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役に立たないことだけを書く。

「配慮したら負け」という表現者のマッチョイズム

orangestar.hatenadiary.jp
上記の記事では「新海誠好きの元彼」という同人誌を企画したが、その後批判を受けて企画を延期した三宅香帆氏
note.com
への、批判とも愚痴ともつかないような文章が書かれているわけですが、 正直全く同意できませんでした

なぜなら、小島氏の上記の記事には「表現とは自分が覚悟さえすればどんなに人を傷つけてもいいものであり、そこで他者に配慮なんかしたら負け」という、特権性に由来したマッチョイズムがあるように思えてならないからです・

新海誠好きの元彼」同人誌騒動への考え

まず、僕が「新海誠好きの元彼」同人誌騒動についてどういう考えを持っているか述べると

「なるほど確かにその企画によって傷つく人がいることへの配慮が足りなかったかもしれない。でも、それを企画者はきちんと理解した上で、発行を延期したんでしょ。だったら、それでいいじゃん」

ということに尽きます。

まあ、強いて言うなら、企画自体はとても面白そうなんだから、もうすこし、どう配慮すれば、傷つかない形で企画を進められるか議論してみても良かったんじゃないかと思いますが、企画者が「そういう配慮をしても結局無駄に人を傷つけてしまう」と思ったなら、部外者である僕は何も言うことがありません。

「加害の上に成り立っている」からこそ、その加害を最小化する配慮が求められる

ところがこの至極真っ当なプロセスに小島アジコid:orangestar)氏は疑義を呈すわけです。小島氏はこう記しています。

別に同人誌出せばいいと思うし、モノを描く、作る、というのは何をしても常に加害性が付きまとう。殆どの表現物は加害の上に成り立っている。特にそれが批評性をまとうものならばなおさらだ。だから、モノを作るときは、必ず、「自分は加害者である」という自覚と「人殺しの顔」をみられる覚悟が必要で、それが嫌で(人殺しをすることが嫌なのではなく加害者だと思われることがイヤ)(それは、中止文の中にある『自虐~』云々の言葉からも読み取れる)中止、というのは、なんか、(結局自分の加害性に対して責任を示さないので)表現をするものとして、ダサいな、と思う。

殆どの表現物は加害の上に成り立っている。特にそれが批評性をまとうものならばなおさらだ。というのはまさにそうです。それは小島氏が書いていた『となりの801ちゃん』についても言えるでしょう。僕はあれを面白く読みましたが、BLを好きな女性がネットで「ああいうマンガでBL好きに対するステレオタイプがなされるのは嫌だ」と言っているのは何度も目にしました。

ですが、表現というものが加害性を含むからこそ、表現者には。それをできる限り最小化する倫理的義務があるわけです。

表現をする自分の頭の中で「こういう表現をすると不必要に誰かを傷つけてしまうから、もうちょっと別の表現はないだろうか」と探るのもそうですし、時には自分の表現によって傷つくかもしれない人や集団に、「こういう表現をしようと思ってるんですけど、どう思いますか?」と意見を聞くことも必要でしょう。さらに言えば、表現をしたあとも、その表現によって傷つくと異議申し立てをする人たちと対話をし、場合によっては注釈を入れたり、表現自体を修正・削除することもあるでしょう。

実際、今回話題となっている企画のように、ある種の属性を持つ人々について、その様子をおもしろおかしく紹介する企画というのは。世の中には数多あるわけです。僕が好きなVTuber界隈でも、それこそBL好きや性依存、あるいは女性が男性と絡んでいるのを見ると幻滅してしまう「ユニコーン」と呼ばれる人々を紹介する配信があったりするのですが、しかしそういう配信は、例えば「これはあくまで一部のケースであり、これには当てはまらない場合もある」とか注釈を入れたり、あるいは「こういう人たちのやることって一見おかしく見えるけど、でも実は普通の人がやっているこういうことに近いんじゃないか」というふうに、単なるフリークスとして描くのではなく、理解できる存在として描くという形で、配慮を行っているわけです。

「覚悟」とは人を傷つけることへの免罪符ではない

ところが、そういった表現者が社会の中で表現をするなら当たり前のようにやっていることに対し。小島氏は「覚悟が足りない気がする」というわけです。小島氏の主義においては

