あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「何者かになるため」には、自分自身の神になればいい

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最近、友人から「何者かになりたい」ということを聞き、改めて考え込んでしまった。

 

もちろん、このことに関しては散々ネットやらサブカルチャー(『何者』?「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」?)やらで語られてきたことだから、今更僕が何か新しい知見を出せるとは思えないのだけれど、でもこの問いが、そういう散々語られてきたことに関わらず、未だ解決せず、僕らの前に立ち塞がってきてしまうということもまた、事実なわけで。

 

考えてみると、「何者かになりたい」という願望には、二つの前提条件があるだろう。一つは、「人は『何者』かになれる」という可能性がそこでは想定されていて、にも関わらず本人の意識の中ではと思っているということだ。

 

ここでいう「何者」とは、僕の考えでは、存在することで世界に対し何か影響を及ぼす存在であることだと、言い換えることができると思う。そしてそれはおそらく、宗教的には「宿命」と呼ばれるものだ。神が世界に自分を存在させるのは、意図があるんだ。だからその意図に沿った行為をすれば「何者」かになれる。しかし今の自分が世界に何か影響を及ぼしているようには思えない。だから自分は「何者」かになれてないんだと。

 

つまり、「何者かになりたい」という問題を考えるとき、人はそこで無意識に神のような存在を前提としているのだ。自らを生み出し、そして自らを評価する上位存在を仮定しているからこそ、初めて「何者かになれているか」という問題は発生するのである。

 

だから、そのような神の存在を仮定さえしなければ、「何者かになりたい」という願望も自然と消えるかもしれない。つまり、自分は単なる世界の一部で、世界に影響を与えるような存在には決してなれないし、ならなくなんていい。ただ日々の生活を慎ましく生きていればそれでいいのだと。

 

以前、僕の記事を「イキリオタクの戯れ言」と批判した人がいました

srpglove.hatenablog.com

が、それはまさしくこのような観点からの言葉ということができるでしょう。自分が世界や大衆のような存在から遊離しているなんて思い上がるなと。ネットを眺めればわかるだろ、お前は結局世界・大衆の一部でしか過ぎないのであるから、身の程を弁えろということです。

 

ただ僕は、そのような、ネットを見て自分の凡庸さを思い知るという処方箋で、自分を含め、自意識をこじらせた「何者かになりたい」というサブカルたちがなんとかなるとは思えないんですね。なぜならその処方箋は、結局「人は『何者』かになれる」という可能性を否定できないからです。

 

確かにネットを眺めれば自分みたいな存在所詮量産型のオタクでしかないということはよく分かります。しかし一方でネットはまた、そのような量産型のオタクではない、本当の意味ですごい、「何者」かになってしまっているような人たちがいることも同時に見せつけてくるわけです。容姿端麗で人気声優でありながら、一方で共産趣味やらロリータやらサブカルに造詣が深すぎる人やら、自分で自分のことを美少女化した漫画日記を書いたら、無茶苦茶バズってる人とか、ネットは「何者かになれないお前たち」の巣窟である一方で、完全に「何者」かになってしまった人たちの檜舞台でもあるわけです。

 

だから僕は、ネットはむしろ「何者かになりたい」という欲望や、その欲望を拗らせた結果生まれる「自分はこんな特別な存在なんだ」という思い込みを、それを否定することによって飢餓感を植え付け、むしろ助長しているように思えてならないのです。

 

と言っても、もはや私たちはネットなしで生きていくことはできません。ネットによって囃し立てられる「何者かになりたい」という欲望を、それこそ犯罪とかアンモラルな行動によってではない方法で、いかになだめるか。

 

僕は、まず自分が自分自身に神であるということ。そう思い込んじゃうことが、むしろいいんじゃないかと思うんですね。

 

「何者かになりたい」という欲望が、時に他害や自害の衝動となってしまうのは、その「何者であるか」ということを認めてくれる、神的な存在を自分の外部に求めてるからだと思うんです。つまり、自分が自分自身のためではなく、誰かのために存在しなければならないとすることにより、その責任感に苦しみ、結果として誰かや自分を傷つけてしまうということがあるのではないかと。

 

だから、例えどんなに選民主義的と言われようが、まず自分が自分自身の神になることにより、「自分を存在させている」という一点で、自分は存在している価値がある「何者」であるんだと認めるということが、結果として穏当に社会を生きていく処方箋になるのではないかと、そう、今の僕はかんがえているのです。

 

・・・ということを、↓の曲が職場の有線で流れてるのを偶然聞いて、思ったりしている今日この頃。

ゴッドソング

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「〇〇はいいぞ」で埋め尽くされる時代に、それでも批評を書く理由

 小山晃弘(わかり手)という方が、オタクコンテンツの批評についてtwitterでこんな発言をし、物議を醸しています。
オタクが軟弱化して辛めの批評を書かなくなったから、最近のオタクコンテンツはひたすらヒロインが可愛いだけの薄っぺらい作品ばっかりになってるんだろうが。定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化をやめろ。辛口批評を書きまくって仲間のオタクと本気の喧嘩をしろ。90年代に戻れ。— 小山晃弘 (@akihiro_koyama) 2020年5月5日
ガルパンはいいぞ」とかも心底キモかったですね。褒めるにしてもせめて自分の言葉で褒めろやと。これがSNS時代ということなのかもしれませんが。 https://t.co/1GERAN423j— 小山晃弘 (@akihiro_koyama) 2020年5月5日
 はてなブックマークでの反応b.hatena.ne.jpや、twitterで自分がフォローしている人たちの反応を見る限りでは、上記の意見に否定的な立場が割と多いようです。そしてそんな中には、こんな意見もありました。
はてなでよく見かけた若い書き手による「アニメ辛口批評」ってただの物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章という印象しかないな……https://t.co/Gzn16yzDc2加野瀬未友 (@kanose) 2020年5月6日
 ここで僕は「ギクッ」と思ってしまったんですね。なぜなら自分こそまさに、「定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化」が苦手で、かつてはてなダイアリーでさんざん、「アニメ辛口批評」を書いてきた人間だったからです。amamako.hateblo.jpamamako.hateblo.jpamamako.hateblo.jpこれらの記事は、今から見ればそれこそ「ただの物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」です。上記の小山氏の発言に対し否定的な感想を持った人の多くは、これらの記事についても「こんな素っ頓狂なしょーもない長文書いてないで、素直に『〇〇はいいぞ』とか言ってりゃいいじゃん」と思うでしょう。その点で言えば、今小山氏になされている否定的な意見の多くは、自分にも突き刺さるものです。
 
ただ、一方で僕と小山氏には違う点もあります。それは、小山氏が「オタクコンテンツ」のためにそういう辛口批評が必要だと言ってるのに対し、僕は、まず「僕自身」のために、そういう批評を書いていたということです。それは、例えて言うなら。こういうことです。
あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、
世界によって自分が変えられないようにするためである

マハトマ・ガンジー
 
オタクコンテンツは批評によって変わるか?……おそらく、無理
 
小山氏はオタクがきちんとコンテンツに対し辛めの批評をし、そしてそれを作り手が参考にしてより良い内容を目指すというのが本来オタクコンテンツのあるべき姿と考えています。
ですが、端的に言ってそれは無理です。なぜならオタクコンテンツはもはや現代においてはメインカルチャーであり、そしてメインカルチャーというものは単純に、審美的な観点ではなく、商業的観点から作られるものだからです。ぶっちゃけて言うなら、「批評家に褒められるもの」ではなく「より売れるもの」を目標として作られるのです。
そして、「より売れるもの」がひたすらヒロインが可愛いだけの薄っぺらい作品であるのなら、いくら批評によってそれを批判しようが、市場原理によってそういう作品が作られ続けるのです。なぜなら、その作品を売ることによって、その作品の制作に関わった多くの人を食わせなければならないからです。
ほとんどの場合、大衆に売れるということと、真に価値のある優れた作品であることは二律背反です。大衆というものは「より性的に扇状的であること(シコれる)」とか「爽快感がある暴力(メシウマ)」とかみたいな、単純に快楽になるものしか理解できません。ちょっとでも複雑であったり、二面性のあるメッセージを投げかけるだけですぐ「つまんねー」と投げ出します。そういうのを理解できるセンスのある人というのはごく僅かなのです。
そういうごく僅かのセンスある人達がいくら「この作品は駄目だ!」と叫んでも、大衆にはそういう作品こそが売れるわけで、批評には、コンテンツを変える力なんかまるでないのです。
 
