あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「聖」と「俗」が融合するレヴュー―劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトネタバレ感想(2本目)

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というわけで、今日も今日とて少女☆歌劇レヴュースタァライトを見に劇場に通うあままこです。
鑑賞一度目の感想はすでに書きました
amamako.hateblo.jp
が、当然こんな一つの記事だけで語り尽くせる映画なんかじゃないわけで、何回も見れば見るほど「あ、このシーンはこういう見方もできるのか!」と、新しい気付きが得られるわけです。
で、そんな中で今回は「『聖』と『俗』の融合」という側面から、少女☆歌劇レヴュースタァライトを語ってみたいなと思います。

もともと、演劇とは「聖」と「俗」が触れ合う場所だったのが、はっきりと分離されるようになった

演劇の起源が一体どんなものなのかには諸説あるみたいですが、一番有力なのは「宗教儀式」から発展したという説だそうです。
そして実際、古代ギリシャなどで劇の題材となったのはまさしく神々の話、神話なわけで、神様とか宗教とかといった、「聖なるもの」を表現していたわけです。
しかしその一方で、古代・中世の劇においては、演劇が演じられる円形舞台と観客席は距離的に近く、また観客は野次などで盛んに舞台に茶々を入れたわけで、「俗なるもの」と「聖なるもの」が極めて近しいところにあったわけです。
ところが、ルネサンス以降になってくると、徐々に舞台と観客席は離され、舞台裏も見えにくい、いわゆる額縁舞台とよばれるような形になり、また私語をしてはいけないといったマナーも生まれ、「聖なるもの」を演じる舞台と、「俗なるもの」である観客席は離されるようになったわけです。

次々に分離し、分裂していくことが求められる現代社

そして、このように世の中を「聖なるもの/俗なるもの」という風に二分し、前者と後者を分離するやり方は、演劇に限らず、社会のあらゆる場面で行われるようになりました。「公私の区別」もその一つと言っていいでしょう。
さらに言えば、現代では、私的な空間でさえ、「このクラスタの付き合いにおいてはこういう『私』でいるけど、別のクラスタとの付き合いでは別の『私』でいる」というように、人格を分裂させることが要求されます。そこでは、うまくそれぞれ向けに「見せたい私」を分離しながら見せることが、より上手に世の中を生きるテクニックとなるわけです。

演劇だからこそ、「聖」と「俗」が融合される

ですが、この映画は、演劇をテーマとしながら、というか、演劇がテーマだからこそ、このような「聖/俗」「公/私」といった区別に反旗を翻すわけです。
この映画では、主に5つのレヴューが繰り広げられるわけですが、その全てに共通しているのは、「外面に隠された内面をさらけ出す」ということなわけです。社会生活をうまくやっていったり、うまく人間関係を保ったり、あるいは自分のプライドを守るために作り上げる「外向けの自分」、しかしそういった外向けの作った自分は舞台では通用せず、結局自分の真の姿をさらけ出さなければいけなくなる。演出は豪華絢爛で様々な意趣をこらしていても、骨格をなすのはそういったシンプルなメッセージなんですね。
「舞台の上で役柄を演じる」ことと「自分の内面をさらけ出す」ことは、普通は正反対のこととして捉えられます。しかし実はそうではないというのが一番良く分かるのが、天堂真矢と西條クロディーヌのレヴューでしょう。
このレヴューは、まず額縁舞台から始まります。天堂真矢が演じる舞台女優と西條クロディーヌが演じる悪魔は、ある契約を結びます。それは「最高の舞台を演じさせる代わりに、お前の魂をいただく」という契約です。
しかし、いくら舞台を演じても、天堂真矢の魂は見えてこない。そこで天堂真矢はこう言うわけです。「私はなにもない器であるがゆえに、あらゆる演技を演じることができる」と。
しかし、そこで一旦破れたかのように見えた西條クロディーヌがこう言うわけです。「器だって?あんたの中身は、怒りも嫉妬も傲慢もある人間だ」と。
そして、レヴューが再開し、舞台が額縁舞台から円形舞台へと変形していき、今度はクロディーヌが真矢を圧倒するわけです。聖なる崇高なものとして現れた天堂真矢と、俗なる卑近なものとして現れる西條クロディーヌ、しかし舞台の上ではそそれが反転し、最も俗なるものが聖なるものへ、卑近なるものが崇高なものへと描かれるわけです。
このように、日常や一般社会から離れた秩序のところで、聖と俗の融合を見せるというのは、まさしく演劇だからこそなしえることと、言えるでしょう。

