あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「マイノリティに寄り添う」ということの曖昧さに潜む罠

女性向け下着ブランドの代表が炎上した件について、周囲の騒動をひとまず置いておいて、直接代表が書いた文章から考えてみる。

togetter.com

どんな性でも性的な魅力で異性を応援したってよくない?
そしてわたしにはそもそもあの広告が性的とは感じられませんでした。
胸が大きい女子高生は実在するし、制服をミニスカートで履きたい!って方も多くいると思います。実際、わたしもそうでした。


月曜日のたわわ4巻まで読了しました!
感想は、胸が大きい女性のことが好きな男性のロマンを詰め込んだファンタジーギャグ漫画なんですね。
確かに未成年の肉体に性を感じている描写がありましたが、それを決して読者に勧めている内容ではありませんでした。


男性も相手に嫌われないよう、理性を踏み越えないように葛藤する空回りがギャグポイントというあたり。
そもそも漫画世界なので、現実とは別ですよね。と捉えました。


これを読み、女性機関が言っている、「明らかに未成年の女性を男性の性的な対象として描いた漫画の広告を掲載することで、女性にこうした役割を押し付けるステレオタイプの助長につながる危険があります」は、善悪を判断できる男性、嫌だといえる女性に対して失礼だなと感じたところです。

代表の私自身、またHEART CLOSETは大前提として、未成年を性的な対象とする風潮を奨励しません。未成年を性暴力や犯罪から守るのは当然のことであり、私自身とても大切に考えています。


そして、他者が誰かを性的であると勝手に判断し、押し付けることはあってはならないことだと考えております。


にもかかわらず、なぜこういった事態を招いてしまったのか説明いたしますと、自身が常にマイノリティで生きてきた中で、自分自身を肯定したり、マイノリティの他者をまず肯定し、思いやるというスタンスを持ってきたことが背景にございます。
今回の件についても、一律に否定するとそこから漏れてしまった方たちを萎縮させてしまう状況を作り出してしまうと思ったからです。


しかし、今回は単純には肯定していけなかった事象について、単一的な面だけを切り取り肯定してしまったこと、深く反省しております。

問題になったツイートと、それに対するお詫びの文章を読んだとき、まず思ったことは、「ツイートに対する釈明やお詫びになっていないような気がする」という感想でした。

そもそも別にツイートでは「マイノリティの他者を肯定」とかいう話は全然出ていないわけで、そのような気持ちがツイートした理由になっていると説明されても、その二つにどういう関連があるかいまいちよく分からないですし、事実Twitterでも下記のツイートのように、文章の解釈を巡って混乱が生じています。


今回の騒動に登場するアクターを整理すると

  • 『月曜日のたわわ』のファン
    • 『月曜日のたわわ』に登場する女性キャラクターを性的な対象として消費する人
    • 『月曜日のたわわ』に登場する女性キャラクターのように自らの性的魅力を利用したい人
  • 『月曜日のたわわ』の広告を掲載した側
  • 『月曜日のたわわ』の広告を批判する側
  • 胸の大きな人
    • 胸が大きいことを自己アピールとして利用している人
    • 胸が大きいことに注目されるのを嫌がる人

というように、様々なアクターが存在し、また更に言えばそのどれもがマイノリティである、または自分がマイノリティであることを主張している人だったりするわけですね。

その中で、では代表はどのマイノリティを肯定し、思いやろうとしたために上記のツイートを投稿したのか。それが不明確なのが、上記の「お詫び」の解釈が分かれてしまう一番の原因なのだと思います。

「マイノリティ」というラベリングそのものの曖昧さ

ただ、このように解釈が分かれてしまうのは、単純に文章が推敲されていないということ以外にも、そもそも「マイノリティ」という概念そのものに問題があるのだと思うのです。

マイノリティとは、直訳すれば少数派ということです。ただ、一般にその言葉が社会問題や社会運動の場面で使われるとき、その言葉には「社会によって抑圧されている」とか「弱者である」といった含意が含まれます。例えば、身分制があった過去の王国などでは、少数の貴族や特権階級が多数の人々を支配していることがありますが、そういう貴族や特権階級のことは普通「マイノリティ」とは呼ばないわけです。

具体的に名前を挙げるならば、「女性」「有色人種」「障がい者」などなどが挙げられます。ここで「女性」もマイノリティに挙げられるということが結構重要で、あるグループが「マイノリティ」であることは、数の多少よりも、そのグループが抑圧を受ける社会的弱者であるかが問題なわけです。

そして、そういう定義である以上、あるグループがマイノリティであるかというのは、そのグループ自体が決めるというよりは、そのグループを社会的にどう扱うか決める、外部の社会が決めることなのです。「女性」も「有色人種」も「障害者」も、自ら望んでマイノリティになっているのではなく、社会によってマイノリティとラベリングされているわけです。

マイノリティ同士だからって、仲良くなれるわけではない

このことが何を意味するかといえば、「マイノリティ同士だからって、好き好んで共通している要素なんて実はあまりない」ということです。もちろん、実際は多数派の社会に対抗するために、異なるグループが「マイノリティ同士の連帯」を主張することはあります。しかしそれも結局、多数派の数に対抗するための戦略的な連携な訳で、心情的に「マイノリティ同士だから理解し合える」という要素って、実はほとんどないのです。

事実、マイノリティのグループ同士が対立しあうという問題は、社会運動の歴史で多々ありました。有色人種の運動のマッチョイズムが女性運動から批判されたり、あるいは女性運動の異性愛中心主義が同性愛者から批判されたりと。こういうのを見ると、「マイノリティに寄り添う」側はついつい「同じマイノリティなのになんで仲良く出来ないの」と思ってしまうわけですが、しかしそれこそまさに、マイノリティを「マイノリティ」とラベリングする、多数派の視線を内面化した傲慢なわけです。

重要なのは、「マイノリティ」というラベリングではなく、個別の人たちにどう向き合う実践をするか

お詫び文章では「マイノリティの他者をまず肯定し、思いやる」ということが書かれています。それは、行動の原理原則としてはとても大事でしょう。しかし、他者が好き好んで「マイノリティ」になったわけではない以上、実際に他者と相対するときには、「マイノリティ」というラベリングは抜きにして、個別の人たちにまずは向き合う必要があるはずなのです。

そうすれば、代表が肯定したいと考えている「胸の大きな人」の中にも、『月曜日のたわわ』のような表現を批判的に見る人がいるということが理解できるはずだったのではないかと、僕は考えます。

そして、更に言えば、『月曜日のたわわ』を肯定する人と批判する人の両方がいて、そのどちらもある意味マイノリティと言える以上、全てのマイノリティを無条件に肯定するのは不可能なわけです。

しかしそのことは「だから一方に荷担して他方の敵となるしかない」ということではありません(ネットでは往々にしてそのような極論に走ってしまいがちですが)。対立する双方の主張を聞き、それぞれの理を理解した上で、「でもここはやっぱり肯定できない」と言うことは、ただ全肯定するよりよっぽど誠実な、マイノリティに対する態度だと、僕は思います。

ただそれは、そもそもTwitterのような「全肯定/全否定」しか書けないようなSNSではできないわけで、そう考えると、やっぱり今回の件について安易にTwitterでつぶやいたことが、間違いの発端なんじゃないかなぁと、思ったりもします。

データベース消費の成れの果てとしての、プロパガンダ"未満"マンガ「ヤマーダクエスト」

amzn.to
togetter.com
「寒いプロパガンダ」という評が言われてるけど、なんつーか、お前らプロパガンダ舐めんなと思います。

上海に旅行に行ったとき、プロパガンダポスター専門の美術館にわざわざ行ってきた
amamako.hateblo.jp
僕からすれば、こんなもんプロパガンダ未満ですよ。

戦争論』とかと同列視するのは、『戦争論』に失礼

ついでに言うと、小林よしのりの『戦争論

とかとこのマンガを同列視しているツイートも散見されるけど
小林よしのりとか、あと山野車輪の『マンガ嫌韓流』とかをずっと批判してきた僕からしても、「こんな稚拙な表現と一緒にしないでくれ」と思う訳です。

