あままこのブログ

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少年ジャンプ・篠原健太氏の炎上について:作家は自由に描け、読者は自由に批判しろ……という原則論

要約

  • 少年ジャンプの漫画家・篠原健太氏のTwitterでの「少年漫画の描写は少年を対象にしている以上、女性を不快にしてもしょうがない」という旨の発言が炎上
  • これに関連し「少年ジャンプの編集者はは『少年の心』が分かる人でないといけないので、女性は難しい」という集英社の就活セミナーでの発言が発見され、それも物議を呼んでいる
  • 「少年ジャンプでも、女性への性差別であったり、女性が不快になるような表現はすべきではない」という意見もあれば「女性のことなんか一切考えない少年ジャンプでこれからもいるべきだ」という意見もある
  • 僕の考え①:少年ジャンプがフェミニズムジェンダーの意見を取り入れた漫画を作れるとは思えない。システム的にも能力的にも無理でしょ。
  • 僕の考え②:作家にはとにかく自分の望むように漫画を描かせるしかない。読者が「こういう漫画を描け」と言うことは、それがどんな望みであっても矯正することは出来ない
  • 僕の考え③:その代わり、読者は出された漫画がおかしいと思ったら遠慮なく批判しろ。批判があることによって、読者の少年たちはそれが「いけないこと」であることを学ぶ。それで作者がどうするかは作者の自由だし、筆を折ったり作風を変えても、それは作者の決断だから批判側は何も悪くない

篠原健太氏の炎上について

詳しい経緯は

seafoodfriends.hatenablog.com

にありますが、長いので簡単に要約します。

篠原健太氏の『彼方のアストラ』 

という漫画に対して、読者から「漫画に登場する女性キャラクターの描写が性差別的で不快である」という指摘が篠原健太氏に伝えられ、

 という風に返答したことが、「少年漫画上で女性差別的描写をすると開き直ってる」と捉えられ、炎上しました。

なお、この後、篠原健太氏は次のような補足をしています。

ですが、「少数の声は届かない」と開き直る以上、それは「性差別を容認してる」事と捉えられると、僕は思いますけどね。

また、今回の騒動では、これに関連して、次のような発言を集英社の社員が就活セミナーでしたことも物議を呼んでいます。

"私の大学に集英社の人事が来た時「女性はジャンプ漫画の編集にはなれませんか?」て質問したら「前例が無い訳ではありませんが週刊少年ジャンプの編集には『少年の心』が分かる人でないと……」て返されたの絶対許せない 嘘松ではなく令和1年、都内私立K大学にて行われた企業説明会での出来事です"

 

―元発言は削除済み

これに関しては、そもそも男女雇用機会均等法の観点から法的に問題があるんじゃないかという指摘がされていますが、それについては僕は別に法律の専門家でなくわかりませんので、何も言いません。

あ、ちなみにこれを、集英社の就活セミナーがまだ行われていないからデマだとする情報が一部のクソまとめサイトから出てますが、下記にあるようにきちんと就活セミナーは行われているのでデマです。デマを流したクソまとめサイトはさっさとサイト畳んで回線切って首○ってください。

今回の騒動では、フェミニズム側と反フェミニズム側から2つの異なる意見が出されています。

「少年ジャンプでも、女性への性差別であったり、女性が不快になるような表現はすべきではない」

フェミニズム側は、今回の篠原健太氏の発言や集英社の社員の発言を批判しています。

 また、そこから更に「少年ジャンプでフェミニズムジェンダーの視点を取り入れた漫画ができればいいのに」という発言がなされています。

 「女性のことなんか一切考えない少年ジャンプでこれからもいるべきだ」 

一方反フェミニズム側からは、「女性に媚びてないのが少年ジャンプの魅力だから、これからもその姿勢を貫くべきだ」という主張がされています。

僕の考え①:少年ジャンプがフェミニズムジェンダーの意見を取り入れた漫画を作れるとは思えない。システム的にも能力的にも無理でしょ。

以上が今回の騒動の簡単なまとめで、ここからが僕の意見です。

まず、フェミニズム側に釘を指しときましょう。

少年ジャンプにフェミニズムジェンダーの観点を取り入れた漫画を作らせるなんて、そもそも能力的にもシステム的にも無理です。諦めてください。

これが、少女漫画誌とか青年誌とかだったらもちろん可能です。というかすでに

さよならミニスカート 1 (りぼんマスコットコミックス)

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 とか 

 とか 

赤白つるばみ 上 (愛蔵版コミックス)

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www.huffingtonpost.jp

とかそこそこあるわけで、「だったら少年ジャンプでもそういうのすればいいじゃん」と思うのも無理はないでしょう。ですが、諦めてください。

まず第一に、週刊誌の連載スケジュールでそんな複雑なテーマを調べ、しかもそれに対する読者の反応に真摯に応答するような作品を作るのは不可能でしょう。上記のような作品は、あくまで月刊以上のペースだからできる作品なのです。

さらに言えば、少年ジャンプはよく知られてるように読者アンケート絶対主義なわけで、少年ジャンプの読者がそんなフェミニズムとかジェンダーとか分かると思います?「なんか男が批判されて嫌だから低評価ー」みたいな感覚で居ることが目に見えています。読者アンケート絶対主義である以上、現在の大衆の保守的な欲望を慰撫するような作品しかできない、そういうシステムなんです。週刊少年漫画っていうのは。そこにフェミニズムとかジェンダーみたいな革新性は期待できません。

さらに言えば、集英社のジャンプの編集部はこういうセンシティブな問題を扱うセンスが著しく低い連中が揃っていることで有名なので、能力的にも無理です。『バクマン』という漫画もジェンダー的に散々叩かれる程度の低いものでしたし

togetter.com

そのくせ表現の自由については狂信的で、『有害都市』という漫画ではアメコミに対し「表現規制により多様性がなくなった」なんていうデマまで捏造して過剰に表現規制への危機感を煽ろうとする、まあ端的に言って頭の悪い連中なんです。

nlab.itmedia.co.jp

だから、フェミニズム側の人は、お気持はわかりますが、少年ジャンプにジェンダーとかフェミニズムなんて概念取り入れるなんてできると思わないでください。彼らはそんなの出来ない〇〇なんです。

僕の考え②:作家にはとにかく自分の望むように漫画を描かせるしかない。読者が「こういう漫画を描け」と言うことは、それがどんな望みであっても矯正することは出来ない

そして更に言えば、原則として、漫画をどんな作品にするか、決定するのは作者です。公的な表現規制というものはあくまでされるべきでない以上、「女性に配慮しろ」ということもできませんし、逆に「女性に一切配慮するな」なんてことも強制できません。どうやらフェミニズム側も反フェミニズム側もここを勘違いしているようで、「少年漫画はこうあるべきだ!」みたいな議論を戦わせていますが、僕から言わせれば、どっちも「お前、なぁんか勘違いしとりゃあせんか?」と言わざるを得ません。

漫画の作者がジェンダー的観点を取り入れようが、逆に性差別全開のミソジニー作品を描こうが、描くこと自体は自由なのです。

まあ、もちろん僕だって、せめて手塚治虫の言葉ぐらいは抑制的であってほしい

 とは思いますが、しかしこれでさえも、強制はできません。手塚治虫なんてクソ食らえだ!俺は女性の人権なんかまるで無視した酷いマンガを描くぞ!」という意見の作者ですら、漫画を描くこと自体は、自由であるべきです。

僕の考え③:その代わり、読者は出された漫画がおかしいと思ったら遠慮なく批判しろ。批判があることによって、読者の少年たちはそれが「いけないこと」であることを学ぶ。それで作者がどうするかは作者の自由だし、筆を折ったり作風を変えても、それは作者の決断だから批判側は何も悪くない

じゃあ漫画を読む読者の側は、それを黙って読むしかないのでしょうか?