  • 「表現物は加害の上に成り立っている」という覚悟を持った上で、どんどん人を傷つける表現をする
  • その覚悟を持てないのなら。表現自体をしない

という二者択一に問題が収斂してしまうわけです。

しかしこれは問題です。もしこういう二者択一で、すべての人が「表現をしない」を選択するなら、それはとても寂しい社会ではあるけれど、まあ倫理的には真っ当です。
ところが、多くの人はそれでも「表現をしたい」と思う。そういうときに、上記の二者択一的考え方では、そのまま「『覚悟』さえあればいくら人を傷つけても許される」ということになってしまうわけです。

ですが実際はそうではないでしょう。表現者がいくら自分の中で「覚悟」をしようが、その表現によって傷つけられる人にとっては関係ありません。覚悟があろうがなかろうが、傷つけられるのは嫌だし、できれば避けてほしい。

そのために「配慮」があるんです。表現は誰かを傷つける。それを自覚した上で、ではその傷をより少なく。浅くすることはできないか、必死に考えて、話し合う。今の時代、表現者に求められる「配慮」とは、こういうことなんです。

「傷つけたり傷ついたりするのが、まっとう」というのは、結局自分が傷つけられない場所にいる特権によるものじゃないの?

ところがそういう今の時代の「配慮」に対し小島氏は、以下のように不満を述べるわけです。

それは女性界隈だけの話ではなく、今のインターネットを含む現実の社会でも同じだ。他人に不快にされない権利というものに(そんなものはないのに)個人の意思表明、表現というものをキャンセルさせられるという方向に世の中が流れて言ってると思う。
なんか嫌だな、と思う。もっと、こう、それぞれの責任において、人を傷つけたり傷ついたりするのが、まっとうな社会や世界だと思う。

ですが、そうやって小島氏の言うように、それぞれが他者に配慮なんてせず、「覚悟」さえあれば自由に人を傷つけて良い社会は、本当に「まっとうな社会」でしょうか?

ここで重要なのは、「傷つけたり傷ついたりする」ということは、しかし実際は公平なものではなく、不均衡なものであるということです。弱者やマイノリティ、「異常とされるもの」ものに対して、加害は多く発生します。逆に言えば、強者やマジョリティ、「普通とされるもの」に対しては、加害はそれほど発生しません。

そして現代においては、僕や小島氏を含めた男性オタクなんてものは、ほぼマジョリティであり「普通とされるもの」なわけです。一昔前だったらオタクというのは「異常」とスティグマを貼られていたかもしれませんが、少なくとも現代においてはそんなことはなく、マスメディアできらびやかに活躍する男性アイドルまでが「オタク」を自称する時代なわけです。

そして、ネット上でオタクが盛んに「他人を不快にしたり傷つける表現も自由なはずだ!」と叫び始めたのは。まさしくその、男性オタクがマジョリティになり始めた頃なわけです。それ以前、オタクが「異常」として差別されていた時代には、ステレオタイプにオタクを描写するような表現がたくさんありましたが。ではそういう時代にオタクは「そういう、人を不快にさせる表現も自由だ!」と叫んでいたか?

実際はむしろ逆です。例えば『漫画ブリッコ』という雑誌で、中森明夫氏が「おたくの研究」と称し、おたくのことをおもしろおかしく、しかし侮蔑的に紹介する文章を書いたとき
www.burikko.net
オタクはどう反応したか。「中森氏の表現も、表現の自由の範疇だ」と納得?いいえ、むしろ、現在のキャンセルカルチャーと同じように、「中森なんてキャンセルしろ!」と叫んだわけですよ。
www.burikko.net

ところが、そこから時を経て、オタクがマジョリティであり「普通」とされる時代になると、途端に「キャンセルカルチャーなんて良くない。傷つけたり傷ついたりするのが真っ当な社会だ」と言い出す。

だとしたら、それは、結局「自分が傷つけられない立場に立つようになったから」、そう言えるようになったとしか、思えないのです。

女性オタク界隈の風習は、傷つけられる「弱者」の立場から編み出された知恵である

一方で、そうやって男性オタクが普通のものとされる中で、女性オタク、とくにBLや夢女子と言われるような人々は、いまだ「異常」とされることが多く、社会からより傷つけられやすい立場にあるわけです。

そして、そういう立場にいる人々は「傷つけたり傷ついたりするのが、まっとう」なんて呑気なことを言ってられない(そんなことを言っていたらとにかく一方的に傷つけられてしまうのだから)から、さまざまな「配慮」をして、せめて自らが自らの表現で自傷することのないようにしてきたわけです。