そして「日常」と「舞台」の垣根もまた、取り払われる

そして更に言えば、この映画では、「日常」と「舞台」の垣根もまた、取り払われます。
一回目この映画を見たとき、僕がちょっと不満に思ったのは、「愛城華恋の過去シーンが多すぎない?」ということでした。正直言えば、そんな過去シーンをいっぱい見せられるよりは、もっとレヴューをいっぱい見たいと、そういう気持ちだったわけです。
しかし、2回目にこの映画を見ると、「そうやってレヴューと日常を分ける考え方を、この映画は否定しているのではないか」と思うようになったわけです。
レヴューシーンだけを見てれば、愛城華恋を含め舞台少女は全く自分たちと異なる「舞台の上の存在」として私たち観客には認知されます。つまりそこでは「舞台」と「観客席」に確固たる壁があり、そしてその壁は決して壊れないものとなるわけですね。まさしく、映画中で愛城華恋は、その壁によって、「舞台上に取り残されてしまう」わけです。
しかし実際は、舞台少女である彼女たちもまた、日常を生きる一人の人間なわけです。日常の中で友達と過ごしたりしながら、しかしその中で普通の学生なら味わえる楽しみを我慢して、舞台に向かっている。その点で、舞台と日常は、つながっているのです。
だから、愛城華恋が舞台少女として自らを再生産するには、日常シーンを描き、それを燃料とする必要があったのです。舞台と日常の壁を壊し、日常にも戻って、またそこから舞台を目指すために。
劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトを見る快楽の中には、日常や社会で生まれる様々なしがらみや垣根を取っ払い、人々を解放するという側面もあるのかなと、2回目の視聴では、思ったのです。
と言ったところで、僕はこれから3回目の視聴に行きますので、そろそろ失礼させていただきます……

「フェミニスト原則」だけでどうにもならないから今の混沌があるんじゃないの

swashweb.net
TLでは結構絶賛されていて、「真のフェミニズムってこういうことだよな」みたいなことを書かれている上記の声明文。
ただ、どうも僕は読んでいて納得がいかないんですね。
いや、良いこと書いてあるとは思うんですよ?「すべての人々が解放されるまで私たちは戦う」とか、「私たち全員が自由になるまで、私たちの誰も、自由ではない。」とか、確かにスローガンとしては否定しようがない良いことではあるし、そんな良いことに反対するツイフェミたちは悪魔なんじゃないかと、そうも言いたくなるでしょう。
でも、僕は思うんですよ。
「そんな原理原則だけでは解決できない問題があるからこそ、今の混沌があるんじゃないの?」と。

ある人・グループの人権を尊重することが、別の人・グループの人権を毀損するという矛盾

例えば、上記の声明文では、以下のように書いて、すべての人の人権が尊重されることが重要だとしています。

人権は、ジェンダー性的指向ジェンダーアイデンティティジェンダーの表現、性的特徴に関係なく、すべての人にとって固有のものです。
すべての人々には、奪うことができない権利と、自由を実現し行使する権利があり、どんな個人や機関にも他者の基本的人権を侵害する権利はありません。
どのグループの人々の人権の実現も、他のグループの権利の犠牲の上に成り立つものではありません。

しかし現在起きている問題というのは、「ある人・グループが『これは私たちの人権だ!』と主張する表現・行為が、別の人・グループにとっては『それは私たちの人権を抑圧するものだ!』となる」という問題だったりするわけです。要するに、「他のグループの権利の犠牲の上に成り立つ人権」が、様々な場所で主張されているのです
例えば、「女湯にトランスジェンダーが入っていいか問題」とかもそうです。トランスジェンダーの人たちにとっては、自らの性自認に基づいて女湯に入ることは、自らのジェンダーアイデンティティに基づく行動であり「人権」となる。しかし、それを嫌がる女性にとっては、「女性だけの空間」を持つというプライバシー兼を侵害する、「人権侵害」となるわけです。
あるいは「公共空間においてどのような性的表現が許されるか問題」もそうです。それこそラブライブ!サンシャインのパネル騒動
amamako.hateblo.jp
や、あるいはフラワーデモ京都において裸で抗議活動を行った人がいたことが賛否を呼んでいる騒動


