あままこのブログ

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『けものフレンズ』は、むしろ私たちに違ったあり様の「知性」を教えてくれるのだ

ようこそジャパリパークへ(初回限定盤)

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けものフレンズについて、「知能を低下させるアニメ」という評価があります。けものフレンズを見ている人が「すごーい!」「たのしー!」としか呟かなくなることなどからそう言われるようです。
これに対しては、しかしさまざまな人々から、「けものフレンズは知能を低下させるのではなく、むしろそれを高めてくれるものだ。」という反論がなされています。
anond.hatelabo.jp
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僕もこれらの反論に全面的に賛同します。
ただその一方で、このけものフレンズを見ていると自分たちの知能が低下してしまうのではないか、という不安も全く根拠のないものではないと、僕は考えるのですね。
なぜなら、けものフレンズという作品には、私たちが普段「知能」と呼んでいるもの、その根拠となる「近代的知性」を相対化し、揺さぶってくる「フレンズ的知性」があるからです。このフレンズ的知性は、私達が普段「知能」と呼んでいるものとは全く異なる考え方をします。だから一見すると、「知能」を衰退させるものとして写ってしまう。
でも違うんです。近代人が言う「知能」とは、違うあり様の知性が、けものフレンズという作品には込められており、むしろ、そのような知性こそが、現代の私たちが真に手に入れるべきものであるとさえ、言えるのです。
では、そのような「フレンズ的知性」とは一体何か。何が「近代的知性」と異なってくるのか。キーワードは次の3つです。

  • 「孤立」ではなく「共同」
  • 「競争」ではなく「互助」
  • 「啓蒙」ではなく「内発」

どういうことか、これから説明していきます。

「孤立」ではなく「共同」

近代においては「一人ですべて考え、決めること」が重要視され、「内省」というものが文学においても特別視されてきました。
自分がいかなる存在であり、他者とは一体どうやって付き合っていけばいいか、世界とは一体どういうものなのか。そういったことは、一人で延々と考え、自分の中で答えを見つけだすことが重要であり、他者の言葉などに影響されるのはよくないとされてきたのです。
しかし、このような考え方は、現代においてはむしろ答えの出ない悩みに人々を追い込んでしまっています。これについては、前回の記事で心理主義というキーワードを元に解説したので、ご参照ください。
『けものフレンズ』が僕たちに見せてくれる新しい「人間」の形 - あままこのブログ
一方、けものフレンズにおいては、そのような問いは一人で延々と考えるものではありません。「君は○○が得意なフレンズなんだね!」という言葉に代表されるように、自分という存在は、自分が内心で自分のことをどう思っているかではなく、自分が何ができるか、そしてそれによってどう周りに貢献できるかによって決まってくるのです。
つまり、悩みはみんなで分かち合い、そして答えを出すものなのです。例えばけものフレンズの3話において、トキちゃんはかばんちゃんに歌うコツを聞き、アルパカちゃんは喫茶店を繁盛させる方法についてアドバイスを得ましたし、5話において、ビーバーちゃんとプレーリードッグちゃんは、「住むところがない」という悩みを、二人で共同して意見を出し合い、仕事をすることによって解決できました。このように、一人で抱え込んで「孤立」するのではなく、みんなで「共同」することによって問題を解決すること、このような形の知性こそが、けものフレンズにおいては重要とされています。
これは、とかく主人公一人に問題を押し付けがちな、日本のサブカルチャーにおいては画期的なことです。以前著者は、『風の谷のナウシカ』という作品について、「ナウシカが問題をすべて一人で抱え込みすぎているのでないか」という批評をしたことがありましたが*1、この点に関して言うならば、実はとっくに「けものフレンズはナウシカを超えた」とさえ、言えると僕は考えます。
そして、このような形の新しい知能を、「IQ」とは異なる知能、「EQ」として捉えるという考え方もあるそうです。IQが自分ひとりで黙々と問題を解いていくものであるのに対し、EQは、人とどのように付き合い、問題を共同して解決していくか、その能力を測るものです。

EQ こころの知能指数 (講談社+α文庫)

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そして、実は「けものフレンズ」についても、「すごーい」「そうなんだー」「たのしー」というフレンズ文法が、チームで仕事をするにあたっては、コミュニケーションを円滑にし、極めて有用に働くということが指摘されています。
tech.misoca.jp

  • フレンズ文法は、基本的にポジティブにフレーミングした上で発言する文法だ!
    • 〇〇が苦手なフレンズなんだね!へーきへーき!フレンズによってとくいなことちがうから!
    • 〇〇が得意なフレンズなんだね!すごーい!
  • 謙虚(Humility) 尊敬(Respect) 信頼(Trust) だ!

nuryouguda.hatenablog.com
あなたが仕事をしたり勉強をするときに、本当に必要なのは、一人で黙々と知能テストを解く能力ですか、それとも、チームみんなと協力する能力ですか?
その点を考えただけでも、けものフレンズはむしろ、本当に私たちが必要とする「知能」を高めてくれるものであることが、分かると思います。

