あままこのブログ

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宇崎ちゃん献血ポスターに「間違った解釈」なんてあるのだろうか

要約

  • 宇崎ちゃんの献血ポスターが女性を性的対象としているかしていないかについて「その解釈は間違ってる!」と証明することって、不可能なんじゃないの?
  • そもそも「正しい解釈/間違った解釈」っていうのを決める絶対的に偉い人って、もういないんじゃないの?
  • 絶対的に偉い人がいない中で「その解釈は正しい!/間違ってる!」と議論することって、不毛に思えてならない。
  • 「様々な解釈が同時に存在する」ということを認めた上で、異なった解釈をする人同士がどうやって付き合っていくか考えたほうが、建設的なんじゃないか。
  • 「正しい解釈/間違った解釈」ではなく「抑圧する解釈/抑圧される解釈」について、後者をすくい上げるような批評こそ、個人的には批評に期待したいな

献血ポスターをめぐる立場の違いの整理

www.j-cast.com

この論争に言及する人たちの主張を僕的にごく簡単にまとめると、以下のようになるんじゃないかと考えています。

  • 今回の献血ポスターは女性を性的対象にする性差別を含んでいる
    • 性差別を含んでいるから公的な機関は表現に採用するべきではない
    • 性差別を含んでいたとしてもそれを規制することは表現の自由の侵害だ
  • 今回の献血ポスターには女性を性的対象にする性差別の要素なんかない

ただ、僕は「表現の自由の侵害か否か」という論点には、正直あんまり興味はありません。そういう議論は、お好きな方で勝手にやっててください。

僕が気になるのは、そもそも「今回の献血ポスターをどう解釈するか」という時点で、まさしく解釈が食い違っていること。そしてそこに「間違った解釈」はあるのかどうかということです。

「正しい解釈はないけど、間違った解釈はある」から、献血ポスターに性差別がないというのは「間違った解釈」?

音楽学者の増田聡氏がtwitterでこのようなツイートをしています。

 そして更に、今回の献血ポスターについて批判的な立場である文学者の北村紗衣氏は、このようなツイートをしています。

北村氏がしている「批評には正解はないけど間違いはあるっていう話、単著でやった。」というのは、次の一文のことでしょう。 

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

 

ここでひとつ強調しておきたいのは、批評をする時の解釈には正解はないが、間違いはある、ということです。よく、解釈なんて自由だから間違いなんかない、と思っている人がいますが、これは大間違いです。間違った解釈というのは、とくにフィクション内事実の認定に関するものを中心に、けっこうあります。フィクション内事実の認定というのは、ある物語の中で事実として提示されていることを正確に押さえられているかどうかです。たまに映画評などを読んでいると、「いや、そいつそこで死んでなくない?」とか「それ、説明する場面が最初にあったでしょ」みたいなツッコミを入れたくなることがありますが、そういう誤読ですね。いくら解釈が自由だと言っても、作品内で提示されている事柄の辻褄がおかしくならないように読まなければなりません

 

―まえがきより引用

 なるほど。確かにこう書かれると、「間違った解釈」というのもあるように感じます。

では、今回の献血ポスターはどうでしょう。ポスターに性差別が含まれているというのは「間違った解釈」なのか、そうではない妥当な解釈なのか?

「性差別を含んでいるかどうかというのは、曖昧な基準なので正しいとか間違っているとかいうことはできない」と言うかもしれません。

では、次の論争はどうでしょう?今回の献血ポスターを見て、浦野真氏は次のようにつぶやきました。

 これに対してぬにふちさか氏は次のように反論します。

 この二人がどういうふうに議論していったかは実際にtwitterで見ていただくとして、ここでは「献血ポスターのキャラが誰に話しかけているか」という、それほど曖昧ではないように思われることでまで、解釈が分かれているわけです。そして両者は、twitter上で議論をしても、解釈が一致することはありませんでした。

もし「間違った解釈」というものがあるとすれば、どちらかが間違っているということになるでしょう。しかし、では「両者のうち、こちらのほうが間違っている」とは、一体誰が、どうやって決めるのでしょうか?

これについて、上記のツイートの言葉を借りて「勉強しようというしかない」と言う人もいるかも知れませんかもしれません。では、なにか絶対的に正しい解釈を教える、聖典のようなものがあって、それに基づけば「間違ってる解釈」が誰にでも同じように判別できるようになるのでしょうか?それこそ北村氏のように、「大英図書館にある本を全部見」*1でもすれば、誰もが同じように「間違ってる」ものを見分けられるようになるのでしょうか?