小林よしのりにしろ、山野車輪にしろ、彼らの表現っていうのは、「違う主張を持っていたり、そもそも主張を持っていない人に向けて、自分の主張を受け入れさせるためのもの」なんですね。というか、そもそもプロパガンダとはそういうものなんだけど。

で、その為に彼らは、一般の人々の心に寄り添い、その心情や不安をうまくすくい取る描写を盛り込み

自分の存在が異端であることをきちんと描写しながら

しかし自分が、なんで「目覚める」ことができたかを表現し

そして更にマンガ特有の感情移入を呼び起こしたりして

様々な技巧を使って、異なる立場を説得しようとするわけです。

一方、「ヤマーダクエスト」の方はといえば、徹頭徹尾オタクの内輪受けでしかないわけです。


これらのコマに、「表現の自由界隈のオタクの内輪笑い」を狙う以外の一体何の意味があるのか?
例えばこれが小林よしのりなら、下記のようにありったけの絵と文字を使って「その単語にどういう意味があるか」説明するわけです。

なぜなら、小林よしのりはそもそも「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」なんてことを知らない人に向けて、マンガを書いているからなんですね。

しかし「ヤマーダクエスト」にはそんな「他者を説得しよう」という要素は一つも無いわけです。徹頭徹尾、内輪向けの自己満足マンガ。そんなもの、プロパガンダとすら呼ぶに値しません。

彼らにとって「表現の自由」とは、自分たちが興奮できる「萌え属性」の一つにすぎない

しかし、なんで彼らの表現がここまで稚拙なのでしょう。
その答えは単純です。「彼らは物語を作ることができず、ただデータベースに萌えてるだけだから」です。

中国のプロパガンダポスターにしろ、小林よしのりゴーマニズム宣言にしろ、彼らはその表現によって、「毛沢東に率いられた中国共産党共産主義が世界を解放する」であったり、あるいは「大日本帝国はアジアを解放するために戦い、その歴史は日本人の自信と誇りになっている」であったりというような、一つの物語を描こうとしているわけですね。そして、その物語の魅力によって、人々に共産主義だったり大東亜戦争肯定論のような主義・主張を植え付けようとしている。

ところが、「ヤマーダクエスト」や、表現の自由戦士たちの表現には、そもそもそういう物語は存在しません。あるのは「表現の自由は大事」「女性の性的表現を規制しようとするのはブスの僻み」「日本文化は大事」というような、断片的なフレーズのみ。そのフレーズに同調し「そうだそうだ」と興奮できるひとは興奮できるけど、そうでない人にとっては全く意味不明な表現でしかないわけです。

なぜそういう表現になってしまうかといえば、表現の自由を守ろうとするネットのオタクたちが、そもそもそういう形でしか興奮できないからなわけです。物語に興奮するのでは無く、フレーズに興奮する。

これは、まさしく東浩紀が『動物化するポストモダン』で表現した「データベース消費」なわけです。


東浩紀が『動物化するポストモダン』で示したのは、オタクたちが「悪い宇宙人から地球を救う」とか「正義と悪に割り切れない戦争の中で戦う少年たち」のような物語では無く、上記の図にある「猫耳」「メイド服」のような、オタクのデータベースに登録される萌え属性に興奮するようになったという話なわけですが、表現の自由戦士たちはその様式をそのまま政治の世界に持ってきて、表現の自由のために戦うもの」とか「アンチフェミニズム」とかいう属性に酔ってるだけなのです。

しかし、「物語」は、異なる立場の者にも理解可能な物ですが、「データベース」は、それを共有する者同士の内輪でしか通じません。

例えば毛沢東主義にしろ大東亜戦争肯定論にしろ、もちろん彼らの主義を容認はできませんが、しかし「虐げられたもののために立ち上がる」という物語自体は、それを否定する人にも理解はできるわけです。しかし「表現の自由」という単語だけでは何のこっちゃわけがわからないわけで、それを他の人に理解してもらうには、一体その概念がどう、オタク以外の一般の人々を豊かにするかの「物語」が、本来は表現されなければならないのです。

ところが、彼らはマンガでプロパガンダをしようとしながら、そういう「物語」を描くことができず、ただ内輪でデータベース消費をするだけのマンガしか描けない。しかしそんな形でプロパガンダを描こうとしても、結局それはプロパガンダ未満の自己満足マンガにしかならないのです。

きっとこの世の殆どの人は善人で、だから世界は残酷だ

なんか眠れないので、今思ってることをつらつらと書いていく。

 

いちおう書いておくと、僕はこれから「論理」の話は一切しない。そうでなく、徹頭徹尾「感情」の話をする。

 

Twitterの凍結が解除されて、ふと思いついて、自分をフォローしているアカウントを適当にフォローバックしてみた。そうすると、この世の中が改めて分断されていることに気付かされる。

 

新聞広告のマンガの件にしてもそうだ。広告肯定派と否定派、それぞれがそれぞれ自分たちの正しさを主張し、自分の意見と同じ立場からの、「気の利いたツイート」をRTしていく。

 

それを見て、もちろん個人的に、この意見は分があるなとか、その意見はちょっと違うんじゃないかとか思うことはあるのだが、それ以上に思うのは、その二つの立場のかみ合わなさだ。

 

このかみ合わなさをなんだろうとかんがえるために、一旦TLや現実を離れて、自分が同情できる、「理想の主張者」について考えてみる。

 

まず肯定派の方。

 

少年は、あまり世間になじめない中で、必死にマンガだけを勉強し、上達させていった。そして、やがてマンガが世間に認められ、マンガ雑誌に掲載され、新聞広告にまでなる。

 

ところが、そこでいきなりそんな漫画存在してはいけないと否定される。

 

一方否定派の方。

 

少女は、いつも自分の胸の大きさを、性的な目で見られてきた。そのことは少女にとってとても嫌だったが、耐えるしかなかった。

 

しかし最近になって、やっとそういう目で見ないでと、言ってもいいんだと気付いたし、社会もそういう目で見ることを許容しなくなってきた。よかった。やっとこれで、自分がそういう目で見られずに済むんだと。 

 

しかしある日、新聞広告を目にすると、胸の大きさを性的な目で見るマンガの広告を目にする。結局、この社会は変わっておらず、胸の大きい女性はそういう目で見られるのか。

 

もちろん、これはあくまで「理想化」した姿だ。だが、こうやって理想化してみると、どっちの少年少女もかわいそうに見えるし、応援したくなる。

 

そして、それぞれの主張を支持する側に見えているのは、まさしくこうした理想化されたかわいそうな存在の片方であり、だからこそ「この少年/少女を助けなければ」と、思ってしまうのだ。

 

これが、どっちかが完璧に同情出来ないならよかっただろう。少年を批判してるのが、ただ性的な表現は風紀を乱すから行けないと考えているようなヒステリックな人であったり、あるいは少女が嫌うマンガを書く人が、女達を性的な目線で見るのは男の権利だ、文句言うなと考えるような外道であったり。実際、こういう風に対立相手を「悪魔化」するツイートも多々見てきた。

 

しかし実際は、そういう悪魔もいるかもしれないが、大多数は「かわいそうな目に遭っている人がいるから助けてあげよう」と考える善人なのである。

 

善人同士が自らの善性でもって「誰かを助けたい」と思うその心が、この世に対立の種をまき、衝突と不和を引き起こすのだ。

 

その世界の残酷さが、今日も僕を眠れなくする。

「堕落したい」と思うことは保守か革新か

goldhead.hatenablog.com
上記のid:goldhead氏の記事が、読んでいてとても面白いなぁと思ったので、自分も記事を書いてみる。

僕は、自分自身が信じられないから革新なのかも

上記の記事では、「革新」を、今ある状況を否定してそれを進歩させていくものとして捉え、「保守」はその反対に、今ある状況を肯定し、それを維持していく考えだとしている。

そして―これが読んでいて面白いところなんですが―id:goldhead氏は、その分類で言うなら、自分は自分自身を変えて高めるために頑張っていきたくないから、自分の内面に対しては保守主義なんじゃないかと考え、それを「我が内なる保守主義」と呼んでいるんですね。