「検索避け」もその一例でしょう。また、小島氏が揶揄する「お気持ち表明」もその中には含まれます。ある行為に不満を持ったとき、「そのような行為は不快だし、そういう行為をするあなたも嫌いだ」とはっきり言うと、行為をした対象をより傷つけてしまうから、「そのような行為は嫌だと。私は心のなかで思う(けどそれをあなたに責めたりはしない)」という形で、婉曲した形で表現する。これらは全て、「傷つけられやすい立場にいる私達が、せめて自分たちの表現で自傷してしまわないように」生み出された知恵なわけです。

もちろんだからといって、その知恵がそのまま一般社会に敷衍されるべきものだとは思いません。「検索避け」なんかは、明らかにその文化への新規参入者を減らすものですし、「お気持ち表明」も、「私はこう思ってる」から「相手が自分に期待すること」を読み取り、その期待通りに行動することが長けている定型発達者にはわかりやすいものかもしれませんが、それこそ僕のような発達障害者からすると「うんあなたは心のなかでそう思ってるのね。で、僕はどうすればいいの?」と困惑することが多く、「もっとはっきり言ってくれないとわかんないよ!」と思うことも多々あります。

ただそれでも、これらの知恵は、傷つけられやすい弱者が、それでも傷つけられず生きるために生まれた生活の知恵で、傷つけられることが少ない強者の側に立つ僕らが一方的に断罪するのは、おかしいと思うのです。

小島氏の言っていることは「イジメる覚悟があったらイジメていい」ということにほかならないのでは?

小島氏は三宅氏の同人企画に対し、イジメと同じ構造があったと指摘します。

芦原さんの事件の発端の、脚本家周辺の行動。それは“身内”の外へのリスペクトのなさ、なさというよりも『自分より下にいると思える人間はいくらでも馬鹿にしてもいい』という態度による。そしてそれは三宅香帆さんの同人誌の「新海誠好きの彼氏と付き合った体験談を持ち合って笑う」という行動にも通じるものだ。とても良くない。そしてこれはみんな自覚なくやってしまう。自分もそうだ。多分やってる。やっている側には、『悪いことをしている自覚はない』からだ。学校や会社で行われるイジメだってそうだ。イジメてる側にはイジメてる自覚はない。だから、アンケートを取ると「イジメなんてなかった」ってみんないう。これも、本当にクソだと思っていて、これに対しても本当に死ぬほどつらい気持ちにいつもなってる。これにも天罰が下ればいい。みんな死ねばいいと思う。

みんな自覚するべきだ。ちゃんと、人を殺す覚悟をするべきだ。

ですが、じゃあ「人を殺す覚悟」があったら、人を殺して良いのか?「イジメる覚悟」があったら、イジメを行っていいのか?

答えは否です。その加害者が心中でどういうふうに思おうが、人を殺すことは悪だし、イジメも同様に悪なんです。「これはイジメではなくいじりだと思った」と加害者が言っても、それがなんの言い訳にもならないように。「自分はイジメる覚悟があった」と加害者が述べたとしても、その行為はやってはいけないことなんです。

だから、表現者は「自分が心のなかでどう思っているか」ではなく、その表現が他人にどう捉えられるか、誰かを傷つけたりしないかこそを重視し、「配慮」しなくてはならない。もし「あなたの表現はある特定の属性へのイジメなんじゃないか?」と異議申し立てされたら、自分の中でそう思っていなかったとしても。その異議申し立てに真摯に向き合い、場合によっては表現を修正・取り下げすることがあるわけです。

ところが、そういうプロセスを取った三宅氏の企画に対し、小島氏は「ダサい」と言い、覚悟云々のことを言う。それってつまり、自分の中で「覚悟」さえ出来ていれば。相手がそれでどんなに傷つけられようが、無視すべきと思っているということに、他ならないのでは、ないですか。

「配慮したら負け」というねじれたマッチョイズムこそが、嫌な社会を作っている

これまで僕は繰り返し「覚悟があったら何をしても良いのか?」ということを述べてきました。しかしその一方で、表現にはどうしても「覚悟」が必要な部分があることも理解しています。

例えどんなに「誰かを傷つけることが少ない表現にしよう」と配慮をしても、どうしても誰かを傷つける部分は残ることがあります。多くの場合、それは「この部分を削ったら、表現する意味そのものがなくなる」という表現のコアの部分であるわけで、そういう場合には、「最大限頑張ったけど、でも自分がこの表現を出すことで、誰かは傷ついてしまうだろうな。その罪はしっかりと受けなくてはならない」というふうに。覚悟をする必要はあります。