それでも批評をするのは、そういう作品が受ける現実に、自分が変えられないようにするため
 
では、批評にコンテンツを変えることが不可能だとしたら、批評なんてせずに、それこそ「定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化」に浸るしかないのでしょうか?
僕は、それで満足できるのならそれでいいと思います。「〇〇いいよね」「いい……」とか、「シコれる」とか「メシウマ!」とかみたいな短文で毛づくろい的コミュニケーションをするだけで十分満足できるなら、別にわざわざそこから抜け出す必要なんかまったくないと思います。
ですが、これは僕がかつてそうだったからこそ言えるのですが、そういうコミュニケーションで満足できず、「自分の見た作品が、どういった点から優れているか/劣っているか」ということを考えて、言葉にしたい人というのも、世の中には一定数いるのです。
そういう人は大体の場合、世間の大多数に売れている、メインカルチャーに属する作品になんとなく違和感を感じています。そしてこう思っています。「なんで世の中の人はこういう作品が好きなのに、自分は好きになれないんだろう」と。そしてその事に対し何故か後ろめたさを感じ、その後ろめたさを何とかするために「いや、自分はこういう理由でこの作品が嫌いなんだ。だからこの作品を自分が嫌いなのは正しいんだ」と、理論武装をするのです。(別に誰にもそんなこと求められてないのに)
それこそが「辛口批評」の正体なのだと僕は思います*1。そして、そういう言葉を紡ぐこと自体は、ある時期には必要なことなのだと思うのです。
 
そして、かつてのオタクコミュニティは、社会から迫害され隔絶した場所であるがゆえに、そういう理論武装のやり方を教えてくれるコミュニティでした。一体どういう教養がそういった辛口批評には使えるのか教えたり、辛口批評であっても本当にシャレにならないぐらい人を怒らせることは避けるような方法論を伝授したりと、そういうオタクコミュニティが、例えば大学のサークルであったりに、存在したのです。
ところがオタクというものがサブカルチャーからメインカルチャーになる中で、そういう批評の技術も失伝してしまったのです。そしてその穴を埋め合わせるように、「〇〇はいいぞ」という定型文のみでやりとりするような、毛づくろい的コミュニケーションが、オタクのコミュニケーションの殆どを占めるようになりました。そして、そこについていけない、僕のような人は、徒手空拳で「辛口批評」を書くしかなくなってしまったのです。
加野瀬氏が言うように、僕を含めたはてなの若い書き手が書いた「アニメ辛口批評」の多くは、「物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」でした。ですがそれは―もちろん若い書き手の不勉強・不誠実が第一の理由なのでしょうが―このようなオタクコミュニケーションの構造変化も大きな原因なのだと、僕は考えます。
 
ですが、そんな「物知らずの人が書いた素っ頓狂な文章」でも、僕はそういう文章こそ書いてほしいのです。
例えば、僕は記事の最初にいくつか過去に書いたアニメ批評を載せました。これらの記事は、たしかに素っ頓狂かもしれません。ですが、今読んでもそこには、自分のアイデンティティーをいかに形成しようか、その苦闘の痕跡が見えるのです*2
例えばとらドラ批評の記事のこの文。

そして、そのようなことは、この第五章においても可能です。とらドラという物語は、構造として、主人公達に「オトナになる」ことを強要します。それは、個々人の精神のよりメタレベルにある、物語の枠組みがそうさせているわけですが、しかしそれはあまりにも時代錯誤的すぎるでしょう。なるほど確かに「自己肯定感」や「親からの自立」は必要でしょう。ですが、それがとらドラという物語がしたように「本当の自分」や「結果主義」や「純愛」といった単一的なものに寄り掛かっていたのでは、結局作品内の「現実」に依存し、それが存在しなくなればまた不安感に陥る、そういう脆弱なものでしかありません。重要なのは「何が大きい者に寄り掛かる」ことではなく、「複数の支えを確保しておく」ことなのです。

 この批評が的を得ているかどうかは、人によって意見が異なるでしょう。というか、多くの人は「フィクションが都合いいからって何文句言ってんだ。当たり前じゃねぇか」と馬鹿にするでしょう。ですが、僕はこの文章を再読すると、当時の自分がいかに「オトナになる」ということを真剣に考え、考えるているからこそそこでとらドラが出した答えに納得行かなかったかが伝わってきて、「当時の自分!一生懸命考えてたんだね!」と拍手したくなるのです。

多くの人は、そんなこと一生懸命考えなくても、自然に大人になり、メインカルチャーを楽しみ、毛づくろい的コミュニケーションに適応できるのでしょう。でも世の中には、いちいち「それって一体なんなんだ」と悩み、世間の決まりごとに「そんなのおかしいじゃないか」といちいち憤ってしまう、そういう人間がいるのです。

そういう人が、自分を抑圧せずに、解放できる場、それがぼくは批評だと思うのです。そういう場は、毛づくろい的コミュニケーションが社会の全面に広がる今こそ、社会からの避難場所(アジール)として必要なのでは、ないでしょうか。

 

批評を学び、そしてそこからメインカルチャーと和解する道筋こそが、作られなければならない

 

ただそこで、そのような批評がずっと徒手空拳で、素っ頓狂なままでいいとも思わないんですね。なぜなら、これも僕が体験したからこそ言えることなのですが、きちんと技を伝授されないまま、いたずらにネットで野試合ばっかりを繰り返していると、より過激で、人を傷つけるばっかりの方向に走ってしまうからです。本来自分を解放するためにあったはずの批評が、やがて「ネットで受けるためには、たとえ叩かれて傷ついても、こういう過激なことを書かなきゃならない」というように、自分を抑圧するものとなってしまうのです。

「自分の嫌いなものをはっきり嫌いという」ことと「嫌いなものを(必要以上に)攻撃する」こと、この2つの距離は存外近いもので、見極めるには、やはりどうしても技術が必要なのです。

例えば、かつてのオタクには「大衆には褒めてるように見えるけど、実際読む人が読めば貶していることがわかる批評」というものを書く技術がありました。こういう技術は、過激さが受けるネット上では廃れていきますが、しかしこういう技術があれば避けられた炎上というのも、多々あったはずなのです。

また、さらに言えば、かつてのオタクには、「メインカルチャーなんてだせーよな」的な自意識を保持しながら、しかしうまく「でもこういう穿った見方すればメインカルチャーも楽しめるじゃん」という風にうまく軟着陸させる技術もありました。「素人は単純にしかこの作品を読み解けないんだろうけど、玄人はこういう見方するんだぜ」的に、自意識を保持しながらメインカルチャー消費に軟着陸させるのです。

しかし現在のすべてがオープンなネット環境では、そういう穿った見方をすることは、即座に「素直に作品を楽しんでいる人」との望まざる対立を招きます。それこそ鉄血のオルフェンズのオルガネタについて昨日twitterで起きた対立なんかは、まさにその類の対立でした。

そのようなオタク・サブカル的消費の作法・環境を、いかに現代のコミュニケーション環境に合わせて受け継ぐか。かつてのような、迫害されたコミュニティ内での徒弟制により、それを受け継ぐことが不可能になった中で、方策を考えることこともまた、必要であると、僕は考えるのです。

 

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*1:まあ、職業批評家の方々は大いに異論があるんでしょうが、ここではそれに至る前の話をしています

*2:びっくりするほど恥ずかしい自画自賛だけど、実際そう思うから仕方ない

2020年4月14日、憂鬱を抱きしめて

 

amamako.hateblo.jp前回の記事で、仕事を休むかどうか迷っていた僕ですが、結局収束するまで休むことにしました。家で「あつまれ どうぶつの森」をやったり、見たいけど暇がなくて見れなかったドラマやドキュメンタリーなんかを見て過ごしています。

一方世の中ではとうとう緊急事態宣言が出たそうで、でも結局休業補償がきちんとなされるわけでもなくただ通勤自粛を要請しているものだから、多くの人が出勤してしまっているみたいです。