そんなことありません。もし読んだときに「これはひどい」と思うような漫画が出版されたら、きちんと厳しく、それを批判すれば良いんです。「この漫画に描かれているような描写は性差別であり、いけないことだ!」と、ぶっ叩いてやりゃあ良いんです。「こういう批判によって作者が萎縮したりしないだろうか」なんて気にする必要はないんです。作者は好きに描いたんだから、読者も好きに批判するべきなんです。どっちかの自由が侵害されるなら、それこそまさに「表現の自由の侵害」でしょう。

こう書くと、↓のツイートみたいに「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!」みたいなこと言う人もいるかもしれません。

が、はっきり言いましょう。性差別的であったり、倫理的に間違った作品があるときは、他の作品がどうこうじゃなく、まずその作品を批判することが重要なんです。↑のツイートはピントがズレズレのボケボケであると言わざるを得ません。

そういう批判がされることにより、少年漫画の読者は「マンガに描かれているああいう描写は、性差別的でいけないことなんだ」と学ぶわけです。スカートめくりや覗き見の描写を、「性暴力だ!」と厳しく批判することによって、子どもたちにそれがいけないことを教えるんです。

「少年漫画は『少年の心』を持って描かれる」と、集英社の社員は美辞麗句のように言います。しかし、女性への性加害やセクハラというものは、往々にして「少年の心」でもって行われます。「少年の心」っていうのは決してきれいなだけのものじゃない。だからこそ、その邪悪な側面が少年漫画に現れたとき、大人がきちんとそれを厳しく叱ってやることで、少年は初めて成長できるのでは、ないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……という原則論を述べたところで、最後にちょっとだけ異論を。

ただそうは言っても、人間、作者も読者もそんなに強くはなれないよねー。Twitterでの議論をみてると、フェミニズム側も反フェミニズム側も強い人ばっかが目につくけど、本当はその裏に、沢山の怯えてる弱い人が、フェミニズム側・反フェミニズム側双方に居るはずなわけで、僕はむしろそういう人たちのことを考えたいと、思ったり。

ただそこで「敵をやっつける」話にはしたくなくて、そうでなく「敵に気付かれないようにしながら、やり過ごす」方法を考えたいんだよね。「敵には見つからないけど、味方にはなんとなく伝わる」というやり方。

というか、昔のオタクって、本来そういう隠れみの術が得意だったと思うんだけど、なんか最近はそういう技術が失伝されちゃってる気がして、SNSで万人の万人に対する戦いが始まった今だからこそ、その技術を復活させるべきじゃないかと思ったり。

いうなれば、「フェミニズム側には気づかないけど、見る人が見ればそのエロさが分かる」とか、その反対に「褒めてる感想文に見えて、その実ジェンダー的に遅れてる部分を褒め殺す批評」とか、そういう複雑な搦め手を、双方学ぶべきなんじゃないかなーと、思ったりするわけです。

宇崎ちゃん献血ポスターに「間違った解釈」なんてあるのだろうか

要約

  • 宇崎ちゃんの献血ポスターが女性を性的対象としているかしていないかについて「その解釈は間違ってる!」と証明することって、不可能なんじゃないの?
  • そもそも「正しい解釈/間違った解釈」っていうのを決める絶対的に偉い人って、もういないんじゃないの?
  • 絶対的に偉い人がいない中で「その解釈は正しい!/間違ってる!」と議論することって、不毛に思えてならない。
  • 「様々な解釈が同時に存在する」ということを認めた上で、異なった解釈をする人同士がどうやって付き合っていくか考えたほうが、建設的なんじゃないか。
  • 「正しい解釈/間違った解釈」ではなく「抑圧する解釈/抑圧される解釈」について、後者をすくい上げるような批評こそ、個人的には批評に期待したいな

献血ポスターをめぐる立場の違いの整理

www.j-cast.com

この論争に言及する人たちの主張を僕的にごく簡単にまとめると、以下のようになるんじゃないかと考えています。

  • 今回の献血ポスターは女性を性的対象にする性差別を含んでいる
    • 性差別を含んでいるから公的な機関は表現に採用するべきではない
    • 性差別を含んでいたとしてもそれを規制することは表現の自由の侵害だ
  • 今回の献血ポスターには女性を性的対象にする性差別の要素なんかない

ただ、僕は「表現の自由の侵害か否か」という論点には、正直あんまり興味はありません。そういう議論は、お好きな方で勝手にやっててください。

僕が気になるのは、そもそも「今回の献血ポスターをどう解釈するか」という時点で、まさしく解釈が食い違っていること。そしてそこに「間違った解釈」はあるのかどうかということです。

「正しい解釈はないけど、間違った解釈はある」から、献血ポスターに性差別がないというのは「間違った解釈」?

音楽学者の増田聡氏がtwitterでこのようなツイートをしています。

 そして更に、今回の献血ポスターについて批判的な立場である文学者の北村紗衣氏は、このようなツイートをしています。

北村氏がしている「批評には正解はないけど間違いはあるっていう話、単著でやった。」というのは、次の一文のことでしょう。 

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

 

ここでひとつ強調しておきたいのは、批評をする時の解釈には正解はないが、間違いはある、ということです。よく、解釈なんて自由だから間違いなんかない、と思っている人がいますが、これは大間違いです。間違った解釈というのは、とくにフィクション内事実の認定に関するものを中心に、けっこうあります。フィクション内事実の認定というのは、ある物語の中で事実として提示されていることを正確に押さえられているかどうかです。たまに映画評などを読んでいると、「いや、そいつそこで死んでなくない?」とか「それ、説明する場面が最初にあったでしょ」みたいなツッコミを入れたくなることがありますが、そういう誤読ですね。いくら解釈が自由だと言っても、作品内で提示されている事柄の辻褄がおかしくならないように読まなければなりません

 

―まえがきより引用

 なるほど。確かにこう書かれると、「間違った解釈」というのもあるように感じます。

では、今回の献血ポスターはどうでしょう。ポスターに性差別が含まれているというのは「間違った解釈」なのか、そうではない妥当な解釈なのか?

「性差別を含んでいるかどうかというのは、曖昧な基準なので正しいとか間違っているとかいうことはできない」と言うかもしれません。

では、次の論争はどうでしょう?今回の献血ポスターを見て、浦野真氏は次のようにつぶやきました。

 これに対してぬにふちさか氏は次のように反論します。

 この二人がどういうふうに議論していったかは実際にtwitterで見ていただくとして、ここでは「献血ポスターのキャラが誰に話しかけているか」という、それほど曖昧ではないように思われることでまで、解釈が分かれているわけです。そして両者は、twitter上で議論をしても、解釈が一致することはありませんでした。

もし「間違った解釈」というものがあるとすれば、どちらかが間違っているということになるでしょう。しかし、では「両者のうち、こちらのほうが間違っている」とは、一体誰が、どうやって決めるのでしょうか?

これについて、上記のツイートの言葉を借りて「勉強しようというしかない」と言う人もいるかも知れませんかもしれません。では、なにか絶対的に正しい解釈を教える、聖典のようなものがあって、それに基づけば「間違ってる解釈」が誰にでも同じように判別できるようになるのでしょうか?それこそ北村氏のように、「大英図書館にある本を全部見」*1でもすれば、誰もが同じように「間違ってる」ものを見分けられるようになるのでしょうか?