こういう論法というのは、既存の保守勢力や革新勢力というものから一旦離れて、原理的に「保守」や「革新」とは何かを考えるために、極めて筋の良い思索なんじゃないかと思う訳です。

そして、自分に照らし合わせて考えてみたとき、まず思ったのが「僕は完全に『我が内なる革新主義』だな」ということです。

ただ、上記の記事では、「我が内なる革新主義」の例として、ビジネス書とかセミナーとかに参加して、自分を成長させていくという人を挙げているのだけれど、僕は、そういうタイプではありません。むしろ働くのとか大嫌いだし。

そうでなく、僕は、「自分」というものが、何もしないでいるとひたすら悪い方向に向かっていくと考えているのですね。自己中心的で、すぐ他人の行動を支配しようとし、自分の思う道理に他人が動かないと癇癪を起こす。「どくさいスイッチ」をドラえもんから渡されたら、どんどん人を消して言ってしまうタイプです。

そして、そういう自分を、ただ放っておいて行き着く先には、それこそ連合赤軍みたいに、気に入らない他人をリンチ殺人したり、ナチスドイツの小役人みたいに、差別している対象を虐殺したりする結果が待っていると考えています。

だから、そういう結果を生まないために、「我が内なる革新主義」に基づいて、自分自身を革命していかなきゃならないと考えるわけです。潔く、カッコよく、生きていくために。*1

「寝そべり主義」をどう考えるのか?

しかし、更に考えてみると、そうともいえない自分がいることにも気づきます。

例えばid:goldhead氏は以下のように述べますが

まず、理論がねえし、科学がねえ。計画をたてる気力もねえし、自分を進歩させたいという思いもない。そして、なにも変わりたくない。家での生活から幼稚園に行くのも泣いて嫌がったし、幼稚園から小学校に行くのも嫌だった。確実にこの延長線に今がある。

この「家での生活から幼稚園に行くのも泣いて嫌がったし、幼稚園から小学校に行くのも嫌だった。確実にこの延長線に今がある。」という気持ちはとても理解できるわけです。

また、昨今寝そべり主義というものが注目されています。詳しい説明は以下のページなどをごらんになって欲しいのですが
imidas.jp
簡単に要約すれば、「競争を仕向ける社会秩序を拒絶して、ただグダグダと寝そべっていく」という考えです。

僕は、この考えにすごく惹かれるのですが、ではこれは保守か革新か?*2

「堕落したい」と思うことは保守か革新か

このようなことを考えていくと、以下の様な問題に行き着きます。それは

「堕落したい」と思うことは保守か革新か?

という問題系です。

そして、このような問題系の典型にいるのが、坂口安吾という文学者です。ちょうど、僕のブログの記事を、坂口安吾の『堕落論』を絡めながら紹介してくれる人がいましたね。
yapatta.hatenablog.com
坂口安吾は、とても人気ある文学者で、正直僕も太宰より安吾の方が好きだったりするのですが、彼が「保守」であるか「革新」か?というのは、実は日本近代文学を考える中で、結構大きな問題となってきたのですね。

坂口安吾の思想を語るというのは、このブログ記事単体ではとてもじゃないけど出来ないことで、それこそNHKでシリーズにして取り上げられるようなことなのですが
www.nhk.or.jp
簡単に言うと、「古い社会道徳を否定し、人間本来の人間性を解放する」ことを求めた人といえるわけです。

しかし、そういう思想を持った人が、しかし他方では、「特攻隊」のようなものを賛美するわけです。
www.aozora.gr.jp
これを、一体どういう風に考え、思想として位置づければ良いのか?

「ただ矛盾しているだけだろ」と言うのはたやすいです。しかしこういう「一見矛盾しているように見えること」って、僕の心の中にもいっぱいあるわけです。「勉強なんて面倒くさい」と思いながら、いっぱい勉強している友人に劣等感を抱いたり、「革命のために人を殺すなんてダメだろ」と思いながら、心の中で日本赤軍のような過激派をヒーローのように思ったり……

オウム真理教へシンパシーを抱いていたことを公言すれば無条件で叩かれる世の中で、こういうことを考え続けるのはなかなか難しいですが、しかし、こういうことこそ、真に「考えるべき問題」なんじゃないかと、思う訳です。

f:id:amamako:20191006122208j:plain

*1:あー、『輪るビングトラム』劇場版楽しみ

*2:いやまあ、中国共産党の指導に反旗を翻しているという意味では、反共産主義と言えるかもしれまえんが、そういう話はしていない。

「モテない」ということが問題なのか、「『モテない』ことが苦しく感じる」ことが問題なのか

amamako.hateblo.jp
前回の記事を書き上げた後、
s-scrap.com
上記の記事で批判されている西井開氏の『「非モテ」からはじめる男性学」という本を読みました。

ベンジャミン氏の記事を読んだ上で西井氏の本を読んで抱いた最初の印象は

あれ?なんか思ってた感じと全然違う本だぞ

というものでした。

ベンジャミン氏の男性学に関する批判を読んでいると、この本もてっきり「男性がモテようとするのは『有害な男らしさ』だ!反省しなさい!」と主張し、非モテに苦しんでいる男性をただ説教するだけで具体的な方法を何も示さないような本に思えます。

ところが、実際は別に「モテようとする気持ち」そのものを「有害な男らしさ」と切り捨てたりせず、「そういう気持ちが起こるのは当然だ」ということを臨床社会学の技法を用いて分析し、そしてその上で、ではその「モテようとする気持ち」が苦しみにつながらないためにはどうすればいいか、その方法を提示する本でした。

僕からすると、「既存の男性学を疑え」と言いながら、結局「女をあてがえ」という非現実的な弱者男性論の代替を示せていないベンジャミン氏の論より、よっぽど真摯に「非モテ」に向き合っているように見えたわけです。

「なぜモテないか」ではなく「なぜモテないことを苦痛に感じるか」が問題と、西井氏は主張している

ベンジャミン氏は以下の様に延べ、「非モテの苦しみ」は、女性にモテないことが原因なのに、この本はその原因を明らかにすることをしないから、役に立たないと主張します。

たとえば、臨床心理士であり研究者でもある西井開の著書『「非モテ」からはじめる男性学』では、女性と付き合ったことがない「非モテ」の人たちが感じる苦悩の原因は、恋人がいないことや女性から好意を向けられないことではなく、男性集団からからかわれて排除されることにある、と論じられている。また、社会学者の平山亮は、インタビューのなかで男性が自殺することの原因は「男性が支配の志向にこだわりつづけてしまう」ことであると主張した[17]。

まず、西井の主張については「非モテ」の当事者たちのなかにも共感できる人はいるようだが、非モテの苦悩の原因について「恋人がいないこと」よりも「男性集団からからかわれて排除されること」のほうを強調するのは、かなり不自然で無理があるように感じられる。それは非モテの苦悩の一因となるかもしれないが、主因になるようには思えない。

ですが、実際に西井氏の本を読んだ身からすると、このような形の理解は妥当とは言えません。

そもそも西井氏は本の中で

この会はいわゆるモテ講座ではありません。「非モテ意識はなぜ生まれるのか」「どうしたら非モテの苦悩から抜け出すことができるのか」などをテーマに自分を研究対象にし、あわよくば生きやすくなる方法を見つけることを目指します。


西井開. 「非モテ」からはじめる男性学 (集英社新書) (p.31). 株式会社 集英社. Kindle 版.

