あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「モテない」ということが問題なのか、「『モテない』ことが苦しく感じる」ことが問題なのか

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前回の記事を書き上げた後、
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上記の記事で批判されている西井開氏の『「非モテ」からはじめる男性学」という本を読みました。

ベンジャミン氏の記事を読んだ上で西井氏の本を読んで抱いた最初の印象は

あれ?なんか思ってた感じと全然違う本だぞ

というものでした。

ベンジャミン氏の男性学に関する批判を読んでいると、この本もてっきり「男性がモテようとするのは『有害な男らしさ』だ!反省しなさい!」と主張し、非モテに苦しんでいる男性をただ説教するだけで具体的な方法を何も示さないような本に思えます。

ところが、実際は別に「モテようとする気持ち」そのものを「有害な男らしさ」と切り捨てたりせず、「そういう気持ちが起こるのは当然だ」ということを臨床社会学の技法を用いて分析し、そしてその上で、ではその「モテようとする気持ち」が苦しみにつながらないためにはどうすればいいか、その方法を提示する本でした。

僕からすると、「既存の男性学を疑え」と言いながら、結局「女をあてがえ」という非現実的な弱者男性論の代替を示せていないベンジャミン氏の論より、よっぽど真摯に「非モテ」に向き合っているように見えたわけです。

「なぜモテないか」ではなく「なぜモテないことを苦痛に感じるか」が問題と、西井氏は主張している

ベンジャミン氏は以下の様に延べ、「非モテの苦しみ」は、女性にモテないことが原因なのに、この本はその原因を明らかにすることをしないから、役に立たないと主張します。

たとえば、臨床心理士であり研究者でもある西井開の著書『「非モテ」からはじめる男性学』では、女性と付き合ったことがない「非モテ」の人たちが感じる苦悩の原因は、恋人がいないことや女性から好意を向けられないことではなく、男性集団からからかわれて排除されることにある、と論じられている。また、社会学者の平山亮は、インタビューのなかで男性が自殺することの原因は「男性が支配の志向にこだわりつづけてしまう」ことであると主張した[17]。

まず、西井の主張については「非モテ」の当事者たちのなかにも共感できる人はいるようだが、非モテの苦悩の原因について「恋人がいないこと」よりも「男性集団からからかわれて排除されること」のほうを強調するのは、かなり不自然で無理があるように感じられる。それは非モテの苦悩の一因となるかもしれないが、主因になるようには思えない。

ですが、実際に西井氏の本を読んだ身からすると、このような形の理解は妥当とは言えません。

そもそも西井氏は本の中で

この会はいわゆるモテ講座ではありません。「非モテ意識はなぜ生まれるのか」「どうしたら非モテの苦悩から抜け出すことができるのか」などをテーマに自分を研究対象にし、あわよくば生きやすくなる方法を見つけることを目指します。


西井開. 「非モテ」からはじめる男性学 (集英社新書) (p.31). 株式会社 集英社. Kindle 版.

という風に「この研究は『なぜモテないか』といったような、原因を明らかにするものではない」と明確に述べています。なぜ西井氏がそのようなことを目指さないかと言えば、なぜモテないかということの原因を突き詰めると、結局「自分がモテない性質を持っているから」という風に、自分を責めるようになるか、「俺を愛さない女が悪い」みたいに、女や社会を責めるようになる。しかし自分を責めても女や社会を責めても、自分も他人も容易に変わらないのだから、それが即座に何か効果をもたらすことはない、だったら「なぜ『モテないこと』が苦痛なのか」というように、問題そのものを客観的に考えられるようにしたほうが良いと、考えるからなわけです。

ちなみに、「自分を責める」「他人を責める」「問題を客観的に考える」ということを、西井氏はそれぞれ

  • 原因の内在化
  • 原因の外在化
  • 問題の内在化

という概念で説明しています。

だから、そもそも西井氏の本は、「『非モテ』の感じる苦悩の原因」と呼ばれるような、非モテが生じる因果関係を明らかにするものではないわけです。そうでなく、非モテの自分を省みながら、その「非モテである』ことを苦痛に感じる構造とはなにか」を客観視しようと述べているわけです。

そして、「男性集団からからかわれて排除されること」というのは、「『非モテ』を苦しいと思うようになった契機」として提示されるわけですね、つまり、女性の交際相手がいないときに、男性の友人などからそのことを馬鹿にされることにより、非モテを苦しいと思うようになったというわけです。「原因」と「契機」は似ているようで異なります。ただ西井氏は、「非モテを馬鹿にされたこと」が、非モテが苦悩を感じる契機になったと述べているだけで、それが「原因」だと言っている訳では無いわけです。

なぜ「苦悩の原因」をなんとかしようとするのではなく、「苦悩に思うこと」をなんとかしようとするか

僕は、西井氏のこのような手法は、苦悩をカウンセリングする立場からしたら至極当然であるように思えます。

例えば僕は、大学院で研究をしていたときに、うつ病で本や論文が全く読めなくなり、研究が進まなくなりました。そのとき僕は、「研究が進まない」という苦悩をカウンセラーに訴えたわけですが、そのときカウンセラーは別に「うつ病でも本や論文を読んで研究を進めろ」とか言わなかったし、僕も別にそんなアドバイスは求めていませんでした。

確かに、僕が抱く苦悩の原因自体は「研究が進まない」からです。しかし、うつ病になれば研究なんて高度な知的作業ができないのは当たり前であって、別にそこでむりやり「研究が進まない」という原因をなんとかしようと思ってもどうにもならなかったでしょう。

その代わりにカウンセラーが提案したのは、「『研究が進まない』ことをそんなに苦痛に思うのはなぜか?」ということだったわけです。そこで僕は、自分が、自分が思っている以上に「研究できる自分」を自分の唯一無二のプライドにしていたか、逆に、そのこと以外に自分を肯定する術を持っていないか気づいたりし、研究以外に自分を肯定するために、アニメやゲームなどをひたすらやってそのことで満足したりして、そのときはうつをやり過ごした訳です(ただまあ、うつ病との突き合いは今も続いていますが)。

西井氏が非モテの苦悩をなんとかするために取った手法も、基本はこれと同じで、それこそニーバーの祈りで

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

ja.wikipedia.org
と述べているように、「変えられないものは受け入れ、変えられるものを変える。そして両者を峻別する」ものだったわけです。

西井氏は「『非モテ』を苦痛に思わない方法」を、具体的に指し示している

そして、そのように「なぜ『非モテ』を苦痛に感じるか」ということを考えていく中で、西井氏は「『非モテ』を苦痛に思わない方法」として

  • 仲間との共有体験
  • 打ち込む喜び

の2点を挙げています。

「仲間との共有体験」とは、具体的な目的や、好きな対象を共有するグループに入ることで、「打ち込む喜び」は、一人で何かに没頭することですが、これらがなぜ「『非モテ』を苦痛に思わない方法」だったかというと、どちらも「自分が『まなざし』の対象にならないから」なわけです。つまり、「『非モテ』が苦痛になる構造」とは、他者と自分の間で、どっちがモテるかを比べるからで、そういう比べ合いが存在しない状況なら非モテは苦痛にならないというわけです。

もちろんこういう処方箋が効かない人もいるでしょう。ベンジャミン氏もその一人だったのかも知れません。しかし西井氏の研究会での実践を見れば、効く人も結構居ることが分かるわけです。

万人の苦痛をなくす銀の弾丸がない以上、「効かない人も居れば効く人も居る処方箋を示す」というのは、精一杯の誠実な態度だと思うわけです。

とはいえ、西井氏のやり方が迂遠に見えるという気持ちも分かる

以上のことから、僕は西井氏の「『モテない』ことが苦しく感じることが問題だ」という主張の方が、ベンジャミン氏の「モテないことこそが問題なんだからで、その原因を見つけ出せ」という主張より、有用だし誠実だと感じます。

一方で、そう僕が考えられるのは、あくまで僕が「非モテ」の当事者ではなく、部外の第三者だからというのも、また事実でしょう。

僕は、モテることはなく、34年の生涯で誰とも交際をしたことがなく、性交渉もしたことがない人間ですが、別にそのことを苦痛に感じない*1人間なので、「非モテ(を苦痛に感じる人間)」ではない。ないからこそ、客観的に「西井氏の論の方が好ましいんじゃない?」と思えてしまう。

しかし、当事者からすると、「非モテであることが苦しいのだから、とにかくモテる方法を教えてくれよ」というのが率直な気持ちであるわけで、そこで「『非モテ』を苦痛に感じるのはなぜか考えましょう」と言われても、果てしなく迂遠で、実効性のないものに感じるのは当然です。

だから、そのような当事者の叫びとしてなら、ベンジャミン氏のいうことも、賛成は出来ませんが、理解は出来ます。

研究会という積み重ねが「本」になってしまうことによって生じる齟齬

ここで西井氏を擁護しておくと、西井氏は決して当事者の気持ちに真摯に向き合ってないわけではないと、僕は思います。
というか、西井氏が本で書いたことというのは、まさしく西井氏と当事者の真剣で長期にわたる当事者研究から生まれたものなわけで、その点でいえば、西井氏の本の内容全部、当事者と真摯に向き合ったからこそできあがったものなわけです。

ただ問題は、西井氏は非モテ当事者たちと語り合いと言うことを長期間行ってきましたが、それがそっくりそのまま本に掲載されてるわけではなく、本に掲載されているのはその語り合いの上澄みであるという点です。

これは、本にするなら仕方が無いことです。「非モテ研究会」での会話ログを全部本に入れるなんて不可能ですから、結局本に載せられるのは、最低限の証言と、そこから論証される結論だけです。

