あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

日本のテレビドラマって、なんで職業の魅力を描けないんだろう

先日、テレビを見ていたらなんかゲーム制作をテーマにしたドラマが放映されているらしくて、普段あまり地上波のゴールデンタイムにやっているドラマを見ない僕も、ちらっと流し見してみたんですよ。

で、見てみたんだけど、まーこれがひどい出来で。「ゲーム制作」の楽しさとか魅力が一切伝わってこない出来だったんですね。これならAmazonPrimeで『世界を変えたテレビゲーム戦争』

でも見ていたほうがよっぽどマシだなと思うような。あるいは、それこそ『NEW GAME!』とか『ステラのまほうとか。

で、考えてみると、自分、日本のテレビドラマ、それも地上波のゴールデンタイムにやっているようなテレビドラマで、「このドラマで描かれてる職業に興味湧いたな」と思ったこと、全然ないんですね。医者・看護師・消防士・パイロット・政治家・アナウンサー……色々職業をテーマにしたドラマはあるのに。

職業をテーマにしたドラマに興味がないのかなーとも思うんですが、外国のドラマだとむしろそういうドラマは大好きなんですよね。というかもともと『ER』

ザ・ホワイトハウス『ニュースルーム』マネーボールといったアーロン・ソーキン脚本が大好きだから、むしろ洋ドラでは職業ものばっかり見ている感じで。

更に言うと、日本の作品でもアニメや映画には、職業をテーマにした結構面白い作品があると感じるわけです。アニメならそれこそ『SHIROBAKO

波よ聞いてくれとか好きな作品があるし、実写映画でも『ラヂオの時間南極料理人クライマーズ・ハイとかなんかは、面白いし、そこで描かれる職業に興味が湧くわけです。

ところがテレビドラマになると、途端に上記のような作品と比べ、リアリティに粗が目立つし、更に重要なのが、そのドラマで描かれる職業に、興味が沸かないんですよねぇ。ていうかお話自体も、「この職業固有の面白さ・魅力で盛り上げよう」というものではなく、「職業がテーマだけど、ドラマの魅力は別にその職業の魅力じゃなくてもいいです」みたいな感じで作られてるように見えて仕方ない。

なんだろうなー、なんか企画の仕方が根本から間違ってるんじゃないかと疑いたくなるわけです。上記のような作品は、まず最初に職業自体の面白さ・魅力を知っている人が「この職業の面白さを知ってくれ」と思って企画を立ち上げ、作り手側もそういう気持ちを共有していると思うんですけど、日本のテレビドラマはそうでなく、そもそもテーマとなる職業になんの思い入れもない人が、自分の作りたいドラマを作るために職業をダシにしてるだけなんじゃないかと、そう思えてくるんですね。

それが、むしろ「職業もの」大好きな僕からするとムカついてしまう要因なのかも、しれません。

老害にならないためには努力が必要、ということ

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これと似たようなことは、僕もちょくちょく思っていたりする。


自分たちが若い頃は、スポーツ紙とか昼間のワイドショーとかでコメンテーターたちが、いわゆる「若者文化」について知ったような口を叩くのを見て、「ああいう大人にはなりたくねーなー」と思ってきたわけですよ。

ところが、自分たちがいざおじさん・おばさんになってみると、その頃僕らが馬鹿にしてた大人たちと同じことをやっているわけですよ。

で、そういう年代になると分かるわけです。「ああ、人って自然に生きてるだけじゃ、自然とああいう老害どもと同じになっちゃうんだなぁ」ということが。

いかに人は老害になっていくか

若い頃というのは、まだ人生経験も浅いですから、何を見ても新鮮で面白いものです。さらに言うと、バイタリティも溢れているから、新しい技術・文化をどんどん摂取し、それにのめりこんでいくことができる。

ところが、年を経ていくと、新しい技術・文化を見ても、「これと似たようなもの散々見た」と思ってしまう。実際は、確かに過去の反復も含んでいるかもしれないけど、その中には新しいものが含まれているのに、表層の要素の一部だけチェリーピッキングして、「昔の焼き直しでしょ」と言いたくなるわけです。

そして、過去に自分が摂取した技術・文化の単なる焼き直しとして新しい技術・文化を捉えるから、当然その新しい技術・文化に対する評価も厳しくなる。しかしその一方で、若い人は、かつて自分がそうだったように、自然と新しい技術・文化にのめりこんでいくから、加齢した身からすると冷や水を浴びせかけたくなるわけです。

しかし、結局その冷や水も、新しい文化・技術の表層を撫でたものでしかないから、若者にとっては当然とんちんかんで的外れな指摘になるわけだ。こうやって、かつて自分たちが忌み嫌っていたはずの老害に、自分がなっていくわけですね。

新しい技術・文化は、きちんと勉強しなくてはならない

では、こういう老害にならないためにはどうすればいいか。

まず言えることは、単純に「新しい技術・文化に対し、それをよく知らないままコメントしない」という、ごく当たり前のことです。

ただ、そこで沈黙して、ただ見守るだけの存在になるというのもなかなか難しいわけです。というか、そんなまっとうなことができる人たちばっかなら、そもそもはてなブックマークなんて存在してないわけで。

だったらせめて、「全くとんちんかんなことばっかり言う老害」ではなく、「言ってること10の内、7個は的外れだけど3個ぐらいは的を射ているおじさん・おばさん」になればいいんじゃないかなと、僕は思うわけです。

で、それに必要なのは、やっぱりきちんと新しい技術・文化を勉強していくことなわけです。

ところが、この勉強というのがなかなか難しい。若い内は、新しい技術・文化って、勉強しなくても、自然と摂取し、のめり込んでいくものなんです。周りに、既にそれに触れている人たちがいっぱいいるから、そういう人たちと交流することで、自然と知識や感性が身についてくる。

ところが、おっさん・おばさんになってくると、周りを見ても同年代の人らは、やれ資産形成だの結婚だのと言ったしょーもない話題ばっか話してるわけで、未だに新しい技術・文化に関心持とうとする人なんてほとんど居ないわけです。昔は、それこそ夜通し美少女ゲームとかアニメとか語れたような人たちだったのに。

そうなると、独学で勉強しなくてはならない。しかも、昔は何をみても「新しいな」と感じられたから、受動的に技術・文化を摂取していても楽しかったですが、いまは能動的に、新しい技術・文化の何が「新しいか」を、自分で発見しに行かなきゃならないんですね。ところが、若い頃若者文化に触れてきた人でも、案外「能動的に楽しさを見つける」というのは、やってこなかった人が多いので、これもなかなか難しい訳ですね。

ただ、それでも僕はこう言いたいわけです。「加齢したって、新しい技術・文化を学ぶことはきっと楽しいよ」と。

「めぐり会えたら、何かが変わる」わけがないんだな

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捜してる誰かのAffection
めぐり会えたら 何かが変わるのに
She Is Here And He Is There
街のどこかで 呼びあうよ

amamako.hateblo.jp
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この騒動について書くのは、今日これで3本目になります。書きすぎだよ自分……

しかしなんつーか、書いても書いても自分の心の中で収まりがつかないんですね。

何で収まりがつかないかと言えば、やっぱり心のどこかで、動画で否定された、「自分の妄想を押しつけるオタク」というものを、自分と全く異なる存在として切り離せないからなのかなと、思ったりするわけです。

かつて「オタク」とは、コミュニケーションに難を持つ者のことだった

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この記事、基本的には今回の騒動を茶化している記事なんですが、しかし下記の一文は、僕の心に刺さっちゃって仕方ないんです。

定型文でしかコミュニケーションらしきものをとることが出来なくて、人が嫌がってることがわからないから知らず知らずのうちに悪ノリで人を傷つけてしまう。
このコミュニケーション不全こそがオタクの本質なんだよ。

オタクってのはなあ!おしゃべりが好きでユーモアに溢れた人間が名乗っていい呼称じゃねえんだぞ!
お前なんかがへらへら笑って名乗っていい呼称じゃねえんだぞ!

