あままこのブログ

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ラブライブ!サンシャインのパネル騒動について―その輪の外へ、想像力を向けようよ

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寿太郎みかん

www.at-s.com

ラブライブ!サンシャインのパネルの騒動についての、僕の考え。

僕の立ち位置について

まず最初に行っておきたいのは、僕の立ち位置です。なぜそれを言っておきたいかといえば、この騒動は、それぞれがどういう立ち位置から意見をいうかで、ぜんぜん違う意見になるということ、むしろ、立場が違えば意見も違うものになって当然なのに、多くの人が「自分の立場からの意見が唯一無二の正しい意見のはずだ」と強く思い込んでいて、そのせいで対立が激化してしまっているように見えてならないからです。

そういう対立の激化から距離を置くためにも、僕は、僕の立ち位置を明確にし、あくまでそういう立ち位置からの意見を述べたいと思うのです。

僕は、大学で4年・大学院で2年、社会学というものを学び、その中でジェンダー学やフェミニズム、また差別や社会的排除といった問題について、それを専門としてきたわけではありませんが、学んできました。だから、この社会には男女差別が厳然として存在していると考えてるし、それは、僕たちが好きな漫画やアニメ・ゲームといった文化にも内在するものであって、それはやがて克服していかなきゃならないものだと考えています。

だから、こういう問題にも多く言及し、問題提起自体は認めなきゃならないという原則をずっと言ってきました。

amamako.hateblo.jp

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一方で、僕はラブライブ!サンシャインという作品がかなり好きです。TVアニメ版については正直辛口の評価をしましたが

amamako.hateblo.jp

 作品自体はかなり好きで、ラブライブ!サンシャインに登場するAqoursの東京ドーム公演にも足を運びましたし

 劇場版は、沼津でAqoursが出る舞台挨拶まで見に行きました。

その時の感想は以下のとおりです。

 そして、これ以前にも以降にも、何度も沼津へ足を運び、聖地巡礼をしています。寿太郎みかんも、もちろん食べています。

 そんな立ち位置からの、発言です。

パネルについて

まず最初に、パネルについての僕の感想を言うと「少なくとも僕にはこのパネルが問題だとは思えない」です。

スカートの影は、確かに変だし、あってもなくても“僕は”どっちでもいいです。でもこれが存在することで高海千歌というキャラクターが性的に消費されやすくなるとは思えない。もちろん、匿名掲示板のまとめブログ等でこの影に言及して性的に消費するような言葉を発する人がいることは観測してますが、しかしそういうエロのことしか頭にないような人たちは、きっと影がなかったらなかったで、スカートの短さやらなんやらで結局同じように消費するでしょう。

また、このパネルが、女性をただ単に目を引くためだけに使う、いわゆる「アイキャッチャー」(http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/dms/g-djb/koteki_koho5.pdfnなど参照)のように使っているのではないかという批判も、一部ではされていますが、それも僕は違うと考えます。ラブライブ!サンシャインという作品で、今回のパネルに登場している高海千歌というキャラクターは、物語の中でみかん好きのキャラクターとして描かれており、今回の西浦みかん大使就任もそのような背景があるからこその就任なわけで、決してただ「可愛い女の子だから」という理由だけで描かれてるわけではないんですね。だから、アイキャッチャーとは違うのではないかと、僕は考えます。

批判について

一方で、以上のことはあくまで僕の立ち位置からの考えです。当然、僕と異なる立ち位置からは、異なる意見が出てくるでしょう。僕は、そのような異なる意見を発すること、それ自体は、基本的に尊重すべきであると考えています。少なくとも、「町おこしの邪魔だ!」とか「オタク差別だ!」みたいな言葉で、そういう意見を提示したり、個々人が自由意志として不買運動を行ったりすることは自由だと思います。そして、そういう声が大きくなったとに、農協側が自主的に、パネルの絵を修正したとしても、別に僕はかまわないと思います(逆に、「そういう声はあると知っていても、コストの問題から敢えて修正しない」という選択もありでしょう。批判側の多くの人はコストを軽視しますが、パネルを治すだけで結構のお金がかかるのであって、そのコストを負担しろと一方的に声を挙げることは、少なくともラブライブ!サンシャインのファンとしてはできません)。

