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あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

うんざりするフラジャイルさ

「フラジャイルさ」とかいうものが、知識人しぐさとして尊ばれてきたのは一体いつごろからなのだろう。
原発についてどう思うか」と聞かれれば、「原発賛成!」とも「原発反対!」とも叫ばずに、「それぞれにはそれぞれの立場があってー」とか言って、それで挙句の果てには「むしろそうやって踏み絵を踏ませるのが良くない」とかのたまったり、「沖縄の在日米軍についてどう思うか」と聞かれても、「トランプ大統領についてどう思うか」と聞かれても、似たような感じで自らの立場をはっきりと表明し、自らと違う立場に対し反駁するという、民主主義の議論において最も重要なことから逃げる感じ。
「わからない」と正直に告白することが偉いという。でも、「分からない」人よりは「分かる」人のほうがどう考えたって偉いだろ。みんながみんな「分からないねー、難しいねー」と言ってたら物事は何も進まない。何も進ませないことが一番悪い場合だってある。
一昔前、「決断主義」という言葉が流行ったことがあった。それが流行っていた当時は正直、決断の中身が重要なんだから、決断することそれ自体を尊んでいてもしょうがないだろと思っていた。でも今のこの現状を見ていると分かる。世の中には決断が悪いことだと考えている連中が大勢居て、そういう連中をひっぱたく劇薬として、あの言葉が必要だったのではないかと。
「強い言葉は信じない」、「正義だと言い募ったりしない」そんな態度を素晴らしいと語る連中がいる。しかし僕には、それこそ自分を一段上の「メタ正義」として特権化する言葉に思えてならないんだよ。
トランプとか橋下とか、僕は大っ嫌いだよ。でも、大っ嫌いだからこそ、そういう連中を叩き潰せるぐらい強くあれよ。「弱さだって大事だ」とか言って逃げてるんじゃねーよ。そうやって逃げてる間に酷いことが世の中では起きまくり、悲しみや苦しみが幾千と積もっていく。
今必要なのは「正義の味方」だ。「傍観者」じゃない。並み居る社会問題を一刀両断し、弱気を助け強気をくじく。その覚悟がないんだったら、言葉を発することなんかやめちまえ。