あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

愛の物語であると同時に、喪失の物語だったー劇場版ピングドラム感想(ネタバレあり)


というわけで、『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM後編 僕は君を愛してる』、鑑賞してきました。
penguindrum-movie.jp

以下感想を書きます。ネタバレもあるっちゃあるけど、そもそもTV版とストーリー自体が大きく変わったわけではないので、「TV版のピンドラは見た」という人はそんなに気にすることはないかなと思います。ただ、もし「TV版をまだ見てなくて、劇場版から初めてピンドラを見る予定」という人が居たら、見た後に読んだほうが良いかもしれません(僕個人としては、そんなにネタバレを見たかによって感想の内容や、面白さが変わるタイプの映画ではないと思うので大丈夫だと思いますが)。

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少女を犠牲にして世界を救う功利主義が「道徳」となってはいけない理由

amamako.hateblo.jp
先日の記事ですが、はてブTwitterの反応を見る限り、賛否両論、それも、否定がだいぶ多めのようです。


寄せられた主な批判としては

  1. 「著者の主張を曲解している」
  2. 「人文学は、文化相対主義を否定し、価値判断をすることによって社会に貢献しなければならない」
  3. 功利主義に対するあままこの批判は間違っており、功利主義こそ道徳とされるべきだ」

というようなものが多いです。


この内、「著者の主張を曲解している」という批判については、一体どこの部分が曲解というのか具体的に指摘されていない以上、返答しようがないと思うので、返答しません。


2番目の「人文学は、文化相対主義を否定し、価値判断をすることによって社会に貢献しなければならない」という批判に対しては、僕は、マックス・ウェーバーが『職業としての学問』

で述べたように、学問は「価値自由」を旨とする作業だと考えています。つまり、ある社会現象に対し、それが一体どのようなメカニズムで動いているかを分析するのが学問であり、その社会現象に対し良い/悪いという判断は、学問の役割ではないと考えます。


例えばシン・esbee氏は統一教会の例を挙げ、「人文学はきちんと統一協会を『悪い』ものと批判するべきだった」と主張しますが、僕は、学問ができるのは、統一教会のような宗教が一体どうやって信者を獲得し、また囲い込んでいくのかという、メカニズムを解明するところまでで、「統一教会は良い/悪い」を判断するのは、学問の役割ではないと考えています。*1


そして次に、3番目の功利主義についてですが、これについて、確かに先日の記事においては、僕が功利主義をどう考えているのかについて、説明が足りなかったと思うので、今回の記事で改めてその論拠を解説したいと思います。

功利主義についてクリッツァー氏はなんと言っているか

まず最初に言っておきたいのは、僕が前回の記事で批判したのは、クリッツァー氏の説明する意味での功利主義です。そのため、「クリッツァー氏の言っている功利主義とは違う功利主義がある。だから功利主義は否定されるべきではない」と言われても、正直困るということは、最初に述べておきます。


ではその上で、クリッツァー氏は功利主義についてなんと言っているのか、『21世紀の道徳』を引用しながら、より詳細に見ていきましょう。


まずクリッツァー氏は、功利主義という言葉の定義について、次のように述べています。

「権利」の相対化をおこない、権利と権利との対立に別の基準を持ち込むことによって事態を解決する発想のなかでも代表なものが、「最大多数の最大幸福」を重視する功利主義だ。
功利主義にかかれば、権利と権利が対立する問題も、「どうすれば幸福を最大化できるか」という問題に還元される。当事者たちのうち片方の権利を優先したほうがより多くの幸福を生み出せることが自明であるなら、そうするべきだ。どうあがいても誰かが不利益を被る状況であるが、当事者の両方の権利にほどほどの制限をかけることで生じる不利益が最小化されるなら、そうするべきである。

そして、クリッツァー氏は、なぜ権利と権利が対立したときにそれを採用すべきと考えるかについて、ジョシュア・グリーン氏の論を引いて、以下のように述べています。

功利主義は道徳に関する様々な直感や慣習に反しているために、感情的には支持されにくい。しかし、どんな集団に属する人であろうと、理性を用いて「なにが大切なのか」「なにを重視するべきなのか」を冷静に考えてみれば、大半の人は功利主義を支持するであろう、とグリーンは論じる。

そして、理性を用いて冷静に考えれば功利主義を支持するようになる具体例として、クリッツァー氏が挙げるのが、「トロッコ問題」です。

クリッツァー氏は、理性を持って冷静にトロッコ問題を考えれば、功利主義に基づき一人の命を犠牲にして五人の命を救うことが正解であると判断できると述べます。

「五人の命を救うためであれば、一人の命を犠牲にすることは認められる」という考え方は、「最大多数の最大幸福」を重視して、「意図」よりも「結果」を優先する、功利主義の主張と共通している。前章でも紹介したように、『モラル・トライブス』では、どんな文化圏に属している人であっても、道徳問題について感情ではなく理性に基づいてじっくり考えた場合には、大半の人が功利主義的な判断を選択することが示されている。他方で、感情としては、五人の命を救うためであっても一人の命を犠牲にすることを選択するのは難しい。そして、思考に基づいた判断を下すことに対する感情の抵抗は、分岐線問題よりも歩道橋問題においてのほうが強くなる。そのために、分岐線問題では五人を救うという選択をできた人であっても、歩道橋問題では太った男の命を犠牲にすることができなかったのだ)

そして、理性を用いて功利主義を選択すべき理由として、クリッツァー氏は「進化論的暴露論証」というものを挙げています。

理性に基づいた判断が正しいと限らないし、感情に基づいた判断にも正当性があるはずだ、と反論する人もいるかもしれない。このような反論に対し、グリーンは「進化論的暴露論証」と呼ばれる主張を展開することで、感情よりも理性に基づいた判断を下すことの優位性を説いている。

(略)

道徳感情とは、自分と他人のあいだや自分と集団のあいだでトラブルが発生するリスクを予防するための、オートモードとして進化してきたものであるといえる。そして、通常の環境であれば、大概の場合では道徳感情に従うことは正しい。自分の身体を使って他人に意図的に危害を加えることで、より多くの人々を助ける喧嘩が得られるというのは、ごく特殊な状況でしか成立しないためだ。
しかし、トロッコ問題とはまさに「特殊な状況」である。そして、道徳感情が「通常の状況」に対応するために進化したものであるとするなら、「特殊な状況」では道徳感情に従うべきではない。必要なのは、理性に基づいて考えることだ。

つまり、感情とは通常の状況においてトラブルに対処するために、進化によって得られた能力で、理性とは異常な状況においてトラブルに対処するために得られた能力である。そして、トロッコ問題とは異常な状況のことを指しているのだから、理性で持って問題に対処するべきだと、いうことなのです。


(この部分、僕はかなり理解に苦しんで、僕自身自分の読解が正しいのか確信が持てないので、「その解釈は違う。『進化論的暴露論証』とはこういうものだ」と説明できる人がいたら、教えてほしいです。)


そして、以上のような説明によって、クリッツァー氏は次の結論を出すわけです。

・五人がトロッコに轢き殺されることよりかは、一人がトロッコに轢き殺されることのほうがまだマシだ

と。つまり、功利主義を道徳として採用すべきだと主張するわけですね。

功利主義は、それが「トラブルを解決する思想の一つ」である内は否定しない

最初に言っておきたいのは、僕は何も功利主義を、絶対に社会の中で通用してはいけない危険思想として全否定したいわけではないということです。


僕自身、日常において功利主義的に行動することは多々あります。例えば、僕が会社に勤めていて、「自分は企画の仕事をやりたいな」と考えてても、その会社の中には、僕より企画力が優れている人がいる場合、無理やり「僕は企画がやりたいんだ!」と主張せず、我慢して、自分の得意技術が活かせるプログラマーを選択します。それによって、僕自身の幸福は下がりますが、会社全体はより利益を生み出し、会社のみんなが幸福になれるからです。


ただここで重要なのは、この場合、功利主義はあくまで「その問題に関わる人々の間で『功利主義を採用してもいい』という同意が取られている」ということです。僕も会社も、問題が起きたときに、その問題を功利主義に基づいて解決しようと同意しているからこそ、トラブル解決の方法として、功利主義が採用されているのです。


そして、なんで僕がそこで功利主義を採用してもいいと考えるかといえば、ぶっちゃけていえば、僕が、会社においてどんな職種に就くかという問題を、そんな重大な問題と考えていないからです。確かに自分の希望した職種に就けないことは僕にとって不幸ではありますが、しかしその不幸は、僕にとって許容できる不幸です。


しかし、この世の中で起きる問題は、そのように、許容できるものばかりではありません。そして、功利主義が「道徳」となったとき問題が起こるのは、まさに「許容できるものではない」ケースなのです。

「少女を犠牲にして世界を救う」ことを、道徳として強制すべきなのか

『天気の子』という、大ヒットしたアニメ映画があります。

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
Amazon
本当に大ヒットした映画で、皆さんあらすじは知っていますでしょうから、詳細は省きますが、映画の中で、終わることのない豪雨が続いているときに、ある少女が現世からいなくなり、そしてその対価として、やっと豪雨が治まるという展開があります。


当然ながら、豪雨が続いて自然災害によって甚大な被害が出るよりは、少女一人が消え去る方が、犠牲=不幸は少なく済みます。実際、物語に登場するキャラクターも、「人一人の犠牲でみんな丸く収まるなら、そっちの方がいいだろ」みたいなことを言うわけですね。これはまさしく、功利主義を採用した考え方と言えるでしょう。


しかしそれに対し、主人公の少年は少女が消え去ってしまうことを嫌がり、現世に少女を連れ帰ります。結果として、再び豪雨が東京を襲い、東京のほとんどが水没してしまうという、甚大な被害が生じてしまうわけですね。


このような状況、功利主義を道徳として採用すれば、主人公の少年は「理性ではなく感情に従って、功利主義に基づかない選択をした。よって非難されるべきである」ということになるでしょう。しかし、僕は全くそうは思いません。