僕は、そう単純な話ではないと思うのですね。というか、仮にそのような難行苦行の果てに「間違った解釈」が見分けられるようになるとしても、それをできる人はほとんどいないでしょう。結局多くの人は、自分が今まで得た、偏った知識体系の中からしか、物事を解釈することはできません。そして、それぞれ違った環境で育った人は―ときには一致することもあるかもしれませんが―大体の場合において、「解釈」ですら一致することはないのです。

そこでそれでも「間違った解釈を排除したい!」というのなら、もう誰か絶対的に解釈を決定する王様でも作って、その人の解釈に従うようにするしかないでしょう。それは、まさしく「表現の自由」にとっては暗黒時代となるでしょう。しかし「議論すれば誰もが同じ解釈に至る」というのが実際は不可能である以上、「間違った解釈は許さない」という立場を取るなら、そうするしかありません。

「どの解釈が正しいか」不毛な議論をするより「異なる解釈を持つ者同士がどうやって付き合っていくか」を考えた方が、建設的なんじゃないの?

まあ別に、それでも「自分の解釈こそが正しくて、相手の解釈が間違っているということを主張したい!」と言うなら、別にそれを止めはしません。ただ、不毛だなあと思うだけです。

ただ僕はそれより、異なる解釈をそれぞれが持ち、それが一致することはないということを認めた上で、それでも両者がうまく付き合っていく方法を考えたほうが、建設的なように思えて、ならないんですね。

例えば今回のポスターについて言うならば、別に「宇崎ちゃんの献血ポスターを性差別的だと思う人」を献血から遠ざける必要なんて、まるでないわけです。さらに言えば、性差別がいけないことだってことは、万人がほぼ認めているわけです。だったら「別に自分たちは性差別をするつもりはなかったけど、性差別的だと思う人がいるんだったら、今後はこういう表現を広告ポスターでしないよう注意します」で十分じゃないですか。

で、宇崎ちゃんが好きな人は、好きな人同士で変わらず宇崎ちゃんを楽しく読む。宇崎ちゃんが嫌いな人は、宇崎ちゃんには触れないようにする。それで終わりじゃ、いけないんですかね?

(なお、ここで「じゃあ表現の不自由展だって不快に思う人を遠ざけているじゃないか!」とか思った人は、文章をよく読みましょう。表現の不自由展は、逆にそれを嫌う人に見るのを押し付けることなんかしてません。さらに言えば、むしろ表現の不自由展の作品における「戦時暴力への批判」は、性差別とは違い、すべての人がすべきことだと、世界の大勢が認めていることです。)

もちろん、全ての問題がそのように簡単に解決できるわけではありません。好きな人同士という「仲間内」が一体どこまでの範囲を指すのかというのは、インターネット以降ますます曖昧になってきていますし、そうやって島宇宙化が進むことにより、私達はますます共通言語を持たなくなってきてしまうのではないかという問題もあります。

ただ、そのような問題があるとしても、僕たちはもはや「絶え間ない議論を続ければやがて万人が解釈を同じくするようになる」とは思えないわけです。そんな、世界をどのように解釈するかということ自体が異なる他者と、どう付き合っていくことこそを、考えるべきなんじゃないかと、僕は思うわけです。

むしろ批評は、「正しい解釈」を押し付け「間違った解釈」を排斥するものに、反抗するものであってほしい

そして更に言えば、ある集団や社会の中で「これこそが正しい解釈で、それは間違った解釈だ」という抑圧がある時、それに反抗する声を与えるものこそが、僕は批評なんじゃないかと、批評に期待するのです。

例えば今回の騒動では、オタクは全員宇崎ちゃんの献血ポスターを擁護し、フェミニスト側は全員批判するような構図が形成されてしまっていますが、別にオタクだって「あの宇崎ちゃんのポスターちょっと嫌だな」と思う人が居てもいいし、逆にフェミニストであっても「別にこのポスターいいじゃん」と思った人がいてもいいと思うんですね。

ところが現在の党派的な雰囲気ではそのような気持ちは空気に押しつぶされてしまうわけです。「オタク/フェミニストなのにそのように考えるのは間違ってる」と。

僕は、むしろ間違っていてもいいから、そこで空気に抗い「いや自分はこう解釈するんだ!」と言ってしまうのが、批評の力なんじゃないかと思うわけなんです。党派的な正しさではなく、間違っていてもいいから「私」をエンパワーメントする力、それを僕は批評に期待したいし、今まで読んできた中で、面白かった批評は、まさしくそういう「私」の目線から書かれていたと思うんです。

別に強制はしないけど、僕が読みたいのは、そんな、間違った解釈に基づく、間違った批評です。

2019年のヨイコノミライ

ふと思い立ち、『ヨイコノミライ』を再読していました。 

 そしたら、かつてはとてもリアルで残酷な物語に見えたお話が、途端に、どこかとても遠い国で繰り広げられる、むしろ、なんか憧れてしまうようなお話に見えてしまって、仕方がないのです。

かつて僕らは『ヨイコノミライ』から、この社会に適応する処世術を学んだ

ヨイコノミライ』、それは2003年から連載された、ある高校の漫画サークルのお話です。

話の筋は、一言で言ってしまえば、ダメなオタクばっかが集まる漫画サークルに、美人のサークルクラッシャーが入ってサークル内の人間関係をかき乱し、そしてサークルを崩壊に追い込む、そんなお話です。

当時この作品ははてな界隈で大きな話題を呼び、感想記事もたくさん書かれました。

p-shirokuma.hatenadiary.com

culcom.hatenadiary.org

kill.g.hatena.ne.jp

makaronisan.hatenablog.com

a-park.hatenablog.com

kaien.hatenadiary.org

なんでここまでこの漫画が当時の人々の心に突き刺さったかといえば、この漫画に出てくるダメなオタクたちの生態が、当時のオタクたちにはまさしく「あるある!」という感じだったからです。

例を挙げれば

  • 相手の好みも理解しようとせず自分の好きな作品をひたすら押し付ける
  • 周りの目を気にせず傍若無人に振る舞う
  • 単なるあら捜しや好みの押しつけを「批評」と勘違いする
  • 妄想と現実の区別を付けられない

といった内容で、それを端的に表現してるのが最終話のこの説教です。

amiyoshida.hatenablog.com

「アナタが簡単に他人を蔑むのは賢いからじゃない。他人を理解しようともしない、馬鹿だからよ。

気楽なもんね。
自称批評家さん。
批評っていうのは感想文でも、作者への意見書でもないわよ。

人が作ったものを 安易にくさして 優越感にひたるヤツのために、皆は必死で描いてるんじゃないわよ。
一読者よりも昇格してるって言うなら、作品にもっと真剣に取り組みなさい。」

「失敬な! 拙者を侮辱する気でありますか!
誠意こそあればこそ
耳の痛い忠告も申してやるのでですわ。
甘受するのは作者の義務ですぞ!」


「誠意?
自己顕示欲でしょ?
アナタの!

誠意があるんなら、セリフの向こうの作者探しや 他の作品とのくらべっこばかりしてないで、内容そのものに興味を持ったら? 貧弱な読解能力でも 少しは使って見せなさいよ!