まあ、ちょっと歴史の話をするなら、オタクという言葉は、中森明夫という人が、「『おたく』の研究」という記事で取り上げたのが、メディアにおいて最初に取り上げたもので
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上記の文を読めば分かるとおり、他人からどう見られるか気にしない様を、差別的な表現を使って揶揄するものだったわけです。また、同時期に「オタク論」として読まれた中島梓氏の本も

タイトルはそのものずばり『コミュニケーション不全症候群』だったりするわけです。

ただ、それを「一つの物事を追求するカッコいい人」と、ポジティブな意味で定義し返したのが、今ではすっかり人気YouTuberとなった岡田斗司夫で、『東大オタク学講座』

なんかで、「オタクは本当はすごくてかっこいいんだ」というアジテーションを仕掛け、それを契機にオタクという言葉の意味合いが反転したという歴史があったりします。

しかし一方で、いくらメディア上でそういうオタクを巡る象徴闘争*1が繰り広げられても、それが個々のオタクの心性を変えるわけではないわけです。そして、オタクの原初の意味である、「コミュミケーション不全」に焦点を当てたのが、『ヨイコノミライ』という作品でした。

そして、ここで僕は思い至るのです。「ああ、今回嫌がられているのって、まさしく『ヨイコノミライ』に出てくる、平松ちゃんのような女の子なんだ」と。

平松ちゃんのような女の子を、幸せにしたい

詳しくは『ヨイコノミライ』を読んでもらいたいんですが、『ヨイコノミライ』に登場する平松かの子という女の子は、とにかく現実を直視できない女の子で、同級生の男の子と付き合っても、その男の子の気持ちなんか一切無視して自分の理想を押しつけて、最終的に振られ、創作活動においても自分の能力のなさを直視できずトレースをしたりする、普通の人だったら絶対関わりたくない、そんな女の子な訳です。

しかし僕は、この平松ちゃんに、対し、過剰なまでの執着を抱いてしまうんですね。そのことは、これまでも散々ブログ記事に書いてきたわけです。
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その執着は、端的に言えば「平松ちゃんのような女の子を、幸せにしたい」というものです。

平松ちゃんは、確かに世間的に見ればダメダメな女の子かもしれないけど、でもそのダメさって、だれもが心の奥底では持ってるもので、ただ平松ちゃんは人より正直で、嘘がつけない故に、そのダメさを隠すことが出来ないわけです。

その正直さが、本当に僕には愛おしくて仕方なくて、「こんな女の子こそ、幸せにしたいのになぁ」と、思ってしまうのです。

更に言えば、そういう女の子が救われるなら、僕の心の中にもある、平松ちゃん的な部分、「間違っているのは、僕じゃ無くて世界だ」という思いが、救われるような気がしてならないんですね。

She Is Here And He Is There

そして僕は、こう思ってしまうのです。「ダメなオタクオンナは、ダメなオタクオトコとくっつけば良いのに」と。
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この記事も、基本的には今回の騒動を揶揄するものな訳ですが、「母親を求める男性オタク」と「母親面したがる女性オタク」がいるのなら、その2つがくっつけばいいじゃないかというのは、本気で思うわけです。

先に引いた中森明夫氏の「『おたく』の研究」でも、以下の様なことが、嘲笑する形ではありますが、言われています。
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  でもさぁ、結局世の中誰でも最後は結婚するんだよね。で『おたく』
は誰と結婚するのかなぁってずっと不思議だったんだけど、おそろしい
事実に気づいたね。なんとこれが、『おたく』は『おたくおんな』と結
婚して『おたくこども』を生むのであった。ジャンジャン。

これが現実なら、例えどんなに第三者に揶揄されようが、当人たちはこれで幸せになれるわけですが、しかし現実はそうではない。

むしろ、ダメな女性オタクとダメな男性オタクは、双方「あんな奴ら相手に出来るか」とバカにし合って、交わることは無いわけです。そして両者はともに、美男美女のアイドルに対して、迷惑な感情を押しつけるわけです。

ダメなボクとダメな君がフラフラ踊ってみたけど

ただその一方で、無理矢理ダメな女性オタクとダメな男性オタクをくっつけたとしても、上手くいくことはないということも、僕は分かってるわけです。それはまさに『ヨイコノミライ』で描かれていたことなわけですから。平松ちゃんと井之上くんが付き合っても、結局お互いに理想を押しつけ合って、傷つけ合うだけなのです。

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ダメなボクと
ダメな君が
ご主人様と犬になって
お散歩に行くとしても
行くあてはないのだから
海にロケットを見にゆく人の
混雑にまぎれ はぐれちゃうよ

それっきり 会えない

「かわいい」という眼差しの先にあるパーソナリティ消費

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前回の記事を書き上げた後、再度アクシア・クローネ本人の動画を見た。
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見ていて改めて思ったのが、「これ、自分がアクシアのファンだったら大分ショックだろうな」ということだ。特に、もし自分がアクシアを「かわいい」と思って推しているファンだったとしたら、まさしく自分が全否定されたと思うわけで、正直他のライバーを推している自分にとっても、他人事とは片付けられない。

今回の動画に対するネットでの論考

このアクシア氏の告白については、他の人も論考を書かれている。例えばはてな匿名ダイアリーでは「「かわいい」という言葉に潜む棘」という記事が書かれ、
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その記事では

当たり前の前提を話すと、活動者に対して「かわいい」と声をかけることが間違ったことには絶対になり得ない。

と書かれつつも、しかし一方で

でも全く問題がないのか問われれば俺は「NO」と言う。そして多くの人は「全く問題がない」と考えて日々生活している。そこのギャップ/認識のズレが今回の問題として表出してきたように感じた。

と書かれ、そしてそこで「かわいい」という言葉が、「かっこいい」「上手くやっている」ことの否定として取られるということが述べられている。

「かわいい」という言葉に内包されているニュアンスとして、「かっこいい」「上手くやっている」ことの否定ということがある。「かわいい」=「ダサい」ではなく、「かわいい」という言葉の一部分に「ダサい」というニュアンスがあることを否定できない、というレベルのことだ。問題は、その部分の割合が男性個々によって違うということだ。だから、ある男性は嬉しく感じ、ある男性は「ダサい」というようなことを暗に言われたと感じるということになる。

一方で、ペシミ氏は「我々は「VTuber」を愛しているのか? ─アクシア・クローネについて」という記事を書き、アクシア氏の発言が一人歩きをすることに懸念を示し、「場の規範」を尊重することの重要性を説いている。
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 今回の件で、「ガチ恋やめろ」とか、「母親ヅラは良くない」という言説だけ一人歩きしてしまうのは良くない傾向だと思う。実際、ガチ恋や母親・恋人ムーブを許容するVTuberは多くいる。最も強調すべきは、「郷にいれば郷に従え」だろう。「概要欄読んどけ」と換言しても良い。

「かわいい」という言葉の裏にあるパーソナリティ消費

これらの論考は、どちらも正論だと思う。しかし、そう思う一方で、何かが足りないような気がする。

「「かわいい」という言葉に潜む棘」において、匿名ダイアリーを書いた人は、「かわいい」という言葉が、「ダサい」「上手くやっていない」という意味を内包することが示され、それは褒め言葉ではないということが言われている。

しかし、そもそもゲームが上手いことだけを求めるのならば、それこそeスポーツの配信でも見ていればいいのであって、そこでわざわざバーチャルYouTuberの配信を見るというのは、「ゲームが上手い」ということとは違う価値を求めているのでは、ないだろうか。

それは、一言で言えば、「ライバーの成長、そしてそれにつきまとう失敗を楽しむ」という側面だ。そして、その側面は、ストリーマーというよりはむしろアイドルに近い。

アイドルとファンの関係について様々な論考が載せられている『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』という本

の第9章「もしもアイドルを観ることが賭博のようなものだとしたら」において松本友也氏は、アイドルとファンの関係について次のように書いている。

特に、ステージにせよバラエティーにせよ、アイドルが何らかのチャレンジをおこなうときには不確実性が期待される。そしてそれを乗り越えんとする能動性のなかに、あるいはその結果生じる技術的な綻びのなかにパーソナリティがにじみ出す。言い換えれば、「パフォーマンス=演技」の失敗による「素」の漏れ出し(のように見えるもの)が、そこでは期待されている。

(略)

「できなさを愛でる」「成長を応援する」といった言い回しが悪趣味さを感じさせるとしたら、その背後に失敗によるパーソナリティのにじみ出しを期待する心性が潜んでいるからではないだろうか。

香月孝史;上岡磨奈;中村香住.アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉(p.201).株式会社青弓社.Kindle版.

