あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

このはてなの片隅で「何」を叫ぶ?

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先日銀座でこんな集まりがありまして、最近のはてなとかその他インターネットに関して色々話を聞いてきました。
そんな中で特に自分が気になったことについてまとめてみたり。

承認欲求から所属欲求へ

人々を動かす欲求が、承認欲求から所属欲求へと変わりつつあるという大きな流れがインターネット上であり、ブログからSNSへの移行や、いわゆる「互助会」なるものの出現もそういう文脈からまとめることができるのではないかという話が、シロクマ先生(id:p-shirokuma)からありました。
p-shirokuma.hatenadiary.com
p-shirokuma.hatenadiary.com
考えてみるとたしかに、昔のはてなとかによくあった「こんな『私』の存在・主張・考え方を知ってくれ、認めてくれ!」みたいな文章っていうのは割と少なくなってきた一方で、それこそ「私はこんな人たちと仲いいですよー」みたいないわゆる互助会的コミュニケーションであったり、「これが好きな人集まれ」みたいな仲間探し記事、あるいがあるあるネタや共感を求める文章や、「こんなものが最近巷で人気みたいですよ」みたいなアフィ記事はどんどん多くなっている気がしますし、そんな中でウェブ炎上も、何か強烈な個性が疎まれて起きるような炎上から、ある集団では当たり前だったことが、別の集団や社会一般では当たり前ではなかった結果起きる炎上へと、炎上の性質が大きく変わってきているように見えます。

炎上への恐怖

また、ブログであんまり記事が書かれない一方で、はてな匿名ダイアリー、いわゆる増田では相変わらず多くの記事が投稿され、その中には色々な意味で「興味深い」記事が投稿されているということも、集まりでは話題になりました。
そして、増田に投稿する理由として、自分のブログより増田のほうが見ている人が多いという理由もある中で、ある参加者が挙げていたのが「増田に投稿するのは、炎上が怖くて自分のブログには書けないような記事」が多いという理由でした。
僕なんかはついつい、炎上をするほど注目されるような記事なら、それこそ自分のブログに書いて、より自分に注目してほしいと思うような人間なんですが、まあ世の中むしろそういう人間のほうが(当たり前ですが)少ないみたいで、炎上をリスクと捉えて、そのリスクを上回るほどのリターンが見込めない限り、自分のブログには書かないそうです。

炎上耐性の強い人

集まりでは他にも、1つ自分が何をやっても賞賛されるようなクラスタを持っていると、別のクラスタでいくら評判が落ちても、生き残れるよねという話をしたりしました。
例に出ていたのはNewsPicksというソーシャルブックマークサイトで、はてなとかtwitterとかで何回も何回も炎上しているような人でも、このNewsPicksというサイトでは賞賛されるという人が結構多いそうです。
逆に、色々なクラスタで広く薄く人気を得ているという人は、1つ失敗してしまうと、全方位から叩かれてしまうために、意外と炎上耐性が低いわけです。
何をやっても賞賛するような信者を抱えるっていうのは、その中で社会一般と徐々にズレが生じたり、倫理観が麻痺していってしまうという点で、危ういとは思うのですが、しかし一方でネット上での精神衛生上は、そのほうが健康を保てるともいえるわけで、なかなか難しい問題です。

認知の歪み

で、上記の問題と関連する問題なのが、ある主義・主張を一旦持ってしまうと、それに反するような情報そのものを知ろうとしなくなってしまうという、認知の歪みの問題です。
この問題の何が厄介かって、結局前項の問題と一緒で、社会倫理とかそういう問題を無視して考えるなら、自分の主義主張と同じような主義主張の人と付き合ったり、そういう考えを支持してくれるような情報ばかり摂取するほうが、その人の心は楽であるという問題です。「自分と違う意見の人の意見にもきちんと耳を傾け理解し、その人と対話するようにしよう」とは聞こえは良いですが、しかし実際はとてつもなくしんどいですし、だいたいtwitterとかをみても、そうやって他者と対話を試みる人ほど疲弊して不健康に見えます。
個々人の心の健康と、民主主義社会の倫理との間の対立、実はこれって結構真剣に悩ましい問題なのではないかと、思ったりします。

このはてなの片隅で

とまあ、いろんな話がでてきた集まりだったんですが、そんな集まりを終えて、僕は今こんなことを考えています。それは
「このはてなの片隅で『アイ(I=私)』を叫ぶことが可能なのだろうか」
ということです。
というのも、話せば話すほど、昨今のインターネットというのは、おぼろげながらもかろうじて存在していた、「私」という存在が溶解していっているのではないかと、不安を抱くようになったからです。
承認欲求はたしかにキモいです。自分を承認してくれとか殊更に叫ぶ存在なんか鬱陶しくて仕方ありません。でも、そのキモさって、言ってみれば他者が他者であることのキモさそのものなわけです。あなたは自分とは違う人間なのに、ずうずうしくも自分の近くに来ようとする。そこでキモさを感じながらも、まあまあなんとかその他者と他者として、拒絶しながらも受容していく、そんな微妙な関係が結ばれるわけです。
しかし所属欲求は違って、むしろ心地よいです。「あなたも私も同じものに所属しているんだよ」というわけですから。同じ旗を振って、同じ行動をし、同じ思考をする。そこには他者との緊張関係というものはまるでありません。でももし、その同じ所属している集団が暴走し、危うい方向に行ったとき、所属欲求にもとづいて動く人間がそれを止められるか?それは無理でしょう。なぜなら集団の動きに反して動くというのは、結局多かれ少なかれ、個として動くという点で、承認欲求的だからです。しかし現在のインターネットは、所属欲求ドリブンで動いている。とすれば、結局その行き着く先は、どうあがいたとしても、それぞれの集団が閉じこもり、自分たちの集団の思想や好みをより強化していく方向にしか情報を摂取しない、「閉じこもるインターネット」でしかなくなってしまうのではないか、そんなことを思うのです。

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義

ただ、ではそれを「悪いこと」だと指弾すれば解決するかといえば、そんな単純な問題でもないでしょう。なぜなら、そうやって何かに所属することで一体感を得るというのは、それが良いか悪いかはさておいても、とにかく「心地よい」ことだからです。快/不快という基準に則る限り、肯定するしかないのです。
しかしそれでも、少なくとも僕は、このインターネット上で「アイ(I=私)」を叫び続けたいと、そう思うのです。それは、結局僕が承認欲求に囚われたオールドタイプな人間だからなのかもしれません。ですがやはり僕は、それがどんなにキモくて時代錯誤でも、承認欲求を声高に叫ぶ「私」にあふれていたあの頃のインターネットが好きだし、そして、たとえインターネットの大多数がそうではないとしても、ごく一部の片隅には、おぼろげながらも「私」をつかもうとする声が存在し続けると信じているし、そういう声とともに有りたいと、そう、願っているのです。