僕は、それは明確に間違いだと思うし、一律の休業補償をすべきだと考えます。またその一方で、あの首相がなぜかリーダーである政府なんて、当てにならないことはわかってるのだから、人々もまず休んで、それからあの○○を引きずり下ろすなりしてきちんと政府にケツを吹かせるぐらいの思いを持たなきゃ駄目なんじゃないかと、考えたりもします。

ただ、そういう考えは個々人がどういう戦略を最適と考えるか、また、どういう政治信条を支持しているかによって変わることなので、あんまとやかくは言いません。

それより僕が心配なのが、こういう世の中で、不安であったり、憂鬱さをみんな持っているはずなのに、それをどうも隠してしまっている気がすることです。

不安や憂鬱は、表に出さなきゃ爆発する

例えば、今エンターテイメント業界の多くの人はとんでもない苦境にいます。ですがそういう苦境に対して、「政府は補償しろ」みたいな怒りや、「いや、国に何でも頼るのは良くない」みたいな自己責任論、あるいは「この危機をなんとか乗り越えましょう!乗り越えられます」みたいなポジティブなことを多くの人は言うけど、「もうだめだ、世界はおしまいだ」とかみたいなネガティブなことは、ほとんど聞かない気がするのです。普段はさんざんネガティブなことばっかり言っているアーティストでさえ、こんなときには―もちろんこんなときだからこそなのでしょうが―あんまりネガティブなことを口にしてない感があります。

僕はこのCOVID-19(新型コロナウイルス)が起きるはるか前、学生自体からメンタルのバランスがあんまり良くない人間でした。でも、だからこそ、「不安や憂鬱さを抱えること」に関しては、ちょっと普通の人より経験が多いのです。その経験から言うと、これは明らかに、メンタル的にはむしろ危険です。

もちろん、メンタルの問題っていうのは、通常の身体的問題より遥かに個人差が大きいものですから、一概に「これをすれば良くなる」ということは言えません。ていうか、そんな方法があるなら僕自身が知りたいわけで。

でも、「これをすると悪くする」というのははっきりしています。それは、「自分が不安や憂鬱さを抱えていることを否認すること」です。「自分はこんな状態へっちゃらだし!」とか、あるいは「こんな状況だからこそ、明るく前向きに!」なんてことをやって、内なる憂鬱さを押し殺していると、それはどんどん裏で肥大化していくんです。

もちろん、そうやってポジティブであることが、社会的に求められているのはわかります。この、常に他人や過去の自分を追い越し成長することが求められる資本主義社会においては、弱音を吐いたり「もうだめ」ということを認めたりすれば、即座に社会から淘汰され、「生きるに値しない命」とみなされるわけです。例え虚勢でも、「自分に成長の意思があり、経済成長に貢献できる人間です!」と言わなければ、信用を失ってしまう……そんな恐怖は、このパンデミックによって経済が確実に悪くなりそうな今、むしろ強くなっているのでしょう。

でも、そんな状況だからこそ、僕はあえて言いたいのです。みんなが一斉にこの「虚勢を張り合う」ゲームから降りなきゃならないのではないかと。

ひとまずみんなで、不安や憂鬱さを認めてみませんか?そして、一時的でいいから、競争と成長をやめて、立ち止まってみませんかと。

立ち止まった結果「やっぱりこういう異常な状態ならともかく、普通のときは競争や成長が必須だよね」と思うなら、それはそれでいいです。COVID-19が収束した後に、再び経済成長を目指し続ける社会を選択すればいい。

でも、今はとりあえず、立ち止まって、みんな不安や憂鬱さを認め、それを抱きしめたほうがいいんじゃないかと、僕は思うのです。

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2020年4月4日、この国で生きる私が抱える不安と迷いについて

新型コロナウイルス(COVID-19)にどう対処するか、今抱えている不安と悩みについて、記すことにする。理由の一つは、今人々が具体的にどういうことに不安を抱え悩んでいるか、人々が表明しておくことは重要だと感じるため。そしてもう一つは、この騒動を後世振り返るときに、市井の人々がどういうことを考えていたか記録があった方が良いと思うから。

この文章を書いている私について

30代の男性、親兄弟と同居している。職業は、とりあえず生活必需品ではないエンターテイメント関係の商品を販売しているアルバイト。住んでいるところは、大都市圏ではないが、大都市圏から鉄道で一時間程度の距離。学歴は一応大学まで行ったが、医学的な専門知識はないに等しい。うつ傾向あり。

不安について

東京都の感染者が百人を超え、テレビ・新聞では欧米のロックダウンの様子を伝え、そのような光景が日本で起きることを防ぐには外出を規制することが重要だと繰り返し言われている。

しかしそんな中でも、別に職場は休みになったりせず、毎日勤めに行く。そしてそこでは、普通に換気の悪い空間で、長時間働き、テレビで言われているような社会的距離も取らずに会話をしたりしているわけです。しかも、職場には年配者や子どもも多くやってくるし、その中にはマスクをしていない人も多くいる。そもそも、職場がマスクを用意しないため、同僚にもマスクをしていない人が多くいる(自分はマスクを持参している)。そんな中で、自分が感染したり、さらに感染したウイルスを周囲に広めてしまうのではないかという不安が日々強くなっているのです。

悩みについて

「不要不急の外出は控えるように」と散々言われている中で、自分は自主的に休業するべきなのか否か。

明らかに自分の仕事は「その仕事を誰かやらなければ人が死ぬ」という類の仕事ではない。「不要不急」という言葉の意味が、人の命に関わるという類のものであるのならば、今の自分の仕事は明らかに不要不急のものだ。

さらに言えば、自分の職場では当然あってしかるべき、マスクの配布や社会的距離を保つ等の対策が取られていない。こういう職場で働き続け、もし自分や他の同僚が感染し、それを地域に広めるクラスターになってしまったら、それは犯罪的行為であるとすら言えると思う。

しかしその一方で、特に職場では休業などの対策は取られないし、さらに言えば客の入りも、むしろいつもより多かったりする。職場・家族含めて、周囲の空気感は、明らかに「そんな大騒ぎするようなことではない」というものだ。そんな中で、「もしかしたら自分の方が心配しすぎなのではないか」という思いもある。

さらに言えば、自主的に休業したその後のことも悩みである。無収入となった場合、生活費はどうするのか(30万円程度の給付があるとされるが、これが自分がもらえるものなのか、そもそも本当に給付がされるかも疑っている)。さらに言えば、このコロナ渦が一段落した後は、おそらく不況がやってくるだろう(であると、少なくとも僕は予想している)。そのことを考えると、今勤め続けないと今後かなり長い間職を失ってしまう恐れがあるのではないかという恐れがあるのだ。

どうすればこの悩みが解決するか

例えば、国や地方自治体が明確に「命に関わる職業で勤めているわけではない人は、テレワークができない限り休みなさい」ということや、あるいは「大都市圏に住んでない限りは、仕事を休む必要はない」ということを言ってくれるなら、かなり決断は楽になると思う。

もちろん、それに補償があったほうがもちろん良いは良いのだが、少なくとも僕が一番悩んでしまうのが、「不要不急」、「三密を避ける」というような言葉が漠然としすぎていて、そうであるがゆえにおそらく企業のような資本が「自分のところの仕事は不要不急ではない」「我が社の労働環境は三密ではない」というように言い逃れが出来てしまう余地があることなのだ。もしこれが真っ向から「国・地方自治体v.s.企業などの資本」ということになれば、僕は反資本主義者なので明確に反資本の立場に立てるのだが、一方で「外出は控えろ」と言われ、他方で「職場にはきちんと出てこい」ということを言われるダブルバインド的状況だと、もうただ日々メンタルがすり減っていくという感じなのだ。

正直、ここ数日はかなりメンタルがまいってしまっている。例えば東日本大震災と、それに伴う福島第一原発の事故の時は、国や主流の科学者が示すメッセージはーそれが本当に正しかったかはひとまず置いておくとしてもーここまで曖昧ではなかったと思うのだが。だから僕もその時は「とりあえず国や主流の科学者の言うことに従うなら、自分が住んでいるところは避難する必要がないな」と思えた(もちろん、そう思わない自由・権利も保証されるべきではあると思う。今の話は、あくまで「僕がどう動いたか」という話だ)。

ところが今の状況では、国は言うことが曖昧だし、科学者も本当に意見が分かれていて、どの人がメインストリームなのか判断が難しい。ほんと一体、どうすればいいんだろう……