つまり、アイドルとしてライバーを見ているファンにとっては、ライバーに期待されるのは「華麗にパフォーマンスすること」ではなく、「一生懸命パフォーマンスすることによって出現するパーソナリティ」であり、そして「かわいい」という言葉は、まさにそのパーソナリティを消費する言葉なのだ。

パーソナリティーを消費するよう人々を仕向ける情報環境

もちろん、アクシア氏はそのようなパーソナリティを消費するファンの欲望について知っている。そして知った上で、「そのような消費はやめてくれ」と言っているのだ。

しかし、そもそもアクシア氏が身を置いている、現代のメディア環境は、個人の「パーソナリティ」を売り物にすることで成り立っているのもまた事実な訳だ。『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』第1章「絶えざるまなざしのなかで」において、香月孝史氏は、現代のアイドルを取り巻くメディア環境について、次のように述べている。

先に述べたSNSの浸透を前提としたメディア環境とは、一面ではアイドル自身がなにがしかの成果物や自身のパーソナリティ、近況などの発信に絶えず駆り立てられることを意味する。だがその反対側では、それを享受する受け手たちによるによる消費のありようもまた、絶えずアウトプットされるということでもある。そうした相互の関係性は、アイドルが自己の承認や表現の場を求めようとする際の重要なよりどころになっていることは間違いない。しかし同時にこの環境は、受け手が投影する様々な欲求が肥大した先に、それら受け手による誹謗中傷や流言飛語が公的空間に向けて発信され続ける場を用意してもいる。

香月孝史;上岡磨奈;中村香住.アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉(p.29).株式会社青弓社.Kindle版.

そして、そのような受け手側がアイドルに求める欲求として、戸田真琴氏の論考
fika.cinra.net
を引きながら、次のように述べている。

受け手側の消費行動に関して、さらに戸田が目を向けるのは、アイドルが一人の人格としてよりも、わかりやすく「キャラクター」として消費されていくような事態である。戸田は昨今のアイドル表象に関して、固定的なジェンダー観が解きほぐされてきている実相について慎重にふれたうえで、しかしながら「「男らしい」も「女らしい」も「(男性なのに)繊細」も「(女性なのに)強くて個性的」も、はじめは個々の持っていた性質であったにもかかわらず、「そういうキャラクター」として単純化され認識されてしまう」ことを指し示す。そして、アイドルが人格としてでなく「キャラクター」として扱われていく先にあるのは、「消費者が他者の容姿や性格や性質に対し、一方的に評価を下すことが当たり前になっている環境」である。ここで問題にされているのは、対象を称揚しているかくさしているいるかといった、表面上の意味内容そのものではない。一人の人格であるはずのアイドルを、本人あるいは公に向けて際限なくジャッジすること自体のいびつさ、そしてそうした行動に消費者が慣れきってしまうことへの警鐘である。

香月孝史;上岡磨奈;中村香住.アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉(pp.30-31).株式会社青弓社.Kindle版.

アイドル自身がSNSや配信で自分のパーソナリティなどをあらわにすれば、受け手のファン側もSNS上でそのパーソナリティを「キャラクター」として消費していく。それは、アイドルに限らず、インターネットを利用して活動する全ての人にあてはまることなのだ。

もちろん、そのような環境そのものから撤退する自由はある。しかしそれは結局、「メディア上で収入を得ること」の断念につながる。戸田真琴氏は上記の論考で次のように述べている。

本来、アイドルとして公式に受けている仕事で見せる姿以外の、プライベートな振る舞いにおいてまで、「求められる姿」を演じることをファンが要求するのは業務外の過度な要求で、それ自体がアイドルとファンという関係性を超えた越権行為に違いありません。アイドル文化の経済圏がファンの「好意」を主軸として成り立つ以上、ファンの要求はある種命令に近い強制力をはらんでおり、実際には無視し切ることは難しいのだということは容易に想像できます。

アクシア氏は「初配信でかわいいと言われることが嫌だった」理由として、「その配信を見た人が去って行ってしまう」ということを挙げている。もしここで、ただ「他人が自分のパーソナリティを消費するのが嫌だ」とだけ思うのなら、単純にコメント欄を閉鎖してしまえば良いだろう。しかし実際問題として、コメント欄を閉鎖したまま新人ライバーが人気を得ると言うことは不可能に近い。自分の意に沿わないパーソナリティ消費を苦痛に思うけれど、しかしインターネット上で活動するためには、そのような意に沿わないパーソナリティ消費が行われるコミュニケーションの場に頼らざるを得ないというのが、ライバーに限らず、イメディア上で活躍し、その経済で生計を立てる全ての人が追いやられている、袋小路なのだ。

パーソナリティを消費するファンの側が、何が出来るか

上記の論考において戸田真琴氏は、このような資本主義社会が駆動するメディア環境にアイドル側が抵抗するのはほぼ不可能だとし、ファンの側にこそ、世界を変えるためにできることがあると説く。

約5年余りアダルト業界に身を置いてきて痛いほど解るのは、資本主義が人間の尊厳を食いつぶそうと牙を剝くとき、なにかを売る側ができることはとても少なく、主体としての買う側の意識が変わらないと世界を大きく変えることは難しいということです。

消費者が刺激に鈍くなり、より過激なものを求めるほど、つくる側はそれを売ります。その過激なグラビアや映像コンテンツをつくるとき、それを見る人のために、とぐっとこらえるのはいつも、勇気を出して人に見られる仕事をしにやってきた人たちでした。それは私のいる業界ももちろん、今回お話ししたエンタメ業界にも、グラビア業界にも、物書きの人にもクリエイターにも、誰かに消費されることが経済の約束で決まっている人たち皆に訪れるやるせなさです。

世界を変えるのは劇的な力を持ったスターではなく、そのスターを眼差すあなたです。誰を応援しようか、なににお金を払おうか、どんなことに文句を言って、どんなことを賞賛しようか、わけのわからない映画が嫌いだからわかるようにつくれと言うのか、それともわからないなりに楽しむのか、わかるように勉強してみるのか、それを選ぶあなたの手に、ここからの世界がどうなっていくのかの最も重要なハンドルが握られているのです。

では、ファンの側に出来ることとは、一体何なのか。

ここで再び、アクシア氏の動画に立ち戻ります。*1

僕は今まで、アクシア氏の動画を「『かわいい』という言葉で自分のパーソナリティを消費するのはやめてくれ」というメッセージとして読み解いてきました。ですがその一方で、そのメッセージを雄弁に語るアクシア氏に対し、ある種の「かっこよさ」もまた、感じるわけです。

その「かっこよさ」は、上記の動画をアップロードした後に投稿された、次のラップ動画を見るとより強く感じるようになります。
www.youtube.com
正直、この動画にはある種の滑稽さがあります。これは、僕がヒップホップ文化に疎いから感じることなのかもしれません。言いたいことをラップにして語っちゃうという行為に、どうも青臭さを感じてしまうわけですね。

しかし一方で、その青臭さを恥じずに言いたいことを正面から言う姿勢は、まさしく「かわいい」ではなく「かっこいい」ものなわけですね。

つまり、ここでアクシア氏が行おうとしているのは、ただ客体として「かわいい」と言われる存在でいるのではなく、主体として「かっこいい」と見られようとする所作なわけです。パーソナリティ消費が避けられないのだとしたら、自分の意に反する形で消費されるのではなく、自分の見られたい姿を提示しようという試みが、まさにこのラップ動画なわけですね。

僕は、これこそまさに、資本主義に駆動されるメディア環境の中で、ライバー側が出来る抵抗なのだと考えます。

では、このような試みを、ファンはどう受け止めるのか?「自分の理想としていたアクシアじゃない」と拒否するのか、「アクシアって実はこういうキャラだったんだね。それはそれで面白いじゃん」と受け入れるのか。

ボールがあるのは、ファン側の方なのです。

*1:ここから敢えて「だ・である」調から「です・ます調」に変える

アクシア・クローネさんの活動休止から考える、ライバーとファンの接し方

www.anycolor.co.jp
kai-you.net
にじさんじに所属するアクシア・クローネさんが、誹謗中傷・業務妨害を理由に活動休止した件について。

自分は、アクシア氏の配信はあまり見てなかったんですが、他のライバーの配信は良く見ていまして、上記のANYCOLOR社のお知らせに記されているスパムコメントも結構目にしていましたし、アクシア氏周りで色々騒ぎが起きているということも聞いてたんですね。