しかしそうやって上澄みだけ本に掲載されることによって、本来「非モテ研究会」で得ていたような信頼関係が、読者と結べなくて、上から説教をしているように取られてしまうわけです。

これは、結局「本」という一方通行のマスメディアにおける、構造上の限界と言えるでしょう。これを乗り越えるには、それこそ本で学ぶのはなく、自分たちで実際に「当事者研究」をするしかないと思います。

ただそれでも僕は「『モテない』ことが苦しく感じる」ことを問題視した方が良いと思う

ただ、そのような問題を考慮に入れた上でも、僕はベンジャミン氏の「モテない原因を明らかにしよう」という論の進め方より、西井氏の「『モテない』ことが苦しく感じることを問題視する」という論の進め方の方が、より好ましい論の進め方だと思うわけです。

確かにベンジャミン氏の言うように、「生物学的に言って『モテたい』というのは男性の本能」なのかもしれません。しかし、本能だとしたらなおさら、男性全員が「モテ」になるのは不可能であり、「非モテ」である男性がどうしても生まれる以上、本能によって生じる苦痛が、社会の構造によって増幅されるのを防ぐ必要があるのです。

そして、そのためには「『非モテ』であることの苦痛を増幅する社会構造」そのものを理解し、そして理解することによってそれを解体もしくは緩和する方策を編み出すしかないのではないかと、僕は考える訳です。

それこそニーバーの祈りで言えば、「モテたいのにモテたいということ」は「変えることのできないもの」であり、「『モテないこと』を苦痛に思うこと」が「変えるべきもの」なのだと、僕は思うのです

*1:アセクシャルというわけではないです。自分を好きになる人がいれば好きになるなとは思いますが、いなくても別にそれはそれで良いという感じで

男性から「ことば」を奪っているのは男性自身ではないか

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「男性にも『ことば』が必要だ」という記事を読みました。

上記の記事は、さまざまな論点があって、それぞれの論点で賛成できるもの・そうでないものが分かれるのですが、それに一つ一つ答えていくと長くなってしまうので割愛します。

ただ、タイトルの「男性にも『ことば』が必要だ」に関して言うと、それについての僕の答えは簡単で

「男性から『ことば』を奪っているのは男性自身ではないか」

というものです。

「ことば」を発するときに「説明する理論」が必要なときとは

上記の記事では、「女性が受けている不利益を説明する言説はたくさんあるが、男性が受けている不利益を説明する言説はない」ということをもって、「男性には『ことば』がない」と主張します。

これまで、男性と女性が受ける不利益の非対称さを論じる言説は、フェミニズムによるものが大半だった。したがって、女性が受けている不利益については、それを説明して強調するためのさまざまな様々な理論や概念が発達してきた。

ここに、ひとつの非対称性が存在する。男性が受けている不利益について説明する理論はほとんど発達しておらず、概念化もされていない。したがって、男性が受けている不利益は、女性のそれのように社会的に注目を浴びて問題視されることがほとんどない。

しかし、「説明する理論」と「ことば」というものには大きな乖離があります。

例えば、僕が誰かから学校や職場でいじめを受けている時、僕は「いじめるのをやめろ」という言葉を発することができますし、学校や職場はそれに真摯に対応するべきでしょう。その時、僕がいちいち「いじめというのはこういう社会の仕組みから起きており……」なんて理論立てて説明するなんてことはありません。

それと同様に、

  • 女性が医学部を受験したときに不当に点数を低くされている
  • 同じ仕事をしているのに、女性だけ賃金が低い
  • ただ肌を露出した格好をしているだけで、性的目線を許容しろと言われる

なんてことも、別に理論立ててそれが生じる原因を説明しなくても、「それは差別だからやめろ」と言えば良いわけです。

それと同様に、男性が男性であることで具体的な不利益を受けていることが明白な場合は、そもそも理論なんてものは必要ありません。ただ「差別をやめろ」という「ことば」を発すれば良いのです。そして社会はそれを真摯に受け止めるべきです。

では、一体どういうときに「説明する理論」が必要なのか?それは、不利益の内容がよくわからない、抽象的なものである場合です。

例えば、ベンジャミン・クリッツァー氏は、男性の自殺率の高さや、幸福度の低さを、男性が不利益を受けている例として出します。

その一方で、見方によっては、日本では男性が不利益を受けていることも明らかだ。


厚労省の発表している自殺者の年次推移を見ると、1978年から2020年まで、各年の男性の自殺者数や自殺率は女性の2倍前後でありつづけてきた[4]。ただし、近年のアメリカでは男性は女性の3倍、ヨーロッパや南米やアフリカなどのほとんどの国でも男性の自殺者数は女性の2倍や3倍であり、他の国に比べると日本は女性の自殺率も高いほうだ。とはいえ、2016年の調査によると日本の自殺率は約90ケ国中6位であり、その自殺者のおよそ7割が男性であることを考えると、日本の男性は世界の男女に比べても自殺のリスクに晒されているとは言えるはずだ[5]。


また、日本の男性は、女性よりも不幸感を抱いている。2017年の世界価値観調査に基づいて男性の幸福度と女性の幸福度を比較してみると、日本では女性のほうが幸福度が高く、男性との差は世界で2位だ[6]。さらに、OECDが発表している幸福度白書の2020年版(How’s Life 2020)における「ネガティブな感情の抱きやすさ(negative affect)」の指標を見ると、他の国々では女性のほうがネガティブな感情を抱きやすいのに対して、日本だけが唯一、男性のほうがネガティブな感情を抱きやすくなっている[7]。男性の不幸さという点では、日本は世界でも際立っているのだ。

しかし、自殺にしろ幸福度にしろ、それは一義的には「本人のこころの問題」です。誰かが明白に「おまえは自殺しろ」というわけでもないし、「おまえは幸福になってはいけない」と命令するわけではない。本人にとっては、原因がわからないわけで、まさしく芥川龍之介が遺書で書き残したような「ぼんやりとした不安」の結果として、自殺や幸福度の減少はおきるわけです。

君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

www.aozora.gr.jp
そして、「説明する理論」とは、そのぼんやりとした不安、今風の言葉で言えば「お気持ち」をより具体的な「ことば」にするためにこそ、働くのです。

例えば自殺であったなら、そこには社会学であったり心理学であったりの理論・概念が必要になります。社会学においては、デュルケームの『自殺論』

という、社会学を専攻するなら誰しもが読む古典があって、そこでは自殺を社会的に説明する概念として

  • 自己本位的自殺
  • 集団本位的自殺
  • アノミー的自殺

が提示されました。そのような概念によってぼんやりとした不安は「ことば」になるわけですね。

「お気持ち」について論ずることを拒んでいるのは、男性自身ではないか?

そして、フェミニズムや、その他リベラルの多くの理論は、「お気持ち」を具体的な「ことば」にするための理論なわけです。例えば昨今「マイクロアグレッション」という概念が多く提示されるようになりました
www.nhk.or.jp
が、これなんかもまさしく、「なんか嫌だな」と思うことが、個人のこころの問題ではなく、社会的差別の結果として現れるということを説明する概念なわけです。

しかし、このような議論を「『お気持ち』は議論に値するものではない」として揶揄してきたのは、他ならぬ男性自身なわけです。

ベンジャミン・クリッツァー氏にしても、自分が男性であることによって生じる不幸は、一見すると「自分のこころの問題」であることがほとんどに見えるわけです。ところが、それについてはあまり論じず、アフォーマティブ・アクションの問題とか、暴力犯罪の被害者率の高さとかいった具体的な数字を持って「男性は不利益を受けている」と主張する。

生物学的性差を重要視するのも、「生物学的性差によって基礎づけられるようなものこそ議論に挙げられるものであって、そうでないものは『お気持ち』にすぎないから議論に値しない」と考えているからであるように、思えてなりません。

重要なのは、まず男性自身が自らの「お気持ち」を認めるようになることでは?

僕は、最近の男性学にはあまり詳しくなくて、森岡正博氏の著作

とかしか、あまり読んでこなかったのですが、しかし僕からすると、森岡氏の、自身のセクシャリティの有り様や、もっと卑近に言ってしまえば「どういうものに性欲を感じるか」ということを論ずる文章こそ、まさしく「男性に『ことば』を与えるもの」として、とても救われる文章だったわけです。

あるいは


だったり。

だから、「『ことば』を支える理論」自体はたくさんあると思うんですよ。ただ男性の多くがそれらを「理論」として認められてないだけで。

男性が「ことば」を持つためにに必要なのは、「説明する理論」が数多く研究者によって書かれることではなくて、男性同士が自らの「お気持ち」について語れる場を作ることだと思うわけです。

僕も一応男性なので

  • 毛深いからひげが毎日もっさり生えてきて、それを剃るのが面倒だ
  • ラブライブサンシャインのパネルを見ても、それが過度に性的とはどうしても思えない

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  • 実際はレイプとか憎んでいるはずなのに、成人漫画で自慰しているときにレイプ描写が出てくると、それで興奮できてしまう
  • 暴力は嫌いなはずなのに、女性が男性に暴力を振るう描写が大好きで、暴力を振るわれる男性に自分を重ねて興奮してしまう

など、自分が男性であることに由来する、様々な「お気持ち」が渦巻いているわけですが、それらについて、虚勢を張らずに語れる場というのはなかなか見つけられませんでした。

ですが本当は、そういうことについて男性同士で忌憚なく語れる場というものが必要なわけです、フェミニズム的においても、最初から理論が用意されていたわけではなく、そういう「お気持ち」について忌憚なく語れる場がまずあって、そしてそこから様々な理論が生み出されてきたのですから。