という風に「この研究は『なぜモテないか』といったような、原因を明らかにするものではない」と明確に述べています。なぜ西井氏がそのようなことを目指さないかと言えば、なぜモテないかということの原因を突き詰めると、結局「自分がモテない性質を持っているから」という風に、自分を責めるようになるか、「俺を愛さない女が悪い」みたいに、女や社会を責めるようになる。しかし自分を責めても女や社会を責めても、自分も他人も容易に変わらないのだから、それが即座に何か効果をもたらすことはない、だったら「なぜ『モテないこと』が苦痛なのか」というように、問題そのものを客観的に考えられるようにしたほうが良いと、考えるからなわけです。

ちなみに、「自分を責める」「他人を責める」「問題を客観的に考える」ということを、西井氏はそれぞれ

  • 原因の内在化
  • 原因の外在化
  • 問題の内在化

という概念で説明しています。

だから、そもそも西井氏の本は、「『非モテ』の感じる苦悩の原因」と呼ばれるような、非モテが生じる因果関係を明らかにするものではないわけです。そうでなく、非モテの自分を省みながら、その「非モテである』ことを苦痛に感じる構造とはなにか」を客観視しようと述べているわけです。

そして、「男性集団からからかわれて排除されること」というのは、「『非モテ』を苦しいと思うようになった契機」として提示されるわけですね、つまり、女性の交際相手がいないときに、男性の友人などからそのことを馬鹿にされることにより、非モテを苦しいと思うようになったというわけです。「原因」と「契機」は似ているようで異なります。ただ西井氏は、「非モテを馬鹿にされたこと」が、非モテが苦悩を感じる契機になったと述べているだけで、それが「原因」だと言っている訳では無いわけです。

なぜ「苦悩の原因」をなんとかしようとするのではなく、「苦悩に思うこと」をなんとかしようとするか

僕は、西井氏のこのような手法は、苦悩をカウンセリングする立場からしたら至極当然であるように思えます。

例えば僕は、大学院で研究をしていたときに、うつ病で本や論文が全く読めなくなり、研究が進まなくなりました。そのとき僕は、「研究が進まない」という苦悩をカウンセラーに訴えたわけですが、そのときカウンセラーは別に「うつ病でも本や論文を読んで研究を進めろ」とか言わなかったし、僕も別にそんなアドバイスは求めていませんでした。

確かに、僕が抱く苦悩の原因自体は「研究が進まない」からです。しかし、うつ病になれば研究なんて高度な知的作業ができないのは当たり前であって、別にそこでむりやり「研究が進まない」という原因をなんとかしようと思ってもどうにもならなかったでしょう。

その代わりにカウンセラーが提案したのは、「『研究が進まない』ことをそんなに苦痛に思うのはなぜか?」ということだったわけです。そこで僕は、自分が、自分が思っている以上に「研究できる自分」を自分の唯一無二のプライドにしていたか、逆に、そのこと以外に自分を肯定する術を持っていないか気づいたりし、研究以外に自分を肯定するために、アニメやゲームなどをひたすらやってそのことで満足したりして、そのときはうつをやり過ごした訳です(ただまあ、うつ病との突き合いは今も続いていますが)。

西井氏が非モテの苦悩をなんとかするために取った手法も、基本はこれと同じで、それこそニーバーの祈りで

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

ja.wikipedia.org
と述べているように、「変えられないものは受け入れ、変えられるものを変える。そして両者を峻別する」ものだったわけです。

西井氏は「『非モテ』を苦痛に思わない方法」を、具体的に指し示している

そして、そのように「なぜ『非モテ』を苦痛に感じるか」ということを考えていく中で、西井氏は「『非モテ』を苦痛に思わない方法」として

  • 仲間との共有体験
  • 打ち込む喜び

の2点を挙げています。

「仲間との共有体験」とは、具体的な目的や、好きな対象を共有するグループに入ることで、「打ち込む喜び」は、一人で何かに没頭することですが、これらがなぜ「『非モテ』を苦痛に思わない方法」だったかというと、どちらも「自分が『まなざし』の対象にならないから」なわけです。つまり、「『非モテ』が苦痛になる構造」とは、他者と自分の間で、どっちがモテるかを比べるからで、そういう比べ合いが存在しない状況なら非モテは苦痛にならないというわけです。

もちろんこういう処方箋が効かない人もいるでしょう。ベンジャミン氏もその一人だったのかも知れません。しかし西井氏の研究会での実践を見れば、効く人も結構居ることが分かるわけです。

万人の苦痛をなくす銀の弾丸がない以上、「効かない人も居れば効く人も居る処方箋を示す」というのは、精一杯の誠実な態度だと思うわけです。

とはいえ、西井氏のやり方が迂遠に見えるという気持ちも分かる

以上のことから、僕は西井氏の「『モテない』ことが苦しく感じることが問題だ」という主張の方が、ベンジャミン氏の「モテないことこそが問題なんだからで、その原因を見つけ出せ」という主張より、有用だし誠実だと感じます。

一方で、そう僕が考えられるのは、あくまで僕が「非モテ」の当事者ではなく、部外の第三者だからというのも、また事実でしょう。

僕は、モテることはなく、34年の生涯で誰とも交際をしたことがなく、性交渉もしたことがない人間ですが、別にそのことを苦痛に感じない*1人間なので、「非モテ(を苦痛に感じる人間)」ではない。ないからこそ、客観的に「西井氏の論の方が好ましいんじゃない?」と思えてしまう。

しかし、当事者からすると、「非モテであることが苦しいのだから、とにかくモテる方法を教えてくれよ」というのが率直な気持ちであるわけで、そこで「『非モテ』を苦痛に感じるのはなぜか考えましょう」と言われても、果てしなく迂遠で、実効性のないものに感じるのは当然です。

だから、そのような当事者の叫びとしてなら、ベンジャミン氏のいうことも、賛成は出来ませんが、理解は出来ます。

研究会という積み重ねが「本」になってしまうことによって生じる齟齬

ここで西井氏を擁護しておくと、西井氏は決して当事者の気持ちに真摯に向き合ってないわけではないと、僕は思います。
というか、西井氏が本で書いたことというのは、まさしく西井氏と当事者の真剣で長期にわたる当事者研究から生まれたものなわけで、その点でいえば、西井氏の本の内容全部、当事者と真摯に向き合ったからこそできあがったものなわけです。

ただ問題は、西井氏は非モテ当事者たちと語り合いと言うことを長期間行ってきましたが、それがそっくりそのまま本に掲載されてるわけではなく、本に掲載されているのはその語り合いの上澄みであるという点です。

これは、本にするなら仕方が無いことです。「非モテ研究会」での会話ログを全部本に入れるなんて不可能ですから、結局本に載せられるのは、最低限の証言と、そこから論証される結論だけです。

しかしそうやって上澄みだけ本に掲載されることによって、本来「非モテ研究会」で得ていたような信頼関係が、読者と結べなくて、上から説教をしているように取られてしまうわけです。

これは、結局「本」という一方通行のマスメディアにおける、構造上の限界と言えるでしょう。これを乗り越えるには、それこそ本で学ぶのはなく、自分たちで実際に「当事者研究」をするしかないと思います。

ただそれでも僕は「『モテない』ことが苦しく感じる」ことを問題視した方が良いと思う

ただ、そのような問題を考慮に入れた上でも、僕はベンジャミン氏の「モテない原因を明らかにしよう」という論の進め方より、西井氏の「『モテない』ことが苦しく感じることを問題視する」という論の進め方の方が、より好ましい論の進め方だと思うわけです。

確かにベンジャミン氏の言うように、「生物学的に言って『モテたい』というのは男性の本能」なのかもしれません。しかし、本能だとしたらなおさら、男性全員が「モテ」になるのは不可能であり、「非モテ」である男性がどうしても生まれる以上、本能によって生じる苦痛が、社会の構造によって増幅されるのを防ぐ必要があるのです。

そして、そのためには「『非モテ』であることの苦痛を増幅する社会構造」そのものを理解し、そして理解することによってそれを解体もしくは緩和する方策を編み出すしかないのではないかと、僕は考える訳です。

それこそニーバーの祈りで言えば、「モテたいのにモテたいということ」は「変えることのできないもの」であり、「『モテないこと』を苦痛に思うこと」が「変えるべきもの」なのだと、僕は思うのです

*1:アセクシャルというわけではないです。自分を好きになる人がいれば好きになるなとは思いますが、いなくても別にそれはそれで良いという感じで

男性から「ことば」を奪っているのは男性自身ではないか

s-scrap.com
「男性にも『ことば』が必要だ」という記事を読みました。

上記の記事は、さまざまな論点があって、それぞれの論点で賛成できるもの・そうでないものが分かれるのですが、それに一つ一つ答えていくと長くなってしまうので割愛します。