そして、アクシア氏に限らず、ファンの一部が過剰にライバーの活動に口を出して問題となるという事例は、僕が見ているライバーでも結構あるわけです。その点について、バーチャルYouTuberのファンが改めて考えることは重要かなとも思うわけです。

ただその一方で、バーチャルYouTuberとか全然知らない人や、またバーチャルYouTuberのファンの一部には「自分の人格を見世物にして商売してるんだから、こういう誹謗中傷やハラスメントも受け入れるべき」と考えたり、あるいは「バーチャルYouTuberというもの自体が、演者の人格を傷つけて、その代価にお金を得る不健全なものなんだから、存在すべきではない」と考える人もいます。

そして更に、そのような見方から「バーチャルYouTuber界隈ってなんか怖いから近づかないでおこう」と思ってしまう人もいるわけです。

しかし僕は、バーチャルYouTuber界隈が全てそのような、不健全で怖いものであると誤解されたくもないなというわけです。不幸にしてそのような不健全な関係に至ってしまうケースがあるのは事実だけど、しかし全てが全てそうでなく、むしろファンが自制を持って行動し、ライバーとファン双方が楽しい関係を結べている方が、多いわけです。

そのことを、記事を読んでいる方には、まず分かっていただきたいなと思います。

騒動について

まず騒動の概略について、上記の記事だけでは、何が騒動の原因となったのか良く分からないと思うので、僕なりに解説します。

アクシア氏については、デビュー当時から、ファンが求めるライバー像と、本人が望むライバー像にズレがありました。その点については、アクシア氏が動画で述べているとおりです。そしてまた、アクシア氏がコラボするライバーに対して、「こんなライバーとコラボしないで欲しい」という思いから、嫌がらせをするという行為も散見されました。

ただ一方で、このようなハラスメント行為って、新人のライバーが出てくるときは大体起きるものなんですね。もちろんそれが良いこととは言いませんが、しかし多くの場合、そういったハラスメントを無視して普通に配信を行ったりコラボをしていけば、「あ、このライバーはイメージされていたようなキャラじゃないんだな」ということがわかり、合わない人は離れていき、逆に「こういう存在ならファンになろう」と新たに思って、推し始める人も出てくるものです。

ただ、アクシア氏の場合、相方として一緒にデビューしたライバーの不祥事とかもあって、なかなかそういう普通の活動がしにくい時期が長く続いていました。そしてそんな中で、他の女性ライバーと配信外で長時間ゲームをしていたということが、パソコンの画面から知られてしまうんですね。

それに対して、自分が好きな推しライバーが女性と関わるのを嫌がる人たちが、度を超した誹謗中傷を、本人のコメント欄や、他のにじさんじのライバーのコメント欄にも書き込むようになったわけです。具体的に言うと、危害を予告するコメントや、「アクシアと○○が付き合ってるそうなんですけど、どう思いますか?」みたいなデマが、連投されていました。

今回の活動休止は、そのような明らかな虚偽の誹謗中傷に対応するためなわけです。つまり、今回の騒動において問題となっているのは

  • ライバーに対する無自覚なハラスメント(「かわいい」連呼や、母親面)
  • 危害予告や虚偽のデマ(アクシアと○○は付き合っている)を流すことによる誹謗中傷・業務妨害

の2点であり、そのうち、活動休止までいった主要因は後者の方なんですね。

「無自覚なハラスメント」と「明確な誹謗中傷」は、地続きだけど別々に考えるべき

もちろん、前者のような無自覚なハラスメントが蔓延していたことが、後者のような問題を生み出す原因となっていたのも事実なわけですが、ただ前者と後者ではレベルが違うということもまた事実な訳です。実際、前者のようなコメントは多くのバーチャルYouTuberで(残念ながら)見られるものですが、後者のようなコメントはそんなに多く見られるものではないです。そこを勘違いして、「バーチャルYouTuber全体がこんな最悪な治安なんだ」と思われるのは、バーチャルYouTuber好きとして悲しいと思うわけです。

更に言えば、後者の誹謗中傷については、正直確信犯的に「アクシア氏を貶めてやろう」という意図を元にやっているわけですから、これに関してはもう明確に刑事罰・民事責任を与えるしか対処方法はないわけですね。やっている当人がもうファンでも何でも無い以上、「ファンの自浄作用」でなんとかできる限界を超えているわけですから。

だから、後者の誹謗中傷問題についてはこの記事ではこれ以上話しません。ファンに出来ることは、粛々とANYCOLOR社の通報フォームに通報することだけです。
www.anycolor.co.jp

「無自覚なハラスメント」が発生しやすい、バーチャルYoTuberという環境設計

ただその一方で、そういう悪意ある誹謗中傷が生まれる土壌として、ライバーに対する無自覚なハラスメントをファンがしてしまっているというのも、他方では、事実な訳です。そして、アクシア氏が動画で述べているとおり、「かわいい」や母親面と言った、無自覚なハラスメントも、悪意ある誹謗中傷と同様に、ライバーを傷つけるものなんですね。

そして、バーチャルYouTuberは、以下の2点において、今までのマスメディアに登場するアイドル・芸能人よりも、そのような無自覚なハラスメントが起きやすいわけです。

  1. ファンの会話が直接ライバーに届けられる
  2. 自分の貢献が可視化されることにより、自分が育てているという錯覚を得やすい

まず1点目について。アイドルや芸能人という存在に対して、人が勝手にあーだこーだ言うというのは、別に現代に始まったことではなく、昔からあったことなわけです。「○○と付き合いたい」という恋愛感情を当てられたり、勝手に「○○って子はこういう子で~」みたいな妄想を語られたり……「○○はウンコなんてしない」という言葉がミームになるぐらいには、アイドル・芸能人というものは、勝手に神聖視されたりするものなんですね。

ただ、バーチャルYouTuberの場合、そのような言葉をライバーがダイレクトに聞いてしまうんですね。アイドルや芸能人と違い、事務所に厳しく囲われてるわけではないから、エゴサでそういうツイートを見てしまったり、配信のコメント欄でそのようなコメントを直接目にしてしまうわけです。

にもかかわらず、普通のタレント・芸能人と同じようにバーチャルYouTuberを語る人っていうのはかなり多いわけで、そこでメディアの変容に個々人の行動がついて行けていないことが、無自覚なハラスメントというバーチャルYouTuber特有の問題を生み出しているわけですね。

次に2点目について。既に有名なアイドルや芸能人に対してなら、その好きになったアイドルにいくら貢いだって「自分が育てた」というような錯覚は抱きにくいと思う訳です。ところがバーチャルYouTuberの場合、ファン数も少ない時点からファンで居れば、徐々に有名になっていく様子を眺めることができるわけです。そして更に言うと、ライバーの側も、そういう古くから居る人を認知して、特別に会話したりすることも多々あるわけですね。そうなると、ファンの中には、「自分が○○を育てた」みたいな錯覚を覚える人も居て、そして「今後更に伸びるためには、こういう路線で行った方が良いよ」とプロデューサー面することが多々あるわけです。

多分これに関しては、バーチャルYouTuberに限らず、地下アイドルのような「成長する過程を見ることが出来る」ジャンル全般に言えることだと思うわけですが、しかしバーチャルYouTuberの場合、そのようなファンの数が地下アイドルより断然多かったりするんですね。

だから、今バーチャルYouTuberを好きな人や、これからバーチャルYouTuberに興味を持つ人は、このようなメディアの違いを理解して、TVに出るアイドル・芸能人を語るときより自制をしなければならないということを、まず理解すべきだと思うわけです。

では、そのような無自覚なハラスメントしないにはどうすればいいか

そしてその上で、自分が今回の騒動で問題になったような無自覚なハラスメントをしないようにするには、どうすればいいのか。
僕はとりあえず以下の3つを心がけています。

  1. 配信の説明や非公式Wikiなどを読んで、ライバーがしてほしくないことを把握する
  2. 他人のコメントに過敏に反応しない。通報・ブロックを活用
  3. 自分と他のファン、自分とライバーの区別を付け、自分が操作できるのは自分だけと自戒する

まず1点目について。今回アクシア氏が注意したコメントですが、このようなコメントは何もアクシア氏がいきなり注意したわけではなく、非公式Wikiで注意されていたことだったりするわけです。
wikiwiki.jp