重要なのは、その主人公に対し、少女はかけがえのないものであり、他のものと比較不可能であったということです。


クリッツァー氏も文中で引用している通り、思考実験において、人々が功利主義に基づいて選択を行うのは、「それ以外の条件」というものが考慮に入れられないからです。

まず、私たちは、他の条件がすべて等しければ、少ない幸福より多い幸福を好み、それは自分たちだけでなく他者に対してもあてはまることをはっきりさせた。次に、他者について考えるときは、個人の幸福の多寡だけでなく、影響を受ける人の数を配慮することも確認した。最後に、各個人の幸福の多寡と影響を受ける人物の両方を考慮に入れ、すべての個人の総和を気にかけることをあきらかにした。他の条件がすべて等しければ、私たちはすべての人の幸福の総和が増すことを好む。

しかし、この場合は「主人公にとって少女は、そんなものとも替えがたい、かけがえのないものである」という、重大な条件があるのです。そしてそのために、少年は、「少女を救うためなら、世界がどうなっても良い」と叫びます。つまり、そもそも主人公の少年には、功利主義を採用する同意がなかったということです。


そして、上記のように、功利主義を採用しないという選択肢も尊重されるべきだと、僕は考えます。少なくとも、功利主義を採用しないからといって、その採用しない人を非難したり、社会の成員としてみなさないということがあってはならないと思うわけです。


以上のことから僕は、功利主義について、それが「問題の当事者全体で、採用することが合意された思想」である場合は、どんどん活用していけば良いと考えるものの、それが社会全体で「常に人々は功利主義に基づいて考えるべきである」とされる、道徳規範とされることに、反対なのです。

「当事者は責任を負い、非当事者はそれを助ける」ことこそが、私達の持つべき道徳なのではないか

しかしそのように、道徳としての功利主義を否定したとしても、主人公たちに全く負うべき責任がないとは思いませんし、『天気の子』の主人公たちもそれは痛いほど自覚しています。


主人公の少年少女は、物語の最後で周辺から「おまえたちが世界を変えただなんて自惚れるな」と言われますが、しかしそれを敢えて否定し、「自分たちが世界をこんなふうに変えてしまった」ということを自覚します。ラストにおいて少女が祈っているのは、まさしくその象徴であると言えるでしょう。


主人公たちは、功利主義に対しては真っ向から反旗を翻し、自分たちの意思に基づいて、自由な選択を行います。しかし、そのように「自分たちが自分の意志に基づいて選んだ選択」によって生まれた結果については、しっかりと責任を感じているわけです。というかむしろ、主人公たちは自由だからこそ、その選択には責任を負うべきだと、自負しているわけです。


そして僕は、このように『天気の子』で描かれた「自分が自分の意志で自由に選択を行い、そしてそれによって起きた結果に責任を負う」ということこそ、社会全体で共有されるべき、道徳にふさわしいと考えるのです。


ただ一方で、『天気の子』は、そのような当事者たちに求められるべき倫理とは違う、もう一つの倫理も示しています。先に述べたように、物語の最後において周辺の大人は、主人公たちに対し「おまえたちが世界を変えただなんて自惚れるな」と言います。なぜなら、仮に少女を犠牲にしなかったことによって世界が壊れてしまったとしたら、そんな世界はもとから壊れていたのであり、主人公たちに対し非難すべきことは全くないからです。むしろ、少年少女たちにそのような過酷な選択をさせてしまった責任が、その他の人間たちには存在するのです。


そして、その責任のとり方として、周囲の大人たちは、主人公たちを「功利主義に基づかない行動をした!」などと批判せず、むしろ全力でサポートするわけです。言うなれば、主人公たちが背負っている責任をみんなで分担しようとしているわけですね。


僕が『天気の子』を見て本当に感銘を受けたのは、このように「当事者に求められる倫理」と「傍観者に求められる倫理」の双方が、大変に真摯なものだからです。それは、まとめれば次の2つになります。

  • 問題の当事者は、自由に選択をすべきである。しかしその選択に対する責任は負うべきである。
  • 問題の傍観者は、「当事者にそのような選択をさせた責任」を負い、当事者をサポートする形で、その責任を果たさなくてはならない

そして、このような倫理というのは、まさしく、これまで、日本の、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるようなサブカルチャーが積み重ねてきた倫理的思考の極地にあるという点で、「セカイ系の倫理」と呼びたいと思います。


もし、「21世紀の道徳とはどんなものなのか」と問われれば、僕は、功利主義なんかではなく、このような「セカイ系の倫理」こそ重要なのではないかと、主張します。

*1:もちろん、個々の学者や、学者の集まりが、自分が学問で得た知識をもとに、統一教会を批判するのはかまいません。僕が言っているのは、学問が、その学問の結論として『〇〇は悪い』ということはできない、ということです。

依存することは決して悪ではない―『〈弱さ〉を〈強み〉に: 突然複数の障がいをもった僕ができること』感想文

著者である天畠大輔氏は、四肢麻痺といった重度の障がいを抱えながら、研究者として障害者のコミュニケーションについて研究してきた方なんですが、先日(2022年)の参議院選挙にれいわ新選組から比例で立候補して当選した方でもあります。

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僕は、この前の選挙では、比例でれいわ新選組に投票したんですが、ぶっちゃけるとこの人のことはあまり知りませんでした。投票した理由も消去法で、自公維国Nは論外、立憲は連合とのつながりが気に入らない、共産・社民は、候補者は好きだが党組織が硬直していて期待が持てないという理由で、自分の政治信条とある程度合致していて、しがらみがなく大胆に動けそうという理由からでした。


だから、当選が決まった後、慌てて天畠氏について調べ、そしてkindleで著書が出ていると言うことで購入したわけです。「もし自分が受け入れがたい変なこと書いていたらどうしよう……」という不安もありながら。


ですが、その不安は杞憂でした。


この本を読んでまず第一に思ったこと。それは、「このような聡明でかつバイタリティに溢れた人を、国会に送り出す一助ができて、本当に良かった!」というものです。


なぜそう思ったか、詳細は後述しますが、この本で天畠氏が述べていることは、まさしく今の日本の政治で一番重要なことだと考えるからです。ついでに言うならそれは、僕自身の個人的悩みにも大きなヒントを与えるものであり、そして、今の日本社会全体が抱える問題の解決にも、道筋を指し示すものだと考えます。

『〈弱さ〉を〈強み〉に』の論旨要約

『〈弱さ〉を〈強み〉に』という本は、14歳で重度障がいを抱えた天畠氏が、いかに大学に進学し、研究者となり、さらに自分たち障がい者の介助を行う事務所の経営者となったかを、ライフヒストリーの形式で綴りながら、その中で気づいた、障がいについての様々な問題やその解決策を提言する著書になります。


で、この本で主張されていることは、主に次の4つになります。

  1. 「介助者手足論」の限界と、それを乗り越えるための「おまかせ介助」の重要性
  2. コミュニケーションにおける主体性は、共同作業の中にも宿りうる
  3. 依存することは悪ではない
  4. 障がい者に選択肢を与える介助制度の必要性

それぞれについて説明していきます。


まず1についてですが、これまで障がい者運動の中では、「介助者は障がい者の黒衣に徹し、障がい者が『やってほしい』と命じたことだけをやるべきである」という、「介助者手足論」というのが主流でした。


この背景には、介助者がよかれと思ってやったことであっても、介助者の主体的判断抜きに行われては、結局障がい者の主体性を侵害することになるという、障がい者の主体性を尊重する考えがあります。


しかし天畠氏は、障がい者の主体性を尊重するという考えは重要だとしつつも、意思を示すにも大変な困難を伴う重度障がい者としての立場から。実際はあらゆる介助行為をいちいち指示することはできないし、無理矢理やろうとすれば、それは障がい者への負荷になってしまうと指摘します。そしてその上で、ある程度は介助者が先走って介助を行う「おまかせ介助」も必要ではないかと述べるんですね。


そしてその上で、重要なのは障がい者と介助者の間にきちんと「それぞれが何を求めているか」という相互理解があることではないかと述べます。つまり、おまかせしてもある程度は自分が望むように介助してくれるし、自分の意に反する介助を行われたら「次からはそうしないでね」と言える関係。そのような強固な関係を介助者と作れることこそ、障がい者の主体性を確保するために重要だと述べるわけです。


次に2についてですが、天畠氏は、その障がいの特性上、情報機器などを用いて自分一人だけで執筆を作成したり会話したりすることがとても難しく*1、ある程度介助者に自分が言いたいことを推測して、その推測に基づいて執筆・会話をせざるをえません。


しかしそのような形で執筆・発話した内容は、どうしても天畠氏の考えだけでなく、介助者の考えも混ざってきてしまう。そのような介助者の考えが混ざった表現は、自分の主体的な表現とは言えないのではないかと、そのような悩みがあったそうです。


しかし、そこで天畠氏は、「健常者も障がい者も、自分一人の考えだけで選択や決断を行っているわけではなく、周囲との関係に影響されている以上、『純粋な自己決定』などは存在しない」という考えを、研究の中で学びます。


(ここらへん、社会学的にも結構重要なんだけど、本ではさらっと触れられてただけなので、より詳しく知りたい人は以下の文献なども参照)


そしてその上で、例え介助者の考えが混ざったとしても、それを自分が選択するという選択において主体性が確保されていれば、それでいいのではないかと、考えるようになります。


そして、上記のような視点から、天畠氏は障がい者の自立について、「何にも依存しない状態を目指す」のが自立なのではなく、「依存する選択肢を複数持ち、それらを主体的に選択できる」状態こそが、自立した状態と考えるわけです。そしてそこから、障がい者の自立を支援する福祉制度は、まず障がい者に「就労する/しない」「施設に入る/家庭に居る/地域で暮らす」などさまざまな選択肢を提示し、それらを障がい者が選択できる、そんな制度でなくてはならないと主張するのです。