にしても、ある人達にとっては「性的表現を公共の場で行うことは表現の自由によって許されるべきだ」となる一方で、別の人々にとっては「性的表現を公共の場で無理やり押し付けられることは人権の侵害だ」となるわけです。
もちろん、これらに対し、「一方の側の主張は正当な人権の主張であり、別の側は単なるわがままで人権の主張とは言えない」と言うことはできます。ですがそれなら、「人権とわがままを分ける境界線は何か」というところまできちんと示すべきで、それを示さずにただ「全ての人の人権は尊重されるべき」と言っても、現実の問題の解決には何も寄与しないでしょう。

他人の人権を抑圧する「性的指向ジェンダーアイデンティティ」だって存在するよね?

さらに言えば、上記の声明文は

性的指向ジェンダーアイデンティティジェンダーの表現、性的特徴を変えようとする力を拒否する権利、そして尊厳を持ち、恐れることなく生きる権利

を人権として主張していますが、性的指向ジェンダーアイデンティティの中には、それを完全に発露しようとする限り、他人の人権を抑圧するものとしかなりえない性的指向ジェンダーアイデンティティもあるわけです。
例えば小児性愛なんかはその最たるものでしょう。判断能力が未分別な子どもに性愛を抱くことは、それが完全な状態で発露されれば子どもの人権に対する侵犯にしかならないわけです。しかし、この声明を字義通りに解釈するなら、小児性愛者にすら「変えようとする力を拒否する権利」が与えられてしまうことになるわけです。しかしそれでは子どもの人権が傷つけられることを防げないわけで、結局自己矛盾に陥ってしまうのです。
その他にも「同意なき性交を求めてしまう性的特徴」とか「他人の心身を傷つけることでしか満足できない性的特徴」というように、他人の人権を抑圧する「性的指向ジェンダーアイデンティティ」は色々あるわけで、しかしこの声明に則ればそれらのものですら「変えようとする力を拒否する権利」があるということになってしまう。その行き着く先に待ってるのは、結局「自分の性的指向を満足できる力を持った人が満たされ、そうでない人は抑圧される」という、最悪の弱肉強食社会なんじゃないでしょうか。

必要なのは「原理原則に基づく断罪」ではなく、「相手の言い分を聞いて落とし所を見つける」ことでは?

上記の声明文は「フェミニスト全員が共有すべき原則」として提出されています。そしてこのような声明文が提示された理由は、おそらく、この声明文に反対する立場を「反フェミニスト」として運動からパージし、政治的に貶めるという思惑があるのでしょう。
ですが、そうやって自分たちと意見が異なる人達を「敵」として攻撃することをしたって、結局待ってるのは「どっちがヘゲモニーを奪取できるか」という政治闘争でしかないわけです。そして、政治闘争に勝った側が負けた側を抑圧する、そんな権力構造の再生産でしかありません。
フェミニズムを含め、政治思想というのは、本来そういう政治闘争によって勝ち負けが決まるのを拒否し、「公正さ」を社会にもたらすために存在してるのだと思います。しかし上記の声明文は、現実の「不公正さ」を無視して、空虚な原理原則に基づき、敵対者を断罪するものにしかなっていないように思えてなりません。
僕が、反トランスジェンダーのツイフェミ、そしてそれに敵対するフェミニスト双方を見て思うのは、「何で双方、『相手が何を不安に思ってるか』を理解しようとしないんだろう」ということです。
例えば女湯問題にしても、原理原則は置いておいて、まず「自分の性自認通りの場所に入ることが出来ない悔しさ」や「自分を抑圧する性の持ち主が侵犯してくる恐怖」といったものを、そもそも双方が理解できていないように思えてならないんですね。そこを理解して、「あなたたちの気持ちも分かるけど、でも自分たちの気持ちもわかってほしい」という立場を双方が共有できれば、意見が対立してもここまでこじれることはないと思うわけです。
同じことは、公共の場での性的表現といったことや、未成年の性的同意といった問題にも言えます。相手の主張を原理原則に基づいて断罪する前に、まず相手の抱く不安・恐怖に理解を示すって、そんなに難しいことなんでしょうかね?
と、こういうことを書くとまた「この日和見主義者め!」と双方から叩かれるんだろうなぁ……