ただ、そういう行為は別に自由ではあるのですが、しかしその一方で、そういう声を上げる人は、その声を挙げることにより、ラブライブ!サンシャインや、そこに登場するAqoursというグループ、また今回パネルに登場した高海千歌ちゃんや、その声を演じる伊波杏樹を好きな人達が、一体どう思うか、そこに少しでも考えを巡らせてほしいとも、思うんですね。

ラブライブ!サンシャイン」という作品に対してファンはどういう思いを持っているか―作品―ファン―沼津という三位一体

まず知っておいていただきたいのは、ラブライブ!サンシャイン」という作品のファンは、普通のアニメや漫画作品のファンとは違って、より能動的に作品に関わりたがるし、自らも作品を支える一部であると自負している、そういう人が多いのです。

これには作品の来歴も少し影響しています。「ラブライブ!サンシャイン」という作品は、もともとμ'sというグループが登場していた「ラブライブ!」という作品が成功を収め、活動が一段落したあとに、新しく登場してきた作品です。

そして、ここらへん、今も結構ファンの間で地雷原となっていることなので、なかなか触れづらいのですが、その登場の仕方は、あたかも「ラブライブ!」やμ'sは一旦ここで終わりで、その後を継ぐ二代目として「ラブライブ!サンシャイン」やAqoursが登場してきたと、そう誤解させても仕方のない登場の仕方でした。

更にいうと、当時既に有名だった人たちを集めたμ'sというグループに対して、Aqoursというグループは、割と無名の声優を集めたグループだったわけです。そうなるとどうなるか?

μ'sというグループがその実力で持ってラブライブ!という作品を盛り上げて、紅白に出場するような位置まで持ってきたのに、何も実力も努力もしてないAqoursという連中がその成功の果実をかすめ取るように現れてきた、そんな風に思い、Aqoursラブライブ!サンシャインという作品に嫌悪感を持つ人も、多く現れるのです。というかそういう人は、今もいます。

だから、「ラブライブ!サンシャイン」という作品、そしてその作品に登場するAqoursというグループは、決して万人に歓迎されて生まれたわけではないんですね。そんななかで、ではAqoursというグループはどう頑張ってきたか。

徹底して、「沼津」という地元に密着して、頑張ってきたんです。

初代のラブライブ!や、そこに登場するμ'sというグループにも、「秋葉原」という舞台はありました。しかし、それはあくまで「作品に登場する」、それ以上でもそれ以下でもなかったんですね。

それに対し、Aqoursは、徹底して沼津という場所にこだわって、そこで様々な活動をしてきたし、また作品でも、あくまで「沼津という土地のアイドル」としてAqoursを描きました。

そして「ラブライブ!サンシャイン」のファンも、Aqoursを愛するのと同じ熱量で、沼津という土地を愛し、そこに頻繁に行きますし、なかには作品をきっかけに沼津に移住したようなひとも居ます。沼津という場所に多く行き、そこで金を落とすことによって、多くのラブライブ!サンシャインのファンは、Aqoursと沼津という場所を助けようと、頑張ってきたのです。

www.tokyo-np.co.jp

 そして更にいうと、沼津の人たちも、その多くが―「多く」であって、「全て」ではないということに注意―そういうラブライブ!サンシャインのファンを、受け入れてきてくれました。

ラブライブ!サンシャイン」という作品及びそこに登場するAqoursというグループ、その作品と、その作品の舞台となった沼津を愛するファン、そしてその2つを受け入れてきてくれた沼津という街、この三者がそれぞれ助け合う輪を築いてきたところに、横から面白半分でその輪を壊そうとしてきた連中だー少なくとも多くのラブライブ!サンシャインのファンにとって、あのパネルを批判したり、不買をしようと言ったりする人たちは、そう写っているのです。