自分の個人的な気づき:知的障害を持つ弟とのコミュニケーションは、「介助者手足論」を絶対視していた

僕がこの本を読んでまず思ったことは、「これをきっかけに、弟とのコミュニケーションを改めよう」という、ごく個人的な感想でした。


以前ブログで触れたことがあります(くしくも、これもれいわ新選組に関する記事だった)が
amamako.hateblo.jp
僕には知的障がいを持つ弟が居ます。


で、そういう障がいを持つ兄弟が居る人(このような存在を「きょうだい児」と言います)は、どうしても、障がい者の介助に近いことを行うわけです。そして、一応大学である程度障がい者運動とかを勉強した僕は、「介助者が障がい者の主体を侵害してはいけない」と考えますから、何を介助するにも逐一「○○(弟の名前)は何をしたいの?」と、障がい者である弟の意思を確認しながら行うわけです。まさしく、上記で言われた「介助者手足論」を愚直に実行していたわけです。


しかし、どうも弟はそれが気に入らないみたいで、逐一「どうすればいい?」と聞いても、生返事がほとんどだし、最終的には「もうお兄ちゃんが決めてよ!」とキレてしまったりします。で、それを聞いて僕も「せっかく弟が何をしたいか尊重するようにしているのになー」と、鬱屈した思いを募らせるみたいなことが多々あるわけです。


で、そういう悩みを抱いていたときに、この本を読んで「逐一意思を示すことを求められることも重荷である」という、言われてみれば当たり前のことに気づくわけですね。天畠氏は身体の障害により意思を示すことが難しいわけですが、弟は知的障害により、何かしら意思を決定するだけでとても労力を使うわけです。そんな中で矢継ぎ早に「僕はどうすればいい?」「これをやった次はどうすればいい?」と聞かれたら、そりゃあ疲労してしまいますし、結局「考えるの面倒だからお兄ちゃんが全部決めて。僕は文句言わないから!」というように、弟に主体性を発揮しないことを強いることになるわけです。


ただ、そうは言っても、僕自身軽度の発達障害を持つ身で、他人の気持ちをおもんばかるのは苦手中の苦手だったりするので、「おまかせ介助」をできるような存在にはなれないと思ったりもするわけですが。ただそれでも、できるだけ意思決定の負担を軽減する形で介助を行って、その上で「僕が思う、○○がやってほしいと思うようなことをやってあげるけど、それが嫌なら遠慮せずに言ってね」と言うし、また、嫌だと気軽に言える雰囲気を作らなきゃだめだなと、個人的に自戒するようになったわけです。


このように、この本を読んで僕がまず思ったのは、自分の個人的な教訓だったわけです。

議員もまた、介助者と同じではないか

そして、そうやって個人的な教訓を感じた後に思ったのが、「ここで言う障がい者と介助者の関係って、実は有権者と議員にも当てはまるんじゃないか」ということです。


「おまかせ民主主義」という、日本の有権者の政治意識を批判する言葉があります。一旦選挙で議員を選んだら、あとは全部議員に任せて、政治に関心を持たない。そういう状況を批判しています。


このように日本の有権者の政治意識を批判する人が、ではどのような状況を理想視しているかというと、有権者が常に世の中の政治課題について勉強し、それぞれの課題について逐一議員や政党に意見を出し、議員や政党はその声に基づいて行動すべきだとする考え方です。いってみれば、介助者手足論ならぬ「議員手足論」です。


しかし、介助者手足論が、理想としてはよくても、実際は障がい者に過大な負担を強いるように、議員手足論も、有権者に過大な負担を強いるわけです。そして、そのような過大な負担を強いられた有権者は、結果として「じゃあ政治に関心なんて持たない!」と、有権者としての主体性そのものを放棄してしまいます。


そうならないためにも、「おまかせ介助」のように、ある程度議員に、政治活動を委任する必要があるわけです。しかしそこで、揶揄されるような「おまかせ民主主義」にならないために必要なこと。それは、有権者と議員・政党の間に、「この議員・政党なら自分たちの考える最善を求めて行動してくれるだろう」という相互理解があること。そしてさらに、議員・政党が自分たちの望みと異なることを行ったときに、気兼ねなく「それは私たちの意図と違うから止めて欲しい」と言えるようにすることこそが、有権者が主体的に政治に関わるために重要だと、天畠氏の「おまかせ介助」論を援用すれば、言えるわけです。


果たしてれいわ新選組がこのような理想的な有権者との関係を築けるか、それは分かりません。ただ少なくとも、このような関係こそが、主体性を確保するのに理想的であるということを知っている人が、国会議員の中に居るだけでも、れいわ新選組に希望を持てるなと、僕は思うわけです。

「依存すること」と「主体性を持つこと」は二律背反ではない

そしてさらに言えば、天畠氏がこのように、「依存すること」と「主体性を持つこと」を、必ずしも二律背反なものでなく、むしろ相補関係にあると提言していることは、政治に限らず、現代社会に生きる人々みんなにとって、重要な考え方であるとも思う訳です。


現代は個人主義の時代であり、それまでの地縁や血縁というものが根こそぎ解体されて、一人の個人が生身で生きることを余儀なくされます。もちろん、それによって今まで地縁や血縁にしばられていた様々なことから、人は自由になったわけですが、一方で単体の個人が単体のまま社会で生き残ると言うことは、よほど幸運でない限り不可能なわけです。もし今現在独り身で自由に生きられていたとしても、もし病気になったりなんらかの障がいを負ったり、あるいはどうしようもない経済の変化で失業したりしたら?


そんな中で、ある人は「生き残るためには、例えそれを望まなくても強くならなきゃならない」と、マッチョな個人であることをめざし、また別の人は「生き残るためには結局何かの庇護に入らなければならない」と、宗教や民族といった共同体に服従しようとしたりします。しかしそのどちらも、結局「自分が自分の思うように生きる」という、主体性を放棄していることに他ならないわけですね。


結局、何にも依存しないで生きることができる個人なんてものは存在しないわけです。しかしだとしても、その依存先を複数持てるようにすることで、ある依存先が依存と引き換えに服従を強いてきても、「じゃあ別の依存先に依存するよ」と、依存先を乗り換えることができる。そのように選択肢を複数持てるようにすることこそが、依存しながらも主体性を持つために必要なのである。


そして、そのような観点からすると、「何者にも依存しないことこそが尊い」というマッチョ主義を心の中から退けることこそが、自分の主体性を確保するのに重要なことや、社会は複数の依存先を選べる選択肢を用意できるように設計されなければならないというようなことが言えるわけです。


このように天畠氏の著書は、障がい者との関係やコミュニケーションについての提言を行う著書でありながら、しかしそれにとどまらず、社会全体の、「生きずらさ」と呼ばれるような問題に対する処方箋となりえるものだと言えるわけです。

「弱さ」を恥だと思わず、それと向き合って、「強み」にすることの重要性

そして、最後に僕が思うのは、このような真摯な思考を徹底し、さらにそれを現実において実行できる、天畠氏のバイタリティのすごさです。


著書において天畠氏は、最初自分は、このような、「介助者なしにコミュニケーションができない」という自分の弱さを研究対象にすることに忌避感があったと記しています。なぜならそれは、自分の能力が評価されているわけではないように思えるからだと。


この感覚は、障がい者の弟を持ち、自分自身も発達障害を持つ僕もよく分かるんですね。別に障がいに忌避感を持つわけではない。けれど、障がいをいわば「ネタ」にして、ブログの記事であったり、あるいは論文を書くことには、どうにも嫌な感じがあるわけです。なんか自分の恥ずかしい部分をわざわざ晒して、「たまたま自分がそうだっただけ」のことにすがっている気がして。そうでなく、もっと普遍的なことについて書いて、それで、「障がい者の弟を持つ」とか「軽度の発達障害を持つ」といった属性とは関係ない、自分自身こそを評価してほしいと、そう思ってしまうわけです。


そして僕はそのように考えた故に、大学院で社会学を専攻していた頃も、障がい学についてある程度関心はあり、講義を受けたりはしたものの、それを自分の研究のテーマとすることからは逃げました。


ただ、天畠氏の著書を読んで思ったのは、「むしろそのような、自分が見ようとしない『弱さ』を直視することからこそ、心を打ち、さらに社会全体に波及する強度を持った論考が生まれるのではないか」ということです。そして、社会学とはまさに、そのような個別の問題にこそ、社会全体を解き明かす鍵があるとする学問だったということを、改めて痛感したわけです。


ちょっとこれからは、自分の個人的な経験に基づく文章も、書いてみようかな。

*1:不随意運動が激しいため、機器に正確に文字を打ち込むのが難しい

自分がどう生きるかは、結局自分が決めるしかないのでは?―『21世紀の道徳』批判的書評

著者のベンジャミン・クリッツァー氏(id:DavitRice)の論考については以前もこのブログで何度か取り上げたことがあります。
amamako.hateblo.jp
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上記の記事を読めば分かるとおり、僕はクリッツァー氏の豊富な知識量についてはすごいと思っているんですが、そこから示される、社会問題や学問観・人生論にはどうしても同意できないところがあります。ただ、なんでそこで同意できないかはいまいちよく分からなかったんですね。


それは、この本を読んでも正直あまり変わらなかったんですが、ただこうやってまとまった形で論考を読むことによって、そもそもクリッツァー氏と僕には、根本的な考え方の違いがあるんだなと思うようになりました。

学問は「唯一無二の正解」を示すご神託なのか、「様々な見方」を提示する人生の参考資料なのか

クリッツァー氏は前書きにて、「哲学とは何か」について以下の様に述べています。

哲学といえば、「答えの出ない問いに悩みつづけることだ」と言われることもある。だけれど、わたしはそうは思わない。悩みつづけることなんて学問ではないし、答えを出せない思考なんて意味がない。なんだかんだ言っても、哲学的思考とは、わたしたちを悩ませる物事についてなんらかのかたちで正解を出すことのできる考え方なのだ。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.5). 株式会社晶文社. Kindle 版.