男性の「お気持ち」を言葉にしてきたアーティストについて

ついでにいうと、そういう男性が自らの「お気持ち」を言葉にしづらい社会の中で、数少ない「お気持ち」を「ことば」にしてきた運動が、ロックやJポップなどの音楽なのだと思います。

シフクノオト

シフクノオト

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ユグドラシル

ユグドラシル

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Mr.ChildrenBUMP OF CHICKENといったアーティストたちは、まさしく男性の「お気持ち」を、学術ではなく詩的な「ことば」で歌ってきたアーティストです。

「お気持ち」について直接言葉で論ずるのが難しいと言うなら、まずはこういう文化を批評することから、「お気持ち」に近づいていくのも、一つの方法なのかなと、思ったりします。

補記:「男性が自分の辛さを『ことば』にすること」はなぜ難しいか

記事を公開したあとで、もう一つ言いたいことがあったので補記。

男性が「自分の辛さを『ことば』にしたい」と思った時、そこには3つの障壁があります。それは

  • 自分でその言葉を「恥ずかしいもの」として飲み込んでしまう自己検閲
  • 男性同士で「そんな情けないこと言うべきではない」と、表現を抑えようとする内部検閲
  • 女性が「男性がそんな辛いわけない」として表現を抑えようとする外部検閲

です。そして、この中でベンジャミン・クリッツァー氏が問題視しているのは外部検閲なわけです。

一方、女性の方を見ると

  • 男性が「女性がそんな辛いわけない」として表現を抑えようとする外部検閲

はありますが、自己検閲や内部検閲に属するものはあまり見られません。そのため、男性側が「外部検閲しないでよ」と言っても、女性にとっては「そんなの男性がさんざんやってきたことだし、私たちはそれを乗り越えて自分たちの辛さを言葉にしてきた」と、反論されるわけです。

もちろん実際は、自己検閲だろうが内部検閲だろうが外部検閲だろうが、自分の気持ちをことばにしづらくする検閲なんて、ないほうがいいわけで、女性がそれに耐えたとしても、その耐えることを男性に押し付けていい道理はないわけです。

しかしその一方で、男性は女性とは違い、外部検閲以外にも、自己検閲や内部検閲と言った、「辛さを『ことば』にしづらくするもの」を抱えていて、それこそが男性と女性の、「ことば」における非対称性を産んでいるわけで、それらをなんとかしなければ、男性における「辛さを『ことば』にしづらくするもの」は解消されないんじゃないかと思うわけです。

補記2:「モテない」ということが問題なのか、「『モテない』ことが苦しく感じる」ことが問題なのか

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ベンジャミン氏の記事で批判される『「非モテ」からはじめる男性学』を読んだ上で、続編記事を書きました

あの頃の東浩紀と、90年代人文・サブカルにとってのオウム

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前回の記事、なぜか多く注目を集めたようで、はてブTwitterでも多くのコメントをいただきました。

コメントの中には、好意的なものもあれば、否定的なものも多くあって、別にそれ自体はいいのですが、その中で僕が興味を惹いたのは、「この記事の著者はなんでそんなにオウムやナチスにこだわるんだ?」というコメントです。

「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

オウムだのホロコーストだの、自分が絶対悪だと思うもののレッテルを頑張って相手に貼り付けようとしてんなぁという印象

2022/04/11 08:22
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「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

ある種の人、アイヒマン持ち出すの好きだよね…/理想を追い求めるのは否定しないけど、その理想こそが踏み潰そうとしているものもあるんじゃないの、という気はする。それを省みないからこそ、分断はより深まる。

2022/04/11 14:01
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「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

なんでこういうイデオロギーを戦わせてる人たちってすぐ極論に走るんだろう。「自分の感覚を信じているとサリンを撒く」とか「現実の社会に適応して頑張ることはアイヒマンになること」とか、飛躍しすぎだろうがよ。

2022/04/11 14:10
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「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

ホロコースト等大きな言葉に共感は薄いが後半は私の感覚と近い。私の「今ここ」は、やや昔の価値観の人達に合わせた生活で少ししんどい。適応できないのを揶揄するコメも。ポテサラは買えばいいのが私のリベラル。

2022/04/11 16:59
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僕みたいに90年代までに、人文知を学んだりオタク・サブカルに親しんだものからすると、オウムや連合赤軍ナチス、その中でも特にオウム真理教」というものが強いトラウマになっていて、全ての論考がそのトラウマを下敷きにしているのは自明のことなんですが、それって今の人にはよく分からないことになってしまっているのだなと、思ったわけです。

「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」という、当時の学者・オタク・サブカルが共通して抱いた恐怖

それこそ30年も前のことになってしまうので、今の人に忘れ去られてしまうのは当然のことなのですが、90年代において 「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」というのは、大学とかで学問を真面目に勉強したり、あるいはオタク・サブカル趣味にはまっていた人たちにとっては、多かれ少なかれ誰しも持っていた恐怖だったわけです。

例えば、オウム真理教秋葉原に「マハーポーシャ」というパソコンショップを持っていて、そこの宣伝は、当時秋葉原に行っていた人なら誰しもが覚えていたわけです。
ja.wikipedia.org
また、オウムは特に高学歴の信者が多かったことが注目されていて、実際僕の大学時代の指導教官*1も、自分の大学時代の同級生にはオウムに入ってしまった人が数多く居たと話されていたわけです。

そのような実際の生活での接点もさることながら、「愛の戦士」「コスモクリーナー」「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」*2
ja.wikipedia.org
など、オウム真理教が使う言葉の多くには、当時の人文やオタク・サブカルなどから借用した言葉が多々あったわけです。そして更に多くの学者は、オウム真理教の教義にも、80年代から90年代にオタク・サブカルで流行った終末論の影響が多くあったと述べています。

そのような点から、当時多くのオタクやサブカル文化人や、そういう趣味にはまっていた人は、「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」ということを言っています。具体的に名前を挙げれば、大槻ケンヂ竹熊健太郎香山リカなどなど。

中には雨宮処凛みたいに、当時オウムに憧れを抱いていたことを告白したら、今のネットで晒されて炎上したなんてこともありました。
tablo.jp

――オウム真理教には入ろうと思いませんでしたか?
「私の入っている(右翼)団体は、会員以外の人によく、オウムに似ていると言われるんですよ。『オウムの信者といってることが同じだ!』っていわれたこともあります。わりとそれには自分でも納得してますけど」
――オウムにはシンパシーはあるんですか?
「ムチャクチャありますよ。サリン事件があったときなんか、入りたかった。『地下鉄サリン、万歳!』とか思いませんでしたか? 私はすごく、歓喜を叫びましたね。『やってくれたぞ!』って」

……「10年以上前のことをいまの常識で批判するのはフェアじゃない」はずなんですが、ここまでくると当時でもアウトだったような気がしてきました!(文◎吉田豪 連載『ボクがこれをRTした理由』)

ちなみに僕も、中学生の頃からブログを書いていたのですが、多くの人から「おまえは一歩間違えばオウムとか過激派とかに入りそう」と言われてきました(今でもそう思われてる?)し、僕自身そういう危惧は常に持っていたからこそ、「過激思想」とか「オカルト」とかを客観的に見られるようになろうと、社会学に進んだわけで*3

サブカルチャー想像力が「オウム真理教」のようなカルト宗教につながるのではないかという危惧は、当時のサブカルチャー作品自体の中にもありました。『機動戦艦ナデシコ』というタイトルはその典型でした。

この作品は、オタクのロボットアニメを真に受けてしまった人たちが、木星に軍事国家を作り地球に侵攻してくるという話なのですが、そこでの木星の人々はまさしくオウム真理教のメタファーだったわけです。

ついでに言うと、この作品の脚本家であり、僕の好きなアニメ関係者では五本の指に入る會川昇氏は、こういう「サブカルチャー的想像力の暴走への危惧」というのを、ライフワークのように描いてきた人で、例えば『シャンバラを征く者』という作品では、原作とは違い、主人公たちが第二次世界大戦前夜のドイツに転生するなんてオリジナルストーリーを展開して、ナチスドイツとオカルトの関係を描いたり

UN-GO』という作品では、プロパガンダソングを歌う女性アイドルグループなんてエピソードを書いたりもしました。

あの頃の東浩紀だって、サブカルチャーと「オウム真理教」に親和性があると主張していた

前回の記事で白饅頭氏が触れていた東浩紀だって、まさに彼の原点である『動物化するポストモダン』で、サブカルチャーの想像力とオウム真理教の親和性について語っているわけです。

そしてその虚構の物語 は、ときに現実の大きな 物語(政治的なイデオロギー) の替わりとして大きな 役割を果たしている。そのもっとも華々しい例が、サブカルチャーの想像力で 教義を固め、 最終的にテロにまで行き着いてしまったオウム真理教の存在である。


東浩紀. 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) (p.45). 講談社. Kindle 版.