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ラブライブ!サンシャインのパネル騒動について―その輪の外へ、想像力を向けようよ

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寿太郎みかん

www.at-s.com

ラブライブ!サンシャインのパネルの騒動についての、僕の考え。

僕の立ち位置について

まず最初に行っておきたいのは、僕の立ち位置です。なぜそれを言っておきたいかといえば、この騒動は、それぞれがどういう立ち位置から意見をいうかで、ぜんぜん違う意見になるということ、むしろ、立場が違えば意見も違うものになって当然なのに、多くの人が「自分の立場からの意見が唯一無二の正しい意見のはずだ」と強く思い込んでいて、そのせいで対立が激化してしまっているように見えてならないからです。

そういう対立の激化から距離を置くためにも、僕は、僕の立ち位置を明確にし、あくまでそういう立ち位置からの意見を述べたいと思うのです。

僕は、大学で4年・大学院で2年、社会学というものを学び、その中でジェンダー学やフェミニズム、また差別や社会的排除といった問題について、それを専門としてきたわけではありませんが、学んできました。だから、この社会には男女差別が厳然として存在していると考えてるし、それは、僕たちが好きな漫画やアニメ・ゲームといった文化にも内在するものであって、それはやがて克服していかなきゃならないものだと考えています。

だから、こういう問題にも多く言及し、問題提起自体は認めなきゃならないという原則をずっと言ってきました。

amamako.hateblo.jp

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一方で、僕はラブライブ!サンシャインという作品がかなり好きです。TVアニメ版については正直辛口の評価をしましたが

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 作品自体はかなり好きで、ラブライブ!サンシャインに登場するAqoursの東京ドーム公演にも足を運びましたし

 劇場版は、沼津でAqoursが出る舞台挨拶まで見に行きました。

その時の感想は以下のとおりです。

 そして、これ以前にも以降にも、何度も沼津へ足を運び、聖地巡礼をしています。寿太郎みかんも、もちろん食べています。

 そんな立ち位置からの、発言です。

パネルについて

まず最初に、パネルについての僕の感想を言うと「少なくとも僕にはこのパネルが問題だとは思えない」です。

スカートの影は、確かに変だし、あってもなくても“僕は”どっちでもいいです。でもこれが存在することで高海千歌というキャラクターが性的に消費されやすくなるとは思えない。もちろん、匿名掲示板のまとめブログ等でこの影に言及して性的に消費するような言葉を発する人がいることは観測してますが、しかしそういうエロのことしか頭にないような人たちは、きっと影がなかったらなかったで、スカートの短さやらなんやらで結局同じように消費するでしょう。

また、このパネルが、女性をただ単に目を引くためだけに使う、いわゆる「アイキャッチャー」(http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/dms/g-djb/koteki_koho5.pdfnなど参照)のように使っているのではないかという批判も、一部ではされていますが、それも僕は違うと考えます。ラブライブ!サンシャインという作品で、今回のパネルに登場している高海千歌というキャラクターは、物語の中でみかん好きのキャラクターとして描かれており、今回の西浦みかん大使就任もそのような背景があるからこその就任なわけで、決してただ「可愛い女の子だから」という理由だけで描かれてるわけではないんですね。だから、アイキャッチャーとは違うのではないかと、僕は考えます。

批判について

一方で、以上のことはあくまで僕の立ち位置からの考えです。当然、僕と異なる立ち位置からは、異なる意見が出てくるでしょう。僕は、そのような異なる意見を発すること、それ自体は、基本的に尊重すべきであると考えています。少なくとも、「町おこしの邪魔だ!」とか「オタク差別だ!」みたいな言葉で、そういう意見を提示したり、個々人が自由意志として不買運動を行ったりすることは自由だと思います。そして、そういう声が大きくなったとに、農協側が自主的に、パネルの絵を修正したとしても、別に僕はかまわないと思います(逆に、「そういう声はあると知っていても、コストの問題から敢えて修正しない」という選択もありでしょう。批判側の多くの人はコストを軽視しますが、パネルを治すだけで結構のお金がかかるのであって、そのコストを負担しろと一方的に声を挙げることは、少なくともラブライブ!サンシャインのファンとしてはできません)。

ただ、そういう行為は別に自由ではあるのですが、しかしその一方で、そういう声を上げる人は、その声を挙げることにより、ラブライブ!サンシャインや、そこに登場するAqoursというグループ、また今回パネルに登場した高海千歌ちゃんや、その声を演じる伊波杏樹を好きな人達が、一体どう思うか、そこに少しでも考えを巡らせてほしいとも、思うんですね。

ラブライブ!サンシャイン」という作品に対してファンはどういう思いを持っているか―作品―ファン―沼津という三位一体

まず知っておいていただきたいのは、ラブライブ!サンシャイン」という作品のファンは、普通のアニメや漫画作品のファンとは違って、より能動的に作品に関わりたがるし、自らも作品を支える一部であると自負している、そういう人が多いのです。

これには作品の来歴も少し影響しています。「ラブライブ!サンシャイン」という作品は、もともとμ'sというグループが登場していた「ラブライブ!」という作品が成功を収め、活動が一段落したあとに、新しく登場してきた作品です。

そして、ここらへん、今も結構ファンの間で地雷原となっていることなので、なかなか触れづらいのですが、その登場の仕方は、あたかも「ラブライブ!」やμ'sは一旦ここで終わりで、その後を継ぐ二代目として「ラブライブ!サンシャイン」やAqoursが登場してきたと、そう誤解させても仕方のない登場の仕方でした。

更にいうと、当時既に有名だった人たちを集めたμ'sというグループに対して、Aqoursというグループは、割と無名の声優を集めたグループだったわけです。そうなるとどうなるか?

μ'sというグループがその実力で持ってラブライブ!という作品を盛り上げて、紅白に出場するような位置まで持ってきたのに、何も実力も努力もしてないAqoursという連中がその成功の果実をかすめ取るように現れてきた、そんな風に思い、Aqoursラブライブ!サンシャインという作品に嫌悪感を持つ人も、多く現れるのです。というかそういう人は、今もいます。

だから、「ラブライブ!サンシャイン」という作品、そしてその作品に登場するAqoursというグループは、決して万人に歓迎されて生まれたわけではないんですね。そんななかで、ではAqoursというグループはどう頑張ってきたか。

徹底して、「沼津」という地元に密着して、頑張ってきたんです。

初代のラブライブ!や、そこに登場するμ'sというグループにも、「秋葉原」という舞台はありました。しかし、それはあくまで「作品に登場する」、それ以上でもそれ以下でもなかったんですね。

それに対し、Aqoursは、徹底して沼津という場所にこだわって、そこで様々な活動をしてきたし、また作品でも、あくまで「沼津という土地のアイドル」としてAqoursを描きました。

そして「ラブライブ!サンシャイン」のファンも、Aqoursを愛するのと同じ熱量で、沼津という土地を愛し、そこに頻繁に行きますし、なかには作品をきっかけに沼津に移住したようなひとも居ます。沼津という場所に多く行き、そこで金を落とすことによって、多くのラブライブ!サンシャインのファンは、Aqoursと沼津という場所を助けようと、頑張ってきたのです。

www.tokyo-np.co.jp

 そして更にいうと、沼津の人たちも、その多くが―「多く」であって、「全て」ではないということに注意―そういうラブライブ!サンシャインのファンを、受け入れてきてくれました。

ラブライブ!サンシャイン」という作品及びそこに登場するAqoursというグループ、その作品と、その作品の舞台となった沼津を愛するファン、そしてその2つを受け入れてきてくれた沼津という街、この三者がそれぞれ助け合う輪を築いてきたところに、横から面白半分でその輪を壊そうとしてきた連中だー少なくとも多くのラブライブ!サンシャインのファンにとって、あのパネルを批判したり、不買をしようと言ったりする人たちは、そう写っているのです。

こういう背景があるから、一部の人が「私達はこういうパネルを作った制作側や許した農協の人を批判しているだけで、ラブライブ!サンシャインという作品や、そのファンを批判しているわけではない」と、↓の記事のように言っても

qjweb.jp

それはむしろ怒りの炎に油を注ぐ結果となるんです。なぜなら私達にとって「制作側や農協の人」は、むしろ自分たちの仲間であり、その人達を攻撃する声は、自分たちの仲間を攻撃するものとして映るからです。

ラブライブ!サンシャイン」という作品の輪の外にあるものー沼津の人は、「全て」ラブライブ!サンシャインという作品をよく思っているのか?

