あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

あの頃の東浩紀と、90年代人文・サブカルにとってのオウム

amamako.hateblo.jp
前回の記事、なぜか多く注目を集めたようで、はてブTwitterでも多くのコメントをいただきました。

コメントの中には、好意的なものもあれば、否定的なものも多くあって、別にそれ自体はいいのですが、その中で僕が興味を惹いたのは、「この記事の著者はなんでそんなにオウムやナチスにこだわるんだ?」というコメントです。

「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

オウムだのホロコーストだの、自分が絶対悪だと思うもののレッテルを頑張って相手に貼り付けようとしてんなぁという印象

2022/04/11 08:22
b.hatena.ne.jp
「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

ある種の人、アイヒマン持ち出すの好きだよね…/理想を追い求めるのは否定しないけど、その理想こそが踏み潰そうとしているものもあるんじゃないの、という気はする。それを省みないからこそ、分断はより深まる。

2022/04/11 14:01
b.hatena.ne.jp
「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

なんでこういうイデオロギーを戦わせてる人たちってすぐ極論に走るんだろう。「自分の感覚を信じているとサリンを撒く」とか「現実の社会に適応して頑張ることはアイヒマンになること」とか、飛躍しすぎだろうがよ。

2022/04/11 14:10
b.hatena.ne.jp
「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

ホロコースト等大きな言葉に共感は薄いが後半は私の感覚と近い。私の「今ここ」は、やや昔の価値観の人達に合わせた生活で少ししんどい。適応できないのを揶揄するコメも。ポテサラは買えばいいのが私のリベラル。

2022/04/11 16:59
b.hatena.ne.jp

僕みたいに90年代までに、人文知を学んだりオタク・サブカルに親しんだものからすると、オウムや連合赤軍ナチス、その中でも特にオウム真理教」というものが強いトラウマになっていて、全ての論考がそのトラウマを下敷きにしているのは自明のことなんですが、それって今の人にはよく分からないことになってしまっているのだなと、思ったわけです。

「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」という、当時の学者・オタク・サブカルが共通して抱いた恐怖

それこそ30年も前のことになってしまうので、今の人に忘れ去られてしまうのは当然のことなのですが、90年代において 「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」というのは、大学とかで学問を真面目に勉強したり、あるいはオタク・サブカル趣味にはまっていた人たちにとっては、多かれ少なかれ誰しも持っていた恐怖だったわけです。

例えば、オウム真理教秋葉原に「マハーポーシャ」というパソコンショップを持っていて、そこの宣伝は、当時秋葉原に行っていた人なら誰しもが覚えていたわけです。
ja.wikipedia.org
また、オウムは特に高学歴の信者が多かったことが注目されていて、実際僕の大学時代の指導教官*1も、自分の大学時代の同級生にはオウムに入ってしまった人が数多く居たと話されていたわけです。

そのような実際の生活での接点もさることながら、「愛の戦士」「コスモクリーナー」「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」*2
ja.wikipedia.org
など、オウム真理教が使う言葉の多くには、当時の人文やオタク・サブカルなどから借用した言葉が多々あったわけです。そして更に多くの学者は、オウム真理教の教義にも、80年代から90年代にオタク・サブカルで流行った終末論の影響が多くあったと述べています。

そのような点から、当時多くのオタクやサブカル文化人や、そういう趣味にはまっていた人は、「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」ということを言っています。具体的に名前を挙げれば、大槻ケンヂ竹熊健太郎香山リカなどなど。

中には雨宮処凛みたいに、当時オウムに憧れを抱いていたことを告白したら、今のネットで晒されて炎上したなんてこともありました。
tablo.jp

――オウム真理教には入ろうと思いませんでしたか?
「私の入っている(右翼)団体は、会員以外の人によく、オウムに似ていると言われるんですよ。『オウムの信者といってることが同じだ!』っていわれたこともあります。わりとそれには自分でも納得してますけど」
――オウムにはシンパシーはあるんですか?
「ムチャクチャありますよ。サリン事件があったときなんか、入りたかった。『地下鉄サリン、万歳!』とか思いませんでしたか? 私はすごく、歓喜を叫びましたね。『やってくれたぞ!』って」

……「10年以上前のことをいまの常識で批判するのはフェアじゃない」はずなんですが、ここまでくると当時でもアウトだったような気がしてきました!(文◎吉田豪 連載『ボクがこれをRTした理由』)

ちなみに僕も、中学生の頃からブログを書いていたのですが、多くの人から「おまえは一歩間違えばオウムとか過激派とかに入りそう」と言われてきました(今でもそう思われてる?)し、僕自身そういう危惧は常に持っていたからこそ、「過激思想」とか「オカルト」とかを客観的に見られるようになろうと、社会学に進んだわけで*3

サブカルチャー想像力が「オウム真理教」のようなカルト宗教につながるのではないかという危惧は、当時のサブカルチャー作品自体の中にもありました。『機動戦艦ナデシコ』というタイトルはその典型でした。

この作品は、オタクのロボットアニメを真に受けてしまった人たちが、木星に軍事国家を作り地球に侵攻してくるという話なのですが、そこでの木星の人々はまさしくオウム真理教のメタファーだったわけです。

ついでに言うと、この作品の脚本家であり、僕の好きなアニメ関係者では五本の指に入る會川昇氏は、こういう「サブカルチャー的想像力の暴走への危惧」というのを、ライフワークのように描いてきた人で、例えば『シャンバラを征く者』という作品では、原作とは違い、主人公たちが第二次世界大戦前夜のドイツに転生するなんてオリジナルストーリーを展開して、ナチスドイツとオカルトの関係を描いたり

UN-GO』という作品では、プロパガンダソングを歌う女性アイドルグループなんてエピソードを書いたりもしました。

あの頃の東浩紀だって、サブカルチャーと「オウム真理教」に親和性があると主張していた

前回の記事で白饅頭氏が触れていた東浩紀だって、まさに彼の原点である『動物化するポストモダン』で、サブカルチャーの想像力とオウム真理教の親和性について語っているわけです。

そしてその虚構の物語 は、ときに現実の大きな 物語(政治的なイデオロギー) の替わりとして大きな 役割を果たしている。そのもっとも華々しい例が、サブカルチャーの想像力で 教義を固め、 最終的にテロにまで行き着いてしまったオウム真理教の存在である。


東浩紀. 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) (p.45). 講談社. Kindle 版.

前項における『機動戦艦ナデシコ』に対する分析も、まさしくこの本に書いてあって「あ、そうだったよな」と気づいたものです

そして、90年代までのオタク(いわゆる「オタク第2世代」)は、虚構の物語を求めるが故に、テロまで行き着いてしまったのに対し、2000年代以降のオタク(いわゆる「オタク第三世代」)は、そもそもそういう物語ではなくデータベースを求めるよう「動物化」したというのが、『動物化するポストモダン』の主張な訳です。

そしてこの動物化」は、大きな物語を必要としないという意味では、宮台氏が言う「コギャル」と同じであると述べ、さらにこれこそがオウム真理教のような閉塞性を乗り越える道であると述べているわけですね。

オウム真理教徒は前者の代表であり、「ブルセラ少女」は後者の代表である。このような対立のうえで、 宮台は、前者の閉塞性を知的に乗り越えることはおそらく可能だが、「 その 間接性たるや気が遠くなるほどであり、その実効性には疑いを禁じえない」と記し、続けて、「しかし私は、まったく別の道があるかもしれ ないと思っている。 それは、全面的包括要求そのものを放棄するという、決定的な、しかも現に私たちが進みつつある道である」と述べている(注50)。


(略)


記号化され、 匿名化された都市文化のなかで、「ユミとユカの区別もつかない」でまったりと生きている九〇年代のブルセラ少女たちには、もはや世界全体を見渡そうという意志( 全面的包括要求) も、その断念から来る過剰な自意識も存在しない。彼らは有意味化戦略をもたず、物語消費も必要としない。


これはまさに、 筆者がここまでデータベース 消費として論じてきたものと同じ「 道」である。


東浩紀. 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) (p.121-122). 講談社. Kindle 版.