しかしそれはあくまで、最大限他者を傷つけることを避ける配慮をしたことを前提にした上で、それでもどうしても他者を傷つけてしまう部分が残る場合にされるべきことなのです。他者を傷つけることへの配慮をほとんどしないまま「自分は覚悟をしたからね」という風に、怠惰を免罪するために、なされるべきことではないんです。

そして、世の多くの表現者は、わざわざ僕にこんなことを言われなくても、最初から上記のようなことを理解し、「自分は本当にできる範囲まで配慮ができているか」ということをギリギリまで突き詰めた上で、表現を行っています。それは、一見「配慮なんてしたら負け、覚悟が足りないね」とうそぶきながら、過激な表現をする人たちの表現と比べたら穏当で、薄味なものに思えるかもしれませんが、しかし今の時代に真に人々に訴えかけるのは。まさにそういう努力が垣間見える表現なのです。

そして、なぜ多くの人が、そんなギリギリの配慮をしながら、それでも表現をしたいと思っているかといえば、その表現によって、世界・社会が少しでも楽しく、いいものになると信じているからなわけです。より傷つきが少なく、みんなが楽しく暮らせる社会。不正義が不正義として否定され、正しいことが認められる社会。

ですが、そのようなことを目指すには。まず自分の心の中から「人を傷つけてしまう悪」を見出し、どうすればその悪をなくせるか、考えねばなりません。「人間は性悪な存在なんだから、悪が存在するのはしょうがない」と居直るのではなく、人間社会に存在する悪を、我がものとして受け止めながら、それを少しでもなくそうと試行錯誤する。それこそが、表現の存在意義なのです。

小島氏は

本当に嫌だ。それによってしか制裁がなされない社会と、そして時間が経ってほとぼりが冷めるとみんな忘れてしまう社会と(ジャニーズのことも、宝塚のことも、統一教会のことも、すでに風化し始めてる、なんの責任もまだとっていないのに)

本当に嫌だ。何もかも嫌だ。

という風に、「社会」に問題を他責化し、自分はひたすらそこから脅かされる無垢な存在であるように、記事中で描いています。

しかし実際は、まさしく小島氏こそが、自分が傷つけられないことが多い特権性を利用して、「配慮したら負け」というねじれたマッチョイズムを内包し、それによって「強者が弱者を傷つける社会」を擁護し、嫌な社会が再生産している存在なのです。

「本当に嫌だ」と嘆くなら。まずはその自分自身のなかにこそある嫌な部分を、改善しようともがくべきだと、思います。

続き

amamako.hateblo.jp
こちらの記事では、小島氏が参照した「女性オタクの棲む暗い池について」について批判しています。

こじらせVTuberオタクが読んだ『「推し」で心はみたされる?』

熊代亨(id:p-shirokuma)氏が書いた『「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド』という本を読みました。

これを読んだ直後、僕の心は2つに分かれてしまいました。一つは

  • 「そうなんだよなー。結局『推し活』を続けるには、社会性が重要なんだよな。みんながもっとこういう本を読んでくれれば、健康的で持続可能な『推し活』ができるのに」

という、「推しの健康を願う」VTuberオタクとしての自分と

  • 「いやでも、そうやって社会性を強いられる抑圧からの開放として、『推し活』は存在するんじゃないか?」

という、「こじらせ」VTuberオタクとしての自分です。

一体どういうことなのか。この本を僕がどう読んだか述べながら、説明していきます。

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「さまよえる良心」の落ち着け方がわからない現代

globe.asahi.com
OpenAIの創業者とかイーロン・マスクとか、アメリカのIT億万長者の間には「効果的利他主義」「加速主義」といった極端な思想がはびこっており、その思想に基づく行動が世界に大きな混乱をもたらしているという記事です。

実際そういう人たちがどこまでベタにそういう思想を信奉しているかはわかりませんが、たしかにこれら2つの単語は、日本でも若いインテリたちの間で信奉する人が多くなっているみたいで。

僕が観測している若いインテリ、それも「世界を良くしたい」とか考える人たちの間では、この2つに反出生主義を足した

らへんがトレンドの思想で、よく彼らの主張の論拠とされていると、感じます。

「世界を良くしたい」と考えるインテリの若者が、極端な思想に走ること自体は昔からあったが……

ただ、「世界を良くしたい」と考えるインテリの若者が、穏当な社会改良的発想に満足できず、「この社会をぶっ壊して新しいもっと良い社会を作ろうぜ」という極端な思想に走るというのは、別にそんなに異常なことでもないわけです。