以上が、ラブライブ!サンシャインのファンから見た、今回の騒動の図式です。

しかし一方で、そういうラブライブ!サンシャインのファンが描いてきた作品―ファン―沼津という三者の幸福な三位一体は、多分に幻想を含んでいるものであるということも、僕たちラブライブ!サンシャインのファンは、見なければならないと、思うのです。

先程僕は、沼津の人々の「多く」が、ラブライブ!サンシャインという作品を受け入れてきてくれたと言いました。でも、多くの観光施設がラブライブ!サンシャインという作品とタイアップする一方で、それを快く思わない沼津市民も、いるのです。

下記に、ツイートの一例を載せます。なお、これはあくまで例示のためのものですので、くれぐれもツイート主に直接反論しに行ったりしないでください。反論は、この記事のコメント欄や、あままこ(天原誠) (@amamako) | Twitterなどにどうぞ。

 今回のパネルに不快感を抱いた人たちや、上記のツイートのようにラブライブ!サンシャインという作品に街全体が覆われることに嫌な感じを覚えてる沼津市民のように、 作品―ファン―沼津という三位一体の輪に含まれない声もある、そのことを、ラブライブ!サンシャインのファンの多くは、忘れてしまっているのではないでしょうか。

ここで難しいのが、そういう声を見ないで、「沼津という街全体がラブライブ!サンシャインという作品を歓迎してくれている」という幻想を持つこと、それもそんなに悪いことではないということです。少なくともそういう幻想が持てるように沼津の人の多くはお膳立てしてくれていたし、そしてそのお膳立てに乗っかって僕たちは観光してきました。そして観光産業や町おこし、サブカルチャーというものは、多かれ少なかれ、そういう「幻想」がないと成り立たないものです。「こうやって観光を楽しんでるけど、実は歓迎されてないんだよなぁ」とか思いながら観光したって楽しくないでしょう。僕の好きなアニメのセリフを引用するならば、「例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人達も幻に見えるの?」ということです。

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ただ、幻想は、あくまで幻想です。幻想に当てはまらない人がいるからって、「お前は偽物だ!」と言いがかりをつけたり、「経済効果の邪魔になるから黙ってろ!」と言うことも、間違っているのです。

ここらへん、すごく難しくて、一言でずばっと言うことはできないのですが、昔偉い人が「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」ということを言ってたんで、そういう態度でいくしかないと、僕はとりあえず考えています。

その輪の外へ、想像力を向けようよ

 もちろん、そういう声があるからって、「万人に歓迎されてないんだから、ラブライブ!サンシャインは公共の場に出てはいけない作品なんだ」とは思いません。Twitterの一部では、上記のような声があることを持ってして、「だからラブライブ!サンシャインは公共の場に出てきてはいけない」とするような声もありますが、僕はそれには同調しません。公共の場は、彼らの場所であると同時に、僕らの場所でもあります。完全に我を通すのでもなく、ただ相手に屈するのでもない、微妙な調整こそが、求められるでしょう。そしてその点から言うと、僕は今回の、「ららぽーとからの一時撤去」は、まあ調整の結果としてちょうどいいのではないかと考えています。

ただ、そういう微妙な調整をする以前の話として、僕は今回の騒動で、パネルを批判した側・擁護した側双方に、言いたいことがあります。それは「自分たちの輪の外側に、想像力を向けようよ」ということです。

まず、パネルを批判した側。

あなたたちがパネルを見て不快になったり、ラブライブ!サンシャインという作品を見て不快になること、それ自体は尊重しますし、ラブライブ!サンシャインという作品が性差別を助長するような傾向が、もし少しでもあるとしたら、それは改善すべきことと考えます。

しかし、そうやって改善を求めるために、作品のファンをことさら性差別主義者のように批判したり、「こんな広告されるみかんは食べない!」と、不買運動まがいなことをTwitter上で起こすことは、本当に必要だったんでしょうか?少なくとも、そういう風に言われた作品のファンや、みかんを必死で育てた農家や、それを売ろうとした農協の人が、あなたのツイートを見てどう思うか、少しでも考えましたか?

そして次に、パネルを擁護した側。

あなたたちがパネルを擁護する気持ちはよーくわかります。僕も正直、不買運動まがいのことを展開しようとする人たちを見て、かなり腹が立ちました。何より、沼津という街を愛するラブライバーとして、この騒動によって街やみかん農家や農協の人に迷惑が掛かったらどうしようと、深く心配したことでしょう。

しかし、だからといって、パネルを不快に思ったり、ラブライブ!サンシャインとのコラボに不快感を持つ人に「黙れ」と言って、口を塞いでいいのでしょうか?そうやって少数派を「経済に悪影響」とか「賑わいに水を差すな」という理由で黙らせていけば、いつか自分が少数派になったとき、かならず黙らされることになります。

もし心に余裕がなかったら、ただ黙ってるだけでいいです。黙って寿太郎みかんを食べたち沼津に観光に行くだけで、十分沼津を応援できるはずなんです。

そして―これは、本当に心に余裕があったらでいいんですが―もし心に余裕があったら、「そういう不快に思う人に対して、すこしでもその不快感を取り除くようにできることはないか」ということを考えてみても、いいのではないでしょうか。

最後に―ネット上でのオタクとフェミニズムの対立について

今回の件に限らず、インターネット上ではオタクとフェミニズムが対立することが多々起きています。そして、ネット上では双方の過激派の声が大きく取り上げられて、両者が相容れないものであるかのように写っています。

もちろん、フェミニズム側としては、そういう対立はこれまでもあったものであって、ネット上でそれが可視化されるのは基本的にいいことなのかもしれません。

ただ、僕がここで危惧するのは、そうやって両者の対立構図が強調されることによって、一人の人間が、オタク的な側面を持ちかつフェミニズム的な側面を持つこともありうるという、個々の人間の多様性が、抑圧されてしまうのではないかということです。

僕は、フェミニスト、とまでは自称しませんが、少なくともフェミニズムを支持はします。性差別には反対ですし、「男らしく」「女らしく」という観念が、ポピュラーカルチャーに蔓延していることには、多くの場合においてうんざりし、なくしていくべきと考えます。

一方で、オタクとして「男の美学」みたいなものが描かれる作品は大好きです。「仁義なき戦い」を見て、これこそ男の生きざまだろうと思ったりしますし、やっぱり究極的には男が「王子様」として、苦しんでいる「お姫様」を救う、そういう古典的な物語が大好きだったりします。

この2つは、確かに理論の水準においては相容れないものです。僕自身、時にはフェミ的な気持ちからオタク的な自分を自己嫌悪したりすることもあります。

しかし、ではフェミニズムに理解を示すなら、そういうオタク的な自分は消し去るべきなのか、あるいはオタク的な自分を守るために、反フェミニズム的な態度を持つべきなのか。

僕は、そうは思いません。たとえ理論の水準で矛盾していたとしても、そういうフェミ的な自分とオタク的な自分双方、自分の中に存在するものなのです。それを否定することは、正しいかもしれませんが、少なくとも精神的に健康ではないと思います。

対立を激化させる人は、そういう精神的な健康さにも、ちょっとは目を配ったほうがいいと、僕なんかは思うのですが、どうでしょうか?それともこれも、北村紗衣先生の言うように「フェミニズム鑑定士」の戯言なんですかね?