つまり、クリッツァー氏にとって、哲学や、その他倫理学や心理学・生物学といった学問は、それを勉強すれば、絶対とまではいかなくても、蓋然性の高い正解が見つかるものであり、その正解に従って生きれば、正解の生き方ができるものだと考えてるんですね。


しかしそういう考えに対し僕は、「学問、特に人文学に正解はない」と考えます。そもそも学問毎に、その学問が依拠する価値観や、学問観が異なる以上、ある学問で「正解」とされることが、別の学問では「間違い」とされることは多々あって当然ですし、無理に「それでは唯一無二の正解が導き出せない」として、価値観・学問観を統一することが良いとも思いません。だってそれぞれの学問は、それぞれの学問固有のディシプリンに沿って、これまで研究をし、また研究手法を洗練させてきたわけですから、そこでいきなり「今までのおまえらのやり方は間違っている!」と言って、それまでの研究成果を放棄させることに、意味があるとは思いません。


更に言えば、学問内においても、主義の対立はあります。例えば僕の専攻だった社会学では、構造機能主義やらシステム論やら構築主義やらと、「社会というものをどう捉えるか」について様々な理論の対立があります。そして、純粋に理論を研究している人なんかは、それぞれの理論のどれが正しいか、またそれぞれの理論の良いとこどりをして、よりよい理論を生み出そうとしたりしているわけですが、ただ社会学者の大多数は、そういう理論的なことを純粋に突き詰めると言うよりは、とりあえず好みで自分の依拠する理論を選んで、そしてそれに基づいて実際にフィールドワークやら統計調査とかをして、研究をしています。


結果、社会学では、そもそも「社会とは何か」という、社会学の根本に位置する問題に対する見解がバラバラなまま、様々な研究が行われたりしているわけですが、でも、そうやってバラバラな見解に基づくからこそ、社会学は社会のあらゆる場面を研究することができている訳です。


そういう環境にいた僕にとって、学問とは、「唯一無二の正解を与えてくれるご神託」というよりは「自分が常識的に持っている理解とは違う、様々な異なった理解を与えてくれるもの」なわけです。


もちろん、そうは言っても、生きていく中では、そういった様々な理解のうち、一つの理解を選び取り、それに基づいて決断をしなければなりません。しかし、そうだからこそ、僕は多様な見方を知って、それらを自分の頭で比較考量して、納得のいく決断を行いたいのです。「様々な見方を知った上で、でも自分はこれを選んだ」というように、決断に、責任を負いたいから。


そして、そういう考え方からすると、クリッツァー氏の「学問は唯一無二の正解を指し示さなければならない」という考え方は、「学問がこの道しかないと言ってるんだから、それを選ぶのは自分の責任ではない」と言うように、決断に対する責任を放棄しているように思えてならないのです。

『21世紀の道徳』での3つの主張

クリッツァー氏が『21世紀の道徳』で主張している内容は以下の3つに集約されます。

  • 道徳について考える際は、「最大多数の最大幸福」を優先する功利主義に基づかなければならない
  • 人文学における議論は、人類の生物学的本質を元にされなくてはならない
  • 生物学的本質に基づいた功利主義こそが、役に立つ人文学の必要条件である。

しかし、残念ながら上記の3ついずれについても、僕は同意できませんでした。

功利主義」が些末な対立を回避することこそ、破局的な対立を生む

最初に言っておくと僕は、「世界が滅ぶぐらいだったら少女一人が犠牲になっても仕方ない」という功利主義が大嫌いな、未だにセカイ系にとらわれた人間なので、そもそも根本的に功利主義が大嫌いです。


そういった功利主義嫌いに対し、クリッツァー氏は「功利主義を使うことで、異なった価値観を持つ人・集団同士のジレンマに対応できる」と主張します。

感情に基づいたオートモードの道徳は、あくまで集団内のジレンマを解決するために発展したものであり、集団間のジレンマを対処する役には立たない。むしろ、オートモードの道徳は部族主義を加熱させて問題を悪化させてしまう可能性が高い。そのため、集団間の問題に対処するためには、感情ではなく理性に基づいた、マニュアルモードの道徳が必要とされる。

(略)

グリーンが求めているのはあくまで「違った価値観を持つ異なる集団が衝突して、道徳に関する問題について争っているときに、問題に回答を与えて解決するための道徳とは何か」という、実用主義的なものとしての道徳だ。

そして、実用主義の観点からグリーンが選択する道徳が、功利主義なのである。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.88). 株式会社晶文社. Kindle 版.

しかしここには、「異なる価値観が対立したときは、穏便に解決をしなければならない」という前提が、暗黙のうちにあるわけです。


ですが、前々回の記事で述べた通り
amamako.hateblo.jp
ただ対立を忌避して「穏便に解決しましょうよ」と言うことは、結局現状の社会秩序を利するものに他ならないわけです。


もちろん、異なる価値観同士の対立が、戦争・紛争にまで至ってしまえば、それは絶対避けるべきものと言えるでしょう。


しかし、そうでなく、言葉や非暴力的手段によって闘争が行われている場合は、むしろ健全な社会といえるわけです。なぜなら、闘争の中で双方に接点が生まれ、その中で相互理解が深まり、また異なる価値観の混交も生まれてくるからです。


一方で、功利主義を用いて「穏便に解決」した場合、結局異なる価値観の集団同士は相互不干渉になり、社会の分断が進んでいくわけです。そして、一旦些末な闘争は抑えられたとしても、功利主義の俎上の載せられない、根本的価値観をめぐる対立が生じたときは、破局的な対立へと至ってしまうわけです。

生物学的本質が示すのは、むしろ人類の多様性では?

次にクリッツァー氏は、今までの人文学における議論は、人類の生物学的本質をあまりに無視してきたと主張します。

実際には、「人間の本性」とは「社会的関係の総和」だけではない。それぞれの人間がどんな思考や欲求を抱いてどんな行動をするかということは、社会的なものとは別の要素にも影響されている。それは、進化の歴史によってどんな人間にも生まれつき身に付けさせられることになった、生物学的な側面だ。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.24). 株式会社晶文社. Kindle 版.

そして、社会的なものとは別の生物学的側面の例としてあげられるのは、例えばトロッコ問題に対する人々の態度は文化と関係なく全人類が共有する理性に基づくと主張したり

倫理学者であり心理学者でもあるグリーンは、分岐線問題や歩道橋問題に加え、その他様々なバリエーションのトロッコ問題を被験者たちに投げかけて回答させる、という実験をおこなった。すると、分岐線問題ではレバーを倒すという判断をした人が多かったのに対して、歩道橋問題では太った男を突き落とさないという判断をした人のほうが多かったのである。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.104). 株式会社晶文社. Kindle 版.

男性と女性では脳の性質が異なると述べたりするわけです。

発達心理学者のサイモン・バロン=コーエンは、著書『共感する女脳、システム化する男脳』のなかで、男性の「対物志向」と女性の「対人志向」について「システム化思考」と「共感思考」の違いという枠組みからまとめている。

「システム化」とは、物事の背景にあるシステムを分析して、そこに存在するパターンや規則を発見してコントロールしようとしたり、自分の手でシステムを構築したりしようとする傾向のことだ。「共感」とは、自分とは異なるだれかがなにを感じていてなにを考えているのかを知ったうえで、それに応じた適切な感情を自分に発生させることである。

(略)

そして、男性の思考は平均的にみてシステム化に偏っており、女性の思考は平均的にみて共感に偏っている、と彼は論じるのだ。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (pp.147-148). 株式会社晶文社. Kindle 版.

ひとまず、上記の議論が生物学において証明されたと仮定しましょう。


しかし僕が思うに、上記の議論が示すのは、「生物学が示す人間の本質」などではなく、むしろ「生物学が示す人間の多様性」であり、「全ての人間に共通する本質なんてものはない」ということに他ならないのでは、ないでしょうか?


例えばトロッコ問題に対する態度にしても、「どんな文化圏でも○○を選ぶ人の方が多かった」というのは、逆に言えば、どんな文化圏でもその多数派とは違う見解を示す少数派がいるということに他ならないわけです。このとき、多数派の選ぶものを指して「これが人間の本質だ」と言うのなら、では少数派は人間ではないのでしょうか?


このことは、男脳・女脳の例に対しても言えます。クリッツァー氏はジェンダー学を盛んに攻撃しますが、ジェンダー学の最も重要なテーゼには「セクシャリティはグラデーションである」ということがあります。

仮に、「システム化思考」と「共感思考」が点数化できるとし、男性の平均値がシステム化思考70点・共感思考30点、女性の平均値はシステム化思考30点・共感思考70点であるとしましょう。しかし実際は、全ての男性女性が平均値に収まっているわけではなく、男性の中にも平均より更にシステム化思考が強かったり、逆にシステム化思考が弱くて共感思考の方が上回っている人も居るわけです(女性についても同様)。


とするなら、そこから得られる結論は、「男/女はみんな○○」というようなものではなく、むしろ「個々の特性に合った対処をなされるべきで、『男だからこう対処すべき』『女だからこう対処すべき』みたいなことは言えない」ということなはずなわけです。


もちろん、上記のようなことはクリッツァー氏も理解しており、以下の様な注釈をつけています。

上述した議論はあくまでも男女それぞれについての統計上の平均値に関するものであり、「すべての男性はシステム化思考をしており、すべての女性は共感思考をしている」という主張がなされているわけではない点には充分に留意すべきだ。「男女には平均的な傾向の差が存在している」という主張は、いかなる意味でも生物学的決定論ではない。

ベンジャミン・クリッツァー.21世紀の道徳(p.150).株式会社晶文社.Kindle版.