つまり、東氏においても、オウム真理教というのは真剣な恐怖で、「動物化」とは、そういう方向へオタクが行かないための道筋の付け方だったわけですね。

「抵抗としての無反省」が「無反省」に変わる瞬間

ところが、時が経った現在においては、そのような「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」という恐怖はほぼ忘れ去られてしまっている。

僕はこの過程で、「抵抗としての無反省」が、単なる「無反省」へと変わってしまったのではないか?と思う訳です。

「抵抗としての無反省」とは、以前も
amamako.hateblo.jp
という記事で触れたことがあるのですが、北田暁大氏が『嗤う日本のナショナリズム

という本で提唱した概念で、乱暴に要約すると「『暴力を反省しよう』という反省を繰り返すと、結果として暴力(よく言われる「正義の暴走」)を生むのだから、敢えて反省しないようにしよう」という態度のことです。

以前の記事では、1960~70年代の学生運動を例にあげたのですが、実はこれはオウム真理教にもいえることで、「動物化」とか「まったり革命」というのも、(その提唱時点においては)結局は「抵抗としての無反省」のバリエーションだったのだと思うわけです。

そして、「抵抗としての無反省」は、その抵抗という側面が覚えられている限りにおいては、「正義の暴走」と呼ばれるような暴力に対する歯止めとなるのですが、その「抵抗として」という部分が忘れられ単なる「無反省」になると、「暴力を行使して何が悪い」という開き直りにつながっていくわけです。

結局大事なのは、歴史を知り、それを自分たちに置き換えて考えることではないか

僕が、オウムやナチス連合赤軍のような歴史的事件に注目し、「それらを繰り返す方向に動いていないか」と常に注意するのは、まさしくこのような「『無反省』への反省」があるからなんです。

「抵抗としての無反省」も、あくまで「抵抗としての」という契機が忘れられなければ有用なはずなんですが、それが忘れられれば途端に単なる暴力の肯定になる。「抵抗としての無反省」に限らず、あらゆる理論・規範・ライフスタイルというのは、その理論・規範・ライフスタイルが存在している歴史的・社会的背景をもとに、そこでいかに幸福に生きるかを考えるために編み出されたはずな訳で、その歴史的・社会的背景が忘れ去られ、一人歩きし始めた途端、人々を不幸にするのでは無いかと、僕は考える訳です。

だから、歴史や社会に関する人文知を学び、それらを相対化する必要があるのです。

他人の思想を考えるときも、自分の思想を考えるときも、僕が「オウムやナチス連合赤軍のようなものにつながっていかないか」という視座を重要視するのは、そういう理由があるのです。

*1:ちなみに宮台氏ゼミの出身

*2:自分は『新世紀エヴァンゲリオン』から借用されたと思ってたんだけど、実際はむしろこっちの方が先だったり

*3:まあ、普通に考えればミイラ取りがミイラになる可能性の方が高いよなと、今になっては思うけど

「正しさ」と「優しさ」って、やっぱり両方必要だと思う

davitrice.hatenadiary.jp
DavitRice氏はこの文章の出来に納得していないみたいだけど、僕はこの文章とても楽しく読みました。ぶっちゃけ、普段DavitRice氏がお仕事で書いている文章を読むより、こういう文章の方が好きだったり……

なんで僕がこういう文章を好きかというと、僕が倫理学や法学・政治学より社会学が好きからかなーと思ったりします。

社会学という学問は、まさしく、人々が持っている「ふわっとした印象」を、様々な統計や理論を用いて概念として整理し、そこから現代社会を分析する学問なんですね。

そして、今回の文章で問題になっている概念である、「正しさ」、「優しさ」というのも、社会学において結構議論の対象になってきた概念です。

特に「優しさ」については、これまでも

といった論考が発表されてきました。

今回の記事では、そういった論考の中でも、

という本を援用しながら、「正しさ」と「優しさ」について考えていきたいと思います。

「正しさ」と「優しさ」には、重なる部分もある

DavitRice氏は、世の中には「正しさ」こそを求めるべき価値とする「正しい議論」と、「優しさ」こそを求めるべき価値とする「優しい議論」があるとし、そして前者の議論は退屈ではあるが、しかし真に社会に安定をもたらしている議論はこちらである。それに対し「優しい議論」は、疲れている現代人にとって耳障りは良いが、実際に社会を運営する方法論にはなりえない無意味なものだと主張しています。そしてその上で、「正しい議論」こそが重要であり必要なんだと主張しているわけです。

しかし、ここで疑問となるのが、「正しさ」と「優しさ」って、そんなにどちらかを取ればどちらかを排除しなければならないような、排他的な概念なのか?ということです。

DavitRice氏は、記事の冒頭において「感情を制御すること」を「正しさ」の例に挙げ、その正しさによって社会の安全が保たれている例として、「大声で怒鳴る人が頻発しないこと」を挙げます。

 とはいえ、みんなが「正しさ」に従っているからこそ、社会は安全で豊かな場所になっている。

 自分が街を歩いているときのことを考えてみよう。街中でなにかムカついたことがあるときに大声を発せないのは、たしかに不自由であるかもしれない。けれども、街を歩いているときに大声を発する人と遭遇することは、たまにはあるかもしれないが、すれ違う人の数を考慮するときわめて稀である。みんなが些細なきっかけで生じる怒りやムカつきをその場で行動に表出するような街はおそろしく物騒で緊張に充ちた環境になり、誰も住みたいと思わないはずだ。それに比べると、自分を含めたみんなが怒りやムカつきを抑えることのほうが、多少不自由であってもずっとマシである。ほとんどの人はそう考えるはずだ。

しかし、「大声を発しない」という「正しさ」って、むしろ「優しさ」から来るものなのではないでしょうか?

『ほんとはこわい「やさしさ社会」』という本では、「優しさ」の例として、「混んでいる電車で携帯電話を注意しないこと」が挙げられます。

最近ではあまり言わなくなりましたが、昔は混んでいる電車や、シルバーシートの周りでは、携帯電話は電源オフにすることがルールでした。実際、電車内のアナウンスでも、「携帯電話の電源をお切りください」というアナウンスが頻繁に流れたわけです。

しかし実際は、多くの人はそのルールを無視して、普通に電車内で携帯電話をいじっていました。そして、それを注意する人も殆どいなかったわけです。

もし「正しさ」だけを重要視するなら、この状況は明らかに間違いで、携帯電話をいじる人をみたらきちんと周りの人が注意することこそが正しいはずです。

しかしそういう風に多くの人が思えば、生じるのは「電車の中でいきなり大声の口論が頻発する」という、まさしくDavitRice氏が安全と思わないような状況な訳です。

そういう状況を多くの人は避けたいと思うから、人々は「電車の中で携帯いじっていても注意しない」という「優しさ」をもって、混んでいる電車の中の安定を維持しているわけですね。

更に言えば、そういう人はそうやって「他人の行為をむやみにじゃましない」という優しさこそが「正しさ」であり、「混んでいる電車で携帯電話をいじってはいけない」という正さだと考えているわけです。

なぜそうなるか?『ほんとはこわい「やさしさ社会」』の著者である森真一氏は、「人々の社会では、法や契約といった『公式ルール』よりも、優しさに代表されるような、明文化されていないけど誰もが守らないといけないと感じている『非公式ルール』のほうが強く人々の行動を縛っているから」と、考察しているわけです。

