あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

選挙というウンコの投げ合いについて

なんかもう、色々イヤになるよなーと。


一応自分は、これまで一度も選挙を棄権したことは無かったし、今回の選挙も鼻をつまみながら、自分の信条にあった政党・候補者に票を投じるつもりではある。


あるのだが、にしても年を経る毎に「選挙」というものへの感情がネガティブなものになり、関連の話題から目を逸らしたくなる自分に気づく。下手したら、選挙というものがなければ、みんなもっと政治というものについて理性を持って向き合えるのでは無いかとすら、思えるのだ。


多分、もっと若い頃は、「選挙」というものに幻想を持っていたと思う。選挙に際して各政党・候補者が、政治に対する自らの考え方を明らかにし、そしてそれを受けて人々が、それぞれのイデオロギーや政治思想、個々の政策に対して意見をぶつけ合う。そういう理想が実現できる機会であるように思っていたわけで。


ところが実際は、有権者の多くはそんなきちんと物を考えてなく、なんとなくの雰囲気やら、あるいは自分の属する組織のしがらみやら、普段の付き合いなどに流されて票を投じるわけだ。そして、そういう有権者のレベルに合わせるように、政治家も支持母体とか、あるいは政策を訴えるより単なる単純接触効果を稼いだりする行為に精を出すわけだ。


あるいは、そういうしょうもない汚れた現実世界とは別個にある場所として、サイバースペースで、新しい、理想的な選挙についての議論ができるのではないかと思っていた部分もある。しかしそれも実際は起きず、存在するのは対立候補への憎しみを煽る言葉であったり、あいつらが悪いことをたくらんでいるというような陰謀論であったり、理性では無く感情に訴えるような短文のプロパガンダの応酬なわけだ。


レイシズムや差別主義のような、前提から邪悪な思想・政策を除けば、どんな思想や政策も、一応人々を幸せにしようとして語られているものであるわけで、例えその思想や政策に反対する側からも、最低限の敬意を持たれるべき。ところが実際は、自分と異なる思想や政策であるというだけで、それが即憎しみを持って排除すべきとされてしまう。


例えば表現の自由ジェンダー平等なんかは、最近のネット空間では二項対立で語られる―本来はそもそもそのように語られるのが間違いであるが―が、たとえ二項対立であったとしても、双方ともに「いかに人々が幸福にいきられるか」を目指すものであるから、それらの反対する立場でも、一応の敬意を持って語られるべき。ところが実際は、双方の思想の支持者が、相手の思想をまるで悪魔のように語り、憎しみを煽ることによって、自らの勢力に動員しようとする。


結局、動員というものが選挙においては正解である以上、馬鹿のようにふるまうのが、選挙においては最適解となるのだ。


ただ、現行の政治体制というものは、結局そういうウンコの投げ合いで政治の方針の大勢が決まるものであるから、参加せざるをえないのだが、しかしそれでも、「自分はウンコの投げ合いに参加している」という自覚を持って、せめて選挙が終わった後は、きちんと手を拭きたいなと、そんなことを思ったりする。

「毒親」は本当に親だけの責任か?

どーも、最近プロセカ
pjsekai.sega.jp
にハマりっぱなしのあままこです。ちなみに推しキャラはえむちゃんです。


さて、今プロセカでは、「迷い子の手を引く、そのさきは」というイベントが行われていて、そこで「25時、ナイトコードで。」というグループの「朝比奈まふゆ」というキャラクターの物語が展開されているわけです。が……


これがまた、「アプリゲーでこんなシナリオやっていいの?」と思うぐらい、暗く重いシナリオなんです。


概略を説明しますと、朝比奈まふゆというキャラクターは、家や学校では、母親が求めるような学業優秀な優等生として振る舞っているんですが、心の奥でその親の期待に押し潰れそうになっている少女なわけです。で、そんな少女が、「25時、ナイトコードで。」という、夜にグループチャットで集まって音楽を作ることに、唯一救いを見出すわけです。


ところが、今回のイベントでは、そんなまふゆが母親から「学業のために音楽をやめなさい」と言われるわけです。少女はそんなの嫌なわけですが、しかし母親に反抗することができない。その背景にあったのは、幼少期のあるエピソードなわけです。詳細は、ぜひゲームをやったり、プレイ動画を動画サイトで見るなりして調べてもらいたいのですが、これがまあ実にリアリティのある、「ああこういう感じで子どもを支配したがる親っているよね」という、イヤーなエピソードになっているんですね。


で、そのシナリオを読んでいるプレイヤーの身としては当然こう憤るわけです。「なんて嫌な親なんだ!こんな毒親がいるからまふゆは不幸になるんだ!」と。


しかしそもそも、何で、そういうふうに子どもに期待を押し付け、子どもを支配する、いわゆる「毒親」が生まれるんでしょう?