しかしそうだとしたら、そもそも「生物学的に男性/女性はこうだ」と言うことが出来ない以上、やはりジェンダー問題において生物学を参照すべき点はどこにもないということになってしまうでしょう。


更に言うと、クリッツァー氏は本の中で盛んに「普通の人なら○○と考えるはずだ」ということを述べ、そしてそこから○○を前提として議論を進めますが、それはまさしく「普通の人」だけのことを考えていればそれでいいという、「普通の人」優越主義に他なりません。


しかし、今の世の中で求められているのは、いかに「普通じゃない人」を包摂した社会を構築することなわけです。例えば、ユニバーサルデザインや「やさしい日本語ニュース」といったのもその一例です。日本の識字率を考えれば、漢字交じりの日本語ニュースでも、普通の人は十分カバーできます。しかし、やさしい日本語でニュースを伝えれば、日本語を母語としない人や、識字教育を受けられなかった人でもニュースを受け問えることが出来る。今の世の中はこのように、「普通じゃない人」も包摂する形で進歩しつつあるわけです。


そんな中で、哲学・倫理学の議論だけ、「普通の人」のみを対象にして行われるなら、そのような学問こそまさしく時代に取り残された、役立たずの学問となってしまうでしょう。

「役に立つか」という問いは、そんなに重要なものなのだろうか

さて、ここで僕は「役立たずの学問」と、皮肉を言いました。なぜならクリッツァー氏は著書の中で、「人文学は、自らの有用性を主張しなければならない」と盛んに主張し、そして人文学が役に立つためには「生物学的本質に基づく功利主義」を採用することが必要だと主張するからです。


しかし、僕はよく分からないんですが、なんでそこまで「役に立つかどうか」を説明しなきゃならないんでしょう?クリッツァー氏は橋下氏の人文系批判を例に出しながら、人文学者はこのような批判にきちんと回答してこなかったと言い、次の様に述べます。

そもそも、相手はなにも「人文学には価値がなくて役に立たないのであれば、人文学は存在してはいけない」とまで主張しているわけではない。大半の場合は、「他のところにもまわせる公金を人文学にまわせというなら、それを正当化するだけの価値が人文学にあることや、人文学がなんらかの役に立つことを示せ」と要請しているだけなのだ。先述したように、これ自体は真っ当な要請である。そして、人文学だけが「『価値』や『役に立つ』を云々することは特定の主義に基づいた発想であり悪質な思想に直結するので、その質問には答えません」と回答を拒否できる道理はないのだ。

ベンジャミン・クリッツァー.21世紀の道徳(p.42).株式会社晶文社.Kindle版.

要するに「人文学が役に立つことを証明できなきゃ、予算を削減しますよ」というわけです。


なるほどこれは、大学などで職業として人文学を研究している人なら死活問題かもしれません。ですが、逆に言うとそれだけの話です。別に大学で国からお金をもらわなくても、人文学的に素晴らしい研究をしているひとは山ほどいます。僕だって別にこのブログを国からお金もらって書いているわけではなく、僕がこのブログで人文っぽいことを書くのは、ただ単に「楽しいし、それが自分にとって必要だと思うから」であって、役に立つなんてこれっぽっちも思っていません*1


要するに、「人文学が役に立つか」なんて問いに答えられなくても、せいぜい大学の先生たちが路頭に迷うぐらいで、人文学の本質とは全く関係ないのです。しかしクリッツァー氏はそういう枝葉の問題を本質と勘違いしているが故に、下手な人生訓みたいな話を無理矢理人文学の議論に繋げているように、思えてならないわけです。

やっぱり、「言い訳」を求めているようにしか思えない

結局、クリッツァー氏の議論の問題は、人文学、というか学問を「それに従っていれば自分が自分の人生に責任を負わなくて済むご神託」と思い込んでいることに他ならないように思えます。


人文学にそのような役割を求めていながら、人文学で言われている(とクリッツァー氏が理解している)ことに従っても、自分の人生が幸福にしてくれなかったことに腹を立て、「僕の人生を幸福にしてくれない人文学は間違ってる!人を幸福にするのが真の人文学なはずだ」と思い、無理矢理「最新の研究に基づけば人生はこう生きるべきである」という話をしているわけです。


ですが、結局人間とは一人一人全然違う生き物である以上、「普通の人だったらこう生きれば幸せな生き方」が、自分にとっては全然不幸な生き方だったりするし、逆に「普通の人からしたら不幸な生き方」に見えても、その人にとっては幸福な生き方だったりすることが多々あります。
だから、人文学は答えを絞らず、「多様な幸せのあり方」を提示するわけです。


ただ、それがミスマッチを起こすことも多々あるわけで、クリッツァー氏は「普通の人からしたら不幸な生き方」が幸せであるとする、人文学の議論に騙されて不幸になってしまったから、人文学は「普通の人だったらこう生きれば幸せな生き方」こそを主張するべきだと言うわけですが、実際は僕のように「普通の人からしたら不幸な生き方」が幸せだったりする人もいるわけです。そして、人文学ってどっちかというとそういう「普通じゃない人」向けの学問な訳で。


そう考えると、クリッツァー氏はそもそも人文学に出会わなければ良かったのかも知れません。


しかし、そもそも人文学でなくったって、「こう生きていれば幸せになる」なんてことが断言できる学問・思想なんてないわけです。「人間は自由の刑に処せられている」というサルトルの有名な言葉がありますが、自由であるからこそ、自分の選択に責任を負うのは自分しかいないわけです。それこそトロッコ問題を例に出せば、1人殺す方を選ぼうが5人殺す方を選ぼうが、それを選ぶのは結局自分の自由意志なのです。例えどんなに「功利主義の理論に従えばこうするのが正解なはず」と言い訳したって、選んだのは自分であり、その責任は自分で負うべきなのです。

僕が人文学を学んで得たのはそのような覚悟でした。そういう身からすると、クリッツァー氏のこの本における議論は、人文学に「人生の言い訳」というないものねだりをしているようにしか、思えません。

その他、気になった点

第2章

企業にせよ国家にせよ、それどころか家計をやりくりする主婦やお小づかいをもらった小学生であっても、限られた予算を何に使用するかを判断するときには、生産性や効率や効用などを考慮しながら「役に立つかどうか」を検討するものだろう。そのような行為は、なんらかの「主義」に影響されたものではなく、どんな社会においても大昔からおこなわれている普遍的な営みなのである。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.41). 株式会社晶文社. Kindle 版.

贈与経済とかちょっと勉強すれば、「どんな社会においても大昔からおこなわれている普遍的な営み」とか言えなくなると思うよ。

また、すでに人文学を専攻している大学生や、入学を検討している中高生などは、自分たちが学ぼうとしている学問の価値について学者たちですらまともに答えられていない姿を目にすると、「こんな学問を勉強することにほんとうに意味はあるのか?」という疑問を抱いてしまうはずだ。

ベンジャミン・クリッツァー.21世紀の道徳(p.52).株式会社晶文社.Kindle版.

うん、そこで疑問を抱いて引き返すなら、多分引き返した方が身のためだと思う。

また、社会学政治学などの学問では、それぞれの問題意識や考え方に即したかたちで「差別」という言葉が定義付けられている。
しかし、ここではあえてシンプルに言い切ってしまおう。差別とは「不合理な区別」、あるいは「正当な理由を持たない区別」だ。逆に言えば、合理的な区別や正当な理由を持つ区別は差別ではなく、ただの区別である。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.57). 株式会社晶文社. Kindle 版.

うん、古今東西の差別を肯定する人たちは常にこう言ってきたね。「これは差別では無く区別だ」と。

もちろん、18歳以上であっても、すべての人が投票をする際にそのような複雑な能力を駆使したうえで判断しているとは言えないかもしれない。だが、すくなくとも、5歳の子どもには投票を適切におこなうための政治的判断を下す能力がないことはほぼ確実だ。だから、5歳の子どもが選挙権を持たないことは、正当な理由に基づいた「区別」なのである。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.58). 株式会社晶文社. Kindle 版.

「投票を適切におこなうための政治的判断を下す能力がない」ことを持って選挙権を剥奪したら、「黒人にはそのような能力は無い」「女性にはそのような能力は無い」「無産階級にはそのような能力は無い」と言って選挙権を剥奪することが可能になります。だから、能力では無くて権利が重要なんです。

第五章

感情より理性を優先すべき理由として「進化論的暴露論証」というものを紹介しているが、この説明がいまいちよく分からない。

感情は通常の状況に適応するために生まれ、理性は例外的な状況に適応をするために生まれた。だから、例外的な状況には理性で対応すべきだというのは、「理性は例外的な状況に対応するために生まれたのである」という事実から「例外的な状況に対応するときは理性を用いるべきだ」という規範を導く点で、典型的な自然主義的誤謬に他ならないのでは?

第7章

教育や表現を通じて個々人のなかで「役割」や「らしさ」はどのように構築されていくか、という過程についての具体的な説明には欠けているのだ。

ベンジャミン・クリッツァー. 21世紀の道徳 (p.145). 株式会社晶文社. Kindle 版.

とりあえず「ベビーX実験」とかから検索してみましょう。

第9章

  • これまで散々功利主義を擁護しながら、その反対側に位置するカントを引くことに、自己矛盾を感じなかったのだろうか
  • ロマンティック・ラブ・イデオロギーって、別に「恋愛感情が全て社会的構築物だ」と主張しているわけではなく、その恋愛感情が、一夫一妻制や、「男が女を守る」という騎士道精神をまとうことを指し示す概念なんだけどなー。本当はきちんとギデンズとか読んで欲しいけど、とりあえず↓読んで

  • ロマンティック・ラブ・イデオロギーとリベラルな恋愛観(カジュアル・セックス)が対立するとき、双方のバランスを取るのが重要とクリッツァー氏は主張するけど、リベラルな恋愛観は「ロマンティック・ラブ・イデオロギーに基づく恋愛を行っても良いけど、そうでない恋愛をすることも否定できない」と言ってるわけだから、別にバランス取る必要ないでしょ。社会的にはリベラルな恋愛観を採用し、その中で個々人がロマンティック・ラブ・イデオロギーを選択したり、あるいはカジュアル・セックスを選択すれば良いだけで。

第10章

「死の床に就いたとき『自分は間違っていた』と思う人生は間違った人生」となぜ断言できるんだろう。人生においては、それぞれの瞬間に、その瞬間を生きていた自分がいるわけで、それら複数の自分の中で「死の床の自分」だけがなぜ全体を評価する特権を持つと言えるのか?