前項における『機動戦艦ナデシコ』に対する分析も、まさしくこの本に書いてあって「あ、そうだったよな」と気づいたものです

そして、90年代までのオタク(いわゆる「オタク第2世代」)は、虚構の物語を求めるが故に、テロまで行き着いてしまったのに対し、2000年代以降のオタク(いわゆる「オタク第三世代」)は、そもそもそういう物語ではなくデータベースを求めるよう「動物化」したというのが、『動物化するポストモダン』の主張な訳です。

そしてこの動物化」は、大きな物語を必要としないという意味では、宮台氏が言う「コギャル」と同じであると述べ、さらにこれこそがオウム真理教のような閉塞性を乗り越える道であると述べているわけですね。

オウム真理教徒は前者の代表であり、「ブルセラ少女」は後者の代表である。このような対立のうえで、 宮台は、前者の閉塞性を知的に乗り越えることはおそらく可能だが、「 その 間接性たるや気が遠くなるほどであり、その実効性には疑いを禁じえない」と記し、続けて、「しかし私は、まったく別の道があるかもしれ ないと思っている。 それは、全面的包括要求そのものを放棄するという、決定的な、しかも現に私たちが進みつつある道である」と述べている(注50)。


(略)


記号化され、 匿名化された都市文化のなかで、「ユミとユカの区別もつかない」でまったりと生きている九〇年代のブルセラ少女たちには、もはや世界全体を見渡そうという意志( 全面的包括要求) も、その断念から来る過剰な自意識も存在しない。彼らは有意味化戦略をもたず、物語消費も必要としない。


これはまさに、 筆者がここまでデータベース 消費として論じてきたものと同じ「 道」である。


東浩紀. 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) (p.121-122). 講談社. Kindle 版.

つまり、東氏においても、オウム真理教というのは真剣な恐怖で、「動物化」とは、そういう方向へオタクが行かないための道筋の付け方だったわけですね。

「抵抗としての無反省」が「無反省」に変わる瞬間

ところが、時が経った現在においては、そのような「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」という恐怖はほぼ忘れ去られてしまっている。

僕はこの過程で、「抵抗としての無反省」が、単なる「無反省」へと変わってしまったのではないか?と思う訳です。

「抵抗としての無反省」とは、以前も
amamako.hateblo.jp
という記事で触れたことがあるのですが、北田暁大氏が『嗤う日本のナショナリズム

という本で提唱した概念で、乱暴に要約すると「『暴力を反省しよう』という反省を繰り返すと、結果として暴力(よく言われる「正義の暴走」)を生むのだから、敢えて反省しないようにしよう」という態度のことです。

以前の記事では、1960~70年代の学生運動を例にあげたのですが、実はこれはオウム真理教にもいえることで、「動物化」とか「まったり革命」というのも、(その提唱時点においては)結局は「抵抗としての無反省」のバリエーションだったのだと思うわけです。

そして、「抵抗としての無反省」は、その抵抗という側面が覚えられている限りにおいては、「正義の暴走」と呼ばれるような暴力に対する歯止めとなるのですが、その「抵抗として」という部分が忘れられ単なる「無反省」になると、「暴力を行使して何が悪い」という開き直りにつながっていくわけです。

結局大事なのは、歴史を知り、それを自分たちに置き換えて考えることではないか

僕が、オウムやナチス連合赤軍のような歴史的事件に注目し、「それらを繰り返す方向に動いていないか」と常に注意するのは、まさしくこのような「『無反省』への反省」があるからなんです。

「抵抗としての無反省」も、あくまで「抵抗としての」という契機が忘れられなければ有用なはずなんですが、それが忘れられれば途端に単なる暴力の肯定になる。「抵抗としての無反省」に限らず、あらゆる理論・規範・ライフスタイルというのは、その理論・規範・ライフスタイルが存在している歴史的・社会的背景をもとに、そこでいかに幸福に生きるかを考えるために編み出されたはずな訳で、その歴史的・社会的背景が忘れ去られ、一人歩きし始めた途端、人々を不幸にするのでは無いかと、僕は考える訳です。

だから、歴史や社会に関する人文知を学び、それらを相対化する必要があるのです。

他人の思想を考えるときも、自分の思想を考えるときも、僕が「オウムやナチス連合赤軍のようなものにつながっていかないか」という視座を重要視するのは、そういう理由があるのです。

*1:ちなみに宮台氏ゼミの出身

*2:自分は『新世紀エヴァンゲリオン』から借用されたと思ってたんだけど、実際はむしろこっちの方が先だったり

*3:まあ、普通に考えればミイラ取りがミイラになる可能性の方が高いよなと、今になっては思うけど

「正しさ」と「優しさ」って、やっぱり両方必要だと思う

davitrice.hatenadiary.jp
DavitRice氏はこの文章の出来に納得していないみたいだけど、僕はこの文章とても楽しく読みました。ぶっちゃけ、普段DavitRice氏がお仕事で書いている文章を読むより、こういう文章の方が好きだったり……

なんで僕がこういう文章を好きかというと、僕が倫理学や法学・政治学より社会学が好きからかなーと思ったりします。

社会学という学問は、まさしく、人々が持っている「ふわっとした印象」を、様々な統計や理論を用いて概念として整理し、そこから現代社会を分析する学問なんですね。

そして、今回の文章で問題になっている概念である、「正しさ」、「優しさ」というのも、社会学において結構議論の対象になってきた概念です。

特に「優しさ」については、これまでも

といった論考が発表されてきました。

今回の記事では、そういった論考の中でも、

という本を援用しながら、「正しさ」と「優しさ」について考えていきたいと思います。

「正しさ」と「優しさ」には、重なる部分もある

DavitRice氏は、世の中には「正しさ」こそを求めるべき価値とする「正しい議論」と、「優しさ」こそを求めるべき価値とする「優しい議論」があるとし、そして前者の議論は退屈ではあるが、しかし真に社会に安定をもたらしている議論はこちらである。それに対し「優しい議論」は、疲れている現代人にとって耳障りは良いが、実際に社会を運営する方法論にはなりえない無意味なものだと主張しています。そしてその上で、「正しい議論」こそが重要であり必要なんだと主張しているわけです。

しかし、ここで疑問となるのが、「正しさ」と「優しさ」って、そんなにどちらかを取ればどちらかを排除しなければならないような、排他的な概念なのか?ということです。

DavitRice氏は、記事の冒頭において「感情を制御すること」を「正しさ」の例に挙げ、その正しさによって社会の安全が保たれている例として、「大声で怒鳴る人が頻発しないこと」を挙げます。

 とはいえ、みんなが「正しさ」に従っているからこそ、社会は安全で豊かな場所になっている。

 自分が街を歩いているときのことを考えてみよう。街中でなにかムカついたことがあるときに大声を発せないのは、たしかに不自由であるかもしれない。けれども、街を歩いているときに大声を発する人と遭遇することは、たまにはあるかもしれないが、すれ違う人の数を考慮するときわめて稀である。みんなが些細なきっかけで生じる怒りやムカつきをその場で行動に表出するような街はおそろしく物騒で緊張に充ちた環境になり、誰も住みたいと思わないはずだ。それに比べると、自分を含めたみんなが怒りやムカつきを抑えることのほうが、多少不自由であってもずっとマシである。ほとんどの人はそう考えるはずだ。

しかし、「大声を発しない」という「正しさ」って、むしろ「優しさ」から来るものなのではないでしょうか?

『ほんとはこわい「やさしさ社会」』という本では、「優しさ」の例として、「混んでいる電車で携帯電話を注意しないこと」が挙げられます。

最近ではあまり言わなくなりましたが、昔は混んでいる電車や、シルバーシートの周りでは、携帯電話は電源オフにすることがルールでした。実際、電車内のアナウンスでも、「携帯電話の電源をお切りください」というアナウンスが頻繁に流れたわけです。

しかし実際は、多くの人はそのルールを無視して、普通に電車内で携帯電話をいじっていました。そして、それを注意する人も殆どいなかったわけです。

もし「正しさ」だけを重要視するなら、この状況は明らかに間違いで、携帯電話をいじる人をみたらきちんと周りの人が注意することこそが正しいはずです。

しかしそういう風に多くの人が思えば、生じるのは「電車の中でいきなり大声の口論が頻発する」という、まさしくDavitRice氏が安全と思わないような状況な訳です。

そういう状況を多くの人は避けたいと思うから、人々は「電車の中で携帯いじっていても注意しない」という「優しさ」をもって、混んでいる電車の中の安定を維持しているわけですね。

更に言えば、そういう人はそうやって「他人の行為をむやみにじゃましない」という優しさこそが「正しさ」であり、「混んでいる電車で携帯電話をいじってはいけない」という正さだと考えているわけです。

なぜそうなるか?『ほんとはこわい「やさしさ社会」』の著者である森真一氏は、「人々の社会では、法や契約といった『公式ルール』よりも、優しさに代表されるような、明文化されていないけど誰もが守らないといけないと感じている『非公式ルール』のほうが強く人々の行動を縛っているから」と、考察しているわけです。

みんなが求めるのは「正しい」し「優しい」状況。だけどそれが難しい

このように考えると、「正しさ」と「優しさ」を排他的概念と捉えるのは、あまり社会の実態にそぐわなくて、実際は

  • 「正しくない」し「優しくない」状況
  • 「正しくない」けど「優しい」状況
  • 「正しい」けど「優しくない」状況
  • 「正しい」し「優しい」状況

の4つがあるわけです。

「正しくない」し「優しくない」状況は最悪ですが、しかし社会の状況としてはありえます。例えば今のウクライナの状況なんかはまさしくそういう感じで、最低限の戦時国際法も守られず、虐殺や性暴力が横行しする、 「正しくない」し「優しくない」状況です。これを避けなきゃいけないのは、『メタルギアライジング』の上院議員のような一部の人を除いて、万人が一致するでしょう。

次に「正しくない」けど「優しい」状況、これは、まさしくDavitRice氏が批判するような「優しい議論」が求めるけど、実際に現れることはありえない状況です。

そして「正しい」けど「優しくない」状況。つまり「公式ルール」のみが人々を縛る状況で、DavitRice氏はこれこそ「退屈だけど、社会が選べる最善の状態」とするわけですね。しかし実際は、「混んでいる電車における携帯電話」の例を見れば分かるとおり、言うほど安定した豊かな状態では無いわけです。