メディアで様々に表彰・告発される「毒親

毒親」というのは、最近インターネットで流行っている言葉の一つで、意味は下記のようなものになります。
ja.wikipedia.org

毒親(どくおや、英: toxic parents)は、毒になる親の略で、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親、子どもが厄介と感じるような親を指す俗的概念である。1989年にスーザン・フォワード(Susan Forward)が作った言葉である。学術用語ではない。スーザン・フォワードは「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として用いた。

そして、上記記事でも書かれている通り、近年「私はこういう毒親に育てられた!」という告発が多くされるようになりました。それこそ直近でも、漫画家である西原理恵子の娘がそのような告発を行い、大きな話題となりました。
news.allabout.co.jp
また、マンガ・アニメ・ゲームといったサブカルチャーでも、「毒親」的なものは多く取り上げられています。先に上げたプロセカのシナリオもそうでしたし、『タコピーの原罪』という話題になったWebマンガでもそういった存在に苦しめられる子どもたちが描かれたり

とらドラ!』という、ライトノベル及びそれを原作にしたアニメでも、「毒親」的な親と子の確執が描かれたりしました。今ではもはや古典となっている「新世紀エヴァンゲリオン」だって、主人公の二人であるシンジとアスカは共に、親子関係に大きな問題を抱えていたわけです。(ちなみに、「新世紀エヴァンゲリオン」の頃は、毒親という単語は使われず、むしろ子ども側の方を「アダルトチルドレン」という言葉で呼ぶのが主流だったりしました。そのように、「どのようなタームで問題を捉えるか」という変化も、大変興味深かったりしますね。)


このように、「毒親」という問題は、インターネットや若者文化においてはよく取り上げられます。


更に昨今では「親ガチャ」という言葉も流行しています。
blog.tinect.jp

最近、親ガチャ、というネットスラング(俗語)を見かけることが増えた。

親ガチャというスラングは、ソーシャルゲームなどのガチャにかこつけて、望ましくない親元に生まれたことを呪ったり嘆息したりするために使われる。

上記の記事で述べられているとおり、「親ガチャ」という言葉は、毒親という問題を内包しつつ、さらに範囲を広く「親がどういう存在であるかによって子どもの運命のすべてが決まる」ということを呪う言葉なわけです。このように、「親が子どものすべてを決める」という宿命論は、広く人々に信じられています。


そして更にそこから、上記の記事で言うように「欠陥のある人間が子どもを産んだら、子どもは不幸になるしかないから、そういう人間は子どもを生むべきではない」という、括弧付きの「反出生主義」が流行したりしているわけです*1

「子どもを不幸にしてはいけない」という強迫観念こそが、毒親を生み出すのではないか?

しかし僕はここで考えるのです。「そうやって親の存在を絶対視し、『親がどういう育て方をするかによって子どものすべてが決まる』と、人々が広く考えるからこそ、毒親が生まれるのではないか?」 と。

毒親や親ガチャという単語が普及し、「親が間違った育て方をすれば、子どもは不幸になる」という考えが広まれば広まるほど、「だから正しい子育てをしなければならない!」という親へのプレッシャーは大きくなります。より良い学校に行かせて、友人も含めた周囲の環境も最良なものにして……しかし、そうやって親が子どもに過干渉することこそ、子どもにとっては重荷になったりするわけです。


記事の最初で挙げた朝比奈まふゆの例はまさにその典型的な例といえます。確かに子ども側の視点から立てば、親は理不尽な干渉を子どもに強いてくる存在です。しかし親側がなんでそういった干渉をするかといえば、悪意ではなく、むしろ善意からなんですね。「将来不幸にならないために、きちんと環境を整えてあげなければいけない」というように。そして、その背後にあるのは、「子どもが幸福になるか不幸になるかはすべて親の責任」という、社会的な強迫観念なのです。