*1:だからこそ、このブログは「役に立たないことだけを書く。」

若い人は知らないけど、僕がアニメからVTuberに流れていった理由

premium.kai-you.net
anond.hatelabo.jp
大学卒業した頃から、若者とは殆ど付き合わなくなってしまったので、今の若い人が実際にアニメからVTuberに流れていってしまっているかは、分からない。


ただ、1987年生まれの34歳の自分は、割と最近アニメを見ることが減って、その分VTuberの配信とかを見るのが多くなっている気がする。


なぜそうなったか。そこには主に2つの理由がある。

  • もともと自分がアニメに求めていたのが、「物語」そのものというより、「物語」をメタ視点から眺めるという楽しみだったわけだけど、Vtuberはより直接的にメタ的な楽しみができる
  • アニメよりVTuberの方が、よりダイレクトに現実を反映しているように見える

それぞれの理由について、解説していく。

アニメという「重い物語」と、VTuberという「軽やかな物語」

「アニメ実況」という文化がある。古くは2ちゃんねるの実況板、今はTwitterハッシュタグなどで、リアルタイムにアニメの実況を書き込んでいく文化だ。


もちろん、もともとオタクには、仲間内で集まってアニメを一緒に見るという文化はあった。だが、それはあくまで十数人とかの少人数で行われていたことだ。また、インターネット以前のパソコン通信の頃から、放映されているアニメについて意見を交わすという文化はあった*1が、当時は回線が貧弱なため、多くの人が一斉にアニメ放映時に掲示板に書き込むと、サーバーがダウンしてしまうため、多くの掲示板では「実況禁止」というローカルルールがあった。


しかしそんな中で、2ちゃんねるで、実況をする専用の板が存在し、そこでは日夜(といっても大体は深夜と日曜日朝、それとTBS・MBS夕方だったが)アニメ番組の実況が行われていた。


さて、ではそこで行われていた実況とはどんな行為だったのか?


もちろん主となるのは、笑う場面で笑ったことを書き込み、感動する場面で感動したことを書き込むといった「感情の共有」である。しかし、一人でいるときはただそれを「感じる」だけである感情も、実況という場でそれが書き込まれることによって、「観察されるもの」となる。実況に参加する人は、アニメそのものを見て感情を発露する観客であると同時に、感情を発露する観客を観察する観察者として、否応もなくメタ的な立ち位置に立つ。


そしてそんな中で、「このアニメではこういう場面でなく人が多いな」とか、「この展開、担当する脚本家よく使うな」というように、ただアニメを見て感情を発露するのではなく、アニメを分類し、さらにそこでクリエイターと関連付けたりする。「京アニが作るkey原作アニメはやっぱ泣きアニメだなー」というように。


さらに言えば、そのようなインターネット上の実況文化と共犯的に人気を獲得していったアニメも多々あった。『ぱにぽにだっしゅ!』『らき☆すた』『さよなら絶望先生』といったアニメは、メタ的なオタクネタやネットネタを数多く取り入れ、そしてそれに対してネットが盛り上がり、その盛り上がりを作りて側が取り込んでいくという、ネットの実況文化と作り手のスパイラルによって、ネット上で人気を誇る、いわゆる「覇権アニメ」となっていった。*2


だが一方で、そうやってメタ的な盛り上がりがどんどん盛り上がってくると、やがてアニメという物語そのものを脱構築していくことになる。ブロードバンド環境が人々に行き渡り、YouTubeニコニコ動画といった動画サイトが出てくると、やがてそういったサイトにアニメ番組が無断転載されたり、アニメ番組を勝手に編集した、いわゆるMADムービーというものが作られるようになる。そして、そのような無断転載動画やMADムービーでは、クリエイターの意図とは異なった意味が付与される。『チャージマン研』というアニメが、そのあまりの低クオリティさを逆に面白がられたり、『School Days』の凄惨な殺人シーンに、サッカーゲームの実況音声を付与してシュールな笑いを生み出したり。


だが、このような動きをアニメ側が全肯定することは難しい。無断転載動画は、何より直接DVD・Blu-rayといったソフトの売上を横取りしていくし、MADムービーは、作品が本来視聴者に持ってもらいたい感情をもたせることを邪魔する。何より、このようなネットのノリというのは移ろいやすく、その匙加減を間違えるとひんしゅくを買いやすい*3。よって、流れを見誤ったときは即座に修正が必要だが、制作にある程度時間を要するアニメでは、「先週の評判悪かったから今週の展開変えて」みたいな変更は難しいのだ。


そんなふうに、アニメがネットのメタ的盛り上がりに迎合するのに限界を迎えていた中で、より、そのようなメタ的盛り上がりとうまく付き合えるコンテンツとして現れたのが、VTuberだった。少なくとも、僕はそう理解している。


なにしろネット上で直接視聴者と接し、リアルタイムでコンテンツを生み出すのだから、ネットのノリを理解し、またノリを読み間違えたときにそれを修正するのは極めて容易い。自分が発したコンテンツが、意図した受け止められ方と違う受け止められ方をしても、それが利用できるなら利用してしまうフットワークの軽さがVTuberにはある。最初に与えられたキャラ設定が、視聴者とのふれあいの中でどんどん変質していくことは、一般的なアニメキャラクターではあまりよくないとされるが、VTuberにおいてはむしろ「売り」となるのだ。


僕がVTuberに惹かれるのは、まさしくそのような「物語をどんどん脱構築していく軽やかさ」なのだと思うのだ。もともと実況するものとしてアニメを見始めたものとしては、今のアニメは壊してはいけない、「重い物語」になってしまっているように見えていて、それだったら自由に変形組み換えをして遊べる、VTuberという「軽やかな物語」に惹かれるのだと思う。

VTuberだからこそ語れる「現実」がある

更にいうと、もともと僕はアニメを見るときに、そのアニメの物語そのものを見るというより、「そのアニメが、アニメという装置を使っていかに現実を理解しているか」を見ていた。


それこそ新世紀エヴァンゲリオン機動戦艦ナデシコ少女革命ウテナという、大月P三部作に代表されるように、僕が若い頃にちょうどホットだったアニメは、当時の時代と切っても切り離せないものだった。ロボットや宇宙戦争、変身ヒロインといったガジェットを使いながら、描いていたのは、当時の若者の不安や悩みだった。


もちろん現代のアニメにそういった側面がないとは言えない。だが、やはりアニメには放送コードといったものがあるし、何よりアニメは集団作業によって生み出されるし、決定権のある作り手もなんだかんだ言っておっさん・おばさんだから、どうしても「濾過された、安心安全な範疇の悩み・不安」となってしまう。


それに対してVTuberは、個人が声を発するがゆえに、それぞれの個人が抱えている悩みや不安がダイレクトに聞くことができる。さらに言えば、「アニメアバター」という匿名性を持つが故に、実際に顔見せで配信しているYouTuberより赤裸々に色々なことを語ってくれるわけだ。


そして、そういった様々なVTuberの配信を見ると、今の社会で若者がどんなことを思い、どんな現実を生きているのかということがわかる気がするのだ。そこも、惹かれる理由なのだと思う。

サブカル的にアニメを楽しんでいたのか、オタク的にアニメを楽しんでいたのかで、VTuberを楽しめるかは変わるのでは

結局、今までアニメに「何を求めていたか」によって、VTuberを楽しめるかどうかは変わってくるのだと思う。
僕は割と、「アニメをメタ的に見る」とか「アニメから社会を考える」みたいな、いわゆるサブカル的なアニメの楽しみ方をしてきた。だから、スムーズにVTuberに移行できたわけだ。
だけど裏を返せば、「アニメをみてベタに感情を揺さぶられたい」「現実を忘れるためにアニメを見たい」という、オタク的なアニメの楽しみ方をしている人たちは、VTuberを見てもいまいち楽しめないのでは、ないのだろうか。

*1:劇エヴァでの「庵野○ね」の書き込みとかはまさにその典型例

*2:さらに言うと、そのような文化がより一般的になったのは、まとめブログの存在もあるのだが、その功罪について語ると長くなるのでここでは省く

*3:ex.らき☆すたにおける白石稔押し

バックラッシュ上等ですが何か?

note.com
御田寺氏については以前も
amamako.hateblo.jp
で批判しましたが、相変わらず「インテリが気に食わない俺たち」を慰撫して、信者を集めているみたいですね。


で、この記事の著者の倉本氏は、そんな御田寺氏について

そこに、「リベラル派の理想に擬態した単なるインテリのエゴ」を決して通さず、社会の絆を崩壊させずに、「具体的な改善」だけを選択的に通す「選別膜」のようなものを作っていくことが必要なんですね。


つまり僕が主張したいことは、


リベラル派にとって「ガチの極右勢力」は確かに不倶戴天の敵かもしれないが、「白饅頭防衛線」みたいなものとは、発展的にお互いを利用し合う形に決着する必要がある対象であるはずなんだということ


(略)


彼は「欧米由来の一方的な正しさ」を徹底的に相対化しようとする言説を一貫してすることで、この「インテリの言うことなんて絶対聞いてやらねーからな!!」というモンスタームーブメントが止められなくなってしまう悲劇をギリギリのところで止めようとしている存在なのだ


(略)