それこそ1960年代~70年代なら、そういう若者はマルクス主義に走って学生運動なんかに身を投じていたし、80年代~90年代なら、そういう若者は新興宗教にのめり込んだりしたでしょう。かつて宮台真司氏は、そういう若者たちを『終わりなき日常』を生きろで「さまよえる良心」を持つ若者であると分析しました。

ただ今までの社会ならば、そういう「さまよえる良心」に基づいて極端な思想に走っても、社会の側が強制的に、若者たちを馴致していったわけですね。例えば学生運動なら、たとえ大学在学中にどれだけ暴れていても、大学を卒業したら大多数が普通に就職したり、家庭を持ったりしました。

また、新興宗教においても、多くの宗教では社会との間で軋轢を起こしながら、しかし段々と一般社会との間に折り合いをつけていきます。あの、数々の事件を起こした旧オウム、現アーレフにおいてもそうであえることが、『A2』という映画に描かれています。

「さまよえる良心」を持ったまま、社会に馴致されなくても生きていけるようになってしまった

ところが現代においては、それこそ上記の記事でIT技術者たちが、極端な思想を持ったまま成功者となり、更にその成功者同士でコミュニティを形成することで、よりカルト的になっているように、社会に思想を馴致されず極端な思想を持ったままでも、社会で生き、そして成功することが可能になっているわけです。

かつて、ある特定の価値観を共有するのが当たり前だった社会では、たとえ極端な思想を持っていたとしても、飲み会や私的な付き合いといったインフォーマルな場で「そんな考え方は子どもじみているから大人になりなさい」と矯正されました。

ところが現代においては、そのような価値観の押しつけはいけないこととされています。そうなると「きちんと仕事をしお金を稼ぐなら、どんな価値観を持っていてもそれは個人の自由であり、他者が干渉すべき事柄ではない」となり、隣の席で仕事をする人間がどんなに極端な思想を持っていたとしても、「給料分の仕事をしてくれるなら、別に構わない」となるわけです。

そしてこれは仕事関係だけでなく、家族関係や地域社会においても同じです。各々の集まりの中で、自分に与えられている役割さえ遂行すれば、その裏でどのような価値観を持っていても構わないとなるわけです。

「さまよえる良心」を社会に繋ぎ止めるメンターの不在

そしてさらに、価値観の分断が進んだ社会では、「さまよえる良心」に対し理解を示しながらも、それをうまくなだめるメンターのような存在もいなくなります。

かつてのように「さまよえる良心」が強制的に社会に溶け込まされていた時代には、「自分も昔は極端な思想を持ってたけど、今は落ち着いている」人間がいて、そういう人間が、社会に馴染めない若者と、大人社会の間をうまくとりもっていったわけです。「得体のしれないもの」として若者を拒絶する大人社会に対しては、「でもこいつら本当はやさしい奴らなんだよ。ただその優しさがちょっと明後日の方向に行っちゃってるだけで」と説明し、一方で若者には「世界を良くしたいっていうお前の気持ちはよーく分かる。でも世の中って、そんな単純じゃないんだよ」と諭す、そんなメンターが、うまく「さまよえる良心」を持つ若者を社会に軟着陸させていたわけですね。

ところが現代においては、「一般社会」と「極端な思想を持つ若者たち」が完全に分断され、双方を理解できるマージナルな存在がいなくなっているわけです。そうなると、一般社会の方では「なんだあの常識しらずの若者共は」と、極端な思想を持つ若者への排斥が進んでいきますし、その反作用として、極端な思想を持つ若者の間でも「世界を良くする方法などに全く興味を持たずただ生きているだけの愚民どもめ」と、一般社会への敵意が募る。双方を取りもつ存在がいないため、ただ敵対性だけが募っていくわけです。

(余談ですが、このような問題がわかりやすく現れているのが、今の日本の社会学なのかなと思ったりしています。それこそ僕が勉強してきた頃の社会学というのは、宮台真司氏とかの、「大風呂敷を広げた預言者」に釣られて「社会全体を良くしたい!」と思う若者たちを釣り上げながら、「きみたちのその気持ちはよく分かる、でも、実際の社会はそんなに単純なものではないんだよ」と教え、安全に馴致していく、まさに上記の文章でいうメンターの役割を担っていました。ところが現代の社会学においては、端から「大風呂敷を広げた預言者」を敵視し、そういう預言に惹かれる、「さまよえる良心」を持った若者を排除しようとする。そしてその結果として、「さまよえる良心」を持った若者を、効果的な利他主義や加速主義、反出生主義といったより悪い方においやっているのではないか。
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という記事を書いた背景には、そういう問題意識があったのです。)