社会福祉がどんどん削られていくなかで、頼るものが親しかなくなっている

ここで強調したいのは、このように「子どもが幸福になるか不幸になるかはすべて親の責任」となるのは、決して自然に生じたものではないということです。


例えば、僕の親ぐらいの世代、1960年代生まれぐらいまでの人の話を聞くと、よく「大学生の頃、親の反対を押し切って二人暮らしを始めた」という話を聞いたりします。いわゆる「四畳半フォーク」の世界です。
ja.wikipedia.org
しかし、同世代の人々にそういった甘酸っぱい経験をした人はほとんどいません。なぜなら、学費・家賃が高騰し、賃貸も保証人が必須となる中で、「親の助けなく大学生活を送る」というのは、かなり難しいからです。
www.jcp.or.jp
bigissue-online.jp
僕の年上の世代は、よく尾崎豊の「十五の夜」なんかを引き合いに出しながら、「今どきの若者には反抗心がない」と言ったりします。しかし僕ら世代からすると、僕より上の世代が反抗できたのは、結局親とかに反抗しても、何とかやっていける程度に社会が豊かだったからじゃないかと、思うわけです。そういう豊かさを社会から奪っておきながら、「最近の若者は反抗心がない」と愚痴るのは、ちょっと無責任なんじゃないかと、思ったりします。


話をもとに戻すと、昔は社会が豊かだったからこそ、親の庇護から外れてもまあまあ生きることが可能だったんですね。だから、親が毒親のような存在でも、「いざとなら家を出ればいい」と思えたし、完全に家から出なくても、少なくとも「親の庇護がなくても自分は生きられるだろう」という安心があったわけです。


ところが現代においては、社会全体が貧しくなる中で、若者が親の庇護なく生きることはほぼ不可能になりつつあるわけです。そうなると、親側も「きちんと子どもを庇護しなければ、子どもは必ず不幸になる」と思ってしまうし、子ども側も「親に従って庇護を受けなければ、自分は生きていけない」と思い、親が毒親であっても、そこに依存せざるを得なくなるわけです。


「子どもが幸福になるか不幸になるかはすべて親の責任」というのは、決して自明のことではなく、このような日本社会の状況を背景にした上での、強迫観念なのです。

毒親はひどい!」と憤るだけでなく「何で毒親みたいなものが生まれるのか」と一歩引いて考えることが大事

多くの人にとって「家族」というものは、とても大事なものです。そしてそれ故に、そういった家族の中で生じる、「毒親」のような不幸は、現実でもフィクションでも大きく心を動揺させます。「こんなひどい親許せない!」と。


もちろん、そうやって憤ることが必要な場面もあります。特に毒親によって被害を受けた当事者にとっては、「自分が不幸なのは自己責任ではなく、親がひどかったからだ!」という気づきを得ることによって、自尊心を復活させることもありますから、毒親を非難することが一概に悪いとは言えません。


しかし一方で、「毒親によって子どもが不幸になる!」ということをことさらに主張することは、先に記事で述べたように、むしろ親たちを追い詰め、彼・彼女らを毒親になるよう追い込んでいるという側面もあるわけです。


そこで一歩憤りから身を引いて、「では何で毒親が生じてしまうのか」、「毒親を生み出してしまうこの社会」とは何なのかといったことを考えることも、憤りとともに、必要なのではないかと、僕は考えるのです。

*1:ここで僕が「括弧付きの」という注釈をつけたのは、欧米で哲学タームとして生み出された原義の反出生主義とは、指し示す内容がだいぶ異なってきているからです

「オタクくんさぁ……大好き!」と叫びたくなる映画―シン・ウルトラマン感想文(ネタバレあり)


shin-ultraman.jp
というわけで、見てきました「シン・ウルトラマン」。
シン・ゴジラにもシン・エヴァにもはまれなかった自分
amamako.hateblo.jp
amamako.hateblo.jp
なので、正直この映画もそんなに期待値は高くなかったのですが、見てみるとこれがかなーーーり僕好みの、僕が好きなタイプの映画になっていました!
もしかしたら、自分がこれまでに見た実写映画のベストスリーに入るぐらい好きかも知れません。

ただ、その一方で「僕はこういうのほんと大好きなんだけど、一般受けはもしかしたらしないかもなぁ……」と思う点もありました。
今回の記事ではネタバレありで感想を述べていきますが、その感想が万人に当てはまるとは思わないので、気になる人は是非劇場に見に行きましょう!

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人生に“冷めて”しまったとき、どうすればいいのか

anond.hatelabo.jp
分かる部分と分からない部分がある気がする。

僕も、30代で特にこの先結婚・子育てをする予定も無く、かといって仕事で何かをなすような人間でも無いので、むなしいという気持ちはよく分かる。そしてそのむなしさが、趣味に打ち込むとかでは解消されないんだろうなーとも、思う。

ただその一方で、そこで感じるむなしさが、「自己実現できていないから」ではないかというのは、僕はよく分からない。

というのも僕は子どもの頃から、そもそも結婚したり子供を産んだり、あるいは仕事で大成することに一体何の意味があるのか、よく分からなかったから。

おそらく、もし本当に「子どもを産み育てることこそが、この世に生まれた人間のやることだ」とか「仕事で成果を出すことが、社会人としての正しいありようなのだ」とか思えるのならば、30代という年齢は、がんばればなんとかできる年齢だと思う。