こういう背景があるから、一部の人が「私達はこういうパネルを作った制作側や許した農協の人を批判しているだけで、ラブライブ!サンシャインという作品や、そのファンを批判しているわけではない」と、↓の記事のように言っても

qjweb.jp

それはむしろ怒りの炎に油を注ぐ結果となるんです。なぜなら私達にとって「制作側や農協の人」は、むしろ自分たちの仲間であり、その人達を攻撃する声は、自分たちの仲間を攻撃するものとして映るからです。

ラブライブ!サンシャイン」という作品の輪の外にあるものー沼津の人は、「全て」ラブライブ!サンシャインという作品をよく思っているのか?

以上が、ラブライブ!サンシャインのファンから見た、今回の騒動の図式です。

しかし一方で、そういうラブライブ!サンシャインのファンが描いてきた作品―ファン―沼津という三者の幸福な三位一体は、多分に幻想を含んでいるものであるということも、僕たちラブライブ!サンシャインのファンは、見なければならないと、思うのです。

先程僕は、沼津の人々の「多く」が、ラブライブ!サンシャインという作品を受け入れてきてくれたと言いました。でも、多くの観光施設がラブライブ!サンシャインという作品とタイアップする一方で、それを快く思わない沼津市民も、いるのです。

下記に、ツイートの一例を載せます。なお、これはあくまで例示のためのものですので、くれぐれもツイート主に直接反論しに行ったりしないでください。反論は、この記事のコメント欄や、あままこ(天原誠) (@amamako) | Twitterなどにどうぞ。

 今回のパネルに不快感を抱いた人たちや、上記のツイートのようにラブライブ!サンシャインという作品に街全体が覆われることに嫌な感じを覚えてる沼津市民のように、 作品―ファン―沼津という三位一体の輪に含まれない声もある、そのことを、ラブライブ!サンシャインのファンの多くは、忘れてしまっているのではないでしょうか。

ここで難しいのが、そういう声を見ないで、「沼津という街全体がラブライブ!サンシャインという作品を歓迎してくれている」という幻想を持つこと、それもそんなに悪いことではないということです。少なくともそういう幻想が持てるように沼津の人の多くはお膳立てしてくれていたし、そしてそのお膳立てに乗っかって僕たちは観光してきました。そして観光産業や町おこし、サブカルチャーというものは、多かれ少なかれ、そういう「幻想」がないと成り立たないものです。「こうやって観光を楽しんでるけど、実は歓迎されてないんだよなぁ」とか思いながら観光したって楽しくないでしょう。僕の好きなアニメのセリフを引用するならば、「例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人達も幻に見えるの?」ということです。

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ただ、幻想は、あくまで幻想です。幻想に当てはまらない人がいるからって、「お前は偽物だ!」と言いがかりをつけたり、「経済効果の邪魔になるから黙ってろ!」と言うことも、間違っているのです。

ここらへん、すごく難しくて、一言でずばっと言うことはできないのですが、昔偉い人が「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」ということを言ってたんで、そういう態度でいくしかないと、僕はとりあえず考えています。

その輪の外へ、想像力を向けようよ

 もちろん、そういう声があるからって、「万人に歓迎されてないんだから、ラブライブ!サンシャインは公共の場に出てはいけない作品なんだ」とは思いません。Twitterの一部では、上記のような声があることを持ってして、「だからラブライブ!サンシャインは公共の場に出てきてはいけない」とするような声もありますが、僕はそれには同調しません。公共の場は、彼らの場所であると同時に、僕らの場所でもあります。完全に我を通すのでもなく、ただ相手に屈するのでもない、微妙な調整こそが、求められるでしょう。そしてその点から言うと、僕は今回の、「ららぽーとからの一時撤去」は、まあ調整の結果としてちょうどいいのではないかと考えています。

ただ、そういう微妙な調整をする以前の話として、僕は今回の騒動で、パネルを批判した側・擁護した側双方に、言いたいことがあります。それは「自分たちの輪の外側に、想像力を向けようよ」ということです。