先日の対談でも御田寺氏が力説してましたが、そこを無理にインテリ側の事情だけで押し切ってしまうと、アメリカで妊娠中絶の権利が危うくなったりレベルじゃなくて、それこそタリバンレベルのバックラッシュを誘発してしまえば、もうそこでは「欧米的理想」が完全に吹き飛んでしまった社会になってしまうからですね。

とか言って賞賛しているわけです。要するに、「リベラルなインテリの主張を推し進めていたら、それに反発する大衆のバックラッシュが来てもっと事態は悪化する。だからリベラルは、御田寺氏=白饅頭のような反リベラルの気持ちに寄り添い、それを満足させる視点を持たなければならない」というわけです。


ですが、それに対して僕ははっきりこう言いましょう。


「正しいことを行ってバックラッシュが来るんだったら、そのバックラッシュとは戦う以外の選択肢はないでしょ。バックラッシュ上等!それを恐れる必要がどこにある?」と。

正しさへのバックラッシュがない状況とは、それだけ不正義が蔓延しているってだけのこと

倉本氏は、妊娠中絶を巡り、リベラルと保守の対立が激化しているアメリカや、女性の権利を擁護しようとする運動とイスラム原理主義運動が対立するイスラム圏などを例に、「ああいう国・地域で起きているような対立が日本で起きたら嫌でしょ?」と言い、バックラッシュが起きない状況こそが健全だと言います。


しかしはっきり言いますが、それらの国でバックラッシュが起きているのは、正しいことを行おうとする人たちが居て、きちんと声を挙げているからなんですよ。逆に言えば、日本でそういうバックラッシュが起きてないと、もし見えるとしたら、それは正しいことを行おうとする人たちそのものが存在しないように、思わされてるからなんです。


要するに不正義が社会全体に蔓延していながら、それに対して人々が誰も文句を言っていないという状況。「バックラッシュが起きていない平和な日本」とは、そんな地獄のことなのです。


ここで注釈しておくと、「バックラッシュが起きていない平和な日本」とは、実際は虚像に他なりません。今のようにインターネットで対立が可視化される以前から、多くの人は「正しいこと」を行うために戦ってきましたし、更に言えばそれに対するバックラッシュも多々あったわけです。だからこそそのものずばり『バックラッシュ!』

という本が出版されるほどには。


そして、正しいことが実現されることを求める人々は、そういったバックラッシュと戦い、時に勝ち、時に負けながらも、この日本社会で正義を貫こうとしているわけです。

「言葉には出来ないけど僕の気持ち分かってよ」なんて甘えが許される社会こそ、不健全である

いちおう言っておくと、僕がここで批判しているのは、「正しいこと」をなそうとしている人たちに対して、ただ「正しいことを押しつけるな!」と反発するバックラッシュであって、「あなたたちの言う正しいことは間違っている。別の正しさがあるはずだ」という反論は、また別です。そういう反論に対しては、個別具体的に応じ、「ではどちらの正しさが正しいのか」ということを、討議する必要があるでしょう。


しかしここで御田寺氏は次のように言うわけですね。

現時点で言語化可能なメッセージだけが重視される社会になると、言語化能力がある人の権利だけが無制限に通る反面、自分が生まれ育った環境にいた仲間や、肉体労働者のように”言葉を持たない”存在の権利は徹底的に軽んじられる社会になってしまう。その不均衡を是正することが必要だ。

要するに「自分たちの要求を言葉には出来ない人たちもいるんだから、そんな人たちのことも分かってよ!」と言うわけです。


ですが、「言葉にせずとも分かってくれ」なんていうのは、まさしく言葉なんか使わなくても自らの特権を保持することができる立場の傲慢に他ならないわけです。つまり、言葉を使って自分の要求する権利が正当であることを証明しなくても、元々自分たちの特権が自明のものとなっているから、そんなことが言えるわけです。


一方で、今まで虐げられてきた人々は、「言葉」を使うからこそ、初めて特権を持った支配層と戦うことができるわけです。なぜなら、言葉というものは、現実の権力構造とは関係なく存在しているからです。


暴力や資本と言ったものは、現実の権力関係によって独占されます。しかし言葉は誰もが平等に持っていて、それを行使することが可能なのです。例え現実にどんなに基本的人権が無視され、不平等が放置されていても、言葉の上では「基本的人権は万人が持っている権利だ」「人はみな平等である」と言うことができるのです。


誰も「言葉」を独占なんかしていません。例え今言葉を知らなくても、それこそ図書館にでも行けば、無料で言葉を知る方法なんていっぱいあるわけです。にもかかわらず「言葉」を使って自らの権利を主張しようとしないのは、結局その主張が言葉で擁護できない不当なものであることに気づいているからなのです。そして、「言葉」を使えば、自分たちの主張が不当なものであると暴露されるからこそ、「言葉なんか使って討議するのではなく、穏便に解決しようよ」とか言って、現実にある抑圧を隠蔽しようとするのです。

「義理」「当事者意識」とは、人々を縛り付ける奴隷の重りに過ぎない

上記の記事で倉本氏は、「義理の連鎖」とか「本能レベルでの紐帯」とかいう言葉を使って、とにかく「今ここにある社会」を肯定しようとします。そういう言葉は、まさしく倉本氏や御田寺氏の議論を読んで、「やっぱりフェミとかリベラルとかの言うことはおかしいよなー」と溜飲を下げる、既に特権を持っている人間からすれば、まさしく願ったり叶ったりでしょう。


僕は、それ自体は、「うわー醜い傷のなめ合いしてんなー。見てらんないなー」という風に思いはしますが、別に気にしません。そういう不正義にあぐらをかいた特権を持った連中がどんどん愚かで醜くなっていくのは、彼らの自己責任だからです。


僕が頭に来るのは、そういう特権階級向けの現状肯定だけやってればいいものを、「今ここにある社会」の不正義によって、虐げられている人たちに対して、「いや君たちが暴れたらもっと状況はひどくなるよ」とか言って、言葉で社会を変えることなんて無意味だと、ペシミズムを植え付けてこようとすることです。


何度も言いますが、バックラッシュを経験せずに変わった社会なんて、有史以来存在しません。フェミニズム運動も、奴隷解放運動も、公民権運動も、障害者運動も、どれもどれも強烈なバックラッシュを受けてきました。そしてそういうバックラッシュを受けて、「このままじゃ自分たちの権利が更に悪くなってしまう。ご主人様の機嫌を損ねてはいけない」と、上記の記事のようにささやいてくる声も多々あったわけです。


ですが、社会を変えてきたのは、そんな声に対して「バックラッシュ上等!徹底的に戦ってやるよ!」と言い、毅然と戦いを続けた人たちなのです。

東浩紀・石戸諭・三浦瑠麗らによる福島瑞穂氏への誹謗中傷を非難する

ニコニコ動画での選挙特番における、東浩紀・石戸諭・三浦瑠麗らによる福島瑞穂氏への誹謗中傷が、ネット上で批判を集めています。


これに対し東浩紀氏は以下のような反論記事を発表し
note.com
石戸諭氏もtwitter上で以下のように反論しています。
しかし僕から見ると、ネット上での東氏や石戸氏への批判は至極真っ当なもので、東・石戸の反論は、批判の矛先をズラす言い逃れにしか思えませんでした。


以下の文章では、東・石戸の反論の何がおかしいか述べていき、さらに一体何でそんなおかしい反論をしてしまうのか、考察していきたいと思います。

「ネットでは『東浩紀ら氏が統一協会を擁護した』というデマが流れている」→ネット上では、東浩紀らが福島瑞穂氏の発言を歪曲し「統一協会について語ってはいけない」という態度を示したことが非難されている

まず、東浩紀氏の記事について。

東浩紀氏は、反論記事において、Otowa氏のツイートを提示しながら、以下のように書いています。

当該番組を見ていただければわかりますが、ぼく、東浩紀は、統一教会(現在は「世界平和統一家庭連合」ですが、こちらの名称のほうが知られているのでこちらで記します)を擁護しておりません。また安倍元首相銃撃事件犯人の動機が統一教会と関係がないとも発言しておりません。

ですが、そもそもOtowa氏のツイートも、また、それに対して上記で上げたような批判も、東浩紀氏らが統一協会を擁護しているなんてことは一言も書いていません。ネット上で東氏らの発言が批判されているのは

  • 福島瑞穂氏の「あらゆる暴力に反対する」という発言を無視して、「自民党の政策にいかに統一教会が影響力を持ってきたかはきちんと解明されなければならない」という至極真っ当な発言を「自民党統一教会と関係しているからこのようなテロを起こされて当然」と歪曲した
  • 統一教会安倍氏自民党と関係があるのは公然の事実なのに、「そんな証拠はない、あくまで仮定の話」と嘘をついた

という2点からです。


そして、このように福島瑞穂氏の話を歪曲し、嘘をついていることこそが批判されているのに、東氏や石戸氏は、「自分たちが統一協会を擁護しているように書かれている!」と、批判内容を歪曲し、自分たちはデマの被害者であるというように振る舞っているのです。はっきり言って、厚顔無恥であると言わざるをえません。

統一教会がカルトであるかは判断できない」→そんな無知な人が選挙特番に出演する資格はそもそもなかったのでは?