誤解しないでね。私、本当の批評家は大好きよ。
作品への新しい読み方を提示して、
作品と
作家と
読者に、
新しい道を拓いてくれるから。」

「…!」

「あら。
無責任な感想文に、無責任に感想を言わせてもらっただけよ。
悪く思わないでね。さようなら。」

 今の人々には理解できないかもしれませんが、当時のオタク界隈には、まさにこの説教に描写されるような「自称批評家さん」が本当に多かったんです。というか、僕自身がまさにそういった「自称批評家」であり、それ故この文章には激昂しました。*1*2

ただ、実際は多くのオタクはそのように逆ギレすることなく、こういう説教を読んで真摯に「そうだ。こんな自称批評家になってはいけない」と反省していたわけです。多くのオタクにとって、『ヨイコノミライ』という漫画は、まさに自分たちの暗部を突く告発書であり、そしてこれを読んで「オタクだからってダメで居ていいわけではない。きちんと社会に適応しないと」と、襟を正していたわけです。

それが、『ヨイコノミライ』が発表された、ゼロ年代という時代の空気だったのです。

果たして今の若いオタクは、『ヨイコノミライ』をリアルに感じるか?

そしてこの10年代も終わりに差し掛かっている2019年、『ヨイコノミライ』は、どう映るか?

僕の感想を言いましょう。「こんなコテコテのオタク、もう今はいないよなぁ……」です。

誤解を避けるために注釈しておくと、『ヨイコノミライ』の一つの要素であるサークルクラッシャー、こういう存在は今も相変わらずリアルです。というか、惚れただの腫れただの、挿れただの挿れられただのの話が、そう十年でコロコロ変わるわけはないわけで、きっと十年経っても百年経っても、人は恋愛とやらで右往左往するのでしょう。僕には全く関係ありませんがね!*3

でも、そういうあいのりとかテラスハウスとかバチェラー的な話なら、別にわざわざ『ヨイコノミライ』じゃなくたって味わえるわけで、そうでない『ヨイコノミライ』独自の色である、「オタクのダメさ」という描写は、正直、古びてしまったのかなと、そう感じてならないのです。

例えば、今のオタクは、自分のオタ話をするにあたっても、ほんと器用に相手の好みに合わせて話をします。いきなり初手でBLの話をする腐女子や、ロリコン漫画の話を男ヲタなんてものはもうほぼおらず、「カードキャプターってどうだった?」的な無難な話題から、BL的なものやロリコン的なものが受け入れられるか慎重に見極めて来ますし、またそこで相手を傷つけずに「いや、そういう話題は地雷です」みたいなサインを出すのも本当にうまいです。

また、今のオタクは、その場の空気がそういう空気でない限り、めったに作品の批評的な事は言いません。今の若いオタクたちは「語彙がない」なんて自嘲しますが、批評的なことを敢えて言わないだけで、「当たり障りのないボキャブラリー」の豊富さは、昔のオタクなんかより断然豊富です。

そこには、かつて『ヨイコノミライ』の平松ちゃんや天原くんのような、肥大化した自意識や、幼児的万能感を振り回す幼稚なオタクはほぼいません。「私は霊が見えるんです」とか「バッサバッサ批評してやりますよ」みたいなキャラを通すオタクはいます。しかしそういうオタクも、あくまでその場の空気を読み、その空気に順応するためにそういうキャラをやっているだけで、そういうキャラが受け入れられない空気になったら、途端にキャラ変するでしょう。だって、彼らにとって最も恐ろしいのは、空気を読まず、コミュニティからハブられることなのですから。自意識なんてゴミ箱に捨てちゃえ♪というわけです。

つまり、今の若いオタクたちにとっては、『ヨイコノミライ』に見られるような幼稚なオタクは、どこか遠い国の、おとぎ話のキャラクター程度のもので、何もリアリティなんかないのではと、思ってしまうのですね。かくしてオタクたちはみんな改心し、自称批評家は僕が死ねばこの世から消滅する。

でも、これは絶滅しつつあるダメなオタクの、引かれ者の小唄なのかもしれませんが、そんな今のオタクたちを見て、僕はこう思ってしまうのです。 

「そうやって空気読んで自分押し殺して、苦しくない?」と。

肥大化した自意識・幼児的万能感を持たないよう成熟することは、本当にいいことなのだろうか?

今、こうやって過去のものとなった『ヨイコノミライ』を読むと、そこに僕は、ある種の郷愁を感じざるを得ないのです。それは、たしかに今の優しいオタクのコミュニケーションとは違い、苛烈かつ残酷に、むき身のナイフで自分と相手を傷つけ合う、そんなコミュニケーションでした。「あんなのもう二度とごめんだ」と、思う人がいるのも理解はできます。

しかし、そうやってでしか得られない、どうしようもない、けどかけがえのない「私」というものが、そこにはあった気がして、僕にはならないのです。

それは、社会的に見れば本当にダメダメな甘えたもので、そんなもの抱えていたら一生おとなになれない、呪いのようなものなのかもしれません。

でも僕は、それを捨て去ることで大人になることが、万人にとって幸せであるとは、どうしても思えないのです。そういう「私」を、たとえ他人を傷つけても抱えなければ、ほんとうの意味で「生きて」いけない人も、いるのではないかと。

もっと言えば、僕たちオタクは、万人に優しく成熟したオタクになる過程で、そういう人たちを「殺して」しまったんじゃないかとすら、思うのです。

ではどうすればいいか?正直わかりません。これだけ「空気」による支配が進んだ中で、それに逆らえと、もはや若者でない人間が安易に主張することほど欺瞞はないでしょう。

ただ、もしこういうみんなが「優しく」なった世界で、それでも優しくなれない「私」を、もし抱えている人がいたなら、僕はこう言いたいのです。「それは、殺してはいけない」と。

www.youtube.com

吹き続けてね花ちゃん
その花垂れたメロディーが
例え教室のやつらなんかに
馬鹿にされてしまおうが
吹き続けてやれ花ちゃん
きっと君だからまた泣いて
しまう事も多分あるかもしれんが
笛吹きの名に恥じぬように

追記(2019/11/07 2:51)

記事中である人の名前出してて、別に今はそんなに気にはしてないんだけど当時は本気で怒ってたから、それをネタにする感じで、自分的には軽い感じで名前出してたんですけど、なんかその人は本気で嫌がってるみたいなので削除しました。本当にごめんなさい。

こういう人が本気で嫌がってることがわからずついついやってしまうのも、まさしく『ヨイコノミライ』で描かれてたダメなコミュ障オタクの典型例だなぁ。 

*1:http://www.ymrl.net/sjs7/Rir6/2008-04-22.html

*2:ついでにいうなら、僕自身は今も変わらず「自称批評家」を貫き通している。だからこんな文章書いてるんだよ。

*3:突然の逆ギレ。ああ、右往左往してみたいもんだ。

最近「嫌いな物語を見る力」が衰えていると感じる

なんか最近、自分の中で「嫌いな物語を見る力」というものが衰えていると感じる。

というと、ほとんどの人は「は?」と思うのかもしれない。ほとんどの人にとって、小説や映画といった物語は「好きなものを楽しむ」ものであり、嫌いなものなんか端から読まなくていいじゃんと、そう思うものだろうから。

しかし、少なくとも若い頃の僕にとっては、物語とは「好きなものも嫌いなものもまんべんなく摂取し、自分の中で咀嚼しなきゃならないもの」だった。少なくともそういう強迫観念があった。

だから若い頃は、たとえ自分がどんなに嫌いそうな物語であっても、それが世間で流行ってる以上、きちんと物語を摂取し、それに対して自分なりに感想を持たなければならないと思っていた。