■コメントのマナーについて
アクシアの配信コメントで他のライバーの名前を出すこと、他のライバーの配信コメントでアクシアの名前を出すことは控えましょう。
・「『可愛い』よりも『かっこいい』、FPSなどでは『上手い』『gg』といったコメントをされる方が嬉しい」
アクシアがやめて欲しいと言ったことは即座にやめましょう。執拗なイジリや悪ノリは荒らしと同じです。

このように、ライバーについては、非公式Wiki
wikiwiki.jp
とかファンサイトを探すと、大体そのライバーがやって欲しくないこととかが書いてあるわけです。

だから僕は、誰かライバーの動画を見るときは、その前にできるだけ当該ライバーの非公式Wikiを読んで、やって欲しくないことはしないようにしています。もし時間が無くて非公式Wikiを見ることが出来ないときは、コメント等はしません。

もちろん、非公式Wiki等に書かれてることは、絶対に正しいわけではないです。「非公式Wikiではやってはいけないと書かれているけど、実際はある程度容認されている」みたいなことも、希にありますが、しかしそれを判断するほど高度な空気読み能力はないと自負してますので、僕はあくまで非公式Wikiに「やらない方が良い」と書かれていることはしません。

2点目についてですが、そうはいっても配信の中で、非公式Wikiではライバーが嫌がっているようなコメントが多くされる流れになることはあります。もしかしたら、そのときに限ってはライバーも機嫌が良く、そのような嫌な流れも許容するようになっているかもしれません。

しかし、そこで「ライバーが本当に許している」のか、「嫌がってるけどそれを言えないでいるだけ」なのかというのは、少なくとも僕には分かりません。なので僕は、そういう流れがあったとしても、自分がその流れに乗ることはしません。

ただその一方で、「非公式Wikiには○○は嫌って書いてあったからやめよう」とコメントするのも違うなと考えます。そういう注意はあくまでライバーがすべきことで、コメント欄でそういう注意コメントをしたって大抵効果はないし、最悪コメント欄で喧嘩が起きるだけです。なので、そういう場では僕は沈黙します。

ただ、そうはいっても、あまりにひどいコメントが流れると、何も出来ない自分に無力感を覚えることがあるでしょう。そういうとき僕は、コメントを右クリックやタップして「通報」ボタンを押します。それによって実際にコメントが規制されるのを期待するというよりは、「自分はできることはやった」という納得を得るためです。

そして3点目についてですが、バーチャルYouTuberの配信を見るときに重要なのは、とにかく「変えられるのは自分の気持ち・行動だけ。他者の気持ちや行動は変えられない」という心構えでいることです。

ここまで偉そうなことを行ってきた僕でも、やっぱり自分の推しライバーが、しょっちゅう炎上していたり、脱法的・反倫理的な行為に手を染めている人とコラボしたりすると、「そんな人と付き合うのはやめなよ」と言いたくなります。しかしそれを決めるのはライバーであって、僕ではないのです。僕が決められるのは、そのライバーをそれでも推すか、推すのをやめるかだけなのです。

「倫理的な推し方」は存在しえるか

さて、ここまで僕は「いかにして無自覚なハラスメントをせず、ライバーを推していくか」という話をしました。

しかし、このように注意したとしても、やっぱり「他者の人格を自分の望むように消費する」という、推すことの根源的な暴力性は、否定できないわけです。

本来、人がどのような人格を持ち、どのような生き方をするかということは、完全にその人自身が決めるべきことで、他人があーしろこーしろと指図は出来ないわけです。

しかし、そこでファンは、その本来指図が出来ない他者に対し、「こういう僕の好みの人格・生き方をすれば対価を与えるよ」とやって、他人の人格・生き方を指図してしまう。そして、その対価によって生計を立てている他者は、その指図に従わざるを得ない。これは、やっぱりどう言いつくろっても、暴力的な関係といえるわけです

もちろん、そのような「推すことの暴力性」という問題は、良識あるアイドルファンたちの間ではずいぶん前から問題とされていることです。そしてそこから「『どのような人格・生き方をしているか』ということを消費するのはやめよう」と言う人もいます。要するに、歌やダンスだったり、あるいは声の演技やゲームの腕前のようなパフォーマンスを評価すべきで、それをどんな人格がしているかは無視すべきと言う考え方です。

しかしその一方で、「その人がどんな人であるか」ということを無視したパフォーマンス絶対主義も、また空虚なわけです。例えつたないパフォーマンスでも、その人の人格を含めて評価すればとても感動できる表現というのは存在します。更に言えば、パフォーマンスではなく自分自身を見て欲しいという思いも人にはあるわけで、いくら「自分自身が消費されてしまうよ」と忠告しても、そういう人はアイドル的存在になろうとするわけです。

「推すということは全て暴力的だ」と言い切ってしまうことは、結局そういう人を「暴力的な現場であることを分かって身を投じたのだから、いくら傷ついても自己責任でしょ」という風に、見捨ててしまうんですね。

だから、「推すことの暴力性」は、議論をする前提ではあるけど、そこで留まってはならず、それでも「倫理的な推し方」は存在し得るか、存在し得るとしたら、それはどんな推し方かということを、考えなければならないのでは無いか。今の僕は、そんなことを考えています。

愛の物語であると同時に、喪失の物語だったー劇場版ピングドラム感想(ネタバレあり)


というわけで、『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM後編 僕は君を愛してる』、鑑賞してきました。
penguindrum-movie.jp

以下感想を書きます。ネタバレもあるっちゃあるけど、そもそもTV版とストーリー自体が大きく変わったわけではないので、「TV版のピンドラは見た」という人はそんなに気にすることはないかなと思います。ただ、もし「TV版をまだ見てなくて、劇場版から初めてピンドラを見る予定」という人が居たら、見た後に読んだほうが良いかもしれません(僕個人としては、そんなにネタバレを見たかによって感想の内容や、面白さが変わるタイプの映画ではないと思うので大丈夫だと思いますが)。

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少女を犠牲にして世界を救う功利主義が「道徳」となってはいけない理由

amamako.hateblo.jp
先日の記事ですが、はてブTwitterの反応を見る限り、賛否両論、それも、否定がだいぶ多めのようです。


寄せられた主な批判としては

  1. 「著者の主張を曲解している」
  2. 「人文学は、文化相対主義を否定し、価値判断をすることによって社会に貢献しなければならない」
  3. 功利主義に対するあままこの批判は間違っており、功利主義こそ道徳とされるべきだ」

というようなものが多いです。


この内、「著者の主張を曲解している」という批判については、一体どこの部分が曲解というのか具体的に指摘されていない以上、返答しようがないと思うので、返答しません。


2番目の「人文学は、文化相対主義を否定し、価値判断をすることによって社会に貢献しなければならない」という批判に対しては、僕は、マックス・ウェーバーが『職業としての学問』

で述べたように、学問は「価値自由」を旨とする作業だと考えています。つまり、ある社会現象に対し、それが一体どのようなメカニズムで動いているかを分析するのが学問であり、その社会現象に対し良い/悪いという判断は、学問の役割ではないと考えます。


例えばシン・esbee氏は統一教会の例を挙げ、「人文学はきちんと統一協会を『悪い』ものと批判するべきだった」と主張しますが、僕は、学問ができるのは、統一教会のような宗教が一体どうやって信者を獲得し、また囲い込んでいくのかという、メカニズムを解明するところまでで、「統一教会は良い/悪い」を判断するのは、学問の役割ではないと考えています。*1


そして次に、3番目の功利主義についてですが、これについて、確かに先日の記事においては、僕が功利主義をどう考えているのかについて、説明が足りなかったと思うので、今回の記事で改めてその論拠を解説したいと思います。

功利主義についてクリッツァー氏はなんと言っているか

まず最初に言っておきたいのは、僕が前回の記事で批判したのは、クリッツァー氏の説明する意味での功利主義です。そのため、「クリッツァー氏の言っている功利主義とは違う功利主義がある。だから功利主義は否定されるべきではない」と言われても、正直困るということは、最初に述べておきます。


ではその上で、クリッツァー氏は功利主義についてなんと言っているのか、『21世紀の道徳』を引用しながら、より詳細に見ていきましょう。


まずクリッツァー氏は、功利主義という言葉の定義について、次のように述べています。

「権利」の相対化をおこない、権利と権利との対立に別の基準を持ち込むことによって事態を解決する発想のなかでも代表なものが、「最大多数の最大幸福」を重視する功利主義だ。
功利主義にかかれば、権利と権利が対立する問題も、「どうすれば幸福を最大化できるか」という問題に還元される。当事者たちのうち片方の権利を優先したほうがより多くの幸福を生み出せることが自明であるなら、そうするべきだ。どうあがいても誰かが不利益を被る状況であるが、当事者の両方の権利にほどほどの制限をかけることで生じる不利益が最小化されるなら、そうするべきである。