まず、パネルを批判した側。

あなたたちがパネルを見て不快になったり、ラブライブ!サンシャインという作品を見て不快になること、それ自体は尊重しますし、ラブライブ!サンシャインという作品が性差別を助長するような傾向が、もし少しでもあるとしたら、それは改善すべきことと考えます。

しかし、そうやって改善を求めるために、作品のファンをことさら性差別主義者のように批判したり、「こんな広告されるみかんは食べない!」と、不買運動まがいなことをTwitter上で起こすことは、本当に必要だったんでしょうか?少なくとも、そういう風に言われた作品のファンや、みかんを必死で育てた農家や、それを売ろうとした農協の人が、あなたのツイートを見てどう思うか、少しでも考えましたか?

そして次に、パネルを擁護した側。

あなたたちがパネルを擁護する気持ちはよーくわかります。僕も正直、不買運動まがいのことを展開しようとする人たちを見て、かなり腹が立ちました。何より、沼津という街を愛するラブライバーとして、この騒動によって街やみかん農家や農協の人に迷惑が掛かったらどうしようと、深く心配したことでしょう。

しかし、だからといって、パネルを不快に思ったり、ラブライブ!サンシャインとのコラボに不快感を持つ人に「黙れ」と言って、口を塞いでいいのでしょうか?そうやって少数派を「経済に悪影響」とか「賑わいに水を差すな」という理由で黙らせていけば、いつか自分が少数派になったとき、かならず黙らされることになります。

もし心に余裕がなかったら、ただ黙ってるだけでいいです。黙って寿太郎みかんを食べたち沼津に観光に行くだけで、十分沼津を応援できるはずなんです。

そして―これは、本当に心に余裕があったらでいいんですが―もし心に余裕があったら、「そういう不快に思う人に対して、すこしでもその不快感を取り除くようにできることはないか」ということを考えてみても、いいのではないでしょうか。

最後に―ネット上でのオタクとフェミニズムの対立について

今回の件に限らず、インターネット上ではオタクとフェミニズムが対立することが多々起きています。そして、ネット上では双方の過激派の声が大きく取り上げられて、両者が相容れないものであるかのように写っています。

もちろん、フェミニズム側としては、そういう対立はこれまでもあったものであって、ネット上でそれが可視化されるのは基本的にいいことなのかもしれません。

ただ、僕がここで危惧するのは、そうやって両者の対立構図が強調されることによって、一人の人間が、オタク的な側面を持ちかつフェミニズム的な側面を持つこともありうるという、個々の人間の多様性が、抑圧されてしまうのではないかということです。

僕は、フェミニスト、とまでは自称しませんが、少なくともフェミニズムを支持はします。性差別には反対ですし、「男らしく」「女らしく」という観念が、ポピュラーカルチャーに蔓延していることには、多くの場合においてうんざりし、なくしていくべきと考えます。

一方で、オタクとして「男の美学」みたいなものが描かれる作品は大好きです。「仁義なき戦い」を見て、これこそ男の生きざまだろうと思ったりしますし、やっぱり究極的には男が「王子様」として、苦しんでいる「お姫様」を救う、そういう古典的な物語が大好きだったりします。

この2つは、確かに理論の水準においては相容れないものです。僕自身、時にはフェミ的な気持ちからオタク的な自分を自己嫌悪したりすることもあります。

しかし、ではフェミニズムに理解を示すなら、そういうオタク的な自分は消し去るべきなのか、あるいはオタク的な自分を守るために、反フェミニズム的な態度を持つべきなのか。

僕は、そうは思いません。たとえ理論の水準で矛盾していたとしても、そういうフェミ的な自分とオタク的な自分双方、自分の中に存在するものなのです。それを否定することは、正しいかもしれませんが、少なくとも精神的に健康ではないと思います。

対立を激化させる人は、そういう精神的な健康さにも、ちょっとは目を配ったほうがいいと、僕なんかは思うのですが、どうでしょうか?それともこれも、北村紗衣先生の言うように「フェミニズム鑑定士」の戯言なんですかね?