ところが最近は、もうそういう強迫観念がとんと薄れてしまって、流行ってるアニメや漫画を見ても、自分に合わないと「じゃあいいや」と視聴をやめるようになってしまった。

これは、ある意味では確かに健康なことなのだろうと思う。なんだかんだ言って、嫌いな物語を見ることは苦痛だし、それに対して感想を文章にすることも苦痛だ。そしてそれをインターネットに発表したりでもすれば、その作品が好きな人を傷つけることにもなる。それに比べれば、嫌いな物語を見たとき「これは自分向けじゃないな(Not for me)」と思うようになったのは、たしかに健康的なのだろう。

ただ、そこで僕は一抹の不安を覚える。というのも僕は、これまでの物語を摂取してきた人生の中で、好きな物語、自分に合った物語よりも、むしろ嫌いで、自分に全く合わない物語について考えることにより、自分の考えを深化させてきたという自負があるからだ。

つまり、好きな物語は、自分の思想なり感性と同じだから、それを摂取しても「ああ楽しかった」としか感じないわけだけど、嫌いな物語の場合は、その物語がなぜ嫌いであるかを考えることによって、「自分はその物語のどこが嫌いで否定したいと思うのか」という形で、自分の思想なり感性の輪郭を相対化させ、精緻化することができてきたのではないかと、考えているのである。

ところが、嫌いな物語を摂取することすらやめてしまうと、そういうふうに自分の思想や感性を相対化させることができなくなり、自己相対化ができなくなってしまうのではないかと、危惧しているのである。

ただ、これはもう、若者ではない以上、しょうがないことなのかなぁとも、一方では思ったりする。いちいち物語でアイデンティティを揺らがされるのは所詮若者の特権であり、おじさんになった僕は、自分の考えが正しいと無条件に信じる老害になるしかないのかと。それは、とても嫌なことなのだけれど。

どうでしょう?みなさんはこういう老い、感じたことあるでしょうか?

なんだか凄いことになっちゃった世界

企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても国家や民族が消えてなくなる程情報化されていない近未来

 ふと思う、なんでこんなことになっちゃったのかなぁと。

そりゃさ、多少は僕らも調子に乗ってたんだと思う。オリコンチャートでアニソン一位にして、avexだののJ-POPをコケにしてやりたいとか、24時間マラソンや27時間ゴミ拾いを邪魔して、ネットを馬鹿にするテレビの鼻を明かしてやろうとか。

でも、じゃあ僕らが結局何をしたかったかといえば、そんな外のことは本来どうでも良くて、多分ネットの仲間たちでつるんで、わいわいくだらないことやりたかっただけだと思うんだよな。社会を変えようとか、どうでもよくて、半径1クリックぐらいの内輪で盛り上がれればそれで良かったはず。ネットの外も、所詮ネットなんてその程度のお遊びだと考えていたし、中の住人だった僕らも、それで満足してたはず。

でも今、僕らはなんか、悪い奴らから日本とか表現の自由とかそんなものを守る聖戦士のように言われたり、あるいは、民主主義を破壊する悪の権化のように言われたりする。僕らが戯れにつぶやくネタがフェイクニュースとして世界中を駆け巡り、どこかの国の大統領を決めたり、戦争や革命を起こしたりしちゃうわけだ。

いや別に、そのことに関して責任逃れしたいわけじゃないんだ。「そんなつもりじゃなかったんだ。マジになるなよ」とか、実際にマジに受け取られるんだから、それはそれで、真摯に、受け止めなきゃならないんだろうと、思う。

ただ、思うのだ。「なんでこんなことになっちゃったかなぁ」と。

昔、「ネットの俺らが世界を変えるんだ」なんていう声を言う奴らは、こんなカバ夫のAAで嘲笑されていた。

f:id:amamako:20190907075526p:plain

ところが今や誰も彼もがみんなカバ夫くんみたいになっている。風、確かに吹いている。あるときは左から右に。また別のときは下から上に。

昔僕らは、僕らがやることで世界が簡単に変わってしまうような物語を「セカイ系」とか言って揶揄していた。そりゃそうだ。世界なんて、そんな簡単に変わるはずはなかったんだから。ライ麦畑でぎゃーぎゃー騒いでも、やがて僕らはそこを卒業し、社会に帰っていくもんだと思ってた。

とこらが今は、もう世界がぐるんぐるん変わってしまう。クリックひとつで県を挙げたイベントを中止にもできるし、そのうち戦争までできそうじゃないの。一体どうしちゃったのこの世界は。

「遊びの時間はもう終わったんだよ少年」ということなのかもしれない。でも、遊ぶことしか知らない僕たちは、一体これからどうすればいいと、言うんだろう。

「表現の不自由展・その後」展示中止について、僕の考え

先日見てきたあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」

「表現の不自由展・その後」を見てきました - あままこのブログ

ですが、残念なことに、展示を中止するという方向なようです。

「表現の不自由展」中止に 少女像作品めぐり抗議が殺到 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

「撤去しなければガソリンの脅迫も」企画展中止に知事 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

津田大介氏が謝罪「想定を超えた。僕の責任であります」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

これに対し、「表現の不自由展・その後」の展示内容を実際に考えた実行委員会の人たちは、展示中止の決定に抗議し、撤回を求めています。

表現の不自由展、中止に実行委が抗議「戦後最大の検閲」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

この展示中止について、実際にこの展示を立場から、意見を述べます。

僕の意見は、要約すると次のとおりです。

  1. 脅迫や嫌がらせが相次ぎ、テロの恐怖さえある現状では、一時的に展示を中止することはやむを得ない。
  2. そのような脅迫や嫌がらせに対する備えをし、安全に展示を行える万全な対策をした上で、展示は絶対に復活させるべき

まず、脅迫が相次ぎ、安全が確保できないために、一時的に展示を中止すること、これについては、僕は賛成です。というのも、実際に見てきた感じから言うと、明らかに展示会場はこの種の脅迫や嫌がらせ、また実際に起こるかもしれないテロに対して準備ができてなかったからです。前回の記事でも述べましたが、普通に怪しいペットボトルを持った右翼らしき人が展示場所をうろうろ出来る状況だったわけで、ブコメでも「京都アニメーションの放火事件を思い出して怖い」という意見がありましたが、あとから考えると僕もよくあの現場に入れたなと、背筋が寒くなります。

そしてこの種の危険は放置しておけばどんどん大きくなっていきます。事実、最終日の展示会場をルポしている朝日新聞の記事によれば、僕が行った日よりも嫌がらせ等が頻発し、かなり危険な状況になっているように思えます。

少女像頭に紙袋、怒鳴り声…「表現の不自由展」最後の日 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

これに対し、「こういう展示をするんならこんな危険があることは予め想定できたわけで、準備不足は運営側の責任」という声もあります。

しかし前回の記事で述べたように、今回の展示はそんな危険を予期させるほど過激なものではありませんでした。展示を見た僕からしても、あの程度の展示でここまで脅迫・嫌がらせが相次ぐということは、ちょっと想像しずらいんじゃないかとおもうわけです。

なので、安全を確保するまで一時的に展示を中断すること、これはしてもいいし、むしろするべきであると考えます。

ただ、それはあくまで一時的な措置であるべきで、安全対策を万全に整え、テロの危険をできる限り抑えた上で、今回の展示は、絶対再開すべきであると、僕は考えます。

その理由は、前回の記事で述べたように、この程度の展示すらできないんであれば、他の現代の芸術作品も展示できなくなるわけで、芸術に限らず、今後の表現活動全般に対し、悪しき前例を作ることになってしまうからです。