みんなが求めるのは「正しい」し「優しい」状況。だけどそれが難しい

このように考えると、「正しさ」と「優しさ」を排他的概念と捉えるのは、あまり社会の実態にそぐわなくて、実際は

  • 「正しくない」し「優しくない」状況
  • 「正しくない」けど「優しい」状況
  • 「正しい」けど「優しくない」状況
  • 「正しい」し「優しい」状況

の4つがあるわけです。

「正しくない」し「優しくない」状況は最悪ですが、しかし社会の状況としてはありえます。例えば今のウクライナの状況なんかはまさしくそういう感じで、最低限の戦時国際法も守られず、虐殺や性暴力が横行しする、 「正しくない」し「優しくない」状況です。これを避けなきゃいけないのは、『メタルギアライジング』の上院議員のような一部の人を除いて、万人が一致するでしょう。

次に「正しくない」けど「優しい」状況、これは、まさしくDavitRice氏が批判するような「優しい議論」が求めるけど、実際に現れることはありえない状況です。

そして「正しい」けど「優しくない」状況。つまり「公式ルール」のみが人々を縛る状況で、DavitRice氏はこれこそ「退屈だけど、社会が選べる最善の状態」とするわけですね。しかし実際は、「混んでいる電車における携帯電話」の例を見れば分かるとおり、言うほど安定した豊かな状態では無いわけです。

だから、多くの人は「正しい」し「優しい」状況を求めるわけです。「正しい議論」と「優しい議論」というのは、そのどちらをより重要視するかという、配分の問題でしかないわけです。

問題は、現代においては「優しさ」が過剰になりすぎていること

ですが現実は、「正しい議論」が、社会の運営方法を示す方法論を示せているのにかかわらず、「優しい議論」は、ただ理想を口にするだけで袋小路にはまっているように見えます。DavitRice氏が「優しい議論」に反発するのも、まさにそれが原因なわけです。

一体なぜ現代において「優しい議論」は袋小路に陥りがちなのか?その背景には、現代社会が「優しさ」の中でも「何もしない優しさ」、『ほんとはこわい「やさしさ社会」』で言う「予防的やさしさ」のみを過剰に重視しているからなのではないか。僕は、『ほんとはこわい「やさしさ社会」』を読んで、そう考えました。

森氏は、やさしさというものには

  • 予防的やさしさ
  • 修復的やさしさ

という、二つの種類のやさしさがあるのではないかと主張します。

そして、その例として、他人に失礼なことをしたときに掛けられる、「謝るぐらいなら最初からするな!」という叱りの言葉を挙げます。失礼なことをそもそもしないこともやさしさですが、失礼なことをしたときに、謝るのもやさしさなわけです。しかし現代の日本社会においては、前者の「予防的やさしさ」こそが真のやさしさとされ、後者の「修復的やさしさ」はあまり重視されていないのではないかと、森氏は主張し、その理由として、「自己というのは一度傷つけられたら修復は出来ない」という、自己の修復可能性への過小評価があると述べるわけです。

そして、そのように「予防的やさしさ」だけがやさしさとされることによって起きる弊害として、「人々がどんどん消極的に何も出来なくなってしまう」という例を挙げます。

例えば、「電車やバスで老人が立っていても、席を譲らないことこそやさしさ」だと考える人がいます。つまり、自分が老人だと思う人に席をゆずっても、もしかしたらその人は自分を老人だと思っておらず、「老人扱いするなんて!」と怒るかもしれない。だったら、最初から何もしないことこそが「やさしさ」なのではないかと、そう考えるわけです。

つまり、「予防的やさしさ」というのはあくまで「しない」ことを目指す倫理であり、そのため具体的に社会を維持したり更新していく力になりにくいのです。

「予防的やさしさ」のみを重要視することこそが、表現の自由に関する議論を袋小路に追い込んでいる

ちなみに僕は上記の論考を読んで、昨今の「表現の自由」に関する議論を連想しました。

昨今の「表現の自由」に関する議論では、表現を批判する側は、表現の自由があるといえど、他人を傷つける表現はそもそも表現すべきではないと主張します。それに対して、表現を擁護する側は、表現はそんな表現でも自由であり、ある表現に対する批判によって、その表現者が謝罪に追い込まれたり、表現を改変することがあってはいけないと主張します。

これ、実はどっちも「予防的やさしさ」に基づく考え方なんですね。つまり、表現を批判する人は、一度表現によって傷つけられれば、どんなことをしてもその傷が癒えることはないと思っているから、最初から人を傷つける表現をするなと主張する。一方で、表現を擁護する側は、謝罪や修正というのは、表現者に癒えることのない傷を与えるから、絶対にすべきではないと主張する。そして、どっちも「しない」ことを主張するが故に、議論は袋小路に陥るわけです。

この袋小路を解きほぐすには、「予防的やさしさ」ではない「修復的やさしさ」を導入することが実は重要なんです。最初から完璧に適切な表現をすることを求めるのでは無く、表現をした後に、それを謝罪し修正しろと、表現を批判する側は要求する。そして表現を擁護する側も、その声を聞いて、その声が妥当と思うなら謝罪し修正する。このように「何をしてはいけないのか」ではなく「何をするべきなのか」という方向に議論をすれば、より建設的な議論が出来るようになると、思うわけです。

重要なのは「優しさ」を否定することではなく、優しさにも色々な種類があることに気づくこと

ここで誤解して欲しくないのは、「予防的やさしさ」を完全否定して、「修復的やさしさ」だけあればいいとは、森氏も僕も主張していないことです。

自己に関する傷は、多くの場合修復できますが、しかし修復できないほど深い傷もあります。差別に基づくヘイトスピーチや、明確に誰かを侮辱する表現というものは、そういう深い傷を残しますし、そのような表現は、そもそもしてはいけないでしょう。そこにおいては、まさしく「予防的やさしさ」こそが重要になるわけです。

僕がここで主張したいのは、「優しさ」という概念を、ただ肯定したり、その反対に一概に否定するのでは無く、その内実をしっかり見ていく必要性です。「優しさ」が実現する社会なんて夢物語だとDavitRice氏は言いますが、実際は「優しさ」によってて今ある社会が回っている部分も多々あるし、そうである以上、「正しさ」だけでなく「優しさ」によって世の中を変える場面だって多々あるはずだと、僕は思うのです。

そういう、より精緻になされた「優しい議論」なら、DavitRice氏もイライラしんばいんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?

「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある

note.com
plagmaticjam.hatenablog.com
人がどういう風に学問や思想を学んできたかということを読むのは好きなので、1000円払って白饅頭氏の記事を読み、その後plagmaticjam氏の記事を読みました。

白饅頭氏の記事の要約

まず、白饅頭氏の記事を要約すると次のような内容になります。

  • 最近、経営者やそれなりの役職に就いている人と話すことが多いのだが、彼らは異口同音に「昔は自分もリベラル派に親しみがあったが、今はそうではない」と言う
  • 有名な哲学者である東浩紀氏も同じように言う
  • 社会的責任を持つと、リベラル派の言説というのは、現実から遊離した物に感じるのだ

 「自分で金を稼ぎ、社員を食わせ、顧客に価値を感じてもらう」という、俗世シャバの泥臭い営みのしんどさと尊さを知った東浩紀さんが、公金をジャブジャブつぎ込まれ、なおかつ子ども(の親)からの高い学費を受け取りながら「反権力」をやる人文アカデミアの人びとの、二重三重の意味で浮世離れした社会感覚に嫌気というか、ある種の「白け」を感じてしまっても無理はないだろう。

  • リベラル派は実際は権力の側にいるのに、反権力を気取って、その権力にふさわしいふるまいや責任を取ることから逃げている
  • リベラル派の論は、自分で社会の理不尽を経験せず、稼ぐ苦労もしらない「無責任」な立場だから言えるものなのだ

 大学を出た若者たちのほとんどは、仕事をしながら「社会」の厳しさを知ることになる。苦労も理不尽もたくさん味わう。だがそうしているうちに、年齢では年下だが、大学の先生方よりもずっと「大人」になっていく。かれらが威勢よく展開してきた論は、自分で食っていく、自分で稼いでいくことを知らない、まさしく「無責任」な立場だからこそ言えたのだと気づくようになる。