1987年生まれから見た「若い世代」の論客たちについて


僕は、これらのツイートに、「たしかにそうだなー」と思ってたんですが、どうやらはてな人文系界隈では評判がよろしくないみたいで。
davitrice.hatenadiary.jp
plagmaticjam.hatenablog.com
曰く

このツイートを最初に見た時、いいねを押した。しかし冷静に見てみると「今ある問題を自虐的に語ることで世代に還元させ、誘導しようとしてる」ようにも見える。現行支配的な多様性やLGBTなどを念頭に置きつつそれを笑っていた僕達は間違った世代だったと言うのは反発を招いて当たり前ではある。

と。
まあ簡単に言うと「世代でひとまとめにするな」ということらしいです。
ただ、僕はそれでもやっぱ「世代」は重要だと考えるんですね。確かに、それぞれの個別の経験というのは異なるかもしれないけど、しかし同じ時代を生きた世代は、良くも悪くもそれぞれの時代の問題意識というのを背負っているし、それを相対化することはできるかもしれないけど、そこから自由になることは無理だと考えるからなのです。
そこでこの記事では、1987年生まれという世代から、上記の議論や、上記の議論に加わる若い世代の論客がどう見えるか、ちょっと書き記してみたいと思います。

「反省」とは日本の政治意識においてどんな意味を持ってきたか

上記のツイートや文章では、「反省」という単語がそれぞれ大きな意味を持っています。ただここで危ういなーと思うのが、どの人たちも「反省」という行為が現代日本においてどんな意味を持ってきたか、その背景にあまり関心を示していないということなんですね。そして、そうであるがゆえに、自分たちの前の世代や、自分と異なる意見を持つ人が「反省」というものをどう捉えているか、あまり理解できてないように思えるのです。
「抵抗としての無反省」という言葉があります。社会学者の北田暁大氏が『嗤う日本の「ナショナリズム」』という本

で示した、1980年代〜1990年代の政治意識を示す概念です。
で、多分これは僕がそれを体験したギリギリ最後の世代で、だから、僕より若い論客たちはピンとこないんだと思うのですが、僕の世代ぐらいまでは「反省しない」ということこそが、社会的な抑圧に対する(当時の)若い世代の抵抗だったんです。
日本の、特に大学に行って政治のことを考えるような「意識高い系」インテリにとって、1960〜1970年代っていうのは、基本的に「敗北の歴史」として語られます。反帝反スタの共産主義革命を掲げて戦ってきたけど、結局行き着く先は山岳ベースの集団リンチであったり、あるいは中核V.S.革マル内ゲバだったりしたわけです。人々が自由に生きられる世の中を目指して頑張っていたはずが、行き着く先はそれぞれがそれぞれを抑圧するような地獄、これは一体何だったのか、一体何が間違っていたんだろうかと、当時のインテリたちは必死に考えたわけです。
で、そこで思い至ったのが「それぞれがそれぞれに『反省』を迫るような態度こそがいけなかったんじゃないか」ということです。反省とは、具体的に言えば「自分で自分の過ちを認め、それを正そうとすること」なわけですが、それが究極的には自分自身の自由や存在を否定する「自己否定」につながってしまったのではないか。だったら、いっそ「反省しない」という態度で享楽的に生きることによって、より人々が自由に生きられる社会に近づくのではないかと、そう考えたわけです。
だから、僕ぐらいの世代までは、「反省」という言葉を提示されると、とっさに「そうやって人に対し反省を強いる態度こそが抑圧を生むのではないか」と思ってしまうわけです。
ただ、ここで僕ぐらいの世代までは、「反省を強いる社会秩序」というものを想定し、それに対する対抗手段として「抵抗としての無反省」というものを考えていたんですが、ちょうど僕のちょっと前ぐらいから徐々に、「抵抗としての無反省」から「抵抗としての」という修飾が消え、単なる「無反省」になっていくんですね。
これは何でかっていうと簡単で、「抵抗としての無反省」を行う、全共闘以後の世代が、社会の大部分を占めるようになると、そもそも「反省を強いてくるもの」というのがなくなってくるからです。そしてそういった社会では、「無反省」という態度が所与のものとなり、「今のままでいいじゃん」「弱肉強食で何が悪い」「差別をして何が悪い」ということになっていくわけです。
おそらく、元ツイートで永井玲衣氏は、このような「無反省」に苛立ちを覚え、「やはり反省が必要なのではないか」と考えたと思うのです。それ自体は正しい、正しいのだけれど、そこで批判される「無反省な過去」も、別に知的怠惰の上に生まれたわけではなく、過去においては一定の根拠があったものだったということを理解しておかないと、それこそ〈過去への反省なく〉「反省」を強いる、ということになってしまうのではないかと、思ったりもするわけです。
一方で、元ツイートを批判する側も、そこで「無反省」を持ち出すことは、例えそれが抵抗としてのものだったとしても、結局1990年代〜2000年代のような露悪主義に至る道となりかねないということは、考慮すべきだと思うわけです。

