あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「ここに書けば誰かが真剣に読んでくれる」という期待感が今のはてなにはない

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他の人はどうだか知らないけど、少なくとも僕があんまりはてなで長文や他人の記事に反応する記事を書かなくなったのは、「ここで僕が何かを書いても、それを真剣に読んでくれる人はだれも居ないように思えてならない」からだったりする。

在りし日のはてな村

非モテ非コミュとか、あるいはオタクとしての自意識とか、はたまた現代のサブカルチャー時代精神の関係とか、ゼロ年代からテン年代前半の頃のはてな―少なくとも僕の周りのはてなは―そんなことばっかりを語り合っていた。

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なんでこういうことばっか書いていたかと言えば、それはひとえに、現実社会でこんな問題を真剣に語り合う人なんて周りには居ないけど、はてなにこういうことを書けば、その文章に賛成するのであれ否定するのであれ、書いた意見に真剣に向き合って、返答をくれるだろうという期待感があったからだ。そして実際、その期待は満たされた。

重要なのは、ここで「賛成か否定か」ではなく「真剣に読んでくれるか」ということが問題だったという点だと思う。過去のはてなが僕と同じ考えの人ばっかりだったかといえば、そうではなかった。むしろあんまり非モテ女性嫌悪に共感できなかったり、人気のアニメにいちゃもんばっかりつけたりしていたから、僕と同じ意見の人ははてなにもそんなに居なかった。

ただ、それでもはてなでやり取りする人たちは、異なる意見にも真剣に向き合っていたし、僕もまた、それに応じて、「ひどいなー」と思う意見の文章であっても、それに対して応答し、なんとか相手を説得しようとする文章を考えていた。今から考えると、なんて夢想論的なんだと思うけど。でも当時は、それができるんじゃないかという信頼が、幻想としてでもあったのだ。

規模の拡大と、マネタイズと、陣取り合戦と

それが変わり始めたのが、テン年代中盤から後半だった。

まずはじめに、ブログを書く人がどんどん増えていった。以前は一日三十分もかければ、はてな界隈で話題になっていることはだいたい網羅できて、そしてそこから自分が関心ある話題に言及する、という感じだったのが、一時間以上かけても全体を網羅すらできなくなっていった。

また、今までははてなに居なかったような人もどんどんブログを書くようになった。彼らはビジネス書とかは多く読むけど、「スクールカースト」とか「非モテ」とか「理想/夢/虚構」とか、そういった言葉は、概念としてそもそも知らない。今まではてなでそういう問題に関して言及しあえたのは、立場はどうあれ、そういう分析概念自体は知っている人が多々いたからだったけど、立場以前に、そういう分析概念や、そういう分析概念を必要とする問題自体を知らない人がどんどん増えて、やがて多数派を占めていった。そういう人たちは、そもそも今まではてなで語られてきたことに興味がなかった。

じゃあそんな人達が、一体何に興味を持っていたかというと、「マネタイズ」である。より多くPVを集め、アフィリエイトやらアドセンスやらでお金を稼ぐ。そのためには難しい言葉を浸かったり、人から同調されにくかったりするような文章は書かずに、読む人が気持ちよくなれるような、商品の紹介であったり紀行文だったりを書くようにしよう。

そして以前は非モテ非コミュについて語ってた人も、そういう人の中で地頭が良い人はどんどん路線転換していき、オトナーな、はてな編集部やらオウンドメディアやらとかから依頼を受けるような文章を書くようになっていった。

そしてさらに、ブログは陣取り合戦の道具と化していった。ブログがどんどん大衆化していなかで、現実の政治もまた、ブログにどんどん侵食していった。

ここで難しいのが、もともとのはてな村という場所も、政治について語るのは大好きだったということだ。だがそれは、あくまで分析の対象としての「政治」だ。なんで今の政治はこうなっているのか考えたり、政治思想について意見を交わしたりする、その次元で「政治について語る」ことは多々行われてきた。