「競争」ではなく「互助」

けものフレンズのフレンズたちは、誰かを助けるために何かをすることを厭いません。かばんちゃんやサーバルちゃんが何か困っていれば他のフレンズを助けますし、また、かばんちゃんやサーバルちゃんも、誰かが困っていたらなんとかしてその子を助けようとします。また、渡し船をしているジャガーさんや、喫茶店を開いているアルパカさんのように、なんの見返りを求めることなく常に生活の中で誰かを助けているフレンズたちも居ます。
それに対して、現在の私たちの行動は基本的には、「競争をし、誰かを出し抜く」ことを基本としています。学校では、テストで他人より高い評価を得ることによって相対的評価を高めようとし、仕事ではライバル企業と競争し、相手を市場から蹴落とそうとします。そしてそのように競争によって自分の利益を最大化しようとすることが、社会全体を発展させ、結果的に人々をみんな幸福にするのだと、信じています。
ですが本当にそうでしょうか?例えば、震災の時、みんなが水を欲しがっているときだから、水を自分の手元に独占して価格を吊り上げることが、合理的行動だから良いのだと言った人がいました。なるほど確かに競争に勝って自分の利益を最大化することが、「近代的知性」においては善とされています。
ですが、「フレンズ的知性」においては、どうでしょうか。「みんなが水を求めて困ってるんだから、みんなで水を分配すれば良いんじゃないのかなぁ」と考えるでしょう。
では、この2つの内、より人々を幸せにする知性はどちらでしょう?
また、「近代的知性」では、競争によって自己の利益を最大化することが重要とされますから、他人を常に用/不用の基準で判断します。そしてその視点からは、劣った存在である高齢者や病者・障がい者は、不用な存在であり、突き詰めて考えれば、そのような存在は生かしておくこと自体がもったいないということになります。
しかし「フレンズ的知性」においては、そのような価値によって仕分けはされません。ただ、「フレンズであること」が重要なのです。もちろん、それぞれのフレンズに得意なこと/苦手なことはあります。ですが、一見何も得意なことがなにもないように見えるかばんちゃんに対しても、サーバルちゃんや他のフレンズは決して見下したりしません。むしろ、積極的にかばんちゃんを助けようとします*2。おそらくそこでは、「共にあること」そのこと自体がフレンズにとってうれしい、幸福なことと認識されているのでしょう。
さて、この2つの知性のどちらがより人々を幸福にするのでしょうか。前者のような知性では、人々は常に自分が老人や病者・障がい者になることに怯えなければなりません。しかし、どんなに怯えたって人はふとした瞬間に病者・障がい者になってしまいますし、さらに言えば、人はだれでも年老いれば高齢者となります。そうなったときに、「君は不用な存在だから」と切り捨てられるのか、あるいは、「へーきへーき」と、むしろ共にあることに感謝してもらえるのか、僕は、後者のような社会を生む知性こそが、人々を幸福にすると断言します。

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

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「啓蒙」ではなく「内発」

かばんちゃんたちは図書館へと向かう旅先の途中で、フレンズたちが抱えている様々な問題に遭遇します。そして、その問題を解決するために、知恵を振り絞るわけですが、しかしその際にかばんちゃんは、常にそのフレンズそれぞれの特性を活かす方法で、問題を解決することを考えます。
そのことが一番顕著なのは、5話の家造りでしょう。5話において、ビーバーちゃんは、計画を実行する手順を考えることは得意でも、実際にその手順を実行することは苦手です。そしてその一方、プレーリードッグちゃんはなにかを実行することは得意でも、その手順を計画することが苦手なのです。
このような時、「近代的知性」にもとづいて考えるならば、教育≒啓蒙を行い、ビーバーちゃんに手順を実行することを、そしてプレーリードッグちゃんに手順を計画することを教え込もうとするでしょう。なぜなら「近代的知性」においては、すべての個人が一つの完成された「近代的自己」になることが求められ、その中で個々人が持っている特性は無視されなければならないからです。
しかし、かばんちゃんはそうはしませんでした。得意なこと/苦手なことという特性がそれぞれあるんだったら、その特性を否定するのではなく、活用しようとします。具体的には、二人で共同で家を作ることを提案したのです。そしてさらに、家の形も、それぞれが意見を自由に出し合い、それぞれの要望を出来る限り実現する形にしようとしたのです。
これは、同じ「異人*3たちがやってきて問題を解決する」という、近年アニメや漫画・ライトノベルに流行している作品のストーリーの中でも、かなり独特な方法です。それらの作品においては、異人たちはしばしば「転生者」としてやってきて、ただ自分のやり方を教育≒啓蒙というかたちで、押し付けて問題を解決しようとします。例えば、そういう作品の例として代表的な『まおゆう』という作品においては、魔王というキャラクターが転生者として現れ、中世以前の社会を、現代の近代的手法で「啓蒙」することによって変革しようとしますが、その過程においてはその世界の特性は完全に無視され、まるで出来の悪い歴史の教科書のように、ただ現実の歴史をなぞり、その中で乗じる悲劇も「発展のためにはしょうがないことだ」と無視します。
このようなやり方は、まさに「近代的知性」特有のものといえるでしょう。ある一つの理想形があって、それは万人が求めているものだと決めつける。そして、その理想形に至らせるやり方も一つであると決めつけ、やり方が一つだから、そのことで生じる犠牲も、「理想のためには仕方のないものだ」として許容されるのです。
しかし、「フレンズ的知性」のやり方は違います。そもそも、それぞれの地域・フレンズによって、理想とするものは全く異なってくるし、その理想を実現する方法も、多種多様なものなのです。そしてさらに言えば、その地域・フレンズの理想や、得意なこと・苦手なことについて、最もよく知っているのは、問題を抱えているフレンズ本人たちなのです。そのことは、かばんちゃんたちにとっては当然のことですから、自分のやり方を押しつけようとするのではなく、フレンズたちの特性を用いて何かできないかと、フレンズたちの試行錯誤を重要視しながら、考えるのです。そこには、「俺のやり方でやればうまくいくんだから黙って従え」というような、前節で挙げた「転生もの」特有の傲慢さはありません。
このように、その当事者自身で、当事者の特性を活かした形での、問題の解決を測ることは、近年「内発的発展」ですとか「当事者主義」として重要視されています。