全ての「思想」や「理論」は、それ単体では「正しく」ありえない

僕が若い世代の論客を見ていて思うのは、リベラルであるとか保守であるとかとはあまり関係なく、「思想は、その思想が生まれる時代に束縛されており、自分自身も時代から逃れることはできない」という認識が、よくもわるくもあまりないなということです。
これ、良い面ももちろんあるんですよ。時代の多数派の風潮とかは気にしなくていいと思うからこそ、そのような多数派に迎合することなく、言いたいことを言えるってことですから。僕なんかは古い人間なので、時代の潮流がどんなものなのかを見極めながら、パフォーマティブに主張をしたり、議論をふっかけたりするわけですが、若い世代の論客からするとそれは「時代というものを気にしすぎて、知的に不誠実になっている」と見えるのだと思うのです。
ただ、その一方で、若い世代の論客は、あまりに「自分」とか「理論」というものを信頼しすぎてないかなと思うわけです。例えばid:davitriceはこのように述べています。

……とはいえ、このブログをフォローしているならお察しできていると思うが、いまではわたしも「はてサ」的な思想には賛同していない。というか、八割方は否定しているし、はてサの人たちの大半にももはや反面教師としての価値しか見出せなくなっている。これは、学部や大学院を通じて自分でいろんな本を読みつづけて、ようやく自分の頭で物事を考えられるようになった結果だ。考えてみると当たり前の話だが、アカデミックなものを求めるなら、ブログじゃなくて、海外のものとか古典とかを含めて最初から本を読んどけばいいのである。

はてなサヨクを反面教師として「自分の頭で物事を考えられるようになった」そうで、自称「はてなサヨクの生き残り」である僕なんかは、単純にすごいなぁと思うわけですが、でもそこで「自分の頭で考えた」という自負がありすぎると、結局「自分で選び取ったんだからそれが正しい」ということになり、独善に至ってしまはないかと、老婆心ながら心配するわけです。
例えばid:davitrice氏ははてなサヨクを含めたポストモダン左翼について、次のように批判しています。
davitrice.hatenadiary.jp

 いまから思うと奇妙であるのは、ポストモダニズムそのものに対してまで批判が向けられるのではなく、あくまで「日本のポモ」だけが槍玉に上がっていたことだ。ポストモダニズムそのものについては「デリダはそんなこと言わない」などと擁護されており、左翼であり反権力であるデリダとかフーコーとかの「意図」や「動機」を無視して当人たちが望んだのとは正反対の方向に理論をはたらかせたから日本のポモはダメだ、というかたちで批判がおこなわれていたのである。

 しかし、ある理論の使い道や用途はその理論を生み出した当人の意図や動機に基づいて制約されなければならない、なんてことはないだろう。

 たとえば、西洋の思想家たちは古代から近代にいたるまでおおむね女性差別的であったり人種差別的であったりしたが、彼らが生み出した理論がいまでは性差別の問題や人種差別の問題を分析して批判することに用いられている。問題点を修正したりアップデートしたりしながら、その理論を生み出した当人には予想もつかないところへと適用されるようになっていく、という発展性とか拡張性とかが、理論というものの性質であり面白さでもあるだろう(だから、理論を応用した相手に対して「それは換骨奪胎というものであり、その応用の仕方は間違っている」と批判することも、大概は不当であるのだ)。

(略)