  • そしてそういうリベラル派に感化された若者は、実社会に適応できず、社会で何も為せない。
  • 自分が論を寄稿した雑誌を買うなと言う北守氏も、同じようにそういう社会で生きる人々の苦労を無視していている。

一般的な社会通念においてはまず絶対にありえないことだ。会社員がそんなことをしでかせば、普通にクビになってしまうだろう。少なくとも、まともなメンバーとして見なされることはない。ところが、人文アカデミアにおいてはそれが平然とまかり通ってしまう(「キャンセル・カルチャー」を特集するにあたり、その実例を前もって例示するハイコンテクストな販促パフォーマンスの可能性もあるが、おそらくは「真顔」だろう)。


(中略)


 出版社を経営し、雑誌ひとつ手掛けるのにも多くの人の労力があり、生活がかかっている。かれらの語る「正義」には、いつもそのような観点が欠落している。意図的にそうしているのではなくて、かれらは本当にそのようなレイヤーにある「名もなき人間の生活のリアル」を想像することができなくなっているのだ。

(ここは他者に対する批判だから、下手に要約して意図をねじ曲げるのは危険なことなので、長くなるが引用する)

  • 実社会に生きていれば、自分の考えを曲げなければならないことも多々あり、それが現実を生きるということだが、リベラル派はそれができない
  • 大衆はそういうリベラル派に愛想を尽かしているが故に、「常識」や「伝統」が再評価され復権しているのだ
  • 私は単純な知力や学力ではそういうリベラル派に及ばないが、大衆感覚を身につけているという点で、彼らより優れており、だから寄稿依頼や出演依頼がひっきりなしに来る


そして、そのような白饅頭氏の記事を受けて、plagmaticjam氏は、そのような感覚を白饅頭氏が持つようになった背景には、「自由であれ」と「社会に適応しろ」という、矛盾する二つの要求に挟まれた「狭間の世代」だったからという経緯があるのではないかと述べているわけです*1

白饅頭氏の記事を読んで覚えた既視感

読んだ最初の印象を語ると、「うわぁ、社二病だぁ」というものです。
bizspa.jp

同率3位:「社会ってそういうもんだよ」と酸いも甘いも知っている感を出す(18人)

 入社数年目では、まだまだ知らないことも多いはずですが、「自分はいろいろ知っています」と言った雰囲気を醸そうとするようです。

「社会の何を知っているのか実際の体験をもとに話してほしい」(28歳・男性・東京)

「社会の良し悪しを知っているし、それを受け入れられる自分カッコいいと思っていそう」(25歳・男性・東京)

 大した苦労もしていない人が語る「社会ってそういうもんだよ」が後輩に響くはずないですよね。

ただ、馬鹿にできないのが、こういった社二病的心性こそが、1990年代から2000年代において、新しい歴史教科書を作る会に代表されるような新保守主義の流れを生み出してきたともいえるからです。

「現場の感覚を信じる」ことこそが、カルト化を生み出した

『脱正義論』という本があります。小林よしのりが1996年に出版した本なのですが

白饅頭氏が述べたようなリベラル批判は、まんまこの本にも書かれているわけです。

曰く、リベラルは上から偉そうなことを言ってるだけの人間だが、実際に社会を運営し改善しているのは、市井に生きる大衆のプロフェッショナリズムである。若者たちよ、運動なんかやめて日常に帰れ!と、主張するわけ。まんま同じですね。

そして、そのようなことを主張する源流となったのが、1990年代に出版された『80年代の正体』という本に代表される、80年代のニューアカ・消費社会批判なんですね。

浅羽通明大月隆寛といった、『脱正義論』にも寄稿し、編集にも関わった人たちが論を述べているこの本は、80年代の、浅田彰中沢新一に代表されるようなニューアカや、上野千鶴子や新人類三人組(中森明夫野々村文宏田口賢司)に代表されるような消費社会擁護言説に対し、「大衆の身体感覚を無視している」と批判し、言葉や情報ではない自らの感覚こそを信用しろと主張したわけです。

そして、これら批判は一面では正しかったです。例えば、「フェニミズムは何も答えてくれなかった」という『物語の海 揺れる島』という本に掲載されているルポタージュがあるんですが、この本では、上野千鶴子のような消費社会擁護のフェミニズムに感化された高学歴の女性が、しかしそのような思想と、自らの女性としての身体に矛盾を感じるようになるという過程が記されています。

でも、じゃあそういう風に、言葉や情報と、自分の感覚に矛盾を感じるような女性がどこに向かったかといえば、オウム真理教だったわけです。

そして、それと同じように、『脱正義論』で日常に返ったはずの小林よしのりや、その信者であるコヴァ信*2は、やがて『戦争論

を経て、「新しい歴史教科書を作る会」のような新保守主義運動にのめりこんでいくわけです。

一体、自分の日常における感覚を信じる人々が、なぜそのようなカルト宗教や新保守主義運動にのめり込んでいったは、1990年代から2000年代の社会学現代思想における大問題で、下記のような様々な研究・分析が行われました。*3

それらの議論には、様々な違いがあるのですが、しかし共通して述べられているのが「『社会』というものが分断されつつあり、その中で『何が正しいか』ということも分断されつつある」という見解です。

高度経済成長期までの日本においては、会社に正規雇用されてきちんと働くことと、社会や日本という国全体を幸福にすることがイコールでした。白饅頭氏の記事や、浅羽通明大月隆寛と言った人々が「市井に生きる大衆のプロフェッショナリズム」を賞賛するのも、基本的にそういう人たちが仕事を頑張れば、それこそが社会や国家をよくすることにつながるという社会観があるからなわけです。

ところが、バブルが生まれ、そしてはじける中で、日本経済全体が均衡・縮小していくと、「新しく富を生み出す」のではなく「他人の富を奪う」ゼロサムゲームこそが、仕事の大部分を占めるようになるわけですね。

例えばハゲタカファンドで働く人。彼らは、彼らの職業倫理に従ってがむしゃらに働くわけですが、しかしそうやって一生懸命に働いて、様々な企業をディスカウントし「買い叩く」ことは、むしろ不幸を生み出していくわけです。

あるいは「地方おこし」。一見「自分たちが生きる地方に観光客や移住者を募る」ということは、立派な社会貢献に思えますが、しかし当然の帰結として、ある地方が地方おこしに成功して移住者や観光客が多くなれば、その分他の地方に向かう移住者や観光客は減るわけで、結局同じパイを奪い合って自分たちに利益誘導しているだけなわけです。

しかし、言葉や情報を無視して、自分の「感覚」だけを信じていると、こういう現実は見えてきません。その結果として、自分の半径数十メートルに閉じこもり、その外からの声を聴かない蛸壺ができあがってしまうわけです。

そして、それこそがまさに、カルト宗教や新保守主義運動に人々がのめり込む理由なのです。

オウム真理教において人々がサリンが撒いたのは、自分たちの閉じた集団の中ではそれこそが本当に、来るべき終末から世界を救うすることにつながっていたからです。新保守主義運動において「歴史戦」や「排外主義」に人々がのめり込むのも、彼ら集団の内部ではそれこそが本気で日本を守るために必要なことで、それをしなければ日本は滅ぼされてしまうという危機感があるからなんですね。

「自分の感覚だけを信じる」人だからこそ、サリンを撒けてしまう

彼らは、外から見れば確かに、現実から遊離した言葉の世界に閉じこもっているように見えるかもしれません。しかし彼らは彼らなりに、自らの「感覚」に忠実になっているからこそ、サリンを撒いたり、在日外国人に罵声を浴びせかけたりしているわけです。