「ここに書けば誰かが真剣に読んでくれる」という期待感が今のはてなにはない

p-shirokuma.hatenadiary.com

anond.hatelabo.jp

他の人はどうだか知らないけど、少なくとも僕があんまりはてなで長文や他人の記事に反応する記事を書かなくなったのは、「ここで僕が何かを書いても、それを真剣に読んでくれる人はだれも居ないように思えてならない」からだったりする。

在りし日のはてな村

非モテ非コミュとか、あるいはオタクとしての自意識とか、はたまた現代のサブカルチャー時代精神の関係とか、ゼロ年代からテン年代前半の頃のはてな―少なくとも僕の周りのはてなは―そんなことばっかりを語り合っていた。

amamako.hateblo.jp

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なんでこういうことばっか書いていたかと言えば、それはひとえに、現実社会でこんな問題を真剣に語り合う人なんて周りには居ないけど、はてなにこういうことを書けば、その文章に賛成するのであれ否定するのであれ、書いた意見に真剣に向き合って、返答をくれるだろうという期待感があったからだ。そして実際、その期待は満たされた。

重要なのは、ここで「賛成か否定か」ではなく「真剣に読んでくれるか」ということが問題だったという点だと思う。過去のはてなが僕と同じ考えの人ばっかりだったかといえば、そうではなかった。むしろあんまり非モテ女性嫌悪に共感できなかったり、人気のアニメにいちゃもんばっかりつけたりしていたから、僕と同じ意見の人ははてなにもそんなに居なかった。

ただ、それでもはてなでやり取りする人たちは、異なる意見にも真剣に向き合っていたし、僕もまた、それに応じて、「ひどいなー」と思う意見の文章であっても、それに対して応答し、なんとか相手を説得しようとする文章を考えていた。今から考えると、なんて夢想論的なんだと思うけど。でも当時は、それができるんじゃないかという信頼が、幻想としてでもあったのだ。

規模の拡大と、マネタイズと、陣取り合戦と

それが変わり始めたのが、テン年代中盤から後半だった。

まずはじめに、ブログを書く人がどんどん増えていった。以前は一日三十分もかければ、はてな界隈で話題になっていることはだいたい網羅できて、そしてそこから自分が関心ある話題に言及する、という感じだったのが、一時間以上かけても全体を網羅すらできなくなっていった。

また、今までははてなに居なかったような人もどんどんブログを書くようになった。彼らはビジネス書とかは多く読むけど、「スクールカースト」とか「非モテ」とか「理想/夢/虚構」とか、そういった言葉は、概念としてそもそも知らない。今まではてなでそういう問題に関して言及しあえたのは、立場はどうあれ、そういう分析概念自体は知っている人が多々いたからだったけど、立場以前に、そういう分析概念や、そういう分析概念を必要とする問題自体を知らない人がどんどん増えて、やがて多数派を占めていった。そういう人たちは、そもそも今まではてなで語られてきたことに興味がなかった。

じゃあそんな人達が、一体何に興味を持っていたかというと、「マネタイズ」である。より多くPVを集め、アフィリエイトやらアドセンスやらでお金を稼ぐ。そのためには難しい言葉を浸かったり、人から同調されにくかったりするような文章は書かずに、読む人が気持ちよくなれるような、商品の紹介であったり紀行文だったりを書くようにしよう。

そして以前は非モテ非コミュについて語ってた人も、そういう人の中で地頭が良い人はどんどん路線転換していき、オトナーな、はてな編集部やらオウンドメディアやらとかから依頼を受けるような文章を書くようになっていった。

そしてさらに、ブログは陣取り合戦の道具と化していった。ブログがどんどん大衆化していなかで、現実の政治もまた、ブログにどんどん侵食していった。

ここで難しいのが、もともとのはてな村という場所も、政治について語るのは大好きだったということだ。だがそれは、あくまで分析の対象としての「政治」だ。なんで今の政治はこうなっているのか考えたり、政治思想について意見を交わしたりする、その次元で「政治について語る」ことは多々行われてきた。

ただ、「政治について語ること」と、実際に「政治をする」ことには大きな隔たりがある。実際に「政治をする」にあたって、政治思想について議論したり、分析をしたりすることはほぼ役にたたない。そうではなく、たとえ稚拙でも耳障りの良いフレーズを繰り返したり、敵対者を矮小化して味方を高揚させるような言葉を放つほうが、現実の政治においてはずっと重要なのだ。そのような言葉が支配する議論においては、重要なのは議論の相手を説得することではなく、むしろそれを見ているオーディションを味方につけることにある。

そして「どれだけオーディエンスを味方につけられたか」を評価する指標となったのが、まさしくはてなが発明した、あの最低最悪の愚劣な発明、はてなスターだ。

はてなスターをつけるという行為は、「意見に対して真摯に向き合う」という行為の、正反対に位置すると言っていい。はてなスターを付ける人は―もちろん自分も含めて―そのつけられた文章に真摯に向き合ってなど居ない。ただそれが自分の属する陣営に耳障りがよく、効果的に敵対者を侮蔑できるという評価を持って、それを付けているのだ。

しかしはてな社は、そのような愚劣な機能を開発したばかりか、あろうことかそのスターの多少によって、はてなブックマークでコメントが上位で表示されるか否かを決定するようにした。その結果は、言うまでもないだろう。はてなブックマークはもはやタダの党派対立の場でしかない。そこを支配しているのは「文章に真剣に向き合おう」という気持ちとは真逆の感情、いかに敵対者の文章の影響力を削ぎ、それによって味方の影響力を上げようかと企む、しょーもない、「政治」だ。

規模の拡大と、マネタイズと、陣取り合戦、この3つがはてなを席巻する中で、やがて多くの人は「ここに真剣な文章を書いても、それを真剣に読んでくれる人はだれもいないんじゃないか」と思うようになったのではないだろうか。少なくとも僕の場合は、そうだった。

「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」場はどうすれば作れるか

以上の理由から、僕はもう今のはてなにはあんまり期待していない。ただそれでも、たとえその場が「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」という期待が持てる場は、必要だと思うのだ。

ただそれは少なくとも、TwitterなどのSNSや、noteみたいなブログサービスではないんじゃないかと、僕は思っている。

SNSに関しては、RTやいいねといった、はてなスターと同じ機能がある以上、論外だ。

noteに関して言うと、あれは「読まれ(て、さらに金が儲けられ)る文書」を書く場所を目指しているのであって、「書きたい文章」を書く場所は目指していないのではないと、僕は認識している。

もちろん、原理的には「読まれる文章」と「書きたい文章」は両立する。しかし実際は、文章表現を洗練し、読まれやすい文章を目指せば目指すほど、その文章にもともと筆者が込めようとしていた熱量は目減りしてしまうだろう。

また、人々がお金を払う文章というのは、結局の所「読んだ人が心地よくなる文章」だ。だが、ひとが自らの実存を掛けて書いた文章は、その人自身の内面が入っている以上、かならずある部分で他者を不快にする部分があるわけで、金儲けの文章としては効率が悪いのだ。

つまるところ、もし現在のインターネットで「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」と思わせる場所を作るには、以下のような条件が必要なのだ。

  • 知識の面で参入障壁を設け、あんまり物を知らない人は出入りできないようにする
  • 反応を返すにはお手軽なワンクリックではなくある程度の文章を返すことを必須とする
  • マネタイズに人々を誘導しない

しかし、今のこの手軽なネットに慣れた人がこういう場に敢えて入っていくだろうか?さらに言えば、そんなお金にならなさそうな場を提供するWebサービス側のメリットとは?

そう考えると、難題は山積みで、解決不可能なように思えてくる。

しかしそれでも、「ここに文章を書けば誰かが真剣に読んでくれる」場を必要とする人はいるとおもうのだ。身の回りには打ち明けられない、普通だったら反社会的と糾弾されるような思い、でもそれを抱えていたら、自分が変になってしまうような、そんな思いを、打ち明けられる場。敢えて言えば、そういう場があれば起きなかった"事件"も、多々あるのではないだろうか。

「子どもたちに伝えたい物語」とは?―『ガンダム Gのレコンギスタ I』「行け!コア・ファイター」を見て

というわけで、グダ氏にお金もらってGのレコンギスタ見てきました。

nuryouguda.hatenablog.com

いやほんと、遅くなって申し訳ございません。

ただ、一つ言い訳をさせてもらうと、正直僕みたいなアニメの見方、「アニメをダシにして社会を語っちゃうタイプの見方」をする人間にとって、このアニメはかなーり語りづらいんですよ。

僕は、いわゆる「ガンダム」と呼ばれるような作品群は、最近2つの系譜に分かれてるんじゃないかと思うんですね。一つは『機動戦士ガンダムSEED』、『機動戦士ガンダム00』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』のような、「現実の国際情勢や社会問題とリンクさせた世界」を描くガンダム。もう一つは『機動戦士ガンダムUC』や、『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』のような、既存の宇宙世紀に則って、「ガンダムのお約束の中の世界」を描くガンダム