ただ、タイトルの「男性にも『ことば』が必要だ」に関して言うと、それについての僕の答えは簡単で

「男性から『ことば』を奪っているのは男性自身ではないか」

というものです。

「ことば」を発するときに「説明する理論」が必要なときとは

上記の記事では、「女性が受けている不利益を説明する言説はたくさんあるが、男性が受けている不利益を説明する言説はない」ということをもって、「男性には『ことば』がない」と主張します。

これまで、男性と女性が受ける不利益の非対称さを論じる言説は、フェミニズムによるものが大半だった。したがって、女性が受けている不利益については、それを説明して強調するためのさまざまな様々な理論や概念が発達してきた。

ここに、ひとつの非対称性が存在する。男性が受けている不利益について説明する理論はほとんど発達しておらず、概念化もされていない。したがって、男性が受けている不利益は、女性のそれのように社会的に注目を浴びて問題視されることがほとんどない。

しかし、「説明する理論」と「ことば」というものには大きな乖離があります。

例えば、僕が誰かから学校や職場でいじめを受けている時、僕は「いじめるのをやめろ」という言葉を発することができますし、学校や職場はそれに真摯に対応するべきでしょう。その時、僕がいちいち「いじめというのはこういう社会の仕組みから起きており……」なんて理論立てて説明するなんてことはありません。

それと同様に、

  • 女性が医学部を受験したときに不当に点数を低くされている
  • 同じ仕事をしているのに、女性だけ賃金が低い
  • ただ肌を露出した格好をしているだけで、性的目線を許容しろと言われる

なんてことも、別に理論立ててそれが生じる原因を説明しなくても、「それは差別だからやめろ」と言えば良いわけです。

それと同様に、男性が男性であることで具体的な不利益を受けていることが明白な場合は、そもそも理論なんてものは必要ありません。ただ「差別をやめろ」という「ことば」を発すれば良いのです。そして社会はそれを真摯に受け止めるべきです。

では、一体どういうときに「説明する理論」が必要なのか?それは、不利益の内容がよくわからない、抽象的なものである場合です。

例えば、ベンジャミン・クリッツァー氏は、男性の自殺率の高さや、幸福度の低さを、男性が不利益を受けている例として出します。

その一方で、見方によっては、日本では男性が不利益を受けていることも明らかだ。


厚労省の発表している自殺者の年次推移を見ると、1978年から2020年まで、各年の男性の自殺者数や自殺率は女性の2倍前後でありつづけてきた[4]。ただし、近年のアメリカでは男性は女性の3倍、ヨーロッパや南米やアフリカなどのほとんどの国でも男性の自殺者数は女性の2倍や3倍であり、他の国に比べると日本は女性の自殺率も高いほうだ。とはいえ、2016年の調査によると日本の自殺率は約90ケ国中6位であり、その自殺者のおよそ7割が男性であることを考えると、日本の男性は世界の男女に比べても自殺のリスクに晒されているとは言えるはずだ[5]。


また、日本の男性は、女性よりも不幸感を抱いている。2017年の世界価値観調査に基づいて男性の幸福度と女性の幸福度を比較してみると、日本では女性のほうが幸福度が高く、男性との差は世界で2位だ[6]。さらに、OECDが発表している幸福度白書の2020年版(How’s Life 2020)における「ネガティブな感情の抱きやすさ(negative affect)」の指標を見ると、他の国々では女性のほうがネガティブな感情を抱きやすいのに対して、日本だけが唯一、男性のほうがネガティブな感情を抱きやすくなっている[7]。男性の不幸さという点では、日本は世界でも際立っているのだ。

しかし、自殺にしろ幸福度にしろ、それは一義的には「本人のこころの問題」です。誰かが明白に「おまえは自殺しろ」というわけでもないし、「おまえは幸福になってはいけない」と命令するわけではない。本人にとっては、原因がわからないわけで、まさしく芥川龍之介が遺書で書き残したような「ぼんやりとした不安」の結果として、自殺や幸福度の減少はおきるわけです。

君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

www.aozora.gr.jp
そして、「説明する理論」とは、そのぼんやりとした不安、今風の言葉で言えば「お気持ち」をより具体的な「ことば」にするためにこそ、働くのです。

例えば自殺であったなら、そこには社会学であったり心理学であったりの理論・概念が必要になります。社会学においては、デュルケームの『自殺論』

という、社会学を専攻するなら誰しもが読む古典があって、そこでは自殺を社会的に説明する概念として

  • 自己本位的自殺
  • 集団本位的自殺
  • アノミー的自殺

が提示されました。そのような概念によってぼんやりとした不安は「ことば」になるわけですね。

「お気持ち」について論ずることを拒んでいるのは、男性自身ではないか?

そして、フェミニズムや、その他リベラルの多くの理論は、「お気持ち」を具体的な「ことば」にするための理論なわけです。例えば昨今「マイクロアグレッション」という概念が多く提示されるようになりました
www.nhk.or.jp
が、これなんかもまさしく、「なんか嫌だな」と思うことが、個人のこころの問題ではなく、社会的差別の結果として現れるということを説明する概念なわけです。

しかし、このような議論を「『お気持ち』は議論に値するものではない」として揶揄してきたのは、他ならぬ男性自身なわけです。

ベンジャミン・クリッツァー氏にしても、自分が男性であることによって生じる不幸は、一見すると「自分のこころの問題」であることがほとんどに見えるわけです。ところが、それについてはあまり論じず、アフォーマティブ・アクションの問題とか、暴力犯罪の被害者率の高さとかいった具体的な数字を持って「男性は不利益を受けている」と主張する。

生物学的性差を重要視するのも、「生物学的性差によって基礎づけられるようなものこそ議論に挙げられるものであって、そうでないものは『お気持ち』にすぎないから議論に値しない」と考えているからであるように、思えてなりません。

重要なのは、まず男性自身が自らの「お気持ち」を認めるようになることでは?

僕は、最近の男性学にはあまり詳しくなくて、森岡正博氏の著作

とかしか、あまり読んでこなかったのですが、しかし僕からすると、森岡氏の、自身のセクシャリティの有り様や、もっと卑近に言ってしまえば「どういうものに性欲を感じるか」ということを論ずる文章こそ、まさしく「男性に『ことば』を与えるもの」として、とても救われる文章だったわけです。

あるいは


だったり。

だから、「『ことば』を支える理論」自体はたくさんあると思うんですよ。ただ男性の多くがそれらを「理論」として認められてないだけで。

男性が「ことば」を持つためにに必要なのは、「説明する理論」が数多く研究者によって書かれることではなくて、男性同士が自らの「お気持ち」について語れる場を作ることだと思うわけです。

僕も一応男性なので

  • 毛深いからひげが毎日もっさり生えてきて、それを剃るのが面倒だ
  • ラブライブサンシャインのパネルを見ても、それが過度に性的とはどうしても思えない

amamako.hateblo.jp

  • 実際はレイプとか憎んでいるはずなのに、成人漫画で自慰しているときにレイプ描写が出てくると、それで興奮できてしまう
  • 暴力は嫌いなはずなのに、女性が男性に暴力を振るう描写が大好きで、暴力を振るわれる男性に自分を重ねて興奮してしまう

など、自分が男性であることに由来する、様々な「お気持ち」が渦巻いているわけですが、それらについて、虚勢を張らずに語れる場というのはなかなか見つけられませんでした。

ですが本当は、そういうことについて男性同士で忌憚なく語れる場というものが必要なわけです、フェミニズム的においても、最初から理論が用意されていたわけではなく、そういう「お気持ち」について忌憚なく語れる場がまずあって、そしてそこから様々な理論が生み出されてきたのですから。

男性の「お気持ち」を言葉にしてきたアーティストについて

ついでにいうと、そういう男性が自らの「お気持ち」を言葉にしづらい社会の中で、数少ない「お気持ち」を「ことば」にしてきた運動が、ロックやJポップなどの音楽なのだと思います。