 ポストモダニズムや批判理論に基づいて、相手のことを「客観性をよそおいつつ、その裏には隠れた目標がある」という風に批判することには、自家中毒の危険がある。

「すべての理論や議論には意図や目標が隠れているのであり、相手だって俺だって客観的な事実を論じることはできない。相手にも意図や目標があり、俺にも意図や目標があるのだ。そして、俺も相手も自分の意図や目標を遂行するために議論を展開しているのだとすれば、アカデミアは真実を追求する場ではなく、どちらがよりもっともらしいことを言って主導権や影響力を握るかという闘争の場である。だから、確かさや客観性を保ちながら真実を追求するのではなく、自分の派閥の力を強めて相手の派閥の力を弱めることをがんばろう。批判の目も、相手にだけ向けるのが正しい。自分の側の議論にも批判の目を向けると敵に塩を送ることになってしまい、敗北につながりかねないからだ」となってしまうのだ。……ごく一部ではあるだろうが、こんな認識でがんばっている人はアカデミアのなかにもマジで存在していることだろう。

 マルクーゼの名前は忘れられても、彼の生み出した「抑圧的寛容」の発想はいまでも影響力を発揮しつづけている*2。あるいは、ジョナサン・ハイトが指摘するように、マルクスは「社会正義大学」の守護聖人でありつづけている*3。近年におけるポスト・トゥルースの問題とか、ちょっと前のポストモダン論争とかも、大元はこのあたりにあるのだろう。

ですが僕からするとid:davitrice氏はあまりに「理論」とか「思想」とかというものに対しナイーヴに「正しさ」を認めすぎているように思うのですね。
例えばid:devitrice氏は

西洋の思想家たちは古代から近代にいたるまでおおむね女性差別的であったり人種差別的であったりしたが、彼らが生み出した理論がいまでは性差別の問題や人種差別の問題を分析して批判することに用いられている

ということを述べて、「例え言った本人が差別的な人間でも、その理論が差別の批判に用いられることもある」から、誰が言ったかは関係ないとしています。
しかしそれって、逆を言えば「差別の批判に使われるような理論・思想を抱えたままでも、矛盾なく差別的でありえる」ということでもあるわけです。
具体的な例を出すなら、アメリカの権利章典
ja.wikipedia.org
は今もって人権侵害とかに対抗するために持ち出される重大な文書です。しかし一方で、このような権利章典がありながらも、アメリカでは奴隷制や黒人差別というのが長きに渡って続いてきた。これって、要するに「権利章典という文書だけでは、奴隷制や黒人差別のような人権侵害を否定し得なかった」ということの証左なわけです。
そこで、批判的な歴史学は、権利章典とかそういったもので語られる「人権」とは、当時の人々にとっては結局「白人男性」に限定されるものでしかなかった。それが女性差別や人種差別といったものを批判するものとして認識されるようになったのは、公民権活動家といった人々が、それを換骨奪胎して「みんなの人権」へと拡張するようになっていったからだと、主張するわけです。
だから、結局理論や思想というのは、それ単体では良いようにも悪いようにも使われるものであり、結局重要なのはそれを「人々がどのように利用するか」なのだと、ポストモダン左翼は主張するわけですね。id:davitrice氏は

理論を生み出した人たちの意図や動機を持ち出さなければ"悪用"することを防げないのだとしたら、その理論自体がもとからガバガバで問題のあるものだった、ということである。

と言いますが、ポストモダン左翼の立場からすれば、全ての理論というものは「ガバガバで問題あるもの」である。悪用の余地がない理論なんて存在しない。だから、「批判」が重要なんだと、なるわけです。

ブログが重要なのは、その人の立ち位置をはっきりさせるから

で、更に言うと、僕はこのように「同じ事柄でも、それが言われる状況や、言う人によって意味が変わってくる」と思うからこそ、TwitterなどのSNSでなく、ブログというメディアはより優れてると思うんですね。
id:devitrice氏は、氏にとってのブログの意義についてこのように述べます。