この2つの系譜に沿って物語が描かれると、感想も書きやすいんですよ。前者のようなガンダムなら、ではその社会情勢とのリンクのさせ方の是非はどうなのか。そこで伝えたい、現代社会を生きる若者へのメッセージとは何なのかとか、考えられる。一方後者のガンダムなら、これまでさんざんガンダムというものに親しんできたガンダムオタクに対して、この物語は何を伝えようとしているのかとか、そういうことが考えられる。

ところが、今回の『Gのレコンギスタ』は、僕が見るにそのどちらでもないんですね。なんか現実の社会とかとはかけ離れていて、しかも宇宙世紀でもない世界で物語が紡がれる。そうなると、もう何を基準にして物語を見ればいいかよくわからないんですよ。

ただ、そう愚痴ばっか言っていてもどうしようもないので、とりあえず「良かった点」と「よくわからなかった点」をそれぞれ言っていき、最後にではこの物語は何をしたかったのかというのをなんとか僕なりに考えてみたいと思います。ただ、正直この読み方で本当にこの物語が読み取れてるのか、自信は全く無いです。

良かった点―メカ描写・宇宙描写のわくわく感

まず良かった点ですが、まず一番が、ガンダムを見ていて初めて「この宇宙行ってみたい」「このメカ触ってみたい」と思えたことですね。なんだろう、こう言うとなんか玄人たちには「ケッ」と思われるかもしれませんが、チームラボの作品のような、そんな色彩豊かでキラキラしてて、「見ていて楽しい、触ってみるともっと楽しい」、そんな感じの宇宙描写・メカ描写でした。

だから、これを見た子どもが「こんな宇宙に行ってみたい」「こんなメカを作りたい」と思うことも大いに予想できるわけで、そういう点では「子どもが観て一生に残るものをつくる」というのは、その一点において成功しているだろうと思うわけです。

animeanime.jp

よくわからなかった点―監督が好きなもの詰め込んだだけに見える政治・社会描写、登場人物たちの感情

逆に、そういう小道具・大道具から離れて、登場人物たちや、政治・社会描写に目を向けてみると、これがよくわからない。主人公が最初に属している陣営は、どうやら祭政一致の体制らしいんだけど、このそんなもの歴史の教科書にのっているぐらいのリアリティしかないわけで、じゃあ完全に歴史絵巻みたいなものかといえば、そこに生きる登場人物はどうやら現代人のメンタリティらしくて、どうもちぐはぐなんですね。

いや、もし本当に「現代人のメンタリティと祭政一致の制度を両立させて描きたいんだ」というんなら、それでもいいんですよ。社会学の分野でも、むしろ現代人は世俗化から再魔術化へと向かってるのではないかという議論もあるし。科学文明を抑制しようとするニューエイジ的な宗教思想が、むしろ現代人には適合的になるという逆説を描こうとするんなら、それはそれですごい批評的な作品になるとは思うのです。

ただ、どうもこの分野については、そこまで深く考えてるというよりは、ただ単に「宗教画とかがある中世っぽい建物の中で法王とかのひとが出てくるの描きたい」という、監督のフェティシズムなだけなんじゃないかと思うわけです。だとしたら、見てる人としては「すみませんちょっとよくわかんないです」と言うしかなくなるわけです。

そして、主人公を含む登場人物のメンタリティや感情の動きについても、これがやっぱりよくわからない。なんかよくわからないところで怒ったり悲しんだりしてんなーという感じ。「富野節」全開で、過剰なまでに説明口調で感情を説明されはするんだけど、「うーん?」となってしまう。

なんでそうなるかといえば、登場人物、特に主人公周辺の若者たちが一体どういう自己形成をされているかがよく分からないからだと思うんですね。一応、なんか士官学校とか、あるいは女子校みたいなところにいることは描写されるわけですが、ただそれがどうも薄っぺらく見えるわけです。どういうスクールカーストに属しているかとかもよくわかんないし、ここで本当に学生生活送ってんの?と。

基本、青少年の世界観って、半径5メートルの友人関係がすべてなわけですよ。もちろん、ガンダムのような物語はそこから飛び出していくから面白いわけですけど、この作品ではその飛び出す前の環境がどんなものかわからないから、そこから少年少女が飛び出していってもいまいち爽快感も不安感も沸かず、ただ根無し草がふわふわ浮いてるなー、としか思えないんです。

そういう点では、いくら「子どものための物語」といっても、そこはもうちょっと対象年齢高くして、せめて中学生ぐらいの子が感情移入できるようにしてほしかったなーと、思うわけです。

まとめ―「子どもたちに伝えたい物語」とは?

ただ一方で、そういう「思春期の閉塞感とそこからの解放」みたいな物語は、日本のアニメにおいては手垢が付きまくってるテーマではあるので、そうでない物語を描きたいというのも理解はできるんですね。

この「Gのレコンギスタ I」を見て全般的に言えるのは、とにかく「今日本で主流のアニメの文法とは全く違う物語を編み出したいのかな」ということです。だから、既存のアニメの文法にどっぷりと浸かり、それに沿ったものを無意識に望んでしまう人間が見ると、どうしても「なんでそこでそうなるのよ?」と思ってしまうわけですね。

だから、そういう既存のアニメの文法に浸かり切る前の、少年期の子どもたちがみたらまた違う評価をするのかもしれません。そういう子どもたちに夢を持つ元気を与えるというのがこのアニメの目的なら、僕みたいな無駄に年齢を重ねたオタクがとやかく言うこと自体間違いなのでしょう。

そして、アニメの作り手に求められる資質という点で言うなら、正しいのは富野監督だと思うんですね。少なくとも、「未来の地球のために環境を守ろう!」と立ち上がった女の子に対し「すべてを奪って絶望のどん底に叩き落として嘲笑してやりたい。」とか言うようなラノベ原作者なんかよりはずっと正しい。

nlab.itmedia.co.jp

というわけで、今のアニメに対して何かしら不満や違和感を持っている人は、もしかしたらこの「Gのレコンギスタ」をみたら、「そうだよこれだよこれ!」と思う、かもしれません。ので、ぜひ見てみれば良いんじゃないでしょうか。

少年ジャンプ・篠原健太氏の炎上について:作家は自由に描け、読者は自由に批判しろ……という原則論

要約

  • 少年ジャンプの漫画家・篠原健太氏のTwitterでの「少年漫画の描写は少年を対象にしている以上、女性を不快にしてもしょうがない」という旨の発言が炎上
  • これに関連し「少年ジャンプの編集者はは『少年の心』が分かる人でないといけないので、女性は難しい」という集英社の就活セミナーでの発言が発見され、それも物議を呼んでいる
  • 「少年ジャンプでも、女性への性差別であったり、女性が不快になるような表現はすべきではない」という意見もあれば「女性のことなんか一切考えない少年ジャンプでこれからもいるべきだ」という意見もある
  • 僕の考え①:少年ジャンプがフェミニズムジェンダーの意見を取り入れた漫画を作れるとは思えない。システム的にも能力的にも無理でしょ。
  • 僕の考え②:作家にはとにかく自分の望むように漫画を描かせるしかない。読者が「こういう漫画を描け」と言うことは、それがどんな望みであっても矯正することは出来ない
  • 僕の考え③:その代わり、読者は出された漫画がおかしいと思ったら遠慮なく批判しろ。批判があることによって、読者の少年たちはそれが「いけないこと」であることを学ぶ。それで作者がどうするかは作者の自由だし、筆を折ったり作風を変えても、それは作者の決断だから批判側は何も悪くない

篠原健太氏の炎上について

詳しい経緯は

seafoodfriends.hatenablog.com

にありますが、長いので簡単に要約します。

篠原健太氏の『彼方のアストラ』 

という漫画に対して、読者から「漫画に登場する女性キャラクターの描写が性差別的で不快である」という指摘が篠原健太氏に伝えられ、

 という風に返答したことが、「少年漫画上で女性差別的描写をすると開き直ってる」と捉えられ、炎上しました。

なお、この後、篠原健太氏は次のような補足をしています。

ですが、「少数の声は届かない」と開き直る以上、それは「性差別を容認してる」事と捉えられると、僕は思いますけどね。

また、今回の騒動では、これに関連して、次のような発言を集英社の社員が就活セミナーでしたことも物議を呼んでいます。

"私の大学に集英社の人事が来た時「女性はジャンプ漫画の編集にはなれませんか?」て質問したら「前例が無い訳ではありませんが週刊少年ジャンプの編集には『少年の心』が分かる人でないと……」て返されたの絶対許せない 嘘松ではなく令和1年、都内私立K大学にて行われた企業説明会での出来事です"

