうですが、しかし一方で現行の「理想的なコミュニケーション」に真っ向から抵抗するもの(新たにコミュニケーション障壁を作るものなわけですから)なため、現行のウェブ上のコミュニケーションに適応してしまったものが馴染めるかという問題もあります。何より一番の問題は、「書き込まれる情報量が圧倒的に(現行の仕組みと比べて)少なくなってしまう」という点です。
『ネット炎上の研究』では、インターネット・ユーザーの多くは、炎上が蔓延している現行のインターネットよりは、サロン型SNSを好むというアンケート結果が提示されています。しかしだとしたら、一体何で炎上を焚き付けるまとめブログなどが未だに蔓延っているのでしょうか?
僕はここに「マクドナルドのヘルシーメニュー」の話と同じ効果が働いているのではないかと思うのです。「マクドナルドのヘルシーメニュー」の話とは以下の様なものです。

http://cyzo.tumblr.com/post/18692530900/日本マクドナルド原田さんアンケートをとると必ずヘルシーなラップサンドやサラダがほしいと要望があって商
cyzo.tumblr.com
炎上に参加してる人は、たしかに全体から見たらごくわずかかもしれませんし、アンケートを取れば炎上を嫌がり、炎上なんかなくなればいいと答える声が多数はかもしれません。しかしそこに人々の本心があるかどうかは、慎重な検討が必要でしょう。どうせ読み書きするならより多くの情報が書き込まれる場所を選ぶでしょうし、その点で言うなら、書き込みできる人が限定されているサロン型SNSは、書き込みユーザーが限定されない、twitterはてなブックマークとくらべて圧倒的に不利なのですから。
上記の方法は、ウェブ上でのコミュニケーションの有り様を変えるという選択肢ですが、それに対し、ウェブ上のコミュニケーションはもはや所与のものであると断念しながら、そのようなコミュニケーションにおいてもメンタルヘルスに負荷をかけないマインドセットを探るという方法もありえます。
その中でも一番代表的なものは、「ウェブ上でのコミュニケーションとは別に、リアルでコミュニケーションの回路を確保しておく」というものです。これは、今まで会ってきた人のことを考えると、効果的なように思えます。ウェブ炎上でメンタルヘルスを害する人の多くは、ウェブ上でしかコミュニケーションの回路が確立されてなかったり、「ウェブの私が本当の私」というように、ウェブ上でのコミュニケーションが本流であると考えている人が多いからです。逆に、「ウェブなんて所詮お遊び、リアルでの友達付き合い・ビジネス関係こそが本流」と割り切ったりしているひとは、ネット上でいくら炎上しても、それほどメンタルヘルスに負荷を感じなくて済むことが多いのです。
一番最初に例として示した北条かや氏も、下記のように述べ、ネット以外での居場所の大切さを述べています。

誰に何を評価してもらうのが目的だったんだろう

 本当は見ていなかっただけで、私が存在していい場所は、ネット以外にも沢山あったはずなのに。家族、友人、取引先の人たちなど、顔の見える関係のありがたさを当時は意識できていなかった。そういう場所よりネットでの評判を気にして、ネットの中で勝手に「北条かやの価値」を決めていた。

 入院生活を経験し、私はネット以外の居場所があることにようやく気がついた。院内で友人もできたし、彼、彼女らと話すことで落ち着いたり、癒やされたりすることが何度もあった。

 どうして今まで気が付かなかったのだろう。北条かやは、今までどこで何をしていたんだろうと不思議な感覚に陥った。私の仕事って何だろう。誰に何を評価してもらうのが目的だったんだろう。

しかしその一方で、これは所詮、ウェブ上以外に社会関係資本を持つことができ、ウェブに頼らなくても生計を維持することができる、強者の生存戦略ではないかということも、言えます。
ただその一方で、そのようなオルタナティブな居場所の確保を、むしろウェブを用いて実現するという選択肢もあるのではないでしょうか。ウェブは、たしかにその理念においては、「理想的なコミュニケーション」を目指すものとして設計されましたが、しかし一方で、その仕組みをハックし、ウェブ発の「理想的でないコミュニケーション」を実現するということも、もしかしたら可能なのかもしれません。
現状のクローズドなSNSでは駄目なのか?という声もあるでしょう。しかし現状のクローズドなSNSは、多くの場合、すでにリアルで培われたつながりを補助するものであったり、あるいは利用するユーザーのコミュニケーション・スキルに依存したものでしかないように思えてならないのです。コミュニケーション・スキル(≒文脈を「読む」力)を必要としないコミュニケーションを厳格に求めようとすると、結局「理想的なコミュニケーション」に陥らざるをえないので、そこはアポリアといえるのですが、ウェブ上に新たな「文脈」を構築することが可能になれば、そのアポリアも解決できるのではないかと、考えたりするのです(理念型以前の、夢想の段階の話ですが)。

最後に

誤解を招きそうなので一応言っておくと、僕は別に、メンタルヘルスに全く問題のない人間でも、一旦ウェブ上でコミュニケーションを取ればとたんに病気になってしまう、ウェブっていうのは恐ろしいものなんだよと主張したい、わけではありません。
自分も含めて考えてみると、やっぱりネット上での炎上を過度に気にするのは、その背景に、ネットへの病的なアディクトがあるといえるでしょう。だから、そのような人々が炎上ででメンタルヘルスを害するのは、もともと抱えていた病気が顕現しただけ、病的なアディクトこそが問題であり、炎上は過程にすぎないというように言ってしまうことも、もちろん可能です。
しかしここで僕が思うのは、ある程度病的であったり、普通の人よりひ弱だったり、障害を持っていたりしても、そのことを持ってコミュニケーションの場から疎外されてしまうというのは、どんなに形式的に「理想的なコミュニケーション」だったとしても、民主社会にふさわしいコミュニケーションとはいえないのではないか、ということです。
「コミュニケーションの場に参加できる権利」というのも、実は全ての人々に保証されるべき重要な権利ではないのか、この文章は、そのような観点から記されたものなのです。

*1:特にはてなブックマークが舞台の炎上の場合

*2:はてなブックマークのページは取得日時によって内容が変わるため、分析対象を固定するために取得

*3:詳しくは紹介した本を読んで下さい。ここからの二節は、ほぼ上記の本の僕なりの解釈です