だから、多くの人は「正しい」し「優しい」状況を求めるわけです。「正しい議論」と「優しい議論」というのは、そのどちらをより重要視するかという、配分の問題でしかないわけです。

問題は、現代においては「優しさ」が過剰になりすぎていること

ですが現実は、「正しい議論」が、社会の運営方法を示す方法論を示せているのにかかわらず、「優しい議論」は、ただ理想を口にするだけで袋小路にはまっているように見えます。DavitRice氏が「優しい議論」に反発するのも、まさにそれが原因なわけです。

一体なぜ現代において「優しい議論」は袋小路に陥りがちなのか?その背景には、現代社会が「優しさ」の中でも「何もしない優しさ」、『ほんとはこわい「やさしさ社会」』で言う「予防的やさしさ」のみを過剰に重視しているからなのではないか。僕は、『ほんとはこわい「やさしさ社会」』を読んで、そう考えました。

森氏は、やさしさというものには

  • 予防的やさしさ
  • 修復的やさしさ

という、二つの種類のやさしさがあるのではないかと主張します。

そして、その例として、他人に失礼なことをしたときに掛けられる、「謝るぐらいなら最初からするな!」という叱りの言葉を挙げます。失礼なことをそもそもしないこともやさしさですが、失礼なことをしたときに、謝るのもやさしさなわけです。しかし現代の日本社会においては、前者の「予防的やさしさ」こそが真のやさしさとされ、後者の「修復的やさしさ」はあまり重視されていないのではないかと、森氏は主張し、その理由として、「自己というのは一度傷つけられたら修復は出来ない」という、自己の修復可能性への過小評価があると述べるわけです。

そして、そのように「予防的やさしさ」だけがやさしさとされることによって起きる弊害として、「人々がどんどん消極的に何も出来なくなってしまう」という例を挙げます。

例えば、「電車やバスで老人が立っていても、席を譲らないことこそやさしさ」だと考える人がいます。つまり、自分が老人だと思う人に席をゆずっても、もしかしたらその人は自分を老人だと思っておらず、「老人扱いするなんて!」と怒るかもしれない。だったら、最初から何もしないことこそが「やさしさ」なのではないかと、そう考えるわけです。

つまり、「予防的やさしさ」というのはあくまで「しない」ことを目指す倫理であり、そのため具体的に社会を維持したり更新していく力になりにくいのです。

「予防的やさしさ」のみを重要視することこそが、表現の自由に関する議論を袋小路に追い込んでいる

ちなみに僕は上記の論考を読んで、昨今の「表現の自由」に関する議論を連想しました。

昨今の「表現の自由」に関する議論では、表現を批判する側は、表現の自由があるといえど、他人を傷つける表現はそもそも表現すべきではないと主張します。それに対して、表現を擁護する側は、表現はそんな表現でも自由であり、ある表現に対する批判によって、その表現者が謝罪に追い込まれたり、表現を改変することがあってはいけないと主張します。

これ、実はどっちも「予防的やさしさ」に基づく考え方なんですね。つまり、表現を批判する人は、一度表現によって傷つけられれば、どんなことをしてもその傷が癒えることはないと思っているから、最初から人を傷つける表現をするなと主張する。一方で、表現を擁護する側は、謝罪や修正というのは、表現者に癒えることのない傷を与えるから、絶対にすべきではないと主張する。そして、どっちも「しない」ことを主張するが故に、議論は袋小路に陥るわけです。

この袋小路を解きほぐすには、「予防的やさしさ」ではない「修復的やさしさ」を導入することが実は重要なんです。最初から完璧に適切な表現をすることを求めるのでは無く、表現をした後に、それを謝罪し修正しろと、表現を批判する側は要求する。そして表現を擁護する側も、その声を聞いて、その声が妥当と思うなら謝罪し修正する。このように「何をしてはいけないのか」ではなく「何をするべきなのか」という方向に議論をすれば、より建設的な議論が出来るようになると、思うわけです。

重要なのは「優しさ」を否定することではなく、優しさにも色々な種類があることに気づくこと

ここで誤解して欲しくないのは、「予防的やさしさ」を完全否定して、「修復的やさしさ」だけあればいいとは、森氏も僕も主張していないことです。

自己に関する傷は、多くの場合修復できますが、しかし修復できないほど深い傷もあります。差別に基づくヘイトスピーチや、明確に誰かを侮辱する表現というものは、そういう深い傷を残しますし、そのような表現は、そもそもしてはいけないでしょう。そこにおいては、まさしく「予防的やさしさ」こそが重要になるわけです。

僕がここで主張したいのは、「優しさ」という概念を、ただ肯定したり、その反対に一概に否定するのでは無く、その内実をしっかり見ていく必要性です。「優しさ」が実現する社会なんて夢物語だとDavitRice氏は言いますが、実際は「優しさ」によってて今ある社会が回っている部分も多々あるし、そうである以上、「正しさ」だけでなく「優しさ」によって世の中を変える場面だって多々あるはずだと、僕は思うのです。

そういう、より精緻になされた「優しい議論」なら、DavitRice氏もイライラしんばいんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?

「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある

note.com
plagmaticjam.hatenablog.com
人がどういう風に学問や思想を学んできたかということを読むのは好きなので、1000円払って白饅頭氏の記事を読み、その後plagmaticjam氏の記事を読みました。

白饅頭氏の記事の要約

まず、白饅頭氏の記事を要約すると次のような内容になります。

  • 最近、経営者やそれなりの役職に就いている人と話すことが多いのだが、彼らは異口同音に「昔は自分もリベラル派に親しみがあったが、今はそうではない」と言う
  • 有名な哲学者である東浩紀氏も同じように言う
  • 社会的責任を持つと、リベラル派の言説というのは、現実から遊離した物に感じるのだ

 「自分で金を稼ぎ、社員を食わせ、顧客に価値を感じてもらう」という、俗世シャバの泥臭い営みのしんどさと尊さを知った東浩紀さんが、公金をジャブジャブつぎ込まれ、なおかつ子ども(の親)からの高い学費を受け取りながら「反権力」をやる人文アカデミアの人びとの、二重三重の意味で浮世離れした社会感覚に嫌気というか、ある種の「白け」を感じてしまっても無理はないだろう。

  • リベラル派は実際は権力の側にいるのに、反権力を気取って、その権力にふさわしいふるまいや責任を取ることから逃げている
  • リベラル派の論は、自分で社会の理不尽を経験せず、稼ぐ苦労もしらない「無責任」な立場だから言えるものなのだ

 大学を出た若者たちのほとんどは、仕事をしながら「社会」の厳しさを知ることになる。苦労も理不尽もたくさん味わう。だがそうしているうちに、年齢では年下だが、大学の先生方よりもずっと「大人」になっていく。かれらが威勢よく展開してきた論は、自分で食っていく、自分で稼いでいくことを知らない、まさしく「無責任」な立場だからこそ言えたのだと気づくようになる。

  • そしてそういうリベラル派に感化された若者は、実社会に適応できず、社会で何も為せない。
  • 自分が論を寄稿した雑誌を買うなと言う北守氏も、同じようにそういう社会で生きる人々の苦労を無視していている。

一般的な社会通念においてはまず絶対にありえないことだ。会社員がそんなことをしでかせば、普通にクビになってしまうだろう。少なくとも、まともなメンバーとして見なされることはない。ところが、人文アカデミアにおいてはそれが平然とまかり通ってしまう(「キャンセル・カルチャー」を特集するにあたり、その実例を前もって例示するハイコンテクストな販促パフォーマンスの可能性もあるが、おそらくは「真顔」だろう)。


(中略)


 出版社を経営し、雑誌ひとつ手掛けるのにも多くの人の労力があり、生活がかかっている。かれらの語る「正義」には、いつもそのような観点が欠落している。意図的にそうしているのではなくて、かれらは本当にそのようなレイヤーにある「名もなき人間の生活のリアル」を想像することができなくなっているのだ。

(ここは他者に対する批判だから、下手に要約して意図をねじ曲げるのは危険なことなので、長くなるが引用する)

  • 実社会に生きていれば、自分の考えを曲げなければならないことも多々あり、それが現実を生きるということだが、リベラル派はそれができない
  • 大衆はそういうリベラル派に愛想を尽かしているが故に、「常識」や「伝統」が再評価され復権しているのだ
  • 私は単純な知力や学力ではそういうリベラル派に及ばないが、大衆感覚を身につけているという点で、彼らより優れており、だから寄稿依頼や出演依頼がひっきりなしに来る


そして、そのような白饅頭氏の記事を受けて、plagmaticjam氏は、そのような感覚を白饅頭氏が持つようになった背景には、「自由であれ」と「社会に適応しろ」という、矛盾する二つの要求に挟まれた「狭間の世代」だったからという経緯があるのではないかと述べているわけです*1

白饅頭氏の記事を読んで覚えた既視感

読んだ最初の印象を語ると、「うわぁ、社二病だぁ」というものです。
bizspa.jp

同率3位:「社会ってそういうもんだよ」と酸いも甘いも知っている感を出す(18人)

 入社数年目では、まだまだ知らないことも多いはずですが、「自分はいろいろ知っています」と言った雰囲気を醸そうとするようです。

「社会の何を知っているのか実際の体験をもとに話してほしい」(28歳・男性・東京)

「社会の良し悪しを知っているし、それを受け入れられる自分カッコいいと思っていそう」(25歳・男性・東京)

 大した苦労もしていない人が語る「社会ってそういうもんだよ」が後輩に響くはずないですよね。

ただ、馬鹿にできないのが、こういった社二病的心性こそが、1990年代から2000年代において、新しい歴史教科書を作る会に代表されるような新保守主義の流れを生み出してきたともいえるからです。