シフクノオト

シフクノオト

Amazon
ユグドラシル

ユグドラシル

Amazon
Mr.ChildrenBUMP OF CHICKENといったアーティストたちは、まさしく男性の「お気持ち」を、学術ではなく詩的な「ことば」で歌ってきたアーティストです。

「お気持ち」について直接言葉で論ずるのが難しいと言うなら、まずはこういう文化を批評することから、「お気持ち」に近づいていくのも、一つの方法なのかなと、思ったりします。

補記:「男性が自分の辛さを『ことば』にすること」はなぜ難しいか

記事を公開したあとで、もう一つ言いたいことがあったので補記。

男性が「自分の辛さを『ことば』にしたい」と思った時、そこには3つの障壁があります。それは

  • 自分でその言葉を「恥ずかしいもの」として飲み込んでしまう自己検閲
  • 男性同士で「そんな情けないこと言うべきではない」と、表現を抑えようとする内部検閲
  • 女性が「男性がそんな辛いわけない」として表現を抑えようとする外部検閲

です。そして、この中でベンジャミン・クリッツァー氏が問題視しているのは外部検閲なわけです。

一方、女性の方を見ると

  • 男性が「女性がそんな辛いわけない」として表現を抑えようとする外部検閲

はありますが、自己検閲や内部検閲に属するものはあまり見られません。そのため、男性側が「外部検閲しないでよ」と言っても、女性にとっては「そんなの男性がさんざんやってきたことだし、私たちはそれを乗り越えて自分たちの辛さを言葉にしてきた」と、反論されるわけです。

もちろん実際は、自己検閲だろうが内部検閲だろうが外部検閲だろうが、自分の気持ちをことばにしづらくする検閲なんて、ないほうがいいわけで、女性がそれに耐えたとしても、その耐えることを男性に押し付けていい道理はないわけです。

しかしその一方で、男性は女性とは違い、外部検閲以外にも、自己検閲や内部検閲と言った、「辛さを『ことば』にしづらくするもの」を抱えていて、それこそが男性と女性の、「ことば」における非対称性を産んでいるわけで、それらをなんとかしなければ、男性における「辛さを『ことば』にしづらくするもの」は解消されないんじゃないかと思うわけです。

補記2:「モテない」ということが問題なのか、「『モテない』ことが苦しく感じる」ことが問題なのか

amamako.hateblo.jp
ベンジャミン氏の記事で批判される『「非モテ」からはじめる男性学』を読んだ上で、続編記事を書きました

あの頃の東浩紀と、90年代人文・サブカルにとってのオウム

amamako.hateblo.jp
前回の記事、なぜか多く注目を集めたようで、はてブTwitterでも多くのコメントをいただきました。

コメントの中には、好意的なものもあれば、否定的なものも多くあって、別にそれ自体はいいのですが、その中で僕が興味を惹いたのは、「この記事の著者はなんでそんなにオウムやナチスにこだわるんだ?」というコメントです。

「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

オウムだのホロコーストだの、自分が絶対悪だと思うもののレッテルを頑張って相手に貼り付けようとしてんなぁという印象

2022/04/11 08:22
b.hatena.ne.jp
「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

ある種の人、アイヒマン持ち出すの好きだよね…/理想を追い求めるのは否定しないけど、その理想こそが踏み潰そうとしているものもあるんじゃないの、という気はする。それを省みないからこそ、分断はより深まる。

2022/04/11 14:01
b.hatena.ne.jp
「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

なんでこういうイデオロギーを戦わせてる人たちってすぐ極論に走るんだろう。「自分の感覚を信じているとサリンを撒く」とか「現実の社会に適応して頑張ることはアイヒマンになること」とか、飛躍しすぎだろうがよ。

2022/04/11 14:10
b.hatena.ne.jp
「今ここ」に無理に適応しなくていいということを知るために人文知やサブカルはある - あままこのブログ

ホロコースト等大きな言葉に共感は薄いが後半は私の感覚と近い。私の「今ここ」は、やや昔の価値観の人達に合わせた生活で少ししんどい。適応できないのを揶揄するコメも。ポテサラは買えばいいのが私のリベラル。

2022/04/11 16:59
b.hatena.ne.jp

僕みたいに90年代までに、人文知を学んだりオタク・サブカルに親しんだものからすると、オウムや連合赤軍ナチス、その中でも特にオウム真理教」というものが強いトラウマになっていて、全ての論考がそのトラウマを下敷きにしているのは自明のことなんですが、それって今の人にはよく分からないことになってしまっているのだなと、思ったわけです。

「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」という、当時の学者・オタク・サブカルが共通して抱いた恐怖

それこそ30年も前のことになってしまうので、今の人に忘れ去られてしまうのは当然のことなのですが、90年代において 「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」というのは、大学とかで学問を真面目に勉強したり、あるいはオタク・サブカル趣味にはまっていた人たちにとっては、多かれ少なかれ誰しも持っていた恐怖だったわけです。

例えば、オウム真理教秋葉原に「マハーポーシャ」というパソコンショップを持っていて、そこの宣伝は、当時秋葉原に行っていた人なら誰しもが覚えていたわけです。
ja.wikipedia.org
また、オウムは特に高学歴の信者が多かったことが注目されていて、実際僕の大学時代の指導教官*1も、自分の大学時代の同級生にはオウムに入ってしまった人が数多く居たと話されていたわけです。

そのような実際の生活での接点もさることながら、「愛の戦士」「コスモクリーナー」「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」*2
ja.wikipedia.org
など、オウム真理教が使う言葉の多くには、当時の人文やオタク・サブカルなどから借用した言葉が多々あったわけです。そして更に多くの学者は、オウム真理教の教義にも、80年代から90年代にオタク・サブカルで流行った終末論の影響が多くあったと述べています。

そのような点から、当時多くのオタクやサブカル文化人や、そういう趣味にはまっていた人は、「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」ということを言っています。具体的に名前を挙げれば、大槻ケンヂ竹熊健太郎香山リカなどなど。

中には雨宮処凛みたいに、当時オウムに憧れを抱いていたことを告白したら、今のネットで晒されて炎上したなんてこともありました。
tablo.jp

――オウム真理教には入ろうと思いませんでしたか?
「私の入っている(右翼)団体は、会員以外の人によく、オウムに似ていると言われるんですよ。『オウムの信者といってることが同じだ!』っていわれたこともあります。わりとそれには自分でも納得してますけど」
――オウムにはシンパシーはあるんですか?
「ムチャクチャありますよ。サリン事件があったときなんか、入りたかった。『地下鉄サリン、万歳!』とか思いませんでしたか? 私はすごく、歓喜を叫びましたね。『やってくれたぞ!』って」

……「10年以上前のことをいまの常識で批判するのはフェアじゃない」はずなんですが、ここまでくると当時でもアウトだったような気がしてきました!(文◎吉田豪 連載『ボクがこれをRTした理由』)

ちなみに僕も、中学生の頃からブログを書いていたのですが、多くの人から「おまえは一歩間違えばオウムとか過激派とかに入りそう」と言われてきました(今でもそう思われてる?)し、僕自身そういう危惧は常に持っていたからこそ、「過激思想」とか「オカルト」とかを客観的に見られるようになろうと、社会学に進んだわけで*3

サブカルチャー想像力が「オウム真理教」のようなカルト宗教につながるのではないかという危惧は、当時のサブカルチャー作品自体の中にもありました。『機動戦艦ナデシコ』というタイトルはその典型でした。

この作品は、オタクのロボットアニメを真に受けてしまった人たちが、木星に軍事国家を作り地球に侵攻してくるという話なのですが、そこでの木星の人々はまさしくオウム真理教のメタファーだったわけです。

ついでに言うと、この作品の脚本家であり、僕の好きなアニメ関係者では五本の指に入る會川昇氏は、こういう「サブカルチャー的想像力の暴走への危惧」というのを、ライフワークのように描いてきた人で、例えば『シャンバラを征く者』という作品では、原作とは違い、主人公たちが第二次世界大戦前夜のドイツに転生するなんてオリジナルストーリーを展開して、ナチスドイツとオカルトの関係を描いたり

UN-GO』という作品では、プロパガンダソングを歌う女性アイドルグループなんてエピソードを書いたりもしました。

あの頃の東浩紀だって、サブカルチャーと「オウム真理教」に親和性があると主張していた

前回の記事で白饅頭氏が触れていた東浩紀だって、まさに彼の原点である『動物化するポストモダン』で、サブカルチャーの想像力とオウム真理教の親和性について語っているわけです。

そしてその虚構の物語 は、ときに現実の大きな 物語(政治的なイデオロギー) の替わりとして大きな 役割を果たしている。そのもっとも華々しい例が、サブカルチャーの想像力で 教義を固め、 最終的にテロにまで行き着いてしまったオウム真理教の存在である。


東浩紀. 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) (p.45). 講談社. Kindle 版.