残念ながら、社会がとことん分断され、レイシズムがはびこる日本の現状を考えると、今後もあらゆる表現に対し、脅迫や嫌がらせによってその表現を封じようとする動きは生まれるでしょう。そういう動きに対し、何も対策をとらずただ表現を自粛してしまったら、まさしく表現の自由の死であり、そんな中で芸術祭などできるわけがありません。脅迫や嫌がらせがあっても、それに屈せず、安全に表現を行う方法を稽え、実行に移すこと。これは、今後も芸術祭を行っていくつもりならば、絶対にやらなきゃいけないことなはずです。

そして、私達市民も、脅迫や嫌がらせに屈せず、表現の自由を守ろうとする動きには、連帯を表明すべきです。その点から言えば、今回の騒動について、twitterで「#あいちトリエンナーレを支持します」という連帯を示すハッシュタグが広まったことは素晴らしいことだと思うし、僕も大いに賛同します。

「#あいちトリエンナーレを支持します」支援の声、SNSで広がる|MAGAZINE | 美術手帖

ただその一方で、忘れてはならないのは、脅迫や嫌がらせによって表現を封じようとする動きは、決して今回の展示でいきなり生まれたものではないということです平和の少女像にしろ、元慰安婦の写真展にしろ、展示しようとする動きに対し、日本の右派・保守派といわれる人々は、さんざんこの種の脅迫や嫌がらせを繰り返してきました。

それに対し、展示をしようとする側は今回のような支持表明なんかほとんど得られないまま、孤軍奮闘で戦ってきたわけです。

Oshiete Nikon | Just another WordPress site

そういう点から言うと、ことさら、今回の芸術祭に限り、津田大介氏のような運営側の人間を、英雄視して祭り上げるということには、違和感を覚えます。もっとずっと以前から、この種の表現の自由への弾圧に対し、戦い、正義を貫いてきた人がいるということを、今回の騒動を考えるにあたっては忘れてはならないと思います。

誤解を恐れずに言えば、今回の展示を継続するということは、「当たり前にするべきこと」なのです。自分たちの加害の歴史に真摯に向き合うこと、これはごく当たり前のことで、それをやったからといってことさら褒められるようなことではありません。

もちろん、今の日本の現状は、そんな「当たり前のこと」をすることすら大きな危険を伴うように、なってしまっています。自分たちの加害の歴史を示す表現をしようとするだけで、テロの恐怖に怯えなきゃならないなんて、明らかにおかしい、異常なことです。ですが、そんな狂ってしまった社会を直すためには、勇気をもち、万全の準備をした上で、異常な社会の中で「当たり前にするべきこと」をするしかないのです。

最後に、先頭で旗を降って今回の脅迫・嫌がらせを扇動し、あまつさえ転じ側が謝罪しろとのたまう河村たかし名古屋市長に対して一言。

名古屋市長、関係者に謝罪要求 少女像展示で | 共同通信

地獄へ落ちろ。クソ野郎。

「表現の不自由展・その後」を見てきました

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平和の少女像と自分

現在開催されているあいちトリエンナーレ、本当は「さよならテレビ」*1が上映される9月22日以降にまとめていろいろな展示を見に行く予定だったんですけど、そのイベントの中の一つの企画である、「表現の不自由展・その後」が、「平和の少女像」展示や天皇を題材にした作品の展示等で反発を受け、展示が継続できるか危ぶまれているので、慌てて8月2日に見に行ってきました。

そしたら案の定、河村名古屋市市長や菅官房長官が展示を中止するよう圧力をかけてきているそうで

www.huffingtonpost.jp

digital.asahi.com

芸術監督の津田大介氏も撤去を含め対応を検討しているということなので、行っておいてよかったなと思ったり。

www3.nhk.or.jp

で、実際に見てきた僕の感想なのですが、要約すると以下の3点になります。

  1. いい意味でも悪い意味でも、ここまで騒ぐほど大した展示ではない
  2. それぞれの作品は良いものもある……特に平和の少女像と元慰安婦の写真は、それ単体できちんと展示すべき
  3. この程度の展示もできないんなら、愛知県は金輪際芸術祭なんか開くな

それぞれどういうことなのか、説明していきます。

1. いい意味でも悪い意味でも、ここまで騒ぐほど大した展示ではない

まず、すっかり「表現の不自由展・その後」ばっかりがクローズアップされていますが、そもそもこの展示は、「あいちトリエンナーレ」という、複数の芸術館と、更に街のスペースを使って行われている巨大な芸術祭の、ごく一部の展示にすぎません。

実際、展示スペースも美術館全体からしたらごくわずか、ほぼ一部屋のみで行われているものです。

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愛知芸術文化センターでの展示。この内「表現の不自由展・その後」が占めるのは8Fの「A23」のみ

そして、実際訪れた感想から言っても、「表現の不自由展・その後」は展示会場の中でも明らかに片隅の見ずらい場所に押しやられてる感じでした。少なくとも、主催者が推したいメインの展示なんかでは全然ないわけです。

一方、そんな片隅にも関わらず、一番人が集まり、そして熱気や緊張感があった部屋であったことは事実です。日の丸の腕章を付けて怪しいペットボトルを抱えた人が入ってきたとき何かは、「なにか起きるんじゃないの」とドキドキしました。

ただそれも、作品自体の力によりそういう熱気・緊張感がもたらされてるかといえば、そんなことは全然なく、ただ「この展示は物議を醸しているらしい」という、メディアによって作られた熱気や緊張感だったのもまた事実です。先に触れた日の丸の人も、メディアで報道され注目が集まったから来たわけですから。

何で作品自体にあまりそういう熱気や緊張感を生み出す感じがないかといえば

  • そもそもそういう作品ではない……物議なんか醸さずに普通に受け入れられるべき
  • 「これやっとけば物議を醸すだろう(菊タブー)」という予定調和に甘えている

という二点が挙げられます。

まず一点目についてですが、そもそも「平和の少女像」にしろ元慰安婦の写真にしろ、あるいは沖縄の壁画

censorship.social

にしろ、「こんなもん問題にしたり規制するほうがおかしいだろ」というのが、別に芸術なんか詳しくなくてもまともな知識もってりゃ明らかなわけですよ。で、そんな作品をもってきて「規制の是非は!?」みたいに問われても、そんなの「はあ、そりゃ規制するほうが間違ってますね」としか言いようがないわけで。いや、よほどのサイコパスとか保守・右派思想に頭の髄までやられちゃってる〇〇なら反発するんだろうけど、そんな〇〇だけを相手にしてどーすんのという。そんな奴らは粛々と社会から追い出すしかないでしょと。

で、そういう作品の一方で、昭和天皇を題材にした作品も展示されていて、それらは確かに、多くの人が漠然と抱いている象徴天皇制への敬意を挑発するという点はある。けど……

ぶっちゃけもう芸術においてそういう「菊タブーへの挑戦!」みたいなの、みんな見飽きてね?