そして、クリッツァー氏は、なぜ権利と権利が対立したときにそれを採用すべきと考えるかについて、ジョシュア・グリーン氏の論を引いて、以下のように述べています。

功利主義は道徳に関する様々な直感や慣習に反しているために、感情的には支持されにくい。しかし、どんな集団に属する人であろうと、理性を用いて「なにが大切なのか」「なにを重視するべきなのか」を冷静に考えてみれば、大半の人は功利主義を支持するであろう、とグリーンは論じる。

そして、理性を用いて冷静に考えれば功利主義を支持するようになる具体例として、クリッツァー氏が挙げるのが、「トロッコ問題」です。

クリッツァー氏は、理性を持って冷静にトロッコ問題を考えれば、功利主義に基づき一人の命を犠牲にして五人の命を救うことが正解であると判断できると述べます。

「五人の命を救うためであれば、一人の命を犠牲にすることは認められる」という考え方は、「最大多数の最大幸福」を重視して、「意図」よりも「結果」を優先する、功利主義の主張と共通している。前章でも紹介したように、『モラル・トライブス』では、どんな文化圏に属している人であっても、道徳問題について感情ではなく理性に基づいてじっくり考えた場合には、大半の人が功利主義的な判断を選択することが示されている。他方で、感情としては、五人の命を救うためであっても一人の命を犠牲にすることを選択するのは難しい。そして、思考に基づいた判断を下すことに対する感情の抵抗は、分岐線問題よりも歩道橋問題においてのほうが強くなる。そのために、分岐線問題では五人を救うという選択をできた人であっても、歩道橋問題では太った男の命を犠牲にすることができなかったのだ)

そして、理性を用いて功利主義を選択すべき理由として、クリッツァー氏は「進化論的暴露論証」というものを挙げています。

理性に基づいた判断が正しいと限らないし、感情に基づいた判断にも正当性があるはずだ、と反論する人もいるかもしれない。このような反論に対し、グリーンは「進化論的暴露論証」と呼ばれる主張を展開することで、感情よりも理性に基づいた判断を下すことの優位性を説いている。

(略)

道徳感情とは、自分と他人のあいだや自分と集団のあいだでトラブルが発生するリスクを予防するための、オートモードとして進化してきたものであるといえる。そして、通常の環境であれば、大概の場合では道徳感情に従うことは正しい。自分の身体を使って他人に意図的に危害を加えることで、より多くの人々を助ける喧嘩が得られるというのは、ごく特殊な状況でしか成立しないためだ。
しかし、トロッコ問題とはまさに「特殊な状況」である。そして、道徳感情が「通常の状況」に対応するために進化したものであるとするなら、「特殊な状況」では道徳感情に従うべきではない。必要なのは、理性に基づいて考えることだ。

つまり、感情とは通常の状況においてトラブルに対処するために、進化によって得られた能力で、理性とは異常な状況においてトラブルに対処するために得られた能力である。そして、トロッコ問題とは異常な状況のことを指しているのだから、理性で持って問題に対処するべきだと、いうことなのです。


(この部分、僕はかなり理解に苦しんで、僕自身自分の読解が正しいのか確信が持てないので、「その解釈は違う。『進化論的暴露論証』とはこういうものだ」と説明できる人がいたら、教えてほしいです。)


そして、以上のような説明によって、クリッツァー氏は次の結論を出すわけです。

・五人がトロッコに轢き殺されることよりかは、一人がトロッコに轢き殺されることのほうがまだマシだ

と。つまり、功利主義を道徳として採用すべきだと主張するわけですね。

功利主義は、それが「トラブルを解決する思想の一つ」である内は否定しない

最初に言っておきたいのは、僕は何も功利主義を、絶対に社会の中で通用してはいけない危険思想として全否定したいわけではないということです。


僕自身、日常において功利主義的に行動することは多々あります。例えば、僕が会社に勤めていて、「自分は企画の仕事をやりたいな」と考えてても、その会社の中には、僕より企画力が優れている人がいる場合、無理やり「僕は企画がやりたいんだ!」と主張せず、我慢して、自分の得意技術が活かせるプログラマーを選択します。それによって、僕自身の幸福は下がりますが、会社全体はより利益を生み出し、会社のみんなが幸福になれるからです。


ただここで重要なのは、この場合、功利主義はあくまで「その問題に関わる人々の間で『功利主義を採用してもいい』という同意が取られている」ということです。僕も会社も、問題が起きたときに、その問題を功利主義に基づいて解決しようと同意しているからこそ、トラブル解決の方法として、功利主義が採用されているのです。


そして、なんで僕がそこで功利主義を採用してもいいと考えるかといえば、ぶっちゃけていえば、僕が、会社においてどんな職種に就くかという問題を、そんな重大な問題と考えていないからです。確かに自分の希望した職種に就けないことは僕にとって不幸ではありますが、しかしその不幸は、僕にとって許容できる不幸です。


しかし、この世の中で起きる問題は、そのように、許容できるものばかりではありません。そして、功利主義が「道徳」となったとき問題が起こるのは、まさに「許容できるものではない」ケースなのです。

「少女を犠牲にして世界を救う」ことを、道徳として強制すべきなのか

『天気の子』という、大ヒットしたアニメ映画があります。

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
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本当に大ヒットした映画で、皆さんあらすじは知っていますでしょうから、詳細は省きますが、映画の中で、終わることのない豪雨が続いているときに、ある少女が現世からいなくなり、そしてその対価として、やっと豪雨が治まるという展開があります。


当然ながら、豪雨が続いて自然災害によって甚大な被害が出るよりは、少女一人が消え去る方が、犠牲=不幸は少なく済みます。実際、物語に登場するキャラクターも、「人一人の犠牲でみんな丸く収まるなら、そっちの方がいいだろ」みたいなことを言うわけですね。これはまさしく、功利主義を採用した考え方と言えるでしょう。


しかしそれに対し、主人公の少年は少女が消え去ってしまうことを嫌がり、現世に少女を連れ帰ります。結果として、再び豪雨が東京を襲い、東京のほとんどが水没してしまうという、甚大な被害が生じてしまうわけですね。


このような状況、功利主義を道徳として採用すれば、主人公の少年は「理性ではなく感情に従って、功利主義に基づかない選択をした。よって非難されるべきである」ということになるでしょう。しかし、僕は全くそうは思いません。


重要なのは、その主人公に対し、少女はかけがえのないものであり、他のものと比較不可能であったということです。


クリッツァー氏も文中で引用している通り、思考実験において、人々が功利主義に基づいて選択を行うのは、「それ以外の条件」というものが考慮に入れられないからです。

まず、私たちは、他の条件がすべて等しければ、少ない幸福より多い幸福を好み、それは自分たちだけでなく他者に対してもあてはまることをはっきりさせた。次に、他者について考えるときは、個人の幸福の多寡だけでなく、影響を受ける人の数を配慮することも確認した。最後に、各個人の幸福の多寡と影響を受ける人物の両方を考慮に入れ、すべての個人の総和を気にかけることをあきらかにした。他の条件がすべて等しければ、私たちはすべての人の幸福の総和が増すことを好む。

しかし、この場合は「主人公にとって少女は、そんなものとも替えがたい、かけがえのないものである」という、重大な条件があるのです。そしてそのために、少年は、「少女を救うためなら、世界がどうなっても良い」と叫びます。つまり、そもそも主人公の少年には、功利主義を採用する同意がなかったということです。


そして、上記のように、功利主義を採用しないという選択肢も尊重されるべきだと、僕は考えます。少なくとも、功利主義を採用しないからといって、その採用しない人を非難したり、社会の成員としてみなさないということがあってはならないと思うわけです。


以上のことから僕は、功利主義について、それが「問題の当事者全体で、採用することが合意された思想」である場合は、どんどん活用していけば良いと考えるものの、それが社会全体で「常に人々は功利主義に基づいて考えるべきである」とされる、道徳規範とされることに、反対なのです。

「当事者は責任を負い、非当事者はそれを助ける」ことこそが、私達の持つべき道徳なのではないか

しかしそのように、道徳としての功利主義を否定したとしても、主人公たちに全く負うべき責任がないとは思いませんし、『天気の子』の主人公たちもそれは痛いほど自覚しています。