ここら辺の当事者経験を、著書に記しているのが、今はすっかりリベラル知識人となった雨宮処凛氏だったりします。

もう知らない人の方が多いかもしれませんが、彼女は最初「ミニスカ右翼」として登場して、一水会というゴリゴリの新右翼団体にいたわけです。

彼女は、イジメといった、現実における苦しみを沢山味わったからこそ、全然右翼の思想の内実とか知らないまま、「感覚」に従って右翼活動に踏み出していったとこの本で述べています。その点で言えば、知識無き身体感覚の称揚がどんな結果を生むか、体現していたと言えるでしょう。

このような流れを知っていると、白饅頭氏の記事を読んでも、特に新しい気づきがあるわけではなく、「ああ、1990年代から2000年代にあったあの流れを繰り返そうとしているのね」としか思えなかったりするわけです。

白饅頭氏やplagmaticjam氏には、是非これらの研究をきちんと学んで、彼らが陥った隘路に至らない道筋、1990年代から2000年代に間違った彼らと自分たちが、何が違うのかを、見つけて欲しいですね。

人文リベラルに対してのイメージと実像

ところで、白饅頭氏は北守氏に代表されるような人文リベラルに対して「現実を知らない余裕ある象牙のある塔から口出す裕福な人々」というイメージを持っていますが、これって本当なのでしょうか?

僕は、北守氏を含めて、リベラル的だったり左翼的思想を持つ人たちと、現実で十数人程度出会ったりしているのですが、かれらのなかで、中流以上の安定した職業を持つ人って、2人ぐらいしか知らないわけです。問題の北守氏だって、そんな安定した身分ではない。

大体は、大学院で奨学金という借金を積み重ねながら研究していたり、非正規雇用で食いつないでいたりしながら、合間を縫って勉強したりデモに参加したりしているわけです。*4

「現実の厳しさを知る」ということで言えば、キツいバイトをしたり貧困生活を送る中で、むしろ彼らこそ「現実の厳しさを知っている」と言えるでしょう。

「今ここの社会」を全てと思うことが、ホロコーストを引き起こす

にもかかわらず、彼らは「今生きている社会」にただ適応するのでは無く、それぞれ社会に批判的な意見を持っていたり、「理想の社会」を追い求めていたりする。一体なぜか?

簡単に言えば、「今の社会のありようを肯定すること」が、必ずしも人を幸せにしないということや、今の社会とは違う社会のありようもあるということを、知っているからです。

白饅頭氏は「現実の社会の中で、おのおのの持ち場に割り当てられた仕事をきちんとやる」ことこそ重要と言います。

しかし実は、そのように社会システムに対し順応するために頑張ることこそが、ナチスドイツのホロコーストや、旧ソ連の大粛清のような虐殺を引き起こしたと言うことが、まさしく人文知が教えてくれることなのですね。

toyokeizai.net
アイヒマンという官僚は、まさしく白饅頭氏や、彼が仕事で付き合う経営者・管理者のように、「自らの仕事を頑張ることこそ、自分がやるべきことだ」という信条を持った人間でした。しかし、彼の場合、その仕事は、まさしくユダヤ人や様々なマイノリティを効率よく虐殺することだったわけです。

人文知なき「現場感覚」賞賛の行き着く先は、まさにこれなのです。

彼らが理想論を貫けるのは「今ここ」が全てではないということを知っているから

そのような悲劇を繰り返さないためにも。人文リベラルは、むしろ現実の社会に対し批判的となり、そうではない「新しい社会のあり方」を模索しているのです。

例えば、「人文リベラル」の代表格であり、白饅頭氏のような人が忌み嫌う社会学は、今の社会を「前近代」や「(初期)近代」と対比し「後期近代社会」と呼びます。

つまり、今ある社会というのは、たまたま今という時代状況に生まれたありようであり、決して永遠不変のものも唯一無二の者でもないわけというのが、社会学という学問の基本認識なんですね。

先日逝去した見田宗介という社会学者は、真木悠介という筆名で、『時間の比較社会学』という本を出していますが

社会学者にとっては「時間」という概念ですら、時代・場所が違えば異なるという認識なのです。

(しかし昨今は、見田宗介氏のように、社会調査の一方で、巨視的に社会を捉え、その二つを結びつけるのでは無く、コマゴマとして計量調査だけやる社会学者の方がむしろ多かったりするんですがね。そんな中で見田宗介氏のような人がなくなったのは本当に惜しい。ご冥福をお祈りします)

あるいは、「経験」「感覚」という面に着目すれば、現代の「仕事を頑張って、その日暮らしではない、きちんとまともな職業につく人こそ偉い」という感覚すら、実は特殊なものだったりすることが、下記のような社会学文化人類学の調査で明らかになるわけです。

文化人類学社会学の人文知は、まさしくフィールドワークによって人々の「現場」に直に赴き、仕事や生活を体験したりするわけですが、しかしそうやって調査をすればするほど、「今の日本社会」を相対化する視座を得ていくわけです。

そして、僕を含めた人文リベラルや、自身でこういう研究をしたり、研究書を読むことによって、「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知っているわけです。

白饅頭氏や、彼が付き合う経営者・管理者は「今ここの社会の厳しさ」を、人文リベラルが知らないと言いますが、人文リベラルの多くは、プレカリアートと呼ばれるような不安定な身分なわけで、「今ここの社会の厳しさ」は十分知っているわけです。

しかし一方で、それが世界の全てではないことを知っている。だから、それに縛られない。それだけなのです。

「今自分が生きる現実」が全てと思わないために、人文知やサブカルチャー、インターネットはある

plagmaticjam氏は、自分や白饅頭のような人が、失われた30年を生きる厳しい状況の中で、社会適応の重要性を知った「狭間の世代」だと言います。

しかし、一応僕も1987年に生まれ、失われた30年に成人した人間ですが、「社会適応」なんてクソ食らえと思っています

ロスジェネの人たちはよく「自分たちが自己責任信者になったのは、社会がそれを強いてきただからだ!」と言います。それは一面では確かに事実なのですが、しかし僕や、僕以外にも、失われた30年を生きる人たちにも、そういう「社会適応なんてクソ食らえ」と思うことができる人は数多く居ます。

例えば、先日『NEEDY GIRL OVERDOSE』という大ヒットゲームを生み出したにゃるら氏、彼は、エッセイの中で述べられているとおり、親と対立したり、大学を中退して引きこもったりと、かなり厳しい人生を経験してきました。

しかし彼は、むしろ社会に適応しないのも「あり」だと言うわけです。

その背景にあるのは、彼が人生の中で体験してきた、幾多のアニメ・マンガ・ゲームや、その他サブカルチャーです。

文化というものは、まさしく人文知と同じように「今ここの現実」が全てではないということを教えてくれます。しかも人文知と違い、楽しくそれが学べるわけです。

また、僕は最近VTuberという存在にはまっているのですが、VTuberの多くは、自らを「社会不適合者」と自嘲し、「VTuberにならなきゃただのダメ人間」と言ったりします。実際、遅刻常習犯だったり、コンプラ無視の配信を繰り広げる彼・彼女らは、現実社会ではまともに生きていけないでしょう。

ですが、そんな彼・彼女だからこそ、その配信は無茶苦茶面白いわけです。少なくとも、どっかの動画サイトで偉そうな経営者の人生訓を聞くよりずっと。

ここでは、「インターネット」を現実社会と切り離した場として活用することにより、「現実社会でダメ人間でもインターネットで輝ければいいじゃん」と思えているわけです。

今という時代ほど、様々なサブカルチャーに触れることができる高度な情報社会はないわけで、そして多くの若者はそれを利用して、「今自分が生きる現実」が全てではないことに気づいている。

そういう彼らを見ると、「社会が悪いから自分がこうなったんだ」と愚痴る、ロスジェネや白饅頭氏・plagmaticjam氏のような存在は、どうも「現実社会の厳しさ」に甘えているようにしか見えないのですね。