いやそりゃ今でも、天皇天皇制について話をしようとすると右翼から抗議を受けたり、テロを食らったりみたいなのはあるかもしれんよ?でもさ、もうそこらへんは天皇制を擁護する側も批判する側も予定調和のルーチンワークでやっているみたいなもんで、正直そこからなにか現代の社会を揺り動かすような強烈な表現が生まれるとは思えないのよね。

そりゃ僕だって天皇制は廃止すべきだと思ってるし、昭和天皇の戦争責任は今からでも遅くないからきちんと追求すべきだとは思ってるよ?でも、僕はもうそのためにいちいち芸術みたいなものに頼らなくてもいいと思うし、むしろ芸術でそうやって殊更に「菊タブーに挑戦!」みたいな身振りで挑発をすればするほど、逆説的に、天皇制なるものが特殊で権威あるものであるかのように飾り立てられるような気がしてならないのです。あんなもん、それこそ世界中によくある、民主主義国家において排除されるべき身分制の一つに過ぎないのに。

まあ、とにかく、「菊タブーに挑戦!」とか言ってそこに表現の自由の臨界点があるとする態度が、なんか古臭くて、しらけちゃうわけなのです。

だから、もし本当に「表現の自由とその限界は!」みたいなことを示そうとして展示をするんだったら、今回の展示は生ぬるすぎると言わざるを得ません。

もし僕が展示担当者だったら、まずもっと展示スペースを広げろと言うし、展示する作品も、それこそこんな(表現の自由という観点からは)生ぬるい作品ではなく、それこそ会田誠の作品

 とか、あるいは『ターナー日記』みたいな人種差別を煽る本とか、それこそ『腹腹時計』やISの動画みたいなテロを煽るもの持ってきて、もちろんきちんとそれに批判的視点を持つような注釈も付け加えながら、「こういうのって表現の自由に含むの?どうなの?」と問いかける企画にしますね。

でも多分、それをすると今度は「そんなの芸術的ではない」という批判が来るんでしょうね。僕はぶっちゃけそーいうのどうでもいいからこんな提言ができるわけだけど。

そういう点から言うと、今回の展示は、「表現の自由について問う」というテーマと、芸術祭での企画である以上大前提である「芸術的である」という命題を、そもそも噛み合わせることができなかったと、いうこともできるかもしれません。

2.それぞれの作品は良いものもある……特に平和の少女像と元慰安婦の写真は、それ単体できちんと展示すべき

で、ここまでボロクソ言ってきたわけですが、ただそれはあくまで、この展示をくくるテーマについての話。個々の作品自体の良し悪しは、また別なのです。

まあ、そうは言っても作品単体で見ても「こりゃ駄目だ」という展示はあるんですがね。特に9条俳句なるもの

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さすがに展示側もこんなもん展示するのはどうなのって良心があったのか、片隅の部屋のさらに片隅にひっそりあったわけですが、それでもこんな展示をするスペースがあったらもっといい作品があるだろう……こんなしょーもないもんをわざわざ「問題」として大きく見せることになったという点が、この俳句を掲載しなかった一番の罪だよと、言いたくなったりもする、そんなくだらない展示もあったりします。

ただ、その一方で、先に上げた岡本光博の作品みたいに、普通に面白い作品もありますし、「アルバイト先の香港式中華料理屋の社長から「オレ、中国のもの食わないから。」と言われて頂いた、厨房で働く香港出身のKさんからのお土産のお菓子」という、深く考えさせられる作品もあったりします。

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そして、その中でもやっぱり注目に値するのが、今回の展示でも一番の争点となっている「平和の少女像」、

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そしてその横に展示されている、元慰安婦の写真。

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この二点に関しては、これが一番の攻撃対象になっている点から言っても、ほんと今すぐ名古屋に行って、実物を見るべきです。

まず「平和の少女像」についてですが、これはやはり隣に座ることができるという点が重要で、周りから見下ろしていると所詮「鑑賞物」なのですが、隣りに座って、目線を合わせることによって、否応なく作品と対話することが求められる、そういう作品なのだと思うわけです。

そして、慰安婦女性の写真、こちらの写真は、慰安婦とされた女性の人生の今を、1枚の写真で切り取ることにより、ただ学習するだけのものであった、従軍慰安婦という制度に、そこで犠牲になった人間が居たんだという強烈な実感を与えるものです。

というか、僕はむしろこの二つについては、「表現の不自由展・その後」なんて展示の一角に押し込めるのではなく、普通にそれぞれ一スペース与えて展示してもいいんじゃないかと思うわけです。あいちトリエンナーレ全体の評価は、また今度書く予定ですが、少なくとも「メントールで部屋を満たして涙を流させる」みたいなしょーもない展示するスペースあるなら、普通にこの二つをきちんと展示したほうがよっぽどいいと、僕は思うんですがね。

3.この程度の展示もできないんなら、愛知県は金輪際芸術祭なんか開くな

で、最後に。

1でも述べたとおり、今回の展示は、まともな見識を持ってりゃあ、芸術に詳しくなくたって「こんなもんたいしたことないよね」と言えるものです。それがここまで問題になるという点は、ホント今の日本がいかに狂ってるかっていうことを象徴してると思います。

が、それはそれ。

今回の展示程度のものも容認できず、「不快に思われるかもしれなかったり中立でないと思われるかもしれなかったりするものは展示しない」とか言うんだったら、もう現代の芸術作品を展示する芸術祭なんかできないでしょう。

実際、あいちトリエンナーレ、駆け足ではありますが回ってきたわけですが、その中には「平和の少女像ぐらいで不快になるから展示するなと言われるんだったら、この作品はもう燃やしてしまうべきだな」と思うぐらい、普通にイライラしてくる作品もありましたし、無茶苦茶偏ってる作品もありました。しかしそういう作品を全部撤去したら、もうそこには何も残らないでしょう。

まあ、お偉方は、それでいい、そうやって空いたスペースには日本のクール・ジャパンの象徴であるマンガやアニメでも展示すりゃあいいんだと思っているのかもしれませんが。

しかしそれだったら、「私達には芸術祭なんかを開催する度量も能力もありません。」とはっきり言い、金輪際芸術祭なんか開くべきではないと、僕は思います。

ま、愛知県なんて所詮その程度の人らの集まりなのかもしれませんがね*2

以上が、僕が「表現の不自由展・その後」を見て抱いた感想です。

あいちトリエンナーレ全体の感想は、また稿を改めて。

関連文献

従軍慰安婦 (岩波新書)

従軍慰安婦 (岩波新書)

 
海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

 

追記:2019-08-04 1:09

展示中止のニュースを受けての僕の意見を書きました。

「表現の不自由展・その後」撤去について、僕の考え - あままこのブログ

 

*1:https://aichitriennale.jp/artwork/A91.html

*2:と、リニア問題で愛知県から横槍入れられて(https://digital.asahi.com/articles/ASM7Y569RM7YOIPE02X.html)イライラしている静岡県民は思ったり

経済成長を巡ってすれ違う二つの人間観―人は生来「働きたい」ものなのかそうでないのか

rna.hatenadiary.jp

なんだろう、やっぱり経済成長肯定論者との間では、根本的なところで議論が噛み合ってない気がする。
で、これは一体なぜなんだろうと考えてみると、そもそも「人間はいかなる存在か」という根本的な人間観が異なってるんじゃないかと、思うわけです。

「生産性は嫌でも上がっていくもの」……本当に?

id:rna氏は「経済成長は別に『生産性を上げていこう』という話ではない」と主張し、その論拠として、次のように述べています。

そもそも生産性というのは嫌でも上がっていくものなのです。労働者の日々の創意工夫や突発的な技術革新によって、同じモノを作ったりサービスを提供したりするのに必要なコストは下がっていきます。言い換えるとより少ない労働者で同じだけのモノ・サービスが供給できるようになります。*1

ということは、ただ生産性が上がるばかりで需要の拡大が伴わないと労働者が要らなくなるわけで、失業が発生したり所得が減少したりします。「供給ではなく需要が問題」というのはそういうことなのです。つまり、生産性の上昇に見合っただけの需要の拡大=経済成長が必要である、というのが僕の考え方です。なので、経済成長と言っても年率にして数%程度が必要だと言っているに過ぎません。

……

生産性の向上は、経済成長のために強いられているのではなく、個々の生産者が利益を追求する過程で必然的に生まれるもので、しかし経済成長がないと副作用として失業やらラッダイト運動やらが発生してしまいます。そういう順番の理屈なのです。