でも、そこで頑張ることができないのは、結局、そういう「これが正しい人のありようだ」という理想像を、心の底から信じることができていないからだと思うのです。

趣味というものが、心の救いにならないのも、それが原因だと思う。趣味を生きがいにするには、ただ趣味を楽しめばいいだけでなく、「趣味を楽しみに生きたって、それは素晴らしい人生じゃないか」という確固たる価値観がなければいけないわけだけど、おそらくそういう価値観もまた、心の底から信じなければ、信じることはできない。

伝統とか宗教といった、上から「こうあるべきだ」という規範を押しつけているものがあまりない現代の社会においては、「何のために生きるか」というのはあくまで個々人が自由に選び取るものとされている。

ただ、多くの人はそうはいっても、周囲の人々の価値観や、マスメディアですり込まされるイメージにより、なんとなく「これ(仕事、子育て、趣味)を大事とすべきなんだな」という価値観を得ることができるんだけど、でもそれは伝統や宗教のように上から押しつけられるものではないから、それを大事に思う理由は、「自分がそれを大事にしているから」という、循環論法でしかなく、それ故極めて脆弱なものになる。

そして、そうであるが故に、「なんでそれが大事なんだっけ」と、一旦“冷めて”しまうと、もう元通りに戻ることは難しくなってしまうわけです。

昔だったら、こういう風な実存的疑問って言うのは、伝統とか宗教とかを押しつけられず、むしろそれを作り上げる立場に居る、宗教家とかの一部のエリートのもので、それ故に、出家させるとか、書生生活を送らせるとかができた。

でも現代においては、一旦人生につまずくと、ごく普通の一般人でさえ、こういう実存的疑問にぶち当たってしまう。しかし、そういう人全てを宗教とか象牙の塔とかに、丸投げは出来ないわけで、そうなるとまさに増田や僕のような「むなしさを抱えたままの人」が続出しちゃうわけです。

と、このように診断はできるわけだけど、じゃあ実際「むなしさを抱えたままの人」をどうすればいいか、結局のところは、よく分からないわけだけどね。

「マイノリティに寄り添う」ということの曖昧さに潜む罠

女性向け下着ブランドの代表が炎上した件について、周囲の騒動をひとまず置いておいて、直接代表が書いた文章から考えてみる。

togetter.com

どんな性でも性的な魅力で異性を応援したってよくない?
そしてわたしにはそもそもあの広告が性的とは感じられませんでした。
胸が大きい女子高生は実在するし、制服をミニスカートで履きたい!って方も多くいると思います。実際、わたしもそうでした。


月曜日のたわわ4巻まで読了しました!
感想は、胸が大きい女性のことが好きな男性のロマンを詰め込んだファンタジーギャグ漫画なんですね。
確かに未成年の肉体に性を感じている描写がありましたが、それを決して読者に勧めている内容ではありませんでした。


男性も相手に嫌われないよう、理性を踏み越えないように葛藤する空回りがギャグポイントというあたり。
そもそも漫画世界なので、現実とは別ですよね。と捉えました。


これを読み、女性機関が言っている、「明らかに未成年の女性を男性の性的な対象として描いた漫画の広告を掲載することで、女性にこうした役割を押し付けるステレオタイプの助長につながる危険があります」は、善悪を判断できる男性、嫌だといえる女性に対して失礼だなと感じたところです。

代表の私自身、またHEART CLOSETは大前提として、未成年を性的な対象とする風潮を奨励しません。未成年を性暴力や犯罪から守るのは当然のことであり、私自身とても大切に考えています。


そして、他者が誰かを性的であると勝手に判断し、押し付けることはあってはならないことだと考えております。


にもかかわらず、なぜこういった事態を招いてしまったのか説明いたしますと、自身が常にマイノリティで生きてきた中で、自分自身を肯定したり、マイノリティの他者をまず肯定し、思いやるというスタンスを持ってきたことが背景にございます。
今回の件についても、一律に否定するとそこから漏れてしまった方たちを萎縮させてしまう状況を作り出してしまうと思ったからです。


しかし、今回は単純には肯定していけなかった事象について、単一的な面だけを切り取り肯定してしまったこと、深く反省しております。

問題になったツイートと、それに対するお詫びの文章を読んだとき、まず思ったことは、「ツイートに対する釈明やお詫びになっていないような気がする」という感想でした。

そもそも別にツイートでは「マイノリティの他者を肯定」とかいう話は全然出ていないわけで、そのような気持ちがツイートした理由になっていると説明されても、その二つにどういう関連があるかいまいちよく分からないですし、事実Twitterでも下記のツイートのように、文章の解釈を巡って混乱が生じています。