「現場の感覚を信じる」ことこそが、カルト化を生み出した

『脱正義論』という本があります。小林よしのりが1996年に出版した本なのですが

白饅頭氏が述べたようなリベラル批判は、まんまこの本にも書かれているわけです。

曰く、リベラルは上から偉そうなことを言ってるだけの人間だが、実際に社会を運営し改善しているのは、市井に生きる大衆のプロフェッショナリズムである。若者たちよ、運動なんかやめて日常に帰れ!と、主張するわけ。まんま同じですね。

そして、そのようなことを主張する源流となったのが、1990年代に出版された『80年代の正体』という本に代表される、80年代のニューアカ・消費社会批判なんですね。

浅羽通明大月隆寛といった、『脱正義論』にも寄稿し、編集にも関わった人たちが論を述べているこの本は、80年代の、浅田彰中沢新一に代表されるようなニューアカや、上野千鶴子や新人類三人組(中森明夫野々村文宏田口賢司)に代表されるような消費社会擁護言説に対し、「大衆の身体感覚を無視している」と批判し、言葉や情報ではない自らの感覚こそを信用しろと主張したわけです。

そして、これら批判は一面では正しかったです。例えば、「フェニミズムは何も答えてくれなかった」という『物語の海 揺れる島』という本に掲載されているルポタージュがあるんですが、この本では、上野千鶴子のような消費社会擁護のフェミニズムに感化された高学歴の女性が、しかしそのような思想と、自らの女性としての身体に矛盾を感じるようになるという過程が記されています。

でも、じゃあそういう風に、言葉や情報と、自分の感覚に矛盾を感じるような女性がどこに向かったかといえば、オウム真理教だったわけです。

そして、それと同じように、『脱正義論』で日常に返ったはずの小林よしのりや、その信者であるコヴァ信*2は、やがて『戦争論

を経て、「新しい歴史教科書を作る会」のような新保守主義運動にのめりこんでいくわけです。

一体、自分の日常における感覚を信じる人々が、なぜそのようなカルト宗教や新保守主義運動にのめり込んでいったは、1990年代から2000年代の社会学現代思想における大問題で、下記のような様々な研究・分析が行われました。*3

それらの議論には、様々な違いがあるのですが、しかし共通して述べられているのが「『社会』というものが分断されつつあり、その中で『何が正しいか』ということも分断されつつある」という見解です。

高度経済成長期までの日本においては、会社に正規雇用されてきちんと働くことと、社会や日本という国全体を幸福にすることがイコールでした。白饅頭氏の記事や、浅羽通明大月隆寛と言った人々が「市井に生きる大衆のプロフェッショナリズム」を賞賛するのも、基本的にそういう人たちが仕事を頑張れば、それこそが社会や国家をよくすることにつながるという社会観があるからなわけです。

ところが、バブルが生まれ、そしてはじける中で、日本経済全体が均衡・縮小していくと、「新しく富を生み出す」のではなく「他人の富を奪う」ゼロサムゲームこそが、仕事の大部分を占めるようになるわけですね。

例えばハゲタカファンドで働く人。彼らは、彼らの職業倫理に従ってがむしゃらに働くわけですが、しかしそうやって一生懸命に働いて、様々な企業をディスカウントし「買い叩く」ことは、むしろ不幸を生み出していくわけです。

あるいは「地方おこし」。一見「自分たちが生きる地方に観光客や移住者を募る」ということは、立派な社会貢献に思えますが、しかし当然の帰結として、ある地方が地方おこしに成功して移住者や観光客が多くなれば、その分他の地方に向かう移住者や観光客は減るわけで、結局同じパイを奪い合って自分たちに利益誘導しているだけなわけです。

しかし、言葉や情報を無視して、自分の「感覚」だけを信じていると、こういう現実は見えてきません。その結果として、自分の半径数十メートルに閉じこもり、その外からの声を聴かない蛸壺ができあがってしまうわけです。

そして、それこそがまさに、カルト宗教や新保守主義運動に人々がのめり込む理由なのです。

オウム真理教において人々がサリンが撒いたのは、自分たちの閉じた集団の中ではそれこそが本当に、来るべき終末から世界を救うすることにつながっていたからです。新保守主義運動において「歴史戦」や「排外主義」に人々がのめり込むのも、彼ら集団の内部ではそれこそが本気で日本を守るために必要なことで、それをしなければ日本は滅ぼされてしまうという危機感があるからなんですね。

「自分の感覚だけを信じる」人だからこそ、サリンを撒けてしまう

彼らは、外から見れば確かに、現実から遊離した言葉の世界に閉じこもっているように見えるかもしれません。しかし彼らは彼らなりに、自らの「感覚」に忠実になっているからこそ、サリンを撒いたり、在日外国人に罵声を浴びせかけたりしているわけです。

ここら辺の当事者経験を、著書に記しているのが、今はすっかりリベラル知識人となった雨宮処凛氏だったりします。

もう知らない人の方が多いかもしれませんが、彼女は最初「ミニスカ右翼」として登場して、一水会というゴリゴリの新右翼団体にいたわけです。

彼女は、イジメといった、現実における苦しみを沢山味わったからこそ、全然右翼の思想の内実とか知らないまま、「感覚」に従って右翼活動に踏み出していったとこの本で述べています。その点で言えば、知識無き身体感覚の称揚がどんな結果を生むか、体現していたと言えるでしょう。

このような流れを知っていると、白饅頭氏の記事を読んでも、特に新しい気づきがあるわけではなく、「ああ、1990年代から2000年代にあったあの流れを繰り返そうとしているのね」としか思えなかったりするわけです。

白饅頭氏やplagmaticjam氏には、是非これらの研究をきちんと学んで、彼らが陥った隘路に至らない道筋、1990年代から2000年代に間違った彼らと自分たちが、何が違うのかを、見つけて欲しいですね。

人文リベラルに対してのイメージと実像

ところで、白饅頭氏は北守氏に代表されるような人文リベラルに対して「現実を知らない余裕ある象牙のある塔から口出す裕福な人々」というイメージを持っていますが、これって本当なのでしょうか?

僕は、北守氏を含めて、リベラル的だったり左翼的思想を持つ人たちと、現実で十数人程度出会ったりしているのですが、かれらのなかで、中流以上の安定した職業を持つ人って、2人ぐらいしか知らないわけです。問題の北守氏だって、そんな安定した身分ではない。

大体は、大学院で奨学金という借金を積み重ねながら研究していたり、非正規雇用で食いつないでいたりしながら、合間を縫って勉強したりデモに参加したりしているわけです。*4

「現実の厳しさを知る」ということで言えば、キツいバイトをしたり貧困生活を送る中で、むしろ彼らこそ「現実の厳しさを知っている」と言えるでしょう。

「今ここの社会」を全てと思うことが、ホロコーストを引き起こす

にもかかわらず、彼らは「今生きている社会」にただ適応するのでは無く、それぞれ社会に批判的な意見を持っていたり、「理想の社会」を追い求めていたりする。一体なぜか?

簡単に言えば、「今の社会のありようを肯定すること」が、必ずしも人を幸せにしないということや、今の社会とは違う社会のありようもあるということを、知っているからです。

白饅頭氏は「現実の社会の中で、おのおのの持ち場に割り当てられた仕事をきちんとやる」ことこそ重要と言います。

しかし実は、そのように社会システムに対し順応するために頑張ることこそが、ナチスドイツのホロコーストや、旧ソ連の大粛清のような虐殺を引き起こしたと言うことが、まさしく人文知が教えてくれることなのですね。

toyokeizai.net
アイヒマンという官僚は、まさしく白饅頭氏や、彼が仕事で付き合う経営者・管理者のように、「自らの仕事を頑張ることこそ、自分がやるべきことだ」という信条を持った人間でした。しかし、彼の場合、その仕事は、まさしくユダヤ人や様々なマイノリティを効率よく虐殺することだったわけです。

人文知なき「現場感覚」賞賛の行き着く先は、まさにこれなのです。

彼らが理想論を貫けるのは「今ここ」が全てではないということを知っているから

そのような悲劇を繰り返さないためにも。人文リベラルは、むしろ現実の社会に対し批判的となり、そうではない「新しい社会のあり方」を模索しているのです。

例えば、「人文リベラル」の代表格であり、白饅頭氏のような人が忌み嫌う社会学は、今の社会を「前近代」や「(初期)近代」と対比し「後期近代社会」と呼びます。

つまり、今ある社会というのは、たまたま今という時代状況に生まれたありようであり、決して永遠不変のものも唯一無二の者でもないわけというのが、社会学という学問の基本認識なんですね。

先日逝去した見田宗介という社会学者は、真木悠介という筆名で、『時間の比較社会学』という本を出していますが

社会学者にとっては「時間」という概念ですら、時代・場所が違えば異なるという認識なのです。

(しかし昨今は、見田宗介氏のように、社会調査の一方で、巨視的に社会を捉え、その二つを結びつけるのでは無く、コマゴマとして計量調査だけやる社会学者の方がむしろ多かったりするんですがね。そんな中で見田宗介氏のような人がなくなったのは本当に惜しい。ご冥福をお祈りします)

あるいは、「経験」「感覚」という面に着目すれば、現代の「仕事を頑張って、その日暮らしではない、きちんとまともな職業につく人こそ偉い」という感覚すら、実は特殊なものだったりすることが、下記のような社会学文化人類学の調査で明らかになるわけです。