白饅頭氏・plagmaticjam氏のような人こそ、本気で人文知を勉強したり、あるいは病的なまでにサブカルチャーやインターネット文化のめり込むべきなんじゃないかと、僕は思うわけです。

追記(2022年4月12日 1:57)

「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

この記事の前半の内容はまんま『ゼロ年代の想像力』に書かれていることで、そのことを知らないはずのない筆者が、参考文献としてまったく触れていないのは知的誠実さを欠くのではと思った…

2022/04/11 17:59
b.hatena.ne.jp
この指摘は全くそのとおりで、呉智英浅羽通明大月隆寛あたりのサブカル保守の思想が、いかに1990年代においてメルクマールとなったか。そして、その思想が隘路に陥ったかという話は、ほぼ宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』と北田暁大氏の『嗤う日本のナショナリズム』から学んだ話になります。それを書かなかったのは本当に知的誠実さにかける。申し訳ない。

言い訳になってない言い訳をさせてもらうと、このお二方の著作は、ほんと僕の血肉になりすぎているもので、この記事に限らず、僕が書く文章は多かれ少なかれお二方の影響下にあるんですね。それぐらい当たり前にありすぎるから、出典をついつい入れ忘れちゃうわけです。いやぁ本当に申し訳ない……

お詫びとして、特に『ゼロ年代の想像力』とかについてはまた改めて、この2022年から『ゼロ年代の想像力』を読むという記事を書きたいんだけど、それはそれとして、みんなもっと宇野氏の著作には注目したほうが良いと思うんだよな。東氏の論って、美少女ゲームとかの、たしかにはてなとかとは親和性を持つけど、結局狭い範囲の文化・クラスタを対象にしたものだったけど、宇野氏の著作はそれよりずっと射程が広かったし、より「はてなに親しむような私たち」を相対化してくれるものだったわけで。読んで気づきを得られるのは、圧倒的に東氏より宇野氏の本の方なわけでさ*5

*1:plagmaticjam氏の記事は、無料で公開されているので、ちゃんと知りたい人は自分で読んでください

*2:小林よしのり信者」を少々揶揄的に呼称するネットスラング

*3:まさしく僕が社会学を専攻した大学生・院生時代の研究テーマもここら辺だったわけです

*4:僕自身、正規雇用には就いていませんし、有利子奨学金の返済が数百万程度残っています。

*5:ぶっちゃけ東氏の議論って、今も昔も「俺たち時代の最先端ですごいよな」でしかないんだよな。昔は「俺たち」が美少女ゲーマーで、今は白饅頭のような人になってるだけで

「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」を相手にしなきゃならない現代


どーもドラえもんという作品は、こういう風に、作品の意図を無視して一コマだけ切り取られることが多くて、他にも
みたいに指摘される曲解切り取りがなされることがあったりして、藤子・F・不二雄ファンとしてはほんと忸怩たる重いがあるわけですが。

でもまあ、これら切り取りって言うのは、それこそboketeでドラえもんが数多くネタにされるように
bokete.jp
「作中では別にそんな変な意味ではないものの一部を切り取り、そこに別の面白みを見いだす」という、『VOW
www.1101.com
に代表されるようなサブカル的面白がり方なわけで、そういうサブカル的な面白がり方自体の是非はともかくとしても、「分かっていながら敢えてやっている」ことなんだろうなと、思っていたんわけです。

しかし、↓の記事に対するはてブの反応を見ていると、どうやらそれは、人々のリテラシーを過大評価していたのかなと、思ったりしました。
lastline.hatenablog.com
この記事、結論自体に賛成するか反対するかはともかく、マンガの読み解きとしては至極まっとうなことしか言ってないわけです。

ところが、はてブではこんなコメントが付く始末で

ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

何これ?あれだ、AV女優が服を着るとエロいと感じる人と同じ感性だ。恐ろしいよな、自論を述べると性癖が漏れるという。ちなみに、悪い事とは思いません。

2022/04/08 19:37
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

巨乳がえっちだからダメなら、リアルの巨乳の人は街歩くなっていいたいんですか??

2022/04/09 15:04
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

巨乳はわいせつという説

2022/04/09 15:09
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

「スカート丈や胸の大きさからえっちだと主張」←現実に胸が大きくスカート丈を短く加工してる女子高生が大勢実在するが、その女子高生達も「ちゃんと見て!えっちでしょ」「えっちだと認めないのはカマトト」て事か

2022/04/09 15:35
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

AV女優さんが女優に転身して、おっぱいが売りだけど真面目なコンテンツも批判できる論法やね。クソだなぁ。否定し、批判する。

2022/04/09 17:06
b.hatena.ne.jp
まあ、「マンガを読み解く」というリテラシーとは無縁そうな人たちのコメントがゾロゾロと出てくるわけです。

今回の騒動では「オタクv.s.ツイフェミ」というような対立構図が、多く描かれていますが、僕としてはそれよりむしろ、上記のようなコメントに代表される
「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」と「マンガを読み解くリテラシーをきちんと持つ人たち」という分断こそが、真に深刻な問題なんじゃないかと、思う訳です。

日本のマンガは、それを読み解くのに高度なリテラシーが必要。なのに日本人の多くは子どもの頃からマンガを読む力をきちんと身につけている、スゴイ!なんてことはよく言われるわけですが
sanpogarden.hatenablog.com
実際は「日本人でさえ、日本のマンガをきちんと読み解けているのはごく一部なのかもしれない」わけです。

で、そういう人たちが、それこそ藤子・F・不二雄氏の描く漫画のような、複雑で両義的な意味を持つマンガ表現に接すると、その両義性を理解できずに、1コマでだけ見て短絡的なプロパガンダとしてマンガの意味を誤解するわけです。

多くの「マンガの表現」の是非に関する論争は、肯定派も否定派も、短絡的なプロパガンダとしてしか、当該のマンガを読めていないと言うことが多々あるわけです。そしてそうなれば当然、「プロパガンダ規制」という文脈から、マンガの表現規制のような議論も出てきてしまう。

これこそ真の意味での「表現の自由の危機」だと僕は思うんですがね。

ではこういう危機に、大衆全体に向けて表現をする表現者はどう対応するか?僕は、二重戦略しかないのかなと、考えたりしています。
つまり、「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」向けには、コマ単体で見て理解できる、単純で、かつ無味無臭なメッセージを、デコイとして用意しておく訳です。そのデコイによって、規制をかいくぐる。
そして、そういったデコイの裏に、「マンガを読み解くリテラシーをきちんと持つ人たち」だけがきちんと分かる、複雑で、その表現者独自のものであるメッセージを込めるわけです。

日本は諸外国と比べて文化資本が享受しやすい国だから「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」なんて存在しないだろ、という幻想を持ち得た時代なら、こんな複雑なことをしなくても済んだわけで、日本における「表現の自由」に関する議論の多くは、この程度の最低限のリテラシーが国民に備わっていることを前提にしていたのですが、もはやそういう幻想は持ち得ないわけで……

(まあ僕は、ぶっちゃけそんな○○どもの相手をするのはダルくて仕方ないだから、「分からない人」は無視して、「分かる人」だけを相手にしますがね。)

問題は「広告表現」への責任を背負う覚悟が誰にも無いこと

www.huffingtonpost.jp
記事の内容について、

「『見たくない表現』というけど、広告全体が既にほとんどの人にとって見たくない表現だよな」

とか

「『広告のジェンダー平等』とかいかにも電博あたりが考えそうなお題目」

とか

「『こういう女の子はエッチだな』と『こういう女の子は痴漢して良い』の間には壁があって、その壁こそ重要なんじゃないの??」

とか色々考えながらスマートフォンで記事を読んでたんですが、記事の途中で以下の様な広告が挟まりまして
f:id:amamako:20220409102149j:plain
大爆笑して考えたこと全て吹っ飛びました。