今回の騒動に登場するアクターを整理すると

  • 『月曜日のたわわ』のファン
    • 『月曜日のたわわ』に登場する女性キャラクターを性的な対象として消費する人
    • 『月曜日のたわわ』に登場する女性キャラクターのように自らの性的魅力を利用したい人
  • 『月曜日のたわわ』の広告を掲載した側
  • 『月曜日のたわわ』の広告を批判する側
  • 胸の大きな人
    • 胸が大きいことを自己アピールとして利用している人
    • 胸が大きいことに注目されるのを嫌がる人

というように、様々なアクターが存在し、また更に言えばそのどれもがマイノリティである、または自分がマイノリティであることを主張している人だったりするわけですね。

その中で、では代表はどのマイノリティを肯定し、思いやろうとしたために上記のツイートを投稿したのか。それが不明確なのが、上記の「お詫び」の解釈が分かれてしまう一番の原因なのだと思います。

「マイノリティ」というラベリングそのものの曖昧さ

ただ、このように解釈が分かれてしまうのは、単純に文章が推敲されていないということ以外にも、そもそも「マイノリティ」という概念そのものに問題があるのだと思うのです。

マイノリティとは、直訳すれば少数派ということです。ただ、一般にその言葉が社会問題や社会運動の場面で使われるとき、その言葉には「社会によって抑圧されている」とか「弱者である」といった含意が含まれます。例えば、身分制があった過去の王国などでは、少数の貴族や特権階級が多数の人々を支配していることがありますが、そういう貴族や特権階級のことは普通「マイノリティ」とは呼ばないわけです。

具体的に名前を挙げるならば、「女性」「有色人種」「障がい者」などなどが挙げられます。ここで「女性」もマイノリティに挙げられるということが結構重要で、あるグループが「マイノリティ」であることは、数の多少よりも、そのグループが抑圧を受ける社会的弱者であるかが問題なわけです。

そして、そういう定義である以上、あるグループがマイノリティであるかというのは、そのグループ自体が決めるというよりは、そのグループを社会的にどう扱うか決める、外部の社会が決めることなのです。「女性」も「有色人種」も「障害者」も、自ら望んでマイノリティになっているのではなく、社会によってマイノリティとラベリングされているわけです。

マイノリティ同士だからって、仲良くなれるわけではない

このことが何を意味するかといえば、「マイノリティ同士だからって、好き好んで共通している要素なんて実はあまりない」ということです。もちろん、実際は多数派の社会に対抗するために、異なるグループが「マイノリティ同士の連帯」を主張することはあります。しかしそれも結局、多数派の数に対抗するための戦略的な連携な訳で、心情的に「マイノリティ同士だから理解し合える」という要素って、実はほとんどないのです。

事実、マイノリティのグループ同士が対立しあうという問題は、社会運動の歴史で多々ありました。有色人種の運動のマッチョイズムが女性運動から批判されたり、あるいは女性運動の異性愛中心主義が同性愛者から批判されたりと。こういうのを見ると、「マイノリティに寄り添う」側はついつい「同じマイノリティなのになんで仲良く出来ないの」と思ってしまうわけですが、しかしそれこそまさに、マイノリティを「マイノリティ」とラベリングする、多数派の視線を内面化した傲慢なわけです。

重要なのは、「マイノリティ」というラベリングではなく、個別の人たちにどう向き合う実践をするか

お詫び文章では「マイノリティの他者をまず肯定し、思いやる」ということが書かれています。それは、行動の原理原則としてはとても大事でしょう。しかし、他者が好き好んで「マイノリティ」になったわけではない以上、実際に他者と相対するときには、「マイノリティ」というラベリングは抜きにして、個別の人たちにまずは向き合う必要があるはずなのです。

そうすれば、代表が肯定したいと考えている「胸の大きな人」の中にも、『月曜日のたわわ』のような表現を批判的に見る人がいるということが理解できるはずだったのではないかと、僕は考えます。

そして、更に言えば、『月曜日のたわわ』を肯定する人と批判する人の両方がいて、そのどちらもある意味マイノリティと言える以上、全てのマイノリティを無条件に肯定するのは不可能なわけです。

しかしそのことは「だから一方に荷担して他方の敵となるしかない」ということではありません(ネットでは往々にしてそのような極論に走ってしまいがちですが)。対立する双方の主張を聞き、それぞれの理を理解した上で、「でもここはやっぱり肯定できない」と言うことは、ただ全肯定するよりよっぽど誠実な、マイノリティに対する態度だと、僕は思います。