主人公の少年少女は、物語の最後で周辺から「おまえたちが世界を変えただなんて自惚れるな」と言われますが、しかしそれを敢えて否定し、「自分たちが世界をこんなふうに変えてしまった」ということを自覚します。ラストにおいて少女が祈っているのは、まさしくその象徴であると言えるでしょう。


主人公たちは、功利主義に対しては真っ向から反旗を翻し、自分たちの意思に基づいて、自由な選択を行います。しかし、そのように「自分たちが自分の意志に基づいて選んだ選択」によって生まれた結果については、しっかりと責任を感じているわけです。というかむしろ、主人公たちは自由だからこそ、その選択には責任を負うべきだと、自負しているわけです。


そして僕は、このように『天気の子』で描かれた「自分が自分の意志で自由に選択を行い、そしてそれによって起きた結果に責任を負う」ということこそ、社会全体で共有されるべき、道徳にふさわしいと考えるのです。


ただ一方で、『天気の子』は、そのような当事者たちに求められるべき倫理とは違う、もう一つの倫理も示しています。先に述べたように、物語の最後において周辺の大人は、主人公たちに対し「おまえたちが世界を変えただなんて自惚れるな」と言います。なぜなら、仮に少女を犠牲にしなかったことによって世界が壊れてしまったとしたら、そんな世界はもとから壊れていたのであり、主人公たちに対し非難すべきことは全くないからです。むしろ、少年少女たちにそのような過酷な選択をさせてしまった責任が、その他の人間たちには存在するのです。


そして、その責任のとり方として、周囲の大人たちは、主人公たちを「功利主義に基づかない行動をした!」などと批判せず、むしろ全力でサポートするわけです。言うなれば、主人公たちが背負っている責任をみんなで分担しようとしているわけですね。


僕が『天気の子』を見て本当に感銘を受けたのは、このように「当事者に求められる倫理」と「傍観者に求められる倫理」の双方が、大変に真摯なものだからです。それは、まとめれば次の2つになります。

  • 問題の当事者は、自由に選択をすべきである。しかしその選択に対する責任は負うべきである。
  • 問題の傍観者は、「当事者にそのような選択をさせた責任」を負い、当事者をサポートする形で、その責任を果たさなくてはならない

そして、このような倫理というのは、まさしく、これまで、日本の、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるようなサブカルチャーが積み重ねてきた倫理的思考の極地にあるという点で、「セカイ系の倫理」と呼びたいと思います。


もし、「21世紀の道徳とはどんなものなのか」と問われれば、僕は、功利主義なんかではなく、このような「セカイ系の倫理」こそ重要なのではないかと、主張します。

*1:もちろん、個々の学者や、学者の集まりが、自分が学問で得た知識をもとに、統一教会を批判するのはかまいません。僕が言っているのは、学問が、その学問の結論として『〇〇は悪い』ということはできない、ということです。

依存することは決して悪ではない―『〈弱さ〉を〈強み〉に: 突然複数の障がいをもった僕ができること』感想文

著者である天畠大輔氏は、四肢麻痺といった重度の障がいを抱えながら、研究者として障害者のコミュニケーションについて研究してきた方なんですが、先日(2022年)の参議院選挙にれいわ新選組から比例で立候補して当選した方でもあります。

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僕は、この前の選挙では、比例でれいわ新選組に投票したんですが、ぶっちゃけるとこの人のことはあまり知りませんでした。投票した理由も消去法で、自公維国Nは論外、立憲は連合とのつながりが気に入らない、共産・社民は、候補者は好きだが党組織が硬直していて期待が持てないという理由で、自分の政治信条とある程度合致していて、しがらみがなく大胆に動けそうという理由からでした。


だから、当選が決まった後、慌てて天畠氏について調べ、そしてkindleで著書が出ていると言うことで購入したわけです。「もし自分が受け入れがたい変なこと書いていたらどうしよう……」という不安もありながら。


ですが、その不安は杞憂でした。


この本を読んでまず第一に思ったこと。それは、「このような聡明でかつバイタリティに溢れた人を、国会に送り出す一助ができて、本当に良かった!」というものです。


なぜそう思ったか、詳細は後述しますが、この本で天畠氏が述べていることは、まさしく今の日本の政治で一番重要なことだと考えるからです。ついでに言うならそれは、僕自身の個人的悩みにも大きなヒントを与えるものであり、そして、今の日本社会全体が抱える問題の解決にも、道筋を指し示すものだと考えます。

『〈弱さ〉を〈強み〉に』の論旨要約

『〈弱さ〉を〈強み〉に』という本は、14歳で重度障がいを抱えた天畠氏が、いかに大学に進学し、研究者となり、さらに自分たち障がい者の介助を行う事務所の経営者となったかを、ライフヒストリーの形式で綴りながら、その中で気づいた、障がいについての様々な問題やその解決策を提言する著書になります。


で、この本で主張されていることは、主に次の4つになります。

  1. 「介助者手足論」の限界と、それを乗り越えるための「おまかせ介助」の重要性
  2. コミュニケーションにおける主体性は、共同作業の中にも宿りうる
  3. 依存することは悪ではない
  4. 障がい者に選択肢を与える介助制度の必要性

それぞれについて説明していきます。


まず1についてですが、これまで障がい者運動の中では、「介助者は障がい者の黒衣に徹し、障がい者が『やってほしい』と命じたことだけをやるべきである」という、「介助者手足論」というのが主流でした。


この背景には、介助者がよかれと思ってやったことであっても、介助者の主体的判断抜きに行われては、結局障がい者の主体性を侵害することになるという、障がい者の主体性を尊重する考えがあります。


しかし天畠氏は、障がい者の主体性を尊重するという考えは重要だとしつつも、意思を示すにも大変な困難を伴う重度障がい者としての立場から。実際はあらゆる介助行為をいちいち指示することはできないし、無理矢理やろうとすれば、それは障がい者への負荷になってしまうと指摘します。そしてその上で、ある程度は介助者が先走って介助を行う「おまかせ介助」も必要ではないかと述べるんですね。


そしてその上で、重要なのは障がい者と介助者の間にきちんと「それぞれが何を求めているか」という相互理解があることではないかと述べます。つまり、おまかせしてもある程度は自分が望むように介助してくれるし、自分の意に反する介助を行われたら「次からはそうしないでね」と言える関係。そのような強固な関係を介助者と作れることこそ、障がい者の主体性を確保するために重要だと述べるわけです。


次に2についてですが、天畠氏は、その障がいの特性上、情報機器などを用いて自分一人だけで執筆を作成したり会話したりすることがとても難しく*1、ある程度介助者に自分が言いたいことを推測して、その推測に基づいて執筆・会話をせざるをえません。


しかしそのような形で執筆・発話した内容は、どうしても天畠氏の考えだけでなく、介助者の考えも混ざってきてしまう。そのような介助者の考えが混ざった表現は、自分の主体的な表現とは言えないのではないかと、そのような悩みがあったそうです。


しかし、そこで天畠氏は、「健常者も障がい者も、自分一人の考えだけで選択や決断を行っているわけではなく、周囲との関係に影響されている以上、『純粋な自己決定』などは存在しない」という考えを、研究の中で学びます。


(ここらへん、社会学的にも結構重要なんだけど、本ではさらっと触れられてただけなので、より詳しく知りたい人は以下の文献なども参照)


そしてその上で、例え介助者の考えが混ざったとしても、それを自分が選択するという選択において主体性が確保されていれば、それでいいのではないかと、考えるようになります。


そして、上記のような視点から、天畠氏は障がい者の自立について、「何にも依存しない状態を目指す」のが自立なのではなく、「依存する選択肢を複数持ち、それらを主体的に選択できる」状態こそが、自立した状態と考えるわけです。そしてそこから、障がい者の自立を支援する福祉制度は、まず障がい者に「就労する/しない」「施設に入る/家庭に居る/地域で暮らす」などさまざまな選択肢を提示し、それらを障がい者が選択できる、そんな制度でなくてはならないと主張するのです。