何が広告として出稿されるか、全く気にしない人々

でも、ある意味このスクショこそが今回の騒動の本質を捉えてると思うんですね。

つまり、大手新聞やテレビ・ラジオ、またそれらに関係する人々が運営しているメディアにおいて、「一体自分たちのメディアにどんな広告が載せられているか」気にしている人なんて誰もいないんですよ。一応社会の木鐸たる姿勢は見せなきゃいけませんから、建前として「広告のジェンダー平等化」とか言いますが、それが実際に現場で守られているかなんてしったこっちゃないし、それを批判する側ですら、実際に載っている広告を見ればそんなこと気にしてないことが明白なわけです。

そしてその結果、広告は倫理もなにもない闘争の場になる。その闘争の場で何が争われるかと言えば、まさしく前回の記事で述べた「価値観同士の文化闘争」なわけです。
amamako.hateblo.jp

広告に携わる人々が、飯の種にこういう「闘争」を見て見ぬふりしてきた結果がこれだ

そして、更にその「文化闘争」をどうしようもないものにしているのが、広告に携わる人たち自身が、それを見て見ぬふりしているということです。

前回の記事に対し、広告肯定派・否定派双方から色々なコメントがありました。まあそれ自体はいいことです。ブルデューの『ディスタンクシオン

に結びつけたコメントもあったりして、「コメント欄には聡明な人も居るんだなぁ」と膝を打ったりもしました。

しかし中には、以下の様に「こいつら一体何言ってんだ?なんでそれで前回の記事を論破できたとか思えるんだ?」と思うコメントもありました。

「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について - あままこのブログ

「購買行動に(直接的に)繋がらない広告」は、わりとありふれていますよ。たとえば道頓堀のグリコを見て買いたくなる人が何人いるか?みたいな話。「PR」や「広報」についての書籍をいくつか読むといいと思います😊

2022/04/07 14:50
b.hatena.ne.jp
「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について - あままこのブログ

まずはAIDMA、AISASから勉強しようか。

2022/04/07 23:14
b.hatena.ne.jp
通常の理解力があれば言うまでも無いことですが、前回の記事は、そういう通常の広告の機能を理解した上で、しかしそれでは、今回の広告そのものや、それへのバッシングは説明できないから、通常のマーケティング理論では説明しない、「隠された機能(社会学で言う「逆機能」)」があるのではないかということを述べ、その隠された機能を「示威的広告」という概念で説明しているわけです。

しかし、なぜかid:Rootportid:fujiday1975のような輩は、広告のマーケティング理論を知っているにもかかわらず、その程度の理解もできない。一体なぜなのか?

はっきりと言いましょう。それを理解し、認めてしまうと、彼らの仕事に必須不可欠な嘘が明らかになってしまうからです。

例えばAIDMAやAISAS、これらの言葉は以下の様な意味です。

AIDMA
  • Attention(注意)
  • Interest(関心)
  • Desire(欲求)
  • Memory(記憶)
  • Action(行動)
AISAS
  • Attention(注意)
  • Interest(関心)
  • Search(検索)
  • Action(購買)
  • Share(情報共有)

今回の広告を上の図式に当てはめようとすると、AかIぐらいでしょう。しかしこれは明らかに無理があります。実際は、広告を見た時点で、あの広告を支持する価値観を持った人は一気にD、広告用語を行動や情報共有と考えればActionやShareまで行ってますし、また逆に広告に反対する人たちは、逆の気持ちでDや、A・Sまで行っているわけです。

あるいはもっと極端に例えて、「糞尿」についての広告を考えましょう。id:Rootportid:fujibay1975みたいなことを言う、横文字大好きの広告マンが「今回の広告は、糞尿をほしがる欲求までもっていくものではなく、あくまで糞尿に対する認知を促すものです」とか行って糞尿の写真を新聞の一面広告に出稿したとします。そのときそれを見た人が認知の段階で止まりますか?スカトロ趣味以外のほとんどの人が嫌悪感を抱くところまでいくでしょう。

つまり、社会的にその存在に対する価値観が割れているものに対して認知広告をしたって、その効果が「認知」にとどまるわけがないんです。そして更に言えば、賢いマーケティング専門家が、そのことに気づかないわけもない

にもかかわらずid:Rootportid:fujiday1975のような輩は、この騒動に対し全く無力なマーケティング理論を、まるで銀の弾丸のように振りかざす。なぜそうなるかといえば、そのようなAIDMAやAISASというような言葉で語れる要素以外の要素が広告にはあると認めてしまうと、彼らのおまんまの食い上げになるからです。

その要素とは何か?それはイデオロギーです。

AIDMAやAISASは、基本的にある前提の元に成り立っています。それは、その広告を求めるひとがイデオロギー的に無色透明であり、また、紹介されるものもイデオロギー的に無色透明なものであるという前提です。だから、広告を見た人は、その広告されたものに対して素朴に「認知」の段階で留まるわけです。

ところが実際は、イデオロギー的に無色透明なヒト・モノなんてどこにもありません。つまり、上記のような環境は実際にはあり得ない、虚構の状況設定なわけです。
ところが、現代の広告システムというのは、その虚構の状況設定によってなりたっているわけです。

つまり、「どんなものを紹介する広告でも、それが認知の段階で留まっているのなら、それは中立性を持つものだから、自由にメディアに載せて良い」という嘘を正当化する道具として、AIDMAやAISASのような理論が金貨百条のように扱われているのです。

そして、そういう嘘にまみれているからこそ、広告屋は戦争や人道危機でさえ「広告」の対象にできるのです。

戦争を売り込む広告代理店の連中はこう言います。

「私たちは、一方の民族が差別やジェノサイドを行ったかもしれないという情報を『認知』させただけ。それでどう思うかは人々次第」と。

これがいかに詭弁であるかは、もはや言うまでも無いでしょう。

そしてだれも「広告表現」に責任を負わない、そのことにこそ人々は失望している

そして、そのように「認知を促しただけ」という言い訳が、出稿する代理店と、出稿されるメディア双方に共有された結果、例え広告表現が、イデオロギー的な偏りによって誰かを傷つけても、誰も責任を取ろうとしない、そういう無責任の体系をつくり上げているのです。

ここでいう「責任を取る」とは、広告を取り下げたり修正するということだけではありません。もし、広告主やメディアが本気で広告に対し責任を持ち、しかもその広告表現のメッセージが正しいと思うなら、批判に屈せず断固として広告を表現し続けるというのも選択肢でしょう。以前LOFTの広告が炎上したとき、僕はそういう態度を望みました。
amamako.hateblo.jp
ところが実際は、何の責任感もないから、誰かを傷つけるかもしれない広告を安易に発表し、何の責任感もないから抗議を受けたら安易に取り下げる訳です。その結果、人々は広告と、更に言えば広告を載せているメディアに対し信頼を喪失するのです。彼らには「広告はあくまで認知を促すものなら政治的に中立」なんていう、id:Rootportid:fujiday1975が示すような広告ムラの内輪の論理は通用しませんから。

言いたいことは一つ、「広告」も含めてメディアは自分の表現に責任を持て

「広告のジェンダー平等化」なんて、いかにも電博が思いつきそうな戯れ言ですが、しかし実際は、どのジェンダーにも平等な表現なんてものはあり得ません。何かを表現しようとすれば、かならずそれはどれかのジェンダーに味方し、逆にどれかのジェンダーに敵対するものなのです。

そうである以上、「広告の表現に責任を取る」とは、どのジェンダーにも平等なものを目指すなんてことではなく、自分たちの表現がどのジェンダーに味方するものかをきちんと自覚し、確信犯となることなはずです。今まで虐げられてきた女性に味方するか、敢えて今過剰に叩かれる男性に味方するか、あるいはどちらにも無視されるトランスジェンダーに味方するか……どれを選ぶにせよ、それは、その選択されたものに反発する人たちの嫌悪を真正面から受け止めるということでもあるわけです。