文化人類学社会学の人文知は、まさしくフィールドワークによって人々の「現場」に直に赴き、仕事や生活を体験したりするわけですが、しかしそうやって調査をすればするほど、「今の日本社会」を相対化する視座を得ていくわけです。

そして、僕を含めた人文リベラルや、自身でこういう研究をしたり、研究書を読むことによって、「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知っているわけです。

白饅頭氏や、彼が付き合う経営者・管理者は「今ここの社会の厳しさ」を、人文リベラルが知らないと言いますが、人文リベラルの多くは、プレカリアートと呼ばれるような不安定な身分なわけで、「今ここの社会の厳しさ」は十分知っているわけです。

しかし一方で、それが世界の全てではないことを知っている。だから、それに縛られない。それだけなのです。

「今自分が生きる現実」が全てと思わないために、人文知やサブカルチャー、インターネットはある

plagmaticjam氏は、自分や白饅頭のような人が、失われた30年を生きる厳しい状況の中で、社会適応の重要性を知った「狭間の世代」だと言います。

しかし、一応僕も1987年に生まれ、失われた30年に成人した人間ですが、「社会適応」なんてクソ食らえと思っています

ロスジェネの人たちはよく「自分たちが自己責任信者になったのは、社会がそれを強いてきただからだ!」と言います。それは一面では確かに事実なのですが、しかし僕や、僕以外にも、失われた30年を生きる人たちにも、そういう「社会適応なんてクソ食らえ」と思うことができる人は数多く居ます。

例えば、先日『NEEDY GIRL OVERDOSE』という大ヒットゲームを生み出したにゃるら氏、彼は、エッセイの中で述べられているとおり、親と対立したり、大学を中退して引きこもったりと、かなり厳しい人生を経験してきました。

しかし彼は、むしろ社会に適応しないのも「あり」だと言うわけです。

その背景にあるのは、彼が人生の中で体験してきた、幾多のアニメ・マンガ・ゲームや、その他サブカルチャーです。

文化というものは、まさしく人文知と同じように「今ここの現実」が全てではないということを教えてくれます。しかも人文知と違い、楽しくそれが学べるわけです。

また、僕は最近VTuberという存在にはまっているのですが、VTuberの多くは、自らを「社会不適合者」と自嘲し、「VTuberにならなきゃただのダメ人間」と言ったりします。実際、遅刻常習犯だったり、コンプラ無視の配信を繰り広げる彼・彼女らは、現実社会ではまともに生きていけないでしょう。

ですが、そんな彼・彼女だからこそ、その配信は無茶苦茶面白いわけです。少なくとも、どっかの動画サイトで偉そうな経営者の人生訓を聞くよりずっと。

ここでは、「インターネット」を現実社会と切り離した場として活用することにより、「現実社会でダメ人間でもインターネットで輝ければいいじゃん」と思えているわけです。

今という時代ほど、様々なサブカルチャーに触れることができる高度な情報社会はないわけで、そして多くの若者はそれを利用して、「今自分が生きる現実」が全てではないことに気づいている。

そういう彼らを見ると、「社会が悪いから自分がこうなったんだ」と愚痴る、ロスジェネや白饅頭氏・plagmaticjam氏のような存在は、どうも「現実社会の厳しさ」に甘えているようにしか見えないのですね。

白饅頭氏・plagmaticjam氏のような人こそ、本気で人文知を勉強したり、あるいは病的なまでにサブカルチャーやインターネット文化のめり込むべきなんじゃないかと、僕は思うわけです。

追記(2022年4月12日 1:57)

「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

この記事の前半の内容はまんま『ゼロ年代の想像力』に書かれていることで、そのことを知らないはずのない筆者が、参考文献としてまったく触れていないのは知的誠実さを欠くのではと思った…

2022/04/11 17:59
b.hatena.ne.jp
この指摘は全くそのとおりで、呉智英浅羽通明大月隆寛あたりのサブカル保守の思想が、いかに1990年代においてメルクマールとなったか。そして、その思想が隘路に陥ったかという話は、ほぼ宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』と北田暁大氏の『嗤う日本のナショナリズム』から学んだ話になります。それを書かなかったのは本当に知的誠実さにかける。申し訳ない。

言い訳になってない言い訳をさせてもらうと、このお二方の著作は、ほんと僕の血肉になりすぎているもので、この記事に限らず、僕が書く文章は多かれ少なかれお二方の影響下にあるんですね。それぐらい当たり前にありすぎるから、出典をついつい入れ忘れちゃうわけです。いやぁ本当に申し訳ない……

お詫びとして、特に『ゼロ年代の想像力』とかについてはまた改めて、この2022年から『ゼロ年代の想像力』を読むという記事を書きたいんだけど、それはそれとして、みんなもっと宇野氏の著作には注目したほうが良いと思うんだよな。東氏の論って、美少女ゲームとかの、たしかにはてなとかとは親和性を持つけど、結局狭い範囲の文化・クラスタを対象にしたものだったけど、宇野氏の著作はそれよりずっと射程が広かったし、より「はてなに親しむような私たち」を相対化してくれるものだったわけで。読んで気づきを得られるのは、圧倒的に東氏より宇野氏の本の方なわけでさ*5

*1:plagmaticjam氏の記事は、無料で公開されているので、ちゃんと知りたい人は自分で読んでください

*2:小林よしのり信者」を少々揶揄的に呼称するネットスラング

*3:まさしく僕が社会学を専攻した大学生・院生時代の研究テーマもここら辺だったわけです

*4:僕自身、正規雇用には就いていませんし、有利子奨学金の返済が数百万程度残っています。

*5:ぶっちゃけ東氏の議論って、今も昔も「俺たち時代の最先端ですごいよな」でしかないんだよな。昔は「俺たち」が美少女ゲーマーで、今は白饅頭のような人になってるだけで

「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」を相手にしなきゃならない現代


どーもドラえもんという作品は、こういう風に、作品の意図を無視して一コマだけ切り取られることが多くて、他にも
みたいに指摘される曲解切り取りがなされることがあったりして、藤子・F・不二雄ファンとしてはほんと忸怩たる重いがあるわけですが。

でもまあ、これら切り取りって言うのは、それこそboketeでドラえもんが数多くネタにされるように
bokete.jp
「作中では別にそんな変な意味ではないものの一部を切り取り、そこに別の面白みを見いだす」という、『VOW
www.1101.com
に代表されるようなサブカル的面白がり方なわけで、そういうサブカル的な面白がり方自体の是非はともかくとしても、「分かっていながら敢えてやっている」ことなんだろうなと、思っていたんわけです。

しかし、↓の記事に対するはてブの反応を見ていると、どうやらそれは、人々のリテラシーを過大評価していたのかなと、思ったりしました。
lastline.hatenablog.com
この記事、結論自体に賛成するか反対するかはともかく、マンガの読み解きとしては至極まっとうなことしか言ってないわけです。

ところが、はてブではこんなコメントが付く始末で

ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

何これ?あれだ、AV女優が服を着るとエロいと感じる人と同じ感性だ。恐ろしいよな、自論を述べると性癖が漏れるという。ちなみに、悪い事とは思いません。

2022/04/08 19:37
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

巨乳がえっちだからダメなら、リアルの巨乳の人は街歩くなっていいたいんですか??

2022/04/09 15:04
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

巨乳はわいせつという説

2022/04/09 15:09
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

「スカート丈や胸の大きさからえっちだと主張」←現実に胸が大きくスカート丈を短く加工してる女子高生が大勢実在するが、その女子高生達も「ちゃんと見て!えっちでしょ」「えっちだと認めないのはカマトト」て事か

2022/04/09 15:35
b.hatena.ne.jp
ちゃんと絵を見て!たわわの全面広告は「えっち」でしょ - 最終防衛ライン3

AV女優さんが女優に転身して、おっぱいが売りだけど真面目なコンテンツも批判できる論法やね。クソだなぁ。否定し、批判する。

2022/04/09 17:06
b.hatena.ne.jp
まあ、「マンガを読み解く」というリテラシーとは無縁そうな人たちのコメントがゾロゾロと出てくるわけです。

今回の騒動では「オタクv.s.ツイフェミ」というような対立構図が、多く描かれていますが、僕としてはそれよりむしろ、上記のようなコメントに代表される
「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」と「マンガを読み解くリテラシーをきちんと持つ人たち」という分断こそが、真に深刻な問題なんじゃないかと、思う訳です。

日本のマンガは、それを読み解くのに高度なリテラシーが必要。なのに日本人の多くは子どもの頃からマンガを読む力をきちんと身につけている、スゴイ!なんてことはよく言われるわけですが
sanpogarden.hatenablog.com
実際は「日本人でさえ、日本のマンガをきちんと読み解けているのはごく一部なのかもしれない」わけです。

で、そういう人たちが、それこそ藤子・F・不二雄氏の描く漫画のような、複雑で両義的な意味を持つマンガ表現に接すると、その両義性を理解できずに、1コマでだけ見て短絡的なプロパガンダとしてマンガの意味を誤解するわけです。

多くの「マンガの表現」の是非に関する論争は、肯定派も否定派も、短絡的なプロパガンダとしてしか、当該のマンガを読めていないと言うことが多々あるわけです。そしてそうなれば当然、「プロパガンダ規制」という文脈から、マンガの表現規制のような議論も出てきてしまう。

これこそ真の意味での「表現の自由の危機」だと僕は思うんですがね。

ではこういう危機に、大衆全体に向けて表現をする表現者はどう対応するか?僕は、二重戦略しかないのかなと、考えたりしています。
つまり、「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」向けには、コマ単体で見て理解できる、単純で、かつ無味無臭なメッセージを、デコイとして用意しておく訳です。そのデコイによって、規制をかいくぐる。
そして、そういったデコイの裏に、「マンガを読み解くリテラシーをきちんと持つ人たち」だけがきちんと分かる、複雑で、その表現者独自のものであるメッセージを込めるわけです。