「さまよえる良心」をなんとかしようと思うからこそ、まずはそれを理解しなければならない

確かに彼らの信じる思想は、これまでの人文学が積み上げてきた知見を無視した危うい思想といえます。「功利主義」を金科玉条のように振り回す姿勢は、このブログでも何回か批判してきました。
amamako.hateblo.jp
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しかし一方で「今のこの世の中は倫理的におかしい。もっと真っ当な世の中があるのではないか」という問い自体は、十分に理解できるものだと思うわけですね。そして、そのような問いに「答え」を出そうとすれば、「効果的な利他主義」や「加速主義」や「反出生主義」のような極端な思想に行き着くのも、自然なことなのです。

重要なのは、彼らの正しさへの欲求を理解しながら、しかしその正しさをただ突き詰めれば多くの人が傷つくから、もうちょっといい方法がないか落ち着いて考えようと、共感を持って説得することだと思うのです。

しかし、現代の社会においては、そのように敵対するものに理解を示す事自体が悪とされるわけで、そのような対話の回路を作るのは、難しいことなのかなぁと思ったりもするわけです。

もしそれができるとしたら、それは社会の日陰の、サブカルチャーと言われる領域なのかも、しれません。

「批評」としての『ジブリと宮崎駿の2399日』

『プロフェッショナル 仕事の流儀 ジブリ宮崎駿の2399日』を見ました。
www.nhk-ondemand.jp
インターネット上では「宮崎駿高畑勲への激重感情が面白い」という肯定的評価もあれば、「ドキュメンタリーの作り手が解釈を押し付けている感じがして好きじゃない」という否定的な評価もさまざまありますが、僕はこの「作品」を、それが事実を切り取ったものであるかをおいておいて、「作品」として、面白く見ました。

そもそも「ドキュメンタリーは事実をありのままに描くものである」という思い込み自体がナンセンスなんであって、カメラを向けるという作為がある限り、どんなドキュメンタリーも、そのドキュメンタリーを作る監督の恣意性からは逃れ得ないわけです。「監督こそがどのように物語を構成するか最終的に決める」という点では、フィクションもノンフィクションも特に変わらない。ただ、ノンフィクションの場合は、そこで他者による介入や偶然によって、監督が影響を受けやすいという、程度の問題にすぎないわけです。

※そこらへんの問題についてより詳しく知りたい人は、森達也氏とかの著書を読むことをおすすめします。

だから、この『プロフェッショナル 仕事の流儀 ジブリ宮崎駿の2399日』というドキュメンタリーも、絶対に揺らがない事実ではなく、あくまでこの番組の監督が、宮崎駿という題材を追いかけていく中で、彼の行動に見出した物語として見ていくべきだと考えるわけです。そしてその点から言うと、「高畑勲の呪縛が重くのしかかる中で、その呪縛を振りほどくため『君たちはどう生きるか』が作られた」という物語は、物語としてなかなかおもしろいし、その物語をもっともらしく見せる造りも優れているし、その一方で、その監督の作為性からはみ出すような映像の力も随所で感じる、素晴らしいドキュメンタリー作品だったなと僕は評価しました。

ただ一方で、下記の記事にあるように、このドキュメンタリーを持って「『君たちはどう生きるか』にはこういう意味が込められていた」という考察の答え合わせがなされてしまうという危惧は、あるわけです。
note.com

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インターネット・サブカルという夢の終わり

米津玄師が「ハチ」と言う名義で出した『砂の惑星』という曲があります。

www.youtube.com
この曲の歌詞には、かつてニコニコ動画というサイトで、VOCALOIDを使って生み出された、数々の名曲のタイトルや歌詞が引用されています。
w.atwiki.jp
僕を含めたインターネット老人会の人らは、この歌詞を読んで「そうだよな、あの米津玄師も、俺らがいたあそこらへんから巣立っていった人間なんだよな」とにやけたりするわけです。

もちろん「同じ界隈にいた」というだけで、それ以外に何の共通点もないわけですが、それでも勝手に仲間意識をもったりするのです。

似たような気持ちは、声優とかVTuberとかにも抱きます。特に今活躍しているVTuberの雑談とかを聞くと、自分たちと同じようなサイトやFlashゲーム・動画を楽しんできたし、自分と同じ様なインターネット黒歴史を抱えていたことがわかって、嬉しくなります。