前項における『機動戦艦ナデシコ』に対する分析も、まさしくこの本に書いてあって「あ、そうだったよな」と気づいたものです

そして、90年代までのオタク(いわゆる「オタク第2世代」)は、虚構の物語を求めるが故に、テロまで行き着いてしまったのに対し、2000年代以降のオタク(いわゆる「オタク第三世代」)は、そもそもそういう物語ではなくデータベースを求めるよう「動物化」したというのが、『動物化するポストモダン』の主張な訳です。

そしてこの動物化」は、大きな物語を必要としないという意味では、宮台氏が言う「コギャル」と同じであると述べ、さらにこれこそがオウム真理教のような閉塞性を乗り越える道であると述べているわけですね。

オウム真理教徒は前者の代表であり、「ブルセラ少女」は後者の代表である。このような対立のうえで、 宮台は、前者の閉塞性を知的に乗り越えることはおそらく可能だが、「 その 間接性たるや気が遠くなるほどであり、その実効性には疑いを禁じえない」と記し、続けて、「しかし私は、まったく別の道があるかもしれ ないと思っている。 それは、全面的包括要求そのものを放棄するという、決定的な、しかも現に私たちが進みつつある道である」と述べている(注50)。


(略)


記号化され、 匿名化された都市文化のなかで、「ユミとユカの区別もつかない」でまったりと生きている九〇年代のブルセラ少女たちには、もはや世界全体を見渡そうという意志( 全面的包括要求) も、その断念から来る過剰な自意識も存在しない。彼らは有意味化戦略をもたず、物語消費も必要としない。


これはまさに、 筆者がここまでデータベース 消費として論じてきたものと同じ「 道」である。


東浩紀. 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) (p.121-122). 講談社. Kindle 版.

つまり、東氏においても、オウム真理教というのは真剣な恐怖で、「動物化」とは、そういう方向へオタクが行かないための道筋の付け方だったわけですね。

「抵抗としての無反省」が「無反省」に変わる瞬間

ところが、時が経った現在においては、そのような「もしかしたら自分がオウム真理教に入っていたかも知れない」という恐怖はほぼ忘れ去られてしまっている。

僕はこの過程で、「抵抗としての無反省」が、単なる「無反省」へと変わってしまったのではないか?と思う訳です。

「抵抗としての無反省」とは、以前も
amamako.hateblo.jp
という記事で触れたことがあるのですが、北田暁大氏が『嗤う日本のナショナリズム

という本で提唱した概念で、乱暴に要約すると「『暴力を反省しよう』という反省を繰り返すと、結果として暴力(よく言われる「正義の暴走」)を生むのだから、敢えて反省しないようにしよう」という態度のことです。

以前の記事では、1960~70年代の学生運動を例にあげたのですが、実はこれはオウム真理教にもいえることで、「動物化」とか「まったり革命」というのも、(その提唱時点においては)結局は「抵抗としての無反省」のバリエーションだったのだと思うわけです。

そして、「抵抗としての無反省」は、その抵抗という側面が覚えられている限りにおいては、「正義の暴走」と呼ばれるような暴力に対する歯止めとなるのですが、その「抵抗として」という部分が忘れられ単なる「無反省」になると、「暴力を行使して何が悪い」という開き直りにつながっていくわけです。

結局大事なのは、歴史を知り、それを自分たちに置き換えて考えることではないか

僕が、オウムやナチス連合赤軍のような歴史的事件に注目し、「それらを繰り返す方向に動いていないか」と常に注意するのは、まさしくこのような「『無反省』への反省」があるからなんです。

「抵抗としての無反省」も、あくまで「抵抗としての」という契機が忘れられなければ有用なはずなんですが、それが忘れられれば途端に単なる暴力の肯定になる。「抵抗としての無反省」に限らず、あらゆる理論・規範・ライフスタイルというのは、その理論・規範・ライフスタイルが存在している歴史的・社会的背景をもとに、そこでいかに幸福に生きるかを考えるために編み出されたはずな訳で、その歴史的・社会的背景が忘れ去られ、一人歩きし始めた途端、人々を不幸にするのでは無いかと、僕は考える訳です。

だから、歴史や社会に関する人文知を学び、それらを相対化する必要があるのです。

他人の思想を考えるときも、自分の思想を考えるときも、僕が「オウムやナチス連合赤軍のようなものにつながっていかないか」という視座を重要視するのは、そういう理由があるのです。

*1:ちなみに宮台氏ゼミの出身

*2:自分は『新世紀エヴァンゲリオン』から借用されたと思ってたんだけど、実際はむしろこっちの方が先だったり

*3:まあ、普通に考えればミイラ取りがミイラになる可能性の方が高いよなと、今になっては思うけど

「正しさ」と「優しさ」って、やっぱり両方必要だと思う

davitrice.hatenadiary.jp
DavitRice氏はこの文章の出来に納得していないみたいだけど、僕はこの文章とても楽しく読みました。ぶっちゃけ、普段DavitRice氏がお仕事で書いている文章を読むより、こういう文章の方が好きだったり……

なんで僕がこういう文章を好きかというと、僕が倫理学や法学・政治学より社会学が好きからかなーと思ったりします。

社会学という学問は、まさしく、人々が持っている「ふわっとした印象」を、様々な統計や理論を用いて概念として整理し、そこから現代社会を分析する学問なんですね。

そして、今回の文章で問題になっている概念である、「正しさ」、「優しさ」というのも、社会学において結構議論の対象になってきた概念です。

特に「優しさ」については、これまでも

といった論考が発表されてきました。

今回の記事では、そういった論考の中でも、

という本を援用しながら、「正しさ」と「優しさ」について考えていきたいと思います。

「正しさ」と「優しさ」には、重なる部分もある

DavitRice氏は、世の中には「正しさ」こそを求めるべき価値とする「正しい議論」と、「優しさ」こそを求めるべき価値とする「優しい議論」があるとし、そして前者の議論は退屈ではあるが、しかし真に社会に安定をもたらしている議論はこちらである。それに対し「優しい議論」は、疲れている現代人にとって耳障りは良いが、実際に社会を運営する方法論にはなりえない無意味なものだと主張しています。そしてその上で、「正しい議論」こそが重要であり必要なんだと主張しているわけです。

しかし、ここで疑問となるのが、「正しさ」と「優しさ」って、そんなにどちらかを取ればどちらかを排除しなければならないような、排他的な概念なのか?ということです。

DavitRice氏は、記事の冒頭において「感情を制御すること」を「正しさ」の例に挙げ、その正しさによって社会の安全が保たれている例として、「大声で怒鳴る人が頻発しないこと」を挙げます。

 とはいえ、みんなが「正しさ」に従っているからこそ、社会は安全で豊かな場所になっている。

 自分が街を歩いているときのことを考えてみよう。街中でなにかムカついたことがあるときに大声を発せないのは、たしかに不自由であるかもしれない。けれども、街を歩いているときに大声を発する人と遭遇することは、たまにはあるかもしれないが、すれ違う人の数を考慮するときわめて稀である。みんなが些細なきっかけで生じる怒りやムカつきをその場で行動に表出するような街はおそろしく物騒で緊張に充ちた環境になり、誰も住みたいと思わないはずだ。それに比べると、自分を含めたみんなが怒りやムカつきを抑えることのほうが、多少不自由であってもずっとマシである。ほとんどの人はそう考えるはずだ。

しかし、「大声を発しない」という「正しさ」って、むしろ「優しさ」から来るものなのではないでしょうか?