 

―元発言は削除済み

これに関しては、そもそも男女雇用機会均等法の観点から法的に問題があるんじゃないかという指摘がされていますが、それについては僕は別に法律の専門家でなくわかりませんので、何も言いません。

あ、ちなみにこれを、集英社の就活セミナーがまだ行われていないからデマだとする情報が一部のクソまとめサイトから出てますが、下記にあるようにきちんと就活セミナーは行われているのでデマです。デマを流したクソまとめサイトはさっさとサイト畳んで回線切って首○ってください。

今回の騒動では、フェミニズム側と反フェミニズム側から2つの異なる意見が出されています。

「少年ジャンプでも、女性への性差別であったり、女性が不快になるような表現はすべきではない」

フェミニズム側は、今回の篠原健太氏の発言や集英社の社員の発言を批判しています。

 また、そこから更に「少年ジャンプでフェミニズムジェンダーの視点を取り入れた漫画ができればいいのに」という発言がなされています。

 「女性のことなんか一切考えない少年ジャンプでこれからもいるべきだ」 

一方反フェミニズム側からは、「女性に媚びてないのが少年ジャンプの魅力だから、これからもその姿勢を貫くべきだ」という主張がされています。

僕の考え①:少年ジャンプがフェミニズムジェンダーの意見を取り入れた漫画を作れるとは思えない。システム的にも能力的にも無理でしょ。

以上が今回の騒動の簡単なまとめで、ここからが僕の意見です。

まず、フェミニズム側に釘を指しときましょう。

少年ジャンプにフェミニズムジェンダーの観点を取り入れた漫画を作らせるなんて、そもそも能力的にもシステム的にも無理です。諦めてください。

これが、少女漫画誌とか青年誌とかだったらもちろん可能です。というかすでに

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www.huffingtonpost.jp

とかそこそこあるわけで、「だったら少年ジャンプでもそういうのすればいいじゃん」と思うのも無理はないでしょう。ですが、諦めてください。

まず第一に、週刊誌の連載スケジュールでそんな複雑なテーマを調べ、しかもそれに対する読者の反応に真摯に応答するような作品を作るのは不可能でしょう。上記のような作品は、あくまで月刊以上のペースだからできる作品なのです。

さらに言えば、少年ジャンプはよく知られてるように読者アンケート絶対主義なわけで、少年ジャンプの読者がそんなフェミニズムとかジェンダーとか分かると思います?「なんか男が批判されて嫌だから低評価ー」みたいな感覚で居ることが目に見えています。読者アンケート絶対主義である以上、現在の大衆の保守的な欲望を慰撫するような作品しかできない、そういうシステムなんです。週刊少年漫画っていうのは。そこにフェミニズムとかジェンダーみたいな革新性は期待できません。

さらに言えば、集英社のジャンプの編集部はこういうセンシティブな問題を扱うセンスが著しく低い連中が揃っていることで有名なので、能力的にも無理です。『バクマン』という漫画もジェンダー的に散々叩かれる程度の低いものでしたし

togetter.com

そのくせ表現の自由については狂信的で、『有害都市』という漫画ではアメコミに対し「表現規制により多様性がなくなった」なんていうデマまで捏造して過剰に表現規制への危機感を煽ろうとする、まあ端的に言って頭の悪い連中なんです。

nlab.itmedia.co.jp

だから、フェミニズム側の人は、お気持はわかりますが、少年ジャンプにジェンダーとかフェミニズムなんて概念取り入れるなんてできると思わないでください。彼らはそんなの出来ない〇〇なんです。

僕の考え②:作家にはとにかく自分の望むように漫画を描かせるしかない。読者が「こういう漫画を描け」と言うことは、それがどんな望みであっても矯正することは出来ない

そして更に言えば、原則として、漫画をどんな作品にするか、決定するのは作者です。公的な表現規制というものはあくまでされるべきでない以上、「女性に配慮しろ」ということもできませんし、逆に「女性に一切配慮するな」なんてことも強制できません。どうやらフェミニズム側も反フェミニズム側もここを勘違いしているようで、「少年漫画はこうあるべきだ!」みたいな議論を戦わせていますが、僕から言わせれば、どっちも「お前、なぁんか勘違いしとりゃあせんか?」と言わざるを得ません。

漫画の作者がジェンダー的観点を取り入れようが、逆に性差別全開のミソジニー作品を描こうが、描くこと自体は自由なのです。

まあ、もちろん僕だって、せめて手塚治虫の言葉ぐらいは抑制的であってほしい

 とは思いますが、しかしこれでさえも、強制はできません。手塚治虫なんてクソ食らえだ!俺は女性の人権なんかまるで無視した酷いマンガを描くぞ!」という意見の作者ですら、漫画を描くこと自体は、自由であるべきです。

僕の考え③:その代わり、読者は出された漫画がおかしいと思ったら遠慮なく批判しろ。批判があることによって、読者の少年たちはそれが「いけないこと」であることを学ぶ。それで作者がどうするかは作者の自由だし、筆を折ったり作風を変えても、それは作者の決断だから批判側は何も悪くない

じゃあ漫画を読む読者の側は、それを黙って読むしかないのでしょうか?

そんなことありません。もし読んだときに「これはひどい」と思うような漫画が出版されたら、きちんと厳しく、それを批判すれば良いんです。「この漫画に描かれているような描写は性差別であり、いけないことだ!」と、ぶっ叩いてやりゃあ良いんです。「こういう批判によって作者が萎縮したりしないだろうか」なんて気にする必要はないんです。作者は好きに描いたんだから、読者も好きに批判するべきなんです。どっちかの自由が侵害されるなら、それこそまさに「表現の自由の侵害」でしょう。

こう書くと、↓のツイートみたいに「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!!!」みたいなこと言う人もいるかもしれません。

が、はっきり言いましょう。性差別的であったり、倫理的に間違った作品があるときは、他の作品がどうこうじゃなく、まずその作品を批判することが重要なんです。↑のツイートはピントがズレズレのボケボケであると言わざるを得ません。

そういう批判がされることにより、少年漫画の読者は「マンガに描かれているああいう描写は、性差別的でいけないことなんだ」と学ぶわけです。スカートめくりや覗き見の描写を、「性暴力だ!」と厳しく批判することによって、子どもたちにそれがいけないことを教えるんです。

「少年漫画は『少年の心』を持って描かれる」と、集英社の社員は美辞麗句のように言います。しかし、女性への性加害やセクハラというものは、往々にして「少年の心」でもって行われます。「少年の心」っていうのは決してきれいなだけのものじゃない。だからこそ、その邪悪な側面が少年漫画に現れたとき、大人がきちんとそれを厳しく叱ってやることで、少年は初めて成長できるのでは、ないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……という原則論を述べたところで、最後にちょっとだけ異論を。

ただそうは言っても、人間、作者も読者もそんなに強くはなれないよねー。Twitterでの議論をみてると、フェミニズム側も反フェミニズム側も強い人ばっかが目につくけど、本当はその裏に、沢山の怯えてる弱い人が、フェミニズム側・反フェミニズム側双方に居るはずなわけで、僕はむしろそういう人たちのことを考えたいと、思ったり。

ただそこで「敵をやっつける」話にはしたくなくて、そうでなく「敵に気付かれないようにしながら、やり過ごす」方法を考えたいんだよね。「敵には見つからないけど、味方にはなんとなく伝わる」というやり方。

というか、昔のオタクって、本来そういう隠れみの術が得意だったと思うんだけど、なんか最近はそういう技術が失伝されちゃってる気がして、SNSで万人の万人に対する戦いが始まった今だからこそ、その技術を復活させるべきじゃないかと思ったり。

いうなれば、「フェミニズム側には気づかないけど、見る人が見ればそのエロさが分かる」とか、その反対に「褒めてる感想文に見えて、その実ジェンダー的に遅れてる部分を褒め殺す批評」とか、そういう複雑な搦め手を、双方学ぶべきなんじゃないかなーと、思ったりするわけです。