あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

立命館大学におけるセクハラ写真の撤去を支持する

はてなダイアリー
というアジテーションに
はてなブックマーク - 立命館大学クィアスタディーズ研究会主催「ナルシストランス宣言」事前企画写真展・大学当局により無断撤去!! - 回虫

id:amamako 評価は保留 どんな写真が展示されていたかによるなー。ゲイとかの一部の人には、それがゲイ以外には嫌がらせにしかならない写真を、公然とゾーニングもせず陳列する場合があるから 2009/01/23

という疑義を寄せていたら、案の定

id:gnarly ***Alert***, Hazard,Disaster,Emergency, censor, Edu., Act., OUT or OPEN, Queer, Rights,Dignity,Respect ↑にHeterocentrism=異性愛中心(異性愛本位)主義の香りが高いコメントが(ぐったり) 2009/01/23
id:K416 腹が立つ 後輩が写真撮影の側で関わってたのに。/何がひどいって、(撤去されたこともひどいと個人的には思うけど)「無断」ってのが最悪。/↑確かに、異性愛者の居場所を区分する必要性が説かれることは少ないのにですね。 2009/01/23

という批判をされた。
さて、ブックマークコメントにも書いてある通り、コメントを書いた時点では、僕はまだこの写真展でどんな写真が展示されていたかを知らなかった。
しかし調べていくと、撤去前にどのような写真が展示されているかを掲載したブログを見つけた。場所は↓だが、クリックする前に一つ警告しておく。下記のリンクには性的に過激な内容が含まれています。人によっては見ただけで気分を害する恐れがあるので、そういうものがダメな人は見ないことをおすすめします。

内容、そしてそれがどんな場に掲示されていたかについては、二番目のリンクにあるid:souryukutsuの説明が一番分かりやすかったので引用しておく。

大学の文学部と産業社会学部で写真をペタペタと張り続ける作業をしてたのですが、この写真がなかなか過激でイイ!エロ、貴族、ビジュアル系、エロ、ギャグ、エロ、エロ…。ヨシノさんたちが過激な衣装を身にまとい、怪しげなビジュアル系?耽美系?官能?写真集のような感じになってます。大学生が普段飲み食いや談笑を行うラウンジにそんな写真が貼り付けられるのはそれ自体がアートでしょう。

まず一言。ふざけるのもいい加減にしろ
先ほど僕はブクマコメントで「評価は保留」と書いた。だがここではっきりと、この事件に対する評価を述べさせて頂く。
大学及び学生自治会が写真を撤去したのは極めて正当な行為。この写真展を企画した人間は文句を言う筋合いはない。
大学・自治会側に非があるとすれば、それは「写真展を許可したこと」と、「撤去の理由を述べなかったこと」の二点だろう。だがそれにしたって、そもそもどのような写真を展示するかきちんと説明したのかとも思うし、理由についても、常識的に分かることだし、更に言えば理由を説明していたらまたダダをこねられて撤去が先延ばしになり、その分より多くの学生を理由もなく不快にすると考えれば、しょうがないことだったと思う。

これはゲイ差別ではない、むしろ個々人のセクシャリティを尊重するからこそ

さて、このように書くと大体どのような反応が返ってくるかは予想できる。要するにブクマコメントで返されたように「異性愛中心主義だ!」、「ホモフォビアで同性愛者を差別している!」、「ゲイというセクシャリティを敵視している!」と。だが、別に僕は個々人が異性愛者であろうが同性愛者であろうが、それを「良い」とか「良くない」とか、そういうことは思っていない。この写真の被写体の男性(?)も、自分が写真に写っているような行為を好きなら、一人か、そういうのが好きな仲間内で勝手にやってれば良いし、別に僕もそれを止めたりはしない。問題は、このような写真を、不特定多数が来る場所に、ゾーニングも無しに置くことにより、「そのような写真をみたくない」という大学生のセクシャリティを抑圧していることなのだ。
単純なことである。職場に扇情的な女性の写真*1を置くといったような行為、これは立派なセクシャル・ハラスメントという人権抑圧として捉えられる。では、何故それが同性愛者男性の裸の写真になった途端許容され、むしろそのような行為に反対することが「サベツだ!」と捉えられるのか。「同性愛者はそのような同性愛や、そもそも裸体の写真自体を嫌うセクシャリティを持つ人を抑圧できる特権的な地位にあるのだ」とでも言うのだろうか?まるで異性愛者が同性愛者を抑圧するのが当然と考える権力構造を、そのまま反転させたかのように。
異性愛的なイコンは社会的規範(異性愛中心主義)によって保護されているから、殊更規制しなければならないが、同性愛的なイコンはむしろ逆に社会からの攻撃に晒されているのだから、規制はしてはならない。むしろ保護しなければならない」という意見もあるかもしれない。だが、それは二つの点で間違っていると言わざるを得ない。
一つは、全体として確かに異性愛中心主義という社会規範は存在しているかもしれないが、しかしいくらそのような社会規範があったとしても、それらは「大学ラウンジにある同性愛者の性的写真」を視界から逸らしてはくれないのだ。セクハラが何故問題となるかといえば、それは自分のセクシャリティに反すること・ものを強制されるという、人権抑圧なのであって、そのセクシャリティが社会規範に則っているか否かは関係ないのだ。
そして第二に、そもそもこの展示会自体、「アート」、「学問」という、別の社会規範を利用したものである。つまり、これらの写真展示は「アート」であり、「学問」の一環なのだから、それを理解しない人間は、「アート」や「学問」を理解しない人間なのだと。まさしくブルデューが述べたような「文化資本」による差別・抑圧ではないか。学者側が認定する「アート」、「学問」はすばらしいものなのだから、学部生のような大衆は、例えそれが自分にとって不快なものでも拒否してはならない。ありがたく享受せよ。このような図式において、一体どちらが強者であり、どちらが弱者なのか?
何度も言うが、別に僕はこのような写真に描かれているような行為、そしてそれを写真に撮って写真展を行うこと自体に反対しているわけではない(賛成もしないが)。自分たちのプライベートな範囲で、好き勝手にやればいい。だが、それを他人に押しつけるなと言っているのだ。同性愛者であっても(そしてもちろん異性愛者であっても)、自分のセクシャリティを他人に押しつけてはならない。まったく、他人や社会から自分の意に沿わない性的抑圧を受けることがどんなに苦しいことか、同性愛者なら良く分かっている筈なのに、なんでこんなことをしてしまうんだろうなぁ。

はてなユーザー向けの話

先頃、タケルンバという人が、企業のグループディスカッションで性的な話題をすることについて何の批判もせず、むしろ批判してきた人に対して「こんなのをセクハラと呼ぶようじゃ、社会では生きていけないよ」と述べて、それに対してはてなサヨクなどが強烈な批判をしていたのを覚えている。
しかし、同じようなセクハラを同性愛者が行うと、今度は一転「こんなの当然なこと」となるのは何でなんだろう?
タケルンバのような異性愛者のセクハラは「きたないセクハラ」で、同性愛者のセクハラは「きれいなセクハラ」とでも言うのだろうか?
ぜひ、意見を聞かせて欲しいものだ。

*1:1/25の0:08に追記。