ただ、「政治について語ること」と、実際に「政治をする」ことには大きな隔たりがある。実際に「政治をする」にあたって、政治思想について議論したり、分析をしたりすることはほぼ役にたたない。そうではなく、たとえ稚拙でも耳障りの良いフレーズを繰り返したり、敵対者を矮小化して味方を高揚させるような言葉を放つほうが、現実の政治においてはずっと重要なのだ。そのような言葉が支配する議論においては、重要なのは議論の相手を説得することではなく、むしろそれを見ているオーディションを味方につけることにある。

そして「どれだけオーディエンスを味方につけられたか」を評価する指標となったのが、まさしくはてなが発明した、あの最低最悪の愚劣な発明、はてなスターだ。

はてなスターをつけるという行為は、「意見に対して真摯に向き合う」という行為の、正反対に位置すると言っていい。はてなスターを付ける人は―もちろん自分も含めて―そのつけられた文章に真摯に向き合ってなど居ない。ただそれが自分の属する陣営に耳障りがよく、効果的に敵対者を侮蔑できるという評価を持って、それを付けているのだ。

しかしはてな社は、そのような愚劣な機能を開発したばかりか、あろうことかそのスターの多少によって、はてなブックマークでコメントが上位で表示されるか否かを決定するようにした。その結果は、言うまでもないだろう。はてなブックマークはもはやタダの党派対立の場でしかない。そこを支配しているのは「文章に真剣に向き合おう」という気持ちとは真逆の感情、いかに敵対者の文章の影響力を削ぎ、それによって味方の影響力を上げようかと企む、しょーもない、「政治」だ。

規模の拡大と、マネタイズと、陣取り合戦、この3つがはてなを席巻する中で、やがて多くの人は「ここに真剣な文章を書いても、それを真剣に読んでくれる人はだれもいないんじゃないか」と思うようになったのではないだろうか。少なくとも僕の場合は、そうだった。

「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」場はどうすれば作れるか

以上の理由から、僕はもう今のはてなにはあんまり期待していない。ただそれでも、たとえその場が「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」という期待が持てる場は、必要だと思うのだ。

ただそれは少なくとも、TwitterなどのSNSや、noteみたいなブログサービスではないんじゃないかと、僕は思っている。

SNSに関しては、RTやいいねといった、はてなスターと同じ機能がある以上、論外だ。

noteに関して言うと、あれは「読まれ(て、さらに金が儲けられ)る文書」を書く場所を目指しているのであって、「書きたい文章」を書く場所は目指していないのではないと、僕は認識している。

もちろん、原理的には「読まれる文章」と「書きたい文章」は両立する。しかし実際は、文章表現を洗練し、読まれやすい文章を目指せば目指すほど、その文章にもともと筆者が込めようとしていた熱量は目減りしてしまうだろう。

また、人々がお金を払う文章というのは、結局の所「読んだ人が心地よくなる文章」だ。だが、ひとが自らの実存を掛けて書いた文章は、その人自身の内面が入っている以上、かならずある部分で他者を不快にする部分があるわけで、金儲けの文章としては効率が悪いのだ。

つまるところ、もし現在のインターネットで「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」と思わせる場所を作るには、以下のような条件が必要なのだ。

  • 知識の面で参入障壁を設け、あんまり物を知らない人は出入りできないようにする
  • 反応を返すにはお手軽なワンクリックではなくある程度の文章を返すことを必須とする
  • マネタイズに人々を誘導しない

しかし、今のこの手軽なネットに慣れた人がこういう場に敢えて入っていくだろうか?さらに言えば、そんなお金にならなさそうな場を提供するWebサービス側のメリットとは?

そう考えると、難題は山積みで、解決不可能なように思えてくる。

しかしそれでも、「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」場を必要とする人はいるとおもうのだ。身の回りには打ち明けられない、普通だったら反社会的と糾弾されるような思い、でもそれを抱えていたら、自分が変になってしまうような、そんな思いを、打ち明けられる場。敢えて言えば、そういう場があれば起きなかった"事件"も、多々あるのではないだろうか。