 では自分はどういう理由でブログを書いているかというと、「自分が考えたことや、読んだ本の内容の整理したい」いうことと「話題になっていることについて自分でもなにか言ってみたい」ということと「人々を啓蒙したい」ということとが混ざっている。社会人になって時間や可能性が限られるようになってからは、自分の考えや意見を記録して発信することの価値は以前よりもさらに強く感じられるようになった。そして、他人を啓蒙することも、冗談じゃなく重要だと思っているし、ある種の使命感は抱いている。

id:devitrice氏が、「啓蒙」という目的をブログに求めているというのは、確かにid:devitrice氏のブログを見ていると一目瞭然と言えるでしょう。ついでに言うなら、id:devitrice氏がどういった価値観・立ち位置から、一体どのような見方・思想・理論を啓蒙したいかも、ブログというものは如実に示してくれます。
で、僕にとっては、実はそれこそがブログの意義なんです。
ポストモダンを経由したはてなサヨクである僕は、「すべての人が共有する経験・価値観なんて存在しない」というものを、大前提としています。僕が今までの人生で見てきた景色と、id:devitrice氏が見てきた景色、id:plagmaticjam氏が見てきた景色はそれぞれ異なるのであり、そして見てきた景色が異なれば「何が正しいと思うか」という価値観も異なるわけです。
そして、ブログではそういった経験や価値観が、それまでの記事の蓄積として現れてくるわけです。そうすると、「こういう経験に基づいてこの人はこういうことを正しいと思っているんだな」ということが分かるし、そこから「ではそういう異なった人生経験を送ってきた人に自分のメッセージを伝えるのは、どうすればいいだろう」と考えられるわけです。
SNSでの議論には、それができないわけです。Twitterでの発言はあくまでフローでありストックされないから、「相手がどういう経験を積み、どんな価値観を持っている」かがわからない。そんな中で議論をしようとしても、それは単なる「自分にとっての正しさの押しつけ」にしかならないわけです。
そうやって「人格的なことを気にしてコミュニケーションをとる」のは、時としてid:davitrice氏が下記で批判するような「不毛なもの」「下品なもの」

 また、わたしは当時からよく把握できていなかったが、世間的なイメージでのはてな村では「ゴシップ」とか「人間関係」とかも重要であったようだ。思い返してみると、はてなブロガー同士の論争をまとめたり仕切ったり、横やりを入れたり介入したりすることで存在感を発揮しようとするタイプのブロガーは、たしかにいた。あるいは、他のブロガーや有名人を罵倒することで人気を得てポジションを確立させようとするブロガーもいた。……でもゴシップってそもそも不毛なものだし、他人が罵倒しあうのを見て喜ぶのも下品なものだ。ほかのネット空間とはまたちがうはてなに独特の閉鎖性とか属人感とか「学級会」感については昔から「やだなあ」と思っていた。たぶん世間的にはそれこそがはてな村はてな村たらしめている最大の要素なのだろうけれど、わたしはそんなの最初から求めていないのだ。

に思えるかもしれません。ですが、僕はそういうものを排しすぎるのもよくないと考えています。そういう意味では若い論客こそ、精一杯周りと「くねくね」したほうがいいんじゃないかと、思ったりするわけですね。別にその場所が「はてな村」である必要は、全くないわけですが。

マツコの知らない世界「ガールズバンド」特集が文化語りのお手本として無茶苦茶おもしろかった

tver.jp
ので、ガールズバンドに関心があるとはもちろん、そうでない人も、音楽とかに関心があったり、「文化を紹介する」ものを見たり、自分でしていたりする人に、是非7月13日(火)20:56までに見てほしいなと思います。Tverだと一部権利の都合で映像などがなかったりするのですが、それでもとてもおもしろいので!

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ワナビー論―究極のワナビーとしての永山則夫

republic1963.hatenablog.com


この2人のうちの一人ってたぶん俺なんで応答しておく。

で、この2人のうちのもう一人は僕あままこであるってことを、id:ta-nishi氏本人から言われました。
まあそれはさておき、上記の記事でid:republic1963氏は「ワナビー」を、「人から羨ましがられるような職業を目指し」ている人と定義しています。

ワナビー(何者かになりたがっている(いた)人と言いかえても良い)とは、何かに憧れ、それになりたがっている者のことを指す。だが、これだけでは不十分だ。まず、ワナビーというのは「漫画家・小説家」「ゲームクリエイター」「人気YOUTUBER」のような『人から羨ましがられるような人気職業を目指している人』という意味が付加されている。加えて、ワナビーには『人気職業を目指して失敗している人』のことを指す。手塚治虫はマンガ家ワナビーとは言わないし、ウメハラはプロゲーマーワナビーと言う人はいないだろう。かれらは実際に自分のなりたいことを実現させているからだ。同様に「サラリーマンワナビー」なんて人はまずいない。サラリーマンなんていう職業はありきたりで誰にでもなれるからだ。