つまり、id:rna氏の考えでは、人間というのは、例え強いられなくて勝手に生産性を上げていくものであり、その生産性を上げた結果に経済を追いつかせるために経済成長が必要なんだと、そう主張しているわけです。なるほど、働いている時に常に「なにか工夫できるところはないか。よりよい技術を生み出せないか」とか真面目に考えている人は、こういう風に人間を捉えてるんだなぁ。

でもそれに対して、生来働くのがいやで、常に「ああ働きたくない、働きたくない」とつぶやいている僕なんかは、こう思うのです。

「いや、人間は何の圧力もなく普通に生きてるだけで良ければ、創意工夫やら技術革新なんかしないでしょ。少なくとも今それをみんながやってるのは、『そうやって生産性を上げられないと、自分が劣っているように思えてしまう』という、強迫観念に苛まれてるからじゃないの?」と。

ここでは、そもそも「人間はいかなる存在か」、「人間は何で働き、利益を追求しようとするのか」という根本的人間観が、異なってきているのです。

経済学者が前提とする人間観……人間は本能的に生産を向上し、利益を追求しようとする

id:rna氏が前提とする人間観、これは、僕が思うに、まさしく経済学が前提とする人間観、いわゆる経済人だと思うのです。

ja.wikipedia.org

「経済人」とは、「homo economicus」の訳語で、「もっぱら「経済的合理性」にのみ基づいて、かつ個人主義的に行動する(するだろう)」と想定した、人間に関する像・モデル・観念のことである。

つまり、経済学の考えにおいては、人間っていうのは文化とか価値観とか関係なく、本能的に生産性を向上し、それによって利益を上げようとするものなのです。だから、無駄な時間があったらその時間はより利益を生むために働こうとするし、働いてるときも常に「より効率的に、利益を生む方法はないだろうか」と考えるものなのだと。その観点から言うと、「失業者」はすべて「本人の望みは働きたいけど、様々な不都合によって働けない不幸な人たち」だから、より少なく、できればゼロに近づけないといけないとなるし、そうやって向上した生産性を無駄にしないように、経済成長をしなければならないと、なるわけです。

そして、現状の経済政策っていうのは、ケインズ主義だろうがマネタリズムだろうが、それこそMMTだろうがすべて、この経済人を元に考えられてる。れいわの経済政策も、そうだと言えるわけです。

しかしそれに対して、全く別の人間観も存在するわけです。「人間は自然と利益を追求するというけれど、それって結局、『そうでないといけない』という文化があるだけじゃね?」と疑問を呈する考え方が。

人類学的人間観……人間は「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という文化・価値観に縛られてるから、生産性を向上し利益を上げようとする

僕が前提としている人間観、それは端的に言えば、「人間が何を求め、そしてその求めるものを得るために、どう動くかは、文化によっていかようにも変わりうる」というものです。

今回の記事に沿って言うならば、「人間は『生産性を上げなきゃ駄目だ』という価値観を内面化させられてるから、その価値観に沿って動いてるわけで、決して本能的に生産を向上し、利益を追求しようとするわけではない」というものです。

このような見方は、人類学や社会学の方面から提示されてきたもので、それなりに実証的なものなのですが、こんな場末のブログでその実証性をとやかく言うことほど不毛なものはないので、説明はしません。気になる人は、以下の本でも読んでください。

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

 
西太平洋の遠洋航海者 (講談社学術文庫)

西太平洋の遠洋航海者 (講談社学術文庫)

 
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

ていうか、僕なんかするとこっちの人間観のほうがよっぽどリアリティあるんですがね。僕は誰からも何も言われなければ常に休んでいるか、遊んでいたい人間で、自分から「働きたい」と思ったことは一度もありません。ただ、そうすると親とかから冷たい目で見られるし、何より死んでしまうので仕方なく働くわけですが、働いてる間も「もっと工夫したい」とか全然考えません。

そういう人間からすると、前項で上げた「経済人」なるものは、結局、社会からそういう価値観を強迫観念として植え付けられてるから、そうなってるだけなんじゃないの?と、思えてならないのです。

あなたは、どっちの人間観がより、リアリティあると思いますか?

経済人とナチスの距離……「「生きるに値しない命」などない」と、言うだけで十分なの?

id:rna氏は次のように述べ、経済成長を否定しなくても、ただ「「生きるに値しない命」などない」と言えば良いと言います。

でも「富国強兵」を否定するために経済成長を否定する必要はないのです。僕ならただ一言「「生きるに値しない命」などない」と言います。それ以上の理屈など不要ではないでしょうか。

 id:rna氏の記事でも書かれているように、「生きるに値しない命」とは、ナチスの障害者殺害政策のキーワードです。そう、れいわが何であそこまで口酸っぱく「生産性で人間をはからせない世の中」と言ったかといえば、「生産性でのみ人間をはかる世の中」というのが、究極的に到達するのが、このナチスの障害者殺害政策だからなんですよね。

だから、「「生きるに値しない命」などない」と言うのは重要、重要なんだけども、でも……それだけで良いのか?という思いが、僕の中にはあるのです。

なぜなら、ナチスは別にいきなり狂人が出てきて、「『生きるに値しない命がある』という狂った信念をドイツに押し付けた」から、成立したものではないからです。ナチスの「生きるに値しない命がある」という価値観は、ポッと現れたわけではなく、それまでの「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観の延長線上にあるのです。

※ここらへん、より詳しく知りたい人は、下記の本を参照。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

 

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

 

そして「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観を、自他に適用した結果が、まさしくあの相模原の障害者殺傷事件であるわけです。

news.yahoo.co.jp

例えば、この事件を起こした植松被告に、「「生きるに値しない命」などない」とだけ言っても、鼻で笑われるでしょう。なぜなら、「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観を内面化した人間に対して、そんな言葉は、空虚な綺麗事でしかないからです。

重要なのは、そのような残酷な価値観ではない、新しい価値観をいかにして示せるかなのだと、僕は思うのです。そういう新しい価値観を示せず、「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観を人々が内面化したままでは、きっと第二、第三の相模原殺傷事件は起きるし、さらに言えば、やがてナチスのようなものをこの社会に生み出してしまうでしょう。

「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観以外の価値観をいかに示すか……経済成長と「生産性で人間をはからせない世の中」を両立する唯一の方法は、それしかない

そしてこの問いは、まさしく「経済成長が大事」と主張する経済成長肯定派にこそ、考えてもらいたいことなのです。

僕は、経済成長なんかどうでもいいと考えていますから「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観から人々を脱洗脳すればそれでいいじゃないかと考えます。その結果、現行の経済が回らなくなろうと、それはそれで人は生きていくだろうと、楽観的に考えています。

しかし、もし「経済成長」を前提とした現行の経済システムの維持が不可欠と考えるなら、考えるからこそ、「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観ではない形で、現行の経済成長を支える価値観を考えなければならないはずなのです。

しかし、それに答える人は、「経済成長」を語る人にはほとんどいません。「経済」について、価値観部分から語るのは、それこそローマ法王だったり

jp.wsj.com

ダライ・ラマだったりみたいな宗教家ばかりです。

gendai.ismedia.jp

こういう宗教家ばっかりにまかせていて良いのでしょうか?彼らは宗教が専門だけど、経済のことなんか全然知らないんですよ?

「経済成長が大事」だと言う人は、「経済について詳しい」という自負があるのでしょう。だったら、そういう人にこそ、「経済成長」と両立する価値観とはなにか、真剣に考えてもらいたいと思います。

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