自分の個人的な気づき:知的障害を持つ弟とのコミュニケーションは、「介助者手足論」を絶対視していた

僕がこの本を読んでまず思ったことは、「これをきっかけに、弟とのコミュニケーションを改めよう」という、ごく個人的な感想でした。


以前ブログで触れたことがあります(くしくも、これもれいわ新選組に関する記事だった)が
amamako.hateblo.jp
僕には知的障がいを持つ弟が居ます。


で、そういう障がいを持つ兄弟が居る人(このような存在を「きょうだい児」と言います)は、どうしても、障がい者の介助に近いことを行うわけです。そして、一応大学である程度障がい者運動とかを勉強した僕は、「介助者が障がい者の主体を侵害してはいけない」と考えますから、何を介助するにも逐一「○○(弟の名前)は何をしたいの?」と、障がい者である弟の意思を確認しながら行うわけです。まさしく、上記で言われた「介助者手足論」を愚直に実行していたわけです。


しかし、どうも弟はそれが気に入らないみたいで、逐一「どうすればいい?」と聞いても、生返事がほとんどだし、最終的には「もうお兄ちゃんが決めてよ!」とキレてしまったりします。で、それを聞いて僕も「せっかく弟が何をしたいか尊重するようにしているのになー」と、鬱屈した思いを募らせるみたいなことが多々あるわけです。


で、そういう悩みを抱いていたときに、この本を読んで「逐一意思を示すことを求められることも重荷である」という、言われてみれば当たり前のことに気づくわけですね。天畠氏は身体の障害により意思を示すことが難しいわけですが、弟は知的障害により、何かしら意思を決定するだけでとても労力を使うわけです。そんな中で矢継ぎ早に「僕はどうすればいい?」「これをやった次はどうすればいい?」と聞かれたら、そりゃあ疲労してしまいますし、結局「考えるの面倒だからお兄ちゃんが全部決めて。僕は文句言わないから!」というように、弟に主体性を発揮しないことを強いることになるわけです。


ただ、そうは言っても、僕自身軽度の発達障害を持つ身で、他人の気持ちをおもんばかるのは苦手中の苦手だったりするので、「おまかせ介助」をできるような存在にはなれないと思ったりもするわけですが。ただそれでも、できるだけ意思決定の負担を軽減する形で介助を行って、その上で「僕が思う、○○がやってほしいと思うようなことをやってあげるけど、それが嫌なら遠慮せずに言ってね」と言うし、また、嫌だと気軽に言える雰囲気を作らなきゃだめだなと、個人的に自戒するようになったわけです。


このように、この本を読んで僕がまず思ったのは、自分の個人的な教訓だったわけです。

議員もまた、介助者と同じではないか

そして、そうやって個人的な教訓を感じた後に思ったのが、「ここで言う障がい者と介助者の関係って、実は有権者と議員にも当てはまるんじゃないか」ということです。


「おまかせ民主主義」という、日本の有権者の政治意識を批判する言葉があります。一旦選挙で議員を選んだら、あとは全部議員に任せて、政治に関心を持たない。そういう状況を批判しています。


このように日本の有権者の政治意識を批判する人が、ではどのような状況を理想視しているかというと、有権者が常に世の中の政治課題について勉強し、それぞれの課題について逐一議員や政党に意見を出し、議員や政党はその声に基づいて行動すべきだとする考え方です。いってみれば、介助者手足論ならぬ「議員手足論」です。


しかし、介助者手足論が、理想としてはよくても、実際は障がい者に過大な負担を強いるように、議員手足論も、有権者に過大な負担を強いるわけです。そして、そのような過大な負担を強いられた有権者は、結果として「じゃあ政治に関心なんて持たない!」と、有権者としての主体性そのものを放棄してしまいます。


そうならないためにも、「おまかせ介助」のように、ある程度議員に、政治活動を委任する必要があるわけです。しかしそこで、揶揄されるような「おまかせ民主主義」にならないために必要なこと。それは、有権者と議員・政党の間に、「この議員・政党なら自分たちの考える最善を求めて行動してくれるだろう」という相互理解があること。そしてさらに、議員・政党が自分たちの望みと異なることを行ったときに、気兼ねなく「それは私たちの意図と違うから止めて欲しい」と言えるようにすることこそが、有権者が主体的に政治に関わるために重要だと、天畠氏の「おまかせ介助」論を援用すれば、言えるわけです。


果たしてれいわ新選組がこのような理想的な有権者との関係を築けるか、それは分かりません。ただ少なくとも、このような関係こそが、主体性を確保するのに理想的であるということを知っている人が、国会議員の中に居るだけでも、れいわ新選組に希望を持てるなと、僕は思うわけです。

「依存すること」と「主体性を持つこと」は二律背反ではない

そしてさらに言えば、天畠氏がこのように、「依存すること」と「主体性を持つこと」を、必ずしも二律背反なものでなく、むしろ相補関係にあると提言していることは、政治に限らず、現代社会に生きる人々みんなにとって、重要な考え方であるとも思う訳です。


現代は個人主義の時代であり、それまでの地縁や血縁というものが根こそぎ解体されて、一人の個人が生身で生きることを余儀なくされます。もちろん、それによって今まで地縁や血縁にしばられていた様々なことから、人は自由になったわけですが、一方で単体の個人が単体のまま社会で生き残ると言うことは、よほど幸運でない限り不可能なわけです。もし今現在独り身で自由に生きられていたとしても、もし病気になったりなんらかの障がいを負ったり、あるいはどうしようもない経済の変化で失業したりしたら?


そんな中で、ある人は「生き残るためには、例えそれを望まなくても強くならなきゃならない」と、マッチョな個人であることをめざし、また別の人は「生き残るためには結局何かの庇護に入らなければならない」と、宗教や民族といった共同体に服従しようとしたりします。しかしそのどちらも、結局「自分が自分の思うように生きる」という、主体性を放棄していることに他ならないわけですね。


結局、何にも依存しないで生きることができる個人なんてものは存在しないわけです。しかしだとしても、その依存先を複数持てるようにすることで、ある依存先が依存と引き換えに服従を強いてきても、「じゃあ別の依存先に依存するよ」と、依存先を乗り換えることができる。そのように選択肢を複数持てるようにすることこそが、依存しながらも主体性を持つために必要なのである。


そして、そのような観点からすると、「何者にも依存しないことこそが尊い」というマッチョ主義を心の中から退けることこそが、自分の主体性を確保するのに重要なことや、社会は複数の依存先を選べる選択肢を用意できるように設計されなければならないというようなことが言えるわけです。


このように天畠氏の著書は、障がい者との関係やコミュニケーションについての提言を行う著書でありながら、しかしそれにとどまらず、社会全体の、「生きずらさ」と呼ばれるような問題に対する処方箋となりえるものだと言えるわけです。

「弱さ」を恥だと思わず、それと向き合って、「強み」にすることの重要性

そして、最後に僕が思うのは、このような真摯な思考を徹底し、さらにそれを現実において実行できる、天畠氏のバイタリティのすごさです。


著書において天畠氏は、最初自分は、このような、「介助者なしにコミュニケーションができない」という自分の弱さを研究対象にすることに忌避感があったと記しています。なぜならそれは、自分の能力が評価されているわけではないように思えるからだと。


この感覚は、障がい者の弟を持ち、自分自身も発達障害を持つ僕もよく分かるんですね。別に障がいに忌避感を持つわけではない。けれど、障がいをいわば「ネタ」にして、ブログの記事であったり、あるいは論文を書くことには、どうにも嫌な感じがあるわけです。なんか自分の恥ずかしい部分をわざわざ晒して、「たまたま自分がそうだっただけ」のことにすがっている気がして。そうでなく、もっと普遍的なことについて書いて、それで、「障がい者の弟を持つ」とか「軽度の発達障害を持つ」といった属性とは関係ない、自分自身こそを評価してほしいと、そう思ってしまうわけです。


そして僕はそのように考えた故に、大学院で社会学を専攻していた頃も、障がい学についてある程度関心はあり、講義を受けたりはしたものの、それを自分の研究のテーマとすることからは逃げました。


ただ、天畠氏の著書を読んで思ったのは、「むしろそのような、自分が見ようとしない『弱さ』を直視することからこそ、心を打ち、さらに社会全体に波及する強度を持った論考が生まれるのではないか」ということです。そして、社会学とはまさに、そのような個別の問題にこそ、社会全体を解き明かす鍵があるとする学問だったということを、改めて痛感したわけです。


ちょっとこれからは、自分の個人的な経験に基づく文章も、書いてみようかな。

*1:不随意運動が激しいため、機器に正確に文字を打ち込むのが難しい