そして、これほどまでにマスメディア上で統一教会について報道がなされているにも関わらず、東氏は次のように述べています。

ぼくはそもそも、統一教会がカルトであるかどうかを判断する立場にありません。

仮に、これが一市民の発言だったら、こういう発言をしても許されるでしょう。例えば僕の若い友人なんかは、今回の事件があって初めて「統一教会」という宗教団体の存在を知り、その内実に衝撃を受けていました。


しかし、東氏や石戸氏は、選挙特番の出演者として、直接政治家らに質問し、意見を言える立場なわけです。だとしたら、当然各々の政治家の支持基盤は一体どういう団体なのか、またそれらの団体が政治に関わることに問題はないかというような、政治を語る上での一般常識は知っていなければならないはずです。


にも関わらず、この期に及んでも「統一教会がカルトかどうかなんてぼく分かりません」などというような人間には、到底選挙特番のような番組に出る資格はなかったと、言わざるを得ないでしょう。

「意図がなくても誤解を生むような発言は慎むべき」→東・石戸氏らが行っているのは誤解ではなく歪曲。というか君たち自身こそが誤解を生むような発言をしてるじゃん

そして、東氏は以下のように、「テロを擁護する意図がなくても誤解を生むような発言は慎むべき」と書いています。

しかし、たとえ統一教会がカルトなのが事実で、また元首相がそれをバックアップしていたのも事実で、容疑者がそれを個人的な動機として元首相を襲ったのも事実だったとしても、そもそもの大前提として、元首相への銃撃はいかなる理由があっても許されないことであり、「彼は統一教会と結びついていたのだから襲撃されるのもやむをえなかった」と解釈できるような発言は慎むべきだと考えます。たとえ、そのような意図がなかったとしても、誤解を誘導するような発言は慎むべきです。そのような誤解は、今後のテロの正当化につながるからです。

ですが、福島瑞穂氏はまず最初に「いかなる暴力にも反対です。」ということをはっきりと言っている以上、テロを正当化する意図がないこと*1は明確なわけです。そして、その後の発言においても、自民党統一教会の関係は追求すべきということを言っているだけで、例えば「自民党統一教会の関係に注目を集めさせた今回の事件に感謝します」とか「犯人にも一定の理があります」みたいなことは一言も言ってないわけです。このような発言をもとに「福島瑞穂氏はテロを擁護している!」と主張するのは、東氏や石戸氏・三浦氏のように、最初から福島みずほ氏に悪感情を持った上で、意図的に歪曲しようとしない限り不可能でしょう。


さらに言えば、そうやって「自民党統一教会の関係」を口に出せば即「テロ擁護だ!」と批判すれば、当然自民党統一教会の関係を報じようとする人は萎縮するわけで、東氏・石戸氏にはそのような萎縮を利用して、自民党統一教会の関係を探らせないようにする意図があるように、見える人もいるでしょう。もちろん彼らは「そんなことはない」と言うでしょうが、東氏の論法を使えば「意図がなくても誤解を生むような発言は慎むべき」なので、萎縮を生むような発言は慎むべきというようなことになってしまうわけです。


しかし東氏や石戸氏は、自分たちが使った論法で批判されると、途端にそれは違うという。そんな態度を見ていると、下記のツイートのような感想を抱かざるを得ません。

「ぼくのファンはぼくに同意してくれるけど?」→そりゃファンなんだから当然でしょ

そして東浩紀氏は以下のように、他の共演者や視聴者のコメントが自分に同調してくれたことをもって、自分の意見が正当なものであると主張します。

ぼくが当該番組で表明したのは、福島瑞穂社民党党首という公人が、多くの視聴者が見ている番組で、ほとんど文脈もなく、そのような誤解を生みかねない発言をしたことに対する驚きです。同じ驚きは、番組中、他の共演者にも、また視聴者のコメントでも共有されていました。ぜひ番組をご覧ください。


ぼくとしてはむしろ、その発言の一部が切り取られ、いまツイッターの一部で、ぼくへの攻撃や批判が高まっていることに戸惑いを覚えます。

ですが、そもそも数多番組がある中で、わざわざ東浩紀氏が出るようなネット放送を知っていて、それを見ようとするなんて、よほど熱心なファンしかいないでしょう。僕自身、こんな番組がやっていたことを、Otowa氏のツイートで初めて知りました。


そして、熱心なファンであれば、東氏の発言を肯定するのは当然なわけです。


ところが、Twitter上でそれが流布されれば、当然ファンではない人も見るわけで、そしてそれらの人は「この東浩紀っていう人ちょっとおかしくない」と反応しているわけです。


その2つで反応に違いがあるのは当然なわけで、それに「戸惑い」を覚えるんなら、もう一般向けメディアで活動するのは向いてないと、僕は思いますよ。

「思想や政策より人間性」と語る石戸氏は、政治について語る資格がないのでは

東氏への批判・考察は以上になるのですが、実は東氏がこのようなリベラルへの逆張りをするのには、別にそんなに驚きもなければ興味もないです。もともと東氏が南京虐殺否定論を主張していたり、あいちトリエンナーレを批判していたのを知っていれば、このような東氏の妄言も、「ああ、またか」としか思わないわけです。三浦氏についてもそれは同様だったんですね。


ただ、石戸氏がこのような、福島瑞穂氏への誹謗中傷に加担したというのは、結構意外でした。そんなにリベラルに嫌悪感を持つような人間ではないように見えていたからです。


では、一体石戸氏がこのように福島瑞穂氏の発言を歪曲し、誹謗中傷を行ったのか。石戸氏はネット上で湧き上がる批判に対し、次のように自己の発言を正当化しています。


最初、一体何でこのように応答することで自分が行った歪曲と誹謗中傷を正当化できるか、その理路が理解できなかったんですが、要するに以下のようなロジックなのではないでしょうか

しかし、僕からすると以上のような考えは大変幼稚で、およそ政治についてメディアで語る資格がないように思えてなりません。


たしかに、一般の社会道徳からすれば「死んだ人のことは悪く言ってはいけない」というのは正しいです。ですが、政治や学問の世界でそのようなことが行われれば、過去に故人がした過ちが一切正されなくなり、社会を悪い方向へ導いてしまうわけです。


だから、政治家に求められるのは、そのような情に流されることなく、淡々と、例え故人が関係したことであっても、悪いことは悪いといい、それを正していくことなはずです。そして、少なくともリベラルの立場から言えば、統一教会のようなカルト教団が政治に関与し、同性婚反対やジェンダー平等反対といった教義を、政策や憲法に反映しようとしてくることは悪いことで、正さなければならないわけです。


その点から言えば、福島瑞穂氏は人間として非情かもしれませんが、しかし政治家としては正しいことを言っているわけです。


ところが、石戸氏のように「僕はその人の思想もさることながら、人間性を見る」人からすると、福島瑞穂氏や、その他現在自民党統一教会の関係を追求している人たちは、日本のために頑張って凶弾に倒れた素晴らしい安倍氏の功績に泥を塗ろうとしている、下劣な人間性を持つ人であり、そういう人たちは叩かなければならない、となるわけです。


しかし、そのように「人間性」で政治家を見る態度はとても危ういです。例えば「家族は大切だ」と考えることは高貴な人間性と言えるかもしれませんが、それが政治の世界で推し進められれば、家制度の解体につながる同性愛者や、子どもを産まない女性、ひとり親は排除すべきということになります。極端なことを言えば、戦争や大量虐殺を始める指導者だって、人間性で言えば高貴かもしれないのです。むしろ、その高貴な人間性で持って「我が民族を救わなければならない」と思うからこそ、戦争や大量虐殺を起こすわけです。


だから、政治家を見るときは、人間性ではなく、まず思想や政策を見なければならないのです。ところが石戸氏にはそのような、政治を語る上での最低限の作法が身についていない。だから「死んだ安倍さんのことを悪く言う福島瑞穂は許せない!」なんて言って、誹謗中傷に走るわけですね。


なるほど、確かに石戸氏は人間としては「いい人」なのかもしれません。しかし僕からすると、そんな人に政治について語られても、何も聞くべきことはないのかなと、思ってしまうわけです。

*1:2022/07/14 0:12加筆修正

「表現の自由」を真に守る政策とは

参院選については前回の記事で言及を終える予定だったんですが、どうしてもモヤモヤして仕方ないので。


自民党赤松健の以下のツイートが、インターネット上で賛否両論を巻き起こしています。



b.hatena.ne.jp


まーなんていうか、昨今の保守系表現の自由」系の人は本当に見当違いの場所で見当違いの敵と戦ってるドン・キホーテなのだなぁと痛感します*1


ただ、こういう見当違いの議論を集める理由の一つに、昨今の「表現の自由」をめぐる環境の変化に、旧来の「公権力による規制からの自由」を重視してきた議論が追いついてきていないというのもあったりするわけです。追いついていないと言っても、学問の世界では20年以上前から結構論じられてきた議論なんで、
amzn.to
政治家だったらこのレベルの議論はしてほしいと思う訳ですが。


というわけで、今回の記事では簡単に、今「表現の自由」についてどんな議論がなされているのか、「表現の自由」を真に守る政策では、どのようなことが考えられるべきなのかを述べたいと思います。記事の論旨としては以下の通りです。

  • 今までは「公権力による規制」こそが、表現の自由を脅かす問題だった
    • 旧来のリベラル系の「表現の自由」を守ろうとしてきた人は、ここを重視してきた
  • しかし近年は「社会的圧力による取り下げ」という形で、公権力ではない力による、表現の自由の抑圧があるのではないかと言われている
    • 赤松氏などが「表現の自由」への圧力であると主張しているのはここ
  • だが、上記のような粗雑な議論では「表現規制」と「批判・反論」の違いが区別できない
    • だから、「行き過ぎたジェンダー論」こそが表現の自由を脅かすなんていう、見当違いの話になってしまう(行き過ぎたジェンダー論というものが仮にあったとしても、それが「論」であるならば、「批判・反論」のうちであり、「表現への規制」とはいえない)
  • 問題なのは、「批判・反論」を即「表現の撤回・削除」に結びつけてしまう、メディアやプラットフォーマーの存在
    • 「批判・反論」の中身には、「行き過ぎたジェンダー論」でも「宗教」でも「青少年への悪影響」でも何でも入る(だから、その論の中身は関係ない)
  • メディアやプラットフォーマーにおいて、人々の「表現の自由」が抑圧されるのをどう防ぐかこそが問われている
  • メディアやプラットフォーマーが寡占化しているということこそ、政策で解決できる問題ではないか

*1:もちろん、本当はそれが「見当違い」であることは分かっていて、その上で支持者の歓心を集めるために、やってるだけなんでしょうけど

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