なぜそのような仲間意識を持つか。そこには、かつてのインターネット、特にその中でも2ちゃんねる・面白Flashテキストサイトニコニコ動画といった、サブカルチャーが表現される場に共通してあった、「空気」が関係しているわけです。

かつて、全てが渾然一体となった「インターネット・サブカル」という夢があった

かつてインターネット・サブカルにあった「空気」は、以下の様な特徴を持つと、僕は考えます。

  • 無階級性―作り手・受け手の区別が重視されない
  • 無価値性―何か報酬を得たり賞賛を得ることが目的ではない。むしろそういう有用な価値を投げ捨てることこそがイキである
  • 無意味性―表現によって何かメッセージを伝えることが目的ではない。むしろメッセージ性なんて何もない無意味な表現こそがよい

このような特徴を持つサブカルチャー表現を、みんなで共有して盛り上がり、「祭り」を行うことを楽しむ、それこそがインターネット・サブカルの楽しみ方だったのです。

ニコニコ動画で花開いたVOCALOID楽曲という文化もまた、このようなインターネット・サブカルの空気に強く影響を受けました。初音ミクにネギを持たせた楽曲が流行れば、初音ミクとネギに何の関係もないのに「初音ミクと言えばネギだよね」みたいな設定が生まれ、そして更にそこで鏡音リン・レンというキャラクターが追加されると、今度はロードローラーを無理矢理鏡音リン・レンと関連付ける楽曲が現れ、そこから「鏡音リン・レンといえばロードローラーだよね」という設定が付与されるという、ナンセンスの極みのような流れが日々生み出されていたのです。

ただここで重要なのが、そのように全く無価値・無意味な祭りだったからこそ、その祭りは、万人が平等に、自分の能力とか地位とかそんなものと関係なく、参加できるものになったという点です。もしそこに「そのサブカルチャー表現を使って何か価値・意味あることを伝えなければならない」という制約が加われば、当然そこでは、より効果的に価値・意味を伝えることが出来る人とそうでない人の間に格差・差別が生まれます。そうではなく、「自分たちはなんか盛り上がってるけど、でもこの盛り上がりになんの意味も無いよねー」という留保があるからこそ、祭りに参加さえすれば、表現能力が秀でていようが劣っていようが、平等に同じ場で楽しむことが出来るわけですね。

「インターネット・サブカル」という夢はなぜ終わったか

しかし、そのような無階級・無価値・無意味によって形作られた 「インターネット・サブカル」は、終わりを迎えます。

最初に、インターネット・サブカルで頭角を現した、作曲者や実況者・配信者といったクリエイターが、メジャーで活躍するようになりました。

ですが、一旦インターネット・サブカルから抜け出せば、当然そこでは否が応でも一般の社会規範に適合することが求められます。インターネット・サブカルの中で認められていた悪ノリの多くは、一般では通用しないものなわけで、そこでは数多くの炎上や怒られが発生したわけです。
news.yahoo.co.jp
そのように、インターネット・サブカルと一般社会の摩擦が生じる中で、一部の人は「一般社会なんてクソだ!」となり、それこそ「恒心教」や「淫夢界隈」というような形で、むしろ反社会的な表現に流れていきます。
digital.asahi.com
note.com
ただ、そのように社会への適応を拒否する人はごく一部で、多くの人は「そうか、今はそういうノリはもう許されないんだな」と思い、インターネットサブカルのノリをまさしく「黒歴史」として、一般社会の倫理規範に適応していくわけです。

一般社会に適応する術をあらかじめ学んでから、公の場で活動する今のクリエイター

そして更に、そういった僕たち世代の失敗を目の当たりにした今のクリエイターは、公の場で活動する前に、専門学校などで、きちんと一般社会に適応し、炎上せず、社会に価値ある表現を行う技術を学びます。
vta.anycolor.co.jp
www.itmedia.co.jp
今の時代、一旦ネットで失敗して炎上でもしたら、それこそ永遠に消えないデジタルタトゥーが彫られ、再起不能となってしまいます。そんなリスクを冒すぐらいなら、事前に専門学校とかできちんと技術・ノウハウを身につけたいと考えるのはごく自然な流れと言えるでしょう。

このように、社会全体で失敗のリスクが高まる中で、「公の場に出る前にきちんと基礎の技術・ノウハウを身につけない」と若者が思うようになっているのは、配信者に限ったことではありません。