『ほんとはこわい「やさしさ社会」』という本では、「優しさ」の例として、「混んでいる電車で携帯電話を注意しないこと」が挙げられます。

最近ではあまり言わなくなりましたが、昔は混んでいる電車や、シルバーシートの周りでは、携帯電話は電源オフにすることがルールでした。実際、電車内のアナウンスでも、「携帯電話の電源をお切りください」というアナウンスが頻繁に流れたわけです。

しかし実際は、多くの人はそのルールを無視して、普通に電車内で携帯電話をいじっていました。そして、それを注意する人も殆どいなかったわけです。

もし「正しさ」だけを重要視するなら、この状況は明らかに間違いで、携帯電話をいじる人をみたらきちんと周りの人が注意することこそが正しいはずです。

しかしそういう風に多くの人が思えば、生じるのは「電車の中でいきなり大声の口論が頻発する」という、まさしくDavitRice氏が安全と思わないような状況な訳です。

そういう状況を多くの人は避けたいと思うから、人々は「電車の中で携帯いじっていても注意しない」という「優しさ」をもって、混んでいる電車の中の安定を維持しているわけですね。

更に言えば、そういう人はそうやって「他人の行為をむやみにじゃましない」という優しさこそが「正しさ」であり、「混んでいる電車で携帯電話をいじってはいけない」という正さだと考えているわけです。

なぜそうなるか?『ほんとはこわい「やさしさ社会」』の著者である森真一氏は、「人々の社会では、法や契約といった『公式ルール』よりも、優しさに代表されるような、明文化されていないけど誰もが守らないといけないと感じている『非公式ルール』のほうが強く人々の行動を縛っているから」と、考察しているわけです。

みんなが求めるのは「正しい」し「優しい」状況。だけどそれが難しい

このように考えると、「正しさ」と「優しさ」を排他的概念と捉えるのは、あまり社会の実態にそぐわなくて、実際は

  • 「正しくない」し「優しくない」状況
  • 「正しくない」けど「優しい」状況
  • 「正しい」けど「優しくない」状況
  • 「正しい」し「優しい」状況

の4つがあるわけです。

「正しくない」し「優しくない」状況は最悪ですが、しかし社会の状況としてはありえます。例えば今のウクライナの状況なんかはまさしくそういう感じで、最低限の戦時国際法も守られず、虐殺や性暴力が横行しする、 「正しくない」し「優しくない」状況です。これを避けなきゃいけないのは、『メタルギアライジング』の上院議員のような一部の人を除いて、万人が一致するでしょう。

次に「正しくない」けど「優しい」状況、これは、まさしくDavitRice氏が批判するような「優しい議論」が求めるけど、実際に現れることはありえない状況です。

そして「正しい」けど「優しくない」状況。つまり「公式ルール」のみが人々を縛る状況で、DavitRice氏はこれこそ「退屈だけど、社会が選べる最善の状態」とするわけですね。しかし実際は、「混んでいる電車における携帯電話」の例を見れば分かるとおり、言うほど安定した豊かな状態では無いわけです。

だから、多くの人は「正しい」し「優しい」状況を求めるわけです。「正しい議論」と「優しい議論」というのは、そのどちらをより重要視するかという、配分の問題でしかないわけです。

問題は、現代においては「優しさ」が過剰になりすぎていること

ですが現実は、「正しい議論」が、社会の運営方法を示す方法論を示せているのにかかわらず、「優しい議論」は、ただ理想を口にするだけで袋小路にはまっているように見えます。DavitRice氏が「優しい議論」に反発するのも、まさにそれが原因なわけです。

一体なぜ現代において「優しい議論」は袋小路に陥りがちなのか?その背景には、現代社会が「優しさ」の中でも「何もしない優しさ」、『ほんとはこわい「やさしさ社会」』で言う「予防的やさしさ」のみを過剰に重視しているからなのではないか。僕は、『ほんとはこわい「やさしさ社会」』を読んで、そう考えました。

森氏は、やさしさというものには

  • 予防的やさしさ
  • 修復的やさしさ

という、二つの種類のやさしさがあるのではないかと主張します。

そして、その例として、他人に失礼なことをしたときに掛けられる、「謝るぐらいなら最初からするな!」という叱りの言葉を挙げます。失礼なことをそもそもしないこともやさしさですが、失礼なことをしたときに、謝るのもやさしさなわけです。しかし現代の日本社会においては、前者の「予防的やさしさ」こそが真のやさしさとされ、後者の「修復的やさしさ」はあまり重視されていないのではないかと、森氏は主張し、その理由として、「自己というのは一度傷つけられたら修復は出来ない」という、自己の修復可能性への過小評価があると述べるわけです。

そして、そのように「予防的やさしさ」だけがやさしさとされることによって起きる弊害として、「人々がどんどん消極的に何も出来なくなってしまう」という例を挙げます。

例えば、「電車やバスで老人が立っていても、席を譲らないことこそやさしさ」だと考える人がいます。つまり、自分が老人だと思う人に席をゆずっても、もしかしたらその人は自分を老人だと思っておらず、「老人扱いするなんて!」と怒るかもしれない。だったら、最初から何もしないことこそが「やさしさ」なのではないかと、そう考えるわけです。

つまり、「予防的やさしさ」というのはあくまで「しない」ことを目指す倫理であり、そのため具体的に社会を維持したり更新していく力になりにくいのです。

「予防的やさしさ」のみを重要視することこそが、表現の自由に関する議論を袋小路に追い込んでいる

ちなみに僕は上記の論考を読んで、昨今の「表現の自由」に関する議論を連想しました。

昨今の「表現の自由」に関する議論では、表現を批判する側は、表現の自由があるといえど、他人を傷つける表現はそもそも表現すべきではないと主張します。それに対して、表現を擁護する側は、表現はそんな表現でも自由であり、ある表現に対する批判によって、その表現者が謝罪に追い込まれたり、表現を改変することがあってはいけないと主張します。

これ、実はどっちも「予防的やさしさ」に基づく考え方なんですね。つまり、表現を批判する人は、一度表現によって傷つけられれば、どんなことをしてもその傷が癒えることはないと思っているから、最初から人を傷つける表現をするなと主張する。一方で、表現を擁護する側は、謝罪や修正というのは、表現者に癒えることのない傷を与えるから、絶対にすべきではないと主張する。そして、どっちも「しない」ことを主張するが故に、議論は袋小路に陥るわけです。

この袋小路を解きほぐすには、「予防的やさしさ」ではない「修復的やさしさ」を導入することが実は重要なんです。最初から完璧に適切な表現をすることを求めるのでは無く、表現をした後に、それを謝罪し修正しろと、表現を批判する側は要求する。そして表現を擁護する側も、その声を聞いて、その声が妥当と思うなら謝罪し修正する。このように「何をしてはいけないのか」ではなく「何をするべきなのか」という方向に議論をすれば、より建設的な議論が出来るようになると、思うわけです。

重要なのは「優しさ」を否定することではなく、優しさにも色々な種類があることに気づくこと

ここで誤解して欲しくないのは、「予防的やさしさ」を完全否定して、「修復的やさしさ」だけあればいいとは、森氏も僕も主張していないことです。

自己に関する傷は、多くの場合修復できますが、しかし修復できないほど深い傷もあります。差別に基づくヘイトスピーチや、明確に誰かを侮辱する表現というものは、そういう深い傷を残しますし、そのような表現は、そもそもしてはいけないでしょう。そこにおいては、まさしく「予防的やさしさ」こそが重要になるわけです。

僕がここで主張したいのは、「優しさ」という概念を、ただ肯定したり、その反対に一概に否定するのでは無く、その内実をしっかり見ていく必要性です。「優しさ」が実現する社会なんて夢物語だとDavitRice氏は言いますが、実際は「優しさ」によってて今ある社会が回っている部分も多々あるし、そうである以上、「正しさ」だけでなく「優しさ」によって世の中を変える場面だって多々あるはずだと、僕は思うのです。

そういう、より精緻になされた「優しい議論」なら、DavitRice氏もイライラしんばいんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?