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

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内発的発展論の展開

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なぜこのような当事者自身が、当事者自身のやり方で問題を解決していくことが、重要視されているのか。その背景には「近代的知性」の、ある一つのやり方が最善で、それをみんながやればうまくいくという、「啓蒙主義」が、限界に来ているということが挙げられます。
例えば発展途上国支援。近代における西欧の発展が唯一存在する発展のやり方だとすれば、まず工場を作り、そしてその工場を支える社会インフラを作ることこそが、発展の唯一のやり方であるということになります。そして事実、発展途上国では「開発独裁」という、正しいやり方を国家が人々に押し付ける形で押し付けてきました。
しかしその結果生じたのが、地域の環境破壊であったり、社会構造の破壊によるセーフティーネットの無効化や、不平等の拡大などでした。そんな啓蒙主義の負の側面が明らかになる中で、近代西欧の発展方法のみが唯一のやり方ではないんじゃないんか、例えば自然豊かな地域なら、その自然を活かした形での発展があるのではないかとか、
フェアトレード―格差を生まない経済システム

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宗教による不平等是正のシステムがあるのだったら、そのシステムを使ってベンチャー企業を支援したりすれば良いんではないかとか、
イスラム金融はなぜ強い (光文社新書)

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そういった様々な地域独自のやり方の模索がされるようになっているのです。
また、身近なところで言えば、「学校」という制度においても、「近代的教育」、つまり集団で机に座って同じ授業を受ける、そんなやり方から、個々人が自発的に学習をしていく、そんなやり方への移行が叫ばれています。
その理由の一つとしてあるのが、そのようなやり方は、机に座って授業を受けるのが苦にならない、いわゆる「定型発達者」にとってはよくても、そうでない「非定型発達者」にとってはとても苦痛になっているということが、近年気づかれるようになったということです。
それこそ例えば、けものフレンズの4話に出てきたスナネコちゃんのような存在が、机にじっと座ってただ黙々と板書を写す、みたいなことができるでしょうか?それより、スナネコちゃんがあれだけ好奇心があるんだから、その好奇心を活用して自分からいろんなことを調べられるような授業を行うほうが、よっぽど良いはずです。
このように、「近代的知性」に基づく「啓蒙」という方法が様々な点で限界に突き当たる中で、そうでない、「フレンズ的知性」に基づく「内発」という方法を知ることは、マクロな問題でもミクロな問題でも、きっと役立つはずです。そしてそのような「内発」というやり方について、けものフレンズは格好の教科書となるのです。

*

誤解があるといけないので一応言っておくと、僕は別に「近代的知性」をすべて捨て去り、「フレンズ的知性」に全面的に移行すべきというようなことを述べてるのではありません。前項で述べたとおり、方法は一つじゃないのですから、フレンズ的知性が有効な場面もあるように、近代的知性が有効な場面も当然あるでしょう。近代的知性がなかったら、あのジャパリパークを走るバスとかを一体誰が作れるのか。
そうではなく、重要なのは、「知能」、及びそれの基盤となる「近代的知性」とは、違ったあり様の「知性」があると知ることなのです。それは―例え表面上そう見えたとしても―決して「知能」を低くすることではありません。むしろ、「すごーい」「そうなんだー」「たのしー」という言葉を、そう言いたいことを感じたときに素直に言えるということ、それだって「知能」の一つなのではないでしょうか。
だから、とにかく言いたいことはただ一つなのです。


『けものフレンズ』、みよう!

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

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*1:sjs7アーカイブ - 2008-08-15

*2:このことからも、けものフレンズに障害者がいたらこうなる。ワイが間違ってる?というしょーもない記事が端的に誤りであることがわかります

*3:ストレンジャー