ただそれは、そもそもTwitterのような「全肯定/全否定」しか書けないようなSNSではできないわけで、そう考えると、やっぱり今回の件について安易にTwitterでつぶやいたことが、間違いの発端なんじゃないかなぁと、思ったりもします。

データベース消費の成れの果てとしての、プロパガンダ"未満"マンガ「ヤマーダクエスト」

amzn.to
togetter.com
「寒いプロパガンダ」という評が言われてるけど、なんつーか、お前らプロパガンダ舐めんなと思います。

上海に旅行に行ったとき、プロパガンダポスター専門の美術館にわざわざ行ってきた
amamako.hateblo.jp
僕からすれば、こんなもんプロパガンダ未満ですよ。

戦争論』とかと同列視するのは、『戦争論』に失礼

ついでに言うと、小林よしのりの『戦争論

とかとこのマンガを同列視しているツイートも散見されるけど
小林よしのりとか、あと山野車輪の『マンガ嫌韓流』とかをずっと批判してきた僕からしても、「こんな稚拙な表現と一緒にしないでくれ」と思う訳です。

小林よしのりにしろ、山野車輪にしろ、彼らの表現っていうのは、「違う主張を持っていたり、そもそも主張を持っていない人に向けて、自分の主張を受け入れさせるためのもの」なんですね。というか、そもそもプロパガンダとはそういうものなんだけど。

で、その為に彼らは、一般の人々の心に寄り添い、その心情や不安をうまくすくい取る描写を盛り込み

自分の存在が異端であることをきちんと描写しながら

しかし自分が、なんで「目覚める」ことができたかを表現し

そして更にマンガ特有の感情移入を呼び起こしたりして

様々な技巧を使って、異なる立場を説得しようとするわけです。

一方、「ヤマーダクエスト」の方はといえば、徹頭徹尾オタクの内輪受けでしかないわけです。


これらのコマに、「表現の自由界隈のオタクの内輪笑い」を狙う以外の一体何の意味があるのか?
例えばこれが小林よしのりなら、下記のようにありったけの絵と文字を使って「その単語にどういう意味があるか」説明するわけです。

なぜなら、小林よしのりはそもそも「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」なんてことを知らない人に向けて、マンガを書いているからなんですね。

しかし「ヤマーダクエスト」にはそんな「他者を説得しよう」という要素は一つも無いわけです。徹頭徹尾、内輪向けの自己満足マンガ。そんなもの、プロパガンダとすら呼ぶに値しません。

彼らにとって「表現の自由」とは、自分たちが興奮できる「萌え属性」の一つにすぎない

しかし、なんで彼らの表現がここまで稚拙なのでしょう。
その答えは単純です。「彼らは物語を作ることができず、ただデータベースに萌えてるだけだから」です。

中国のプロパガンダポスターにしろ、小林よしのりゴーマニズム宣言にしろ、彼らはその表現によって、「毛沢東に率いられた中国共産党共産主義が世界を解放する」であったり、あるいは「大日本帝国はアジアを解放するために戦い、その歴史は日本人の自信と誇りになっている」であったりというような、一つの物語を描こうとしているわけですね。そして、その物語の魅力によって、人々に共産主義だったり大東亜戦争肯定論のような主義・主張を植え付けようとしている。

ところが、「ヤマーダクエスト」や、表現の自由戦士たちの表現には、そもそもそういう物語は存在しません。あるのは「表現の自由は大事」「女性の性的表現を規制しようとするのはブスの僻み」「日本文化は大事」というような、断片的なフレーズのみ。そのフレーズに同調し「そうだそうだ」と興奮できるひとは興奮できるけど、そうでない人にとっては全く意味不明な表現でしかないわけです。

なぜそういう表現になってしまうかといえば、表現の自由を守ろうとするネットのオタクたちが、そもそもそういう形でしか興奮できないからなわけです。物語に興奮するのでは無く、フレーズに興奮する。

これは、まさしく東浩紀が『動物化するポストモダン』で表現した「データベース消費」なわけです。


東浩紀が『動物化するポストモダン』で示したのは、オタクたちが「悪い宇宙人から地球を救う」とか「正義と悪に割り切れない戦争の中で戦う少年たち」のような物語では無く、上記の図にある「猫耳」「メイド服」のような、オタクのデータベースに登録される萌え属性に興奮するようになったという話なわけですが、表現の自由戦士たちはその様式をそのまま政治の世界に持ってきて、表現の自由のために戦うもの」とか「アンチフェミニズム」とかいう属性に酔ってるだけなのです。