それができないメディアは、日経のような既存メディアだろうが、あるいはハフポストのような新興のWebメディアだろうが、人々から信頼されることはないでしょう。

「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について

natalie.mu
arrow1953.hatenablog.com
色々と論争が繰り広げられていますが、そこからは割と離れて。

上記の広告を見たときにまず疑問に思うのが、「これでこのマンガ買おうと思う人が居るのだろうか?」ということです。

普通、広告というのは消費者に何か消費行動を起こしてもらうためにあるもので、例えばTwitterの広告なんかは、続きが気になるコマだけ敢えて見せることにより「この続きどうなるんだろう」という興味を惹き、それによって閲覧者に、マンガを買わせるなり、マンガが読めるアプリをインストールさせるなりしている。

しかし、この新聞広告を見て「『月曜日のたわわ』読んでみたくなったなー」と思う人が居るのでしょうか?というか、本を買わせるという目的のために広告を出稿するなら、もっと閲覧者のアテンションを惹く広告を制作すると思うんですね。

では、閲覧者に消費行動を促すためにあるんじゃないとしたら、この新聞広告は、一体何のために出されたのか?

答えは「一般社会に自分たちの存在を示威するため」です。このような広告のタイプを、ひとまず「示威的広告」と名付けることにします。

最近オタクコンテンツに流行る「示威的広告」について

実は、こういう「一般社会に自分たちの存在を示威するため」の広告は、昨今割と多く出されています。

なんか大型企画のアニメを放映するときは、必ずといっていいほど全国紙に一面広告が出ます
dengekionline.com
mantan-web.jp
www.oricon.co.jp
し、アニメ以外にも、ゲームやVTuberなど様々なコンテンツでも
xtrend.nikkei.com
www.inside-games.jp
一面広告はブームと言えます。

また、一面広告以外にも、最近はやっているのは、ある地方を舞台にしたアニメやマンガが、その地域のポスターに顔を出すというモノです。以前このブログで取り上げた『ラブライブ!サンシャイン!!』のポスター
amamako.hateblo.jp
も、本気でみかんの消費向上を狙ったりしているというよりは、「『ラブライブ!サンシャイン!!』は地域に認められている」ということを示威する目的があったりするわけです。

ではなんでこういう広告が最近はやっているのか?その背景には、「文化におけるヒエラルキーの崩壊」という現象があるのではないかと、僕は考えます。

文化におけるヒエラルキーが崩壊する中で、「社会に認められている」ことを示せる場所として、広告が注目されているのではないか

1980年代~90年代にオタクとして生きた人が口を揃えて言うのは、「昔は今ほどオタクっぽいアニメやマンガ・ゲームは認められていなかった」ということです。

ごくごく単純化していうならば、昔は文学が文化の最高峰で、マンガ・アニメ・ゲームといったものは、活字を理解できない子供向けのモノとされました。更に言えば、それぞれのメディアの内部にも、上下関係があり、人間の内面に迫るような私小説や純文学が最高峰、そうでなくエンターテイメントのための推理小説とか犯罪小説は2流とされ、SFやファンタジーはその更に下の、バカでも楽しめるものとして扱われていたのです。

いうまでもないですが、これらは全くの根拠無き偏見です。ただ、こういう偏見というのは、年長者の間では未だに持たれているたりするわけで、
animeanime.jp
こういう年長者が社会の大半を占めていた昔に、アニメのようなオタク文化がどう扱われていたかは、想像に難くないわけです。

ところが、そういった文化のヒエラルキーが、どんどん崩れていったのが、まさしく2000年代以降の日本だったわけです。

それ自体はとてもいいことであることは、言うまでもありません。

しかしここで問題となるのが、そのような文化のヒエラルキーがなくなったとき、ある文化は何を尺度に、社会から認められていると言えるのか、ということなのです。

かつてのように「多くを語らない活字が上等」「内面描写が上位」とされた時代には、そういった要素がアニメとかにもあると主張すれば良かったわけです。例えば、アニメは一見絵で全てを主張しているように見えるけど、実は描かれている以上のことを想像しなきゃ理解できない作品だってあるんだとか、アニメでも人間の複雑な心理描写ができるんだとか……『新世紀エヴァンゲリオン』なんかは、まさにそういう類いのアニメでしたね。

ところが、文化のヒエラルキーが消滅した現代においては、活字っぽい省略や内面描写をしたって、喜ぶのはそれこそ、過去の文化ヒエラルキーに縛られた老害ばっかなわけです。もはや内容において「世の中から認められている」ということはできなくなったわけです。

そんな時代において、「世の中から認められている」ことを証明する数少ないツールこそが、「示威的広告」なのです。新聞や公共機関のポスターといった、世間で広く認められているものに広告として乗っかれば、「世の中から認められている」感が出る。ですから、かつて「世の中から認められなかった」というトラウマを持つオタク文化が、とかく「示威的広告」を出稿するわけです。

そして、「示威的広告」だからこそ、それはオタク文化が嫌いな人から反発を受ける

ただ、その一方で、そのような「示威的広告」として、アニメやマンガの広告が出稿されることこそが、それが嫌いな人の逆鱗により触れやすくなる理由だったりも、するわけですね。

広告の本来の機能は、「広告を見る人の中から、その広告の商品が必要な人に、商品のことを気づかせる」というものです。そしてそこでは「広告の商品が必要ではない人は、その広告を無視して良い」ことが、暗黙の前提としてあるわけです。
ところが、このような示威的広告は、そのメタメッセージとして「買わなくても良いから自分たちの文化を認めて欲しい」と、広告を見た全ての人に主張してくるわけです。そうなると、その文化を認められない人からは、「あなたたち文化なんて絶対認めてやるもんか」という反発が来る。

今回の広告について、オタクたちは表現の自由とか言い、一方でツイフェミたちは性的搾取とか言いますが、真の対立点は「僕たちの文化を認めてよ」v.s.「あんたたちの文化なんか認めない」という、まあしょーもないところなんじゃないかだと、思うのです。

もう「世の中から認められなかった」というトラウマから卒業すべきでは?

まあ、議論を戦わせること自体は自由ですから、戦いたい人はずっと戦っていればいいとおもうわけですが。

しかしここで思うのが、「そろそろ『世の中から認められなかった』というトラウマを、オタクは卒業してもいいんじゃないの?」という気持ちです。

1980年代~90年代にどんなトラウマをうけたかは、それ以降の世代である僕には想像できませんが、とてもキツかったのでしょう。しかしもう今は、オタク趣味を公言するジャニーズまで居る時代な訳で、少なくとも過去のようなオタク差別は過去のものとなったわけです。

もちろん今でも、ツイフェミのようにオタク文化が嫌いな人たちはいますが、別にそれらが社会を支配しているわけではない。とするなら、別にそういう人たちを含めた社会全体からわざわざ承認を求めなくても、別に自分たちの内輪でやってれば良いんじゃないですかね?

新聞に一面広告とか出して広告代理店に貢いだって、せいぜい国に「クールジャパン」とか言ってもらえるぐらいですよ?そうじゃなくて、お金も労力も、もっとマシな使い方があるんじゃないのと、僕は思ったりするのです。

「誰かが傷つく」という事実を、正面から受け止められるかどうか―エイプリルフールの同性婚ネタについて

www.huffingtonpost.jp
この記事を読んだときに、最初に抱いた感想を正直に言うと

そんなことで傷つかれてたら何にも表現できなくなるわ

でした。

ただ、何度も読んでいくと、

「まあ確かに当事者には傷つく人も居るかもしれないな」とも、思うようになりました。

ですが、「誰かが傷つく」ということと、「そういう表現をしちゃいけない」ということは、また別問題なわけです。

問題は、「誰かが傷つく」という事実を、正面から受け止められるかどうかなのです。

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