つまり、

  1. 人から羨ましがられるような職業を目指し
  2. かつ、それに失敗している人

というのがワナビーの定義となる。

確かに、ワナビーと呼ばれる時の通常の用法は上記のようなものでしょう。
一方で、僕は下記の記事で「ワナビー」を「リア充のような日常の幸せを持つ人たちに憧れている者」と定義しました。
amamako.hateblo.jp

ワナビー
この人達は「日常が幸せならそれでいい」人なんだけど、その幸せを手にいれられてない人たちですね。例えば彼氏彼女がいるとか、家族を持っているといった「普通の幸せ」が得られないことに苦しんでいる非モテや弱者男性とかはまさにここに属します。

ここには明らかに食い違いがあります。この食い違いはブックマークコメントでも指摘されていて
b.hatena.ne.jp

id:Ta-nishi ゴメン、これは違うと思います。ワナビーっていうのはむしろスタァのような「幸せな日常以上」、この記事で言う「超越系」的な成功を目指す人と私は認識しているので…

確かに、分析概念としてよりクリアなものにしたいなら、「ワナビー」という単語を使うことは誤解を招くから、別の単語(例えば「キョロ充」とか?)を持ってきたほうが良いと思います。
しかし僕の考えでは、リア充のような日常の幸せを持つ人たちへの憧れ」と、「人から羨ましがられるような職業への憧れ」って、実は排他的なものではなく、むしろ同じ欲求を違う側面から見たものに過ぎないんですね。そして、同じ欲求が様々な側面を持つという性質こそが、「ワナビー」をよりややこしい状況にしているのではないかと、思うのです。
そのややこしさを理解するために、僕は敢えて「ワナビー」という単語にこだわりたいのです。

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はてな村は滅びるべくして滅んだ―はてな村のTwitterスペースに参加して本当に話したかったこと

ta-nishi.hatenablog.com
途中までリスナーとして、途中からスピーカーとして参加したんですが、なんかこう、不完全燃焼感が残っちゃう感じでした。
理由は色々あって

  • そもそもid:Ta-nishiがそこで話したかったことと、聴衆が聞きたかったこと、そして僕が聞いて話したかったことがミスマッチを起こしていた
  • TwitterスペースのWebサービスとしてのクオリティがあまり良くなかった
  • 実況などのログ・参考資料を記録するがなかったため、話が散らばってしまった
  • 単純に僕の喋りがへたくそすぎだった

などあるんですが、とにかく、自分が喋りたかったことは全然喋れてなくて、そのことが悔しいので、ここに記録しておきます。

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アイデンティティの前にある問いとしての「何者にもなれない私」―『何者かになりたい』読書感想文

というわけで、前回の記事
amamako.hateblo.jp
を書いた後、早速『何者かになりたい』、読んでみました。
読了した感想としては、賛成できるところと「いや、そうかなー」と思う部分は半々だったんですが、そういう主張への賛否以上に、「精神科医という臨床の立場からはこう考えるんだな」ということが興味深く、大変面白い本でした。

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「何者かになりたい」という欲望には二種類あるんじゃないか

blog.tinect.jp
熊代氏*1が『何者かになりたい』という本を執筆したらしく、「何者になりたいという欲望って、ある人とない人がいるよね」という記事を書いている。そして、そのありなしが一体どういう要因によって違ってくるかということを、書いています。
それはそれとしてとても参考になりますし、本もぜひ読んでみたいなと思うのですが、一方でブコメでも指摘されているように、「何者かになりたい」って、人によって全然捉え方が違う言葉で、実はとってもわかりにくい欲望だったりする。ある人はそこで「社会生活での地位」とか、そういう具体的な「何者か」を思い浮かべれば、また別の人は「自分の生きる意味を見つけられている人」みたいに抽象的に捉えているんですね。
「何者かになりたい」という言葉は、多分『輪るピングドラム

の「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」あたりから流行り始めた言葉だったと思うんですが、このアニメが結局よくわかんないまま終わったのも、実はそこらへんがうまく説明できてなかったからじゃないのかと、思ったりするわけです。

*1:ところで、こういうお金の出るメディアに書くときの「熊代亨」という名前と、ブログとかに記事を書くときの「シロクマ先生」という名前って、意図的に使い分けてるんですかね

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