しかし、「物語」は、異なる立場の者にも理解可能な物ですが、「データベース」は、それを共有する者同士の内輪でしか通じません。

例えば毛沢東主義にしろ大東亜戦争肯定論にしろ、もちろん彼らの主義を容認はできませんが、しかし「虐げられたもののために立ち上がる」という物語自体は、それを否定する人にも理解はできるわけです。しかし「表現の自由」という単語だけでは何のこっちゃわけがわからないわけで、それを他の人に理解してもらうには、一体その概念がどう、オタク以外の一般の人々を豊かにするかの「物語」が、本来は表現されなければならないのです。

ところが、彼らはマンガでプロパガンダをしようとしながら、そういう「物語」を描くことができず、ただ内輪でデータベース消費をするだけのマンガしか描けない。しかしそんな形でプロパガンダを描こうとしても、結局それはプロパガンダ未満の自己満足マンガにしかならないのです。

きっとこの世の殆どの人は善人で、だから世界は残酷だ

なんか眠れないので、今思ってることをつらつらと書いていく。

 

いちおう書いておくと、僕はこれから「論理」の話は一切しない。そうでなく、徹頭徹尾「感情」の話をする。

 

Twitterの凍結が解除されて、ふと思いついて、自分をフォローしているアカウントを適当にフォローバックしてみた。そうすると、この世の中が改めて分断されていることに気付かされる。

 

新聞広告のマンガの件にしてもそうだ。広告肯定派と否定派、それぞれがそれぞれ自分たちの正しさを主張し、自分の意見と同じ立場からの、「気の利いたツイート」をRTしていく。

 

それを見て、もちろん個人的に、この意見は分があるなとか、その意見はちょっと違うんじゃないかとか思うことはあるのだが、それ以上に思うのは、その二つの立場のかみ合わなさだ。

 

このかみ合わなさをなんだろうとかんがえるために、一旦TLや現実を離れて、自分が同情できる、「理想の主張者」について考えてみる。

 

まず肯定派の方。

 

少年は、あまり世間になじめない中で、必死にマンガだけを勉強し、上達させていった。そして、やがてマンガが世間に認められ、マンガ雑誌に掲載され、新聞広告にまでなる。

 

ところが、そこでいきなりそんな漫画存在してはいけないと否定される。

 

一方否定派の方。

 

少女は、いつも自分の胸の大きさを、性的な目で見られてきた。そのことは少女にとってとても嫌だったが、耐えるしかなかった。

 

しかし最近になって、やっとそういう目で見ないでと、言ってもいいんだと気付いたし、社会もそういう目で見ることを許容しなくなってきた。よかった。やっとこれで、自分がそういう目で見られずに済むんだと。 

 

しかしある日、新聞広告を目にすると、胸の大きさを性的な目で見るマンガの広告を目にする。結局、この社会は変わっておらず、胸の大きい女性はそういう目で見られるのか。

 

もちろん、これはあくまで「理想化」した姿だ。だが、こうやって理想化してみると、どっちの少年少女もかわいそうに見えるし、応援したくなる。

 

そして、それぞれの主張を支持する側に見えているのは、まさしくこうした理想化されたかわいそうな存在の片方であり、だからこそ「この少年/少女を助けなければ」と、思ってしまうのだ。

 

これが、どっちかが完璧に同情出来ないならよかっただろう。少年を批判してるのが、ただ性的な表現は風紀を乱すから行けないと考えているようなヒステリックな人であったり、あるいは少女が嫌うマンガを書く人が、女達を性的な目線で見るのは男の権利だ、文句言うなと考えるような外道であったり。実際、こういう風に対立相手を「悪魔化」するツイートも多々見てきた。

 

しかし実際は、そういう悪魔もいるかもしれないが、大多数は「かわいそうな目に遭っている人がいるから助けてあげよう」と考える善人なのである。

 

善人同士が自らの善性でもって「誰かを助けたい」と思うその心が、この世に対立の種をまき、衝突と不和を引き起こすのだ。

 

その世界の残酷さが、今日も僕を眠れなくする。

「堕落したい」と思うことは保守か革新か

goldhead.hatenablog.com
上記のid:goldhead氏の記事が、読んでいてとても面白いなぁと思ったので、自分も記事を書いてみる。

僕は、自分自身が信じられないから革新なのかも

上記の記事では、「革新」を、今ある状況を否定してそれを進歩させていくものとして捉え、「保守」はその反対に、今ある状況を肯定し、それを維持していく考えだとしている。