僕は、そう単純な話ではないと思うのですね。というか、仮にそのような難行苦行の果てに「間違った解釈」が見分けられるようになるとしても、それをできる人はほとんどいないでしょう。結局多くの人は、自分が今まで得た、偏った知識体系の中からしか、物事を解釈することはできません。そして、それぞれ違った環境で育った人は―ときには一致することもあるかもしれませんが―大体の場合において、「解釈」ですら一致することはないのです。

そこでそれでも「間違った解釈を排除したい!」というのなら、もう誰か絶対的に解釈を決定する王様でも作って、その人の解釈に従うようにするしかないでしょう。それは、まさしく「表現の自由」にとっては暗黒時代となるでしょう。しかし「議論すれば誰もが同じ解釈に至る」というのが実際は不可能である以上、「間違った解釈は許さない」という立場を取るなら、そうするしかありません。

「どの解釈が正しいか」不毛な議論をするより「異なる解釈を持つ者同士がどうやって付き合っていくか」を考えた方が、建設的なんじゃないの?

まあ別に、それでも「自分の解釈こそが正しくて、相手の解釈が間違っているということを主張したい!」と言うなら、別にそれを止めはしません。ただ、不毛だなあと思うだけです。

ただ僕はそれより、異なる解釈をそれぞれが持ち、それが一致することはないということを認めた上で、それでも両者がうまく付き合っていく方法を考えたほうが、建設的なように思えて、ならないんですね。

例えば今回のポスターについて言うならば、別に「宇崎ちゃんの献血ポスターを性差別的だと思う人」を献血から遠ざける必要なんて、まるでないわけです。さらに言えば、性差別がいけないことだってことは、万人がほぼ認めているわけです。だったら「別に自分たちは性差別をするつもりはなかったけど、性差別的だと思う人がいるんだったら、今後はこういう表現を広告ポスターでしないよう注意します」で十分じゃないですか。

で、宇崎ちゃんが好きな人は、好きな人同士で変わらず宇崎ちゃんを楽しく読む。宇崎ちゃんが嫌いな人は、宇崎ちゃんには触れないようにする。それで終わりじゃ、いけないんですかね?

(なお、ここで「じゃあ表現の不自由展だって不快に思う人を遠ざけているじゃないか!」とか思った人は、文章をよく読みましょう。表現の不自由展は、逆にそれを嫌う人に見るのを押し付けることなんかしてません。さらに言えば、むしろ表現の不自由展の作品における「戦時暴力への批判」は、性差別とは違い、すべての人がすべきことだと、世界の大勢が認めていることです。)

もちろん、全ての問題がそのように簡単に解決できるわけではありません。好きな人同士という「仲間内」が一体どこまでの範囲を指すのかというのは、インターネット以降ますます曖昧になってきていますし、そうやって島宇宙化が進むことにより、私達はますます共通言語を持たなくなってきてしまうのではないかという問題もあります。

ただ、そのような問題があるとしても、僕たちはもはや「絶え間ない議論を続ければやがて万人が解釈を同じくするようになる」とは思えないわけです。そんな、世界をどのように解釈するかということ自体が異なる他者と、どう付き合っていくことこそを、考えるべきなんじゃないかと、僕は思うわけです。

むしろ批評は、「正しい解釈」を押し付け「間違った解釈」を排斥するものに、反抗するものであってほしい

そして更に言えば、ある集団や社会の中で「これこそが正しい解釈で、それは間違った解釈だ」という抑圧がある時、それに反抗する声を与えるものこそが、僕は批評なんじゃないかと、批評に期待するのです。

例えば今回の騒動では、オタクは全員宇崎ちゃんの献血ポスターを擁護し、フェミニスト側は全員批判するような構図が形成されてしまっていますが、別にオタクだって「あの宇崎ちゃんのポスターちょっと嫌だな」と思う人が居てもいいし、逆にフェミニストであっても「別にこのポスターいいじゃん」と思った人がいてもいいと思うんですね。

ところが現在の党派的な雰囲気ではそのような気持ちは空気に押しつぶされてしまうわけです。「オタク/フェミニストなのにそのように考えるのは間違ってる」と。

僕は、むしろ間違っていてもいいから、そこで空気に抗い「いや自分はこう解釈するんだ!」と言ってしまうのが、批評の力なんじゃないかと思うわけなんです。党派的な正しさではなく、間違っていてもいいから「私」をエンパワーメントする力、それを僕は批評に期待したいし、今まで読んできた中で、面白かった批評は、まさしくそういう「私」の目線から書かれていたと思うんです。

別に強制はしないけど、僕が読みたいのは、そんな、間違った解釈に基づく、間違った批評です。