日本は諸外国と比べて文化資本が享受しやすい国だから「マンガを読み解くリテラシーがない人たち」なんて存在しないだろ、という幻想を持ち得た時代なら、こんな複雑なことをしなくても済んだわけで、日本における「表現の自由」に関する議論の多くは、この程度の最低限のリテラシーが国民に備わっていることを前提にしていたのですが、もはやそういう幻想は持ち得ないわけで……

(まあ僕は、ぶっちゃけそんな○○どもの相手をするのはダルくて仕方ないだから、「分からない人」は無視して、「分かる人」だけを相手にしますがね。)

問題は「広告表現」への責任を背負う覚悟が誰にも無いこと

www.huffingtonpost.jp
記事の内容について、

「『見たくない表現』というけど、広告全体が既にほとんどの人にとって見たくない表現だよな」

とか

「『広告のジェンダー平等』とかいかにも電博あたりが考えそうなお題目」

とか

「『こういう女の子はエッチだな』と『こういう女の子は痴漢して良い』の間には壁があって、その壁こそ重要なんじゃないの??」

とか色々考えながらスマートフォンで記事を読んでたんですが、記事の途中で以下の様な広告が挟まりまして
f:id:amamako:20220409102149j:plain
大爆笑して考えたこと全て吹っ飛びました。

何が広告として出稿されるか、全く気にしない人々

でも、ある意味このスクショこそが今回の騒動の本質を捉えてると思うんですね。

つまり、大手新聞やテレビ・ラジオ、またそれらに関係する人々が運営しているメディアにおいて、「一体自分たちのメディアにどんな広告が載せられているか」気にしている人なんて誰もいないんですよ。一応社会の木鐸たる姿勢は見せなきゃいけませんから、建前として「広告のジェンダー平等化」とか言いますが、それが実際に現場で守られているかなんてしったこっちゃないし、それを批判する側ですら、実際に載っている広告を見ればそんなこと気にしてないことが明白なわけです。

そしてその結果、広告は倫理もなにもない闘争の場になる。その闘争の場で何が争われるかと言えば、まさしく前回の記事で述べた「価値観同士の文化闘争」なわけです。
amamako.hateblo.jp

広告に携わる人々が、飯の種にこういう「闘争」を見て見ぬふりしてきた結果がこれだ

そして、更にその「文化闘争」をどうしようもないものにしているのが、広告に携わる人たち自身が、それを見て見ぬふりしているということです。

前回の記事に対し、広告肯定派・否定派双方から色々なコメントがありました。まあそれ自体はいいことです。ブルデューの『ディスタンクシオン

に結びつけたコメントもあったりして、「コメント欄には聡明な人も居るんだなぁ」と膝を打ったりもしました。

しかし中には、以下の様に「こいつら一体何言ってんだ?なんでそれで前回の記事を論破できたとか思えるんだ?」と思うコメントもありました。

「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について - あままこのブログ

「購買行動に(直接的に)繋がらない広告」は、わりとありふれていますよ。たとえば道頓堀のグリコを見て買いたくなる人が何人いるか?みたいな話。「PR」や「広報」についての書籍をいくつか読むといいと思います😊

2022/04/07 14:50
b.hatena.ne.jp
「広告」という文化ヒエラルキーなきあとの文化闘争の舞台について - あままこのブログ

まずはAIDMA、AISASから勉強しようか。

2022/04/07 23:14
b.hatena.ne.jp
通常の理解力があれば言うまでも無いことですが、前回の記事は、そういう通常の広告の機能を理解した上で、しかしそれでは、今回の広告そのものや、それへのバッシングは説明できないから、通常のマーケティング理論では説明しない、「隠された機能(社会学で言う「逆機能」)」があるのではないかということを述べ、その隠された機能を「示威的広告」という概念で説明しているわけです。

しかし、なぜかid:Rootportid:fujiday1975のような輩は、広告のマーケティング理論を知っているにもかかわらず、その程度の理解もできない。一体なぜなのか?

はっきりと言いましょう。それを理解し、認めてしまうと、彼らの仕事に必須不可欠な嘘が明らかになってしまうからです。

例えばAIDMAやAISAS、これらの言葉は以下の様な意味です。

AIDMA
  • Attention(注意)
  • Interest(関心)
  • Desire(欲求)
  • Memory(記憶)
  • Action(行動)
AISAS
  • Attention(注意)
  • Interest(関心)
  • Search(検索)
  • Action(購買)
  • Share(情報共有)

今回の広告を上の図式に当てはめようとすると、AかIぐらいでしょう。しかしこれは明らかに無理があります。実際は、広告を見た時点で、あの広告を支持する価値観を持った人は一気にD、広告用語を行動や情報共有と考えればActionやShareまで行ってますし、また逆に広告に反対する人たちは、逆の気持ちでDや、A・Sまで行っているわけです。

あるいはもっと極端に例えて、「糞尿」についての広告を考えましょう。id:Rootportid:fujibay1975みたいなことを言う、横文字大好きの広告マンが「今回の広告は、糞尿をほしがる欲求までもっていくものではなく、あくまで糞尿に対する認知を促すものです」とか行って糞尿の写真を新聞の一面広告に出稿したとします。そのときそれを見た人が認知の段階で止まりますか?スカトロ趣味以外のほとんどの人が嫌悪感を抱くところまでいくでしょう。

つまり、社会的にその存在に対する価値観が割れているものに対して認知広告をしたって、その効果が「認知」にとどまるわけがないんです。そして更に言えば、賢いマーケティング専門家が、そのことに気づかないわけもない

にもかかわらずid:Rootportid:fujiday1975のような輩は、この騒動に対し全く無力なマーケティング理論を、まるで銀の弾丸のように振りかざす。なぜそうなるかといえば、そのようなAIDMAやAISASというような言葉で語れる要素以外の要素が広告にはあると認めてしまうと、彼らのおまんまの食い上げになるからです。

その要素とは何か?それはイデオロギーです。

AIDMAやAISASは、基本的にある前提の元に成り立っています。それは、その広告を求めるひとがイデオロギー的に無色透明であり、また、紹介されるものもイデオロギー的に無色透明なものであるという前提です。だから、広告を見た人は、その広告されたものに対して素朴に「認知」の段階で留まるわけです。

ところが実際は、イデオロギー的に無色透明なヒト・モノなんてどこにもありません。つまり、上記のような環境は実際にはあり得ない、虚構の状況設定なわけです。
ところが、現代の広告システムというのは、その虚構の状況設定によってなりたっているわけです。

つまり、「どんなものを紹介する広告でも、それが認知の段階で留まっているのなら、それは中立性を持つものだから、自由にメディアに載せて良い」という嘘を正当化する道具として、AIDMAやAISASのような理論が金貨百条のように扱われているのです。

そして、そういう嘘にまみれているからこそ、広告屋は戦争や人道危機でさえ「広告」の対象にできるのです。

戦争を売り込む広告代理店の連中はこう言います。

「私たちは、一方の民族が差別やジェノサイドを行ったかもしれないという情報を『認知』させただけ。それでどう思うかは人々次第」と。

これがいかに詭弁であるかは、もはや言うまでも無いでしょう。

そしてだれも「広告表現」に責任を負わない、そのことにこそ人々は失望している

そして、そのように「認知を促しただけ」という言い訳が、出稿する代理店と、出稿されるメディア双方に共有された結果、例え広告表現が、イデオロギー的な偏りによって誰かを傷つけても、誰も責任を取ろうとしない、そういう無責任の体系をつくり上げているのです。

ここでいう「責任を取る」とは、広告を取り下げたり修正するということだけではありません。もし、広告主やメディアが本気で広告に対し責任を持ち、しかもその広告表現のメッセージが正しいと思うなら、批判に屈せず断固として広告を表現し続けるというのも選択肢でしょう。以前LOFTの広告が炎上したとき、僕はそういう態度を望みました。
amamako.hateblo.jp
ところが実際は、何の責任感もないから、誰かを傷つけるかもしれない広告を安易に発表し、何の責任感もないから抗議を受けたら安易に取り下げる訳です。その結果、人々は広告と、更に言えば広告を載せているメディアに対し信頼を喪失するのです。彼らには「広告はあくまで認知を促すものなら政治的に中立」なんていう、id:Rootportid:fujiday1975が示すような広告ムラの内輪の論理は通用しませんから。

言いたいことは一つ、「広告」も含めてメディアは自分の表現に責任を持て

「広告のジェンダー平等化」なんて、いかにも電博が思いつきそうな戯れ言ですが、しかし実際は、どのジェンダーにも平等な表現なんてものはあり得ません。何かを表現しようとすれば、かならずそれはどれかのジェンダーに味方し、逆にどれかのジェンダーに敵対するものなのです。

そうである以上、「広告の表現に責任を取る」とは、どのジェンダーにも平等なものを目指すなんてことではなく、自分たちの表現がどのジェンダーに味方するものかをきちんと自覚し、確信犯となることなはずです。今まで虐げられてきた女性に味方するか、敢えて今過剰に叩かれる男性に味方するか、あるいはどちらにも無視されるトランスジェンダーに味方するか……どれを選ぶにせよ、それは、その選択されたものに反発する人たちの嫌悪を真正面から受け止めるということでもあるわけです。

それができないメディアは、日経のような既存メディアだろうが、あるいはハフポストのような新興のWebメディアだろうが、人々から信頼されることはないでしょう。