例えばアイドルの世界においても、そのような流れは起きています。
qjweb.jp
上記の記事を書いた竹中氏は、日本のアイドル業界においては「未熟さを愛でる」というような価値観が長くあったため、パフォーマンス能力が身についていないアイドルを公の場に放り出すようなことが多々あったが、そういうやり方は徐々に若い人からそっぽを向かれてるようになってきたと書いています。

そしてその代わりに「きちんと基礎の技術・ノウハウをたたき込み、パフォーマンスを高めた上でデビューさせる」韓国のアイドル業界の方が、アイドル志望・アイドルファン双方に魅力的となっていると述べているわけです。

このように「公の場で表現するのなら、表現する前にきちんと基礎の技術・ノウハウを高めるべきだ(そうでなければ、公の場で表現してはいけない)」という価値観は、今の若者にとって支配的となっているわけです。

「持てるもの」と「持たざるもの」が完全に分離された社会

そしてその結果として、今の若者には、かつてインターネット・サブカルに浸っていた人間だったり、あるいはアイドルを「同じ学校の同級生」のような親近感で推していた、昔のアイドルオタクが持っていたような「表現者への仲間意識」は、ないのです。アイドルだろうが配信者だろうが、公の場で表現するものは、自分たちとは全く異なる存在であり、仲間とは思えないのです。

それは、ある意味では「身の程をわきまえ、表現者と適切な距離感を持った態度」として賞賛されることなのかもしれないです。ただ、そこで「自分たちと同じ仲間」ではなく「自分とはかけ離れたスター」という風に表現者を思うからこそ、表現者の持つ痛みや苦悩への共感が薄れてしまうという、負の効果も、あるのではないでしょうか。

表現する能力・スキルを持った「持てるもの」と、そうでない「持たざるもの」が完全に分離され、そこに仲間意識が何もなくなった社会は、一体どうなっていくのか。

ただ一つ言えることは、かつてインターネット・サブカルが夢見た、「みんなで一緒に祭りで盛り上がってりゃ楽しいじゃん」という夢は、もはやないということです。

「職人的」な社会学は本当に社会を良くするのか?

tanemaki.iwanami.co.jp
はてブで珍しく社会学に対する肯定的な反応が数多く寄せられていますね。最近のインターネットでは殆ど社会学なんてパブリックエネミーみたいな扱いなのに。

ただ、むしろこの文章が評価されているのは、そういうインターネット上でパブリックエネミーと化した社会学のイメージを肯定し、「俺たちはそれとは違う実直な社会学をやるぜ」という主張をしているからとも言えます。

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マンネリだー

今ブログのトップ画面見たら「この広告は、90日以上更新していないブログに表示しています。」という広告が出てしまっているし。

いや、別に書きたいことが枯渇したわけではないのだ。日々の様々な話題を見て「自分はこう思うのになー」と思うことは多々あるし、「世の中では注目されてないけどこれ面白いよな」と思うこともある。

だが、それについて書こうとし、ブログの編集画面を開いたときにこう思うのだ。「いやでも、こんなこと書かなくても既にわかり切ったことだしなぁ」と。

人の思想や主義主張、関心事項というのはそんなに短期間に変化はしない。僕だってそれは同じだから、世間の様々な話題に対する意見というのも、大体は似たり寄ったりになる。「自分はこういう原理原則を支持しているから、その原理原則を当てはめると、この話題にはこういう意見を持つ」というように。

つまり、話題が変わっても、自分がブログに書くことは殆ど同じなのである。そして、何度も違う話題に対して同じような主張をしていると、まあぶっちゃけ、飽きてくるのだ。

もしこれで僕が何か国会議員とか著名な知識人なら、世間の様々な意見に対し、「私の立場からはこう考える」と意見を表明することには、意味があるだろう。しかし別に僕にはそのような影響力はない。そうなってくると、いよいよ「なんで自分は同じようなことをひたすら繰り返しブログに書いているんだろう」と、むなしくなってくるのだ。

「#ペドフィリア差別に反対します」について思うこと

なんか一部のSNS上で最近「#ペドフィリア差別に反対します」というハッシュタグが肯定・否定両方の意味で話題になっているそうで。
note.com

ペドフィリア、チャイルド・マレスターと性的指向
sykality.wordpress.com
これについて僕が思ったことをまとめると以下の通りになります。

  • ハッシュタグのきっかけとなった発言が「ペドフィリア差別」であるとは、僕は思えない
  • 欲望自体はもちろんだれも否定できないが、それを公に表現することは当然批判の対象となりうる
  • 「○○を好きという感情は誰にも否定できない」みたいな安易な共感は、思想としての反差別とは関係ない
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