そして―これが読んでいて面白いところなんですが―id:goldhead氏は、その分類で言うなら、自分は自分自身を変えて高めるために頑張っていきたくないから、自分の内面に対しては保守主義なんじゃないかと考え、それを「我が内なる保守主義」と呼んでいるんですね。

こういう論法というのは、既存の保守勢力や革新勢力というものから一旦離れて、原理的に「保守」や「革新」とは何かを考えるために、極めて筋の良い思索なんじゃないかと思う訳です。

そして、自分に照らし合わせて考えてみたとき、まず思ったのが「僕は完全に『我が内なる革新主義』だな」ということです。

ただ、上記の記事では、「我が内なる革新主義」の例として、ビジネス書とかセミナーとかに参加して、自分を成長させていくという人を挙げているのだけれど、僕は、そういうタイプではありません。むしろ働くのとか大嫌いだし。

そうでなく、僕は、「自分」というものが、何もしないでいるとひたすら悪い方向に向かっていくと考えているのですね。自己中心的で、すぐ他人の行動を支配しようとし、自分の思う道理に他人が動かないと癇癪を起こす。「どくさいスイッチ」をドラえもんから渡されたら、どんどん人を消して言ってしまうタイプです。

そして、そういう自分を、ただ放っておいて行き着く先には、それこそ連合赤軍みたいに、気に入らない他人をリンチ殺人したり、ナチスドイツの小役人みたいに、差別している対象を虐殺したりする結果が待っていると考えています。

だから、そういう結果を生まないために、「我が内なる革新主義」に基づいて、自分自身を革命していかなきゃならないと考えるわけです。潔く、カッコよく、生きていくために。*1

「寝そべり主義」をどう考えるのか?

しかし、更に考えてみると、そうともいえない自分がいることにも気づきます。

例えばid:goldhead氏は以下のように述べますが

まず、理論がねえし、科学がねえ。計画をたてる気力もねえし、自分を進歩させたいという思いもない。そして、なにも変わりたくない。家での生活から幼稚園に行くのも泣いて嫌がったし、幼稚園から小学校に行くのも嫌だった。確実にこの延長線に今がある。

この「家での生活から幼稚園に行くのも泣いて嫌がったし、幼稚園から小学校に行くのも嫌だった。確実にこの延長線に今がある。」という気持ちはとても理解できるわけです。

また、昨今寝そべり主義というものが注目されています。詳しい説明は以下のページなどをごらんになって欲しいのですが
imidas.jp
簡単に要約すれば、「競争を仕向ける社会秩序を拒絶して、ただグダグダと寝そべっていく」という考えです。

僕は、この考えにすごく惹かれるのですが、ではこれは保守か革新か?*2

「堕落したい」と思うことは保守か革新か

このようなことを考えていくと、以下の様な問題に行き着きます。それは

「堕落したい」と思うことは保守か革新か?

という問題系です。

そして、このような問題系の典型にいるのが、坂口安吾という文学者です。ちょうど、僕のブログの記事を、坂口安吾の『堕落論』を絡めながら紹介してくれる人がいましたね。
yapatta.hatenablog.com
坂口安吾は、とても人気ある文学者で、正直僕も太宰より安吾の方が好きだったりするのですが、彼が「保守」であるか「革新」か?というのは、実は日本近代文学を考える中で、結構大きな問題となってきたのですね。

坂口安吾の思想を語るというのは、このブログ記事単体ではとてもじゃないけど出来ないことで、それこそNHKでシリーズにして取り上げられるようなことなのですが
www.nhk.or.jp
簡単に言うと、「古い社会道徳を否定し、人間本来の人間性を解放する」ことを求めた人といえるわけです。

しかし、そういう思想を持った人が、しかし他方では、「特攻隊」のようなものを賛美するわけです。
www.aozora.gr.jp
これを、一体どういう風に考え、思想として位置づければ良いのか?

「ただ矛盾しているだけだろ」と言うのはたやすいです。しかしこういう「一見矛盾しているように見えること」って、僕の心の中にもいっぱいあるわけです。「勉強なんて面倒くさい」と思いながら、いっぱい勉強している友人に劣等感を抱いたり、「革命のために人を殺すなんてダメだろ」と思いながら、心の中で日本赤軍のような過激派をヒーローのように思ったり……

オウム真理教へシンパシーを抱いていたことを公言すれば無条件で叩かれる世の中で、こういうことを考え続けるのはなかなか難しいですが、しかし、こういうことこそ、真に「考えるべき問題」なんじゃないかと、思う訳です。

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*1:あー、『輪るビングトラム』劇場版楽しみ

*2:いやまあ、中国共産党の指導に反旗を翻しているという意味では、反共産主義と言えるかもしれまえんが、そういう話はしていない。